尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年7月22日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前、まずはある男性の信者は壇城の前に行って懺悔して、彼は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にこの発露懺悔する機会を与えたことにとても恩に着た。彼は自分が恩義を忘れて、因果を信じなくて、大逆無道で、両親に親孝行しなくて、その上更に多くの衆生を殺害したり傷つけたりしたことがある、と懺悔した。小さい時に、彼は無数な昆虫、蟻と蛙を殺して、中学校を卒業した後にレストランへ見習いをしに行って、やはり殺生したが、しかし彼は自分がこれまでこれが殺生することだと思わないで、その後果をも思ったことがなくて、ただ彼に殺害されたこれたの衆生がもともと殺されるべきだと思っている。兵隊生活の時期には、彼は嘗て、蛇、犬と無数な魚、海老、スッポンを殺したことがあり、衆生の生命を利用して自分を利益して、様々な殺業が1年1年に累積してきた。

ある年、彼はバイクに乗って事故でドッラク車の下に潜って行ってしまい、目が覚める時には自分の手が骨折したことを発見して、その時まだこれが自分の殺業の因果応報だとすぐ感じていなくて、自分がただ運が悪い、運がよくないだけと思っている。が、今彼は分かった。彼はこう懺悔する。自分が1人の大悪人であり、悪の事をして、暴力団と付き合いして、麻薬を吸って、喧嘩して残忍に闘って、悪事の限りを尽くして、更に背中に1刀も突かれて、まだ目覚めないで、自分がただ運が悪い、運がよくないだけと思った。昔妻が妊娠している時、彼が麻薬を吸って、子供が異常になること恐れて、そこで妻に子供を流産させるように強制した。彼の様々な悪行は、道義上許されないで、たとえ彼が地獄に堕ち込んでも、彼の罪をすべて洗うことができないと自覚した。

1998年、彼の妻は先天性股関節脱臼で発病して、歩くことが不自由になってしまい、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めに行く時、リンチェンドルジェ・リンポチェは真っ向から叱って、そなたは孝行な人ではなくて、母親がそなたにこんなに良くして、そなたが電話さえ何も掛からないで、そなたがまだ遊ぶのか。背中に1刀を突かれて、目が覚めないか。そなたはまだ遊ぶのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が悪を断って善を行って、肉料理のレストランで働かないように要して、彼の妻の病気がようやく好転することができる、と教えた。そして、そなたがちゃんと改正したいと思ったら、仏菩薩がそなた達を助けると開示した。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの夫婦のの仏菩薩であることを知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に菜食料理のレストランの仕事を探して手伝うだけではなくて、また彼の妻がリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働く事を手配してもらった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けが無ければ、彼の妻は今すでにきっと車椅子に座らなければならないだろう。彼は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが1998年に彼らの夫婦のの因果応報を見て、そこで先に彼の妻が働くことと仏を学ぶことを手配しておいて、彼女に急速に福報を累積させて、彼の妻はその時から、夜に温湿布を貼る必要が無くて、全然痛くない、とても感謝する。

当時リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を使って、金を使って彼達夫婦を助けて、彼にリンチェンドルジェ・リンポチェの側に仕事をさせて、彼達夫婦に安心にしっかりに仏を学べた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達夫婦に仕事や給料を与えるわけではなく、更に金を出して彼に運転を学んで、免許を取れば、車を運転して、妻を連れて通勤するため。それは妻の脊椎が悪くて、バイクに乗れないから。結局彼は教えに従わなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの厳しい教法を耐えなくて、2002年彼は道場を離れた。これから自由になって、誰に制御される必要ではないと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェの用心を全く知らなかった。彼はいつも福を外に押して、上師に怒った。自分に恩がある人に対して、彼は感謝の気持ちを分からず、恩返しを分からない。彼は自分が人ではないと思って、畜生さえ比べくもない。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェへの不恭敬を懺悔して、多くの衆生を傷付けたのを懺悔した。

今年(2012年)6月30日(土曜日)夜退勤して帰宅した後、彼は突然に全身痒くなった。彼の妻は彼に先に家の近くの漢方薬診療所へ診察を受けて、月曜日になると、寶吉祥漢方薬診療所へ診察を受ける。日曜日彼は一日に漢方薬を飲んでも相変わらず痒いを止めなかった。7月2日(月曜日)朝起きた後、彼は体全身に黄色になって、様子はとても怖ろしいと見えた。彼の妻は見ると、とても驚いて、すぐ仏堂に行って、リンチェンドルジェ・リンポチェが昔に賜った甘露丸を彼に飲ませた。気持ちが悪くないから、彼は相変わらず出勤した。午後彼は寶吉祥漢方薬診療所へ診察を受けた。医師は診察した後、彼に早めに病院へビリルビン及びGOTとGPTを検査したほうがいいと言った。

彼は大型病院に検査を受けて、医師は彼に入院させると勧めたが、彼は自分が既にリンチェンドルジェ・リンポチェが賜った甘露丸を飲んで、同時に気持ちが悪いと感じないから、入院したくない。医師はいつも彼に右の上の腹が痛いかどうかを聞いた。彼は痛くないと返事したが、医師の表情はとても慎重だった。しかし、彼は言い張ったから、医師は唯彼に若し熱が出ると、すぐ急診を受けて入院する事を注意させた。彼の妻はいつも彼にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する事を勧めたが、彼は同意しなくて、心の中に甘露丸があればいいと思った。その後、肝胆科の医師は彼が胆管癌に罹って、早めに転移するから、すぐ手術を受けなければならないと言った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て言われた事を思い出して、もはや衆生よ悪縁を結ぶことができない。だから、彼は手術を受けないのを決めて、先に内視鏡手術を受けて、暫く胆管を開いて、胆汁が流れるようにさせる。幸い熱や感染が無いから、腹に穴を開けて胆汁ドレナージの処置をする必要が無い。また、鼻から挿管して、胆汁ドレナージの処置をする必要が無い。直接腹にドレナージの処置をする。彼は此れは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰だと信じた。

7月14日彼が道場に戻って尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに願い、リンチェンドルジェ・リンポチェが大変慈悲で彼に道場に懺悔して200回大礼拝をさせた。大礼拝をした後、彼は全身の痒いが突然になくなり、軽くなった。彼は大変リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加持を感恩し、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔し、彼は間違った、大きい間違いをした、自分の悪業を許さない。彼は敢え無く、嘗て害をした衆生に許しを願い、自分が祖先に、冤親債主に申し訳なく、更に嘗て仏法を教えてくれたリンチェンドルジェ・リンポチェにも済まないと感じた。同時にこのチャンスをよって、彼ら2人の夫妻を助けた医者相弟子とこの事にかかった係員に感謝し、更に彼の病気を感謝し、彼に頭を回させ、自分の過ち、悪いさを了解させた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、慈悲で彼を救度して、仏を学ぶチャンスを与えて、さもないと彼は現在きっと病院で横になって、パイプを挿し込まれて、お腹を開いて、肝胆、すい臓、十二指腸を取り除いて、全ての医療苦痛を受け取った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大福報のお陰がなければ、彼と家族と是非大変恐れかしこまって、事実と果報を受け取る事が出来ない。今回彼はやっと目が覚めて、この全てが全部自業自得とわかった。嘗て上師に対しての怒り、恭しくない、離れること、また衆生を殺害することを心から懺悔し、これからもう二度と同じ過ちを起さないと決心した。皆が彼を鏡とするように望んでいる。彼は良くリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ぶと発願した。リンチェンドルジェ・リンポチェにもう一度皈依させて仏を学ぶチャンスを下さるように懇願し、良く修行してもう輪廻しないように上師の恩に報いる。

続いて、1人女弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩に感恩して、彼女に公然の発露懺悔するチャンスを与えた。

彼女は今年(2012年)陰暦の元旦の前夜相弟子に、皆がリンチェンドルジェ・リンポチェに三十五仏懺を修めてくれるように願うとのメッセージを送った。彼女がこんな計算心、区別心との悪行は即ちリンチェンドルジェ・リンポチェを恐喝するのである。上師に対して敬いと供養がまったくない、常に上師の教法を耳に入れない。上師が弟子達に与える手配は全部一番良い、一番珍貴な無上の宝で、この世の中にお金で買えないものである。

彼女は自分が会社で働いて、自分の考えにより随意にして、誇らしくて、自大で、他人を尊重しないことができると思うのを懺悔した。このような独りよがりで、高慢する悪行為はリンチェンドルジェ・リンポチェが老婆心から繰り返して教導してくれてやり遂げるはず五戒、十善法、『仏子行三十七頌』を無駄させる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王にとても恭敬する。直貢チェツァン法王は自分の命によりさらに重視になる。彼女は自分の乱れている心をうまく管理していないことを懺悔した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔し、また、テキストメッセージをもらう兄弟子に謝って懺悔した。

彼女の父は軽微な脳卒中にかかって上師の慈悲深く加持と貴重な甘露丸をもらって、急診から退院するまでの過程がすべて順調になった。しかし、彼女は自分の親孝行をしないことを懺悔し、父に退院した後で適切な配慮をすることができなくて、父に看護院に10数日にいて苦しみを酷くて受けさせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の悪習を選び出すことを感謝し、彼女に間違いを知らせて過ちを改正させられる。古人の言によれば「一日師たれば、終身父たり」のである。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈愛深い父のように我々を世話し、命を要らないで衆生に利益し、自分の生活と時間がないで、心のかなに衆生がすべて生死を解脱されることを考えている。この世に上師に会えないなら、貴重な仏法を聞こえない。しかし、上師が教えてくれる仏法を生活で使って自分を変わらないなら、この世に本当に無駄になる。ただ上師が最も大きな拠り所で、ただ上師が彼女に輪廻の苦しみを解脱させられる。

リンチェンドルジェ・リンポチェの戒律は厳格で、弟子たちに最も清浄な道場を与えて、これから彼女が自分の心をもっとしっかり見るべきで、徹底的に自分の行為を改正するはずである。ただ上師の恩徳に報うことが言うことを聞いて、教法により従う。今後、上師が教導してくれる仏法を生活で精進で実際で修めて、上師の期待を背かない。事件の半年を経て、今日までやっと発露懺悔し、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔し、弟子が懺悔した。

貴き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご身体を健康し、仏法を常に住世し、教法事業を円満になることを祈っている。

そして、寶吉祥仏教文化交流協会のある理事は壇城の前に行って、皆さんに法会に参加する時に一人ずつが1枚の座布団を使うことを提案した。彼女は、皆さんが法会に参加しにきて、別に座っていて冷房を楽しんで、講演を聞いて、或いは心霊成長の課程を勉強しにくるのではなくて、だからすべての人がせいぜい1枚の座布団を使って良くて、ボランティア・スタッフはすべて職責があり、ずっとみんなに座布団を処理して手伝うことがあり得ない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、もし法会に参加して、まだ高い座布団に座って、そんなに心地良くて座らなければならないならば、それでは家に帰って休んだほうがいい、と開示されたことがある。そのため、皆に今日から1人ずつが1枚だけの座布団を使うように提案して、もし病気にかかっていて、或いは行動不自由な人であれば、自分で座布団か椅子を携帯して使うことができると言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後に、法会に出席する大衆に以下の殊勝な開示を与えた。この数回の法会には、リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師の教導にて広、中、略の菩提心を開示した。菩提心を発するのは大乗仏法と金剛乗仏法の重点であるが、しかしきっと次第に従って修行しなければならなくて、五戒十善、慈悲心、菩提心から修行しなければならない。もし慈悲と菩提心がないならば、それなら大乗仏法と金剛乗仏法と縁がないのである。

先週の法会に、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、ある女子弟子が自分が呪文を唱える時に心臓が発熱するのはよい事だと思っているが、しかしこの現象は別に彼女がよく修行しているためではなくて、体があまりに虚弱だから、と開示された。彼女は呪文を唱える時に、心は比較的に定であり、血液が心臓に流れてはじめて心が発熱すると感じて、これは病気にかかる前兆である。もし普通な人に替えるならば、恐らく彼女がよく修行していると思って、いくらかの称賛の話を言うかもしれない。そなた達もよくこのような話を聞くことが好きである。経験がある上師はその修行した経験に基いて弟子の問題点を見ることができる。今ある人はいくつかの称号を利用して、いくつか仏法の名相を言うことができて、特別な服装を身につけていて、胸先には、多くの稀で奇怪な装飾品を身につけて、他の人に彼が修行人であることを思わせる。

