尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年9月8日
法会が始まる前、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の父を超度し、更に彼が皈依した過程を一人の皈依弟子が披露し、更に過去の過ちのすべてを懺悔した。
彼は、2011年1月16日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。しかし、彼が初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会ったのは、およそ2003年のことだった。その時、恋人がパラチフスに罹ったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行き加持を求めた。彼が謁見する順番を待っている時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大声で一人の信徒を叱責しているのが聞こえた。「仏菩薩をあなたには拝ませない。」愚かにも彼は近くを覗き見た後、仏像も像画も何もないではないかと心で思った。それはつまり目の前の大修行者を指すのだろうか?
彼の番になった時、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恋人の加持を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「人は隔離病室なのに、どうやって加持をしろというのか?」と答えた。愚かな彼はその時に、「できます。彼女は陰圧隔離なので、ちょうど一人部屋のようで…」と答え、山のように説明した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは入定した後、慈悲深く「安心しなさい。彼女は死んだりしない。」と答えた。愚かな彼はそれでも傲慢にこう考えた「現代の科学技術および医学の進歩に拠ってパラチフスが治せないものではないことを知っている。もちろん、死亡率が高くないことも。次は?だから?」。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲を持って開示しなかった。なぜなら、彼は恭敬心がない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは恋人が上師に渡すための供養も受け取らなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたは弟子ではないから受け取らない。」と言った。愚かな彼は世間の無常をまったく信じることができなかった。後日、DISCOVERYチェンネルで、国外で足に釘を刺されて傷つき、最後には心臓弁膜が炎症を起こして腐り、心臓の大手術をしなければならなくなり、弁膜を取り替えてやっと治癒した事を知った。例え小さな怪我でも破傷風に感染して死亡することはある、ましては法定伝染病を軽く見ることは出来ないのである。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬心がなかったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは加持をした。だから彼の恋人は退院したその日に昇級試験に参加することが出来た。試験二週間前ほとんど勉強できなったのに合格したのは、自分が正しいからだと思っていたが、皈依した後、これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰だとわかった。さもなければ試験前の二週間前にほとんど勉強しないでおいて合格するはずがない。
その後、一年,彼は幸運にも身内の身分で多くの師兄と尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと一同にレストランで食事した。貪るように食べる彼を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが見て、突然に彼を呼び、尋ねた「満腹になりましたか?」。愚かな彼は当時、嬉しそうに「お腹がいっぱいになりました。」と答えた。何年も経った後、彼は中国大陸の祖母が自分で自分を餓死させたと父が言っていたのを思い出した。当時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を目覚めさせていたが、祖先はまだ超度していない。まだ苦しんでいる。それなのに彼は享受している。
2008年,彼の母と父はいつも喧嘩をしていた。父は既に80歳を過ぎていて、母が外で浮気をしていると疑い、母の衣服を持って廟へ行き浮気を断つ法を行った。彼は、その後尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを思い出し、母を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは母を加持し、また母にどうして未だに退職しないのか?と尋ねた。母は「子供がまだ勉強しているので」と答えた。かれは心で、「しまった!きっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られる。」と思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは顔を彼に向けて「なぜ仕事を探さないのか?仕事も見つかっていないのに自分に会いに来ると思わなかった。」と言った。敬う心がない彼は「私は今、公務員試験の準備をしているんだ。一回受けただけですぐに受かるはずがないではないか?その年に家族に問題があっても尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会ってはならないというのか。」と思った。
皈依してからずっと経ってから、その実、彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に対して話す一言はすべて加持であることがわかった。だから、二年目、彼は公務員試験に合格し、更に試験準備の一年間、家に生死に関わる大事は起こらなかった。彼の父は仕事を始めて一年目に往生した。かれは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩した。もしもこれが一年早く起こっていたら、彼はお金がなくて対処できなかっただけでなく、きっと取り乱していたことだろう。
2008年彼は仕事をしてから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰で仕事を手に入れたと心で思っていた。だから彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝していた。同時に、彼は2009年に阿弥陀仏無遮大超度法会があることを知ったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げたい他に、父は体が悪く年も取っていて恭敬心のない父に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと縁を結ばせなければならないと考えた。それで、寶吉祥宝石店へ行き、父に代わってその年の阿弥陀仏無遮大超度法会に参加を求めた。当然、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによって叱られた。「交代できると思っているのか?」彼は頭を棒で叩かれたように感じた。その後彼は考えた。母を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会うのは簡単だったのに、父に代わるのは難しい。
彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが話したことがあるのは真の加持であることを賞賛した。彼は三日間考えた後、父に対して殊勝な阿弥陀仏無遮大超度法会のことを話した。けれども自ら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに阿弥陀仏無遮大超度法会に参加を求めなければならない。父は「いいよ!すぐに行こう。」と答えるではないか!この時、彼はしばらくぼんやりとしてしまった。こんなにも簡単なのか?彼は父が非常に頑固であると記憶していた。その後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時、彼は父が阿弥陀仏無遮大超度法会に参加しがっていると報告した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「よろしい!」とだけ開示した。この時も、彼はぼんやりとしてしまった。これで参加できるのか?その後、彼はやっと分かった。父がすぐに会うことを快諾し、更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの同意を得たのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と慈悲のお陰であることを感謝して感恩した。
2009年、彼の父は阿弥陀仏無遮大超度法会に参加した後、11月11日午夜12時ごろ、彼は仕事から帰り、父が作ったインスタントラーメンをソファーで食べた後、居眠りをした。およそ一時間後、目が覚めた。父はちょうどトイレにいて、彼に心臓が痛いと言った。彼は元々、父は母と喧嘩したことで心が痛むと言っているのかと思っていた。その後、父は椅子に座り頭からは冷や汗をかき、顔は蒼白になっていて、だいぶ悪いことが分かった。彼は父に医者に行こうと言った。父は救急車を呼ぶのを拒んだので、彼等はタクシーを呼び、階下に降りた時、父は痛みで歩けなくなった。父は今までの中でこんなに痛いのは始めてだと言った。
彼は救急車を呼んで父を病院へ連れて行った。各種の検査に拠って、急性主動脈剥離であり、長さ約30センチで、剥離は約2.3センチ。即ち、下半身の動脈は、心臟から腰部まですべて剥離していることである。医師はこのままでは3日以内の死亡率が9割5分であり、一週間以内に手術をしない時の死亡率は約8割で、手術をしないと一週後の死亡率は約7割になるので、できるだけ3日位内に、手術をするかしないかを決めたほうがよいと言った。当時、彼の心は非常に乱れたが、冷静を装って医師に尋ねた。「手術後に多重器官衰竭で死亡する確率はどのくらいですか?」医師は「手術には必ずリスクが有る。」と言った。そして、彼は急いで家族と母に知らせた。家族はすぐに一顆の甘露丸を持ってきて父に飲ませ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めることを望んだ。
結果、因縁は足らず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、ネパールにいた。宝石店は修理中であり、彼は頂礼の機会さえなかった。傲慢な彼の心は、医師を信じ、手術で助けられるかどうかを試してみようと考えた。彼はチャンスがあまりないことを知っていたが、それでも最後は父に手術を受けることを勧めた。手術は、13日午前9時から始まり、一般的に約8時間で終わる予定だった。低温手術が長くなると、後遺症が残るので長く時間をかけることができない。ところが、結果夜8時になっても手術は終わらなかった。医師は出てきて手術は成功したが、血が止まらないので、或る一種の生物の接着剤で心臓と人工主動脈を接合しなければならない。その費用は、自費で10CC毎に、約2万元余りかかると言う。また一時間すると、医師は再び出てきて、第一種生物接着剤では接着できない。自費で第二種生物接着剤を買わなければならない。その費用は更に高く、5CC毎に約5万元余りかかると言う。そして更にはもしも、それでも血が止まらないならば、一時的に手術を中止し、縫合はしない。そして帆布で覆い、ICUへ送り、二日目に状況を見て処理すると言った。
この時、彼は突如思い出した。20年前、彼が20歳ごろ、父は去勢鶏を飼おうと思い、彼に鶏を去勢するのを手伝うように言った。当時の彼は因果を信じず、一人よがりで天も地も恐れなかった。そして解剖図を元に行おうとした。結果、探したが陰部を探すことができなかったので、諦めて父に言った。仕方ないので鶏の傷を縫って続けて飼えばいい。しかし、父はそんなことせずに直接戻しておけばいいと言った。結果、3日経って鶏はまだ生きていたので、父は鶏を殺して煮て食べた。このことを思い出し、彼はとても後悔した。これは自分が傷つけたのだ。彼は鶏に三日間の苦しみを与え、父に殺鶏の苦しみを与えた。それで、彼は泣きながら家族に言った。「今回の事が終わったら、私は必ず尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔する。」と言うと不思議なことに、10分も経たずに、父の血が止まったと医師が言った。縫合後に手術室から出た。この時、父には希望が持てるようになった。
