尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年7月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。

経典:「またつぎ阿難あなん、かの極楽界ごくらくかいにはもろもろの黒山こくせん鉄囲山てっちせん大鉄囲山だいてっちせん妙高山等みょうこうせんとうなしと。」

仏曰く:阿難、西方極楽世界には黒山・鉄囲山・大鉄囲山などがない。大鉄囲山・鉄囲山は、地獄にだけしかない。研究では、地殻は鉄という成分でできていると言われている。極楽世界には、地球と違って高山や谷などがなく、地勢が平らである。山が多い場所こそ、当地の人々は驕り高ぶり、競争心が強いことを示している。

妙高山は地球にもなければ地獄にもない。それは須弥山(しゅみせん)に似ているが、須弥山までには及ばない。宇宙学ではしばしば見られるが、とある気体が山の形で高くまで吹き上がる現象があるが、おそらくこれに当たると思う。

経典:「阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、その四天王天しだいてんのう三十三天さんじゅうさんてん、すでに諸山しょせんなくはなにによりてかじゅうするやと。ぶつ阿難あなんげたまはく、なんぢがこころにおいていかん。妙高已上みょうこういじょう夜摩天乃至他化自在天やまてんないしたけじざいてんおよび色界しきかい諸天等しょてんとうあり、なにによりてかじゅうするやと。」

仏は阿難に問うた。そなたはどう思うのか。これ等の天は何に寄りて留まっているのか。

経典:「阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん不可思議ふかしぎなる業力ごうりきいたすところなりと。ぶつ阿難あなんかたりたまはく、不思議ふしぎなるごう、なんぢるべけんやと。こたへてまうさく、いななりと。」

天はとある場所に依られるのは、科学でいう引力によるものではなく、仏法で言えば、それらは不可思議な業力からの力によって留まるのだ。

仏は阿難に、不可思議な業力とは何かを知っているかと聞いた。阿難は知りませんと答えた。

経典:「ぶつ阿難あなんげたまはく、諸仏しょぶつおよび衆生しゅじょう善根ぜんごん業力ごうりき、なんぢるべけんやと。こたへてまうさく、 いななり。世尊せそん、われいまこのほうのなかにおいてじつまどふところなし。未来みらい疑網ぎもうせんがためのゆゑにこのといおこせりと。」

仏曰く:一切の諸仏・諸菩薩及び一切の衆生が植え付けた善根の業力だ。知っているか。私は知りませんでしたと答えた。

多くの場合、仏が投げた問いについて、仏に答えがないわけではない。仏の心の中には答えがあるものの、わざわざ問いを投げるのは何故だろうか。ここで説明してある。仏曰く:私は法の中では何一つ疑問もないが、全ては未来の衆生のさ迷いを破る為なのだ。末法時代の衆生は何れも懐疑心が強く、たとえ善の法を説き聞かせても、悪の業力の強さにより、せっかくの善法も先方の心にたどり着くと、自然に悪法に変わってしまっている。何故なら、彼等には悪法のほうが善法より多いからだ。

帰依した際に、皆さんに「諸悪を為すこと勿れ、衆善を奉行すべきだ」と教えたのは何故だろうか。微塵たりとも為してはならない。それは、そもそもそなたは膨大な悪を具備しているからだ。もし、悪がなければ、この世間に居るだろうか。少なくとも阿弥陀仏の所で修行しているはずだ。ここまで来られたのは、私を含めて、まだ悪が少し存在している表れだ。仮に、私の業力が完全に取り払われていたら、この一生はもう来なかっただろう。今生再び来た役目としては、累世で借りた業力を取り除くことだ。返済し切ったら、私は去っていく。

仏から教えられた方法は簡単だ。つまり、「悪を断ち切り善を行ずる」ことだ。一切の悪を断ち切り、仏が教えられた一切の善を行えれば、仏法が聞き入れられるようになる。そうでなければ、聞き入れないものだ。帰依の時にも言ったように、帰依してから、上師・三宝の教えに従えば、善の力が途絶えることなく蓄積していくと。それは正にこれが原因だ。

末法時代の衆生は懐疑心が強いことと悪業が重すぎることから、謗仏(ぼうぶつ)する恐れがあるだろうと仏は心配なされ、わざと弟子に問いを投げたのだ。一問一答を通じて、衆生のさ迷いを解こうとする。「疑網」とは衆生の懐疑心が重すぎることを指す。どうしてこうなったのだろう。それは、衆生は自分に良い、利点があると望むことから、何事に対しても懐疑心を起すからだ。

経典:「ぶつ阿難あなんげたまはく、かの極楽界ごくらくかいのそのには、うみなくして諸河しょがあり。かわせまきものも十由旬じゅうゆじゅんち、みずあさきものも十二由旬じゅうにゆじゅんなり。かくのごときの諸河しょが深広じんこうりょう、あるいは二十にじゅう三十乃至百数さんじゅうないしひゃくしゅなり。あるいはきわめて深広じんこうなるものありて、千由旬せんゆじゅんいたれり。」

極楽世界では、海はないが河川が多数ある。海水は塩辛く飲めないが、河川の淡水は飲めるからだ。河川で狭いほうは十由旬あり、浅いほうは十二由旬ある。何れも地球での河川より大きい。

経典:「その水清冷みずしょうりょうにして八功徳はっくどくせり。濬流しゅんるつねにはげまして微妙みみょうこえいだすこと、」

川の水は清く美しい。温泉ではない。冷とは、寒冷という意味ではなく、熱くなく八功徳が備わった水のことを指すのだ。そのせせらぎは、地球でのせせらぎではない。「微妙の音を出す」とは、観世音菩薩の説かれた言葉で言えば、「梵音海潮音(ぼんおんかいちょうおん)」だ。それは地球では聞こえない音だ。海潮音とは、海の潮騒の音を形容するようなものではないが、観世音菩薩が我々に分かるような文字でこうした音波の感覚を解説している。潮が一つ一つ寄せてくるように続くもので、その間呼吸する為に止まったとしても、この音が一つ一つ寄せていて、止まらず、途絶えたりしないように感じる。これが海潮音だ。海潮音は引きずって唱えるのではない。

自性念仏まで修めれば、自然に海潮音が現われる。何故なら、持呪する人であれば、体内では共鳴が出来ているから、この共鳴により絶えず音波が生じるからだ。たとえそれが呼吸するために止まったとしても、持呪する声が途絶えないように感じるものだ。(出家弟子は、以前はこうした説明を聞いたことがなく、それは海の潮騒の音かと思っていたと述べた。)

リンポチェの開示:単に潮騒の音だけだったら、海辺に座って聞けばいい。インド古文の梵語(サンスクリット語)で持呪すれば、梵音になるのではない。梵音は天界の声であって、それは口・舌や歯を動かすことなく、意識による音波のエネルギーなのだ。高周波と低周波に分かれるが、このエネルギーが現われた際、人類の耳にはそれが聞こえず、機器による収録さえ出来ない。現代では、一部の科学機器では宇宙の奥からの音を収録することができ、機器を通して現した音は、一種類の鋭い音なのだ。それは人類による音ではない。

梵音が出るまで唱えれば、それは完全に自性念仏になり、意識による念仏ではない。自性の中から、一種類の音波が出てくる。『普門品』には「梵音海潮音、勝彼世間音」とある。俗世間の音は、いわゆる「声」色香味触法だ。俗世間の音は我々の体に僅か二つの作用しかない。一つはある音が聞こえる作用で、もう一つは好きな音を追求したいという感覚が与えられることだ。だが、ある種類の音は我々の体に危害を加え、何の役も立たない。

道教では、ある一部の音を唱えれば、我々の内臓に役に立つ。呪文の中には我々の体に役立つような音がある。梵音は一種類の周波数だが、人類の高周波、中周波、低周波の声に属せず、完全に自性の中で体得するものだ。例えば、天界では天人同士が会話を交わす場合、口を動かさないとされる。仏典によれば、心で意思疎通するのだ。というのは、それは梵音の一つであり、ある種類の周波で伝わっていくのだ。一方、人類は口・喉・肺を使った上で発声するものだから、こうした声には限界があって遠くまで伝えることが不可能だ。いくら機器を通して声を出したとしても、限りがあるのだ。

