尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年6月23日

法会の始まる前に、ある女弟子は、分かち合いの機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに心からの感謝をした。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがどの様に仏法の教えによって孫と娘に加持を与えて救ってくださったか、並びに、苦しみから救って戴いたことで一生が変わったことを話し、同時に自分の犯した過ちについて懺悔した。

彼女は1999年10月に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、まもなく14年になる。十数年来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週、苦労をいとわず弟子達を教え導き続けている。今まで彼女は、進歩のない弟子であった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの無上の恩徳を受けていたが、ほんの僅かの恩返しもしておらず、慙愧の念にかられていた。

彼女はまず最近のでき事を語った。それは彼女の娘に起きたことだった。娘は16歲、妊娠していた。母親である彼女は当時自分が16歲であった時に、父親に隠れて前夫と禁断の木の実を食べて邪淫戒を破り、その後3回中絶をし、殺人の罪を犯したことを懺悔した。これにより、自分の身体はとても弱くなり、家族が不仲となり、最後には離婚で場を閉じた。彼女はこれらは果報だと思っていたが、果報がまだ後ろにあったことを全く知らなかった!片親であり子供が傍にいなかったので、しつけが行き届かず、娘は彼女と同じ16歳で彼との子を妊娠した。その事を知ったばかりの時、彼女は非常に苦しむと共に、後ろめたさを感じ心配で不安に怯えていた。彼女の娘はもっと怖がっていて、子供をおろすことに母親が同意し、この件を抹殺することを望んでいた。周囲のほとんどの人が(道場の兄弟子以外)彼女と娘に、子供を殺して責任を負わないようにと勧めていた。だが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様に教えていなかった!「依教奉行(教えに基づいて行動する)」の四文字が彼女の心の中に現れ続けた。十数年来の因果の法則の教えが作用を起こし、彼女は理解した。子供を殺したからと言って、事実を抹殺することは絶対にできなかった。彼女と娘には一つの殺人罪が追加され、更に多くの悪果を得るだけだった。

彼女は一貫して娘に中絶させなかった。前夫及び相手の親と、どうしたらよいかを相談した。おかしな事に、彼女が「依教奉行(教えに基づいて行動する)」を決意すると、彼女たちに中絶を勧めていた人達の声もなぜか徐々に少なくなっていった。彼女の前夫も意外なことに、娘がこの事を簡単に抹殺したら、娘は下賎な娘となり肉体でお金を稼ぐ生活に陥るかもしれないと考え、子供を生むことに賛成した。相手の両親も意外なことに、彼らの息子を告訴しないのであれば、全て女性側の決定を尊重し、喜んで一緒にこの子のために責任を負うと言ってくれた。これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳の加持であることを理解した!上師の教えに対して揺るぎない信心を持つなら、加持の力は自然に出現する。

彼女の娘は信心がなく、内在と外在のプレッシャーに耐え切れず、死んで解決しようと自殺を考え始めていた。初めての妊娠での不快感、加えて他人に知られる事を恐れ、また、将来を想像できない恐ろしさを感じ、娘はひたすら自殺を望んでいた。彼女は自分が言う事を聞かない弟子であったことを懺悔した。通常、家族に上師の功徳を讃えることが少なかったため、娘は因果、輪廻に対して全く理解できず、心に悪念を起こした。彼女は娘を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めるしかなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した後、娘の心はついに落ち着いた。娘の身体には徐々に変化が現れ、彼女は学校の先生に報告した。学校側の全面的な協力が得られ、娘は支障なく学業を続け、その後休学をして出産に臨むことができた。全く外界の圧力なく、子供は生まれた。子供は出生の一週間前の検査ではたったの1900gであったが、一週間後の出産時は2500gになっていた。加持がなければこの様な事は起きなかっただろう。出生後、娘は急産であったため血が止まらず、体温が急速に下降し震えが止まらなかった。最後にはやはり尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの甘露丸によって娘は救われた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳に心から感謝した!

彼女は道場の兄弟子達が菜食の胎児を生み、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに名前を授けてもらうのを羨ましがっていた。そこで、子供が生まれると、彼女はすぐに謁見を求めた。続けて五週間、四回申し込みをし、三回行った後、名前を求めることができた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。これらの過程はとても長く見えるが、その中の変化は全て加持であった!それは、彼女と娘は子供の将来について全く何も考えていなかった。まず、子供の姓はどうしたらよいか?彼女の姓と同じでよいのか?彼女が育てるのか?または母親の姓にするのか?または育てられないので、養子に出すべきか?彼女は全く考えがなかった。彼女はもともと、この事を通して娘と彼の恋愛感情は終わると思っていた。思いも寄らぬ事に、彼と彼の家族は責任を負うことを非常に希望してくれた。相手の母親は毎日、菜食を持ってきて娘の一月の産褥期間を手伝ってくれ、その他、赤ちゃんを御風呂に入れたり、洋服を洗ってくれたり、最後には彼女の洋服や台所の物まで洗ってくれた。相手の男の子は真面目にアルバイトをしてお金を稼いでくれた。だから、名前のもらえなかった一月余りの間、彼女の娘は結婚することを決めていた。この事件に対して世間の基準に合った結果が与えられる事は、この子供にも正当な身分が与えられる事になる。このための決意であった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、子供にとても素晴らしい名前を賜られた。

彼女は同時に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが真の偉大な修行者であることを分かち合った。リンポチェの守礼は最も円満である。仏法を信じない相手の男の子が彼女に聞いた。「なぜ子供の命名の時に、両親が必ず行かなければならないのか?」一人の子供の命名は彼の一生に関わる事だ。こんな重要な事は当然、父親、母親、その他の家族でさえもみな出席しなければならない!出勤のために休みが取れないので、男の子が頭を痛めて彼女に聞いた時、彼女は男の子に言った。「あなたが行かないなら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはどうやって、あなたの子供に命名するの?」

子供は名前と加持を授かった後、彼らは子供のために戸籍を作った。元々、私生児であった子供は、戸籍担当者によって、先に結婚届を出してから出生届を出すようアドバイスされた。子供はこれで、正々堂々と、父も母もいることとなった。しかも、この手続きをする前に、男性側は彼女が出した要求を承認した。それは、彼女の娘は嫁に行ってからも学業を終了させることと、娘と息子は続けて菜食することだった。彼らは同意しただけでなく、男の子の母親は菜食の作り方を研究し始め、彼ら二人を健康的に太らせることを約束した。この様な円満な結果と、最近あった一つのニュースを比較してみた。それは、あるお母さんは、16歲の娘が妊娠したことに諦めきれず、自殺してしまったのだった。同じ事が彼女の身に起こったが、悪い事が転じて良き事となった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる長期間に渡る仏法の教えと大功徳による福徳の加持、庇護がなかったなら、どうやって実行することができたであろう?

彼女は皈依した時の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法話をまだ覚えている。皈依の長所の一つは、自分の心及び仏法を学ぶ際の何れにも拠り所ができる。この長かった十数年来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教え及び加持に頼っていたのでなければ、彼女のこの小さな命もとっくになくなっていただろう。当時彼女は一人っ子の前夫と一緒にビジネスをし、失敗し、破産した。毎月数十万元の債務を返済しなければならなかった。夫は現実に向き合うことができずに家を出て、外に女性をつくった。重すぎる生活のストレスと夫婦関係のもつれから、彼女は中度の憂鬱病になった。毎日、抗うつ剤と睡眠薬を飲み、ややもすると自殺を考え、生きているより死んだ方がましだと思う4年を乗り切った。

彼女は寶吉祥茶芸館で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、心から上師にお願いした。「私は自分をとても苦しい人だと思います。お経には『苦しみを離れる法門』があると説かれるのを見ました。どうかお願いです。私に教えていただけないでしょうか?」その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く答えられた。「ただあなたが100%私の話を聞くなら、教えてあげよう。」その後、それは実は、自分に「依教奉行(教えに基づいて行動する)」をするよう言い付けたのだと理解した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこう説かれたことがある。「人の病は実のところ、心から生まれたのだ。釈尊が私たちに教えた仏法は、本当に私たちの心を治し、私たちの全ての病を治す方法なのだ。だから、我々は釈迦牟尼仏を「医王」と呼ぶ。」尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは休むことなく仏法を用いて教えられ、彼女の我が侭な心を転じさせた。徐々に他人の苦しみと自分の過ちを見ることができるようになり、彼女の憂鬱病は二度と起きなくなった。十数年来、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下で学問も才能もない彼女は失業せずに、債務も少しずつ順調に返済していった。彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはすべての弟子の心の中で既に仏と全く同じ存在であることを深く信じていた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは全ての人の心にある問題を理解され、最も役立つ方便の法門を用いて人の心を直接つついて喚起し、過ちを正して将来の人生を変えてくれる。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこう説かれたことがある。「自分を変える事は全世界で最も困難で、最も大規模なプロジェクトである。」お経にもこう説かれている。地球の人類は「剛愎自用、難調難伏(非常に強情で調伏が難しい)」である。よって、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、一貫して仏法を用いて弟子達を助け、導き続け、弟子達が苦しみから離れられるように心の面から救っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの辛苦は二言三言で言い尽くすことはできない。この様な深い慈悲を弟子の一言で語り尽くすことはできない。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した時、人生で最も低迷、最も耐え忍んだ苦しい時であった。破産、家庭崩壊、心身ともに病に侵される人生の苦境に立たされた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが一路伴い、教え諭し、加持を授けてくれたのでなければ、彼女は自殺でなかったら、貧しく病気になって亡くなっていただろう。彼女の苦しみは御老体の加持のもとでゆっくりと過ぎ去っていったが、それをどうやって上師に恩返しをしたらよいかは真面目に考えていなかった。

2000年、民生東路の旧道場で皈依したばかりの彼女は自ら進んでグループリーダーの兄弟子の助手を買って出て、グループのメンバー達への連絡を手伝った。彼女はこの兄弟子が忙しく、連絡できないでいるのを見て、機会をつかみ手伝った。こうして速やかに団体の中で活躍し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに近づいた。彼女は最初、手伝う際の心のあり様が正しくなかったため、途中で本当に沢山の過ちを犯した。今日はこの場を借りてお話ししますので、兄弟子の皆には教訓をくみ取っていただきたい。

2001年の初め、法会に遅刻したことがある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは罰のため、法会が終わるまで彼女に子供をおぶって立たせた。次の日彼女が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した時、リンポチェはただ淡々とひとこと言った。「おまえは!間違いが多過ぎる!」皈依して今日まででもう14年だ。彼女はほんの少しだけ自分の過ちを発見した。間違った事を言ったり、利己的な心が多すぎて本当に恐ろしいほどだ!

彼女は小さい頃からだらしがなく、時間を守れない人だった。授業にも遅刻し、会社にも遅刻し、約束にも遅刻した。だから、法会に参加する際も遅刻した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれたことがある。「遅刻する人の心のあり様は自分勝手だ。他人を大切に思ったり、尊重したりしない。一分遅刻したら、そこにいる人全てに一分借りたことになる。この様に計算したら、ただ一分遅れただけでなくなる。加えて、上師及び仏菩薩を尊重しない心は、その果報の深刻性を考えてみただけで予測できるだろう。だから、道場の規則は最初から、遅刻したら入場できないことになっている。だが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼ら親子の福徳が足りないことが分ったので、彼らに機会を与え、息子を背負い道場の中で立たせて仏法を聴かせた。立つことにより、彼女と息子の間にある大半の問題が解決された。息子はあの法会の後、彼女を心配させたり、悩ますこともなくなった。

遅刻を懺悔した他、彼女は自分がいい加減な話をする悪い習慣を懺悔した。彼女はあまり深く考えずにいい加減な事を言う習慣が非常に長かった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の教えがなければ、彼女のこのいい加減に話をする悪い習慣は生生世世改めることは難しかったであろう!2007年、彼女はいざこざがあり過ちを犯した。すでに6年余りが経ち、こんなにも長い時間引き延ばしたが、リンポチェに懺悔を求めていない。自分が仏法に対して正しい信念を持っていない上に、最も重要な事は恩義を忘れた心にあった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの心は全ての弟子に対して同じである。異なるのは、我々一人一人の上師に対する心である。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこう説かれたことがある。「上師及び仏菩薩の助けを得た人は問題が解決すると、日々が過ごし易くなって怠け心を起こし、精進しなくなる。彼女は自分はこの様な人だと懺悔した。」

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と教えに感謝した。弟子達の生活の中で、細かい所に力を入れ、弟子の心を調整するだけでなく、弟子を輪迴の苦しみから解き放とうとする。この6年余り、彼女は道場に入ることを許可されなかった。こうして初めてこつこつと真面目に反省することができ、ほんの少しリンポチェの配慮を理解することができた。だから、様々な方法で彼女を導いてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに更に感謝した。彼女は過ちの中から学んだ。彼女が上師の恩徳にお返しできるのは「依教奉行(教えに基づいて行動する)」であった。だが、二度と上師にこの様な簡単な事を煩わせたくなく、うまくできないのも嫌であった。今回の娘の事はやはり尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持及び救いを祈った。彼女は「話を聴く」事の二文字さえもうまくできない事を懺悔した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した!

彼女は誓願した。何時も深く懺悔する。生生世世尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを離れない。一歩一歩更に努力して自分を改める。彼女は皆が、自分を戒めとして自分と同じ間違いを犯さないことを望んだ。真心で、全身全霊で、雑念なく、余すところなく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教えに従ってこそ、彼女と同じように、リンポチェの十数年来の時間、体力、及び加持を浪費させることがない。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御身体のご健康と、教えが永らく伝えられる事、仏法事業の円満を祈願した。

法会が始まった時、出家弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの指示を皆に伝えた。「今日弟子達は法会の中でテープを聴いた後ノートを取ること。リンチェンドルジェ・リンポチェはテストをする。テストに合格しなかった弟子は追い出される。道場でテープを聴いた時にノートを取ってはならない。帰宅後もサイトの内容を見てはならず、テープを聴いてはならない。自分の記憶だけに頼ってノートを取りなさい。」

続いて、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによる2008年11月23日及び2008年11月30日の説法テープを恭しく聴聞した。

直貢噶舉派の祖師ジッテン・サムゴンは嘗てこう説かれたことがある。この法脈は非常に力があり、加持力も非常に大きく非常に清らかである。しかも密教の根本経内の四作法等の儀軌が明瞭である。全てのリンポチェは四つの法──「息、懐、増、誅」を理解しなければならない。「息」は一切の災難を滅すること。「懐」は懐柔であり、あなたの敵が何かあった時に、この法を修して怒り恨みの心を静める。「増」は富、権勢を増やすことだ。教派も運営していくのに富が必要である。コンピュータを買ったり、閉関をするのも富が必要だ。富がなくてどうやって行けるのか?「増」は権勢を増やす事だ。法を伝える時、事故が起きることはない。「誅」は例えば何か仏法に害を及ぼし、密法に害を及ぼすなら、彼を誅殺する。だが、殺した後には済度する能力が必要だ。リンポチェは全て理解し、修し、この四つの法を使えなければならない。

ポワ法について言うなら、もしリンチェンドルジェ・リンポチェがこの四つの法を成就していないなら、衆生を済度する能力はない。第一に、他界者が気に掛けている全ての心を滅すること。第二に、他界者と全ての怨親者の間にある恨みを懐柔する方法でそれを止める。第三に、この他界者の福徳を増やしてポワ法を受けさせる。第四に、彼の障碍となるいかなる衆生をも誅滅する。もし「息、懐、増、誅」がなければ、どうやって修したらよいのか?どうやってこんなに離れた所の骨の上に穴を開けることができるのか?よって、どんな疑いもない。

この他、経論、及び全ての伝法の指導と智慧に通じなければならない。あなた達は有用な人ではないが、少なくとも外へ出れば何とか格好がつく。直貢チェ・ツァン法王は嘗てこう語られた。「リンチェンドルジェ・リンポチェは将軍だ。軍隊を引き連れている。なぜ成し遂げられるのか?それは、上師としての多くの方法を用いて管理し教え導いているからだ。例えば、我々道場の弟子は多くもなければ少なくもない。現在まで混乱してもいない。何か起きたらすぐに解決している。それは全て上師の智慧だ。理事長が仕事をしていると思ってはならない。彼らはただ上師の智慧で行なっているのだ。上師に智慧がなければ、こんなにも多くの人を管理する理事は必ず混乱する。こんなに多くの人を管理することは勿論のこと、あなた達の家を管理するだけでも混乱することだろう。一人の上師は外密の学び方、指導等を全て明確に理解していなければならない。

「鑽石金剛精経」には、いかに入定するか、坐る姿勢、真言を唱えること、清らかさ、供養、作法等が説かれており、これらを上師は全て知らなければならない。前の条件の他、さらに加持、開眼、観想、入定、定心の指導、手印、伝承の姿勢、作法を行なう際に唱える真言、護摩、本尊の供養、本修法の全ての作法等の指導を全て知らなければならない。さらに法を収めることもある。即ち、修法が終了した後、現場に残った一切の物を持ち去らなければならない。あなた達のように行った場所に必ず痕跡を残すのとは異なる。修法は痕跡を残さない。「息、懐、増、誅」を修するとこの場所に対する影響も異なる。特に済度法を修法した場合、全てを持ち去ることができる。残してはいけない。これらの条件を備え成就すると、金剛上師になることができる。

2005年より直貢チェ・ツァン法王は、この弟子をリンポチェと呼ぶようになった。だが、正式に「リンチェンドルジェ・リンポチェ」の法号が与えられたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年に閉関を終えた後であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの求めに応じて、直貢チェ・ツァン法王が授けた。直貢チェ・ツァン法王は、条件が全て揃ったことを認めたのだった。