しかし、悪業の果報はそんなに簡単に返せるものではない。二日目、父を見舞った時、医師は手術後の反応を診るので一時的に麻酔薬の使用を停止する必要があると言った。そのため、彼は父がすべての管を挿し、手は縛られ、必死にもがいているのを見た時、どうしようもなかった。父は嘗て大超度法会に参加したことがあったので、彼は父の耳元で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを思い出すように言った。後日、彼は思った。父の胸を切りまた縫うのは痛い。一般に傷口のある人は、痛いのが怖いので動かない。ところが、呼吸器は常に強制的に空気を入れる。つまり毎回強制的に空気を入れるのだから、父は激痛を感じ、呼吸を停止したくなる。痛くないのを望んでもそれは叶えられない。これは父が手術前は思いつかなかったことである。もしも、先に思いついていたのなら、彼は父に手術をさせなかったろう。父は呼吸器を少しでも止めて痛みを止めたくて必死にもがいていた。しかし、話をする事ができなかった。
三日目の昼、医師は突然に他に何ができるか見たいと言った。また父にCT検査をすることを勧めた。体の呼吸器やその他の管を一時的に外すだけでなく、麻薬も停止しなければならない。彼は医師にそれは痛いのではないか?と聞いた。彼は医師にもうしたくないと伝えたかった。父はぼんやりとした目をして、手ももうもがくことはなかったのを見て、彼の心は非常に辛く、どうすれば良いかわからなかった。やはりこれは借金取りなのだ。父に手術をさせたので父は今、とても苦しんでいる。
午後6時になって、医師は、強心剤は既に極限まで使用したので、これ以上は無理であると言い、救急措置をやめて管を外すことを提案した。彼の弟は引き続き延命させることを望んだが、彼は既に効果はなく、ただ父を苦しめるだけだと思った。家族で話し合った後、延命措置は止め、管を外すことに決めた。管を外すと同時に、彼の母は二人の弟を連れて霊安堂の設置を準備した。医師が父の管を外し、すべての管と呼吸器を外すのを確認した。父の口は上に上がり、微笑みを浮かべていた。続いて家族と共に父を見送り、持咒を始めた。また彼の母は葬儀社を探した。彼の家族は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、人が死んでから8時間以内は動かしてはいけないと開示したと伝えた。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感恩した。不思議なことに、葬儀社は真夜中であったがやってきた。父の服を着替えさせる時、彼は父を抱き起こし、服を脱がせると背中が一面真っ白であった。彼は、父はここ最近太陽に当たっていないので白いのだと思い、これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の結果、遺体斑がないことをまったく知らずにいた。彼は父を起こした時、父の上半身が柔らかくて滑りそうになった。この時、寒い霊安室にいて既に8時間が経っていたが、体は硬直していなかった。彼は、これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰だと分かった。
その後、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を希望し、施身法法会に参加して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに超度父の超度を祈ってもらうことをお願いした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に菜食にしているかどうかを慈悲深く尋ねた。彼は菜食していると答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「よろしい。それでは申込みなさい」と開示した。彼の父を火葬した後、骨灰は美しいピンク、淡黄色と薄緑色だった。葬儀社の人は薬物が残留したからだと言った。父の頭蓋骨には、幾つもの直径1から3ミリの平らで貫通した丸穴があった。彼はそれは血管が頭蓋骨を通り抜けたからだと思っていたが、親戚に電話をして骨灰が非常にきれいであったこと頭蓋骨に小さな穴があり、大きな穴はなかったことを伝えた。彼女はもしも大きな穴を見つけたのなら、それは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの超度ではないので、あなたはCSIと監察医に連絡しなければならないと言った。彼は骨灰の色があるのは薬物の残留であると葬儀社が言ったが、あなたが化学を学んだことがあるならばわかると思うが、どんな薬物が600度の高温で3時間焼いても残ると言うのか?と彼女は言った。彼は重金属ではないかと言ったが、彼女はもしも重金属であるならば、あなたのお父さんは動脈剥離で死んだりせず、もっと早くに重金属中毒で死んでいただろうと言った。
この時、これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大功德大福報で、父のために超度した瑞相であることを彼は知った。施身法法会に参加した約半年後、彼は菜食をしていたが、20年間のタバコ生活をやめていなかった。彼はずるく考え、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは禁煙するように言っていないと思っていた。それから半年後、或る施身法法会で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、次回、法会には肉食する者、タバコを吸う者は来ないようにと開示した。その時、彼は半箱のタバコが入っていたが、禁煙を決意した。三週間後、彼は上司から酷く叱られ、気分が悪くなり、同僚からタバコを一本もらって階下で四口吸った。その後、彼は法会の識別証を取る時、別の人の日曜日の共修法会の識別証を間違って持ち帰ってしまい、家に帰ってから気づいた。彼は大慌てで戻り交換した。その後、再びタバコは吸わなくなったし、中毒にも陥らなかったし、また禁煙パッチの類で禁煙を助けてもらわなくなった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持は、本当に素晴らしいと彼は感嘆した。
施身法法会に参加した一年後、彼はホームページで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが次の日曜日に皈依法会を開催すると慈悲深く開示したと書いてあるのを見た。そして、彼は急いで土曜日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、皈依を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいくつかの問題を尋ねた後、慈悲深く同意した。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩し、彼に生死を解脱する正法を聞く機会を得た。彼は子供の頃から、およそ4、5歳から死ぬこと、暗闇が怖かった。小学校の時、本でも印刷物でも死に関する字を見ると、例えば部首の尸、歹を見るだけでも手で触れることもできなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法は、衆生が生死輪迴を解脱する方法を教えていて信仰する宗教ではないことを理解させた。
彼は過去の殺業を懺悔した。子供の時、よくバッタの足をもぎり取り、彼等を飛べないようにしたことを懺悔した。子供の時、カエルを捕まえ、カエルの足をもぎり取ったことを懺悔した。消しゴムを使って、数知れないゴキブリと米虫を殺したことを懺悔した。生物を学習するために蝶の標本を制作するため、蝶の胸骨を潰した後標本にした事を懺悔した。生物を学習するため、昆虫標本、動物の皮剥標本、骨格標本等を作ったことを懺悔した。生物を学習するため、多くの鶏を殺して血を取る実験をしたことを懺悔した。生物を学習するため、多くの蛇、ネズミ、ウサギ、カメ、サカナ、サメ、ミミズ等々を殺したことを懺悔した。彼と家族が栄養を取らせるために父を傷つけ、飼っているハトを殺させて薬剤と共に煮こませた。それにハトの脳みそを食べたし、たくさんのハトの玉子を食べたことを懺悔した。彼は懺悔して、いつでも果報を受けることを願った。
彼は子供の時、外祖父が鶏や鴨の脳みそを食べるのを見たことがある。後日、中学生の時、外祖父が脳の手術で亡くなったと聞いた。当時、脳の手術をすればほぼ生きられる可能性がない事をわかっているのに、なぜ外祖父に手術を受けさせて苦しめるのか。今の状況になる以前、父は手術をすれば多重器官が衰退して死に至ることがわかっていながら、自分の欲望を満足させるために父に手術を受けさせて苦しめたことを懺悔した。彼は来るべき果報に懺悔し受け入れた。
彼は子供の時、外祖母の家に行った。外祖母はいつも鶏、鴨を殺し彼等に食べさせてくれた。後日、外祖母は死ぬ前に何度も手術し、胸やお腹は傷だらけだった。彼は父母に対して親不孝であることを懺悔した。いつも父母に逆らい、自分はよく勉強していて学が高いとうぬぼれ、父母を軽蔑した。自分は親孝行だとうぬぼれ、父母が喧嘩をすると父が悪いと決めつけ、弟が言うことを聞かないと殴り、彼等を詰り、彼等を叱り、彼等とちゃんと話をしようとしなかった。
彼は好色を懺悔した。アダルト向けの本屋ビデオを見るのを好み、海賊版ビデオをダウンロードして一人で悦に入っていた。彼は過去にまじめに仕事をしないことを懺悔した。工務ステーションの主任はいつも人の工賃を彼に与えた。彼もそれを受け取った。真面目に実験をせず数値を捏造して渡した。彼は嘗て灯明を吹き消したことを懺悔した。彼は不注意にも家の仏像をぶつけて壊したことを懺悔した。彼は上師へ不恭敬であることを懺悔した。皈依前嘗てリンポチェの傍で仕える師兄に対して怒り、皈依前に、彼女の身内にマスクをさせたほうが良いと提案した師兄に対して怒った。また、後輩が女性にもてて、いつも女性の先輩の世話をすることに嫉妬して後輩を脅したことを彼は懺悔した。また、外場ボランティアを担当した時、傲慢にも師兄指揮に従わず、更には師兄に怒ったことを彼は懺悔した。彼は今まで行った悪事が多すぎて言い終えることができないほどであることを懺悔した。
彼は、衆生にお返しする機会を得たことに対し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。最後に、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは長らくこの世に住まわれて、法輪を常に転じて、直貢の法脈は永遠に伝わることを祈った。
尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がり、出席大衆に対して珍貴な仏法開示を与えた。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、二週間前に既に仏を学ぶことに対して、最も重要なのは「人無我」と「法無我」を把握し、解悟し、了悟することであると開示した。ここで言う「我」とは個体の我ではなく、もしも「我」の含意をはっきりと解説するなら、長い時間を必要とする。《大藏經》中の全体の《大般若經》は法無我を説いていて、《金剛經》では人無我を説いている。いわゆる「我」は、巷で言うところの小我ではなく、広くは大我を述べていて、宇宙全体を含んで広がる。また大我はまた小我を含むという類の解説は正しくない。なぜなら例え大我であっても、先ほど舞台に上がって分かち合った弟子の体型がこんなに太っていてもそれはひとつの制限にすぎず、形のあるものであるからには、どこまで大きくできたとしてもやはり制限がある。大我もまた範囲である。いわゆる心量は広がり、仏法で言うところの慈悲を学び、無縁大慈、同体大悲を行うことができ、心量の範囲は無制限となることで、衆生の苦を体得でき、彼等を利益し、大我と小我を区別しない。