梵音だけはありとあらゆる所に届き、全宇宙に行き渡る。ただいま浄土では多くの人々が持呪しているが、人類の耳では聞こえない。だが、いつかそなたが空性に入られ、完全に執着・自我の自性が無くなれば、この種類の周波もそなたの耳に届くようになる。現在、地球での称名にしろ、持呪にしろ、全てが意識で動いている。ところが、意識を以って唱えなければ、体の中に潜む梵音が唱えられる音波を開発できるわけがない。いわゆる「偽を借りて真を修める」の偽とは、単にこの虚仮の体を指すだけではない。

人体はそもそも小さな宇宙だ。業力によってこの体が生じるものだが、この体が無ければこの小さな宇宙を包むこともない。どうやってこの小さな宇宙を開発するのか。異なった宗教によってそれなりの言い方があるが、仏法なら直接にそれを開発し得る。

パンデミックが始まった頃、私から弟子らに多く持呪するよう勧めたが、思いがけずそれを空嘯いて聞きもしない人が居て法会にさえ参加すれば加被(かび)されるだろうと思っていた。多く持呪すれば、体の中にあるネガティブなエネルギーを抑えることができるし、ネガティブなエネルギーは比較的体に入らないようになる。よって、疫病に感染される確率が人と比べると低くなる。それでも、ワクチン接種が要らないわけではなく、接種する時は接種するが、ただ副作用は人より少ないだけなのだ。副作用が重い人ほど業力が重い、懺悔心がまだ起きていない事の表れだ。

「微妙の音」の微とは極少量のことだ。この種類の音は地球では聞こえないし感じ取れないものだ。例えば、寂静(じゃくじょう)なところへ行ったとして、郊外などの静まり返った場所で、鳥のさえずり、木が風に当たった音、花が風に吹かれた音が聞こえたりするようにだ。この種類の音はふだん存在していながら、そなたには聞こえない。何故なら、その煩悩に遮られているからだ。いざ寂静なところにいれば、環境によって煩悩が減ったことによって、虫の鳴き声などの既に存在してある音が聞こえるようになる。その実、そもそも聞こえている。

浄土にたどり着いたとしても、煩悩を全部断ち切ったとは言えない。成仏するまでは、ちょっとした無明(むみょう)、微塵の煩悩が残っているからだ。ただし、間違いなく地球にいた頃よりずっと少なくなっている。煩悩の多くは自分が見つけてきたものであって、多くの場合、それは見えない・聞こえない・思いつかないものなのに、意地になって自分自身の煩悩が気になって解決しようとするからだ。

「微妙の音」は決して地球では聞こえない。阿弥陀仏の所へ行ってはじめて聞こえるのだ。

経典:「たとへば諸天しょてん百千ひゃくせん伎楽ぎがくのごとくにして、安楽世界あんらくせかいにそのこえあまねくきこゆ。」

仏は川のせせらぎが天界の音楽のようだと形容し、こうした音は何れも阿弥陀仏の所で聞こえる。そこには悪い音や聞き疲れる音がない。

経典:「もろもろの名花みょうけありて、ながれ沿ひてくだり、和風微動わふうみどうすれば種々しゅじゅこういだす。両岸りょうがんほとりおおくの栴檀樹居せんだんじゅおりて、修条しゅじょう密葉河みつようかわまじわおおひ、むすはなひらきて芳輝玩ほうきもてあそぶべし。群生遊楽ぐんじょうゆらくし、こころしたがひて往来おうらいす。あるいはかわわたながれそそぎて嬉戯きけするものあり。もろもろの天水てんすいのよくもののよろしきにしたがひ、深浅じんせん寒温かんおんつぶさにひとこのみにしたがふことをかんず。」

多くの花が水に流れ、川岸にはたくさんの栴檀の樹があり、その葉っぱが整えられたようにぎっしりと川の上を覆っている。多くの衆生が川遊びをしている。「深浅・寒暖・つぶさに人の好みに従ふことを感ず。」川遊びの時、河川の深さや温度は人の好みに従って変わり、冷たくなって欲しいのであれば冷たくなるし、暖かくなって欲しいのであれば暖かくなる。

経典:「阿難あなん大河だいが下地げじには金砂こんさきて、もろもろの天香てんこうありてによくたとふるものなし。かぜしたがひてかおりさんみずまざりてかおりながす。てん曼陀羅花まんだらけ優鉢羅花うはらけ波頭摩花はずまけ拘物頭華くもずけ芬陀利花ふんだりけ、 そのうえ弥覆みふせり。」

河底は世間にある土砂や石などではなく、金砂で敷き詰めてある。空気は芳しい香りで溢れ、言葉では表せないが、つまり風によって至る所まで漂っている。天の曼陀羅花・優鉢羅花・波頭摩花・拘物頭花・芬陀利花といった珍しい花・最も得難い花が川の水面にある。

経典:「またつぎ阿難あなん、かのくに人衆にんしゅ、あるいはとき遊覧ゆらんしておなじく河浜がひんあつまり、激流げきるひびきくことをねがはざるものあれば、天耳てんにといへどもつひにかず。あるいはくことをねがふものあれば、即時そくじ百千万種ひゃくせんまんしゅ喜愛きあいこえ領悟りょうごす。」

そこに住んでいる人々は、川へ見物しに行ったりする。せせらぎを聞きたくない人は、もし天耳通を持っていれば、聞かない選択肢もある。聞きたくなると、直ぐに悟りを開き、百千万種類の喜愛な音が聞こえる。「喜愛の声」とは、地球でいう喜愛ではない。地球での喜愛はもっぱら好きな音楽或いは恋愛話などだが、阿弥陀仏の所でいう喜愛は仏法、梵音、梵語(サンスクリット語)などを指すのだ。

経典:「いはゆる仏法僧ぶっぽうそうこえ止息しそくこえ無性むしょうこえ波羅蜜はらみつこえ十力四無所畏じゅうりきしむしょいこえ神通じんずうこえ無作むさこえ無生無滅むしょうむめつこえ寂静じゃくじょうこえ辺寂静へんじゃくじょうこえ極寂静ごくじゃくじょうこえ大慈大悲だいじだいひこえ無生法忍むしょうぼうにんこえ潅頂受位かんじょうじゅいこえなり。」

喜愛の声は仏法僧の声なのだ。

「止息(しそく)」とは、呼吸が停止することではない。有情衆生であれば誰もが呼吸する。天界に生まれても呼吸の音はまだ存在する。仏果を証し、涅槃に入った場合に限り、呼吸の音が無くなる。大手印を修めるに当たって、止息を修め、呼吸の音を停止させる。何故、これを修めるのだろうか。これを修めてはじめて入定ができるからだ。修めないと、心拍・呼吸の音が聞こえやすく、これで心が乱れてしまうのだ。止息は呼吸を停止させるのではなく、如何に呼吸の動態を静態にさせるかにある。

禅修行は一動一静だという人が多い。ただ、静の場合はひたすら座り、動の場合は立ち上がって禅功の運動や動作をするのではなく、一動一静は呼吸の間にあるのだ。呼吸を動と言い、一呼一吸の中間を静と言う。一動一静は互いに関連せず干渉しない。一呼一静の中で入定を遂げるのだ。これを身に付けなければ、いくら禅定しても入定できない。人としての体がある限り、呼吸するに違いない。呼吸が必要な以上、どうやって呼吸させないのか。亀息大法が出来るように訓練したとしても、呼吸はしている。ただ、一呼一吸の間の時間が一般の人よりずっと長いだけなのだ。密法を学ぶに当たって、一呼一吸の時間が比較的に長くなるように訓練するのだ。訓練を経験したことが無ければ、呼吸が早い傾向になる。赤ちゃんの呼吸が急なのは、彼等は成長しているからだ。お年寄りの遅い呼吸は、長生きする意味とは限らなく、呼吸のエネルギーが遅くなりかけているだけなのだ。

顕教では「止息」について言っていないが、密法では教えられている。「止息の声」は呼吸の音を停止させるのではない。一呼から一吸になる前の、止まった間にすら、音が存在する。体内からの音もあるし、静まり返った密室に閉じ込めたとしても、禅修行の者は密室での空気中の分子・原子による摩擦音が聞こえる。真空にした部屋でも、「ウーン…」という音がする。こうした音も、そなたの心を邪魔する。

