尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2012年9月30日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な施身法法会を開催されて、合計で1,492人が参加した。

法会が始まる前に、先週の日曜日(9月23日)に皈依した外国籍(米国籍)の男性の弟子は英語で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けた事績を分かち合った。(此処をクリックし英文の原文を参照のこと。)

2ヶ月の前、彼は彼がとても昔に人を殺したことを夢見て、警官があちこち彼を探している。彼はこの事に対して記憶がないが、しかしも、心の中では、自分が気が狂っているかどうか、本当に殺人の犯罪を犯したかどうか、心の中でそれを抑えたか、と確定することができない。甚だしきに至っては目が覚めた後で、心の中では依然として、「私は確か人を殺したか。私は気が狂っているか?」と疑惑している。彼が理知を回復した後、彼は自分が人を殺したことがないのを知っているが、しかしこの事は彼にいっそう真剣に彼が過去に犯した過ちを考えさせた。彼は嘗て、私達が無明でやった事が全て後果がある、と聞いたことがある。彼が過去に犯した大きな間違いは、彼の抜け出すことができない最も重い負担である。

彼が17歳の時であり、無知のため他人の影響を受けて、麻薬がやみつきになって、しかももう少しで貴重な生命を壊すことを招いた。落ちれば落ちるほど深くなる時、彼は逃げる方法を探し当てることを渇望している。その時、彼は1冊の本の中で1枚の仏陀が禅を座る画像を見て、突然、彼はこれも自分がするべきな事が分かった。

彼はすぐに自分の生活を変えて、例えば不良な生活習慣をやめて、茹素をし始めて、しかも上師を探したい。彼はインドに行って、1名の僧侶になって、そしてインドの密法を修習した。教規を守るため、彼は甚だしきに至っては米国にいる両親との連絡を断ち、9年来、彼の両親がどこで彼がどこにいるかが分からない。彼の両親にとって、これは彼の訃報を受け取るよりもっとたまらない。彼は両親に長期しかも比類がない苦痛を齎して、それから両親は寛容に彼を許したが、しかし彼は自分の罪過が依然として存在していることと思っている。

その時、彼は明確で崇高な目標と道徳規範を具える修行を行っているが、しかし同時に、彼は自分の行為について心の中で疑惑を持っている。彼は自分で、是と非、仁慈と利己的な事、真実と偽りをはっきり区別できないことを知っている。彼は今、他の人に教える時に、一体彼らを助けるかそれとも彼らを害するか、とよく自問した。

彼は墓地と火葬場など地で禅修したことがあって、その上禅修するため、彼はまた多くの墓穴の中から他の人の頭蓋骨を持って去った。その時、彼は何かよくない所が決して無いが、しかし今彼はこのような行為が一体他の人にどれだけの苦痛と傷害を齎したかと自問した。

その後、彼の妻(彼女も皈依弟子である)に出会って、彼は急速にこのような修行の方法を捨てて、当時急速にそれを受けたようと同じである。彼は彼の妻が彼の知り合っている人か知っている人よりも、とても善良だと感じる。彼の妻は彼よりずっと若いが、数年来、彼がすでに彼女の認知と決定を信じることが学ぶことができて、彼は合理的に客観的に物事を評価したら理解したりし始めた。しかし彼はうっかりと戻って、流浪する生活を行ったことも二度もある。これはきっと彼の妻にきわめて苦痛にならせた。彼の妻は彼が帰ることを許したが、彼女にとって、彼が恐らく道理を解き明かしにくい伴侶である。

彼の最大の罪は妻に堕胎したことを説得したことである、--彼の罪は2重である。

幸運なのは彼が仏法を修習し始めたのである;更に幸運なのは、最初から彼は《大蔵経》に対して絶対的な自信がある。嘗て小乗仏教を修習したことがあるから、彼は愚かで、妻と娘が金剛乗に皈依した喜びを分かち合うことができなくて、甚だしきに至ってはそのため何度も怒ったことがあり、特に彼女たちが国外へ法会に参加した場合、あるいは彼の計画に影響した場合、更にそのとおりである。

とても長い時間で、彼はずっと自説に固執していて、仏陀がすべての人が自分の努力を通じて解脱を得ると諭されて、その故別に上師が指導する必要がないと思っている。今彼が知っているのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが各種の方法で彼らの家を助けて、この2年来、彼が次第にリンチェンドルジェ・リンポチェに親しくしている 後、彼に何が真な慈悲であるかを目撃させた。先月土曜日ごとにリンチェンドルジェ・リンポチェと拝謁した後に、彼は自分の「我執」のため、自分と他人にどのくらい悩みを齎したかが分からない。

この約20年の仏を学ぶ道の上に、今彼は毎日すべて愉快に自分の考え、意見、執着を下ろすことができない。彼は考え、習性と意見が心の中で生起して、しかもそれらを漂って去るようにさせた、と見られる。そうすると、彼の前にある仏法が澄みきっていて広大になる。これは彼が深く信じることができる大慈大悲の仏法上師を探し当てたから。

この世、彼はきっとまたたくさんの深刻な過ちを犯したと思っているから、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれるよう祈請して、彼にこれらの過ちを思い出せてしかも懺悔することができて、ガラスの上の長年に積んでいる塵を一掃するようである。彼もリンチェンドルジェ・リンポチェに祈って、彼に短い時間の内で学ぶべき事を教えてくれる。同時にリンチェンドルジェ・リンポチェに祈って、彼にいかなる仕事をするように指示するようにお願いした。こんなに長年を通って、こんなに多くの過ちを犯したことがあり、彼はすでにもう時間が浪費することができないのを知っている。

最後、彼はこの功徳を十方法界の一切衆生に迴向するよう祈願した。リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝する。リンチェンドルジェ・リンポチェが法輪が常に転ずて、無数の有情の衆生に利益するよう祈願した。

そして、2011年7月に皈依した女子の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲に彼女の母親を救った事績を分かち合った。

2011年の旧正月、彼女の母親は脳溢血で人事不省になって、急診室に送った後に、だんだん自主的に呼吸することができなくなるから、挿管の治療が必要とする。その時、愚鈍な彼女と家族は仏法の殊勝さがまだ知っていないで、積極的に関連の資料を探して、医師と彼女の母親の病状を持続的に打ち合わせて、治療の状況を了解するだけではなくて、あちこち神に頼んだり占ったりすることをも始めて、全家族は一心にただ母がこの難関を越えることができる、と望んでいる。

彼女の母親の脳出血の量はとても大きくて、200C.C程度だと予想している。その時、家族は脳溢血の場合に異常ないびきの音が現れることが分からないから、母親があまりに疲れて休んでいると思い間違って、脳溢血が発生した約11時間後、やっと病院まで送ったことをもたらした。母が病院に着いた後に、Glasgow Coma Scale(GCS)(グラスゴー・コーマ・スケール)の指数が4から7~9まで徐々に上昇したが、医師が彼らにいかなる保証をして上げる勇気がなくて、話の内容と言葉遣いの間にはとても保守的であり、ただ嘗てある患者が1年後でやっと目が覚めた実例だげを言ったのである。