それはちょうど龍樹菩薩の《中觀論》の中で我執を破ることを提示していて、「人無我」と「法無我」を証明している。すべては因縁で生まれ、因縁で滅びるのは空性の中にあるので、本当の我はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、嘗て尊勝なる直貢チェツァン法王に《中觀論》を読む必要があるかどうかの教えを請うたことがある。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに《中觀論》を読む必要がなく、ただ大手印を修めるだけで良いと指示した。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは文字とは限らぬのは文字で表すことができないと思っていて,自分で大手印の境界を証明することができた時,直貢チェツァン法王の教えを理解することができた。多くの人は龍樹菩薩が言うところの《中觀論》は重要であると思っているが、《中觀論》はただの理論であり、論は経典に基いて作ったものである。また《中觀論》は《寶積經》を根拠にしている。なぜ直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに《中觀論》を読む必要がないと言ったのかというと、直貢カギュは、実修を重んじる教派であるため、仏法の薰陶を通じ、自己すべてを修めることで輪廻の行為を引き起こすことができる。
この「我」は、仏が法を説く時に、皆に仏法を理解させるためのものであり、止む無く文字を使わなければならない。そのため、仏が説くところの「我」は、実はただ一文字の定義に過ぎず、或る人は、主観意識と考え、その主観とは、自分に有利なことに執着し、我々は仏法を体得することができないから仏を学ぶ上で多くの障害を引き起こす。我々は体があるので、眼、耳、鼻、舌、身、意の六觸等の意識の作用を通じ、皆が「我」の存在を感じ、その「我」を感じるので「我」の存在に執着し、すべての人事現象について自我の見方が生まれる。それは即ち私の考え方は正しいと考え、自己の利益もしくは得失から物事を考え、それに拠って自我が生まれ、執着が生まれると、心が貪、嗔、痴等蒙蔽を受け、衆生を傷つける行為を作り出し、ずっと途切れなく輪廻を繰り返す。仏法は文字で形容できないが、もしも文字で説くのなら「我」と説き、数年説いても終わらない。
仏を学ぶことは、ただ読経、菜食、真言の唱え、拝仏、懺悔だけでは足りず、主に「二無我」を体得しなければならない。大手印は実修であり、一定の境界に至ると、自然と体得することができる。実修は確実にすべての我々を輪廻させる原因を改める。もしも仏を学ぶ人が「二無我」を学ぶことをせずに、いくら読経、菜食、真言の唱え、懺悔を多く行っても仏法の上では進歩がなく、慈悲を修めることができない。慈悲は仏経のすべての基礎である。科学の角度から見て、我々の体は少しの価値もないが、それは分子、原子から構成される。仏経の中で我々の体は微塵ではあるが、それは塵埃もしくは灰塵ではないと説いている。その実、仏が説くところの微塵は現在科学者が発見した原子、分子、中子、粒子等である。「我」は最後に何を分析するのか?しかし分子、原子のエネルギーは非常に微小で顕微鏡でも見つけられない。
科学者はすべての物質は原子、分子、中子から構成されると考える。もしも分解されれば、その形体は実際に存在するのではない。分子、粒子は、固定して変らないのではなく、常に止まらずに相互にぶつかり変動し、宇宙間では変動を停止することない。人心もまたいつも変化する。ぶつかってエネルギーが発生し物質を形成し、これらの成分は宇宙間で存在するのは、まるで仏が説く微塵のようである。一切の事、物、人は皆因縁によって生滅する。「二無我」を証した人の心は非常に細かく、最も細微な現象をみることができる。行者がある程度の禅定を修めると、空の中に原子、分子が止まらずに変動、衝撃をしていて、この現象を見たら、それは俗称の飛蚊症ではない。これらの原子、分子は室内では比較的観察しにくい。なぜならば室内は人工の物が多く、例として電灯、空調、雰囲気等である。室外では比較的真実が見えやすい。例えば、郊外、海辺などで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、定境の中にこれらの分子、原子が空中で止まることなく衝撃、結合及び分離しているのをはっきりと見ることができる。「法無我」は、即ち宇宙間すべての変化の現象であり、仏を学んで自分の心がはっきりとしないなら、自己の心を制御することはできず、「法無我」を悟ることはできない。
リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は始め密法を疑っていた。これは大人の世界のことで自分は理解できないこと、自分には関係ないことと考えていて、密法のすごいところがわかっていなかった。少し前、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと家の血圧計を使い、子供にリンチェンドルジェ・リンポチェの心拍を測るように言った。リンチェンドルジェ・リンポチェの心拍は平常時およそ毎分65、66回であり、入定の時には約63回になる。常識から言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェのような年齢が高い人は、心拍はこんなに遅くはない。その場で医師の弟子は医学的な観点から、人は年をとると心拍が速くなる。一般的に毎分70回下以上になると、解説した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き、密法には「人間は5種の氣がある」と記載された。年齢が高くなると、この5種の氣は平衡を失い、徐々に弱くなる。特に弱くなるのは持命氣である。皆は、年寄りは吸気が少なく呼気が多いことに留意しておくとよい。年寄りは代謝が遅くなる等の理由から心臟は酸素を有効利用することできなくなる。吸入する空気は少なく、吐く息は多くなると医師弟子は言った。
多くの人は、機器が測れるものは科学であり、仏法を信じないと考える。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、先ず血圧計を子供に見せ、測りだすと心拍は65だった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェ短い密法を修めた。その間、リンチェンドルジェ・リンポチェはまったく動かなかった。まったく動かない状況の下、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法した後、血圧計で心拍を測ると毎分180回であった。続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは子供に10秒後にもう一度測ったら、心拍は正常に回復しているからと言った。10秒鐘後に再び測ると、リンチェンドルジェ・リンポチェの心拍は、確かに正常に回復していて、毎分66回になっていた。密法の素晴らしさを知った後、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は、法会に来るようになった。
当時、子供は、リンチェンドルジェ・リンポチェに、まさか不随意筋を操作できるのかと非常に驚いて言った。法会の会場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは医師弟子に尋ねた。皆は随意筋と不随意筋を学んだことがある。心筋は隨意筋か、それとも不隨意筋なのか?医師弟子は答えた。心肌は不隨意筋であり、意志によって操作できない。だから自分の心拍を速くしたり遅くしたりすることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは不隨意筋すらも操作できるのか?なぜなら心は意識を操作することができている。翻ってあなた方は心が意識によって操作されていて、貪、嗔、痴等の五毒に覆われているので、結果としてできなくなる。
世間では多くの人は密法を誤解していて、仏は密法を説いたことがなく、密法は本物ではないと言ったと思っている。しかし、その実、それは非常に重大な誤解である。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んだ時、師父はリンチェンドルジェ・リンポチェに密法は偽であると言った。だからリンチェンドルジェ・リンポチェも嘗てこのような誤解をしていた。顕教について多くの人が誤解しているのは、密法は第三者に伝えず、外部に伝えないからであり、だから仏が密法を説く時、非公開であり、そのため当然多くの人は知ることができないし、仏は密法を説かないと思ってしまう。経典の記載に基いて顕教の方式では仏果を修めるのは非常に長い時間を必要とし、三大阿僧祇劫の時間でやっと仏になることができ、その時間は非常に長く、数百億萬年の時間であり、余りに長すぎて数えることすらできない。密法を修めて成仏する速度は速く非常に多い。しかし、あなたは本当に今生で離脱する決心をつけているのか?この世で生死を解脱できるのか。だから行者は密法を修めることを決心し、すべての事が起こってくる。それは、例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を学び始めた時、すぐに破産し、一家が離散した。
仏が密法を伝える時、各弟子の異なる根器と因縁に基づき、その問題を治める法門を与え、その伝法は公開しない。例を挙げると、淨土宗に於いて皆はただ淨土十六觀を知っていて、太陽、月等を観る名称は知っているが、習得の方向は知らない。結果、現在ただ仏号を唱えるだけである。これは釋迦牟尼仏が淨土十六觀を叔母に伝える時、弟子が現場に一人も居なかったので、この一段は仏経の中で取り上げた。淨土へ行くには、經典で備えなければならない条件を記載していて、亡者は必ず福德因縁を備え、十善法等々資格を修めなければならない。《淨土五經》に於いて、百万台湾ドルを払って一本の蓮の花を買うと、浄土へ行けるとは書いていない。仏経が言わなければ法ではない。いわゆる仏経では仏が入涅した後、500個の阿羅漢の弟子が入定し、聞こえてきた仏法を記した。仏が法を弘める時、録音機はないし、書記官の記録もない。仏が密法を伝える時、必ず一対一で法を伝え、弟子たちは傍に置かない。だから仏経では自然と記録されない。淨土十六觀の内容は、仏経には書いてないし、伝えていない。そのため、出家衆は皆淨土十六觀を聞いたことがあるが、誰も修めていない。仏経の中に標題の名称が書き留めてあるだけで、内容を話していないただ、皆に仏は嘗てこの法を伝えたことだけを知らせた。けれどもその実、淨土十六觀は密法である。
経典の中では、「因縁兩方面の合流から考えて、これはつまり無住涅槃の果である事を証明している!このことからわかるように、世間法あるいは出世間法に関わらず、一切の諸法の因果実相で、万事万物の因果法則は絶対に真実であり、一ミリでも間違っていない!」と記載された。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示した。因果は確かに存在する。あなたは或る因を植えれば、或る果を得る。これは明らかな真実である。因果の法則は一ミリでも間違ってないし、多すぎもせず、少な過ぎもしない。すべての事や、物、人はすべてこの世界、宇宙の中で単独で存在しているのではない。皆は無常を信じないが、いつでも孝行は孝行であり、金持ちは金持ちであり、恋愛は恋愛であり、自分は一人の優れた個体だと思っている。この観念は打ち砕かなければならない。もしも仏教を学んで「人無我」、「法無我」ができなければ、いくら学んでも福德だけを得ることができで、来世でやっと使える。「人無我」、「法無我」を悟ることで功徳を修めることができ、今生で使えて、あなた方の業力を動かすことができ、あなた方に生死の解脱をさせることができる。いかなる事も、「人無我」、「法無我」であり、いかなることも因縁によると生じて、因縁によると滅して、すべて因であるので、事が発生する。
この話は、簡単に皆に話すことができる。仏教を学べば病気が良くなる、物事がスムーズに進む、悪いことは起こらないと思ってはいけない。或る人たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の体を良くして助けると望んだ。病気が治る、或る人は病気が治らない、ある人は逆に早く往生し、臨終前に痛苦を受けないことになり、この因果因縁は非常に複雑である。リンチェンドルジェ・リンポチェにも肉体がある。リンチェンドルジェ・リンポチェでも病気になるし、死亡する。どうしてあなた方を病気しないように、死なないようにできるというのか?法会に参加し、経を念じ仏を拝めば、すべての悪いことは発生しないと思ってはいけない。もしも、そのようならば、因果の法則は存在しないことになるではないか?あなた方は何を元にしてリンチェンドルジェ・リンポチェに一回会ったくらいで病気が良くなると思っているのか?そんな簡単なことはないであろう。どうしてあなた方がこれまでの累世以来にいくらの業を作って、いくらに欠けることを考えてみないのか?