座禅の時、何も考えないようにと言う人が多くいるが、実はそれは間違っている。或いは、座禅の時、頭を空にし、何もかも考えないようにと言う人もいるが、それもまた正解ではない。何も考えたくなくとも、宇宙の中にいる限り、多くの音が妨げになる。音というのは最も直接的に障るものだ。音がそなたに差し障らず、音がする中で、どうやって入定できると言うのか。即ち、観世音菩薩が説かれた「聞所聞尽」である。「所」とは聴覚神経のことだ。聴覚神経が音を聞いたにもかかわらずびくともせず、神経が反応しない限り、音はそなたの心に差し障ることがなく、そなたは入定できるようになる。観世音菩薩が修行された法門が、耳根円通(にこんえんつう)だ。何故なら人類の耳は他の器官より鋭く、耳を以て修めれば、入定まで修めるようになるからだ。「止息の声」とは、そなたは呼吸を停止させるほど修めたとしても、音は存在している。ここまで説き及んでは、おとぎ話のように聞こえているかもしれないが、取りも直さず、それはそなたらが経験したことがないからだ。

「無性の声」とは、男性や女性ではなく、本性を伴わずに生まれた音なのだ。まさに、たった今説いた真空の家でも「ウーン・・・」という音が聞こえるように、「無性の声」だ。

「無生無滅の声」。座禅するに際して空性に入った時、音は無生無滅なのだ。何故なら、音も縁起縁滅だからだ。空性に入れれば、あらゆる音はそなたにとって、ただの因縁法に過ぎない。因縁法だと分かると、心は音に引っ張られずに、定という境地に留まる。

「寂静の声」。先ほど例に取り上げた、真空の家は「ウーン…」と音がする、これこそ寂静の声だ。「辺寂静の声」。寂静の辺に近く、摩擦によった音だ。

「極寂静の声」。「ウーン…」と鳴る音すらない。完全に真空になった環境の中で、音すら聞こえない寂静さだ。多くの人が座禅する際に、音に邪魔されたくない。実は、真空だった空間に居ても音はするが、それは「寂静の声」、「辺寂静の声」という。「極寂静の声」まで修めるには、ご自身の心が寂静で、心が動じない状態で、寂静の声に妨げられない必要がある。

「波羅蜜の声」は、智慧によって生じた音である。

「神通の声・無作の声」。神耳通を持つまで修められるのは、耳や鼓膜、そして聞所によって受け取られた音などに頼るのではなく、心を通じてから、神通の力が生まれてはじめて、宇宙にある様々な音が受け取れるようになる。仏は、地下にいる一匹の昆虫から放たれた音が聞こえると言った。耳の鋭い動物は
地下にいる動物から放たれた音が聞こえるが、これも神通声とも言えよう。

灌頂受位の声。我々が灌頂を授ける際の受位とは、菩薩果位の修行を授けることだ。灌頂を受けることは、仏果成就を授記(じゅき)することだ。最初に当たるのは、もちろん菩薩果位を修めることだ。例えば、密宗の上師が灌頂を授ける前に、まず自分自身への灌頂を与えるべきだ。灌頂の時、五方仏・一切の天龍八部・一切のダーキニー・ダーカー・護法による保護を観想し、そして音楽も伴った上、灌頂を授けるのだ。それは諸仏菩薩は、如何なる衆生が灌頂を授かり、灌頂を受ける福報があるのを見れば、歓喜の心を起すようになるという意味だ。何故なら、灌頂を受ける人は未来仏に違いないからだ。このような歓喜の心が出ることこそ、「灌頂受位の声」そのものだ。そなたが未来の階位を受ける音なのだ。

経典:「かくのごとき種々しゅじゅこえくことををはれば、広大こうだいなる愛楽歓悦あいらくかんえつ獲得ぎゃくとくす。」

こんなにも多種多様な音を聞くと、自ずと「広大なる愛楽歓悦を獲得す」。ここでの「愛」とは、地球でいう恋ではない。我々が阿弥陀仏国土に行ったとしても、まだ凡夫としての習性はたくさん残っているからだ。法身菩薩・仏果をまだ証していない場合、その種の愛(気に入る感覚)・習性は残っている。この種類の音を通じて、その愛(情欲の愛ではない)を満たさせ、ある種の音に執着することなのだ。そなたがある種の音に執着するとして、一旦その音を感じ取ると、自ずと心から楽が生じられ、こうした環境に住むのを愛楽するようになる。

経典:「しかうして観察かんざつ相応そうおうし、厭離えんり相応そうおうし、滅壊めつえ相応そうおうし、」

この種類の音を聞いて愛楽・歓悦して、修行に励むようになり、仏法を通じて衆生の相を観察するして相応したり、法界での様々な現象を観察して相応したりすることを自然に身に付ける。現在、我々が見たり、分かったりするのは、もっぱら今生で学んだやら、聞いてきたやらの事に基づいている。同時に、生生世世であらゆる業力によって蓄積されたものであって、この種類の相応は我執との相応に過ぎず、客観的で冷静にこんな事柄を観察することはできない。我執とは何だろうか。自我の欲望が満たされなければ、「自分が被害者で、相手が加害者だ」という。こうだと、こうした事柄を観察する智慧と相応しなくなるのだ。

「厭離と相応し」。輪廻を厭離する心と相応する。地球では輪廻を厭離することを誓い、乃至、それを実行にまで移すとはいえ、決して百パーセントの相応には至らないだろう。何故、皆によく称名せよと教えているのだろうか。それは、習慣として身に付けるよう訓練するからだ。臨終の際、本尊と上師を信じることだけで、そなたは輪廻から離れられるのだ。厭離の心が充分に強烈でないため、多少なりともこの世間の事に未練がましく執着するからだ。仏法では、我々に縁に従って暮らすよう教えているのは何故だろうか。ある人のことにしろ、ある事にしろ、何かしらの事に執着すると、我々を輪廻させるからだ。

私自身も今生に再び来たのは、多くの衆生に借りがあったのではなく、過去世で、ある事柄に執着したに違いない。自分が解き放せていないせいで、再び来たということだ。我々に世間での輪廻を厭離させる最も良い場所は阿弥陀仏の所だ。前述したように、川から出た様々な音を聞いたり、様々な香りを嗅いだりすると、輪廻を厭離する心が強烈に現われ、これ以上世間での俗塵に染まる考え方に執着してはならないと分かるようなると、相応する。

仏法を広めるのに困難な部分が正にここにある。人に世間の事を全て諦めさせるというのは不可能だ。成し遂げ難いことだからこそ、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏浄土を紹介され、我々を修めに行かせるのだ。阿弥陀仏浄土にたどり着くと、安穏な生活が確保できたと思ってはならない。そこで、ゼロから修め直すのだ。ただ、その環境は、地球と違って修行に適した環境だ。だが、逆に言えば、適していないところでよく修め得られたら、その功力がさらに凄いし、その決心と堅固たる心も無敵だろう。

「滅壊と相応し」。地球にいては、全ての事が滅び、壊れると思わず、もっぱら何かを入手すれば、きっと私の欲望を満たせると信じている。この先の事はこの先考えよう、と思われる。よって、欲しがるのを入手して、今度は滅び、壊れるようになったら、また苦痛の始まりだ。欲しがるものが手に入らないのにも、そなたは苦痛を感じる。何故なら、そなたは如何なる人・事物も壊滅するとは信じず、差し当たって自分はそれを入手したい、私自身の考え方を満たしたいと信じてばかりいるからだ。

もちろん、世間法で言えば、人・事物を持つのは何の間違いがあろうか。何の間違いもない。ただ、仏法で言えば、それはすべきことではないとされる。何故なら、こうすると自分を受苦させ続けるからだ。私は1997年、衆生済度をし始めてから現在に至るまで、多くの衆生が厭離心、壊滅心と相応しないでいるのを見ている。それによって、仏法も含め誰も、その受けた苦を解決させることができないのだ。