弟子となる資格は何か?「金剛珠経」には「恭敬上師大信仰,永時楽心作善事;放棄二心無偏計,真学精進寬心人,有学有智上弟子」と説かれ、「化網経」には「歓喜善事入定静,永久恭敬信仰師,毎時恭養本尊仏,如有此能是弟子」と説かれている。この二つを簡単に解釈する。真に上師を完全に恭敬し、大きな信仰をもつ。しかも、心の中では偏った損得計算をしてはならない。心から喜んで一切の善事を行なうことこそが弟子である。いかなる善事をも歓喜心で行ない、常に入定を学び、心を落ち着ける。「永久に上師を恭敬し信仰をもつ」この言葉は非常に重要だ。我々が仏法を学ぶ際に最大の欠点となるのは、よく上師を忘れることだ。自分は既に学び得ている、知っている、理解していると思うと、上師への恭敬や信仰が却って減ってしまう。

あなた達は密教の上師と顕教の上師が異なることを理解しなければならない。それは願力が違うからだ。顕教の上師はあなたの今世を助ける。金剛乗の上師の願力は彼の弟子になったならば、成仏するまでずっとあなたを助ける。これは一生一世の事ではない。生生世世の事である。あなたの上師に対する信仰および恭敬が永久的でないなら、密教で成就する機会も永久的でなくなる。

直貢チェ・ツァン法王はビデオテープで公表している。「以後、仏法事業において我々師と弟子の二人は共に歩いていく。」これはリンチェンドルジェ・リンポチェが仏の境地に至るまで、直貢チェ・ツァン法王との師と弟子の関係は変わることがないことを意味する。リンチェンドルジェ・リンポチェが転生したら、やはり直貢チェ・ツァン法王の弟子となる。あなた達の考えはこうではない。顕教は、我々が菩薩道を行するなら願に乗じて菩薩となると言う。あなた達は今世で菩薩になれるのかをよく考えなさい。あなた達が今世で菩薩なら、当然次も菩薩だ。だが、今世で菩薩になれなかったら、次は何なのか?人に殺される動物だ。だから、上師に対する永久の恭敬、信仰は必要だ。自分が少し学び、少し体得したからと言って、自分はよくできていると思ってはならない。すぐに上師への恭敬、信仰はマイナスになる。また、上師の傍らに仕えていて、上師のことを少し多く知っていると思ったなら、やはり上師への恭敬、信仰はマイナスになる。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師として表に出たばかりの時、直貢チェ・ツァン法王は、信者の弟子達と距離をもつようにと教えられた。人はとても不思議だ。少し神秘感を保つと、相手はあなたがとてもすごいと思い、永久に上師を恭敬し信仰し、常に本尊仏を供養する。本尊仏は即ちあなたの上師である。これこそが弟子だ。

弟子にするかどうかをどうやって判断したらよいのか?「戒来経」には「無慈黒怒心,貪傲無静心;懈怠無細心,人命無心内,他宝心中貪,此等永不収」と説かれている。あなた達はこれらを全て犯す。人があなたに甘露丸をあげると、すぐに貪心が起き、すぐにもらう。これは「他宝心中貪」だ。人の物を自分の物だと思う。人のお金を先に使って後に返す。私は今、人のお金を使うのはビジネスのためで、後で儲かってからまた考える。だから、なぜあなた達に人の物を持って行くなと言うのか?それには全て根拠がある。以前リンチェンドルジェ・リンポチェはこの文を見た事がなかった。今日突然目にしたが、自分の語ったことには全て根拠があることを発見した。「無慈黒怒心」は、衆生に対して僅かな慈悲さえもないことだ。ただ人を利用することだけを知っている。ここに来て仏法を学ぶことさえも人を利用するため、真っ黒な心だ。「怒」の意味は、人があなたの考えを実行できないとすぐに怒ることだ。

「貪傲無静心」とは、丸一日、貪欲を起こし、傲慢で、自分はとてもよく学び、とてもよく修行していると思う。心が落ち着いたことは今までない。「静」は、仏法を聴聞する心、少しも何かを求めようとしない心を意味する。なぜそそっかしいのか?それは、怠け、ものぐさだからだ。もしかしたら弁解する者もいるかもしれない。彼は一日に十数時間も仕事をしているのに、怠けているというのか?上師の教えられる仏法を仕事や生活に用いていないなら全て怠けだ。心が細かくない人はどうやったら諸々の仏菩薩の慈悲を体得できるのか?衆生の苦しみを体得できるのか?さらに慈悲の修習は?

なぜ直貢チェ・ツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェの心が非常に繊細で、弟子となる条件を具えていると言われたのか?なぜ理事長は一日中、リンチェンドルジェ・リンポチェのしている事を言えないのか?軽率に彼個人の観点から推測する。繊細な心で上師のことを注意しないなら弟子にはなれない。心が繊細でない人は、一日中、自己の欲望によって物事を行なう。仏法の本当の意味をどうやって知ることができるのか?だから、上師は無駄に説法をし、無駄に教える!あなた達は一日中軽率に日を送っているのに、自分はよく学んでいると思っている。欲望によって学んでいるだけだ。

「人命無心内」は、人の命や苦しみを自分の心の中に入れて世話をすることがないという意味だ。なぜ今回の大法会でリンチェンドルジェ・リンポチェは泣いたのか?それは、全ての衆生の命を心の中に入れ、衆生の苦しみを心の中に入れたからだ。衆生が苦しんでいるのを見ると、自分も心苦しくなる。自分が相手を助けられないことを心苦しく思う。あなた達にはこの様な考え方があるのか?人は皆、自分が喜び、楽しく、愉快であることを望むが、それに反してさらに自分を苦しめている。リンチェンドルジェ・リンポチェが厳しいのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの行なう事は全て仏の説かれた事に基づく。なぜ皈依しないなら法会に来なくてよいと言うのか?あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くないと言うだろう。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深すぎるからこの様に言うのだ。なぜ永遠に弟子にしないのか?あなたが悪業をつくって金剛地獄に堕ちるのが怖いので弟子にしないのだ。

お経に説かれる事はリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方を認証する。「金剛珠経」には「贓鍋大富也,無資做弟子」と説かれている。「リンチェンドルジェ・リンポチェはお金のために仏法をねじ曲げているか?」と聞くと、列席者は声を揃えて「いません!」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて語った。お経には、お金持ちの人は汚い鍋の中にいるのに等しい。弟子になる資格はないと説かれる。この言い方と顕教の言い方とは異なる。顕教では偉大な功徳主といって、最初のお線香をあげてもらう。ここでは逆だ。富貴な人は必ず傲慢だ。上師に機嫌をとらせようとする。上師が機嫌をとらなければ、彼はいい加減な事をいう。ある大きな建築会社の社長がいた。彼は非常にお金持ちだった。だが、言う事を聞かず一日中肉食していた。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金持ちとは友達だけでよい。何かが起きて助けられるのなら助ける。弟子にはならなくてよい。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力をもってすれば、お金を作るのはとても簡単なことだ。彼は、道場に供養したい、お金持ちを紹介してリンチェンドルジェ・リンポチェのビジネスを助けると言った。誰が心を動かすのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはむしろ苦しむことを望む。この苦しむ弟子達を率いて。

お経にはこう説かれる。「為求無上乗,尽力放此人」。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏果を証するために、この人を自由にすることに力を尽くす。だから、あなた達は供養したからと言って、偉いと思ってはならない。お経に説かれることをリンチェンドルジェ・リンポチェは成就した。この人は長い間リンチェンドルジェ・リンポチェに、彼の家で修法することを願っていた。彼は30、50万の御布施をしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。道場に御布施させず、ビジネスのためにお金持ちを紹介することもさせなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは無上乗を求めるために、衆生を利益するために、これらの仏法を信じないお金持ちとは友人関係を保ち、できる限り彼を自由にした。政治家、金持ちはできる限り自由にする。リンチェンドルジェ・リンポチェは、お金のある彼が、衆生を仏の境地に至らせようとするリンチェンドルジェ・リンポチェの力の障碍となるのを望まない。現在、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが苦しんでいるのを知っている。リンポチェになりたくない。あなたにお金があり、弟子の身分で供養をするなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取る。あなたにお金はあるが、仏法の言う事を聞かず、自分の条件で供養しようとするなら、申し訳ないが…。

リンチェンドルジェ・リンポチェを既に長い間しているが、今日初めて目にしたこの教えをみんなに説く。金剛乗の上師は非常に厳格だ。もしあなた達がこの厳しさを受け入れられないなら、他の御寺に行きなさい。彼らは御布施が不足している。あなた達が彼らに1000元の御布施をしたら彼らの助けとなる。(厳しさを)受け入れられる者は心を安定させて、二度と他へ行ってはならない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェが説くものは全て初めて見るものだ。この二冊のお経を今迄見たことがないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの行なう行為は全てお経の内容に符合する。

長い間皈依している弟子もリンチェンドルジェ・リンポチェによるお経のこの部分の説法を聞いたことはない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは説法する。よく考えなさい。一年がまた過ぎて行く。人生の苦しみは短い。金剛乗の上師に出逢うことは簡単な事ではない。彼があなたの皈依を受け入れるのは本当に得難い事だ。あなた達に密教を伝えるなら更に貴重なことだ。これは何に依るのか?あなた達自身が実行できるかどうかによる。リンチェンドルジェ・リンポチェが実行できたなら、直貢チェ・ツァン法王はどんな法でも伝えるようなものだ。あなたが実行できないなら上師は伝えない。上師が伝えるのを拒んでいるのではない。伝えられないのだ。だから、自分の決意が非常に重要になる。もし同じようにいい加減にやっているなら、以後はクラスを分ける。あなた達顕教を学ぶ者は顕教の僧侶によってお経を唱えさせるだけでよい。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェへの供養は今迄どおり受け取る。ここはリンチェンドルジェ・リンポチェの道場だから、彼らは供養を受けることはできない。本当に密教を学ぶことができる者はリンチェンドルジェ・リンポチェが教える。こんなに多くの体力を使わなくてもよい。一日中ずっと話して聞かせているが、やはり前と同じである。ちょっとしたら問題が起きて、人が甘露丸をくれると受け取る。戻ってきて懺悔しても役に立たない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの既に他界した古い友人が以前ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに質問していた。いい弟子がいるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは「いない」と言った。彼は何度もこの質問をした。彼は死ぬまでずっと質問し続けた。「なぜ、いないのか?」あなた達は全てお経に説かれる金剛乗の弟子がすべき条件を実践していない。本当に難しい。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を追い出そうとしているのではない。あなた達に、実践しなくてはならない条件をはっきり話す。実行できたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは当然ながら法を伝える。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにも多くの事を学んだのは自分のためではない。あなた達のためだ。自分のためであるなら、そんなに多くのことを学ばなくてもよい。一つの法で済度できる。

ある人達が奇妙な事を聞きに来たことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らと話すのを億劫に思った。自分で解決できることは自分で解決しなければならない。リンポチェはあなた達に殊勝な仏法を教える。あなた達の家事を片付けるだけでない。法座の上で、この様な事にいかに向き合ったらよいかを何度も教えているのに、まだ聞きに来る。なぜ聞くのか?考えるのが面倒くさいので、責任を上師に引き渡そうとするからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが語った事をする。もしうまく行かないなら、責任をリンチェンドルジェ・リンポチェになすり付ける。この様な人は本当に悪い。弟子となる資格はない。

もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日結婚しておらず、子供もいないなら、あなた達を叱る資格はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の事で一度も直貢チェ・ツァン法王を煩わしたことはない。直貢チェ・ツァン法王は非常に理解している。だから、なぜ直貢チェ・ツァン法王はこの弟子を可愛がるのか?この弟子はかつて上師に面倒をかけたことがなく、仏法で衆生を利益することだけを知っているからだ。今日はこの話を最後まで言わないことにする。言い終わったら、沢山の弟子が怖くなって離れることになるからだ。

お経に説かれているが、仏菩薩が密法を説く時、恐れる人もいる。何を恐れるのか?自分が実行できないことを恐れるのだ。自分がこうしたらどんな結果があるのかと恐れ、きっぱりとしないことにする。この恐れはどこから来たのか?それは、自分の福徳、決意、懺悔心、出離心の不足から来る。もしこれらの条件が揃ったなら、恐れることはない。昨年、直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを閉関させようとした時、リンチェンドルジェ・リンポチェは恐れなかった。全てのビジネスを構わず、どんな人も構わずに行った。もしあなた達なら、まず3ヶ月のビジネスの日程を組み、全ての日程が整ってから行くだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは日程を何も組まなかった。ただ3ヶ月の給料支給表にサインをし、その他は構わなかった。

あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金持ちを済度しない、お金持ちを助けない等といい加減な事を言ってはならない。お金持ちが金剛乗を学ぶのは比較的難しいだけだ。それは傲慢な心が比較的重いからだ。当然ながら、彼が進んで改めようとするなら可能だ。ある弟子は、心に傲慢さがなかった。彼は最初の頃、上師に対して少し懐疑的であった。それは仕方のないことだ。それは、沢山の出家者が一日中密教を批判するのを聞いていたからだった。だから、外で、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金持ちに会わない、助けない、弟子にしない等といい加減なことを言ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて言った。「私の財源を断ってはいけない。」

リンチェンドルジェ・リンポチェの意味は、もし、このお金持ちの出発点が密教によって彼の欲望を満足させることにあるなら、彼にお金を儲けさせて、リンチェンドルジェ・リンポチェは助けない。もし、このお金持ちが懺悔することを理解し、仏法を学ぼうとしたなら、上師の観察を通して、やはり彼に仏法を学ばせる。仏門が永遠に閉じることはない。永遠に開いている。この段の意味は、最も重要なことは、上師となる者は相手にお金がある、なしに拘らず、仏法をねじ曲げて解釈してはならないということだ。「宝積経」に説かれるように、名聞利養のために媚び諂ったり、仏法を歪曲してはならない。現在台湾ではこの様な状況が非常に深刻だ。お金持ちなら媚び諂い、彼がしたい事を助ける。仏法を彼に売る。これは良くない事だ。お経の最も重要なことは、あなたに弟子となる資格があるかどうかである。あなたにお金があるかどうかではない。お金があってもなくても弟子になれる。しかし、密教の弟子となる条件に符合しなければならない。同時に、これらの上師となる者達にも警告する。相手にお金があるからと言って、いい加減に法を伝えてはならない。彼が条件に符合する場合を除いて。相手にお金があるからと言って、相手のために修法をしてはならない。よく見なさい。もしかしたら、未来世においてリンポチェになる人もいるかもしれない。だから、今世ではあなた達のために基礎固めをする。相手の財や勢力をみて、因果を気にせずに相手を助けてはならない。

リンポチェであるなら、いずれの事もいずれの因果にも背くことはできない。仏と菩薩も同様である。よく見通してから相手を助けなければならない。だから、誤解してはいけない。また、いい加減な事も言ってはならない。例えば、金剛乗の弟子になるには、自分の考えと先入観を捨てなければならない。一人の上師であるなら、弟子にお金があるのを見るのではなく、上師の教えを受け入れられるかどうかを見る必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金持ちを弟子にせず、お金のない者を弟子にするとは言っていない。あなた達に、弟子に対する一人の上師の考え方を話しているのだ。相手にお金がある、勢力があるからと媚び諂ってはならない、仏法をねじ曲げてはならない。例えば、あるお金持ちが懺悔する心を理解し、仏法の教えを受け入れることができるなら、当然弟子とする。あるお金のない者が、例えば非常に傲慢で仏法を受け入れないならば、お金持ちではないけれども彼を弟子とすることはない。ポイントは、この上師には判断する智慧があることにある。あなた達が判断するのではない。言葉の端をとらえて好き勝手な解釈をしてはならない。あなた達の考えによって上師の話を一部分語り、別の一部分を話さず、一日中、偽の聖なる言葉を伝え、いい加減な事を言っている。上師はいかなる衆生も引接する。決定と判断は上師にあり、あなた達にあるのではない。あなた達はいい加減な事を言ってはならない。或いは、あなた達の考えによってねじ曲げられた仏法を人に語ってはならない。人は苦しみがあり難があるから助けを必要とする。当然ながら彼を引き合わせる。上師が相手を弟子にするかどうかは上師が決定する。あなた達が決定するのではない。外で、お金持ちを弟子にしないと言ってはならない。もしそうなら、あなた達お金持ちは何故ここにいるのか?お金のない者も上師は今までどおり弟子にしているのではないか。お金のない者の中にも上師は弟子にしなかった者もいる。相手が話を聞かないのであれば、勿論弟子にしない。自分勝手に解釈してはならない。上師の話を自分たちの考えとしてはならない。あなた達の仕事はしっかり仏法を学ぶことだ。親しい友人に苦難があり疑問があるなら、彼に紹介すればよい。その他はあなた達と関係のない事だ。あなた達は皆、リンチェンドルジェ・リンポチェはある人達に好んで会う、ある人達に会うのを喜ばないと言う。例えば、嫌い、好きをまだ区別しているなら、どうやってリンポチェをしたらよいのか?一つの道場にお金がないなら、どうやって運営したら良いのか?