だから、発露懺悔をすれば、何事もないと考えてはならず、また仏菩薩に私は間違っていたと言って泣いていれば果報はないと考えてもならない。もしも悪い事を泣いていれば、悪いことは何も起こらないと考えているのなら、それはただの詫びであり、懺悔ではない。仏経の記載に基づくと、懺悔には幾種類ものレベルがある。最低レベルの懺悔は血涙を絞って、内心の深い所から自分の間違いに気づき、自分がしたことの間違いの影響が明らかであり、自分のしたことの悪言悪行を憎み、もう決して再び犯さないと思い、すべての果報を受ける。このようにしたことを本心から懺悔し、あなた方のように泣けば果報が現れないと考えるのとは異なる。懺悔の最も基本は、血涙を絞って、更には目から血を流す。それは命を以って懺悔するからである。
多くの人は間違いを犯してもそれを認めず、謝ればいいと思っていて辛い思いをしたくない。他の人は何事かを言うし、彼等は更に「私はもう、謝ったのに、あなたは私にどうしろというのか!?」と言う。現代の社会は変わってしまった。道理で、社会全体が下向きに沈んでいる。なぜ他所の国はこんなにも興隆しているのか?なぜなら彼等は少なくとももしも羞恥心がないときに人々が軽蔑することを知っている。けれども現在の台湾の風紀は既に変わってしまった。貪念のために何でもやってしまう。間違って捕まったらその時のことにしようと思う。これは因果を信じていない。このような空気がずっと続くとその国に、前途はなくなる。皆は間違ってもまた間違う。口では因果を信じると言いながら、少しの羞恥心もないので、また間違いを起こす。最近、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちに、道場への出入りを禁止した人と会って話し、彼等の現在の状況を理解するように指示した。結果、四年前に道場への出入りを禁止されたで弟子が突然現れた。彼は知らせを聞いたので戻って来たのは明らかであるが、この種の事は真心ではない。
二日前、一人の弟子が往生した。しかし、往生時、ポワ法を得られなかった。その前、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼にあなたは汚職をしているので地獄に落ちてしまうと話したことがある。しかし、彼は大懺悔心が起こらなかった。彼の子供たちは父親が地獄へ落ちる因の種を蒔いたことを知っていたが、父に懺悔心が起こらなかったので、父親に代わって貯めた因縁福報がなかった。この弟子は以前官職の時、汚職をしてたくさんのお金を受け取った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、官職にある者は人から僅かのお金を受け取っただけでも地獄へ落ちてしまうと開示したことある。しかし、この二年、彼は聞く耳を持たなかった。なぜなら、自分は既に皈依したし、法会に参加し、菜食しているからすべては良くなったと思っていて、真の大懺悔心はなかった。自分は皆と同じことをしただけだ、皆は受け取っていて、上から彼に分けたなら彼も受け取らないわけにはいかないだろうと思っていた。
彼は、皈依前、糖尿病、高血圧等々を含むたくさんの病気を抱えていて、治療にたくさんのお金がかかっていた。だからお金が入ってもすぐに出て行った。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼にポワ法を修めることを約束しても、縁がなく得ることができなかった。因果は皆が考えるように、なにをしたから必ずなにを得ることができるというようにそんなに簡単なものではなく、もっと複雑に入り組んでいる。別の人がした時は何も起こらなかったと思うが、それは実はただ、果報がまだ発生していないだけである。癌に罹った多くの人は、自分は他の人と異なる生活をしていないと思う。なぜ、他の人は癌にならないのに、自分は癌になったのだろう?或る人は悪行をしたのに、今は幸せを享受しているのは、現在、列に並んでいて彼が順番になっていないだけのことであり、あなたが先に順番が来ただけのことである。
自分は皈依し、菜食していて福慧を修めていると思ってはいけない。必ず心から修行が積めている。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は、往生時リンチェンドルジェ・リンポチェが必ずポワ法を修めてくれると思ってはいけない。あなたが、もしも因縁福報が足りなかったら、あなたが弟子であってもリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めるのを得ることができない。もしも、因縁福報が足りていたなら、皈依をしていない人でもリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めて超度する機会を得ることができるかもしれない。この例は、皈依した弟子はポワ法をえることができなかった。逆に葬儀社の信徒は、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めるのを得ることができた。
この葬儀社の社長は、発病してから往生までほとんどお金を使わず、痛苦の時間も長くなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、テレビである人が「こんなに善いことをしたのに、こんなに早く亡くなってしまった」を話しているのを見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示した。このように言うのは良いことではない。このようにいう人は因果業報を信じていない。この葬儀社の社長は、仏教を学ばなかったし、皈依もしていなかった。更には自分でポワ法を求めたりもしなかった。彼は、自分はこんなに良いことをしてきたのだからこのような病気に罹るべきではないと思っているかもしれない。その実、長寿は良いこととは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を加持したなら、彼は80歳まで生きたかもしれないが、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいないので、彼はポワ法を受けることができなかったろう。もしも、彼がこんなにも多くの善事しなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェに会えなかったろう。もしも、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに出会っても、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬しなければ、ポワ法を得ることはできなかったろう。なので、因果の事情は非常に錯綜し複雑である。
因果は消えないものである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは龍樹菩薩の物語を開示したことがある。あなた方は良く聞かなかったけれども、今日、もう一度開示する。その年、龍樹菩薩がインドにいた時、修行をよくしていたので、多くの外道が龍樹菩薩に嫉妬し、龍樹菩薩を死に至らしめようと画策した。毒を盛ったり矢を放ったりしたが龍樹菩薩を傷つけることができなかった。なぜなら、龍樹菩薩の修行は非常に良かったので、過去の業をすべて清算していたからである。しかし、これら外道はそれでも各種方法を用い、最後に龍樹菩薩は外道が、自分が死ぬことを望んでいることを知り、外道に言った。自分の累世の業は、後残り一つを返していない。それはつまりこの世で、草の根で蟻の頭を切断してしまったことがある。話し終わると、龍樹菩薩は一枚の葉っぱを持ち、自分の頭を割った。なぜインドにおいて、龍樹菩薩の頭と体は別々の場所で弔われたのか?これは神話ではなく、真実である。仏経にはこの種の故事が多く記載されていて、それらはすべて真実である。だから因果は寸分の狂いもないものである。あなた方は一匹の蚊を殺せば、一匹の蚊の果報を被るのであり、あなた方が蚊を叩いて潰せば同じ方式を用いることでやっと返すことができるのであり、どうして法会に参加して返すことができると思うのか?
リンチェンドルジェ・リンポチェが、前回話した葬儀社の社長は、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子ではないし、ポワ法を求めたこともない。彼が死ぬ一週間前に会いに来た時、彼はまったく死に立ち向かう準備ができていなかったし、彼の息子はまったく父親に代わって求めることも知らなかった。しかし、彼が往生した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら彼に代わってポワ法を修めた。彼は嘗てヤクザの仲間になっていて、その後葬儀社を開いた。けれども彼がその後、行った善は非常に大きかった。これは亡者に対しても良く、それが大きな善の因を植えたが、彼自身はまったく知らなかった。彼は別にリンチェンドルジェ・リンポチェに良くしてくれたわけではない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ死んでいないし、彼が仕えてくれたこともない。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに1台湾ドルの供養もしていなかった。けれども彼は リンチェンドルジェ・リンポチェの貧しい弟子に助けたことがあり、即ち葬儀をするお金がなくても彼は助けてくれた。その他、彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して非常に敬い、雨の日に地面は濡れていて、彼はスーツを着ていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェを見ると、すぐに跪いて頂礼した。だから、彼はポワ法を受けることができた。
一昨日、往生した弟子は、往生する一週間前に、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時、病床に伏しているのを支えられて来た。彼は既に皈依していて、ずっと法会に参加していたので、少しの福報を貯めていて、少しの懺悔心も起こっていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が苦しむのが忍びなかったので、彼が早く痛苦を解脱できるように加持した。彼が往生する時、因縁がなくリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めることができなかった。止む無く、翌週の阿弥陀仏無遮大超度法会を待って彼を超度した。大法会をただ待っていた時、彼はまだ7、8日苦しまなければならなかった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、既に彼の神識を保護したので、彼を業力に沿って行かせなかったが、彼は中陰身の状態の時、自分の未来は何処にあるのかわからなかった。これは苦しみである。あなた方はこの法会を軽く見てはいけない。この大法会には二万人が参加する。人数だけでなく、二万人の人が心を一致させたなら、その力は非常に大きいものであり、彼は翌週日曜日に、二万人が彼のために念じた。これはまだ福報がある。
現在世間では多くの仏の名義をつける外道がいる。これらの人はあなた方に悪事を教えたりしない。彼等は表面上、仏を学ぶように、善事をすることを要求する。しかし、生死を解脱する法門を教えず、あなた方が輪廻を解脱するのを望まず、あなた方が同じ団体の一員となるようにする。仏を学ぶのには必ず福慧の両方を修めなければならず、福を修めて慧を修めないと、たぶんバカになる。慧を修めて福を修めないと、傲慢になる。福慧の双方を修めることで、仏を学ぶ資糧が累積し、慈悲心、菩提心が養われ、智慧が開花する。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェが顯教を学んだ時、毎日多くの時間を使って座禅を組んだ。その後、二、三日眠れない経験があり、体が疲れているのに、精神的に眠れなかった。このような現象は、一定の境界まで座禅をすることで、智慧が開花する。しかし、肉体の福は足りず、着いて行かない。だから体と精神が分離してしまう。皈依の時あなた方に「仏に皈依して兩足尊だ」を言ったことがある。仏は即ち福と慧で円満となる。
あなた方は世間のすべての事は輪廻因果があることを理解しなければならない。悪行も善行もすべてがあなた方を輪廻に陥れる。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に《仏子行三十七頌》を学ぶように教えるのか?それは即ち、先ずは一切の悪を断ち切らなければならないことを教えるためである。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働く或る弟子は、用事がある時、彼女は実行しないし、しようと思わない。そして他人にさせる。何事も自分とは関係ないと考える。もしも、他人が失敗したなら、それは他人がしたことだ、だから他人の責任だと言う。表面的に、彼女は物事をすることを怖がっているように見え、失敗して叱られるのを恐れているように見える。しかし、彼女の内心の深いところではやはり、彼女は因果を信じていない。因果が存在する実相を考えないし、理解しない。だから、この弟子は、はやり輪廻し続ける。
或る人は、何か起こると占いをする。なぜ、外側からの力で自分の問題を解決しようとするのか?この種の人は、受け入れない人で、理由を見つけて自分の間違いを認めない。仮にこの世で多くの善という因をしても、以前にしたことは返さなくても良いのではないか?累世の悪だけでなく、この世でした悪もたくさんあるのではないか!修行人であるほど、返済を恐れない。けれども、あなた方の考え方は迷信に侵されてしまっている。法会に参加すれば、病気が治ると考え、仏菩薩を求めれば病気が治ると思う。あなたに仏を学ぶ時間を与え、多くの衆生を超度させる。これらは,仏菩薩に無理で求めて脅威するのである。
仏を学ぶ人は、衆生が傷ついたり、苦しみを受けたりしないようにさせるだけでなく、自分が衆生に代わって苦しみを受ける。たった今、あなた方が《仏子行三十七頌》を念じていた時、リンチェンドルジェ・リンポチェの耳には或る一段が聞こえた。それは仏子であるなら、自分が重病に罹り、悪魔に侵され傷ついた時、例え衆生が苦しみ、自分の苦をすべての衆生の苦に替え、自分の快楽で衆生の苦しみを交換するというものだった。しかし、あなた方は本当にそんなことができるのか?あなた方は、きっと言えないだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは言うことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェが長年施身法を修めている時、それは自分の快楽で衆生の苦しみを取り替えている。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが交換すればするほど、良くなると思っているか?もしも、衆生の苦を交換する心がないのなら、それではあなたの苦も解決することができない。衆生の苦を交換するのは、世間が言うところの衆生に代わって業を担ぐということではない。業果は、自分で負担し、他人が代わって担ぐことはできない。これは衆生に対する慈心であり、慈は自分の最も良い物で衆生の悪いものを交換する。この心の持ち方を以って仏を学ぶことで、やっと菩提心が養われ、修行で進歩する。
世間では、癌に罹ったら喜ぶべきであると教える人がいる。その実、この種の観念は正確ではない。あなたが喜んだなら、あなたに傷つけられ苦しみを受けた冤親債主はどうしたら良いのか?癌細胞と共に共存する考え方は、返済したくない、懺悔したくないと思う。仏を学ぶ人は仏を学ぶことで、苦しみを離したいと考える。もしも、衆生が苦しみを離しなければ、あなたも苦しみを離れることも出来ない。あなたが自分さえ良ければと考えると、良くならない。もしも、通りの端から端までの家が泥棒に遭い、あなたの家だけが泥棒に遭わなかったとしたら、あなたはきっと護法とリンチェンドルジェ・リンポチェの加護のお陰と言うだろう。しかし、これにはプレッシャーがかかってくる。家を出る時には、周りをキョロキョロ見回してやっと外出できることだろう?