母親が数年前に危篤になる時に応急手当をしないという考えを持っているが、しかし彼らのこれいわゆる家族--母親の冤親債主達は、依然として母のために応急手当を受けることを決定した。彼らは応急手当を行なったことを見た後に、母が全身多くの所に挿管されていて、まるでリンチェンドルジェ・リンポチェが数度も開示されたように「多管斉下(体は多くの所が同時に挿管されること)」の病気の苦しみである。これらの医療処置を見てから、ある時に彼女は我慢できなくて涙を流して、母に「すべては私がよくなくて、あなたをあまりよく配慮していないから、あなたをこのように苦しみを受けさせた。」と話した。話し終わった後に、彼女は突然にはっきり母がにわかに頭を振ったことを感じて、そして手を伸ばして彼女の頭を触って、「このように思わないでください。これはあなたの問題ではない。」と言った。もともとは頭を下げている彼女は、驚いて頭を上げて母を見て、母が実はややもすると同じく動いていなくて、依然として人事不省になって動くことができない。今度の経験があって、彼女に母が他の人が言うように人事不省になって苦痛を知らないのではないことを信じさせた。

それから、彼女は法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェの「人事不省になっている者は一層のガラスをあけているように、彼らの苦しみを表現して家族に知らせることができない。」との開示を聞いた。彼女は確かに母親が当時人事不省になって受けた苦しみがやっと分かった。医師が何も保証することができない下、彼女は全然に母が更にどのくらいの苦難を受けるかが分からないで、内心ではもがいていて、心の中にも、いかなる積極性の医療処置を放棄するべきかどうか、もう母の苦痛を増加しないことを考え始めた。

道場の2人の兄弟子の協力で、彼らが2011年2月19日に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと拝謁することを申し込んだことに感謝して、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを祈り求めて、母の苦痛を軽減するよう望んでいる。拝謁することを待つ期間、数人の兄弟子が絶えずにリンチェンドルジェ・リンポチェの衆生を度した事績を分かち合ったことに感謝して、彼らをリンチェンドルジェ・リンポチェに信心を生起させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに「何かあるか。」と聞いて、彼女が「母が今ICU病棟にいて、現在依然として人事不省になって、リンチェンドルジェ・リンポチェが母のため苦痛を軽減することを祈り求めたい。」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェがうなずいて、そして彼女と兄に、「あなた達の手にはいくらかの数珠を掛けているから、普段よくどこに行ったのか?」と聞いた。彼女は数年前顕教に皈依したことがあるが、しかし努力して修行することを一度も無くて、たまに法会に参加して、しょう油をつけるように、全行程で参加したことが殆ど無くて、まるで遊びばかりをしていて、よくサボる悪い学生であり、その故に彼女がただ偶に北部のある道場に行ったことを答える勇気だけあるのである。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは母親の名前と生まれ年を聞いた後に、「私はそなたの母親を加持して助けて、もし寿縁が良いであれば、そなたの母にゆっくりと回復させることができる。もし寿の縁が尽きると、彼女に良い所まで行かせることができる。」と開示した。その時の彼女は暗黒の中で長い間通行してついに1本の曙光に会った楽しさのようである。しかし、この曙光に会った後、愚鈍な彼女は心が変わって、彼女が何を求めるかを忘れて、貪念がまた起きて、意外にもリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する同時に、「やはり母親が直れることができると望む。」と言った。この話は彼女の心構えがやはり母親がこの関を越えられるのを望むことを説明して、彼女は渾然と分からない。幸いに、リンチェンドルジェ・リンポチェは頂門の1針を言って、「私は加持しない、私が一度救うことができる、2度救うことができるが、しかし、救うことができない時もあるから、あなた達がこのように因果を顧みなくて、その時、そなた達は仏菩薩がもう慈悲でないことを言い出すでしょう。」と開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェが話し終わった後に、彼女と兄にそばに行って108回大礼拝することを要した。

一度も大礼拝をやったことがない彼女は、すぐ自分が間違いを犯してしまって懲罰を受けて、さらに彼女の兄を巻き添えにすると思っている。彼女は体がずっとあまり良くなくて、だから兄を心配しながら、一方で自分がやり終えるかどうかをも心配している。道場のボランティアの兄弟子は彼らにもう108回をやってしまったことを告知した時、彼女は全然信じることができなくて、実はこれはすべて、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持のため、やっと彼らに完成させたのである。大礼拝をやり終えて、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に開示して、彼らが大礼拝することを要するのは、母親が福報を累積する因縁を持つように助けて、彼らはただ母親が治れることだけを考えたが、母親が衆生の肉を食べたことがあると思い付いていないで、返済しなければならないから、母親は今体で返済したのである。

彼女がただ偶にこの前の道場に行っただけを言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が仏を学ぶしまりがない心構えについて、やはり非常にはっきりしている。同時に彼女をひどく厳しく責めて、一人の皈依弟子として、まさか無常さえも知らないか、まだ因果を深く信じないか、読経するのはいい加減であると開示して、最後はまた慈愛深い父のように彼らがとても親孝行で、今日道場に来るのは母親のために1つのとても大きな善因を植えたと言って、そして彼らが早く帰って母を見ることを要して、もし信心が出来るならば、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁することを申し込むことができると教えた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝して、時間さえも彼らによく手配して手伝って、彼らをICU病棟が閉める5分前に到着させて、病院は当日に特別に彼らが継続的に病室の中で更に1時間も滞在することを許して、その夜彼女の母親も初めて彼女の頭を両側に曲がって家族を見ることができた。

当日に彼女は家族と夫に、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持と指示を分かち合った。いつも何も信じていない夫は意外にも聞いた後、「リンチェンドルジェ・リンポチェは別の法師と異なって、私はあなたが再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁することを申し込むべきだと思っている。」と言った。彼女の夫の話は彼女を非常に驚かせた。まるて、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示されたように、母親が体で弁済している。だから一つまた一つの侵入性治療は中断することが無くて、その後医師は甚だしきに至っては気切することを主張して、もともとは家族はこのような積極性の医療処置に賛成しないが、しかし意外にも医師が説明した後、一部の家族の心は動揺を始めて、そして2011年3月1日に管を抜く同時に気切するかどうかを決定すると計画している。

医師の言い方によって、気切が彼女の母を少し心地良くならせることができて、彼女は慌てていて、そこで再度リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、気切するかどうか彼らが自分で決定しなければならないと開示したが、しかし実は彼女は、慈悲な上師がもう母を助けたことを知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは同時に開示して、彼女が夫をいじめて、夫を尊重しないで、道場に仏を学びに来ることも事前に夫の同意を得ていないと言って、そして、慈愛深い父のように、彼女の夫はどんな事をする時にすべて彼女を尊重しているから、その故に彼女も万事でも先生を尊重しなければならない。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、彼女が母を代表して大礼拝して、犯した殺業を懺悔することを慈悲に承諾して、そして母のかわり、共修法会と施身法法会に参加し始めた。