《楞厳経》には、、行者が禅修している時に、ただ1つの考えが偏差さえあれば、悪魔は機会に乗じて入ることを言及された。そなた達はちょっと油断して偏差の考えに発生しやすくて、もし仏を学ぶのは上師に従っていないならば、自分が正しくなくて学んで、間違いしなやすいのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしてこんなに厳格であるか。お経には、弟子が間違いを犯した時、仏陀は弟子を叱責して、甚だしきに至っては「獅子吼」で弟子を叱責したと仰った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まだ獅子吼をを使っていないが、もし使ったら、そなた達は恐らく卒倒するだろう。だから、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが何故厳格なのか、それはお経が諭されたことに従って、このような教え方はすることができる事だと分かるだろう。別に小さな声で話をして、人に対してとても礼儀正したら、それは修行しているのではなくて、もし相手がすでに急いでいるならば、そなたはまだ小さな声で話して応対したら、相手は更に焦るのではないだろうか。ある人はそなたが間違ったことを行ったことを見たら、依然として柔らかな語気を使って話をすると、これも間違いであるが、しかし、そなた達はどうしてもこれが好きである。リンチェンドルジェ・リンポチェは小さな声でを話をするのではないが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行していないことを代表しないのである。

2006年、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子500人を引き連れてインド・ドラドンに赴き、直貢チェツァン法王の誕生日を祝賀に行った。祝賀する番組が進んでいる中に、直貢チェツァン法王はガチェン・リンポチェと一緒に舞台近くの座席に座って、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王とガチェン・リンポチェの後ろに座って、いっしょに弟子達の出演を見ている時、直貢チェツァン法王は突然北京語を使ってガチェン・リンポチェに、私のこの弟子リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を殴って弟子を叱る、と言ったガチェン・リンポチェはそれがに慈悲でないと答えた。直貢チェツァン法王は聞いてから、彼がこのようにして真な慈悲である、と言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、この2人のお年寄りがチベット人であり、突然に北京語を言いはじめて、事後に思い出して奇怪だと感じた、と開示した。もしそなたは上師に依止する心が十分にあれば、上師のいかなる時間の身、口、意はすべて弟子を教導しているので、弟子がやって遂行したら、上師が様々な方法で仏法を演繹して弟子に見せるから。これは上師が弟子に対する教導することが、時間、場所を区別しないで、たとえ元々は出演を見ているのであっても、突然もこのような対話をも言い出したする。しかし今のそなた達にとってリンチェンドルジェ・リンポチェが法席の上で言った話を仏法だと見なして、法座に降りてから言ったのが、仏法なこととしないで、話を聞いてくれないで、リンチェンドルジェ・リンポチェを馬鹿とするのである。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き、ガムポパ大師が開示なされた弟子が上師に依止する事に関して備えるべきな10ヶ条件を教える。噶舉派の中の4大8小の分派に関わらず、すべてガムポパを宗師と奉仕して、ガムポパ大師の前には、ミラレパ、マルパ、ナロッパ、ディロッパなどの大成就者がまだいたが、しかし噶舉派の教法はガムポパ大師までやっと発揚し始めたのである。ガムポパ大師の前に、すべての噶舉派の上師は全部在家の行者であり、ガムポパ大師までやっと出家の上師が出来て、これは噶舉派が他の教派と違うところである。ガムポパ大師は仏を学ぶ前に、もともとは1人有名な医者であるが、しかし彼の妻が重病に罹って逝去した後に、ガムポパ大師が人生が無常だと悟って、自分が医者としても妻を全然助けることができなくて、その後、やっと出家して仏を学んだのである。

今日教える弟子が上師に依止する10ヶ条件は、仏を学ぶ弟子は必ずやり遂げなければならないのである。「依」は皈依することを指して、それも拠り所である。私達が仏を学ぶことができるのは、すべて上師が仏法を教えるから。一名の上師になるのは、必ず厳密で、次第な修行と閉関修行の過程を通らなければならなくて、別にそなたが上師になりたいと思って上師になれるのではなく、法王の確認を通ってから、はじめて弟子を教えることができるのである。上師は経験がある修行者なので、仏を学ぶのが上師の監督と教えがなければいけない。もしただ家で自分が唱えて、自分が修行していると思ったら、これはいかなる功徳を修めることができないので、せいぜいいくつかの福報を得るだけ。そなた達は自分が何を唱えたくてそれを唱えると思わないでください。多くの人が皈依した後に、せっかちにどの授業をするかを聞く。これは誇りであり、自分が何を学ぶことを選ぶのである。

考えてもみなさい。以前はそなた達が学校で勉強する時、もし先生は国語の授業を教えるならば、そなたは私が国語を勉強したくなくて数学を勉強したいと言うのか。先生は今日どのページから教え始めると言って、そなたは私が今日第5ページを見たくなくて、第8ページから見る、先生に答えるか。現場の大衆が全てできないと回答した。もし読書する時に、先生の話に従うならば、どうして仏を学んで上師を聞こえてくれないのか。仏を学ぶのは勉強することと同じ、必ず段取りをふんで事を進めて、仏法がただひとまとまりと言うが、しかし、すべての道場の上師は自分の伝授する方法と装置があって、そのほか、学習する人の根器と因縁に関係がある。どのように自分が何かを選んで学ぶことを言うのか。

さっき法会が始まる前に懺悔した女子弟子は、自分が皆に携帯メセッジを送って、皆がリンチェンドルジェ・リンポチェが三十五仏懺を修めるように祈ると要して、それは自で何を選んで学ぶのであり、レストランに行って料理を注文して、何を注文したくて何でも注文で着ると思った。彼女は何を学びたくて、上師が必ず教えてくれると思っていて、彼女が菩提心がないことをも見抜くことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざに試みると、すぐに試みて分かった。上師は弟子の根器と因縁に従って法を伝えるので、仏法の中に不妄語(もうご)という戒律があって、普通な人はうそをつかないと思うが、うそをつかないのは身を処する人徳である。不妄語とは、主にもし行者が修め得ていないならば、自分が修め得たと言うことができない。反して、もし行者がもう証得したならば、自分が証得していないと言って、弟子に法を伝えないことも駄目である。ここでの法を伝える弟子は根器を具える弟子であることを指して、上師は因縁を備えてしかも根器がある弟子に出会ったが法を伝えなくて、このようにしたら、上師はとても深刻な戒を破れるのである。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を伝えていないならば、そなた達にまだやり遂げていないことを代表する。