仏を学ぶには、慈、悲、喜、捨を修めなければならない。少なくとも仏を学ぶ心構えは、正確でなければならず、自分が癌に罹ってリンチェンドルジェ・リンポチェにあなたの病気だけを治せば、身内も仏を学ぶようになると考えてはいけない。これはすべて仏菩薩を脅して求めることになる。あなたの同修を済度すると決して言ってはいけない。現在多くの人は仏法名詞を誤用している。同修はあなたの身内を指すことではなく、同一道場で法門を学ぶ人を指す。台湾の多くのところでは仏法が変わってしまい、以前は仏教では「師兄」、「師姐」とは言わず、いわゆる「師兄弟」は師を崇め、武を学ぶ人が互いに呼び合う呼称であり、その実仏を学ぶ人を指さない。しかし、現在は自分を或る「師兄」と共に仏を学ぶと言う事が流行っている。
仏経の記載によると、法座に上がって説法をする人は条件を備えければならない。常に途切れなく福報を貯め、衆生を済度し、更には因縁を備え、何冊の経を唱えて、数年だけで仏教を学び、弘法することができるのではない。その年、六祖慧能は、既に見性で悟りを開いていたが、福報が足りなかった。五祖は彼が獵戶家に十数年隠れた後、因縁が足りたなら、出てきて弘法することができると指示した。弘法人であるため、もしも仏法で衆生を生死輪廻の解脱させることができないなら、体も状況が表れる。今日、皆は仏教を学んでいるが、自身の慈悲心を養う訓練をする必要がある。慈悲は、戎を破らない、良い人になるということではない。それは人としての基本であるのだから。慈悲は出すものであり、布施の心さえないものは慈悲を学ぶことはできない。
慈とは、自分の良いもので衆生の悪いものと交換することである。修行人のすべて、肉体を含み、すべて衆生に役立てる。仏を学ぶのは、慈悲法門を修めなければならない。なぜなら、すべての仏法は慈悲によって、菩提心が起こり、菩提を行い、そして仏が衆生の輪廻を解脱させる助けをすることができる。衆生に代わって苦しみを受ける心構えは大変重要である。もしも、自分が少しばかり苦しいからと言って大騒ぎしていては、況して衆生の苦しみである。あなた方は自分に物事が起こらなければ自分とは関係ないと思っている。法会前に分かち合いをした弟子は、皈依する前までは鶏の体を割いていた。なぜなら自分の体ではないから、鶏の苦しみは感じない。彼の父親が手術をして苦しんでから、やっと苦しみが理解できるようになった。なぜ我執にとらわれるのか?菩薩果位を証明した行者は、自分と衆生が分かれていると思わない。衆生が受けた苦は、自分も同じように感じることができる。それでこそ、衆生を助けることができる。
あなた方が衆生に代わって苦しみを受ける願いが起こると、冤親債主は助けるようになってくる。これは彼等が借金の催促を諦めたということではなく、先に少し催促するだけで、あなたに仏を学ぶ時間を与える。なぜなら、彼等はこのようにすることで将来彼等にとって良いことを知っているからである。あなた方はなぜ、仏菩薩に無理に求めて脅すのか?それは貪念と欲望のためである。あなた方は多くの時間を無駄にしてどうすれば現在の果報を変えられるか考えている。けれども、現在の果報は過去に作ったものであり、すでに変更することができない。あなた方が変えられるのは、未来の因である。仮に果報が悪であったとしても、あなた方はそれを将来の善因にすることができ、将来は善果になる。いわゆる衆生の苦を代わりに受けるのは、善の因であり、例えあなたが悪をして、未来に悪果があっても、果報は善因があるので、変化がある。仏は物事を簡素化する。ただあなたがいうことを聞きさえすれば、未来は絶対に苦しまない。仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方の因果を変えることができないが、あなた方が教えを良く聞いて実行すれば、あなた方の業力を動かすことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しもすごいものではなく、すごいのは因果である。
昨日、或る一人の信徒がリンチェンドルジェ・リンポチェに会った。彼女は子供の頃から苦しい人生で、苦が多く幸が薄く、大人になった今も同じだと感じていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、先ず一人の出家弟子に尋ねた。もしもこのような信徒を助けるとすると、どのように答えるか?出家弟子は相手に対して過去の生活で起こったことを思い出すように言い、相手の間違いなのか?それとも自分の間違いなのか?を尋ねると答えた。もしも、自分の間違いなのであれば、検討しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示した。出家弟子のやり方は聞き慣れた話であり、このような信徒に対して助けにならないし、聞き入れることができない。なぜなら、彼は自分とは関係ないと感じるからである。
当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の話を聞き、相手を見た後、この女性信徒に開示した。もしも彼女が人生は苦であり、無味であり、消極的なものであると感じるのなら、今日何処を見て付け睫毛を貼り付けこんなにもきれいなのか?あなたは、今日、こんなにもきれいな付け睫毛をつけている。つまりそれはあなたが自身と人生に対して諦めていないことを表していて、この信徒は、それを聞いて笑い出した。その後のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示も聞き入れることができた。この信徒は当然苦しんでいない。ただそれは成長過程にすぎず、心が歪んだなら、導く人が必要になる。衆生を救うのはそんなに簡単なことではなく、弘法人であるのなら、心が繊細でないのなら担うことはできない。仏法に対して観念のない人に対し、多くを語っても役に立たないし、聞く耳を持たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この信徒に用いた方式は、即ち、仏経上の四攝法の一つ巧語を提示したものである。巧語は、耳障りの良い話ということではなく、人に輪廻の要素を改めさせ、人を仏法によって導く、騙すだけでなく、詰ること、追い出すこと、これらすべては巧語の範囲である。
「我々は今、輪迴因果は悪い結果であること、円満ではないことを既に知った。だから、自然に捨てなければならない。涅槃因果がわかると、功徳が備わり、不足感がなくなるので、自然と精一杯に修めるようになる。」一切は因果法則であり、我々が今生で起こることはすべて因果と関係があり、輪迴因果は悪い結果であることがわかるようになるので、捨てなければならず、未来の心を動かし、上師の教えに基づいて行うことで、未来はすべて良くなる。仏を学ぶのに、自分の考えで修行をすることはいけないことである。
先ほど、科学が発見したすべての人事物は、分子、原子、中子等が絶えずにぶつかって変化すると言った。これは、仏が説いた無常と同じであり、無常とは即ち常に変化する、因縁に従って生滅することで、これは「我」も含み、永遠に変化しないものはない。仏経の記載には胎生、卵生、濕生、他に化身がある。エネルギーがぶつかると、物が生まれる。また人の心が動くと、エネルギーが生まれ、エネルギーが互いにぶつかり合い、命が生まれ、輪廻する。だから僥倖、逃避した心で仏菩薩と上師と弁論してはならず、そのようにすることはあなた方にとっても良くない。時間が不足している場合ので、リンチェンドルジェ・リンポチェは一つ一つ詳細に説明するができない。皆の時間が無駄になることを心配するので、今日は大テーマだけを話す。仏を学ぶのに、上師の監督がないと、簡単にミスをしやすい。だから、仏を学ぶのに、必ず上師が必要であり、自分だけの力に頼ることは困難である。
「『寂靜涅槃因果』はレベルが低いので、捨棄しなければならない。そして『無住涅槃因果』こそ、我々が真に修めるべきものである。このような説法は、因果は絶対に幻ではなく、従って我々は不如法の成分を捨て去らなければならず、更に合理的な方面を設置して実修しなければならない。」経典によると、「無餘涅槃因果」を証明するには、着実に自分に頼ってこそ、実修できる。涅槃は成仏を指すが、成仏すると何が得られるかと考えてはいけない。成仏は少しも良いものではない。成仏後、一切の欲望は止まり、心は再び動かなくなる。衆生の念頭も仏に影響できず、衆生が求めたなら、初めて仏は衆生を助けることができる。それではあなた方は仏は慈悲ではないと言えるのか?主導的に衆生を助けなければならないのに、なぜ衆生が口を開かないと助けられないのか?それは仏は縁に従って衆生を済度するからであり、衆生が口を開くことでやっと縁起が始まる。もしも、仏が主導的に助けたなら、しかし、衆生は話を聞かず、最終的にはやはり助けることができなくなる。けれども仏果に成られて、仏と同じ大能力があり、一切法界の数多の衆生を利益することができる。
あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェはどうやら多くの弟子がいて、けれども、ただ1200余人を利益できるだけである。。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏ではないし、仏の大能力もないので、仏のように数限りない衆生を利益できない。一人の菩提心を発した行者はいつもより多くの衆生を利益することを望む。そのため、我々は仏果を努力して成就し、数限りない苦難の衆生を助けることができる。もしも、今生で菩薩果位を修めなかったら、来世に再びやってきた時、業に従って再来する。世間では或る人は仏を自称してこの世に来たという人がいる。けれども仏経の記載によると、56億万年後にやっと弥勒菩薩が再来できるのである。だから、その間に新しい仏が現れたりはしないので、皆は巷での説法に誤導されてはならない!仏を学ぶ人は仏経によると、仏法によって物事を行い、もしも仏経、仏法から離れたなら、すべては偽である。皆は「因」から注意しなければならず、心に留めて置く必要がある。
あなた方は借金を返したがらない。もしも他人に100元借りたなら10年間で1元しか返さない。すべて返し終わるのにどのくらいの時間が必要なのか?すべての諸仏菩薩は皆必ず借金を完済し、リンチェンドルジェ・リンポチェと同じく、さっきのように龍樹菩薩の例を開示することができる、これは事実である。ただ衆生に借りがあると輪廻する、衆生に多すぎる借りがあると輪廻する。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前チベットの皈依師のテンジンニンマ・リンポチェに皈依したことがあり、圓寂前の数年間は、信徒のいかなる供養もまったく受け取らず、ハタさえ受け取らなかった。加持を求めることはできるが、供養は受け取らない。なぜなら欠損したくなかったからである。