当時、彼女は少し驚いたが、何故母の事は夫に関わるのを分からない。しかし、その後よく考えると、若し自分が確実に行わないと如何なる母を変わりに求めるだろうか。若し自分が確実に行わないと、夫は如何なる信じるだろうか。若し自分が確実に修正しないと、彼女が仏を学ぶ道で必ずもっと沢山な障碍が現れる。リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、絶えずに弟子達のために機会を作って障碍を除いて、因縁福報を累積させる。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した後、主治医は却って彼女の母の状況が気管切開を行う必要がなく、再び挿管する必要もないと言った。医師の判断を聞いた後、彼女は心から感動の気持ちを溢れて、言葉で言えない。本当に非常にリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝している。

チューブを抜いた二日後、彼女の母は看護婦に有難うと言った。脳部のドレン管も抜いた。その後、医師及び看護婦から聞いて、実は彼女の母が全ての進捗は彼達に驚かせた。一連の奇跡だと思った。彼女の母はこのような酷い脳出血で尚更に遅くまで発見して、84日入院した後、歩いて病院を離れたのは医師も考えられない。彼女の母は脳出血から回復して、全ての変化は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持のお陰だ。

長年以来、彼女の母は家の三食の肉料理を作った以外、菜食もしなかった。若い時、お正月のため親戚が送った鶏を殺した。彼女の母は嘗て彼女達に文句したが、実家で鶏を飼うのに自分が鶏を殺す必要がないが、結婚した後鶏を殺す必要だ。更にその後、家族の保健のために数え切れない鶏を傷付いて、鶏のエキスを煮込んだ。此の世だけいくらの衆生を傷付いたのを分からない。累世も言うまでもない。だから、ある施身法法会の前に、彼女は母に傷付けられた鶏達が自分と一緒に施身法法会して、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼達を助けて苦しみを離れて欲しい。思わず、あの施身法法会が終わった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。「そなた達は分からないが、今日沢山な鶏が来た。」彼女はその時心から感動の気持ちが溢れて、始めて気付いたが、母に傷付けられた衆生は既に長い間に苦しみを受けている。若しリンチェンドルジェ・リンポチェに出会わないと、この傷付けられた衆生はいつまでに苦しんでいるか分からない。若しリンチェンドルジェ・リンポチェに出会わないと、悪行を犯した彼女はいつか気付いて懺悔するのを分からない。

その後、引き続きに何回もリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する時、彼女は母を代わりに作った殺業を懺悔して欲しかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女の要請を同意して、母を代わりに大礼拝をして、懺悔の仏法テープを求めた以外、更に彼女に開示されたが、帰宅した後必ず兄弟に伝えて、彼女達の母は今救われたけど、彼女に美味しい料理を食べさせたり、綺麗な服を着させたり、いい日々を過ごすわけではない。彼女に時間を与えて福報を累積させる。更に開示されたが、両親を親孝行する最もいい方式は仏を学ぶ事である。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回彼女を接見した後、いつも彼女に提示して、早めに帰宅して夫に心配させない。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に加持に感謝して、兄弟に次々に始めて菜食して、殺生の機会を減らせた。また夫に同意させて、子供が一緒に法会に参加させる。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが不思議な摂受力で元々天主教(ローマ-カトリック教)に信じて、母を世話する看護さんに今年(2012年)にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させた。

この女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝して、彼女に母が入院した時に機会が有って、母及び衆生を代わりにリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な仏法開示を聞かせた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、約2000CCの脳出血して80数日間に入院している母に前述の説明したように様々な医療処置を受けた後、順調にチューブを抜いて、気管切開など医療の苦しみを受ける必要がない。このような医療の苦しみは母にとって、嘗て発生した事がないように忘れた。現在彼女の母は体の不具合及び昔に執着した沢山な事に向き合うと、全て受け入れるらしい。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝して、母に法会に参加させて、母に時間を与えて機会が有って一切衆生を代わりに正信仏法を聞ける。更に記憶を失った状況で引き続きに菜食して、衆生を傷付ける機会を減らせた。彼女もリンチェンドルジェ・リンポチェの頂門の1針を感謝して、彼女の沢山な問題を指摘して、彼女の貪・瞋・痴・慢・疑及び因果を深く信じない心を次々と重なってたたいて、彼女に目が覚めた。彼女は自分が仏を学ぶ以来散漫と懈怠を懺悔して、欲望で仏菩薩を求めて、仏菩薩を脅して上師と三宝に恭敬心が不足なので、散乱の心で仏法を聞いた。

最後リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝して、彼女に皈依させて正信仏法を学んだ。毎回の法会の中に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲と大願力及び急いで衆生を済度する心を深く感じている。リンチェンドルジェ・リンポチェは何回も開示されて、皆に機会を把握して仏を学んで、仏法は住世する時間が長くないから、人身を得て正信仏法を聞いて、徳を具える上師を依止機会を大切して、尚更に中国語を話せるチベット仏教伝法上師が仏法を教える機会を大切しなければならない。此れは何故寶吉祥仏法センターで仏を学んで自分の問題を修正するのはゆっくりして、大丈夫、此れからの話ではない。寶吉祥仏法センターで仏を学ぶのは急いで早めに自分の行為を修正しなければならない。

彼女は決心して必ず上師の教えに従って、最も大きい恭敬心及び信心で努力して尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学んで輪廻を解脱する。最後彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがご健康、法輪が常に転じて、仏法事業は繁栄する事を恭しく祈って、また嘗て彼女を助けた兄弟子達を感謝した。

施身法法会が始まって、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法席に昇って、修法する前に参列者に貴重な仏法開示を与えられた。

今日沢山な信衆は始めて参加したが、ある者を好奇心を持って、リンチェンドルジェ・リンポチェが何をすると見たがった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び参列者に施身法を開示された。施身法はチベット仏教に於いて八大成就法の一つである。成就法とは此の世にこの法を専念に修める修行者は成就を得られる。つまり、必ず生死を解脱できる。「施身法」は中国語の翻訳であり、チベット語では断つことを意味する。即ち輪廻の煩悩を断ち切ることである。施身法はある在家の女ヨガ者-マッチラ尊が創られた。尊者が既婚して子供も生んだ。現在でもチベットに於いて、マッチラ尊の伝承を見つけられる。施身法の法本は《大般若経》によって書かれた。「般若」はサンスクリット語で中国語を翻訳しなかった。それは沢山な意味があるから、概略で「智慧」で解釈してもいい。釈迦牟尼仏は十数年の時間をかけて、「般若」の意義を解釈していた。