そなた達は法を伝えることを求めにくると思って、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に学びたい法を伝えるように祈り求めに来るより、既にそなた達に教えた仏法をちゃんとよくやったほうがいい、よく自分の行為を改正したほうがいい。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまで、直貢チェツァン法王にどの法を伝えてくれることを請求したことが無くて、直貢チェツァン法王はどの法を伝えて、リンチェンドルジェ・リンポチェはどの法に学ぶ。一部の人は直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに特殊な待遇を与えると思っているが、しかし実は、リンチェンドルジェ・リンポチェがちょうど直貢チェツァン法王に皈依したばかりのその数年、 直貢チェツァン法王は別にはリンチェンドルジェ・リンポチェに多くの法を伝えていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても努力してい自分の行為を改正していて、そなたたちが自身でどんな法を学ぶかを選んでいると違って、上師がそれぞれの弟子が最も修行に適する法門を知っているので、もし自分の条件が合うならば、上師が法を伝えてくれることを信じる。それから最近この数年まで、リンチェンドルジェ・リンポチェが度する衆生が非常に多くて、直貢チェツァン法王はやっと様々な法門を伝えるのである。

「止」とはどんな事でも止るわけではない。仏を学ぶのはそなた達に世間の事を一切行わないわけではない。仏を学べば仕事は必要が無いという観念は間違い。「止」とはそなた達の煩悩を妨げて止めて、そなた達にしっかりに心を定めて仏を学ぶため。上師は様々な方法でそなた達に自分の問題を発見させる。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、そなた達が嫌いことはリンチェンドルジェ・リンポチェは却って行ってそなた達に見せた。しかし、そなた達が最も好きなことはリンチェンドルジェ・リンポチェは却って行わない。そなた達の身、口、意一切の行為から、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の業力及び煩悩の重さをよく分かって、様々な方法でそなた達を対治する。そなたは反応が有れば、始めて自分の問題を分かった。全ての衆生の根器及び因縁によって、リンチェンドルジェ・リンポチェは異なる方式を使う。行動を行うかもしれないが、無視するかもしれない。上師は一切の方法を使って、そなた達の身、口、意の業力を対治する。若しそなた達はまだ分からないなら、仕方が無い。

上師は色々な種類がある。あるのはそなた達に仏法の常識を教えるが、あるのはそなた達に如何なる仏法を修行するのを教える。此処に言われた仏法を教えるとはそなた達に拝懺、読経を教えるわけではなく、真にそなた達に生死を解脱法門を教える。このような上師は仏法を教導する上師と言える。リンチェンドルジェ・リンポチェは真に教えられて、そなた達を助けて生死を解脱する上師である。若し、そなた達は仏を学ぶのは世間の僅かで短い楽のためなら、リンチェンドルジェ・リンポチェを浪費しないではないか。

ある者は拝謁する時、リンチェンドルジェ・リンポチェを師父と呼んで、リンポチェと呼ばない。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェを信じなくて、果位さえ分からなくて。唯物事を聞くだけ、リンチェンドルジェ・リンポチェを一般凡夫上師として見る。師父を呼ぶのは悪いわけではないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは済度できるが、一般の師父は行えない。リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法或いは施身法を得た亡者は、全てはっきりに善道を往生する瑞相を現した。此処から見ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に亡者を善道まで済度できたのを分かった。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子は上師と論争することを許せないだろうか。仏法は生活の中に活かしてそなた達に論争させない。そなた達は上師に解釈するのはそなた達は自分が正しくて、上師は間違いと思ったから。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の上師になる資格が無い。上師はそなたと道理を話すわけではなく、所謂道理はそなた達は人生経験法の累積であり、仏法と関わらない。若しそなたは上師に対して、恩が有る人に対して耐えられないなら、誰を耐えられるだろうか。我慢できない人はこの社会で人と付き合う時、必ず問題を起すと表した。そなたは上師の教えに従わなくて、更に上師に怒るなら、上師はそなたへの加持力は断つ。

ある者は世間の本を見たいが或いはテレビ番組に説かれた仏法を聞きたくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた仏法と如何なる違うと比較したい。このような行為があれば、「止」が無くて、上師にしっかりに依止したくなくて、心を定めて仏を学びたくない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に皈依した後勝手にテレビの仏法の番組を見ることを禁止して、弟子達に彼方此方に道場に行くのを止めるべきと知らせた。そなた達はいつも新しいことが欲しくて、暫く聞いた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも此れだけを繰り返して説いているのを発見した後、他の所に聞けば違う事を聞くと思った。実は仏法は一つしかいないが、そなた達に彼方此方に聞かせないとは、この人或いは道場は仏法に従わないとは言えないが、それは彼方此方に学んだり聞いたりすれば、そなた達は唯外観で色彩に富んだ物をかき集めたが、その中に中身がちっとも無い。それは専念に仏法を学ばなくて、上師に依止しないから。

全ての道場の上師はシステムがあって仏法を教える。当然此れは清浄で伝承がある道場を指す。上師は自分の実修の経験及び伝承上師の加持で衆生に教えを与える。しかし、全ての上師は異なる証果の境界があって、衆生と接触する縁も違う。全てはそなたの累世の因縁によって、出会う上師も違う。多くの所はある者が皈依する時、心にまた一人を増えるから、よかったと思うかもしれない。しかし、寶吉祥仏法センターにある者は皈依する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは心の中にまた人を増えて面倒があると考える。

ガムポパ大師は弟子が上師に依止する第一条件を開示された。「疲れと飽きることが少しもない信仰を以て、善知識に依止すべき。」

何故多くの人は暫く仏を学んでいると、始めて疲れるや倦怠と感じただろうか。それは彼達は強い出離心を持たず、無常を信じなくて、決心して生死を解脱できず、菩提心も発しない。そなた達は始めて仏を学ぶ時、全て仏が目の前にいるが、一年に経った後、仏は十キロのような遠い所にいる。更に十年に経った後、仏は空にいて見えない。多くの人は皆そうだった。始めて皈依する時、上師に近付きたいが、頼りたいではなくて、唯近付きたい。暫くして、人は徐々にいなくない。此れは心が始めて疲れるや倦怠を感じるから。