何故、仏も施す術がないのか。仏は凄いのではないか。だが、仏には三つの事ができないと、かつて仏は言った。第一に、縁なき衆生は度し難し。縁とは何だろう。つまり、話を聞かない者は縁がないのだ。「私は聞法(もんぼう)するのは、単に分かりたいのと、仏法を以て自身の事を解決する為だけなのだ」と言うと、そなたの間違いだ。仏法は、そなたの事を解決させるものではなく、するかしないかを教えるものなのであって、もし、それを実行に移さなければ、どう解決しようか。まるで学校の時、先生が算数の解け方を教えたのに、そなたは空嘯いて聞きもせず、自分の方法を使ったところ、結果として零点を取ったようにだ。仏法は点数は付けないが、ただ苦はご自身で受けるものなのだ。

リンポチェは74歳という高齢で、パンデミックが厳しい中でも、説法をし続けるのは何故だろうか。自分自身の名聞利養の為ではなく、衆生が苦しんでいるところを、どう戒めても性懲りもなく、もっぱら自分自身の考え方が正しいと執着し、どうしても自分が望むようになるまでやり貫いていきたいとしていることにある。

本日は、この段落の経文(きょうもん)を拝読して、感慨深く思っている。この段落は初めて拝読したし、初めて言い出したものだ。仮に、我々に厭離心と壊滅心が備わらなければ、仏道修行はさておき、世間での生活すら苦しく思える。何故かと言えば、そなたは壊滅を受け入れず、輪廻の世間を厭離することを受け入れないからだ。

経典:「寂静じゃくじょう相応そうおうし、辺寂静へんじゃくじょう相応そうおうし、極寂静ごくじゃくじょう相応そうおうし、」

この三つは非常に重要だ。我々の心が寂静(じゃくじょう)に慣れていなければ、毎日多くの事を考えているからだ。たとえ多くの事を考えていなくとも、我々の心は常に内面や外在に邪魔され、一刻たりとも停止していない。寂静な環境にいると、高々1分間、5分間経ったところで、退屈してしまい、何かしようとし始める。退屈すると、何かしようとし始める。どうして自分の生活が味も素っ気もないと思うのか。それは、そなたは寂静や単純な生活に慣れず、充実かつ自惚れた生活に慣れているからだ。このような人は、禅を学んだり、禅修行したりすることはできない。地球では、我々を「寂静、辺寂静と相応させる」機会が滅多に少ない。

寺院が苗栗という静かな所にあり、そこにそなたらを一か月閉関として閉じ込めさせると、そなたらはきっと堪らないだろう。何故かと言えば、そなたらはこうした寂静に慣れていないからだ。閉関は特別に何かするのではなく、平常通りに持呪したり、座禅したり、テキストを修めたりするとされるが、どこが一番違うかと言えば、そなたを閉じ込めさせるという所にある。そなたに修習させ、寂静に慣れさせる為なのだ。これが修得できなければ、成果が得られない。何故、これを修めようか。何の利点があるのか。利点は皆無だ。在世の時、寂静を使うことに利点が伴わず、決して利点がどこにあるのか分からない。だが、常に寂静を修習し寂静に慣れている者なら、その情緒がより安定するし、健康状態も比較的良くなるのだ。

最も大事なのは、我々が事切れた際に、極めて短い間ではあるが寂静となる。そんな時に、そなたの心拍・呼吸・血流が止まり、そなたの意識を含め、何もかも停止するようになる。これこそ寂静そのものだ。寂静が現われた際、仮に生きていた時から慣れていなければ、すぐさま執着の念頭が出てくるようになる。例えば、「この男は私に借りがある」、「私の息子は親孝行しなかった」などだ。寂静に慣れていないそなたに、寂静が現われたら、一般の人の多く、乃至修行している者すら、最初に浮かんだ念頭は「私は死んだ」、「私は死んだのではないか」だ。こうした念頭が現われると、次々と多くの念頭が出てしまうようになる。

仮に在世の時、寂静に慣れており寂静が何だか知っていれば、いざ寂静が現われた際に念頭が起こらない上、「仏菩薩・上師よ、私を来迎引接してくださいますように」ともっぱら祈っている。この念頭のみ、他の念頭は皆無。仏道修行する多くの者は「私の情緒を安定させ、楽しくさせてください」というのが多いが、実はこんなのではない。真にそなたを楽させるのは浄土にあるのだ。前述した、そなたの愛楽を全部させるというのは、地球にないものだ。いくら、仏典に基づいて一部始終真似して何かを作り出そうとしても、地球では完全には成し遂げられないのだ。

作り出せない以上、如何するか。仏教では、複数の方法が教えられている。先ず、浄土へ行く心構えを準備しておくこと。在世の時に、心構えが整っていなければ、行かれようがない。簡単に言えば、仏がやってきたら、きらめく光を放ち、そなたを来迎引接しようとし、手を伸ばされた所を、そなたは「なんで私が、私は良くできたのかな。どこが正しかったのか。そこへ行って何をするのか」と膨大な疑問が出てしまいがちだ。仮にそなたは寂静に慣れていれば、このような突飛な念頭が出ず、仏と上師について行くようになる。

人は死んでいない場合、自分の問題がどこにあるか分からず、自己弁護のために口実ばかり見つけているが、いざ息を引き取る段になると、分かるようになる。こんなにも多くの衆生を済度してきたから、これに関しては私はよく分かっている。私自身も死亡を経験したから、よく分かっている。2007年の閉関修行のある日に、私は呼吸、心拍が停止してしまった。あの時、私は寂静だった。もし、私はそなた等のように寂静に慣れていなければ、最初に「私は死んでしまった。まだやり残しがいっぱいある。どうしよう」という念頭が起きていたに違いない。その反面、寂静に慣れている者なら、自ずと修行の際に起した願力・修めた功徳を思い出し、効果が現われるようになる。寂静を進んで修めなければ、毎日閉関すると、閉関が終わったらどうなるだろうなどとでたらめなことを考えるだろう。こうした閉関修行は無駄だ。

経典:「義味ぎみ相応そうおうし、仏法僧ぶっぽうそう相応そうおうし、」

「義味」は味を指すのではなく、ここでの「義」とは仏法の意味であって、了義のことだ。その意義・内容というのは、我々を生死解脱させることだ。しかし、人が地球にいる時、あまりにも雑念が多すぎることから、仏法を聴聞するに当たっても、その耳に入った途端に、またそれとは別に、違う考え方が現われたりする。要するに、雑念があまりにも多すぎるせいで、仏法としての含蓄が分からない上、義の味も分からない。即ち、その話のポイントのあるところなのだ。よって、そなたは決して仏法と相応しない。だけれど、阿弥陀仏の所へ行けば、このような環境・音・香り・せせらぎ等々があることにより、我々が持って行った神識(しんしき)の中にある過去の習性を調整させ、生死解脱の意味がどこにあるか分からせると、そなたは相応するようになる。

相応とは、仏の教えを聞き入れ、実行に移してはじめて相応するものであって、仏菩薩が目の前に現前されるやら、今日聞いて明日改めたところで全てがよくなるやらではない。仏の教えをよく聞き入れて、決心して実践すれば、相応するようになるのだ。例えば、そなたは仏の智慧と相応すると思い込んだつもりであっても、仏の教えを全部聞きもしなければ、相応しないのだ。「これは仏が教えたのではなく、あなたが教えたのだ」とそなたは言うだろうが、私は仏を代表して説いたのだ。リンチェンドルジェが教えたと言っていず、仏の教えだと言っている。仏典を介して私が言い出しただけなのだ。先ほども言ったように、この段落の経文を今回初めて拝読し、初めて説いたと。なのに、何故解説できたのか。それは、「了義」を体得できていて、仏が何のためにこれ等を仰せになったか分かっているからだ。衆生を生死解脱させる為なのだ。衆生を生死解脱させるからには、如何なる法門・帰依もこれが為だ。上師が様々な方法を与えてくれるのも、生死解脱させるが為だ。義が分からない、不相応なら、称えても無駄だ。