先週皆に、上師に具えられるべき条件を紹介した。本来このような話は言うべきことではない。何故言うべき事ではないのか?あなたに非常に大きな善根がそなえられ、非常に大きな願力を有するなら、今回来た時に自然に上師に出逢えることをあなたは知るだろう。何故あなた達はずっと、こう言ったりああ言ったりするのか?それは、自分の業障が非常に深いからだ。善根に欠けるからだ。しかも、過去世で菩提願を発こさなかった。だから、諸々の仏菩薩はやはり慈悲深く、再度あなた達に法を説き、あなた達に上師の条件とは何かを教える。ここで強調すべき事であるが、いわゆる「上師」とは一般の「仏法を学ぶ者」ではない。一般にあなた達が見かける「法師(出家者)」でもない。上師はあなたを今世で生死を解脱させるよう教え導く方法を必ず持っている。

お経を唱えれば生死を解脱できると多くの人が思っている。これは間違いない。だが、それにかかる時間は絶対に今世だけではない。自分で毎日家でお経を唱えていたら良いと思っている者もいるが、これでは成し遂げるのは難しい。以前、台中のある在家者がテレビでとても著名な法師を彼の師とし、この在家者は台中で浄土を弘めていた。彼は自らこう言っていた。「師について仏法を学んでいる20数万人の内、本当に浄土へ行けるのは、指で数えられるほどごく僅かだ。」釈迦牟尼仏の時代、沢山の弟子が実証している。直接阿羅漢を証し生死から解脱できたのは、上師を拠り所としたからである。

末法時代、基本的にあなた達が出会ういわゆる法師も修行者も、全て凡夫の領域の人だ。仏陀の説いた凡夫とは、六道の中で輪迴を断ち切っていない衆生である。今、あなたがもし天界に生まれ天人になったとしても、やはり凡夫の果位である。今世で、あなたが徳を具えた上師に出逢う機縁を得るのは非常に難しいことだ。徳は福徳ではない。功徳の意味だ。道徳の意味でもない。まず最初に、道徳、福徳、功徳の三つの事をはっきりさせる必要がある。道徳は人としての一種の、いわゆる倫理道徳の基準だ。人の道徳、倫理の基準は土地によって異なる。各場所の道徳には差異がある。各国家、宗教、種族の道徳基準には必ず異なるものがある。これと仏法の説く功徳には必然的な直接関係はない。いわゆる福徳は必ずしも仏法を学ぶとは限らない。沢山ある他の宗教でも福徳を学ぶことはできる。功徳を説くのは仏法だけだ。功徳とは何か?その名のとおり、非常に一生懸命に努力して、精進した修行によって初めて得ることができる。ある法師はこれを聖徳と解釈した。この徳の字はとても面白い。隣は二人である。どんな意味なのか?徳は一人ではない。衆生のものだ。あなたが衆生のために修してこそ徳となる。いわゆる功は自分のためではない。衆生のためにしてこそ、あなたは得ることができる。功徳があってこそ生死から解脱でき、こうして初めて輪廻の苦海を断ち切ることができる。功徳があって初めて累世の悪業を転じることができる。福徳があっても転じることはできない。福徳があってもあなたに仏法に接触する機会を得させ、あなたに仏法を聴かせ、あなたを上師に逢わせてくれるだけだ。だから、功徳を具えた上師に出逢うことは非常に難しい。チベットや青海のような場所では、一般の民衆がリンポチェに会う機会はない。法会の時に見かけ、ちょっと加持をして頂くだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェと一緒にネパール、青海に行った弟子は皆知っているが、チベット人達は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがリンポチェの果位であることを知った時、皆は飛んで来てリンチェンドルジェ・リンポチェに触れたがった。リンチェンドルジェ・リンポチェに触れられたら、彼らは本当に嬉しいのだ。事実はこの様である。ある弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにより加持を頂いた後、身体の調子がとても良くなった。だが、台湾の道徳に基づき、ある動作をリンチェンドルジェ・リンポチェはせず、することはできない。あなた達は上師はどうしたのだと思われるのを心配するからだ。チベット人は本当に苦労をしている。一人の上師に触れられたら今世で彼を地獄道に堕とさないようにすることができる。とても貴重なことだ。多くの人は明確に理解しておらず、上師をするのは簡単だと思っている。先にずっとあなた達を戒めているとおりであるが、一人の上師に出逢えることの有難さをはっきりと理解しなさい。

だから、先に、なぜ大きな富のある者を弟子にできないのかを説いた。大きな富のある者は非常に傲慢だからだ。上師に媚び諂ってもらいたいと思う。彼は通常、人からおだてられているからだ。財力も勢力もある人が仏法を学ぶのは非常に難しい。この人が心から仏法を学びたいと思ったなら、上師である者は必ず彼を弟子にする。相手にお金があるかないかではない。お金があってもなくても良い。最も重要な事は仏法を学びたいかどうかである。お金持ちにも災難がある。助けなくても良いのか?同じように助ける。助けないとは言わない。だが、仏法の規則に基づかなくてはならない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある人のために修法した。彼は嘗て教派のためになることをしてくれたからだった。その後、彼はこの本尊は凄いことを知り、リンチェンドルジェ・リンポチェに口伝を求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり伝えなかった!リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、皈依したら伝えると言った。皈依しなければ伝えない!多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに要求すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝法し、口訣を伝え、真言を伝えると思っている。基本的にはこうすべきではない。あなたが仏法の方式に基づかないで行ったなら、上師があなたに法を伝えたのだから、上師にも問題が出る。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達にこの事をずっと注意してきた。だから、現在、ある人はテレビで人に真言を伝えている。あの真言を唱えるのは基本的にはすべきでない。なぜすべきでないのか?それは、あなたは真言を唱えるこの人の心がどうであるかを知らないからだ?真言は死んだ。それは音の基準であるだけでなく、真言を唱える人の心に基づいて異なる作用を及ぼし、異なる結果を生む。この人の心が正しくないなら、その真言を用いると自分を害し、人をも害する。だから、真言はいい加減に伝えてはならない。みんなが常に唱える六字大明咒も含まれる。多くの人は自分で唱えられればいいと思っている。この様な考えは正しくない。台湾人は大悲咒を唱えるのが好きだ。実際には法師が自ら伝えたのでなければ、唱えてはならない。

現在の台湾は、中国も中に含むが、沢山の信者を集めるために、仏陀が定めた多くの規則が破られた。信者が来さえすればよいとする。完全に信者に媚び諂っている。日本の現況も同じである。だから、ここで話したが、一人の上師として、もし無上乗を求め、自分が仏の境地に至り衆生を利益したいなら、出来る限りこの人を自由にしなければならない。富貴の人、お金持ちが、もし仏法を学ぶ素質のある人でないなら、彼に巻かれてはならない。道場にお金を必要とするからと言って、お金持ちに御布施を頼み、彼を弟子にしてはならない。だから、なぜ沢山のリンポチェがずっと戻って来なくてはならないのか。それは、借りがあるからだ。衆生に借りがあるから戻って来なければならない。

直貢噶舉派に一人の女性リンポチェがいた。弟子の中にはリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に青海へ行って、この年老いた女性リンポチェに会った者もいる。彼女は直貢噶舉派で唯一の女性リンポチェだった。彼女は既に往生した。計算すると128歲での往生だったはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが初めてこの女性リンポチェに逢った時、彼女は公の場で「あなた(リンチェンドルジェ・リンポチェ)はもう二度と戻って来なくてよい。あなたが戻って来たいと思うなら別だが。」と言った。彼女の傍らにいた御付の者が彼女に尋ねた。「なぜ他のリンポチェは戻って来なければならないのに、このリンポチェは不要なのか?」年老いたリンポチェが言った。「リンチェンドルジェ・リンポチェがしている事は既に円満だ。これは今世と過去世での借りをリンチェンドルジェ・リンポチェが全て返したことになる。戻って来なくてよい。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を利用して自分の欲望を満足させようとしない。仏法を利用していわゆる道場、教派の欲望を満足させることをしないからだ。簡単に言えば、現在多くの教派がお金を必要としていて、皆、多くのお金持ちを捕まえようとしている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこうしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依していない者の御布施を受け取らない。例えば、あるインド人がリンチェンドルジェ・リンポチェに、「彼らは直貢噶舉派に御布施したがっている」と言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「不要だ」と言った。当然、結果がどうなるかを一切顧みずに、受け取ってから考えるという者もいる。

ある青海から来た在家のリンポチェは、ずっと新天珠の会社を支持してきた。その後、前回、直貢チェ・ツァン法王が来られた時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、このリンポチェが沈んでいるのを見た。彼は今、二本の足が歩けなくなった。彼は御寺のために、彼を支持してくれる商売人とのつきあいがあった。だが、この商売人の商売のやり方がどのようであるかを知らなかった。玄人ならこれが天珠でないことを知っているが、彼は天珠だと言った。修行者の立場から言えば、彼は既に破戒していることになる。あなたは本物の天珠でないなら、名前を変えて新天珠だと言ってはならない。彼の新天珠は多くの人から批判された。多くの人が本当に買いに行った。もし一つの物を身に付けたら、修さなくてもよい、全てが良くなる。それなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも修さなくてよい。最初に手を挙げて修行しないのはリンチェンドルジェ・リンポチェなら、引き連れるあなた達も皆修さなくてよい。こんなにも沢山の人が何も考えずに買いに行った。それを身に付ければ運が変わると思ったからだ。尊き直貢チェ・ツァン法王は嘗て一つの天珠を沢山の人の目の前で叩いて粉々にしたことがある。これは本物の古い天珠だった。だから、正しい上師に出逢わなければ、衆生は本当に惨めである。

この人は沢山のお金を稼いだ。彼のコストは本当に安い。瑪瑙に着色をして作り上げたものだった。だから、このリンポチェは自分の御寺を護持するために、彼を護持してくれるお金持ちを見つけた。その結果、このお金持ちは人を騙して商売をしていた。このリンポチェは責任を負うべきかどうか?当然責任を負わなければならない。だから、現在彼の両足は動かなくなったのだ。直貢チェ・ツァン法王が台湾に来られた時、このリンポチェは二人に抱きかかえられて直貢チェ・ツァン法王に謁見した。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを見て悲しくなった。当初彼が初めて台湾に来た時、直貢チェ・ツァン法王は両手でリンチェンドルジェ・リンポチェとそのリンポチェの手を取り、助けが必要な時はこの直貢チェ・ツァン法王の弟子を尋ねなさいと彼に言ったのだった。だが、彼は最初から最後までリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めたことはなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの性格が非常に強硬であるので、彼は恐らく占いをしてみて、リンチェンドルジェ・リンポチェの性格が非常に強硬なので騙せないことを知っていたからだろう。最初から最後までリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めなかった。このリンポチェはあるカンフースターの上師でもあった。このカンフースターも自分は現在仏法を修行していると言っていたが、彼の目をみれば分るが、仏法を学んではいなかった。殺気が非常に重かった。

法本には、定力で富貴に向き合い、しかもよく処理をする上師に出逢えるのは希少だと説かれている。多くの人は仏寺、閉関センターを建てる時は功徳主を探そうとする。この功徳主がしっかり修しているなら別の話だが、もし彼が今世で修行していないのに、あなたがこんなにも沢山のお金を彼からもらったら、来世で戻って来なければならない。だから、さっきも言ったとおり、お金持ちだから罪があるとは思ってはならない。弟子の中にはいい加減な事を好んで言う者がいる。これは、この人を弟子にすることはないという意味だ。このリンポチェが今世で真に生死から解脱したいと思い、無上乗を求めるなら、この方面の処理は非常に標準的なものとなる。あなたにお金があるならあなたと結縁はできる。だが、弟子となるなら、多くの事を考えなければならない。ある女性弟子の夫のように、彼の父親は前任の政府高官であったが、リンチェンドルジェ・リンポチェと話をしたいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはお断りした。もし、病気や死際ならリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めてもよい。もしお喋りなら不要だ。彼はなぜリンチェンドルジェ・リンポチェと話がしたいと言ったのか?それは、ちょっと見てみたいといった気持ちがあり、運を試してみたいと思ったからだった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様な縁を結ぼうとしない。

だから、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも長い間法を説いていても、もめ事が少ないのか?それは、この人達と交じり合わないからだ。あなた達に苦難がありリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助ける。だが、友達になりたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは60数歳の年齢なので、今はただ仏菩薩とだけ友達だ。人はなぜ友達になりたいのか?皆はリンチェンドルジェ・リンポチェを利用したいだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが理解していないとでも言うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは掌に乗せた様に全て明らかである。あなた達は様々な理由を言って来ないが、リンチェンドルジェ・リンポチェも様々な理由を言って来ない事ができる。

法本の中のこの言葉の意味は、あなたが出逢った上師が一人のお金持ちのために仏法をねじ曲げ、媚び諂うことがないなら、この上師には追随してもよいと説かれる。たまに、或いは表面的にあなた達に見せるのではなく、真に着実に実行している事をあなた達に見せる。ある弟子の父親はリンチェンドルジェ・リンポチェを食事に誘ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは断わった。彼の父親はお金持ちであったが、誰かに誘拐されては困るので、ここではこれ以上言わないことにする。リンチェンドルジェ・リンポチェは食事を断わった。あなた達は食事をご馳走するお金があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず行くと思ってはならない。しかも、リンチェンドルジェ・リンポチェは菜食だ。そんなに沢山のお金を使わない。加えてお酒も飲まない。一食は1万台湾元もかからない。このお金のために、どうして相手に大きな情を借りる必要があるのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは行かない。弟子の父親は恐らく、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜこんなにも傲慢なのかと思うことだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に構わず、やはり行かない。現在多くの弘法者がお金持ちに伴って食事をしている。だから、台湾の沢山の弘法者は皆忙しい。だが、人は忙しいが、衆生済度のために忙しいのではない。接待に忙しいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの出家弟子達も以前はそうだった。施主が食事をご馳走してくれる。彼らは恐らく「あなたは本当に慈悲深い」と言うであろう。法師に供養を捧げてから、あなたも食べ物が得られる。結果として誰が食べたのか?法師が食べたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは借りと借りないの道理を理解している。非常にはっきりしている。だから、一人の上師を見るのは彼が凄いかどうかを見るのではない。法師それぞれには必ず彼の法門がある。さもなくば弟子がいる訳がない。それぞれのリンポチェは皆、特に凄い法門を持っている。さもなくば弟子がいる訳がない。しかし、自分にちょっと聞いて見る必要がある。なぜこの上師に従うのか?この上師に従い、ただ自分がお金持ちになることを望むだけなら、結果は通常非常に可哀想な事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に沢山の事を見てきた。或いはある時はあなたが望むようになるかもしれないが、結果は必ず可哀想な事になる。因果で推論するなら、仏法を利用して人を騙す。あなた達はこれを可哀想だと思わないか?ほどんどが仏を誹謗することになる。

だから、なぜあなた達に、外の多くの奇妙な場所に行かないようにと言うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェが特に凄いのではない。一人の上師は正法と邪法を判断する能力を持っている。あなた達が別の場所にやはり行くというなら、あっさりと来なくてもよい。あなた達が別の場所へ行けば、少しでも多くの事を知ることができると思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは真に理解している上師だ。なぜ言わないのだ?あなた達が別の場所へ行って聞いてくるのを待ってる?それからそれを聞いて比較する?この必要はない。一人の上師が仏法を説く場合には、あなた達の受け入れ度に基づく。手順に基づいてあなた達に教える。あなた達にどんな速成クラスがあるかを教えることはない。あなた達にいくら払わせるという事は絶対にない。順序に基づき、あなた達の因縁に基づいて行なう。

何故あちこちへ行くなと言うのか?上師が弟子を支配しようとしているからではない。それは、上師には何が正しく何が邪であるかを判断する能力があるからだ。基本的には世間には正法が非常に少ない。邪法のことは実に釈迦牟尼仏が説かれたことがあるが、末法時代の邪師は、ガンジス川の砂の如く多い。正と邪の区別はどこにあるのか?彼の教えるものにある。あなた達を生死から解脱させる助けとなるのか。またはあなたにどうやってお金儲けをするのかをずっと教えるのか?これは区別すべきだ。多くの者がヨガを習いに行き、瞑想を習っていると思っている。ヨガの中の瞑想部分は修行ではない。仏教でいう禅定とは全く異なるものだ。例えばあなたが外道の禅定を学んだら、仏法の禅定に転換するのは非常に困難だ。ほとんど不可能であろう。なぜ現在あなた達に禅定を教えないのか?それは、習慣になってしまったら改めるのは非常に難しいからだ。自分で家の中で座禅を組むのはとても心地よいと思っている者も多い。これは間違っている。あなたが心地よいと思うことが間違っているのだ!禅定はあなたを心地よくさせるものではない。

前回の話の意味は、上師がお金のために媚び諂い、仏法をねじ曲げるかどうかを見分けなければならないという事だった。リンチェンドルジェ・リンポチェが大法会を開催する時、政治家やお金持ちが上にあがってマンダラ供養を行なうことは全くない。それは全て籤引きだ。だから、この様にあなた達は非常にはっきりしているはずだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが何とかして利益を手に入れたいと思ったなら、実に簡単なことだ!一万人余りの大法会で、誰かに出て来てもらって二言話をさせたなら、彼はどんなにか体面が保たれることだろう!更に、リンチェンドルジェ・リンポチェが媚び諂って、彼は偉大な功徳主だ、法会がどうのこうのと言ったなら、彼は必ず舞い上がってしまうだろう。

世間には慈善団体があり、大金を寄付したなら、その人は特殊な服装を着せられて舞台に上がり額を受け取る。誰かが家に来ると、某師父からいただいた物だ等と紹介する。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは今迄、額を書いたことがない。一つには字がきれいではないので恥をかく。二つにはあなた達を騒がせたくないからだ。少しぐらいの事をして偉そうにしてはいけない。まだ早すぎる!だから、この点が非常に重要である。上師がお金持ちを重視しているかどうか、お金のない者と比べてどうであるかを見分けなければならない。あのお金持ちの弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェから常に怒鳴られている。お金がない弟子をリンチェンドルジェ・リンポチェは少なめに怒鳴る。特に位が高く権力がある者をリンチェンドルジェ・リンポチェはよく痛い目に合わせる。なぜか?それは、この様な人は福徳があり今世でこの地位に昇ることができた。絶対に傲慢だ。自分が思う事は正しいと思っている。当然、仏法を学ぶ時にも自分が学んだ事は正しいと思っていて、上師の話を聞かない。