リンチェンドルジェ・リンポチェが今回ラダックへ行った時、尊勝なる直貢チェツァン法王は開示の中で、尊きドラブ・ワン・リンポチェは今生で修めたリンポチェ果位は、ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが今生で修めたのと同じである。リンチェンドルジェ・リンポチェとドラブ・ワン・リンポチェは比喩とする。数年前のある日、インドにおいて、直貢チェツァン法王は仏寺でドラブ・ワン・リンポチェとリンチェンドルジェ・リンポチェが仏寺の外で、ダライ・ラマを出迎えた。ドラブ・ワン・リンポチェは、椅子に座っている時に椅子の数が足りないことに気づき、責任者を責めた。そして、責任者に椅子を持ってきてリンチェンドルジェ・リンポチェに座らせるように言いつけた。その時、一組の台湾から来た信徒夫婦がドラブ・ワン・リンポチェに頂礼してハタを献上し、ドラブ・ワン・リンポチェに供養しようとした。彼等の手は哈達をおよそ30分間持ち続けたが、ドラブ・ワン・リンポチェは受け取らなかったし、彼等を見ることすらしなかった。夫婦はこのように長らく跪き、ドラブ・ワン・リンポチェを見たが、彼等をまったく相手にしなかった。夫はまったくすごい人で、最後には遂に自分にハタを着け、傍に座って供養できるリンチェンドルジェ・リンポチェに思い至らなかった。あなた方は一本のハタを軽く見ては行けない。もしも恭敬心供養が足りるならば、一本のハタの供養は金銭よりも有用である。だから、本当の修行人は、あなたの心が正しくなければあなたの供養を受け取ることができない。
地球上には7尊仏がこの世にいて、現在、釋迦牟尼仏は第五尊仏である。あなた方が仏果を修め出たら、地球にいるのではなく、別の惑星にいる。そのため今生で成仏できない。それならば、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはずっとあなた方に浄土へ往生するように教えているのか?浄土では再び輪廻の必要がなく、成仏するまでずっと修行できる。或る人は、どうせ、56億万年後に弥勒菩薩がやって来るのだから、今は自分で修行する必要がない。弥勒菩薩がやってきた時に一緒に着いていけば良いと考える。但し、道理はここにある。もしもあなたが今、修行しなければ、その時が来ても弥勒菩薩と共にいることができない。共にいたいと思えば居られるわけでないのである。特に出家衆、もしもあなたが弥勒菩薩の浄土を修めていないのなら、あなたは来世も弥勒菩薩と共にあることができない。弥勒菩薩は、阿弥陀仏よりも厳しく、弥勒菩薩の浄土は、内院と外院に分かれる。出家者が戒律を守ることができないなら、一定のレベルまで修めることができないし、弥勒菩薩の浄土内院へ行けない。内院は戒律をしっかりと守らなければならず、一定レベルまで修める事が出来る人が入ることができ、その後、弥勒菩薩と共に来ることができる。その時、弥勒菩薩が地球に来臨し、96万人をすべて連れて行き、別け隔てなく、共に行く。阿弥陀仏は弥勒菩薩よりも少し楽になり、阿弥陀仏の浄土へ往生するのは比較的簡単で、あなたは五戒、十善を修め、福德因縁のある善男、善女であれば往生を願うことができ、実現できる。これは《阿彌陀經》に記載されている。
直貢噶舉のもう一人の大修行者であるユンカ・リンポチェは嘗て、以下の3件が最も早く福報因縁を貯めることができると言ったことがある。そのうちの一つ目は、大法会に参加すること。なぜなら衆人が心を同じにして一つのことを念じると、パワーは最大になり、一切の修行を植えた因は非常にはっきりしている。我々が一生で持つことができる物は、すべて因縁であり、永劫ではない。ただ、或る一定の時間あなた持たせているだけで、あなたが永遠に持つことを表しているわけではない。それは父母、妻と子供を含み、そのようであり、ただ人生の或る時間内の因縁にすぎない。あなた方はこの因縁を求めないということではなく、良縁もしくは悪縁のどちらに遭ったとしても良い方法で処理しなければならず、それが良い結となり、新しい悪縁を作ってはならない。或る女性は夫が自分と離婚するという事態に遭った時、リンチェンドルジェ・リンポチェのところへ来て先ず子供を産んだほうが良いかどうかを尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女らに一時の因縁は終了した。だから新しい生活をもう一度やり直すのがよいと勧める。けれどもほとんどの人は聞く耳を持たず、やはり執着し、やはり苦しみの中にいるのは仕方がない。
あなた方は永遠に或る物を所有したいと願っているが、それは痛苦の源である。例えば自動車を例に取ると、お金を払わなければあなた方は車を運転することができない。車を所有すると、毎年政府に税金を払わなければならない。クマルが古くなれば売ってしまう。これをどうして自分の物であると言えるのであろうか?ただ嘗て一時的に所有していたというだけである。もしも、車があなたのものであるというのなら、あなたが生まれると同時にあなたと共になければならないが、事実はそのようではない。一台の自動車が60、70年交換しないのを見たことがない。常に車庫にしまって鑑賞するだけのクラッシックカーを除いて。ある人達は自動車は自分のものであると考える。車がぶつかって凹むと,非常に怒る。これはあなたが自分のものであると執着しているからで、因縁法を信用しない。事実、このことに例外はなく、二無我を真に悟ることで、一切は因縁、因果であることがわかる。
或る人は子供は自分のものだ、だから何でも管理しなければならないと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は、現在結婚した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に構わない。子供は何事かあればリンチェンドルジェ・リンポチェに話す。それはリンチェンドルジェ・リンポチェを尊重するからである。子供がリンチェンドルジェ・リンポチェに言わない。それもリンチェンドルジェ・リンポチェを尊重している。子供がどのようであれ、リンチェンドルジェ・リンポチェは構わない!しかし、弟子は管理しないわけにはいかない。なぜなら弟子は未来仏であるからで、成仏の過程において、弟子をよく管理しなければならず、彼らが輪廻の因を作ることを避けなければならない。因果は真実で偽りがないので、上師は方法を考えて弟子を助け、それらの理想的でないことを捨て、弟子の成仏修行に影響を与えるものとする。仏菩薩と上師は我々に与える恩が父母よりも大きい。なぜなら父母は我々にこの世の体を与えてくれるが、仏菩薩と上師は累世に亘って我々の世話を見るからである。
仏が教えるのは、すべて我々が輪廻を解脱する方法である。あなた方は聞くけれども行動しないし、改めない。それは即ち不如法である。ここで言う不如法とは、あなたが菜食しない、もしくは戒律を破ることを指しているのではなく、それはすべて輪廻を解脱できないやり方であることを指している。修行は一切の輪廻を作ることを改める行為である。生死輪迴を解脱するには、いつでも自己の起心動念に注意し、いつでも念頭が生む業力と因果を監視し、起きた念頭、想法はすべて善、悪業がある。もしも今生で生死を解脱する方向が一致しないなら、すべては不如法である。
《地藏經》の中で凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪であると記載されている。何故か?地球上の衆生の行はすべて悪が多く善が少なく、悪を行い易く善を行い難い。更に善念は儚く消えてゆく。何が罪なのか?それは人を傷つけたり法を犯したりすることを指しているのではなく、仏教徒としての罪を指していて、仏菩薩と上師の教えを聞かず、いつまでも輪廻の中でさまよっていて今生で生死解脱を断つことができないことを指している。良いことを行えば、悪い行いを相殺できると思ってはいけない。あなたは、いつもひとつの良い行いと同時に五つの悪い行いをしている。悪の行いは大きいため、善の行いのパワーで相殺するには足りない。今生で創りだした悪の他に、あなた方には累世にどれだけの悪業があるか考えているか?経典によると、不如法の成分を捨てることは、即ち念頭さえ改め、何事もする前には、先ず上師と仏が説くことを背くかどうかをよく考えることが必要であり、背くならば不如法である。
經典では、「このように実修することに対して、先ず業、因、果の存在の実相を理解し、もしくは業、因、果の存在の真実状況を理解しなければならない。皆が少しでも理解できるようにするために、以下この例えとして、橘を植えて橘を得るというような真實不虚の因果教授を開示する。」と記載されている。
あなた方は、何かあれば、またリンチェンドルジェ・リンポチェの前で懺悔すれば良い、どうせリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲があるからと思ってはいけない。あなたがしたのが不如法なら、累積した功徳は福徳に転じ、あなたは今生で使えないので、自然と再び輪廻する。仏を学ぶのは何もできないのではないが、真に仏を学ぶ人は、あなた方とは異なり、如何なる事もすべて業、因、果を前提にして物事を考え、皆のように自分の損得を前提としない。因果はあなた方が考えるほど複雑ではなく、あなた方が考えるほど簡単でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を熟知しているので、如何なることでもすべて業、因、果を以って考え、話をする。リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる事をするのもはっきりと考えてから行い、多くを考える。そのため如何なる衆生も傷つけない。
今でもリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られることを恐れる弟子がいる。それは最も悪であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、表向きは叱っているように見えるだろうが、それはすべてあなた方のためである。実修の人は、業、因、果を理解しなければならず、逃げ出してはならない。例え見たところ相手を叱っているようでも出発点は相手のためである。あなた方はあなた方の損得、利益を出発点にしており、満ち満ちた貪嗔痴の念頭によって自己の欲望を満足させている。だから、多くの時、あなた方は自己の利益のために、後の報いを考えず、ただ行動してから考えようと思う。或る弟子は夫のために身代わりになり、夫は違法行為をする。彼女は知っていながら止めず、違法でもなにもないと考える。先ずやってみて何か起こったら、それから考える。仏を学ぶ人は、違法行為をしても良いのだろうか?これも業、因、果を信じていないからである。如何なることも行動してから考えることはしていけない。射幸心を期待してはいけない。やってみても何も起こらないかもしれないと考えてはいけない。何かをすれば必ず果があるのだ。
一件の善で一件の悪を相殺すると考えてはいけない。あなた方は通常、一件の善を行い、五件の悪を行っている。しかし、悪のパワーは大きく、10件の善をしても一件の悪の果を押さえ込めず、悪の因を止められず、更に多くの善を行わないと効果がない。更には今生で行った悪の他に、累世に行った悪業はどれだけか考えてみただろうか?あなた方は、自分は悪を行っていないと考えているが、如何なることも悪である。巷では家族に迴向を説き、家族が自分と共に菜食して仏教を学ばせることが流行っている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教を学び始めてから、一度も母親や子供に自分に着いて菜食するように要求したことがない。なぜなら、自分の福報が足りないのを知っているので、もしも福報が足りたなら、菜食の子供を生むことができ、こんなにも苦労して彼を変える必要がないと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェが最も認めることがないのは、自分が仏を学ぶのに、家族が菜食にしないを関係ないと考え、大悲咒迴向を家族に唱えると彼らを変えることができるということである。真言は、悪を止め善を行い、衆生に利益する。もしも大悲咒が人を呪うのに用いるのなら、人に聞かせるだろうが、それは外道に変化する。