この現象が現れるのは出離心が無いから、人々と離れるとは言えないが。唯輪廻の家を離れて生死を解脱する。仏を学ぶのは生死を解脱するため、若し、そなた達はこのために仏を学ばないなら、何故繰り返して同じな事を説いているだろうか。もう新しい物が無いだろうかを考える。勿論無いが、それは仏陀の教法はこの事であり、如何なる衆生を助けて生死輪廻を解脱する。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に教えて生死を解脱させるから、勿論この事を説いた。そなた達はレベルに上げないと、そなた達に新しいことを教えられない。たとえ菩薩果位を証するまで、始めて異なる修行法門がある。しかし、そなた達は今まだ修めないから、繰り返して行うべき。人道は人の教法があって、菩薩は菩薩の修行法門がある。そなた達はまだ凡夫地にいるから、たとえ今そなたに菩薩の法門を教えてもそなた達も理解しにくい。ある者は唯六字大明呪を唱えるだろうか。私は既に百万回を唱えたが、私達に新しい物を教えるかどうかなど聞いた。此れも貪るが、仏法を貪る。若し輪廻を出離する心が無くて、無常を信じないと、長くなると、疲労や厭きる感じを起す。

ある者はリンポチェが台湾に来て灌頂を行うことを見ると、皆は急いで行った。法会があれば、彼方此方に行って、できるだけ多く学んで欲しい、灌頂を多く要求して欲しい。しかし、問題なのはいくら灌頂を受けても、そなた達は修めないなら、相変わらず役に立たない。例えば、直貢噶舉は五十尊本尊が有るが、五十尊の灌頂が終わると、もはやそなた達に灌頂を与えない。それは灌頂を多く受けてもそなた達も修められない。その後第五十一尊が有るかどうか。勿論あるが、そなた達ももはや第五十一尊本尊を教える事を要求できない。更にリンチェンドルジェ・リンポチェも全部の本尊をそなた達に灌頂させない。それはそなた達に灌頂を与えてもそなた達も修められないから。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今年のお正月に三十五仏懺を修めないのは弟子達の反応を見るため。何故有る弟子は上師に三十五仏懺を修めるのを要求しただろうか。彼女は仏を学ぶとは料理を注文すると同じように思って、彼女が好きな料理を注文する。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師であり、料理人ではない。たとえレストランに行って、ウエーターはメニューを持ってそなた達に注文させるように、そなた達が注文した物もメニューに記載された料理だ。現在メニューが無い事を流行って、そなた達はレストランに行くと、料理人はどんな食材が有れば、その食材を運用してそなた達に料理させた。この顧客は入ると一つの食べ物を食べさせるが、次の顧客が入ると他の食べ物を食べさせる。しかし、此れもレストランは事前に食材を買って、準備した料理だから、如何なるそなた達が思った通り、要求の通りに提供するわけではない。仏を学ぶことも同じで、そなた達の思った通りにどんな法を求めたいなら、伝授するわけではない。

そなた達は皆分かったが、彼岸に行くと、船に乗らないと行けない。そなた達は仏を学ぶのはこの法船に乗って、上師は舵手である。この法船に乗れば、輪廻苦海を渡すと始めて彼岸に着ける。若し舵手がないと、この船は間違い道に行って、方向を迷うかもしれない。更に波に岸まで寄られるやひっくり返って輪廻の大海に落ちる。そなた達は仏を学ぶ時、一人の上師を依止しなくて、自分が家で唱えればいいと思えば、不注意すれば、間違って、間違いに学んだ。上師は責任を取ってそなたを監督して、そなたが過ちを犯すのを見るときそなたを助けて調整して、正しい方向へ進めて仏法を学ぶ。そなた達の煩悩と業力は波のようだが、そなた達はいかなる大きい波に出会うかどうか分からないが、例えば、そなた達は自分の煩悩とだから、業力は如何なる重いを分からないと同じだ。だから上師は必要があってそなた達を協力して乗り越える。上師は常にあることをしてそなたを試練している。そなたの様子や行為、反応など見る。上師は見ると、そなた達は修めるかどうか、そなた達の問題点をはっきりに分かって、隠さないから。そうすれば、そなた達を助けられる。

当年禅宗五祖は奥義を六祖慧能に伝授した後、六祖にすぐ離れると指示した。そうしないと、命を狙われるかもしれない。五祖は六祖と一緒に川を渡す時、五祖は六祖のために船を漕いだ。六祖は先生の身分の尊きで自分が船を漕ぎ、上師に船を漕がないべきと思った。しかし、五祖は六祖に一語「迷う時上師に済度されるが、悟る時自分が済度する」と言った。この事はそなた達は唯明心見性してまだ悟らないとき、上師はそなたを済度するが、そなたは悟る時自分が自分を済度できる。この事は上師の重要を説明した。しかし、そなた達は全て頑迷に非を認めない。自分が船に乗せればいい、自分が手で少し漕ぐと、船は前に進めるや自分が泳げるから自分を頼れると思った。

嘗てある者は自分が法本を貰って、観想も出来るから、自分もラプチ雪山に閉関修行できる。結局リンチェンドルジェ・リンポチェが前に閉関修行した関房で3日間に留まった後、全身は痒いから出てきた。此れは彼は自分を成就するため閉関修行するから、如何しても閉関修行できない。

弟子は上師をに依止する第二条件『ちっとも吝嗇ではない財を上師に供養、依止すべき。』

1人如法の上師に供養することは大変大きい福報を蓄積することが出来る。ここで少しもけちしないお金を上師に供養して、依止するべきで、お金の多少ではなく、そなた達の心である。通常そなた達が供養をしたい時、一番目の考えにより、供養した後自分にはお金がまだもつかどうかを考える必要がない、或いは供養する前にまず住宅のローンが足りるかどうか計算するな。此処で説いた心とは、そなたが清浄求めない心で供養する時、1,000元を供養しても100万元より多かった。なぜ上師にお金を供養するか?一はそなた達がお金を大変下ろし難いで、普通に捨てる心を訓練しないと、往生する時は心配になっで、輪廻することになった。

直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェにやらせる時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が出来るかどうかぜんぜん考えなく、何も聞かずに、直貢チェツァン法王が言いつけたことに従ってする。そなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェのように全部を供養するのではなく、それにしても、そなた達も出来ない、リンチェンドルジェ・リンポチェなら何もいらない。供養するお金は多寡が本当に重点ではなく、一番大切するのは供養心である。