施身法を修める修行者は必ず智慧と慈悲を具えなければならない。一つを欠ければできない。慈悲があって智慧がないと、偽善者になる。智慧があって慈悲がないと傲慢になってこの法も修められない。たとえ修めても自分に役に立たなくて、衆生に利益できない。だから、慈悲と智慧は必ず共同に修めなければならない。如何なる慈悲を修めるだろうか。ある者は他人が苦しめているのを見ると、彼を助ければ慈悲だと思う。実は此れは慈悲ではなくて、人として持つ善念であり、持っている惻隠の情である。同病相哀れむから、同様に人なので、他人が苦しめるのを見ると自然に同感する。此れは慈悲ではない。実は犬は他の犬が傷付けることを見ると涙も流れた。唯同類だから。真の慈悲とは自分が最もいいことを全て捨てて衆生に与えて、更に衆生を助けて輪廻苦海を離れる。慈悲を証するとは行いたいなら行えるわけではない。長い時間に経って習わなければならない。更に自分の考えを持って仏を学ぶ事が出来ない。そうすると、徐々に慈悲心を培養できる。智慧は戒、定、慧の修行を通して、必ず上師が止らなくて監督の下に開ける。

施身法を修めるのは少なくとも十年以上の顕教基礎がある必要である。更に仏法に従って修行して閉関修行しなければならない。また深い禅定を具えて、少なくとも大手印の第二段階-離戯瑜伽を証しなければならない。即ち空性の意義と体得はある程度に達て、世間の一切は遊戯のように縁により起して真実ではないと体得できる。離戯瑜伽を修める修行者はとても少ないが、施身法で衆生を利益する修行者は尚更に少ない。この法会に参加できるのは累世の因縁がないと、機会がない。多くの人は《金剛経》を読んだ事がある。経に説かれた「夢幻泡影の如く」である。夢幻の如くとはどんな事でも夢のように幻のように泡と同じで触ると破滅した夢のように真実ではないが、唯縁が起こると物事が発生して、縁が終わると物事は存在しない。

《金剛経》にも「露の如く、電の如く」説かれたが、世間に於いて全ては露のようにいつでも消える。現在の人はスマートフォームを使う事が好き、一日中に携帯電話で情報を読んでいる、実はこの携帯は全て電磁波を発す。この電磁波は人が生活の磁場を影響するから、現代人は電が溢れる環境で生活している。

皆はいつもスマートフォームを使っているが、即ち体は毎日通電している。だから、現在男女の間は何故簡単に感電するだろうか。お互いに放電するので、稲妻、雷が鳴っている。知り合うから付き合って、結婚するまで速めに進展している。それは皆は全て放電して毎日エネルギーを発して、誰が感電されると見た。スマートフォームを使う時、必ず電磁波があって、不断に電磁波に妨げられて、皆の脳細胞は休んでいない。

何故現在多くの子供は落ち着かないや多動性の傾向があるだろうか。肉を食べると家族の殺業以外、それは彼達の脳電波は止らないから、常に刺激を受けて専念しにくい。大人でも同じで事をする時集中しない習慣がついて、一心で多用する。此処で事をしながら、目は携帯を見て、大脳は一刻でも休まない。ある者は所謂エネルギーを吸収する活動を参加するが、実は特に求める必要がない。それは我々は毎日元々エネルギーを吸収して、釈放している。此れは自然の現象である。

実は宇宙の中に於いて、一切現象は全て衆生の心の作用から起こって、心が動くと生じて、心が動かないと、この現象が起こらない。例えば、皆の部屋の環境と装飾が異なるが、此れは何故だろうか。それはそなたの部屋の装飾はそなたの心から考えられた。彼の家の装飾は彼の心から考えられた。全ての人の家は異なるのは人によって心が考えるのは異なるから、考えた環境も異なる。《金剛経》に説かれたが、菩薩果位を証するのは四相を破る必要だ。その中に一つは「無寿者相」である。また、「寿者」とは時間である。何故地球が回るだろうか。科学者は我々に言ったが、若し宇宙の中に惑星の回りがないと光がないと時間の存在がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者のためにポワ法を修めるが、入定から修法して時間が存在していない。仏法が我々に知らせて、地球が動けるのは人の心が動くから。若し地球に60億人口は全て入定すれば、地球が動かない。現在地球は回る速度が速くなっているのは人の心は動けば動くほど速いから。地球の人口は益々多くなって心も止らなくて動いている。若しこのまま続くと、一日中脳電波は止らなくて動くと。地球は回れれば回るほど速かった。その時、人は宇宙へ飛ぶかもしれない。此れは本当に発生できる事なので、わざと人に恐れさせるわけではない。

ある者は夫が長年に自分を優しく対応してくれないや自分が子供を我慢して、既に20年になるから苦しめると思った。このような人は時間の存在がないわけではないと言うかもしれない。自分が長い間に我慢していると感じた。実は全てそなた達の心が執着しているから、時間がとても長いと感じる。人々は全ての快楽と苦痛は全て短くて永遠ではない。実はたとえ20年でも因縁が終わる時、あの発生した事は幻のように最初から存在していないようだ。仏を学ぶ人は他の宗教は外道と呼ばれて、この言い方は軽蔑する意味ではないが、それは彼達は物質から道理を探すが、仏法は科学の角度、自然の現象から物事の原因を解釈する。

仏経に描かれた沢山な境界は神話ではなくて、確実に存在している宇宙現象である。多くの人は仏が唯物語りを説くと思ったが、実は仏経に説かれた多くの境界は全て宇宙中の真理である。唯過去でこの科学の名詞がないから、皆は分からない。だから釈迦牟尼仏はとても多くの語句で形容する。現在科学がとても発達して、例えば、《金剛経》に説かれた「露の如く、電の如く」の電は現代人はかなり分かりやすい。仏は既に世間の一切真理を見たから、早めに予言した。時代が異なる人はお互いに分かり難いから、若し古代の人は現代に来ると、彼達も皆が何をするのを分からない。古代人は現代人が如何なる電話で異なる地区の人と会話するのを分からない。

世間の問題は全て三つの語句から起こった。貪、瞋、痴である。その中に第一は「貪」である。何故皆は煩悩があるだろうか。それは不断に自分の欲望を放任して、自分の貪欲を満足しているから。仏は皆に付き合う、仕事、食事、結婚など禁止と教えないが、仏が説かれた貪は自分の能力範囲を超える事を要求する事である。そなたが現在できることを超えて、そなたは無理に行うのは貪である。貪欲を合理化するため、沢山な形容詞を発明して解釈する。例えば、「食べ放題」バイキング。自分が既に食べられないが、もっと沢山に取って、もっと食べたい。だから、台湾でバイキングを経営する業者は皆赤字だ。商売する人は誰でも金を儲けたいが、そなた達に食べ放題させるのはいい食材ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の国でバイキングを食べる時、食事する人は沢山を取らないが、台湾のように一部の者が皿に食べ物を高くて積んだ。また食べた後体調が悪くて医師に診察されるかもしれない。貪欲が起こると、そなたの煩悩が伴って、続いて悪を行う。