経典では「既に一切事物の因果法則を知っているので、我々は自分に流れ入る輪廻の因と果を断って取り除かなければならない他に、地道に一つ一つ実修しなければならず、それで自己の涅槃の因と果を証明できる。このような状況が真実不虚であり、これが橘を植えて橘を得るという道理と同じである!」と記載されている。
道理は非常に簡単であるが、やり遂げるのは簡単ではない。因果は真實不虚であり、何に向き合うかにかかわらず、あなたの話が口から出る前に、行動を行う前に、仔細に確認し、業、因、果についてまじめに考え、自分の因果業報を分析し、その原因を探し出し、あなたはどのように言うべきかを考え、このようにしたなら衆生を傷つけないか?を考えるべきである。なぜ過去世の果報が今生で成熟するのかは、つまり多くの悪の助縁があるからである。ただこのように考えるだけで、業を作る機会が少しずつ減ってくる。このように真面目に実修することで、自分で涅槃の因果を証明することができる。
仏経の記載に基づき、殺生する人は必ず多病であり、短命であり、死んで地獄へ落ちる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、当時皮膚癌になった時、医師に診せず、仏菩薩を求めなかった。それは仏菩薩を信じないのではなく、皮膚癌は自己の果報の現れであることを受け止めたからである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に海鮮を食べるのが好きだった。海鮮は生きていないのは美味しくない。だから、普通海鮮を指すのは、店にあれこれと殺すように言った。そのため多くの衆生を傷つけ、非常に重い殺業を作った。リンチェンドルジェ・リンポチェは自己に皮膚癌を見つけた時、非常に嬉しかった。なぜなら、自分が今生に於いて借りを返すことができることがわかったからだ。皆は癌に罹ると自分はひどい目にあったと思うが、自分にどのような間違いがあったのかを冷静に落ち着いて考えない。仏を学ぶ人は、自分のためにすることではなくても、できるだけ自分の行動責任範囲に於いて良い行いをすべきであり、それが即ち、業、因、果を信じることである。一昨日、往生した皈依弟子は、自分は嘗て何も私腹を肥やすことはしていないと考えていたが、それは業、因、果を信じていない。
現在、あなた方は口で因果を信じると言うが、あなた方の利益と衝突した場合には仏法はすっかりと忘れ去られてしまう。昨日、一人の結婚を予定した女弟子が婚約者を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは一目見て何かあると思ったが、少し尋ねただけで彼女の婚約者が菜食を望まないのに、口では結婚式では菜食の宴会にすると言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示した。時に、イスラム教徒に敬服する。なぜ今でもイスラム教は益々団結するのか?イスラム教徒が結婚する場合、伴侶は必ずイスラム教徒でなければならない。あなた方は仏教徒であり、仏法に多くの助けを受けている。それなのに、菜食ではなく、仏教を学ばない人と結婚しようとする。少し前に一人の弟子にこんな事があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にあなた方に開示したはずだ。もしも菜食でない人が相手であるならば、あなた方は彼等をリンチェンドルジェ・リンポチェに会わせなくてもよいと。ところが今、またやってきた。あなた方は簡単に考えてはいけない。あなた方は女性だから、結婚したら少しずつ相手を変えていけ、夫は自分の言うことを聞くようになると考える。昨日、謁見に来た時、リンチェンドルジェ・リンポチェに口答えをしていた。それが、将来あなたの話を聞くようになると思うか?結婚後、あなたがゆっくりと彼を変えていくのではなく、彼がゆっくりとやって来るのである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、結婚したことがある。だから、二人の生活習慣が異なると最後には必ず離婚する。これは絶対である。しかし、あなた方は聞く耳を持たず、やっぱりそのような相手を選び、リンチェンドルジェ・リンポチェに会わせた。自分は相手に菜食の宴会を同意させる方法があると思っている。招待状は既に送っているのだ。それなのに、リンチェンドルジェ・リンポチェに裏書させる。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼等を永遠に離婚させないように加持できると思っている。いつもあなた方に人生の無常を開示しているのに、どうして永遠に離れないことが可能なのか?永遠などないのだ!人生には8種の苦があり、そのうちのひとつは、愛別離である。
多くの女性はリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやってきて、自身とその男性はどういう結果となるかを尋ねたがる。結果はいつも同じであり、生離死別である。あなた方はやっと自分と結婚したい人を見つけたのだから、相手が菜食ではなくても、仏を学ばなくても、先ず結婚してから考えようと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に結婚するなと言ってはいない。あなた方は誤解しないでほしい。あなた方が結婚するかどうかはプライベートなことであり、仏教と関係がない。招待状は発送したのだから、二人は恩愛で一生を終える必要がある。相手は喜んでいるのだから相手に菜食や仏を学ぶことを要求しなくてもよい。ただ恩愛と共に最後を迎えるだけならば、あなたの一生で生死解脱については助けがないのではないか?
これからは、女弟子もしくは男弟子にかかわらず、菜食をしないで、仏を学ばない相手であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェのところへ連れてこないでほしい。連れてきたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはきっと詰ることだろう。その時、両家や不愉快になり、仏を誹謗するだろうし、あなたにあなたの上師はひどい人だ、そんな人からまだ学ぶのか?と言うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェも、あなた方夫婦の感情を離間させないように、もう何も言わない。現代人の心は、益々複雑になっていき、皆は上師を利用する。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが益々痩せていく。あの女弟子は、自分の恋人をリンチェンドルジェ・リンポチェのところへ連れてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼が菜食しないことを詰ってほしいと言う。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェに永遠に離婚しないように加持することを希望した。このような態度こそ、リンチェンドルジェ・リンポチェを利用している。彼等は二人が楽しい時にはリンチェンドルジェ・リンポチェの事を考えず、今はリンチェンドルジェ・リンポチェを悪者にさせようとする。
リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に結婚するな、交際するなと言っていない。決して誤解しないでほしい。それらのことはあなた方自身の因縁である。けれども結婚はあなたのものと考えないでほしい。結婚は家庭が永遠に変化しないことを示すものではない。仏経の中には妻としてどうするか、夫としてどのようなことをするか等々教えていて、説く範囲は非常に広い。本日、リンチェンドルジェ・リンポチェは男性として、会場の男性衆に言う。結婚すると責任が発生するし、責任を果たさないのは間違っているし、妻を娶れば妻子に対して責任を果たさなければならない。何を負うのか?妻を殴ることではなく、彼女に自分の言うことを聞かせることではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは女性を殴る男が最も嫌いである。この種の行為は、仏経に於ける弱いものいじめであり、果報は地獄に堕ちる。
いわゆる夫が妻に責任を負うのは、彼女のすべての生計をあなたが負わなければならないことを指し、もう一人の生活すべてを世話しなければならない。仏経に於いて、嫁は義父母を尊重し、義父母を自分の父母と同じく対さなければならず、義父母、子女、父母にどのようにするかを説いている。仏経の中で説いているのは、夫は宝石等の贈物を買って妻に送らなければならないという。リンチェンドルジェ・リンポチェがこのように言うのは自分が宝石の商売をしているからではなく、あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェから宝石を買うように言っているのでもない。仏経ではどのレベルの宝石を買うようにと言ってないので、あなた方は安いものを買えば良い。例え、あなたがたった数百元のものを買ったとしても、あなたの口利きがうまいのなら、相手も喜ぶことだろう。結婚した後、姑と敵対する女性たちがいたりする。これは夫を自分のものと考え、夫を独占しようとする。この種の方法はいけないことである。あなたは夫を親不孝にして彼を独占する。そして自分は嫁として姑に孝行しない。これはたぶん幸せに死ねない。
もしもあなたが菜食でありながら、一人の菜食でない恋人に出会うとは何を表しているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の出家弟子に説明させた。出家弟子は、もしも、あなたが菜食で仏を学んでいるが、菜食でない、仏教を学ばない人に出会ったなら、それは冤親債主であり、あなたに借りを返させに来たのだと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは先ほど提示した女弟子の考えに同意した。彼女は、長年あれこれ探し求め、そして最後に菜食しない、仏を学ばない結婚相手を探しだした。もしも、良い因ならば、自然に何でも言うことを聞く男性に出会っただろうに、菜食しない仏を学ばない相手に出会った。それは彼女のこの仏を学んだ数年は行悪であることを表している。因縁は複雑に交錯し、或る人は前世の借りを今生で返していると言うが、その実今生の人で返すとは言っていない。あなたは今生で仏を学ぶことを目標にすることがはっきりしている。あなたがもしもよく修めたなら、身内も共によくなる。彼に借りがあるなら今生の人で借りを返すとは言っておらず、もしもあなたの今生に助けがないなら、果報は成熟できない。