だから、法本には、上師の行為と上師が弟子を選ぶ際の方法が説かれている。慈悲は自分の一切を犠牲にして衆生を助けることである。慈悲がない人とは、自分の会社に問題があるので、ある事はできない等という人だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法の事と自分のビジネスとが衝突するとは嘗て思ったことがない。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは3ヶ月余りの閉関を行なった時、全てのビジネスを放っておいた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲によるもので、因果を信じていたからだった。リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳が十分であれば、人がいなくても、会社は存続する。福徳が足りないなら、毎日見張っていても人に騙される。もしこの様にしたら仕事を失うと言う者もいる。実のところ、元々あなたはこの仕事を捨てるべきだ。ただあなたは人に返済させるのに頼り、あなたを追い出せないだけだ。仏法を学んだから事業があるのではない。仏法を学んだからあなたの恋愛感情に問題が出たのでもない。これらはいい加減な事だ。

「貪傲無静心」は、彼の心がずっと貪瞋痴に縛られて、未だ嘗て心を静めたことがないことである。自分の家庭、恋愛感情、事業、及び仕事を気にする人達は、心が絶対に静まったことがない。なぜ我々は心を静める必要があるのか?あなたの心が静まらないなら、貪瞋痴が動き続ける。どうやって衆生の苦しみを感じ取ることができるのか?どうやって諸々の仏菩薩と上師のあなたに対する慈悲を体得できるのか?衆生の苦しみ、諸々の仏菩薩と上師の慈悲を感じ取れないなら、心は永遠に波打っていて止まる事がなく、煩悩を断ち切ることはできない。煩悩を断ち切れないなら、生死を断ち切ることは不可能だ。どんなほんの僅かな貪欲でさえも我々は絶対に持ってはならない。

「懈怠無細心」の懈怠は上師の説いた一切の仏法を、唱えることを修さないばかりか、受け入れない、信じないことである。「無細心」は軽率で慎重を欠くという意味だ。あなたが話していることと私は無関係だと思う。なぜいつも間違いを犯すのか?それは、上師がいかなる戒律を定めたかを気にせず、自分とは関係ないと思っている。この様では軽率になる。なぜ直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの心遣いが細やかだと言うのか?貪瞋痴の少ない人は心遣いが細やかだ。なぜ弟子は会社の中で一日中間違いを犯しているのか?彼は自分がこの様にすることが正しく、リンチェンドルジェ・リンポチェを喜ばせられると思っているからだ。この様にしたらリンチェンドルジェ・リンポチェはかれに密法を伝えてくれると思っている。あの日彼は5両の金を御布施した。この様にすれば上師は密法を伝えてくれると思ったからだ。その結果、また間違いを犯した。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに金を彼に返した。なぜ返したのか?会社は彼にお給料を払っているが、彼は一日中間違いを犯している。それは、全く会社のことを眼中に置いていないということだ。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを心の中に置いていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に伝えた法は役に立っているのか?ただリンチェンドルジェ・リンポチェを利用して仏法を学んでいるだけだ!

リンチェンドルジェ・リンポチェは5両の金を彼に返した。現在、市場価格では10万前後だ。これは些細な事だ。あなた達新しく来た人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが300万と家を相手に返したのを見た事がない。これは先ほど言った事の証明となる。裕福な人が話を聞かないなら、彼を弟子にすることはできない。だから、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養を捧げて上師を喜ばせようと思わなくてよい。あなたの過ちを見たら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたの御布施を返却する。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に借りを作りたくない。お金があれば立派だと思ってはならない。

だが、供養を捧げないのも間違いだ。昨日ある弟子達が来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに法名を変えて欲しいと願った。だが、御布施しなかった!あなた達は皈依後に法号変更を願ったら、必ず変えてもらえると思っている。私達は人に何かをお願いする時は必ず小さな贈り物をする。あなた達はまさか今もそれを知らなかったのか?

その日、数人の男性弟子が皈依証を携えて法名をつけてもらいたいとリンチェンドルジェ・リンポチェに願った。彼らは皈依した時にすでに供養を捧げているので、法名をもらう時は不要だと思った。あなたは今日のお昼に御飯を食べるのに、なぜ夜もまた御飯を食べるのか?と試しに聞いた。この弟子はは全く礼を理解していなかった。これは「無細心」である。

「人命無心内」とは、人の性命、人の一生の幸福を自分の心の中に置かないことである。彼は今迄自分の幸福だけを求め、その他の衆生の一生の幸福を求めたことがなかった。今迄どうやって衆生を助けようかと考えたことがなかった。この様な人は弟子にはなれない。この様な人を弟子にしても、顕教の部分の教授だけで密法は絶対に教えない。「他宝心中貪,此等永不収。(彼の宝が心中の貪欲であるなら、これらは永久に弟子としない)」とは、この様な弟子は永遠に弟子とせず、密法を伝授しない。あなたがこの様な上師に出逢ったら、弟子として知っておかなければならない事がある。だから、今週はまた数人減った。語り続けたらまた人が少し減るだろう。

次に、弟子はどんな事をすべきでないか、した後にどのような結果となるのかについて説く。

前述したような資格のある上師に出逢った後は、誠意をもって皈依を求めるべきだ。皆はしっかり聞きなさい。皈依を求めるのだ。あなたが皈依したいなら皈依できるのではない。なぜ皆はリンチェンドルジェ・リンポチェへの皈依を跪いて求めるのか?これは仏様の説かれたことだ。あなたが求めないならこの縁はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依の法会は一般世間で開かれているような、10万、20万の広告費を使うものではない。仏教がこのようなレベルに堕落し、仏法を台無しにしたと言わざるを得ない。皈依するのはあなた達だ。もし今、弘法者が縁に随い衆生を済度することを理解しないのなら、いっそのこと済度するな。「縁に随う」とは、衆生の縁に随う(中国語:随縁)ことであり、いい加減にする(中国語:随便)ことではない。衆生に縁がなかったら、仏さえも済度できない。仏様は、三つの事を実行できないと説かれた。その一つは、無縁の衆生は済度できない。縁とは何か?衆生は過去世で播いた縁があるかどうか。衆生には心があるのか?もしあるなら、縁は成就する。なぜ願い求めなければならないのか?あなたが願い求めると、元々清らかである本性が表に現れる。皈依してこそ役立つ。賑やかさを求め、新聞の広告をみて皈依に参加し、皈依後の利益を貪ろうとする、このような皈依は何かの役に立つのか?絶対に役に立たない。

特に、密法の上師、徳を具えた上師に出逢うのは非常に難しい。だから、真心を込めて皈依を求めるべきだ。真心とは何か?自分に対する全ての欲望に見返りを求めないことだ。自分の身体が良くなるようにと願うことも欲望だ。皈依後に上師にポワ法を修法してもらいたいと願う事も欲望だ。なぜあなたのためにポワ法を修法するのか?それは、あなたが日々を恙無く送りたいと思っているからだ。あなたは何を根拠に日々を恙無く送れるのか?これは真心ではない。真心とは何か?それは、心には大きさがなく、色もなく、如何なる物もなく、汚れがなくきれいで、はっきりしている。あなたが皈依を願う時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを見る。あなたの心が真心のレベルに達していないことを知っているからである。

もし、上師に皈依した後、上師を敬わず、上師を誹謗するなら、十方一切の諸仏を誹謗するのに等しい。なぜこんなにも多くの人が皈依を求めるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを皈依させないのか。それは、彼のこの点を恐れているからである。何を恐れるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に問題が起きるのを恐れている。自分に問題が起きるのを恐れているのではない。上師である者は、衆生を三悪道に堕とす機会を絶対に作らない。この人にこの種の素質がないなら、きっぱりと来るなと言う。それは、彼が真心で皈依できず、欲望で皈依しようとするからだ。仏法は私達に欲望を減らすよう教える。欲望が消滅することさえも教える。あなたの欲望を満足させるものではない。あなたが資格のある上師に真に皈依したとしたら、彼は絶対にあなたを満足させない。上師はあなたを満足させられないのに、あなたが彼に皈依するなら、あなたは失望することになるだろう。失望の余り、あなたは上師に対して不敬を働くかもしれない。このロジックは非常に正確だ。

だから、寶吉祥仏法センターは成立して10年経つが、弟子はやはり800~900人、人数はなぜ多くないのか?それには道理がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの能力なら、もし一般世間のまねをして広告を載せるか、一万4000人余りの大法会の中で皈依の法会を開催したら、どの位の人が皈依をすると思うのか?少なくとも5000~6000人。それは、あなた達は皆、阿弥陀仏と結縁しているもからだ。だから皈依の事を語らない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは大法会の時に信者に皈依をするよう勧めないのかと奇妙に思う者も多いことだろう。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に借りを作るのを恐れているからだ。たとえ今日、リンチェンドルジェ・リンポチェがお金のために、名前のために、大法会で皈依を行なったら、最低3000~5000人が皈依することだろう。それは、人は群らがると盲目的になるからだ。真ん中の数十人が手を挙げたなら、皆はそれに付いて行く。リンチェンドルジェ・リンポチェが数人の弟子に皈依していないふりをさせてその中に潜り込ませる。見てごらん、どの位の人が皈依するか。だが、これをやってはいけない!これは市場開拓ではない。一般市場に学んで市場を開拓しようとするなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らよりもうまくできるだろう。

だから、真心での皈依は非常に重要だ。真心での皈依でないなら、後に、上師を敬わなくなる。それは、上師があなたの欲望を満足させないからだ。上師を敬わない事は上師を誹謗する事に等しい。よく聞きなさい。なぜあなた達に上師を敬うようにと言うのか?第一に、恭敬してこそ福徳が生まれる。恭敬もまた供養である。我々がよく耳にする言葉に「心誠則霊」の一言があるが、これは、心が誠実であれば、力が発揮されるという意味だ。もし誠実でなく、半信半疑、試してみようという心持ちで、自分の考え方によって自分の好むものだけを聞いていると、遅かれ早かれ上師を敬わなくなる。上師を敬わないことは十方一切の諸仏を誹謗するのに等しい。あなたは必ずこう聞くだろう。「上師は凡夫であり仏ではない。なぜ諸々の仏を誹謗することになると言うのか?」それは、上師の語る一切は、諸々の仏の説かれた話を代表するからである。上師を敬わないなら、諸々の仏を敬わないことになるのではないか?原理は同じだ。特に、我々仏法を学ぶ者はあなたと無駄な話をしない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたに冗談を言っても、話の内容は絶対に仏法だ。絶対に、衆生を貪瞋痴の三文字から引き離させることから逸脱しない。もしあなたが上師を敬わないなら、諸々の仏様を誹謗するのに等しい。意味は同じである。

よって、弟子が上師を誹謗する罪業は非常に重い。今世で苦海を解脱できないだけでなく、常に苦しみや困難に出遭う。私が仏法を学んでいるのは生死から解脱するためでなく、おもしろいからで、楽しく学んでいると言う者もいる。だから、後ろに一言を付け加える。「常に苦しみや困難に出遭う」。それは、元々あなたの皈依は福徳から始まったものであるので、皈依後、上師のある行為を見て我慢できずに、上師のどこが間違っている、ここが良くないと、嫌うことになる。こうなると、あなたの皈依の福徳はすぐに消滅してしまう。だから、直貢チェ・ツァン法王は嘗て公の場で説かれたことがある。あなたが見た上師の過ちは、上師の過ちではない。それはあなたの心が間違っているのだ。法座に上ることができる如何なる上師は絶対に責任を負う。何の責任を負うのか?彼は因果を知っている。だから、あなた達は上師の間違いを見たのはあなたの心が間違っているのだ。どこが間違いなのか?それは、あなたが貪瞋痴によって仏法を学んでいるからだ。あなたはあなたの価値観によって修行者を見なければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、一人一人の生活方式は全く異なることを強調する。夫や妻、あなたの子供でさえ、あなたと同じ生活方式をすることはできない。子供のいる人ははっきり理解できるであろう。あなたが小さい頃から面倒を見て、教えてきて、物事を理解するようになり、歩き始めた。だが、子供の生活方式は絶対にあなたと異なるものだ。最も多くて、食べる物が一緒、住む家も一緒、だが、細かな場所はあなたと異なる。他人にあなたと同じことを要求することができようか。あなたの考え方と一致させようとするのか?これは不可能だ。

よって、なぜ困難に出遭うのか?それは、元々生じるはずのあなたの福徳が、あなたの不敬、誹謗によって消滅してしまったからだ。しかも、過去の業をすぐに呼び起こしてしまった。それは、あなたの善がすぐに悪に変わってしまったからだ。悪の力がすぐに倍増した。だから、あなたは沢山の困難が生じたことに気付いた。仏菩薩は霊験あらたかでないと言う者もいるが、実は彼自身の問題なのだ。だから、あなた達にはよく考えてから皈依するようにと言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはいい加減な話をしない。必ず道理がある。これは「第一無上師利経」の中に説かれている。一切の如来師を分けないので、金剛阿闍黎を誹謗したなら十方如来仏を誹謗したことになり、常に一切の苦難を受ける。

金剛上師を誹謗した弟子は今世でも悪報を受ける。何を受けるのか?各種様々な奇怪な病気や短命によって死に至る。身体は中毒、胃病、吐血等の悪病を患い、しかも取り憑かれて、心が乱されて不安になり、これが原因で命を落とす。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達にしっかりと考えさせようとし続けている。皈依後に不運な目に遭ったのではない。あなたが皈依後に上師に対してこんなにも深い誹謗の心を起こしたので、累世の怨親者がすぐに追っかけてきたのだ。なぜ、すぐなのか?それは、彼はあなたのような人は救い難いことを知っていたので、あっさりとあなたに出て行かせて終わりにしようと思った。こんなにも沢山の事をした人でさえ、あなたは心の中で快く思っておらず、気分を害している。あなたのような人は悪くはないのか?悪すぎる!なぜ一人の修行者を好き勝手に批評するのか?特に、リンポチェの果位まで成就をした修行者なら、本当にあなた達が批評する番は回ってこない。あなた達は話す資格がないのだ。なぜ奇病にかかるのか?それは全て鬼神の病だ。突然奇病にかかる者がいる。それはこうしてなるのだ。短命による死や身体が中毒となる。全くわけが分らなく何かを食べて病気になる。別の人が食べても問題ないが、あなたが食べたら問題が出る。胃病はあなたが食べた物が消化されず、更には胃ガン、吐血等の悪病となる。しかも、取り憑かれることもある。これについては解釈しなくてもあなた達も分かるだろう。取り憑かれることは鬼道衆生とは限らない。あなたが皈依した後に上師を批判したことを魔王が知ると、子供や孫を派遣して、自分は少し勉強したので人に仏法を教える能力があるとあなたに感じさせる。取り憑かれるとはこれを指す。

現在一般世間には、密法を少し学んですごくなった大した者だと感じ、外で弟子をとる者が多くいる。この様であった。彼らはなぜこんなにも沢山の弟子がいるのか。それは、過去世で多くの人と縁を結んだからだ。彼にはこのような福徳があった。だが、正法によって衆生を利益しておらず、自分は密法の上師だといい加減な事を言い、嘘八百を並べる等をし、沢山の奇怪な事が起きた。それで彼は心を乱して不安を感じ、その命を絶ったのであった。この他、手に終えないほどの天災、人為的な禍禍等の天病に出遭った。以前のSARSはなぜ医者が救えなかったのか?それは天がもたらした病であったからだ。それから、毒蛇や野獣、泥棒、強盗等によって害を加えられること、蛇にかまれた、犬にかまれた、動物によって殺された等、それらは全て業の重い人だ。あなたが今日、殺生業を止め、上師を100%敬ったなら、出遭ったとしてもそれらは皆、あなたを離れるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関している時、毎晩沢山の蜘蛛が中に入ってきた。部屋の中が暖かく、外は零下であったので、隙間から入り込んできただった。ほぼ七、八種類の異なる蜘蛛がいたであろう。ある蜘蛛が一口咬んだら、咬まれた蜘蛛はすぐに死んでしまった。毒がある証拠だろう。その蜘蛛はリンチェンドルジェ・リンポチェの寝袋まで登ってきたが、リンチェンドルジェ・リンポチェを咬まなかった。また別の日、夜寝ている時、リンチェンドルジェ・リンポチェは首にかゆみを感じた。ちょっと動いてみたがやはりかゆかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは洋服のせいだろうと、手を伸ばすと、そこには大きな毛虫がいた。皆は毛虫には毒性があることを知っている。皮膚に触ったら炎症を起こして感染する。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェには何も起きなかった。あなたが上師を恭敬するなら、何かに出遭ってもあなたに影響を及ぼすことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、幼い頃、郊外を歩いていた時に、竹葉青蛇を見た。青蛇はリンチェンドルジェ・リンポチェを見て逃げ出した。これは絶対にあなたは過去世で上師を敬ったかに関係がある。強盗に遭うこともそれに含まれる。あなたは、強盗をしたことがないのに、なぜ強盗に遭うのかと言う。これは過去と関係がある。二度とごまかしてはならない。ごまかそうとしてもごまかしきれないのだ。彼はなぜあなたの物を盗らないのか?あなたは皈依し仏法を学んでいるからだ。諸々の仏菩薩、護法神が守ってくれるからだ。彼があなたの家の入口まで来たのに、不思議なことに入ってこないのと同様だ。

泥棒が入るのはあなたの心と関係がある。上師を敬わないからこうなのだ。上師があなたを処罰しようとするのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び強調した。もし、上師があなた達にこの事を起こさせ、あなた達を罰することがあるなら、それはあなたの上師ではなく、あなたが上師を恭敬しないから起きたのだ。過去の怨親者が皆やって来た。なぜか?あなたは今日、縁があって一人の上師に出逢い、皈依することができた。あなたの怨親者は待っている。あなたが皈依した後に助けてもらえることを待っている。待った結果、あなたがまた変わってしまったことに気付いた。あなたを痛い目にあわせなければおかしい。彼は元々あなたを痛めつけようとしていたのだから。