最近、ある弟子は往生した。彼女は生前に大懺悔心を起さなかったから、穏やかな最期を迎えることはなかった。今日は簡単ではあるが、その話について触れよう。まず、そのお母さんは年取ってからの出家だったが、当時彼女はお母さんに財産を分与してくれと要求した。そればかりでなく、人を遣わしてお母さんを脅かすまでした。これは何なんだろう。世間法では、因果から言えば親不孝だ。出家した以上、財物は要らないだろうと言われるかもしれないが、何といってもそれは母親の財物だから、母親があげるかどうかを決められるだろう。仏法で言えば、出家したのはお母さんだから、それは僧衆の財に属す。この弟子が意地になって僧衆の財を奪うのは、五無間地獄に堕ちるということだ。

私の弟子で、家族が残った遺産をめぐるトラブルがあった場合、私は争わないよう勧めるのだ。先方が欲しいのであれば、あげよう。こうした考え方は消極的ではなく、財物はそもそも体以外の物であって、福報に関わるのだ。そなたの財であれば、疑いもなくそなたのものになる。そなたのでなければ、強引に奪っても財物も留まらないのだ。

ある女性弁護士がかつて指示を求めに来たことがあったけど、彼女にもう一件の別の事がもうじき発生しそうになっているのを私は見た。その後ろにたくさんの幽霊が付いていて、これらの幽霊は彼女が聞こうとしたことと無関係だった。これらの幽霊は私に、「我ら皆はみな同じ家族に属するが、家族には夫の亡くなった母子がいる。その母子との裁判を助けようと頼んだ人がいれば、弁護士を断って欲しいと伝えてください。この弁護士は人柄が良いから、この仕事を受けると彼女の不利になるからだ」と言った。私は弁護士にこんなことがあるかと聞いたところ、「確かにある人から夫の亡くなった母子との財産の訴訟依頼があった」と答えた。彼女は私の言うことを受け止めて、この仕事を受けなかった。如何なる事も因果に繋がる故、依頼者が不義の財を奪う者であり、仮に弁護士が助けたとして、弁護士としての財を受けただけでも、助けたということから厄介事になる。家族の幽霊が怒って敵対するような事があったりするみたいにだ。

経典:「力無畏りきむい相応そうおうし、神通じんずう相応そうおうし、止息しそく相応そうおうし、菩提ぼだい相応そうおうし、声聞しょうもん相応そうおうし、涅槃ねはん相応そうおうす。」

「力無畏と相応し」。「力」とは、ポワーという力ではなく、修行に当たっての決心の力・衆生済度の力だ。無畏とは、恐れ戦くことがない意味だ。自分が死ぬことを恐れるのではなく、衆生の様々な妨げ・さ迷いに怯えず、何があっても絶えず仏法を以て衆生利益し、勇敢に前へ邁進することだ。

「神通と相応し」。地球で神通が出来るように修めたいという人が多いが、仏法ではこの一生で大神通力を修め得ることは不可能だという。閉関修行をよく成し遂げた場合に限っては別論だが、心に雑念がなく、功徳が起きた場合は、小さな神通力が備わるようになるが、大神通力や五神通力に関しては備わることはない。ご自身の業力以外に、多くの法門や方法などに関わっている。神通力と相応するのなら、阿弥陀仏の所に他ない。『阿弥陀経』ではっきり説かれたように、阿弥陀仏の所では、阿弥陀仏が加持された神通力を通じれば、いつでも瞬く間に如何なる仏の浄土へ聞法しに行くことができるし、食事が終わったらすぐ戻ってこれると。地球ではできないのだ。人の事がちょっと分かる程度の神通まで修め得たとしても、阿弥陀仏浄土での神通と比べると、取るに足らないものだ。

「菩提と相応し」。そなたは菩提心と相応する。地球では、菩提心を修めたり、起こしたりするが、相応するのは相当難しいことだ。何故なら、差し支えが多すぎるからだ。

「声聞と相応し」。「涅槃と相応す」。声聞縁覚を修めようと発願する者なら、そこでは声聞縁覚の修行方法と相応しやすくなる。仏果・涅槃になるように修めたい者なら、それなりに相応する。

経典:「またつぎ阿難あなん、 かの極楽世界ごくらくせかいにはもろもろの悪趣あくしゅかず、ほとりにも障礙しょうげ煩悩ぼんのう覆蔽ふへいなし。地獄じごく琰摩えんま畜生ちくしょうあることなく、」

極楽世界では三悪道の名が聞こえなく、仏道修行に差し障るような事がなく、清浄な心の名前を遮るような煩悩もない。地獄・琰摩王・畜生という名がない。三悪道がないことから、猫・馬や犬などはいない。たとえいたとしても、そこで生まれたのではなく、仏が神通力によって変化させて出てきたものだ。

経典:「ほとりにも八難はちなんなく、また苦受くじゅ不苦不楽受ふくふらくじゅもなくして、なほ仮設けせつもなし。 いかにいはんやじつをや。このゆゑにかのくにづけて極楽ごくらくとなす。」

八難(はちなん)を受けず、受苦することがなく、不苦不楽の事もない。なお、仮設という場合もないのに、況や本物をや。これが極楽世界と呼ばれる所以だ。

生身がある限り、八苦(はっく)は伴う。そこ(極楽世界)には、生老病死、求不得苦(ぐふとくく)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく・うらみ憎む人と会うこと)、五陰盛苦(ごおんじょうく)がない。輪廻をすれば、間違いなく八苦を受けるに違いないが、阿弥陀仏の所にだけ八苦がない。

経典:「阿難あなん、われいまりゃくして極楽ごくらく因縁いんねんかん。もしひろかば、こうきわむともきず。」

本日は、極楽国土の因縁について簡単に触れるが、詳しく説くには一劫を窮めても言い尽くせないほどだ。

経典:「またつぎ阿難あなん、かの極楽世界ごくらくせかいのあらゆる衆生しゅじょう、あるいはすでにしょうじ、あるいはげんしょうじ、あるいはまさにしょうぜんもの、みなかくのごときのもろもろのたえなる色身しきしん形貌端正ぎょうみょうたんじょうにして、神通自在じんずうじざいに、福力具足ふくりきぐそくして、種々しゅじゅ宮殿くでん園林おんりん衣服えぶく飲食おんじき香華こうげ瓔珞ようらく受用じゅゆうす。こころもちゐるところにしたがひてことごとくみなおもいのごときこと、たとへば他化自在たけじざい諸天しょてんのごとし。」

極楽世界に生まれ変われれば、既に生まれたにしろ、現在生まれたにしろ、或いは将来生まれるべきにしろ、如何なる衆生も、全て最も良い色身を持つとされる。福報があるからこそ、そこに生まれ変わるのだ。それでは、何故まだ色身(しきしん)があるのか。人であれば、一躍して仏や法身菩薩になることはない。我々はまず天界へ行く。別の天界へ行くと輪廻を繰り返すが、阿弥陀仏という天・浄土では輪廻はしないのだ。そなたを仏や菩薩になるまでそこでひたすら修めさせるとして、色身を保ったままなのだ。この色身は地球人類の生身とは違って、そなたに体という形が現われ、その様子は端厳の上、五神通を自由自在に使いこなせるのだ。

福の力が充分にあり、様々な立派な庭園や家屋を受用する故、特別に家を建てる必要がない。着たい服やら、飲みたい・食べたい物やら、更に欲しい宝石や花などは、思えば有るようになる。天人のように、買ったり作ったりする必要が特にない。それは福報が足りるから、思うだけで現われるというのだ。

経典:「またつぎ阿難あなん、かの仏国中ぶっこくちゅうには、微細みさいじきあり。もろもろの有情うじょうたぐい、かつてくらふものなく、第六天だいろくてん思念しねんするところにしたがふがごとし。かくのごときの飲食おんじき、すなはちじきしをはれるにどうじて、色力増長しきりきぞうじょうして便穢べんえなし。」

阿弥陀仏の所では、地球にいるのと違ってご飯や麺などを食べるのではなく、「微細の食」という食物の精華・五行で最高のを摂るのだ。ちょっと味を嘗めるだけで済むから、噛んだり齧ったりする必要がない。まるで第六天の天人のように、自身で考えたり思念したりすることに従えば、すぐ有るようになる。

このような飲食では、地球の食べ物と同じように、食べると色身の力を増す働きがあるが、食べた後に関しては、地球人と違って便通はせずに済む。トイレに行かずに済むとは、なんと綺麗なことなんだ。