施身法を修めるのは輪廻の煩悩を断つため、そなた達は執着があるから、煩悩を起し、煩悩があった後、悪業を作って輪廻の苦しみに堕ちた。執着を捨てるのはまず布施を行う。布施とは財施、法施、無畏施を分ける。財施の重点は金の金額ではなく、そなた達にどんな財産でも要らないわけではなく、必ず実物でもない。財施の重点は我々の執着を破る。実は我々は母の腹にいるから執着がある。二回を妊娠した母は皆発見したが、胎児によって反応が異なる。ある時そなたは有る子供が嫌い物を食べると、腹の胎児はそなたを蹴った。彼が嫌い一語を言うと、彼もそなたを蹴った。子供は生まれた後、好みも異なるが、有るのは幼い時寒い感じると布団を掴まる。有るのは指を吸って、有るのは掻くが好きだ。同じな赤ちゃんなのに、全ての子供の行為と表現が違う。新生児病室に勤めた看護婦は分かった。

子供によって、行為が異なるのは所謂本能ではない。若し本能なら、同じな人として何故本能が違うだろうか。ここから見ると本能ではなく、個人の業力が異なるから起した。当然、ある科学者はこの個別差異は遺伝子より起こると言われたが、この言い方も別の宗教の主張、人は全て主が作った言い方と矛盾がある。全て主が作ったなら、全て同じはずなのに、何故全ての人は異なるだろうか。尚、ある宗教は相変わらず信徒に主を信じると要求して、若し信じないなら宗教を裏切った。民主と言っても実は民主ではない。仏法はとても民主であり、仏はそなたに原因を知らせて、皆は仏法を通して事実をはっきりに見える。

布施は報いを求めない。しかし、そなた達は常に行った後、自分は既に好い事を行って、自分が他人を助けるから、報いを得るはずだと思った。そなた達は皆このような考え方を持っている。そなた達は他人を助ける時、他人が助けを得て喜んでいるのを見て欲しい。更にそなたが行ったのを分からないと出来ない。若し、他人が報わないなら、彼に「恩義を忘れる」と批判した。此れも執着である。自分が相手に好いことを行って、相手はそなたに優しく対応しないと思ったのは此れは報いを求めて、売買行為である。布施で自分の感覚を買っただけ、本当に布施を行わない。そなた達は今日家族のために料理を用意するのは布施を行うと言われてもいい。相手は自分の行いに対して感謝するかどうかを考えなく、相手のためにサービスの気持ちで行って、報いを何も求めないはず。そうすれば、自然に煩悩を起さない。多くの女性は皆自分が既に相手に優しくしたから、相手も報いはずと言われた。この気持ちは愛情ではなく、売買である。子供は自分が既に利口だと言われて、女は自分が既に沢山を犠牲したと言われて、男も自分は苦労に金を稼ぐのは誰のため?全てはこの家のためではないかと言われた。この話を言うのは全て報いを要求して布施の心がない。若し布施を修めなく、報いを得るかないかを執着すれば、自然に様々な煩悩を起して、更に悪念を起して悪業を行う。

布施の時三輪体空にする。ある者は三輪体空とは布施を行う人、布施の相手、布施の物事と言われた。若し本当にそうであれば、三「相」体空と言われるべき。「相」と「体」は相対である。実は三輪とは頂輪、喉輪及び心輪である。これは密法の範囲を属した。心は意念を起すと、頭に念を起して行動させて、続いて言葉は口から出した。「空」はないとは言えないが、空性である。布施の縁が来る時、布施を行って、縁が滅びた後、終わって元々の姿に戻って何も残らない。布施の時に報いを求めなく、執着しないなら、自然に苦しくなく、悩まない。皆の悩みは全て自分が招いた。

沢山な人はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得た後、常に戻ってリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝した。実はリンチェンドルジェ・リンポチェに「有難う」というのは本当に感謝ではない。本当に感謝すれば、仏を学ぶ。しかし、本当に感謝して仏を学ぶ人は少ない。仏菩薩は我々に恩返しさせるわけではない。若し仏菩薩は我々の報いが必要であれば、仏菩薩ではない。仏菩薩はそなたが仏を学ばないと罰を与えるわけではない。そなたの冤親債主が怒るから。ようやく助けを得るのに、結局そなたは機会を把握しない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年から始めて無数な衆生を助けて、極めて多くて、数えられないほど多かった。そなた達は現場にいる千人余りと見えたが、実は本当に仏を学ぶのは少ない。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは布施の心がなく、凡夫の心だけで自分が行った事と相手が行った行為を判断すれば、既に引き続きに衆生を利益できない。布施とは偶に金を寄付して、他人が急難を見て送金して、毎月定期に金を基金会に寄付するや野良犬を飼うわけではない。24時間に布施を行っている。最も重要なのは布施の心が有って、自分が手を放せない物を全て捨てられる。日常生活の中に若し布施の心を訓練しないと、執着は益々重くなる。施身法を修める修行者は必ず真の布施の心を具えなければならない。

六道輪廻の中にいる衆生は全て共通ニーズが有るが、それは必ず食べることである。唯食べる内容と方式が違う。此れは最も基本な欲望である。顕教に於いて修める「蒙山施食」は呪文で食べ物を加持する事を通して、衆生に布施して食べさせる。施身法は密法の修める事を通して、修法者は直接に自分の肉体を甘露に化して衆生に食べさせて、彼達の欲望を満足させる。衆生は甘露を食べた後、元々の執着と貪、瞋、痴はすぐ止って清浄な本性に戻って仏法の助けを受けられる。修行者は自身を甘露に化して、衆生を代わり諸仏菩薩に供養して、輪廻六道に一切有情衆生に布施するから、若し修行者は布施の心がないと、この法を修められない。

そなた達は今日の施身法を疑わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェの果位は直貢チェツァン法王に認証された。たとえそなた達は直貢チェツァン法王のような果位を修めないと、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行の境界を分からない。そなた達は現在の状況なら、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力を理解できない。若しリンチェンドルジェ・リンポチェの修行は成就を得ないなら、来る人は益々多くになるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けて、法会を主催するのは今まで宣伝しなく、広告も載せなかった。唯仏法センターのサイトに情報を掲載するだけ。また、サイトの情報もリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたものではない。

仏経に法会を主催すれば、広告を載せるのを説かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏が説かれた事を深く信じるから、確実に仏法に従って修行して、発願して衆生を利益する修行者は天竜八部及び諸仏菩薩は全て助けに来る。ある者は弁解かもしれないが、広告を載せるのも因縁を作って、人に広告を見せて仏菩薩の助けを受ける。しかし、此れは唯議論なので、多くに討論しなくてもいい。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは因縁を深く信じるから、どんな広告も載せなく、マスコミの取材も受けない。そなた達は皆ある者に聞かせたから、此処に来るから、しかし何故聞くと来られるだろうか。若し修行者は能力がないと、護法とそなたの冤親債主もそなたに押さない。また、そなた達は過去に仏法と縁が有って、仏法を接触してこの法と縁が有るからこの法会に参加できる。この因縁があって来れば、そなたは家族に従って参加するや連れられても皆は大切にしなければならない。それはそなた達が参加するから、この法会がある。リンチェンドルジェ・リンポチェがあるからこの法会があるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは唯一つの媒介であり、そなた達に助けを与えるだけ。