魑魅魍魎に侵入されて騒がれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て言った事があるが、あなたが皈依した後、リンチェンドルジェ・リンポチェに魑魅魍魎を見たというなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを追い出す。上師を敬わないからこういう物があなたのところに来るのだ。上師を敬うなら、夢の中に上師が現れてあなたのために遮ってくれる。多くの人が、リンチェンドルジェ・リンポチェが様々な物から守ってくれた夢を見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは「一日中気分が優れなかったが、実はこういうことだったのか」と笑って言ったことがあった。なぜ彼らが来るのか?それは、あなたと彼らが同類だからだ。あなたの心と妖怪変化とが同類であるため、邪魔しに来るのだ。あなたが皈依後に鬼道衆生を見たと言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを追い出す。あなたは、自分は本当に可哀想だ、鬼道衆生を見た上にリンチェンドルジェ・リンポチェは助けてくれずに私を追い出したと言うかもしれない。それは、あなたの心が壊滅しているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜあなたを助けるのか?既に皈依し、上師を敬う仏弟子が鬼道衆生を見たなら、鬼道衆生となったのは上師である。 あなた達は、これは鬼道衆生だから私に悪い影響を与え、これは上師だから私に良いと影響を与えると区別する。上師を誹謗し、上師に短気を起こす人、上師が間違っていると思い解釈を続ける人、これらの人達は上師に対して癇癪を起こす。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に模範を示した。何度も皆に話してあることだが、直貢チェ・ツァン法王の話される事は全て正しい。それは、直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの上師であるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは未だ嘗て、直貢チェ・ツァン法王に向かって正しいか間違いかを解釈したことはない。それに対し、あなた達はどうなのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは知らない、理解していない、誤解していると思うのか?「絶対に誰々に言っちゃいけない。後で彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに言ったら、我々は大変な事になる」等と言う者は、懺悔しないなら前で言った事が全て起きる。なぜか?それは、あなたが上師を大馬鹿者だと考えたからだ。上師を利用してあなたの欲望を満足させたいが、上師には叱られたくない。間違ったことをしても言わず、リンチェンドルジェ・リンポチェに怒られるのを怖がっている。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは怒っているのではない。あなたが怒っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたを罵ることを、あなたが怒っているのだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常にあなた達に言っている。「リンチェンドルジェ・リンポチェに言うのが怖かったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに怒られるのが怖かったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに知られないように」こういう事を言う人は本当に悪辣だ。上師に叱られて業障を消除することができる。あなた達は沢山の例を見たり聞いたりしている。リンチェンドルジェ・リンポチェに厳しく責められた人は病が治った。元々起きるはずだった問題が解決した。それなのに、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに知られるのを恐れている。あの皈依して長い時間経つ弟子がこの様な考えを持っている。

今世で先に話した悪報を得る以外に、深い罪業によって、彼は未来の一世で必ず金剛地獄に堕ちるだろう。今世でこの上師はあなたに密法を伝えていないが、この上師に皈依をしたので、あなたが上師に対して怒ったり、誹謗したなら、未来世ではやはり金剛地獄に堕ちることになる。金剛地獄は顕教の説く五無間地獄と同じである。金剛地獄は密教を学ぶか修行している人だけのために生じた地獄であり、永遠に出られない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳しくする。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学んだ者が金剛地獄に堕ちるのを望まないからだ。一旦金剛地獄に堕ちると、出てくるのはほとんど不可能な事だ。なぜ皈依していない信者からはできる限り御布施を受け取らないのか。それは、彼らが誹謗するのを恐れるからだ。普通の人を誹謗するのも既に良くないことであるのに、衆生を利益している人なら尚更だ。だから、上師に対して不敬を一回働き、上師に一回怒られる罪業は、先に述べたような害と悪報を受けることになる。「怒ること」には一つの定論がある。リンチェンドルジェ・リンポチェがいつもあなた達を叱る時は怒っていない。あなた達が破戒するのを怒る。あなた達が通常、道場に対して何の貢献もしない心、教派に対して何の貢献もしない心をリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に怒る。例えば誰かが上師、教派を誹謗したなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは命を賭けて彼と戦う。リンチェンドルジェ・リンポチェは命を惜しいと思わない。

例えばあなたが上師を本当に敬わないのなら、上師に対して一回怒った罪業によって先に言ったようにひどい仕打ちや悪報を受ける。もし上師を誹謗するなら、上師の心を常に不安にさせる悪果はより深刻なものとなる。いわゆる「不安」とは、上師はあなたが彼を誹謗するのを心配するのではなく、あなたが三悪道に堕ちることを心配し、あなたが金剛地獄に堕ちることを心配して不安になるのだ。上師として発こす願力は、一切衆生が輪迴の苦海を離れることを願うものであり、我々が毎回法会の前に唱える四無量心がこれである。上師が地獄に堕ちる一人の衆生を縁がないので救えないことを知った時、上師の心の中はやり切れない気持ちになる。自分が傷を負う時よりももっとやり切れない気持ちだ。だから、あなた達がこの様な事をするとより深刻になる。なぜより深刻な事なのか?それは、上師を不安にさせ、衆生を済度する気持ちが集中できなくなるからだ。だから、しっかり自分を管理しなさい。いつでもどこでも、上師の気を散らせ不安にさせることをしてはならない。

だから、あなた達はうかつに上師を蹴っ飛ばしたり上師にぶつかったりする。前回、インドの空港である太った弟子が上師にぶつかりそうになった。リンチェンドルジェ・リンポチェがそこに立っているのに、見えなかったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはぶつかられるのを心配しているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェにぶつかった人に不運な事が起きる事を心配しているのだ。なぜこうなのか?それは、上師がどこにいるのかを全く注意していないからだ?永遠に自分で功徳を作っていると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェ・ツァン法王と一緒にいる時、眼で直貢チェ・ツァン法王の一つ一つの動作をずっと注意して見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ直貢チェ・ツァン法王の動作に注意するのか?それは、直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの上師だからだ。上師を傷つけることがどうしてできようか。リンチェンドルジェ・リンポチェの随員はリンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェ・ツァン法王を保護するのを目撃している。ある時、ある者が直貢チェ・ツァン法王に向かって突き進んでくるのを見たリンチェンドルジェ・リンポチェの動作は、随員よりも早く、自らその人を遮った。あなた達はなぜできないのか?それは、上師を敬わないからだ。ただ上師を利用し、上師はただ仏法を教えているだけだ、自分がなしているのは全て功徳で、福徳があると思っている。だから、永久に上師の心身を不安にさせてはならない。

例えば、今日、道場の事を上師はどうするかを既に引き継いだが、どうしても話を聞こうとせず自分の考えを持っている。だから上師は頭を痛め、再び段取りしなければならなかった。この人の罪は大きい。なぜか?上師が段取りを組んだなら、その話をよく聞いてその通りにすればよい。上師はあなたを害するのか?上師が本当にあなたを害そうとしても受け入れなければならない。なぜか?それは、上師は更に深刻な事を起こさせないようにしてくれるからだ。あなた達は、この様な言葉を否定し受け入れず、上師は絶対にあなたによくしてくれる人こそが良い上師だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが御飯を食べるお金がなかった時、直貢チェ・ツァン法王は一本の電話もリンチェンドルジェ・リンポチェにくれなかった。当時、直貢噶舉派の台湾の最初の道場をリンチェンドルジェ・リンポチェは全て護持していた。1984年から始まり、一月30万台湾元を丸々二年間護持した。あなた達の中でできる者がいるのか?これは、その他を含めていない。リンチェンドルジェ・リンポチェが御飯を食べるお金がなくても、直貢チェ・ツァン法王は一本の電話もくれなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師を少しも恨むことはなかった。なぜ直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねなかったのか?それは、この弟子に打撃を与えて、彼がどうであるかを観察するためであった。もしあなた達なら、自分は大功徳主なのに、現在良くない時に、上師が尋ねて来てくれなかったといって、人情味がないと上師を咎める。なぜあなた達はよい弟子にはなれないのか?上師がそこに立っているのに、弟子の目は上師を注意していない。ちょうど法会が始まったばかりの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは事を言い付けた。簡単な事なのに、10分間もぐずぐずした。あなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのを怖がるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはもっと叱る。一日中、表面的なやり方をしなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて叱った。今日話が終わったら、更に人が減ることだろう。

知識があって、脳みそがない。ただ自分に得のあることだけし、他人のためになることをしない。これを「愚鈍で無知」と言う。上師がこの様な愚鈍で無知な弟子を見たら、心中不安になる。彼は深刻な困苦を嘗めるだろう。愚鈍、無知は、知能が低い人を指すのではない。なぜ愚鈍なのか?それは、仏法を聴かず、仏法を受け入れず、自分の考え方で日々を送ることだ。あなたが言っていることはあなたの事で、あなたの言っていることを私は受け入れられない。あなたは必ず私が分かるように、我が好きなように、私が受け入れられるように話してもらいたい。これが「愚鈍で無知」だという。あなたができないとは言っていない。上師は心中不安になる。上師は彼が悪業をなすことを知っている。彼を止めないなら、上師は不好を感じる。止めたなら、彼が仏を誹謗するのが心配になる。この様で上師は安心できるのか?だから、彼は深刻な困苦を嘗め、この命を台無しにして、死後は金剛地獄に堕ちる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに強調した。もし、灌頂を受けていないなら少し良い。だから、まだ皈依、灌頂を受けていない信者は恐れなくてもよい。だが、既に灌頂、皈依しているなら深刻だ。なぜこんなに厳しいのか?顕教はこんなに厳しく言わず、我々の勝手にさせる。密教はなぜこんなに厳しいのか?こうしても間違いだ、ああしても悪い。原理は簡単だ。顕教では生死から解脱するには三大阿僧祇劫かかると言う。阿僧祇劫の時間はお経に説かれている。地球の成、住、壊、空は、地球が生まれてから滅亡までの時間だが、あなたは成仏できない。地球はどの位の歴史があるのか?お経には釈迦牟尼仏は五番目の仏で、地球には七人の仏が現れると説かれる。どの位の期間をあけて一人の仏が現れるのか?歴史上には記載がない。だから皆知らない。お経には、弥勒菩薩が来られる時間は56億万年後であると説かれる。この推論に基づけば、それぞれの仏が来られる時間は少なくとも11億万年、よって、地球は既に非常に長い歴史があることになる。もしお経だけに頼って成仏したなら、非常に長い長い長い時間がかかる。時間がこんなに長いからといってゆっくり遊んでいたら、数万世もかかってやっと返済が終えることができる。こうなら慌てない。だから、顕教の出家者はまた戻って来ると言うのだ。次の世はどの世に戻って来るのか?

現在、地球は益々混乱しているのが分かるだろう。インドでは訳が分からずに十数人も死んだ。地球はより忙しくなる。死んだ次の日に生まれ変われると思っているのか?不可能だ。なぜ?生まれ変わって人となり、一組の夫婦となるのはあなたと縁があるからだ。あなたとしている事が全く同じなので見つかる。果てしない人海の中で、仏が探すのさえ難しい。あなた達なら尚更だろう?最短で100年、500~600年、500~600年後の地球がどんな世界になっているかを知る者はいない。あなたには来る勇気があるのか?密教は非常に迅速だ。あなたに沢山の事をすぐに片付けさせる。次の世に引き伸ばさない。当然迅速となる。悪の出現も迅速である。あなたがゆっくりと行きたいなら顕教を学ぶのがよい。もしすぐに片付けたい、二度と苦しみたくないなら、密法を学ぶべきだ。密法を学ぶには慎重にやるべきだ。軽率に行なうべきではない。なぜ密教には一人の上師が必要なのか?それは、上師があなたを監督するからだ。また、どうするべきか、何に注意したらよいのかをあなたに教える。しかし、あなた達も考えなくてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依弟子の日常生活を構わない。仏法を学んでこそ構うことができる。だから、密教が怖いのではない事をはっきりさせなければならない。密法の速度が非常に早く、何でも濃縮するので、良いのも非常に早く、悪いのも非常に早く、あなたの問題をすぐに解決する。多くの信者は別の道場で沢山のお金を寄付したが、問題は解決せず、寶吉祥に来たら問題が解決した。なぜ解決できるのか?それは、彼は別の道場では仏を供養したことがなかったのだが、密法を得る縁があり問題を解決できた。

先ほどのあの弟子は心臟に病気があると言った。鬼道衆生が細菌を落としたのだ。彼の家は殺生業が重いのでこうなった。だから「般若八空経」には「障礙咕嚕(上師)其種罪業皆須懺悔、無法消除。(グル(上師)に障碍を与えるその種の罪業はすべて懺悔しなければならないが、消除できない)」それは、あなたが上師が仏法を弘める際に邪魔をし、衆生済度を邪魔するなら、上師の心身に不安を感じさせ、四力懺悔を用いても消滅させられないことを意味する。これは三昧耶戒を破戒したことになる。三昧耶戒は消除できるただ一つの法門だ。この法を修するとこの罪業を消除することができる。よって、あなた達はなぜリンチェンドルジェ・リンポチェがある弟子達に来ることを許さず、追い出すこともあることを徐々に理解することができるだろう。原因はここにある。彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェについて学べば学ぶほど破戒し、金剛地獄に堕ちるのを望まない。もしこの様な機根を具えないなら、彼らには別の場所に行って仏法を学んでもらうことを勧める。上師を誹謗する罪業は必ず大きな悪報を得る。だから、金剛乗の弟子は必ず密経の十四根本堕を守ることに努めなければならない。これについては前回説法した。絶対に上師の身口意に不敬を働き、上師を誹謗してはならない。さらに、上師の心身を不安をさせてはならない。だから、直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを弟子としてから、今まで嘗て心身を不安にしたことはない。ただ、リンチェンドルジェ・リンポチェに沢山の仕事があって、沢山の衆生を助けすぎて身体を壊すことを心配しておられ、ずっとこれについて注意されている。上師を誹謗する人は必ず惨死を向かえ、無間地獄に堕ちて、永久に苦と死の報いを受ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に怖がらないようにと再び強調した。上師、仏菩薩、護法があなたを処罰に来ると思ってはならない。これは完全にあなたの心の悪だ。悪が悪の果を生み、初めてこの様な結果を生じさせる。密教の上師ではない。絶対に密教の上師がこの様な兇悪な法を修してあなたを地獄に堕とそうとしているのではない。いずれの上師もあなたを地獄に堕とす能力を持っていない。全て自分でなしたものだ。密教の中には相手を殺す誅法というものがあるが、すぐに彼を浄土へ済度する。彼を地獄へ堕とすのではない。道教で用いられているのとは違う。道教は彼の霊魂を打ち散らすが、密教のやり方は、この人が仏法を毀損した時に初めて彼を殺す。だが、上師は慈悲の力で彼を済度する。だから、密教の中の誅法は慈悲の極致である。即ち、最も慈悲深い上師こそが誅法を使うことができる。慈悲のない人は使うことはできない。

よって、「金剛蔵経」にはこう説かれる。「有忌悪心的人不恭不敬上師,得悪病、惨死、下地獄。(悪心を忌み嫌う人は上師を恭敬せず、悪病を得て、惨死し、地獄に堕ちる)」また、「化網経」には「病毒作毒,空行魔鬼短命死後下金剛地獄。(病毒が毒となり、空行魔鬼が短命で死んだ後は金剛地獄に堕ちる)」と説かれる。「化網経」にはこうも説かれる。「毀謗上師此人無間夢,毀謗上師人,妖魔控制心。(上師を誹謗するこの人は無間夢、上師を誹謗する人は、妖怪が心をコントロールする)」この様な上師は彼を弟子にできない。この人の無間夢とはこの人が夢をみないのではない。夢の中で永遠に吉祥夢を見る事ができないという意味だ。吉祥夢とは何か?それは、夢の中で自分が沢山の吉祥の作法をしている夢をみることである。これは以後、解釈することにする。上師を誹謗する人は、夢でさえもよい夢が見られるとは限らない。だから、あなた達の中に現在も上師とけんかする悪夢を見る者もいる。喧嘩は自分の過失が沢山あって深刻であることを理解する。リンチェンドルジェ・リンポチェのみる夢は、上師から加持を授けて戴き、上師を供養する夢である。リンチェンドルジェ・リンポチェがインドで施身法を行なう二日前、 直貢チェ・ツァン法王が非常に高いところにある法座に座り、リンチェンドルジェ・リンポチェが沢山の供養を捧げている夢をみた。だから、その日の法会は非常に順調に行なわれた。だが、あなた達が見る夢はリンチェンドルジェ・リンポチェを呼び求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けてもらう夢、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたを叱る夢、或いはリンチェンドルジェ・リンポチェに言い返す夢である。

この様な酷い行為を犯す人を、智慧のある者は近づかないようにするべきだ。食事も彼と一緒に座ってはならない。もし、上師が弟子のこの様な酷い行為を見たら、彼から遠ざかるべきだ。近づいてはならない。食事も一緒に座ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いてある弟子に聞いた。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の父親と一緒に食事をしないのか?それは、この弟子が寶吉祥に来たばかりの頃、彼の父親はリンチェンドルジェ・リンポチェを批判したことがあったからだ。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に、彼の父親は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェを批判したことがあるかどうか聞いた。この弟子はあった気もするし、なかったような気もすると答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に二度と嘘をついてはならないと言った。続いて、彼の姉(姉も皈依弟子)はこの事がはっきりしているはずだからと、彼らの父親がリンチェンドルジェ・リンポチェを批判したかどうかを説明するよう指示した。彼の姉はずっと以前、彼女が来たばかりの時、父親は賛成しなかったと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて説いた。ある人は両親は子供のために良かれと言ったのだというかもしれない。彼らの父親は自分の子供達が騙されるのを心配した。だが彼らの父親はリンチェンドルジェ・リンポチェを見た事がなかった。騙されるかどうかをどうやって知る事ができるのか?だから、彼らは現在、リンチェンドルジェ・リンポチェがなぜ彼らの父親と食事をしないのかが分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェはいい加減に物事を行なっているのではない。あなたの動物の脳みそでは考えつかない。