経典:「また無量むりょう如意にょい妙香みょうこう塗香ずこう末香まっこうありて、そのこうあまねくかの仏国界ぶっこくかいくんじ、および散花さんげ幢幡どうばんもまたみな遍満へんまんせり。それこうかんとほっするものあれば、ねがひにしたがひてすなはちき、あるいはねがはざるもの、つひにくるところなし。」

多種多様なお香・塗香・末香が其処彼処に遍満し、望む種類だけすぐ漂ってくるから、香水を買うお金も掛からない。特別にどこかに塗ることもない。地球にいるのと違って、もし嗅ぎたくないのがあれば、他人はそれが嗅げるものの、自分だけは嗅げないのだ。

経典:「また無量むりょう上妙じょうみょう衣服えぶく宝冠ほうかん環釧かんせん耳璫にとう瓔珞ようらく花鬘けまん帯鎖たいさあり、諸宝しょほうをもつて荘厳しょうごんせり。無量むりょう光明こうみょう百千ひゃくせん妙色みょうしき、ことごとくみな具足ぐそくして自然じねんにあり。」

良質な服装や、頭に付けたい王冠・かんざしや、イヤリング・瓔珞(首に着けるネックレス)・頭の花飾りが現われる。身から放つ光や、様々な絶妙な色が自然に現われる。

経典:「またこんごん真珠しんじゅ妙宝みょうほうあみあり、もろもろの宝鈴ほうりょうけてあまねく厳飾ごんじきせり。もしもろもろの有情うじょうありてもちゐるところの宮殿くでん楼閣等ろうかくとうあれば、楽欲あいぎょうするところにしたがひて高下こうげ長短じょうたん広狭こうきょう方円ほうえんにして、およびもろもろの床座妙衣じょうざみょうえうえき、種々しゅじゅたからをもつてこれを厳飾ごんじきせり。衆生しゅじょうまえにおいて自然じねん出現しゅつげんす。ひとみなみづからおのおのそのしょすとおもふ。」

そこには、最高級の金銀財宝で作った網に、余すところなく宝鈴が掛けてあり、一切の有情衆生に必要な宮殿や楼閣などが直ぐに現われる。お好みによって、高い・長い・短い・四角い・丸いのが出てくる。そなたのベッドや座る所には、現在でいうクッションだが、以前は衣類で敷き詰めていた。これも、自然に現われ、求める必要がない。どの人も、自由自在に自分自身の宮殿にいる。

仏は、前回と今回の会でこのような事を屡々説かれるが、このような財宝を以て我々を行かせるよう惑わせるのではなく、ただはっきりと我々に天界にはそもそもこうした条件が備わっているが、更に阿弥陀仏浄土へ行けば、条件が更に殊勝になることと、教えているのだ。これ等は何れも在世の時に自ら修めた因が、そこで果として現れるのだ。此の果を享受させる上、新しい因を生じさせてあげる。仮に、そなたが機根がある・福徳因縁を欠かせない・善根が足りている人だとしたら、そこに辿り着いた際に、過去に自分が地球で修めた因によって、現在の此のような果が得られたことに鑑み、きっと将来に向け新しい果を創る為に、もっと励むようになるだろう。

よく修めたからといって、これ等の物を享受させるのではなく、因果によって得られるとわかってもらいたいのだ。全て自分の行いによって生み出されたのだ。一個の思想でも、一句の話でも、それに伴う果報があるから、況や修行をや。というのは、地球でたくさん修めたのに地球で何も得られなかったとして、地球で得られるのは、決して阿弥陀仏の所で得られるのに勝らないのだ。仏道修行してから、この一生で順風満帆になることと願う人が多いが、これは単に福報の無駄遣いに過ぎない。福報の果が本格的に実るのは、阿弥陀仏の所なのだ。

何故、現世で現われないのか。考えてみよう。この一生涯何歳まで生きられるかと思うのか。仮に阿弥陀仏での事を地球に前倒しできるとして、此のような果報が出るほど修めたとしても、どれぐらい享受できようか。だが、人は享受できるものだけ一日でも享受したいというものだが、こんな享受だと実に恒久ではない。

仏典には、現世の財物は五賊共有する、とある。五賊のうち、盗賊がその一つであり、子供・政府・天災と禍もそうだ。持っている財物も伴侶も、全て永久不変ではなく、瞬く間に過ぎ去っていくものだ。しかし、我々はこれらを握るために、生涯で多くの悪業を為している。それでも、自分が正しい・間違いはないと思い込んでいる。地球でこんな大福報の果が得られないとする。何故かと言えば、我らは絶えず善を少しやりながら、悪を多くなし、しかも善よりも悪のほうがよほど多いから、地球ではこんな大福報のことを現わしてくれる訳はない。

仏道修行する多くは現世の順風満帆・安楽・満足を求めているが、これは正確な観念ではない。釈迦牟尼仏の仰せになった阿弥陀仏浄土の境地に基づけば、これこそ大福報であって、生涯で修めた因による果報というものだ。

現世でこそ、人に自分が修めた出来栄えを見せたいという人もいるだろうが、逆に言えば、そなたは百歳・二百歳まで生きていられるものだろうか。釈迦牟尼仏がこんなにも凄いのに、70ちょっとまで生きておられたに過ぎない。チベットの最長寿というパドマサンバヴァも高々800年で去られたと言われる。何故、もっと長生きできなかったのだろうか。それは地球衆生の共業(ぐうごう)により、この地がこれ等の聖者を留まらせるに足る福報を持っていないからだ。聖者の寿命には限りがあり、我ら凡夫もそうだ。阿弥陀仏の所は違って、無量寿仏の壽は無限にあって、彼の国土の衆生の寿命も無限にある故、こんな福報の果を享受するような、こんな壽(時間)と福報を持つようになるのだ。

我らが絶えず追求している地球人類の欲望の満足は、何れも一時のものだ。人はまさに『心経』で説かれた「顛倒夢想」のように、全部が全部、顛倒夢想に事を為している故、様々な苦痛が生み出されたのだ。釈迦牟尼仏は慈悲深く、仏様曰く、あらゆる苦を起きさせたくないのなら、地球では為し難いのだから、阿弥陀仏の所に行くしかないと仰せになった。「それじゃ、早々と命を終わらせよう。自殺でもすれば、行かれるじゃないか。」という人もいるが、そんなのだったら、絶対に行けないと保証できる。

顕教で言えば自殺は殺人だ。そなたは人なのだから、人殺しすると地獄に堕ちるに違いない。私には自殺者の衆生を救済した経験があるが、入定して見かけた彼は実に悲惨だった。彼は指すら見えないほど真っ黒な空間に、彼自身は独りぼっちだと感じながらも、実は自殺者でいっぱいの広い地獄の中にいる。(地獄の)中にいる毎秒は、自殺した当時の状況を繰り返している。例えば、12階からの飛び降り自殺だと、飛び降りては死んで、また自分が12階に戻って飛び降りては死ぬという繰り返しだ。12階から飛び降りた折、途中で気絶したり失神したりするかもしれないが、地面にぶつかった際の衝突によって、全身が痛くてたまらない。気絶したとしても、感覚はちゃんと持っている。

私には神通があるから、亡者の神識(しんしき)で考えている事を知っている。遠い事はさておき、如何なる人も、死ぬ前に救急や電気ショックを受けたりしたことがあれば、こんな衆生の神識から最初に私に伝えたことは胸が痛いということだ。医学では、息を引き取った以上感覚がないはずだが、いつも先方からは胸が痛いと伝えられている。よって、自害して死んだのであれば、首吊り自殺にしろ、飛び降り自殺にしろ、方法を問わず自殺の経過を繰り返すのだ。どれぐらい繰り返されるかに至っては、大神通を持っていない私は知らないが、仏道修行の経験からして、おそらく最低でも人類でいう一千年を超えているだろう。