以前、インドにある貧しい婦人は、ある日釈迦牟尼仏が家を通ることを知った後、彼女が供養するものがないので、自分の唯1本ズボンを脱いで道路の上に捨てて、泥濘上に敷き、釈迦牟尼仏が通す時、足を汚染させないため。全身つるつるしている彼女は敢えて扉の内に隠れることしか出来なかった。そなた達のように上師に供養した後全部上師を見て、上師がもっとそなたを見て欲しい、或いは上師の目つきを受け取ることが出来るのではない。実はこの婦人のように仏に供養する時隠れたべきだ。こうした故で、彼女の福報が起きて、またあの世に果報が叶い、それから国王の妃になった。国王の妃になった彼女はまた多くの金銀、真珠と宝石を持って釈迦牟尼仏に供養し、しかし今回釈迦牟尼仏が受け取らなかった。今回彼女は求めのある供養をしたから。自分の福報を蓄積するためした供養である。もっと大きい福報が欲しくて、供養する心が正しくなく、真でなければ、金銀財宝であっても仏も受け取らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て多くの供養を受け取らない、そなた達も見た。何百万元から千万以上、ひいてはもっと多かった。心が正しくなくて、求めがある供養は全て正しくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの供養を受け取ると、即ちそなたを一緒に上師の功徳の中に組み入れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは歴代上師の功徳大海と一緒になり、そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳と一緒になれば、まるで歴代上師の功徳大海と一緒に融和した。そなたは言ってみて、こんな功徳はそなたの1人のよりどんなに大きいだろう。

先程出て来て懺悔した男信者を例として、あの時、彼と女房とも寶吉祥の皈依弟子で、彼の女房はリンチェンドルジェ・リンポチェの宝石店で働いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは宝石店のドアのパスワードを彼女に教え、それに、彼女に誰にも教えることが出来ない、彼女しか分かることが出来ないと言いつけた。そして、一回緊急の状況に、彼女はこのパスワードを夫に教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは知った後、彼女を厳しく責めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の上師と問わず、単に社長と社員の関係で、彼女は社長が言いつけたドアのパスワードを漏らして、それに宝石店のパスワード、どんなに大変になるだろう。例え彼女の夫はまた彼の妹に言い、皆は全部親戚で大丈夫と思ったら、どんな結果をもたらすだろう?これは大変深刻な事で、法律の責任がある。しかし、彼が女房がリンチェンドルジェ・リンポチェに叱れた後、女房をかわいがって、そのため上師を怒って離れていった。彼のこの挙動は黙々として女房を支持すると表し、上師を離れるとして抗議し、偉い愛情のためデモした。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼にそうだかと聞いた、彼も確かそうと承知した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて申された。彼の女房は自分の夫がこうするのを見て、自分が間違いなくと思って、やり直さなかった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を他のところに転職をさせて、彼女はまた類似の過ちを犯した。彼女が常習犯を見て、会社にこんな者をもう使わないと分かった。彼女は社長に不忠実することに既に慣れたから。彼女の夫があのごろ女房をかわがったため離れてかえって二人の過ちをもららして、二人に悪い影響をした。この件にたいして、先程彼が一言も言わなくて、それは彼がまだ懺悔しないとの現れた。

どの二つものは人が一番執着するか?金銭と家族だ。人が往生する前一番降ろさないのもこの二つものである。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの亡者を済度した。ポワ法か施身法か問わず、亡者の最後の罣礙を知ることが全部出来た。最も死亡者に下ろさせないのは財物と眷属だ。多くの者は生前大変お金を重視して、亡くなってもまだ自分のお金を考えて、自分の財産が良く分配したか心配する。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てある弟子の夫を済度した。あの亡者はリンチェンドルジェ・リンポチェに教えた。彼の妻は嘗て彼に1つの財布をくれた。あの財布の中に一枚の銀行のパスワートを書いた紙があったが、彼の妻が知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の妻にこのことを伝えるように望んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のためにポワ法を修めて彼の考えを知った。そうでなければこの弟子の夫が死んだ後畜生道に堕ちるかもしれない、もっと悪かったら餓鬼道に堕ちる事になる。だから仏経は皆に亡者が生前一番好きな玩具を布施すると教える。玩具は現代の話により、亡者が一番好きな宝物、骨董、宝石などであり、全部亡者のために布施して、亡者を分からせて、亡者が断念することにも役に立った。もうひとつは眷属を捨てないのである。その故でリンチェンドルジェ・リンポチェは何時も皆に生きている時自分を訓練するべきと教える。

≪上師五十頌≫の中に甚だしきに説いた、子女、妻と眷属を全部上師に供養する。この話しを見て、そなた達は妻、子供を全部上師に供養して使わせるかと感じた。密法の法本の中に子女、眷属を全部供養すると載せてあり、顕教にはこんな言い方がない。この話しはそなたの子女、夫、妻を全部上師に供養して使わせるのではなく、修め得ない者ならば、誤解或いは解釈し間違ったかもしれない。≪上師五十頌≫のこの1本の意味をそなた達に了解させるまで解釈するなら、1人在家また修行を証量した上師でないとその意味を大変難しく解釈する。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に修め得たため、先の物語をこんなに細微で解釈してそなた達に分からせた。

実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは前にもこの段落を申された。彼らの夫妻が順従で、妻を供養して、一切を上師に魔かすれば、彼がまたこんな間違いを犯すか?現在このようにならない。だから、そなた達も注意するべき。そなた達が外で悪い目にあった時、ある家族がそなたの味方になって、そなたのために戦う時、一層注意しなければならない、これはかえってそなたに良くない影響する。ある時には、リンチェンドルジェ・リンポチェが一方を責めて、わざと側に跪いていた眷属に聞いた:「我はそなたの夫(或いは妻か子供か)をこんなに厳しく責めて、そなたの心は可愛がらないか?」彼らをテストした。彼らは表面的に頭を振って、可愛がらないと言ったが、心の中に間違いなくとても惜しむと感じた。

この事件のため、あの懺悔しに出て来た男信者の妻は、その後自分が間違ったと感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しに来て自分の家を供養しようと望んだ。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなく、かえって彼女に「そなたにはこの家しかない、やはり自分のため残ろう!実は、あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェがこう言ったのは、彼女の夫が仏を勉強しないのを見たから。彼が以後絶対に離れると知った。しかし、あの女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの話しのニュアンスを聞き判らなかった。だから、ある時上師がそなた達に全て喋った言葉は、そなた達が注意するべきだ。