「鑽石金剛精経」の中にはこう説かれる。「無智怒心人,行満四方地;尊者不収他,箭病強盜等;侮辱他命短。」智慧がなく、心の中で一日中怒っている人、四方何処にでもこの様な人はいる。上師は彼を弟子にすることはない。この様な人は恐らく刀病の傷を受ける。即ち、人に殺される、車の事故、戦争、病気、強盗等が起きる。智慧がなく、上師に癇癪を起こす、或いは上師を誹謗する人は、東、西、南、北を歩き回って四大天王等の善神を探し当てたとしても救ってもらえない。だから、よく聞きなさい!もし、あなたが上師を誹謗したなら、あなたが神様に求めてもだめだ。それは、彼らは修行者を見ると自動的に避けるからだ。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェはある有名な漫画家のためにポワ法を修法したことがある。彼女の家族は彼女が著名な漫画家であることをリンチェンドルジェ・リンポチェに語らなかった。修法が終わった後にテレビで初めて知った。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けた時、彼らが彼女の長寿を祈って彼女のために一つの光明灯を点したのを見た。だから、彼女は逝けなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにその灯明を撤去するようにと言い、並びに、神にリンチェンドルジェ・リンポチェが管理すると告げた。この様にすれば、彼女は逝くことができる。案の定、灯明を撤去すると彼女は逝った。これは神もリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聴いたことを意味する。シーク経の神も他の者を誘ってリンチェンドルジェ・リンポチェの法会に参加する。

「弟子は金剛上師の前で、必ず身、口、意の限りを尽くして上師を恭敬する。もし上師を誹謗したなら、日夜寝ずに食べずに一生懸命に修持を続ける。千劫の間仏法を学び、真言を学ぶ。だが、学んだのはやはり金剛地獄である。」だから、あなたが聴いて理解できなくても、彼は何を言ったのか?なぜこうなのか?と疑ってはいけない。あなた達は供養したこともない。疑ってはいけない。講演では1000元を徴収する。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達のお金を徴収したことがあるのか?あなたに疑う資格があるのか?あなたが理解していないのだ。それは、あなたが仏法を学びに来る準備をしていないからだ。

我々は身、口、意によって力を尽くして上師を恭敬しなければならない。あなたが上師の説く仏法に何らかの疑問を感じるなら、それは不敬だ。もし上師を誹謗するなら、日夜寝ずに食べずにいなければならない。即ち、あなたは寝ても不安を感じて長く寝られず、食べられない。食べ物がないのではなく、病気をするなどして食べさせないようにする。なぜガン患者は末期になると食べられないのか、なぜ食べさせないのか?なぜ今世でガンになったのか?殺生の他、過去世において必ず上師に対する不敬があったために食べられなくなったのだ。だから、我々はなぜ餓死するのかが分かる。以前、人の餓死は食べ物がなかったからだが、現在、人の餓死はあなたに食べさせないことで起こる。多くの人は食べたくても食べられない。食べても消化しない。実に、この様な人が来た。だから、あなたが上師を敬わないなら、あなたが一生懸命に修持をし続け、千劫の間仏法を学び、仏法を学び真言を唱えることに励んだとしても、学んだことはやはり金剛地獄だ。「私を怒鳴ったので彼が嫌いだ。だから、彼が私に伝えた真言を家に帰って自分で唱えてもいいか、こうしてはいけないか?」と聞く者がいるが、これではダメだ。ここではっきりと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではない、根拠があるのだ。これは「鑽石金剛精経」に説かれる。だから、伝えてもらった法を家で唱えているだけで成就できると思ってはならない。唱えても絶対に成就できない。我々は成就する前に上師の加持がないなら、修することは不可能だ。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの経験だ。仏法を学び進歩したいと思う者はすべて、自分で家の中で朝晩の勤行をしていればよいと思ってはならない。いい人であればいいのではない。いい人は生死から解脱できることを意味するのではない。ここのところは非常に重要である。

だから、なぜインドの法会の時に直貢チェ・ツァン法王自ら「リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェ・ツァン法王の20数年の弟子だ。この弟子は嘗て上師を離れたことがない」と語られたのか。この「離れる」は人が離れることを指すのではない。法について、心で互いにコミュニケーションをとることについて、今まで一度も上師を離れたことがないという意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも法王に電話せずに、自分の好きな事をすることもできる。だが、現在、一切の道場、教派、仏法と関係のある事をリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェ・ツァン法王に報告する。それは、直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの上師であるからだ。

「上師を誹謗する人は、千劫(一劫十三万。四千四百万年←これでいいでしょうか?)の日夜、食べずに寝ずに仏法を学ぶこと、真言を唱えることに精進しても、成就できずに、却って金剛地獄に近づくことになる。これは成就を求めるのではなく、地獄を求めることだ。」今日皈依し、あなたが学びたいものを学べると思って、上師への誹謗を始め、上師から離れれば自分で成就できると思ってはならない。多くの人にある病気だ!あなた達は密教の中で、上っ面だけを学び、ほんの僅かなものだけを学んだだけで、自分は家に隠れて成就できると思っているのか?ここでの解釈は非常にはっきりしている。二度と疑問を持ち、不信を持ってはならない。お経に語られることを信じられないなら、ここに座り続けて何をするのか?なぜ、こんなにも厳しく言うのか?それは、今日あなたが衆生を利益したいと思うなら、あなたが学んだ物は必ず良い物だ。だが、その逆に、あなたが学び取った物を正しい場所に使わず、自分の欲望のためであったら、多くの衆生を害することになる。だから、密教を学ぶ前に、上師はこの事をはっきりとあなたに伝える責任が必ずある。上師があなたに伝えた後、あなたは話を聞かず受け入れないなら、それもあなたの家の事であって上師とは無関係である。

「上楽輪金剛根本経」には「破戒進壇城,無得灌頂成。(破戒して檀城に進んでも灌頂の成を得ることはできない)」と説かれる。ある弟子は一日中責任を回避しようとしていた。千の過ち万の過ちも全て他人の過ちである。また、別の弟子は、一日中好んで他人を怒鳴りつけ、自分が凄いことを示そうとしていた。これらの人は皆、破戒だ。どんな戒を破るのか?両舌だ。破戒した人が壇城に進み入ったら、灌頂が得られるのか?列席者の少なくとも半数以上はこの戒を破っている。だから、上師を誹謗する罪業は先に述べた通り、成就できないのだ。なぜ今世で成就できないのか?成就とは即ち、生死から解脱することだ。再び輪迴せずに浄土に生まれる。多くの人は私は不要だと言う。私が仏法を学ぶのはこのためではないと言う。それは間違いだ。仏様が49年お経を説いたのは、他でもない、このためだ。あなたが生死から解脱するために仏法を学びに来たのでないなら、聞き続け、学び続け、修行し続け、皈依し続けても無用だ。少しの役にも立たない。あなたは仏を誹謗し、上師を誹謗する気持ちを簡単に起こすことだろう。なぜ先のその人は、「自分が悪念を起こす」と言ったのか?それは、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがただ自分の病気を治してくれるだけだと思っていたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達の病気を治してくれたら、あなた達は一、二千円をあげれば解決するのか?あなた達は医者にはどの位の費用が必要かを知っているはずだ。

あなたは今日、自分が重い病気にかかったことを知り、あなたに上師と仏法を学び今世で苦しみから離れられる一つの因縁が与えられたなら、あなたがこの出発点から仏法を学ばなかったら、最後には必ず誤った道を歩むことになる。必ず道を間違う。リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山の例を見てきた。だから、ここで強調して皆に告げる。必ずこうしなければならない。他の道はない。私達はいかに仏菩薩及び上師に相応したらよいのか?これもまたこの為である。仏様が地球に来たのは一つの大事のためである。仏法を世間に伝えて、一切の有情衆生を生死の苦海から離れさせることを望まれている。健康のため、お金儲けのためなら仏様は不要だ。道教や天主教でも成し遂げられる。だから、あなたははっきりさせなければならない。今日は何のために来たのか?ただ単に健康のためなら、あなたはずっと善事を行い、全てのお金を寄付して人を助けるだけでよい。あなたははっきりさせなければならない。この大前提を心の中から着実にはっきりと確定しなければならない。さもなくば、後ろで必ず誤った道を歩むことになる。多くの人が出て行くのは、この点をはっきりと理解していないからだ。あなたが受け入れられず、あなた自信の考えで聴いて学ぶのなら、当然ながら成就することはない。

だから、無上金剛乗を学び、成就したいと思う弟子は、必ず密教の戒律を守り、一切の力を尽くして上師を恭敬しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは成し遂げて模範を皆に見せた。ネパールにいる時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ2階のCoffee Shopで座っていた。その時、ある弟子がおなかがすいたからと、自分で御飯を食べに行ってしまった。これは恭敬心がないことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェを上師とも思わず、一人の年配者であったとしても、年配者が御飯を食べていないのに、子供は御飯を食べることができるのか?この弟子は誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェに付き添っていて、自分はお医者様だから先に食べてもよいと思っていた。礼儀がなく、規則のない人にどうやって密教を伝えたらよいのか?多くの人は、心の中で些細な事だと思うかもしれない。だから、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェがどの様に自分の上師に接しているのかについて注意していない。リンチェンドルジェ・リンポチェと直貢チェ・ツァン法王二人が公開の場で行なう数々は言うまでもなく、プライベートで師と弟子の二人が一緒にいる時、直貢チェ・ツァン法王がお茶を飲む前、食事をする前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは口を付けることはない。これは礼儀、規則、人としての道だ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが話す如何なることにも根拠がある。なぜ現在、チベット人は皆、リンチェンドルジェ・リンポチェに心服するのか。それは、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの直貢チェ・ツァン法王への恭敬が見せ掛けではないのを見たからだ。直貢チェ・ツァン法王が身体を起こして座席を離れる時、リンチェンドルジェ・リンポチェは座っておらず、一時間でも立っているか続けて立っている。

全ての力を尽くして上師を恭敬することに、これを恐れたりあれを恐れたりはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェ・ツァン法王の前で何も恐れない。上師を恭敬する者は彼に叱られることを恐れない。あなた達はなぜ叱られるのを恐れるのか?それは、あなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェを敬っていないからだ。例えば今日、上師があなたを叱っても恐がらないなら、あなたは完全に恭敬している人だ。自我観念のない人だ。これでこそ成就できる。なぜあなた達は些細な事でもとても緊張し罵られることを恐れ、自分が少しでも良くできることを希望するのか。それはあなた達が上師を恭敬しないからだ。上師に罵られたらどうなのか?肉一塊が減るのか?なぜ上師は罵るのか?それは、我々仏法を学ぶ者が最も恐れるのは、高慢、傲慢な心だ。あなたに傲慢な心があるなら、永遠に慈悲心を修することは不可能だ。慈悲心がないなら仏法はない。慈悲心はどこから来るのか?まず最初に自分の傲慢をきれいに打ち砕かなければならない。あなたを一番助けてくれるのはあなたの上師だ。上師、仏菩薩は絶対にあなたを傷つけない。あなたは傷つけられたと思うかもしれないが、実はあなたの為になっている。あなた達はこの考えをずっと受け入れられないでいる。それとは逆に、あなたの発心が素晴らしい、礼拝が素晴らしい、観音様に似ている等の言葉を聞くのが好きな人もいるが、このような言葉はあなたを傷つけることになる。

直貢チェ・ツァン法王は蛇年の大法会以前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはよく仕事をしている、よく修行をしているとは言ったことがなかった。2007年に閉関をして100%この弟子は大丈夫だと確認するまで続いた。この間の20数年、直貢チェ・ツァン法王が自ら話されたことだが、なぜずっとこの様に弟子を鍛えたのか。それは、一人の弟子はこの様な修練なしには成就できないからだ。例えば、自分勝手に弟子に成し遂げたと思わせ、彼を満足させていたら、彼の傲慢な習気が容易に生じてしまう。傲慢な心、我慢が一度生じたら、貪、瞋、痴、慢、疑がそれに従って生じ、彼から離れなくなる。だから、なぜ力を尽くして上師を恭敬しなければならないのか?上師に叩かれても、罵られても恐れることはない。あなた達は一日中叱られることを恐れているので、責任を回避しようとし、うそをつくようになる。私は知らなかった、忘れてしまった、私の責任ではないと。

学問のある上師についてであるが、上師は沢山の種類に分けられる。例えば、パンディタは、自ら学んだ事の秘密を保ち、自己を顕さない。その様な上師もよい。即ち、上師の修行のレベルは高いが、彼自身だけが知っていて表面に出すことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが外では法衣を着ず、数珠を付けないのも、表面に出さないことである。沢山の人がリンポチェだと分からない。直貢チェ・ツァン法王だけが分かればよい。自分を表面に出さないのは、人の煩悩を引き起こしたくないからだ。もし法衣を着たなら、沢山の場所に行くのが不便になる。例えばレストランに行くとある人が話をする。だから、人に誹謗する機会を与えない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは通常法衣を着ない。おしゃれの為ではない。人に誹謗の機会を与えないためだ。「自学保密」は彼の密法に対する保護が非常によく、自分勝手に人に知らせないことだ。

「密尊乞丐師也好」とは、密法を学ぶ者の中には、済公と同じように、わざとだらしなくしたり狂人のような様子を現すこともある。これもまたこの種の上師だという意味だ。ディクンティ寺におられるテンジン・ニンマ・リンポチェもまたリンチェンドルジェ・リンポチェが皈依した師である。彼はお風呂に入らない。自分の関房を離れることもなく、どんな人にも仏法を語らない。人を見ると笑って氷砂糖を食べさせる。これはあなたに良く接していることを表す。ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の関房に入った。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェが行くと、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを関房に入れる。他の人だったら入れない。彼はその時、「閉死関」←日本語が調べられないので、このまま使っていいでしょうか?であった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の関房に入った時、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに、ヨーグルトを食べるかどうかと聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは食べると言った。彼はスプーンを手に持ち、まず自分の口でほぼ2分間ぐらい舐めた後、ヨーグルトをすくってリンチェンドルジェ・リンポチェの手の上に置いた。あなた達だったら食べるか?あなた達のようなお嬢さんは食べられないだろろう。それでは上師を尊重しないことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに食べた。上師を尊重しているからだ。当然、全ての上師がこの様にするとは限らない。偽上師のをあなた達は絶対に食べてはならない。上師がこの様にしたのは、あなたに執着心があるかどうか、上師を恭敬しているかどうかを見るためだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは食べた。後ろにいたチベット人もそれを見て、すぐに手を差し出して食べると言った。だから、上師は様々な方法で弟子を済度するのだ。ある時は非常に奇妙な方法であり、あなた達には想像もつかない。テンジン・ニンマ・リンポチェはスプーンを舐める時、わざとあなたによく見せるよう舐めた。舌さえも伸ばしてわざとあなたに見せたのだった。

どんな時もどんな事も、永遠に自分の根本金剛上師を誹謗してはならない。根本上師とは何か?あなたに仏法を教えて導き、生死から解脱させることができる人が即ち、根本上師だ。多くの人が「私は某リンポチェに皈依したが、彼を離れたら何か問題が起きるのではないか?」と聞いた。問題ない。彼はあなたの根本上師ではないからだ。彼は法座上で、あなたに生死から解脱する法門を教えることを約束しておらず、胸を叩いて、あなたが彼の皈依弟子であるなら、あなたが仏の境地に至るまで、生生世世あなたに教えると言っていないなら、彼はあなたの根本上師ではない。直貢チェ・ツァン法王はテープの中で公に、「以後の仏法事業では我々師と弟子の二人は共に歩んで行く」と語られている。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師だ。

「金剛剣経」には「不謗金剛師,咕嚕一切佛;無松智慧心,隨時盡注意。」と説かれる。即ち、あなたの智慧の心は散漫であってはならない。随時注意しなければならない。特に、上師の近くにいる時は上師に注意しなければならない。あなた自身の感覚に注意するのではなく、上師が衆生を助ける方法に注意するのだ。上師の各動作に注意し、必要があればすぐに助けなければならない。上師が必要かどうかに拘らず、全ての物を渡すのではない。この様では上師を煩わすことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェの直貢チェ・ツァン法王へのサポートは、ちょうど壷にはまっている。直貢チェ・ツァン法王が必要とあらば、即刻物が届く。なぜできるのか?それは、いつも上師に注意しているからだ。前回はこれを食べたからといって、今回もまた同じ物を作って食べさせるのではない。

「金剛乗法を伝授するのは、三恩徳のある金剛阿闍黎である。自分の愛する物を供養して恭敬し、永遠に自分の本尊と無二である上師の身、口、意を恭敬し、上師に追随して学ぶ。この様にすれば、先に述べた恐ろしい罪業と苦悩を消除し、仏法を学び成就できる。今世で困難を消除でき、後世で成就できる」。供養して恭敬することは非常に重要である。恭敬して供養するべきだ。ここで言っているのは、あなたが今世で成就できないのは、あなたの過去世でなした一切の悪業ゆえであるが、今世では絶対にあなたが悪業を消除するのを助け、次の世では成就できる。最も遅くてもう一度輪迴する。もし、成仏果なら17世で成仏果を得ることができる。

五次第経には「咕嚕能滅業,咕嚕能救畏」と説かれる。あなたの上師(=グル)は、あなたの累世の業の消滅を助けてくれ、あなたを一切の恐れから救ってくれる。我々が最も恐れているのは生死の大事だ。上師がいなければ、あなたは救われない。必ず上師が必要だ。「旋転苦海中,咕嚕能譲過」あなたの上師はあなたを苦海の中で続けて輪廻させないようにする。