私が自分を殺してもそんな重い罪になるのかと聞くであろうが、我らが受けた五戒の一つ目が不殺生だ。最も大事なのは人殺しをしないことであって、人殺しは重い罪に問われるからだ。顕教の仏典では、何故人殺しの罪が比較的に重いかについての解説がないが、密宗では解説してある。目に見た生身は生身に見えながらも、体の中は文武百尊の壇城(寂静尊と忿怒尊の壇城)だ。我々が子宮に生を受けた時から、文武百尊の分身も同時に入るとされる。諸仏菩薩の心持は、如何なる有情衆生に対しても平等であって、成仏させることを願っている。よって、衆生が過去にどんなに悪業を為したとしても、生まれてからまた悪業をし続けようとしても、仏菩薩は助ける心を持っている。この衆生が一秒間でも、殺業を為さずに留まり、仏菩薩のことを突然に思い出しさえすれば、救われる機会があるという。

密宗では、故意にご自分の生身に損害を与え自殺死となれば、文武百尊の壇城を毀滅させるということだ。こうした場合、罪が重いだろう。自殺は光栄な事だという民族もあるが、それはそれなりの考え方だが、仏典では全く人の自殺を勧めていない。人生がどんなに辛くてもきっと過ぎていくものだ。いつかそなたは死ぬのだから、過ぎていくに違いない。こんなにも苦が多い人生が欲しくなくて、さっさと命を終わらせて阿弥陀仏のほうへ行きたいという考え方ならば、前述したように阿弥陀仏の所には地獄がないのだ。地獄がない以上、そなたはどうやって行けようか。地獄の衆生は行けようか。それは無理だ。

施身法の時、私は自分自身が甘露に化したのを観想し、六道における生きとし生けるものを洒淨(しゃじょう)する。特に地獄の衆生に対し、彼らが一日も早く浄土に行けるようと願いながら、阿弥陀仏を地獄道の衆生と縁を結ばせるように、甘露を以て洒淨する。その業力がまだ尽きていないとして、私は今助けられないが、先に縁を結ばせておくということだ。私は阿弥陀仏大法会で屡々言い続けてきた、そなたらに阿弥陀仏と縁を結ばせることのようにだ。何故、最後に洒淨しなければならないのか。目利きだとリンポチェがどれほど苦労しているか知っている。それは500回以上振りかけるのよ。500数回とはいえ、洒淨するのに使う吉祥草の束は最初軽かったが、ご存じの物理の常識のように、それは水を取れば取るほど重くなっていくのだ。七十代にして、こんなことができるものは滅多にいない。

何故できるのか。理由は簡単だ。菩提心と慈悲心だからだ。全てが衆生の為であって、衆生が浄土往生できるようにと願っている。浄土往生するには、口先だけ言うのではなく、聞いたやら、試してみようやら、死んでから唱えようやらでもない。死んでから唱えるとなると、もう間に合わない。そなたの上師がまだ生きている場合は別論だが。そなたは私の帰依弟子だから、そなたが死ぬまでここを離れていない限り、そなたを三悪道に堕ちさせない機会はまだある。

先ほど取り上げた弟子の話だが、ああいうふうに母親に対応していては、因果から言えば地獄に堕ちることになる。生前も私に懺悔もせず、自分がひたすら法会に参列し、心の中で黙って懺悔すればいいと思っていた。その姉妹たちも、非常識も甚だしい。生前こんなことを言っていなかったのだ。何故言わなかったのか。リンポチェに叱られ、懲らしめられるのを恐れているからだ。早く言ってくれれば、とっくに解決済みになっているはずだった。だから、その姉妹たちはその代わりに大礼拝(五体投地)をしている毎日だ。リンポチェはその代わりに大礼拝するわけがないからだ。

仏法を多く説いてきたが、決してリンチェンドルジェ・リンポチェのほうが凄いやら、高名やらだからではない。ただ仏道修行に関しては、皆より早くて、仏法を信じ・受け止め・そして実践し続けているに過ぎない。たとえ、今生はとても円満で完璧とは言えないものの、私は諦めずに仏法という道程を歩み励んでいることに自信を持っている。前述した寂静という環境も、死んでから慣れようというのではなく、在世の時から習慣付けていくべきだ。多く真言を唱えよと教えるのは何故だろうか。持呪を多くすれば、次第に念頭・煩悩が減り、それで、こうした寂静を受け入れられるようになる。そうでなければ、苗栗にある寺院が完成した後、閉関修行をさせようとも、そなたらはきっとたまらないだろう。

苗栗は以後静かだ。今後は毎日最大100名までという参拝人数と決めたのだ。大人数ではないが、そこは行楽地ではなく修行に当たる場所だからだ。こちらでは寺院建設の募金も人一倍苦労している。何故なら、今は行者が少なく観光客が多いからだ。今のうち、寂静に慣れるようにしていれば、いざ事切れた際に寂静が現われると、慣れていることだろう。

経典:「またつぎ阿難あなん極楽国土ごくらくこくどのあらゆる衆生しゅじょうには差別しゃべつそうなく、余方よほうぞくじゅんじててんにんあり。」

極楽国土に生まれた衆生には相の区別がない。その容貌を指すのではなく、その現われた相のことだ。例えば、地球ならではの衆生相があったり、地球で修行するのは四衆に分かれるとしたりするが、そちらではこんな区別がない。

「余方の俗に順じて天・人の名あり」。在家・出家・天人という呼び方に過ぎない。天人・在家・出家、みな阿弥陀仏の所に行けるし、外見にも区別がない。在家にしろ、出家にしろ、天人にしろ、そこに辿り着くと、みな同じ福報の果報が得られるとされる。

経典:「阿難あなん、たとへば下賎げせん半挓迦人はんちゃかにんの、輪王りんのうたいせばすなはちたとふべきなく、威光いこう徳望とくもうことごとくみなあることなきがごとし。また帝釈たいしゃく第六天だいろくてんくらぶるに、威光等いこうとうたぐいみなおよばざるところのごとく、園苑おんおん宮殿くでん衣服えぶく雑飾ぞうじき尊貴そんき自在じざい階位かいい神通じんずうおよび変化へんげとなすべからず。ただ法楽ほうらくけてすなはち差別しゃべつなし。阿難あなんるべし、かのくに有情うじょう、なほ他化自在天王たけじざいてんのうのごとし。」

この段落は、修行によって果位・身分が違い、違うレベルの異なった威光が現われるという。園苑・宮殿・衣服・雑飾・尊貴・自在・階位・神通はみな異なるが、受けた法楽には区別がなく、受けた仏法は平等だ。どんな身分であれ、区別なく得ている。阿難は、阿弥陀仏国土のあらゆる有情衆はまるで他化自在天(たけじざいてん)王のようだと知るべきだ。

経典:「阿難あなん、かの極楽界ごくらくかいには晨朝じんじょうときにおいて、あまねく四方しほう和風微動わふうみどうせり。たがはずみだれず、もろもろの雑花ざっけくに、種々しゅじゅ香気こうけあり。そのこうあまねくかおり、国界こくかい周遍しゅうへんせり。一切いっさい有情風うじょうかぜるるがために、安和調適あんわじょうちゃくなること、なほ比丘びく滅尽定めつじんじょうたるがごとし。」

そこには、朝方に微風が吹いたりする。激しい突風がなく、暴れず優しく吹く風しかない。こうした風に当たると、安らぎを感じ、安定し、落ち着き、そして自分自身を調整するようになる。まるで滅尽定を得た比丘のようだ。即ち、四聖諦法(苦集滅道)の滅定というものだ。大手印の修行と禅定には滅尽定がないのだ。ここでは、風に当たると苦集滅定になるが、実は苦集道滅定のはずだという意味だ。というのは、滅定を得ると、輪廻を繰り返さず、再び生まれ変わることはない。これぞ、釈迦牟尼仏が初転法輪の時に説かれた十二因縁法・四聖諦法(苦集滅道)そのものだ。

経典:「その風七宝かぜしっぽう樹林じゅりんうごかすに、華飄はなひるがえりてじゅすことたか七人量しちにんりょうにして、種々しゅじゅ色光仏土しきこうぶつど照曜しょうようせり。たとへばひとありて、はなをもつてき、をもつてあんじてたいらならしめ、雑色ざっしきはなしたがひて、間錯分布けんざくぶんぷするがごとし。かのもろもろの花聚けじゅもまたかくのごとし。その花微妙はなみみょうにして広大柔軟こうだいにゅうなんなること兜羅綿とらめんのごとし。もしもろもろの有情うじょうあしをもつてかのはなめば、しずむことふか四指しし、そのあしぐるにしたがひて、還復げんぶくすることはじめのごとし。晨朝じんじょうぎをはれば、その花自然はなじねん没入もつにゅうす。」