あなたの考えは正しければ、妻と子女に対しての罣礙を下ろす事が出来、子女と眷属を全部供養するのは、そなたに仏を勉強させて、眷属、家庭、事業またなにかをいらないのではない、これも正確な観念ではない。もう一度強調して、別にあなたにもともとあるべきものを拒絶させるのではなく、そなたが仏を勉強して多くのことに対しての考え方を変わるべきで、もう執着する必要がない。所謂供養するとは、肉体ではなく、そなたの法身慧命を供養するのである。自分の法身慧命も上師が授けたから。上師はそなたに法身をあらわって、慧命を開けることが出来させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェとそなた達と一番違うさはリンチェンドルジェ・リンポチェが顕教或いは密教で習う時、上師のご指示を相違する事がない、上師が口を出すとリンチェンドルジェ・リンポチェがすぐ承諾して、自分には能力があるかどうか、次の食事ができるかどうか問わない。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェにラーキ雪山へ3ヶ月を閉関すると指示した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは決然として会社をおろして閉関しに行った。そなたが考えて見て、三ヶ月会社にいないと、ある者が会社に悪い事をするかもしれない。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェにとって、会社が倒れるべきなら倒れさせよう!リンチェンドルジェ・リンポチェは既に自分の法身慧命を直貢チェツァン法王に供養し、即ちこんな全く上師に依止する考え方で閉関することがはじめて出来た。そなた達が自分の世間の人と事をこんなに心配して出来るわけがない。

当年、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んで始める時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子が言うことを聞かないで、リンチェンドルジェ・リンポチェも彼にきを揉めなかった。そなた達であれば、子供を世話するほうが重要し、仏を学ぶことを先に片側に置くと思っているかもで知れない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の息子を死なれないことを知っているので、心の中に彼を仏菩薩を供養し、仏菩薩から彼を世話し、そして、自分がうまく仏を学んで修行し、もっと多くの衆生を利益する。この言い方はそなた達が想像が得にくい、普通な人間であればお経を唱えて彼を回向するという。そなたの仏を学ぶ心構えが正確であれば、そなたは仏を学ぶ道におのずから障碍がない。もし自分の心が正確ではないなら、半分を学んで障碍を現れる。たとえばそなたの事業と家庭はそなたが仏を学ぶことを妨げさせて、が、実は一切なのはそなたの心が正確ではないので、障碍をもらえるわけである。

仏を学ぶことが最も重要なのは心構えの転換である。そなた達が仏を学んだ後で、そなたは普通な人間と異なることをしなければならない。これは外形あるいは日常生活が異なるのではなくて、そなたは同じように他人と同じ生活を暮らしていて、しかし、心構えがぜんぜん違っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは前日に食事をする時に、あるご死者のためにポわ法を修めて、修法を完了し、一緒に座って食事する人が誰でもリンチェンドルジェ・リンポチェがすでに修行を完了したことを知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、いまただ心を動いたら、相手に助けたいなら、効果がある。なぜならば、心は最も重要で意識ではないと知っている。

私たちは福を大切することを常に聞いて、所謂福を大切するとはそなたに何も買わないで、少しのお金を節約して布施をしてくる意味ではない。福を大切するとは仏を学ぶ因縁と福報を大切する。そなたは福報がある時に、そなたが衆生に利益することができて始める。一部の人々はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁してきて、自分が仏を学んで衆生に助けたいと言って、が、リンチェンドルジェ・リンポチェがみると、彼の自身が福報もないで、如何に衆生に助けあげるのでしょうか?一部の人々は一回でお金を寄付し、舞台に上がって賞を受けて、皆が彼に拍手して賛嘆を現る時に、彼の福報を同時に消耗した。看板を彼に与えるときに、福報も消耗した。だから、ある者はそなたに何を褒めるんら、いいことではないかもしれない、そなたの福報を少しを消えさせるかもしれない。ある者はそなたに批評する時に、逆にいいことで、そなたにどこで問題があって、どこで改正しなければならないを知らせる。

第三、汚染がない増上心を以て、善智識に依止すべき。

垢染がないとは、声聞縁覚以下の発心により仏を学んでいはけない、自分が良くなることを求める発心により仏を学んでいけない。一部の人々は仏を学んできて、上師が全部でそなたのために調整し、すべて良くなって、そなたにそなたが暮らしたい日々を暮らさせて、また、一部の人々がよい付き合う人を求めることを望んでいる。あるいは、この団体を参加して彼にもっと人々を認識させてもっと多くの商売をすることができることを望んでいて、甚だしきに至っては知恵をあけることを含める。これらのは欲望をもって仏を学んできて、これらの欲望が垢染である。これらの人々は学んでから結局すべて離れられる。

上師の心は清浄で、そなたの心は垢染があったら、如何に上師と相応してなるのでしょうか?上師は誠心で仏法を教導し、欲望あるいは何を求めるのを持って仏法を教導するのではないで、もちろん、そなた達も個人の欲望あるいは何を求めることを持って仏を学んでいけない。上師の心と相応したいなら、そなたの心構えが変わらなければならなくて、垢染がない誠心をもって上師に依止しなければならない。

仏を学ぶことは学問にして研究し、自分は名相がもっと多くて分かってもっと多くの学問があることを望んだら、それも垢染みを持つ心である。一部の人々は仏法を研究する心構えにより、仏法を勉強し、それから、執着を発生し、そして、再度輪廻してくる。普通には、それらの名相を尋ねる人々はリンチェンドルジェ・リンポチェがほとんど解釈していない、なぜならば、名相がわかっても修行を代表するのではない。名相は仏法の名詞で、多くの名相を解釈してもただ少しの学問を表示し、実際な修行経験があったことを表示するではなくて、上師を務めて人々に仏法を教導してあげることを表示していない。名相がわかるならわからないに比べてちょっと良くなって、彼らは学問にて人々に仏法を少し常識を持たせて、しかし、少しの名相がわかると上師を務められるのではなくて、上師が実際な修行する経験を以って、真に衆生に生死を解脱することを助けられて、生死を解脱する法門を教導してあげて、このような上師もつまり善知識である。