「全ての供養の中で最も貴重な供養は上師への供養と、上師を歓喜させることである。正しい金剛上師はあなたを金剛乗大道に導くことができる。」ここではっきりと言っている。供養とは、仏への供養、三宝への供養等が含まれる。そのうち、最も貴重なものが上師への供養である。リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェ・ツァン法王に供養を捧げるのはあなた達とは異なる。あなた達は皆、これは御寺に供養する、これは法師に供養するという様な事をした事があるだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが法王に供養を捧げる時はお金全てを直貢チェ・ツァン法王に渡す。直貢チェ・ツァン法王から特別な言い付けがある他はこうである。なぜ全部を直貢チェ・ツァン法王に渡すのか?それは、どんな方法を用いればあなたの福徳を迅速に成長させられるかを知っているからである。あなた達が料理を注文する時のように指定して、10数個の項目をリストアップし、これに寄付し、あれに寄付するのではない。供養するなら供養する。料理のオーダーではない。

お経には仏様を供養する福徳が非常に大きいことが沢山説かれている。だが、あなたが上師を供養する福徳は仏様を供養する福徳よりもずっと大きい。なぜなら、仏様は直接あなたに仏法を教えないからだ。だが、上師は仏様に代わってあなたに直接仏法を教える。だから、上師を供養する福徳は仏様を供養する福徳よりも大きい。古代の人は、先生に対して大きな供養を捧げた。あなたに仏法を教える上師になら尚更だ!どの様に上師を供養したらよいのか?上師を歓喜させること。上師が行なう一切の行為にあなたが歓喜心を起こすこと。だから、叱られるのを恐れ、叩かれるのを怖れるなら、上師に対して歓喜心がないことになる。もし、あなたが上師の一切に対して歓喜するなら、上師があなたを叩こうが、罵ろうがあなたの喜びは更に増えるはずだ。なぜ恐がるのか?あなたの怖れは敬っておらず、喜んでいないから起きるのだ。上師があなたに見せるあなたの好きな動作を選ぼうとする。この様な者は当然、密教を学ぶことはできない。

「金剛乗はあなたに『即身成就』を得させるが、他の顕教の教えでは、無数劫を経てやっと全てに通じる円満の境地に達することができる。」ここでははっきりと説かれている。先にも話したが、皆には自分でよく選択してもらいたい。あなた達を強制する者はいない。自分でしっかり選択すればよい。

「今世及び永久の成就は全て、上師に皈依することから来る。だから、金剛乗の弟子は、常に一切上師の戒律を守らなければならない。このように法を学んでこそ成就できる。」我々が顕教を学ぶ際に皈依する師は生生世世ではなく、今世だけだ。皈依する時に「尽形寿」と唱えるのは今世である。来世ではこの皈依した師とは関係ない。なぜなら、顕教の法師及び顕教を学ぶ人の願力は、金剛上師とは異なるからだ。金剛上師の願力は、ただあなたが彼の弟子であり、あなたが成就するまでは、彼は生生世世いつもあなたを助けるというものだ。「だから、金剛乗の弟子は、常に一切の上師の戒律を守らなければならない」上師の戒律の意味は、上師が語った話であり、それが即ち戒律だ。あなた達が罵られるのを恐れているなら、戒律を守れるのか?ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で仕事をしており一日中叱られ、ミスをしたらいい加減なことを言っている。戒律を守っていない。だから、道場の他ではリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞く必要はないと思ってはならない。間違いだ。法王が語られた話なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞き入れて、実行する。それは、上師の話は戒律だからだ。上師の語る一切は弟子のためである。あなた達の二心(即ち分別心)が上師の語る話が私に不利、私を傷つけると分別するかもしれない。例えば、「リンチェンドルジェ・リンポチェに言わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるから」とよく言う者もいる。この様な人は地獄に堕ちる!この様な者は上師を敬わず、上師の戒律を守らない。上師があなたを罵るのはあなたの未来のためだ。だから、常に上師の戒律を守らなければならない。上師が説いたのは戒律だ。守らなければならない。道場内で取り決めた規則も守らなければならない。あなた達がわざとミスをするなら、これも戒律を守らないことになる。自分は五戒十善を守っているから戒律を遵守していると思ってはならない。上師の語った一切の規則を包含する。上師の語った規則もまた、時や場所に応じて変化するが、全て遵守しなければならない。

「金剛上師は金剛乗を学び富貴を得られる最も重要な供養主である。」ここでいう富貴は財産を指すのではなく、仏法を学ぶ際の一切の富貴である。簡単に言うなら、金剛上師は非常に重要であり、上師という土がないなら、あなたの種は萌芽しない。顕教ではよく福田が語られるが、上師は福田よりも更に重要だ。

「鑽石金剛精経」には「有智金剛子,想得永久楽,真心供上師;無供所思無,要供無供時,他人入餓鬼獄。(智のある金剛子は永久楽を得ようと想い、真心で上師を供養する。供養無い所の思はなく、供養を要するに供養の無い時は、その人を餓鬼獄に入れる)」と説かれる。真の金剛乗の弟子は、永久の安楽を得たいと思い、真心からの供養を上師に捧げる。「無供所思無」とはあなたが供養しなくなった時、あなたの心は散り散りになり全てなくなるという意味だ。

「要供無供時」は即ち、供養すべき時にあなたは供養しないという意味だ。我々は上師にお願いして何かをして頂く時には必ず供養しなければならない。内容は重要ではないが、必ず供養しなければならない。例えば今回、直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝えられた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはその前に供養を済ませているが、伝法前にはやはり供養しなければならない。

伝法前に、必ず上師に頂礼を三拝(三回)してから始める。あなた達は不要だと感じるだろう!供養したのにまた頂礼するのか?あなたが供養するか供養しないかによっては餓鬼道に堕ちる。現在分かっただろう。なぜあなた達を叱るのか!「金剛珠経」には「金珠衣、珠宝種;無数事,恭敬心。無痴心,尽力供養;歓喜師,咕嚕心,譲円満。(金珠衣(即ち最良の衣服)、珠宝(宝石)の類。無数の事、恭敬心。痴心なく力を尽くして供養する。師、グルの心をかんぎさせてこそ、円満となる。」と説かれる。「紅雅曼達嘎根本経第十九品」には「然後供養上師者,仔細說此如何供?為清消自心業障,能得所思各成就,不惜供養金剛師。(その後上師を供養する事について詳細にこれを説く。いかに供養するのか?自らの心の業障を清めて消除し、各成就が得られることを考え、惜しまずに金剛師を供養する」と説かれる。ここで説かれているが、なぜ我々は供養しなければならないのか?我々は我々の供養の心がどうあるべきかを思惟し、自分の心の中の一切の業障をきれいに消滅させなければならない。なぜ先に述べた彼は、心の中にずっと悪念が生じていたと言ったのか?それは簡単だ!供養していないからだ!心からの供養をしていない!もし彼が今日、心からの供養をしたなら、自分の最も愛する物を最初に供養している。霊験が現れるのを待ってから供養することもない。あなた達は皆この様だ。最初は試して小さなお金を包み、状況が良くなったら少し多くし、願いが叶ったらもう少し多くする。この様ではいけない。この様な方法は間違っている。如何なる時も供養しなければならない。そうすることによって、自分の心の中の一切の業障を取り除くことができる。

あなたが考えつく仏法におけるそれぞれの成就は、いつ何時でも金剛上師に供養を捧げなければならない。最も簡単な例を一つ挙げる。以前、尊き直貢チェ・ツァン法王は毎回インドに戻られる時、必ずニューデリーを経由して車で御寺に戻った。尊き直貢チェ・ツァン法王は惜しんでホテルに泊まらなかったのではなく、いつもチベット人の住むある地方に宿泊していた。それは疲れることだった。チベット人は尊き直貢チェ・ツァン法王がそこに宿泊されていることを知ると、みんなやって来た。だから、尊き直貢チェ・ツァン法王は休む時間がなかった。弟子としてこの様な状況を見るのは心苦しかった。それは、休む時間がないと上師の御身体に悪いからだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェ・ツァン法王のためにインドの新しい町に一軒の家を購入した。およそ800余万台湾元であった。その当時、リンチェンドルジェ・リンポチェにはまだ家がなかった。あなた達ならどうか?私が先に買ってから、あなたに順番が回ってくる。私の順番にはまだなっていない!我々の一切は上師を主とする。上師が安楽を得てから自分の安楽を求める。上師に安楽が得られないなら自分も求めようとしない。あなた達はどうか?毎日先に求め、自分が先に安楽を得ている。

その時、尊き直貢チェ・ツァン法王も一緒に家を選びに行った。6月はインドで最も暑い時である。大通りに立つと日陰になる所はあったが、どこも竈のようだった。だがやはり、尊き直貢チェ・ツァン法王を伴い見に行った。現在、尊き直貢チェ・ツァン法王はとても便利になった。現在法王はとても喜ばれている。上師が喜んでいると弟子は加持が得られる。あなた達は今迄考えたこともなく、話してから行なう。上師への供養は最大の功徳を成就できる。多くのチベット人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊き直貢チェ・ツァン法王に供養を沢山捧げていることを知っている。さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェはみずから進んで修行する。こうして彼らは初めて、リンチェンドルジェ・リンポチェがリンポチェであることを確かに認めた。「金剛珠経」には「金剛上師金剛仏」と説かれている。だから、我々は金剛師を恭敬心をもって供養しなければならない。「空行金剛経」には、「一切如来身勇敢菩提師」と説かれる。即ち、一切如来の法身は常に勇敢な菩提師にある、即ち金剛上師の身にあるという意味だ。勇敢とは何か?衆生を済度するために、仏法を学ぶために、成就するために、生命を惜しまず、いかなる物も損得を計算せず、勇敢に前進する上師である。

「済接」とは真の伝承である。「四灌頂を受けた一切の候補、大灌頂を受けた金剛阿舎利上師」。これはあなた達に強調して伝えている。一人の上師は、自分自身戒律をしっかり守っているのと同時に、正真正銘の伝承を受けていなければならない。尊き直貢チェ・ツァン法王が「リンチェンドルジェ・リンポチェは20数年来ずっと尊き直貢チェ・ツァン法王の弟子である」と公に語られたようなものだ。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェ・ツァン法王の正真正銘の伝承を得ていることを公に伝えたことを示す。「四灌頂を受けた一切の候補」とは、我々の灌頂は身、口、意と秘密灌頂に分けられる。四つ目の灌頂はあなたが正真正銘の金剛弟子になったのなら別だが、通常は授けない。根本弟子にだけ与えられる。「大灌頂を受けた金剛阿舎利上師」であるが、いわゆる大灌頂とはこの上師を今世で成就させる非常に大きな灌頂である。通常は法王クラスによって灌頂される。一般のリンポチェは灌頂できない。リンチェンドルジェ・リンポチェもこの大灌頂を授かった。我々噶舉派には非常に特別な大灌頂がある。「噶舉密咒蔵」と言う。尊き直貢チェ・ツァン法王はある年、台湾にて灌頂を授けられた。15日間の灌頂であった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金がなかった。尊き直貢チェ・ツァン法王は御自ら主催者に電話をされた。その時、尊き直貢チェ・ツァン法王はまだ、リンチェンドルジェ・リンポチェという法号を授けていなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェの世俗名を告げ、お金を受け取ってはならない、必ず呼ぶように、彼が来たら私も来ると言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法会にいかなければ機会はなかった。大灌頂は非常に重要であった。

必要な時には、自分の施すのが難しいものを施し、供養の難しいものを供養する、或いは、自分の最も得難い貴重な生命を捨てて金剛上師に皈依すべきである。以前の人はこの様にしてきた。密法とは言わずとも、例えば禅宗の二祖は、ダルマ祖師の伝心法を求めるために、一本の腕を切り落として雪の上に一晚跪いた。あなた達は現在、この様に法を求める心は全くない。いつも上師に自分達に役立つ物を要求していて、この様な心はない。だから、ここでは非常にはっきり話そう。施すのが難しい物を施し、供養が難しいものを供養する。「必要な時」とはどんな意味なのか?この法を学べば自分を利益でき、衆生も利益できることをあなたは理解する。非常に重要な事は、あなたの成就を助けてくれることだ。あなたは一切の能力を使って上師に供養を捧げ御布施をする。こうしてこそ初めて上師はあなたに法を伝えてくれる。あなたは必ず聞く事だろう。なぜあなた達は一日中このことを言っているのか?仏法とお金の関係を話しているのではない。こういう意味ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェも皆に注意を促した。あなたの供養の量は重要ではなく、本質が非常に重要だ。清らかな心が非常に重要だ。あなたの心が清らかであるなら、供養の力も出てくる。今日の話はリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのではない。例えば、我々は偉大な成就を得られた多くの者達を見てきた。顕教、密教に拘らず、彼らは仏法を学ぶ前に、沢山の供養を行なう。あなたが供養したなら、あなたの福徳が生じ、この法を修法する際の一切の障碍を取り除くことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェについて言えば、我々リンポチェは必ず、息、懐、増、誅の四つの法を修する。この増法と誅法を修する時、多くの人に障碍が生じる。この閉関が終わらないかもしれない。閉関へ行く時に多くの事が起こり彼を行けなくする。突然上師に時間がなくなったり病気になる。多くの事が起きて修することができなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの四つの法をスムーズに修法した。しかも、尊き直貢チェ・ツァン法王が認証した成就に基づいて、四つの法はすべて成就が得られた。特に誅法も成就した。

もしあなたが今日、上師の加持と保護を得られていなかったなら、誅法を修した時に恐怖を感じる。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェ・ツァン法王のところで閉関した時、誅法を閉じる最後で関房の上に雷が落ちて関房全体が揺れた。あなたなら恐怖に慄くだろう。あなたの様な疑い深い人は怯える。アッと外に飛び出したらお終いだ。この関は閉じる必要がなくなる。だが、上師に供養を捧げ、上師に信心があり、恭敬するなら、あなたには絶対に恐怖心が起きない。2007年、ネパールの高山では、夜になると鬼影が非常に多く、人影はない。あなた達はきっと恐がるだろう。外は本当に真っ暗だ。しかも山々が連なる。そこにたまには盗賊が出現する。もし今日、あなたに上師に対する恭敬心がなかったら、あなたはこの部屋何日も閉じ込められて恐怖を感じるのではないか?前回叱責したあの弟子は閉関の七日目には必ず恐がるだろう。なぜ通常あなた達にこうしろ、ああしろと教えるのか?あなたが上師に100%恭敬できた時、奇妙な事に、あなたの信心はとても強烈になる。この強烈さは、上師が自分を必ず助けてくれると信じることではない。強烈な信心によって、今日、仏法を学ぶのは何のためかを知ることができる。非常にはっきりと知る。あなたが今日、仏法を学ぶのは何のためかがはっきりしたなら、あなたの恐怖心が起きることはない。

自分の富貴、享受を捨てる、或いは自分の財産物品を供養することについては、言う必要はないはずだ。言っても余計なことになる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に供養するようにとは言っていない。あなたがいくら供養するかを言う必要はない。言ったところでどうなるのだ?あなたは知っているはずだ。供養の後でお金がなくなるのを恐れる。法会に行ったのでクレジットカードを使い過ぎた等と言う者がいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェには何の関係があるのだ!ただあなたがカードを使い過ぎたくないのなら行かなくて良いではないか。恨みが出てしまった。あなたはこの様な人は密法を学べると思うのか?