人は愚かであり、業、因、果を信じない。経典では、業、因、果の存在する真実の状況を理解しなければならないと記載されていて、この部分について、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に何度も開示している。簡単に言うと、瓜を植えたら瓜になり、豆を植えたら豆になるということである。善行は善果を得て、悪行は悪果を得る。瓜を植えて豆は得られないし、豆を植えて瓜は得られない。皆は悪が多く善が少ない。自分では遂に結婚を承諾する相手に出会うことができたと思っているが、それが冤親債主であればあるほど、あなたが好きな人はあなたを一層好きにさせ、この方式に拠って借りを返させるということを知らない。
経典の中で「例えとして橘を植えれば橘を得るというような真実不虚の因果の教えは、合わせて四個の方面の内容がある。教えの一つは、過去の因果業報を仔細に審議及び分析することによって、自己の因果業報に定解を生み出す。」と記載されている。
定解は肯定の見解を指す。あなた方はきっと、自分の行為を仔細に観察し、自分が物心ついてからして来た業、因、果についてじっくり見るだろう。仏法は非常に多くのことを説いているが、もしも、それぞれの項目について、すべてを仔細に話せば、非常に膨大な時間が必要になる。だから、釈迦牟尼仏は、あなた方にただ大きなテーマを話し、細かな所は言わない。あなた方は大きなテーマに沿って行うが、途中の細かなことは修行によって体得する。修めれば自然にわかるものなのである。これらの大きなテーマのうちの一つは、上師の話を聞き、それに基づいて行えばよい。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行の過程はこのようであり、歴代の多くの大修行者の修行過程もまた同じである。この種の修行方式は比較的速いが、上師に依る教えが必要であり、さもないと危険があり、容易に路を踏み外す。
人世間のすべては業、因、果である。あなたがもう決して如何なる悪を行わなくても如何なる悪の因を創りださなくても、その前の悪業はいつの日か返すことができる。新しい悪因を作らない時、新しい悪果は現れず、すべての借りを返した後、自然と輪廻しなくなる。悪行、善行に関わらず、あなたは輪廻する。それならばあなたは言う。それならば私は何ももしなければ輪廻もできないだろう。しかし、そのような考えは正確ではない。今生行った悪因は善果で止めても、得るのは福とは限らず、悪いとも限らない。すべては因果である。因果は真実不虚であり、何に面と向かうに関わらず、あなたが何を言うかの前や、行動する前には細かに調べなければならず、業、因、果を細かに調べたりよく考えたりしなければならず、自分の過去の因果業報を分析し、その原因を探し出し、あなたはどのように言うか、するか、衆生を傷つけないかどうかをよく考えなければならない。なぜ過去世の果報が今生で成熟するのか?それは多くの悪の助縁があるからである。常にこのように考えていれば、造業の機会は少しずつ少なくなる。
皆は因果業報について定解を生み、真から因果を深く信じる人は何度も考えて行動するので、今生では再び間違いを犯さない。あなた方は帰宅後、リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の開示をよく考え仏法で自分の生活を省みる必要がある。もしも、今生で常に借りを返していれば、再び輪廻はしない。人の欲望は消えにくい。もしも、因果法則を100%受け入れなければ、前世と前前世の悪は、今生の悪が加わった果報となり、それはあなた方が法会に参加したという僅かな善では相殺できないほどとなり、もしも、あなた方が経典中の実修方式ができないのなら、上師に対し、完全に投降し供養し、身、口、意を含んで供養しなければならない。
現在、道場ではひとつの現象がある。リンチェンドルジェ・リンポチェが何も言わなければあなた方は何もしない。リンチェンドルジェ・リンポチェが言っても、あなた方はしない。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェの会社に出勤する弟子はこのようで、また理事長もこのようであり、どちらも責任を取りたがらない。あなた方も同じようであり、人があなたに尋ねるとあなたはどのようにするかをはっきりと知っていて、することもできるのだが、相手に知らせないし、助けない。人が間違いをすると、それは彼が犯した間違いだと言う。人が正しい事をすると、自分の手柄にして、これはすべて因果である。あなたは人にそのようにすれば、あなたが大事な瞬間になった時、助けを得ることができない。
続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者を引き連れて、アキ護法と迴向儀軌を修め、並びに修法が円満に終了した後、引き続き大衆に珍貴な仏法を開示して与えた。
来週の日曜日、阿弥陀仏無遮大超度法会を行う。この9年間、寶吉祥仏法センターは毎年阿弥陀仏無遮大超度法会を催してきたが、元々去年、リンチェンドルジェ・リンポチェはもうリタイアしようと思っていた。しかし尊勝なる直貢チェツァン法王が同意しなかったので、今年は引き続きこの大法会を催した。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に歳もとっているし、将来後何年間、このように大きな大法会を行うことができるも分からない。このような大法会を主催することができるのは、あなた方が思うようにただ参列者がいるならば十分だけではない。。その間には多くの助縁が必要で、財力もいるし、また多くの人々の助けがいるので、成功してはじめる。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の二日前に、閉関して阿弥陀仏を修める。今週は、皆は疲れすぎたり風邪を引いたりしないように、法会の当日には様々なことがある。もしも、あなたがこのように何年も続く大法会に親族友人を誘って参加させていたり、もしくは自分がボランティアを担当したりしているのなら、それは多くの功徳福報であり、この種の心構えもは法執であり、依然として自分のためである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、この9年間、大法会を催したが、それは寶吉祥仏法センターのためではなく、また自分の名誉のためでもなく、また自分の利益のためでもない。だからこそ、どのように難しいでもやり遂げることができた。リンチェンドルジェ・リンポチェも歳を取り、これから、何回催すことができるか分からない。もしも、自分の名誉と利益のためであれば、例えやり遂げでも、同じくこんなにも多くの人が参加しても、皆に対してこんなにも多くの利益はない。9年間、多くの人が参加してきたが、相対的に聞いてもしくは知っている人はそれほど多くない。何故ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは、従来に寶吉祥仏法センターのためにデレビに出たこともないし、インタビューを受けたこともないし、或は、主動的にメディアを誘ったこともない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、メディアを誘ったことがないし、が、拒絶もしていない。彼等は来るならばくれば良い。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェの性格と関係がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ずっと自分の福報と功德のために衆生を利益すると考えているからであり、あなたの福報が足りるなら、自然に有名になるので、人気のために取り入ることはしない。これも直貢チェツァン法王の行事方式を学習したものである。直貢チェツァン法王は、一生を非常に苦労してきた。教派及び多くの衆生に法の利益を与え、元からメディアとの往来もしくは政治的な接触を好んでいない。リンチェンドルジェ・リンポチェが法会を催すこともこれと同じである。
大物は法会に参加したいなら、それも良い。プライベートで参加すれば、何も問題がない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りて、これらの人物と挨拶を交わし、彼等に線香を持たせて、彼等を送った後に再び法座に戻って修法することを望むならば、それは不可能である。リンチェンドルジェ・リンポチェがこのようにしたら、数多くの衆生に対して済まない。大法会には無数の衆生が助けを待っていて、皆は台湾という土地で生活している。いくつかの道場に同じような法会を開催すれば、世界全体、地球全体に大きな助けがある。この阿弥陀仏無遮大超度法会は皆に善を助縁を累積して阿弥陀仏淨土に行く因を植える事を助ける。主法者の心は広く、自分の名声と利益のためではない。あなた方は、法会は人が参加することが要ると思ってはいけい。実は、皆は法会に参加することが要って、あなた方は親戚友人にその点を理解させなければならない。
リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと因縁を信じている。当年、祖師ジッテン・サムゴンが生まれた時18萬の出家弟子が随った。これらの人はどのように来たのか?因縁があり、福報があるので、自然と出現したのである。当時のチベットの環境から考えて、広く知らせることは困難である。昔はiphone、ipadという便利な連絡方法がないで、来られるのはすべて衆生の因縁福報であり、主法者と衆生の間に縁があるかどうかによる。これは、行者の過去世と関係があり、当然重要なのは、行者の決心である。ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の再来であり、龍樹菩薩は当年に多くの衆生と縁を結んでいた。龍樹菩薩はある世に維摩詰居士であり、多くの衆生と縁を結ばれていた。だから自然とこんなにも多くの人が集まったのである。行者に決心さえあれば、自然にやり遂げることができる。なぜなら、諸仏菩薩はやり遂げるを助けてくるわけである。
修行人は、自分の命と心力の限りを尽くして衆生を助ける。これは修行人であれば必ずしなければならないことであり、それを衆生が受け入れるかどうか、いくらかの助けができるかどうか、事情をいくらか変えることができるかどうか、それも衆生の心と因縁福報に関係がある。どの程度をやり遂げるか、或は執着する必要はないし、ただ、努力し、できるだけずっと行う。衆生を助けることは、自己成就を助ける。けれども、どのレベルまで助かるかに執着する必要はない。なぜなら、やはり多くの衆生は言うことをきかないわけである。《地藏經》に記載されているように、地球上の人類は難しく調伏する。だから、なぜ仏菩薩は不生不滅の状態へ入るのでしょうか?それは即ち、すべての衆生が言うことをよく聞くまでには、長い長い時間が必要になり、其の故に、仏は永遠の法身を証して、生滅がないで、すべての衆生は言うことを聞いて輪廻の苦海を解脱できるまでに待つためである。あなた方はそんなに長い時間にかかると言う。実は、時間も人間から定めたものである。密法を修めた行者は時間は偽であり、我々の心が創りだしたことを知っている。
法会は円満に終了し、参列者は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが苦労を厭わない教授して、無数の有情を利益したことに感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りることを起立して見送った。
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2014 年 08 月 26 日 更新