善知識の善とは十善法をすでに円満な修めて、その上、すでにやり遂げて、果位を修めもらうのである。善知識は生死を解脱する方法がすでにわかって、そなたに生死を解脱することを助け上げられて、そなたに生死を解脱する仏法を教導してあげられて、これは所謂善知識である。しかし、この名詞はすでに濫用されて、ただ仏法を説くのはすべて善知識で呼ばれる。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはある男性の弟子を指示した。そなたはこのように疲れて、また目を支えて自分が居眠りをしないでくださいを望んだら、それでは、大礼拝をしましょう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にいまから午後6時まで大礼拝をさせることを指示した。この弟子はすでに2回目で目を支えて、彼は目を支えてを寝つかせないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に駆けて離させる。なぜこの弟子は疲れを感じたのでしょうか?彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示する仏法がかれと関係ないわけで、だから、居眠りをして目を支えようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェの目が鋭い、この弟子の皮膚はちょっと黒くでも、そんなに遠くところで座っても、依然として、彼が目を支えていることが見られた。

第四、愚かながない知恵は上師に依止するべき。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加することを求める人あるいは皈依を求める人に「なぜ仏を学ぶたいのでしょうか?帰宅してから一週間を考えてまた来て、毎日に何分にかかってこの問題を考えている」と尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達のこの問題を考えさせて、実はそなた達に智慧をあけることを助ける。そなた達は回答を思い出さないでも、ただ、まじめな考えるなら、実は智慧が少し開けられる。一部の人々は帰宅してから、わざと仏経あるいは相関書籍を読んで答案を探して、しかし、普通には、リンチェンドルジェ・リンポチェがこのような答案を聞かなくて、逆に、彼たちに如何なる仏法の理由を考えさせないで、なぜならば、このようにしたら、そなた達の内心の本当の考えで、そなたの誠心である。そなたは「私はわからない、私は了解しない、私ははっきりではない、私はなぜ仏を学びたいがわからない」を言ったら、それはそなたが菩提心を発してないを表示し、愚かながない知恵にて上師に依止していない。そなたたちは自分がなぜ仏を学ぶことはっきりわからなければならない。

第五、如何なる我慢がない恭敬を以って上師に依止するべき。

法本には「上師が医王で、仏法が良薬で、我々が患者である」と記載されている。我々は釈迦牟尼仏が医王を呼ばれて、主に我々の心の病気に治する。我々の心は病気にかかって、身体が病気になり、我々の心が病気がないなら、身体が病気にかからない。上師はそなたの根気のよりそなたに違う法門を伝授する。医者はそなたの病状により処方箋をして、そなたに自ら処方箋を選ばさせない。だから、自分がどの仏経を読むはずで、あるいは自分が文字を読めるので、お経を読められて読んで、人々が何を言ったら何を従うを思ってはいけない。このようにしたら、恭敬な上師に依止していない。そなたの心が病気にかかるときに、上師は絶対にとても厳しくて、そなたは病気にかかって医者にみて、医者がすべてとても厳格で、例えば、そなたの血脂肪が高く過ぎると、医者がそなたに肉を少なくて食べさせて、甚だしきに至っては、肉食をさえない。医者はそなたに多くて肉食することを絶対に聞こえない。病気に治すために、絶対に言うことをきかなければならない。一部の人々は久しく病気で名医になると思って、この言い方が間違って、多くの人々が長くて病気にかかって、やはり自分の病気を完全に治す仕方がない。

多くの人々はリンチェンドルジェ・リンポチェが謁見してくるときに、自分が何をできるかを尋ねる。この人はこのように尋ねたら慢心を表示し、ただ占いだけで、上師に恭敬心がない。このような状況にあったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは通常に相手に大礼拝をさせて、彼らに一日に2,000回でできるかどうかを尋ねる。一部の人々はまたいやいやながらうなずいてやり遂げられると言い、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼にその場で300回でさせると、通常に完成してから顔が青くなって、すぐに自分ができないと後悔して言う。

聞いて、ご主人も定刻に家に帰って、自分から修めてもらうと思っていて、が、一切は上師と仏菩薩の加持なのでそなたに仏を学ぶ道に障碍を減らさせて、そなたに安心で一心に仏を学ばせることを思わない。実は、そなたは仏を学んでから、仏を学ぶ善ゆえに、本来、そなたに善の果報を表すことを妨げる力をしばらく停止し、そなたに本来の障碍をしばらく妨げさせないで、そなたに本来得るべきものを貰えさせられる。そなたは仏を学ぶことが良くうまくてだからよいことを表すのではない、これは本来そなたの善果で、ただ仏を学んで障碍を消えさせて、増えるのではない。実はご主人は定刻に家に帰って、彼が事業で発展がないを表示するかもしれない、そなたは不倫の相手を見付かるのではない。ある者は10数日家を離れて、相手が不倫の相手を見付かることを心配する。仏を学ぶ者に対して、「彼は不倫の相手、甚だしきに至っては、二人、三人以上を見付かって、このようもいい、ある者は彼に伴うことを助けられて、彼が寂しいので精神の問題があることを避けて、そなたは彼の周りに帰ると正常な人間だ」と考えられる。仏を学ぶ人間の心はとても間違って、違う角度でことを見て、しかし、そなた達はこのように思わない。『心経』に記載されているのは人々がすべて夢を逆さまにして、因果を信じていないで、無常を信じていないわけである。

今日、先に上師に対する五つ心を説いて、この5点はそなた達に帰宅してうまく考えられる。多くの人々は密法が釈迦牟尼仏から諭されないと言い、しかし、ガンポバ大師の著作と理念が『華厳経』から多くて引用されて、その上、祖師ジッテン・サムゴンの多くの仏法の演繹が『宝積経』から引用されて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二人の伝承上師ととても縁があるので、この世におのずから機会があって『華厳経』と『宝積経』を読められる。

明日はリンチェンドルジェ・リンポチェの三恩根本上師尊勝なる直貢チェツァン法王の誕生日で、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の許しをすでにもらって、明日に寶吉祥仏法センターの1,000名弟子を連れで24時間で連続して長寿仏心呪を唱えていて、唱える功徳を以って直貢チェツァン法王に供養する。直貢チェツァン法王は直貢噶舉派の指導者で、その上、伝承の持ち主である。直貢チェツァン法王は健康し、長寿されるなら、仏法に対して大きな利益があって、その上、もっと多くの衆生に利益される。我々が弟子とするのは何も報わないで、最もベストのが法にて供養する。

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2012 年 09 月 13 日 更新