後半で話したが、なぜ金剛上師に皈依することがこんなにも重要なのか?「合経」には「八万四千個法門不明法生本」と説かれる。あなた達は法自身の作用をはっきりと理解してはいない。「一切学無用,無得成就果(一切の無用を学んでも、成就果を得られない)」8万4千の法門のどれがあなたと縁があるか、どの法があなたに役立つのかを理解できない。盲目の者が象を撫でるのと同じ意味だ。「天尊論」には「前時百万劫,聞成一切法,若犯自加持,無法真義得。」と説かれる。即ち、あなたの過去世は百万劫を経た。あなたも一切の法を聴聞した。だが、あなたが自分で加持できると思ったので、真の意義を得ることはできない。前半でも語った。家の中に隠れて自分で唱えても、成就できない道理はここにある。

だから、金剛乗の一切の成就は、正真正銘に伝えられた円満の灌頂と正法の正しい教えに依る。正式に伝承される指導は必ず全て金剛上師に頼らなければならない。現在に至るまで、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり尊き直貢チェ・ツァン法王に頼っている。進めば進むほど、我々には必ず上師が必要なことがはっきりする。あなた達は、構わない、私が前にいて彼に少し良くしていればそれで良いと思っているかもしれない。進んで行くとあなたは知るだろう。上師は一切成就の根本である。真の伝承をする金剛上師がいてこそ、無上金剛乗の一切の成就を得ることができる。なぜ金剛上師は一切の根本なのか?それは、彼は全ての育成トレーニングを経ているからだ。全ての仏法の根本は彼の身にある。根本とは何か?一切の基礎だ。例えば、彼が基礎を教えないなら、この家がどんなに美しく、どんなに立派に建てられたとしても、少しの事故で全部崩壊してしまう。よって、過去10年、ずっとあなた達のために基礎固めをさせた。もし、この基礎をずっと築き続け、あなた達が受け入れられないなら仕方がない。だから、一人の正しい金剛上師がいないなら、あなたは金剛乗の中で成就することは不可能だ。金剛乗まで言わなくとも、顕教でさえも理解することはできないだろう。

金剛乗を修習する弟子は、永久にいつでも自分の力を尽くし、自分の受けた一切の戒律を守らなければならない。それから、常に各種一切の内外の供物を壇城(マンダラ)上の一切の如来に供養し、更に常に上師に供養を捧げる。上師と壇城中の本尊は合一し無二である。これは功徳が得られる最上級の法である。

あなた達はいつも仏菩薩、上師を分けている。それは間違いだ。上師と仏菩薩は全く同じ存在だ。なぜか?もしあなたが、これは凡夫の上師だと思ったなら、あなたが得る伝法は凡夫である。もしあなたが彼は仏菩薩の化身だと思ったなら、あなたが伝えられた法は仏法だ。ただ金剛乗だけにこの様な言い方がある。顕教、小乗の中にはこの様な言い方はない。だから、なぜかと疑う者もいる。なぜあなたという人は本尊と全く同じ存在だと言えるのか?元々我々の本性と仏とは全く同じだが、我々の多すぎる業力によって我々が分けているのだ。彼は仏、彼は菩薩、彼は凡夫と、分け続ける。分けたらどうなるのか!我々の心を永遠に清らかにできない。よって、上師を仏を見るように見るという意味は、この上師、彼の修行によって、彼の仏性は露出し続ける。だから、彼は仏と一致する。彼の心と仏の心は同じなのだから、彼の外貌はあなたが分別するべきものではない。今日もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが人でないなら、どうやって人の言葉を使ってあなた達に仏法を教えたらよいのか?もし今日、あなたが夢の中に現れたのこそが仏菩薩だと言うなら、あなたの間違いはもっと加算される。あなたが夢で見たのはあなたの意識が顕現されたものだ。だから、あなたが上師を見た時に、上師の心と仏は全く同じ存在である事が心の中ではっきりしているなら、彼は即ち仏である。彼は即ちあなたの本尊だ。だから、あなたが本尊を供養し上師を供養する事を分別しない。合一される。だから、なぜ毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関を終えた後に、全ての功徳を尊き直貢チェ・ツァン法王に供養するのか?それは、尊き直貢チェ・ツァン法王は即ち本尊であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師でもあり、分別しないからである。

だから、あなた達は常に誤った考えを持っている。私は自分のために修している、自分のために唱えていると言う。これは間違っている。もしあなたが自分のために唱えているなら、あなたと上師は徐々に遠くなる。これは功徳を得る最上級の方法だ。なぜあなた達はいつも修しても功徳がないのか。それは、あなたは分離しているからだ。あなたの心が分離すると、あなたの心は不浄になる。あなたは永遠に仏菩薩と上師の心とは相応できない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回の修法、毎回の供養は全て、尊き直貢チェ・ツァン法王を先にする。

以前にも話したことがある。我々チベット仏教は、御寺に入り、もし我々の上師に会いに行くなら、まず先に上師に頂礼する。上師への頂礼が終わり、本殿へ行く時間があるなら頂礼する。もし時間がないなら不要だ。多くの人は奇妙に思う。まず先に仏像に頂礼をしてこそ最も尊重することになるのでは?これはどの法門を修しているかによる。例えば顕教なら当然、仏様に先に頂礼する。なぜか?それは、多くの法師、出家者達はあなた達と異なるところがあまりないからだ。ただ彼らの生活方式はあなた達とは異なるが、あなたは仏像に頂礼すべきだ。一人の金剛上師が修する法門、彼の行なう一切の物事は、既に凡人が行なえる範囲を超越している。彼はただ仏菩薩を代表して物事を行なっているだけだ。それなら、まず先に彼に頂礼すべきではないか?実際には、毎回、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼する。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもあなたに加持を与える。なぜか?あなたに借りを作らないようにだ。あなたがリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼する。リンチェンドルジェ・リンポチェは唱え始め、あなたに加持を与える。沢山の人がリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めるのだが、既に加持は与えていたのに更にまた加持をしなければならない。あー!だから、この人達は理解していないのだ。だが、彼を責められない時もある。

よって、供養というものは非常に重要だ。実際に、我々はいかなる法の中でもいつも供養しなければならない。上師を供養する功徳と、一切諸々の仏如来をいつ何時でも供養する功徳は同じだ。上師を供養することで最上の福徳、智慧を得ることができる。この様な大量の功徳があるからだ。だから、上師への供養に尽力できる金剛乗の弟子は、迅速に無上金剛を成就できる。もしあなた達が密法を学ぶ準備ができていないなら、供養は少なくてよい。供養しなくても構わない。だが、金剛乗を学びたいなら、必ずこうしなければならない。

金剛上師は、あなたに大きな功徳を得させる重要な主だ。得られる功徳は十方一切の諸々の仏如来と同じだ。だから、大きな慈悲心をもつ金剛弟子は、自分の全ての物品を一切衆生のために供養し布施しなければならない。並びに、授かった一切の戒律を守り、他人の悪行、邪魔、破壊を恐れてはならない。後ろのこの言葉はあなた達のことを言っている。あなた達には沢山の理由がある。妻が原因で、夫が原因で、姑が原因で私は来られない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはよく言っている。それは全てあなたの問題だ。もし今日決意があるなら、一時期来られないとしても以後はやはり来られる。あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェに、誰が間違っていると言わなくても良い。もしまだ、私の仕事の関係で道場を手伝えない、私がどうでこうでとリンチェンドルジェ・リンポチェに言いに来る者がいるなら、それは全てあなたの過ちだ。どこが間違っているのか?あなたは供養をしていない。もしあなたが真心から供養するなら、この様な事が発生しても非常に短い間だ。ずっとあなたを邪魔することはない。あなたは、他人の邪魔、破壊、悪行を恐れることはない。なぜ恐れないのか?あなたは上師に対して100%の信心があるからだ。あなたのこの様な事は必ず消し去られる。ただ時間の問題だけだ。だが、あなた達はただリンチェンドルジェ・リンポチェのところに来て面倒を掛けるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにどんな関係があるのか?あなた自身が法、三宝、上師に対する恭敬心、信心が不足しているのだ。だから、何かがあなたの障碍になると恐くなって、飛んで来て、仏菩薩と上師があなたの用心棒になりますようにと願う。間違いだ。仏法を学ぶ過程の中で障碍のない人がいるのか?他人に悪事をされない者がいるのか?これは累世の自分の業だ!

もし今日、上師、仏菩薩に十分な信心があるのなら、この様な事を恐れることはない。あなたは喜んで受け入れ、ある日必ず過ぎ去ることを知る。以前ご飯を食べるお金のなかったリンチェンドルジェ・リンポチェも恐れたことはなかった。車に乗るお金がなくても、リンチェンドルジェ・リンポチェは恐れなかった。なぜ恐れないのか。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師、仏菩薩に信心があったからだ。これは自分の業だ!自分の業、自分のだ。もし上師に対する信心があるなら、上師はあなたに加持を与える。上師はあなたのこの業を、非常に短い時間内に迅速に消し去らせる。だが、やはり時間は必要だ。今日言って明日というのは不可能だ。そんなに良い事はない。だが、上師を信じるなら、この障碍はある日、あなたの今世で必ず取り除かれる。この上師が死んでいないのであれば、あなたは必ず上師に逢える。もし上師が死んだとしても、あなたはやはり彼に逢える。問題はあなた自身にある。結局のところ、あなたは上師に対する信心があるのかどうか、仏法に対する信心があるのかどうか、これが非常に重要だ。

忍耐心があり、苦を恐れず、困難を恐れない金剛弟子は、金剛上師と仏は同じだと考えるべきだ。如来と金剛は不二であり分離していない。だから、あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェと尊き直貢チェ・ツァン法王はどれほどの忍耐があるのかを見なさい。20数年も苦労を恐れなかった。お腹がすいても同じ様に礼拝した。それは、尊き直貢チェ・ツァン法王が必ずこの事をやるようにと言い付けたからだった。あなた達は、ああ!リンチェンドルジェ・リンポチェ、私は今日身体の具体が悪いので礼拝しなくてもよいか?いいですよ!リンチェンドルジェ・リンポチェとは関係ないではないのか?あなただけが身体の調子が悪いのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎が曲がっているのに、同じ様に毎日五体投地の礼拝をしている。困難を恐れない。どんな困難も恐れてはならない。これでこそ金剛弟子だ!

よって、顕教のお経に説かれているが、仏法を学ぶことは「大丈夫」の行為である。これは金剛乗を言っているのであって絶対に顕教ではない。何が「大丈夫」なのか?どのような環境にも順応でき、困難を恐れず、勇敢に前進し、どんな障碍も気にかけず、苦を恐れない人だ!この様な人こそが成就できる。なぜこんなにも弟子を選ぶのが難しいのか。この様な条件の人に出会うことは本当に難しい。簡単に言えば、尊き直貢チェ・ツァン法王には台湾にこんなにも多くの弟子がいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェだけがリンポチェを修することができた。道理はここにある。

現在、末法の暗黒時代である。一般の普通の人は真の仏身を見る縁がない。真の仏身よ、しっかり聞いて下さいよ!世間の真仏宗の真仏ではない。真仏身とは即ち、仏の法身、仏の智慧、仏の仏性であり、あなたには見えない。だから、一切如来は凡夫の身に姿を変え、一人の人身の金剛上師となって現れて伝法し、衆生を済度する。今日、どのリンポチェの出現も絶対に偶然ではない。必ず彼の前世にこの因縁があって今世にやって来た。絶対に偶然ではない。彼が運が良いのでもない。法王が彼を好んでいるのとは無関係だ。初期の頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは出て来たばかりで上師をしていた時、多くの人が尊き直貢チェ・ツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに少し多く教えたのではないかと考えた。それはない。その時、尊き直貢チェ・ツァン法王は他の人と全く同様にリンチェンドルジェ・リンポチェに教えた。それなら、なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは出て来られたのか?沢山の原因がある。ここで少しはっきりしたことがある。今日、一人の上師が出現できたなら、絶対にあなた達が想像するような一般の輪廻から来た人ではない。彼の過去世がリンポチェであったかどうかに拘らず、彼が今世で修して成就し、認証があるなら、全てはっきりしている。絶対に一般の普通人ではない。この点を皆ははっきりさせなければならない。彼は伝法し衆生を済度するために来たのだ。

よって、全ての金剛乗の弟子は、上師を一切如来金剛仏の共通の化身と見なさなければならない。彼の身口意は即ち、諸々の仏本尊の三密である。この「密」は秘密の密ではない。即ち、我々を生死から解脱させ、仏の境地に至らせる一切秘密の教えである。さらに、上師に対する恭敬心、信仰心を高め、力を尽くして一切の不浄、不仁、不義、及び不信仰の考えを捨て去る。よく聞きなさい!不敬だけでなく、不仁、不義もだ。不仁とは何か?不義とは何か?承諾した事を臨時的に尻切れトンボにする。自分の利益のためにすぐに「しない」と言う。これを不義と言う。義とは何か?承諾した事はやらなければならない。できない事は承諾するな。現在、こういう人が沢山いる。承諾した事を途中までやって、相手と仕事で衝突し、相手の利益に衝突してすぐにやめる。更には哀れだと言って上師に認めてもらおうとする。これは不義だ。不仁とは何か?言い付けた事をしっかりやらず、いかなる衆生に対して少しの慈悲心もない。これを不仁と言う。並びに、不信仰の考え。もし上師に対して不敬の考えを持つなら、すぐに懺悔しなければならない。三昧に引用される経論の道理を用いてこの考えを消滅させ、その場で懺悔しなければならない。もし彼があなたを誤解していると思うなら、それは全て上師に対する不敬だ。もし上師があなたを誤解していると思うなら、即ち不敬だ。なぜか?上師があなたを誤解するというのはあなた自身の考えだ。なぜあなたは彼があなたを誤解してると思ったのか?彼があなたの主観的な考えを実行できないので、彼があなたを誤解してると思うのか?なぜあなたは上師があなたを理解していないと思うのか?それは、あなたの心が複雑すぎるからだ。あなたの自分勝手な考えが多過ぎるからだ。

上師を恭敬し、上師を信仰することは、現在、未来の成就の因と根本である。もし若干の欠点があるなら、上師戒を破ることになり絶対に成就できない。よって、今日はここまでにするので、皆には家で思惟することを望む。なぜなら、来年から密法を伝え始めるからだ。密法は不共である。四加行もまた密法である。多くの人は、あなたによって不共の四加行は伝えられたが、灌頂は伝えられていないので数に入らないと思っている。それは間違いだ。なぜ不共と言うのか。不共は即ち密法だ。共は顕教だ。不共は密法だ。では、不共とはどんな意味なのか?共同で修さない一つの方法である。よって、一般人が共同で学び、共同で修せるものではない。共は、共同で修することができる。顕教は共である。また、不共は公開しないものである。特定のある団体、ある機根によってのみ伝えられる。あなたが伝授されたのであれば、あなたが上師に対して先に述べたような事を行ない、まだ懺悔していない者、自分には間違いはないとまだ思っている者、自分の間違いがどこにあるのかが分からない者は、全て懺悔していないことになる。自分の間違いがどこにあるのかが分からない者はいない。もしあなたが自分の間違いがどこにあるのかを理解できず、自分には間違いはないと思っているのなら、間違いを認めない人だ。間違いを認めない人のどこに懺悔心があるのか!懺悔心がないなら、上師に対してどこに信心が持てるのか!信心がないなら、あなたは自分の過去世の一切の悪業を変えることができるのか?これはとても簡単な事だ。微妙な一つの変化でもある。なら、誰が変えるのか?自分が変えるのだ。

ある弟子は、以前仏法を少し学んでおり、自分は大した者だと思っていた。だから、一日中奇妙な動作、思考をしていた。なぜこうなのか?間違いに気付かなかったのだ。それから、もう一人の弟子もまた、一日中自分は正しい、全ては他人の間違いだと思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの名言をよく覚えておきなさい!千の過ち万の過ちは全て自分の過ちだ。絶対に、ある考えを持ってはならない。つまり、千の過ち万の過ちは全て他人の過ちという考えだ。我々は如何なる理由をつけて自分の身口意の間違いを弁解してはならない。あなたはまた過ちを犯す。言い訳は不要だ。もし今日、人に罪をなすりつけられ、人に痛い目に合わせられ、人に誤解されたのも全てあなたの間違いだ。間違いはどこにあるのか。間違いは過去世でこの事を犯したことにある。もし過去世、過去世については言わずとも、今世で、あなたは人を批判したことはないのか?人に罪をなすりつけたことがないなら、絶対に人があなたに罪をなすりつけることはない。我々が物事をわきまえるようになってから、我々がしゃべれるようになってから、誰が他人を批判した事のない者がいるのか?誰が他人に罪をなすりつけたことがない者がいるのか?家に兄弟姉妹がいるなら、こんな事はよく起こる。両親が叩こうとした時、私じゃない、僕じゃない、誰々が自分にこうさせたのだと言う。そうではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、こんな事をしたことがない者は手を挙げるように、と指示した。あなたは今世で間違った事をしたことがないとまだ思っている。学校の先生があなたを罰しようとした時、私はこうしたくなかったが、彼がこうさせたのだと言う。これが即ち、千の過ち万の過ちは全て他人の過ちだ。だから、あなたが顕教を学ぶ、密教を学ぶにかかわらず、自分の過ちを知る必要がある。もし間違いがないのなら、まだここで何をしているのか。もし間違いがないなら、なぜ沢山の事を変えられないのか。それはやはり間違いがあるからだろう。もしあなたが自分にはどこに間違いがあるのかが分からないと言うなら、深刻さが更に増す。あなたという人は愚痴(無知)の人だ。ここまで語ったら、あなたを弟子にできない。なぜ愚痴なのか?懺悔心がないからだ。上師を恭敬しておらず、信心がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの沢山の話を皆に聞かせた。尊き直貢チェ・ツァン法王はどう語られたか。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで言い訳をしたことがないと言われた。前回閉関が終わり出て来た時に、最初に怒鳴られた。リンチェンドルジェ・リンポチェがウェブサイトで直貢チェ・ツァン法王が書くべきでないと思われた事を書いた、と怒鳴った。実のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは無実の罪だった。リンチェンドルジェ・リンポチェが書いたのではなく、弟子が書いたからであった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは認めて「法王、申し訳ございません」とすぐに言った。直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを叱ってくれたことを感謝した。直貢チェ・ツァン法王はよく叱ってくれた。あなた達なら、これは誰々が書いたのだと弁解するだろう。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは弁解しなかったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは馬鹿だからだ!馬鹿な弟子を取って自分を痛めつけている。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの業だ。閉関が終わり、直貢チェ・ツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは草の上で食事をしていた。その時、直貢チェ・ツァン法王は「今からあなたを叱る」と言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに直貢チェ・ツァン法王に感謝すると、怒鳴り始めた。あなた達なら納得できるか?すぐに、戻って誰が書き間違ったのかを見てからリンチェンドルジェ・リンポチェに報告すると言うだろう。だから、なぜあなた達は仏法を学ぶ事が難しいとずっと感じているのか。道理はここにある。もし今日、あなたが自分を変えることができたなら、あなたの家庭で、あなたの仕事で必ず良い変化がある事をリンチェンドルジェ・リンポチェは信じている。

現在、全世界の人が、人に騙されるのではないかと恐れている。全世界の人が、責任を負おうとしない。それなら、以後、人から尊敬を受けるのは誰なのか?人を騙さない人、責任感のある人だ。あなた達が続けて責任を負おうとしないのなら、あなたの運命を変えることができるのか?不可能だ。言った言葉は実行しなければならない。行なう動作はいずれの事も責任を取らなければならない。逃避してはならない。間違いは間違いであると認めなくてはならない。間違ったら改める。儒教思想にしても、道教思想にしても、我々の仏教思想にしても、何れにおいても、あなたは未来の聖人だと言う。あなたが改めようとしないことが最も恐ろしい。改めようと考えないことが最も恐ろしい。この様な人は転じられない。だから、今日はここまでとする。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2014 年 11 月 26 日 更新