そなた達の中にある者は如何なるこの法会は本当に役に立つかどうかを分かるのを考えるかもしれない。皆は分からなければいけないのは若し済度法会は衆生を助けられないなら、主法者は事故に遭う。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて衆生を助けて、施身法を修めて今まで続けているが、若し成就がないと、既に事故に遭って、今まで生きるのはありえない。済度はいい加減なことではないが、他の法は少し楽かもしれないが、済度は必ずとても真剣なことである。済度は亡者を助けて八時間に読経すれば行うことではない。仏経を唱えるのは済度できるけど、そなた達の条件から見ると行えない。リンチェンドルジェ・リンポチェの女出家弟子が一人、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前に亡者を助けて読経して済度したが、彼女は毎回仏経を21本唱えたが、本当の済度を行わなく、亡者の眷属の供養を受けた。結局自分は病だらけになって、医師に治療されても治られない。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にもはや他人のために読経して済度や供養を受けないことを開示した後、彼女は再び行わなく、現在体の病気は自然に治った。

最近リンチェンドルジェ・リンポチェはとても面白いニュースを見た。昔に日本総督は嘗て陳情して、一億円で台湾を清朝に売って欲しいと主張した。原因は彼は台湾人が管理し難しいと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に海外に行って、比較すると、台湾は本当に自由すぎで、どんな話でも話せて、結果を考えなく、常に先に言って何も恐がらないが、本当に管理し難しい。リンチェンドルジェ・リンポチェはむしろ皆に感情を害して、先に話しをはっきりに言った。

法会に参加すれば、必ず懺悔の心がある。それはそなた達は若し過ちを犯さないと、今日は此処にいない。成仏する前に必ず過ちがある。皆に三宝に真の恭敬心を起さなければならない。仏法或いはリンチェンドルジェ・リンポチェの果位に疑わなくてもいいが、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは時間と命を犠牲して、何も求めなくて衆生を助けたから。若懐疑心を持つや他人に強引に来られたなら、今直接離れてもいい、謝る必要がない。法会に参加する時懐疑或いは敬わない心を持つなら、そなた達に対してとても悪い。仏菩薩は怒らなく、上師も怒らない。若し怒ると仏菩薩ではない。怒ったのはそなた達の冤親債主と祖先である。それはそなた達は法会に参加するから、彼達は機会があって助けを得られる。若しそなた達は恭敬心がないと、この法会はそなた達に作用を起さない。仏法は清浄であり、誤解が有るのは全て人の問題である。だから皆は心が敬って、心を落ち着いてこの法会に参加しなければならない。

嘗て研究があって、台湾に於いて、宮や寺院は世界中に密度が最も高いが、寶吉祥仏法センターの正面と曲げ角に道場と寺がある。何故この地区はこのような多い宮、寺、寺院があるだろうか。此れも原因がある。今日皆は集まったのは皆は縁があると表して、その中の因縁はとても複雑である。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て「阿弥陀仏無遮大超度法会」に皆に知らせたが、他の道場に仏を学んでもいい。更にリンチェンドルジェ・リンポチェは既に沢山な人を追放したが、今日法会に参加した人は相変わらず多く、道場で殆ど座れない。

仏を学ぶのは加護を求めるではない。若し運を変えたいなら、止らなく好いことを行っても運を変えられる。仏を学ぶのは生死を解脱するため。若し平安を求めるだけなら、仏を学ぶ必要がない。一般人は善を行なって悪も行ったから、一生に起伏して、善果があって悪果もある。皆の悪は必ずすぐ断たないとできない。それは悪は悪の業力があって、善は善の業力がある。悪を断つ或いは善を行ってもすぐ決めなければならないが、待つのはいけない。それは悪を作る事を止めて、不断に善を行った後、善の力は止らなく増えている。悪の力は動きを止めて、始めて悪の果報に発生するのを遅れる。或いは善の力はとても大きいから、悪の力は作用を発生する機会がない。若しそなたはいつもゆっくりして、善悪の業力は増えると、相変わらず仏を学ぶ障碍が多く現れる。若しそなたは仏を学んで悪を断ち善を行う事を決めると、上師及び諸仏菩薩もそなたを加持して、そなたに悪業の果は成熟する時間を遅れて、そなたに時間を与えて仏法を学ぶ。

昨日ある信者夫婦は子供が白血病に罹ったから、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。彼達は始めて拝謁した時、唯リンチェンドルジェ・リンポチェに何故この子供はこの病気に罹ったと質問した。このような質問したのは彼達は自分が過ちあるのを認めないと表して、唯何故運が悪くて子供はこの病気に罹ったと感じた。このような気持ちは因果を信じなく、心に傲慢して恭敬心がない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは先に呵責した後、彼達に離せた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に一回や二回を助けられたが、引き続きに助けて子供に死なせないのはできない。その時彼達は仏を誹謗して仏が霊験しないと言うかもしれない。だから、先に彼達を助けなく、彼達が仏を誹謗する事を避けるため。彼達は昨日二回目に拝謁する時、恭敬心を起したから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの子供の病因を見えた。彼達は子供が幼い頃、嘗てシラスを沢山に食べさせた。更に家は農業を従事したから、祖父は常に火を起して草を燃やして殺業はとても重い。この信者も確かにそうでしたと認めた。現在の人は殺業は重いから、医師に治れない病気に罹りやすい。

冤親債主を済度した後で、事が好転になると思ってはいけないで、これは錯誤な観念である。済度後、仏を学ぶ障碍は減らすことができて、甚だしきに至っては消えられることを望んでいて、しかし、欠けるのは同じように返さなければならないで、済度後、全部仏菩薩に渡して問題がないことのではない。一部の人々は法会に参加した後で、一部のことを発生するかもしれない。この法会に参加した後で、体が気分が悪くてあるいは何を発生したら、皆をおめでとうございます。果報は前倒して返すように代表し、その上、重い報いを軽くて受けてなる。本来、地獄に堕ちる果報はある厳重な病気にかかることに替るかもしれないし、少しの血を流して返す。もしそなた達はただご主人が言うことを聞いたり、子供の試験が点数をうまく取ったり、事が好転になる心構えにより法会に参加することを望むならば、これはすべて正しくない観念である。そなた達は法会に来て、偶にはあることを好転になることを感じるかもしれないし、これはただそなたたちに仏を学ぶ障碍を減らさせて、ことを好転に成らせるのではない。