七宝の森を吹き動かし、花びらがひるがえって集まると、七人分の高さがある。色とりどりの色光が仏土を照らすほか、花からも様々な色の光で仏土を照らす。これは太陽の光ではなく、花の光だ。まるで、誰かが花で布施する際に、花を目立たせないように平らに伸ばし、色の異なった花を互い違いにするようにだ。

誰かが花群に入り、指四本の深さまで足を踏んだとして、足をあげると、ついさっき踏みつぶされた花は元に戻る。午前が過ぎると、花は自ずと地中に没入する。お掃除も、花のお手入れも要らずに、自ずと消えるという意味だ。

経典:「ふるはなすでにもっして大地清浄だいじしょうじょうなり。さらにあたらしきはなあめふらして、還復周遍げんぶくしゅうへんせり。かくのごとく中時ちゅうじ晡時ほじしょちゅう後夜ごやに、はなひるがえじゅすことまたかくのごとし。」

ひたすら変わり続けるという意味だ。古い花が消えた途端に、新しい花が地面を敷き詰めるようになる。

経典:「阿難あなん一切いっさい広大珍奇こうだいちんきたから極楽界ごくらくかいしょうぜざるものあることなし。阿難あなん、かの仏国中ぶっこくちゅう七宝しっぽう蓮花れんげありて、一々いちいち蓮花れんげ無量百千億むりょうひゃくせんおくはなびらあり。そのはなびら無量百千むりょうひゃくせん珍奇ちんき異色いじきあり、百千ひゃくせん摩尼妙宝まにみょうほうをもつて荘厳しょうごんし、おおふに宝網ほうもうをもつてしてうたたあひ映飾ようじきせり。阿難あなん、かの蓮花れんげりょう、あるいは半由旬はんゆじゅん、あるいはいちさん四乃至百千由旬しないしひゃくせんゆじゅんのものあり。この一々いちいちはなより三十六億那由他百千さんじゅうろくおくなゆたひゃくせん光明こうみょういだし、一々いちいちひかりのなかより三十六億那由他百千さんじゅうろくおくなゆたひゃくせん諸仏しょぶついだす。身金色みこんじきのごとく、三十二大丈夫さんじゅうにだいじょうぶそう八十随好はちじゅうずいこう殊勝しゅしょう荘厳しょうごんして、百千ひゃくせんひかりはなちてあまねく世界せかいらせり。」

如何なる広大珍奇な宝も、極楽世界にない物はない。阿弥陀仏国土には七宝蓮華があり、どの蓮華にも無数百千億の葉っぱが付き、どの葉っぱにも珍奇な色がする。まるで百千の摩尼妙法での荘厳さようだ。

どの蓮華からも光を放ち、どの光も三十六億那由他百千の諸仏の化身があり、その体は金色で三十二大丈夫の相・八十随好形の殊勝荘厳を備えており、世界を普く照らす。

経典:「この諸仏等しょぶつとうげん東方とうぼうきてしゅのために説法せっぽうしたまふは、みな無量むりょう有情うじょう仏法ぶっぽうのなかに安立あんりゅうせしめんがためなり。南西北方なんざいほっぽう四維しゆい上下じょうげも、 またかくのごとし。」

あらゆる諸仏化身は、東西南北上下へ説法に赴き、衆生を仏法に於いて助けている。

経典:「またつぎ阿難あなん極楽世界ごくらくせかいには昏闇こんあんあることなく、また火光かこうなし。湧泉ゆせん陂湖はこ、 かれみなにあらず。また住著じゅうじゃくする家室けしつ林苑りんおんおよび表示ひょうじぞう幼童ようどう色類しきるいなく、 また日月にちがつ昼夜ちゅうやぞうなし。一切いっさいところにおいて、標式ひょうしきすでになく、また名号みょうごうなし。ただ如来にょらいくわへられたるものをばのぞく。」

極楽世界では、闇夜も火光(かこう)もない。地球にあるような、湧き水からなる湖もない。家屋の中や庭に住むことはなく、子供の色(姿)もない。太陽・月・日中や夜間の区別がない。あらゆる場所に標識や名号が付いていないが、例外として如来が加持されて得られたのがある。

経典:「阿難あなん、かのくに衆生しゅじょう、もしまさにしょうずればみなことごとく無上菩提むじょうぼだい究竟くきょう涅槃処ねはんしょいたるべし。なにをもつてのゆゑに。邪定聚じゃじょうじゅおよび不定聚ふじょうじゅのごときは、建立こんりゅうせられたるかのいん了知りょうちすることあたはざるがゆゑなり。」

そこに生まれるべき衆生は、何れもひっきょう無上の菩提仏果が得られる。何故なら、邪定聚と不定聚(邪定聚より劣って、定さえ持たない様)だったら、この因を成立させることができないからだ。

経典:「阿難あなん東方とうぼう恒沙ごうじゃのごときかいあり。一々いちいち界中かいちゅう恒沙ごうじゃのごときぶつあり。かの諸仏等しょぶつとう、おのおの阿弥陀仏あみだぶつ無量むりょう功徳くどく称歎しょうたんしたまへり。南西北方なんざいほっぽう四維しゆい上下じょうげ諸仏しょぶつ称讃しょうさんしたまふもまたかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。他方たほう仏国ぶっこくのあらゆる衆生しゅじょう無量寿如来むりょうじゅにょらい名号みょうごうきて乃至ないしよく一念いちねん浄信じょうしんおこし、歓喜愛楽かんぎあいぎょうして、あらゆる善根ぜんごん回向えこうし、無量寿国むりょうじゅこくしょうぜんとがんぜば、がんしたがひてみなうまれて不退転乃至無上正等菩提ふたいてんないしむじょうしょうとうぼだいればなり。」

東西南北上下の諸仏は、いずれも阿弥陀仏の無量功徳を褒め称える。どこの国土にいるにしろ、無量寿仏の名号を聴聞するだけで、乃至一個の念だけ起せば、「一念の浄心を発し、歓喜愛楽して」、阿弥陀仏の名号を聴聞するに歓喜して受け入れられるだろう。修めた一切の善根を無量寿仏国土に廻向する者に限って、修めた法門は何であれ、阿弥陀仏の仏号を聞いて歓喜心・受け入れる心・修行の心を起し、一個の念に清浄に住して往生せんと発願すれば、きっと行かれるに違いない。行ってから、間違いなく菩薩から仏果を証するまで修めるだろう。

今、仏典で説かれた「止息」との二字だが、大手印の中でもう一通りの説明がある。それは前念を停止させ、新しい念を消滅させることだ。それには一つの修行方式がある。我々直貢噶舉の不共四加行は獅子同様の力持ちだと呼ばれる。四加行は獅子の鋭い爪四つを、大手印は獅子の牙を表す。この事は人を脅かすつもりではなく、単に力が強いという意味なのだ。

上師相応法の真言を回数に満たすように唱え終わり、不共四加行を修め切った者に対し、パンデミックが終息してから、会談の機会を作りたいと思っている。大手印の止息法門の修習に条件が合う人達には、私が伝法する。念頭を停止させるのは簡単のように思う人が多い。だが、妄念(もうねん)を停止し・消失させるには、間違いなく訓練が必要だ。最初の頃、妄念を停止し消失させるのは、決して容易な事ではない。我々は絶えず妄念のある日々に慣れているからだ。妄念は雑念だ。毎日・毎秒のように、雑念が多くあるから、それを実現させるための訓練が必要だ。

どうして四加行を修め切ってから伝授するのかと聞く人もいるかもしれない。代々受け継がれた決め事だ。仕方がない。四加行を修め切らない限り、大手印を伝授しないとする。巷で大手印の本を購入することができたとしても、大手印は直貢噶舉ならではの法ではなく、噶瑪噶舉・竹巴噶舉のもある。大手印のテキストの文字を読んだからといって修め得られるとは限らない。まるで『金剛経』は誰でも唱えられるが、いったい『金剛経』で説かれた空性を如何に修め得られるかとなると、誰も覚束ないだろう。

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2021 年 10 月 24 日 更新