仏を学ぶのは感じを求めてあるいは観応を求めるのではなくて、法会に参加するのは何を感じることが重要ではなくて、禅通が業力が変られない。もし皆はただ神通を求めるだけなら、間違う道を行くことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしても神通があるかどうか?実は、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがすでに65歳を見て、脊柱側弯症の病状があるけれども、法座に2、3時間にしっかり座られて、これは神通ではなくて、しかし、少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェの根性が皆に比べて強くて、皆が我慢できないことが我慢することができることを証明し、これも修行の効果である。

最近ニュースは父が子供を殺して、子供が父に殺す事件をよく報道した。、殺人事件は多くて、これは現代人の倫理道徳がすべてないわけで、殺業が重すぎるわけである。そなた達はこのようなニュースをみるとまだ感じが無いで、また、これは自分の家に発生することがないで、そなたの家族を殺してないと思っていた。しかし、ある修行者に対して、見ると、自分は早目に衆生のためにもっと多くのことをして、このような状況を改善させるべきだと考える。台湾はただ2千3百万の人口だけで、このような多い殺人事件があることはとても恐怖で、特に目上が目下に殺して、目下が目上に殺すのような殺人事件は他のところで台湾のような多くて発生しこのような頻繁になるのではない。同時に、台湾の交通事故もとても多い。殺は最も大きな罪で、一人を増えて魚を食べないなら、一匹の魚が殺されることを減らす。自分は自らしないことを思ってはいけない。そなたは魚を食べないなら、誰かが殺すことがない。そして、この魚はその縁に従って命を終えることができて、その後、そなたと関係もない。

かつて皆はあるニュースをみたこともあり、二人の台湾の女の学生は日本にある台湾からの男の学生に殺されて死んで、あちらの男の学生の家に勤める仕事がウナギそ殺すのである。彼は子供から殺生を多くてみて、殺す癖ずっと絶えずに累積し、最後まで殺した。ある者は肉食の食堂を経営し、また、他人に「大丈夫!ゆっくりして、もし食堂を終わると、収入が無くなって、本来の社員も仕事を無くす」を聞いてしまった。続けて営業することも社員のために考えている。このような人は因果を信じていない。仏経に曰く衆生の肉にてお金を稼いだら必ず果報があって、そなたは例え雇用されても、同じように悪の共業にいて、果報が同じようにある。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に菜食させなければならなくて、つまり、殺業を減らす為に、殺す癖が変って、そんなに多くの意外がない。

いま多くの子供は胎の中に母親は肉食をするので肉食をして、結局、すべてあるとても変な病気に罹っている。多くの女の産後1か月間の養生をする時、姑が身体が丈夫になるように補って十分なエネルギーを貯えておくことを助けるのに肉食することを要求されて、食べないでまた罵られる。ある者は菜食することを聞くと出来るだけ避けることもある。実は菜食することはただ飲食習慣が変って、しかし、皆は菜食しない理由がすべて多くなる。菜食したら社会活動にすることが問題がるので、商売ができないと思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは世界の各地にいかなければならないで、同じようにビジネスを営むこともできて、しかし、夜の時間に、そなた達は絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェが社会活動に参加することを見えない。ビジネスを営むことは多くの方式があって、社会活動に参加して多くの友達に付き合って商売をすることが出来始めることとは限らなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは社会的な活動をしないでもビジネスを営むこともできる。

みなは法会を参加し終わった後に、慎重になるはずで、再び悪をしてはいけないで、はっきり分かるがわざとしたら罪が1割を増える。今日、皆に善因を作る世手に助けて、皆が持続的にしていることを望んでいる。もし皆は法会に参加し終わった後で続けて肉食をしたら、それでは、悪の力を続けて、ただ悪の力を続けて増えると、果報の熟していることに助力する。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にこんなに厳格に対応する理由はリンチェンドルジェ・リンポチェの願力が法会に参加する人はこの世に輪廻を解脱することができることを望んでいて、輪廻を解脱することがこのような簡単ではないで、いい加減な仏を学ぶと遣り遂げるのではなくて、上師はずっとそなた達に間違いを歩くことができないことを監督することが必要し、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように厳格だ。もし上師として皆に善を累積することが教えられないなら、つまり、この縁に助力することができなくて、つまり、皆に輪廻を解脱させることができない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが開示していた時に、ある子供はずっと引っ切り無しに泣いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示が終ってから修法をする予定時に、依然として停止していなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に開示し、この子供は衣服が多くて着て、熱く過ぎて、だから、絶えずに泣いていた。家族は確かに多すぎて着ることも回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェ「いま リンポチェとしたら大変で、何も知らなければならない」とユーモアに仰った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの子供に数メートルを離れて、子供を抱く家族でも子供がなぜ泣いていることも分からないで、が、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も知っていた。しばらく過ぎて、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度開示し、子供に水を少し飲ませて、しばらく、子供が泣いていたことを停止した。

それから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは施身法の修法儀軌を行っていた。

修法が円満になった後、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は今日、中秋節で恐らく多くの人々は焼肉をしにいくかもしれない。もしそなた達は河或いは谷川の傍に焼肉をしたら、竜と鬼神を傷つけて、なぜならば、彼らは焼肉の味をかいて病気にかかってそなた達に傷害しに来る。もし家の前に焼肉をしたら、門を守る神を傷つける。寶吉祥仏法センターはここにこのような例が多くて、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの変な病気に罹った人を助けたことがあり、医者が直しても治されないで、つまり、彼らは焼肉を参加した後でかかっていた病気である。そなた達はいうことを聞かないなら、今日、法会に参加した功徳が全部無くしてしまって、ただ傍に他人が焼肉をすることをみても同じである。

いつから台湾で中秋節に焼肉を流行していることを知らないで、歴史を読んでも出所も探し出せないで、古人も焼き肉をしない。たとえ因果を言わないでも、いま、台湾の空気汚染は全世界に最も厳重なところの中の一つで、これも焼く肉と関係がある。台湾にますます多くの人間が癌に罹っていて、また、ある医者が治されない変な病気に罹っている。これも焼肉が盛んに行われることと関係がある。みんなはこのように死ぬことを恐れて、しかし、ずっと身体の健康を傷つけることをしている。

法本に記載されているのは修法者の身に如何なる守る物を持ってはいけない。その中にある段落は特別に中国語を訳されて、修行者が護輪をもつことが要らないで、もしつけたら取ることがいるし、その上、一心に修法内容を唱えなければならないと記載されていた。これにより、死ぬことを怖くないで、命が要らなくて、鬼を恐らくない行者はこの法を修めて始める。そなた達は死ぬことを恐れて、命がほしくて、その上、鬼を恐れて、それではただ法会に参加すると十分で、リンチェンドルジェ・リンポチェから修法する。今日、諸仏菩薩は報いを恩返すことを求めないで皆に助けて、そなた達は心の中に感謝を持たなければならない。

法本の最後の内容は上師の加持を祈ることで、顕教に仏菩薩の加持を求めて、しかし、金剛乗に上師と仏菩薩の加持を求めて、これは上師が仏菩薩に比べてより素晴らしいのではなくて、結局、上師はまだ人間の身体があって、また、如法で発願して衆生に利益する行者なので、諸仏菩薩がすべて彼に助けて支持して褒め称えて、行者が衆生に利益する願を満たせることを助けて、だから、大願を発して衆生に利益する上師の加持力が特別に強いのである。

法本の最後にある内容があり、施身法をおさめることは病気がないで快楽して青春をえることができることがある。ここに言う病気がないのは治せない病気にかかることがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年から出て衆生に利益してからいままで、ずっと施身法を修めていて、自分のためのではなくて、衆生にたすけるためのである。45歳に皮膚癌に罹っていた時に、診察してもらっていないし、薬を飲んだこともないし、いま、皮膚癌はすべて良くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に診察をしないあるいは薬を飲まないことを要求させないで、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに学んでこのようにしてはいけないで、結局、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと違って、リンチェンドルジェ・リンポチェが決心することそなたたと違っているわけである。

ここの快楽は世間の楽ではなくて、却って、永遠な楽で、苦しみがない楽で、仏を学んだ後、福報を増えて、だから、執着がないし、煩悩を少し少なくて、だから、快楽になる。青春は遅くて年寄りになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはいま65歳で、しかし、老化のスピードはそなたたちにより遅くて、ゆっくり老化し、身体の状況は同じ年齢の人に比べて10年、20年に若くてなる。ここに言う青春はこのような状況である。何度、リンチェンドルジェ・リンポチェは一部の人々が目上と誤って思っていて、聞くと、自分と殆ど同じ年齢を知っていた。仏法を学ぶのはもし一部の違うところを現して皆に見させられないと、修めていないことを表示した。そなたの修行はすこしの成就があるときに、普通な人と違うところを現れる。

そんたはリンチェンドルジェ・リンポチェが短い1時間のみ修法を完了することを見たが、じつは施身法はとても多くも時間にかかって修めることが必要し、その上、修法の過程にとても苦労し、とても少ない漢民族がこの法を求めてえる。いま、チベットに施身法を修めて衆生に利益する者も多くないし、多くの閉関と禅定の修めることがいるのみならず、また、難しいのは人の大腿骨が要るわけである。他人は密宗が骨をつかって修法することを迷信しないでください。密宗はかならず骨の法器あるいは骨の数珠を使うのではない。ある閉関は動物の骨で作る数珠を使われない。人の大腿骨の法器は気軽な人の大腿骨ができるのではなくて、特定な相手と形があったら法器に作られない。

骨を使って法器にするのはあるとても重要な意味があり、つまり人生無常である。我々に警戒させて、人々は最後までただ骨を残って、そなたのこの世に如何に素晴らしいでも、最後まで残るのはただ骨である。しかし、このように消極的に暮らして、或いは、人生に計画していないで、同じように仕事をして生活を暮らさなければならなくて、しかし、執着しないで、縁に従って、つまり、わざと何を変えることをしない。

骨を使うのは鬼と関係があるのではなくて、もともと虚空に鬼を満たすように、餓鬼道と地獄道は人道に比べてより苦しくて、ただ彼らは苦しみを離れるなら、衆生の苦しみが少し少なくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて雲南に行った時に、この法門を学んで、その前に、誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェにこの法があることを教えていないで、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは主動的に尋ねて、このような因縁が累世で持って来た。この法を修めるのは左手がベルを鳴らして、右手が鼓に揺れなければならなくて、通常に、チベット人はベルを鳴らして鼓に揺れることを学んだことが1年の時間にかかることがいるし、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはベルと鼓を持つとうまくてすることが出来て、これは過去世に修行と関係がある。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはある最も長くて皈依する女の出家弟子は向いて鈴と鼓を揺るれることを試みた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に右手で鼓に揺れさせて、この女の出家弟子は間もなくとても大変な様子を表して、それから、さらに加えて左手の鈴ルに揺れさせて、この女の出家弟子はまったく同時にすることが出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は同時にズミカルに鈴と鼓を揺れることができるなら、禅定の工夫がないなら遣り遂げない。仏寺の外に全て鈴台と鼓楼があり、いま、法会に使えられる鈴と鼓が縮小版で、なぜ鈴と鼓を使うのは重要な意味があって、皆に時間が足りないことを提示するように、ただそなた達に出演してあげるのではなくて、今日の時間がないのに説明しなかった。

さき、出家弟子が揺れる鼓はより軽くて小さくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法する時に揺れるのがより大きくて重量も重くて、20分間ぐらいに持続的に揺れて、実は体力がとても消耗した。また、同時に鈴と鼓を揺れる以外にまた真言を唱えることが要るし、これらはとても大きな禅定の工夫が必要し、そうすると、一心に何も妄念がないで衆生に助けて、このよう上師にあえるとうまく大切しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた同時に鈴と鼓を揺れることを模範して、それから、なぜ仏を学ぶ者が煩悩がより少ないことを開示し、つまり、普段に普通な人間に比べてもっと定にいることができて、そなた達が多くの妄念をもつようなではないわけである。

今日、法会が終った後で、もし、後ほどまた焼肉を参加することがいれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはアチ護法に祈ってそなたに生々世々にリンチェンドルジェ・リンポチェに会えさせないで、また、今日、申し込むけれども出席していない人がこれからもくることが要らないで、仏菩薩と冤親債主に承諾に守らない人は誰に承諾に守られないか?このような人はこれから法会にくることも要らない。

実はリンチェンドルジェ・リンポチェは厳格ではないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王及び仏陀の教法に従って皆に教導し、仏経曰く各々衆生は仏になる条件を備えて、しかし、言うことを聞かなければならなくて、仏法を迷信になることをしないで、教法により実行していく。そなた達は絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子のではなくて、ただこの世にこの因縁があって、だから、そなた達に弟子という肩書きをあげて、つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェは累世にそなた達にかけているので、この世にそなた達に仏法を教導してあげる。仏を学ぶのは言うことを聞いて、上師が教導することにより自分の思考及び行為モデルを改正し、そなたに生活方式を変らせるのではない。そなたは他人のご主人と奥さんとすれば、ご主人と奥さんがするべきことをうまくして、自分が仏を学びたいので、相手と離婚することが出来ない。これははずではなくていけないことである。

皆さんが中秋節にすべて楽しくて過ぎることを祝福する。実は、ただ人道の衆生は楽しくて祝日を祝うことができて、鬼道と畜生道の衆生ができないで、だから、自分が快楽になるために衆生に傷つけることができない。そなた達は所謂一家団欒を楽しむと思いきや、しかし、一家団欒の楽しみの後で、実は苦しさだ。家族に罵られることを言わないで、焼肉をすでに承諾しても行かないで、過去にそなた達は両親、ご主人、奥さんに直面する時に、如何に理由を見付かって騙して、それでも、今度腹が痛いことという。そなた達は法会の後で同じように焼肉を行ったら、今後、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に現れないでください。言うことを聞かない人は縁がないわけで、縁がないなら済度することが出来ないのである。

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2013 年 01 月 20 日 更新