尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年09月06日

2026年9月6日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において、二度目となる「直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大済度法会」を主法され、殊勝なる密法をもって、衆生を輪廻の苦海から救い出された。

 「阿弥陀仏大済度法」は、直貢噶舉派に伝わる、極めて清浄にして殊勝なる岩伝の密法である。この法を主法する者は、リンポチェの果位と深厚な顕教の基礎を具え、「不共四加行」を修め、閉関において「阿弥陀仏心咒」を百萬遍以上円満に持誦して本尊と相応し、さらに大手印の禅定における離戯瑜伽を成就していなければならない。また、亡者を浄土へ済度することのできる「ポワ法」を成就して、初めてこの法を主法することができる。この法は、尊勝なる直貢チェツァン法王より、リンチェンドルジェ・リンポチェお一人に四密灌頂として授けられたものである。「無遮」とは、法会に功徳主を設けず、金銭や地位によって功徳を量ることなく、法会に参加する因縁を具えたすべての衆生が、等しく諸仏菩薩の加持と救護を受けることができるという意味である。

リンポチェは、大慈悲心とご自身の修行による功徳・証量によって、諸仏菩薩ならびに龍天護法の恒常なる護持を感得されている。2005年より16年連続で、台湾において2万人規模の阿弥陀仏無遮大済度法会を主法され、また幾度も日本へ赴き、この殊勝なる法会を執り行われた。寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の落成・開光後は、リンポチェが毎年仏寺において無遮大済度法会を主法され、数え尽くすことのできないほど多くの因縁ある衆生を済度されている。その功徳は殊勝にして、不可思議である。
 
法会当日、リンポチェが壇城に上られ、諸仏菩薩に頂礼されたその時、壇城に奉安された諸尊像はたちまち光明を放ち、リンポチェが衆生を救度される慈悲の力が、諸仏菩薩と完全に相応していることが顕現した。法会においてリンポチェは、密法による済度法会がいかに殊勝で得難いものであるかを開示され、大衆に対し、この一生において密教の法会に参加できる因縁と福報を大切にし、上師と三宝を恭敬し、決心して具徳の上師に帰依し、菜食を守り、不殺生を実践し、仏法を学び修行するよう、懇切に勧められた。さらに、浄土への往生を発願し、浄土に往生するための福徳因縁を積み重ねていくよう諭された。

法会がまだ始まる前から、晴れ渡った空には祥雲が幾重にも湧き集まり、空の彼方には二筋の虹が並んで現れた。その間も鳥のさえずりが絶えることなく聞こえ、群れをなす鳥たちが軽やかに空を舞い飛んだ。リンポチェが修法される間には、幾度も大地が揺れ、馥郁たる妙香が辺りに満ち、大衆の全身には温かな流れが巡った。これらは、上師が本尊の法を修持して成就を証得され、諸仏菩薩が降臨して加持を授けられたことを顕現するものであった。
 
リンポチェが修法され、阿弥陀仏心咒を持誦された時、尊身より大いなる光明が放たれ、金色の光があまねく衆生を照らした。それは、リンポチェが本尊と相応し、無二無別となった殊勝なる境地、そして一切衆生がことごとく解脱を得ることを願う、尽きることのない大悲心を顕現するものであった。

リンポチェが済度を始められると、救いを待ち望む苦難の衆生が四方八方から一斉に押し寄せ、会場はたちまち暗い靄に覆われ、身に迫るほどの寒気に包まれた。屋根から吊り下げられた巨大な勝利幢も、時折揺れ動いた。そして修法が円満を迎えるにつれて、大地が震動し、会場は一転して温かく明るくなり、リンポチェと壇城からは眩い金色の光が放たれた。大慈悲の願力はあまねく法界に遍満し、衆生は皆、身心の軽安を感じた。

法会が円満した後、晴れ渡った空には殊勝なる雲の瑞相が現れた。その姿は、あたかも阿弥陀仏が蓮華座に端座され、背後に七色の光背を伴い、自ら降臨して加持を授け、衆生を来迎引接されているかのようであり、周囲には諸仏菩薩が取り囲むように現れていた。その時、天からは甘露のような細雨がしとしとと降り注ぎ、身に触れても濡れることはなかった。法会の開始から円満に至るまで、仏寺の境内全体には終始芳しい香りが漂い、長い間消えることがなかった。その香りを聞いた者は皆、身心が清浄となり、讃嘆し随喜せずにはいられなかった。これら種々の殊勝なる瑞相は、あたかも諸仏菩薩が自ら降臨され、リンポチェの殊勝にして円満なる修行の成就、ならびに衆生を利益する広大なる悲願と無量の功徳を讃嘆されているかのようであった。

2026年9月6日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において、二度目となる「直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大済度法会」を執り行われた。法会前日の9月5日には、リンポチェはすでに仏寺において、終日にわたり阿弥陀仏の法を修持された。法会当日の午前9時24分、リンポチェは、幡、幢、出家衆、八供女、宝傘、楽器、薫香を先導とする恭迎の列に迎えられ、鮮花が敷き詰められた八吉祥文様の白い絨毯の上を進み、仏寺の大殿へ入られた。参列した大衆は荘厳なる楽の音が響く中、合掌して粛然と立ち、リンポチェが法座に上られるのを恭しくお迎えした。

リンポチェは壇城に上られ、諸仏菩薩に頂礼し、灯明を供仏された後、法座に上られた。その後、侍者が捧げた左右両側の供物台の主灯に火を灯され、出家衆および鈴杵弟子たちに壇城へ上がり、灯明を供仏するよう指示された。続いてリンポチェは、出家衆に参列した大衆を先導して、帰依発心、四無量心、七支供養を念誦するよう指示された。その後、リンポチェは貴重なる仏法の開示を賜った。

今日は、阿弥陀仏済度法を修める。以前、私は毎年、台北市において二万人以上が参加する「阿弥陀仏無遮大済度法会」を開催し、十六年間連続して行ってきた。その後、仏寺を建立することになり、ちょうど新型コロナウイルスの流行とも重なったため、法会を一旦中止した。二万人を超える大法会を開催するには、かなり多額の費用が必要となる。しかも、私は法会を開催しても供養を受け取らず、功徳主も設けていない。そのため、大法会にかかる費用は、すべての弟子たちが負担していた。以前は、一度の阿弥陀仏大法会を開催するのに、二千万元以上の費用がかかっていた。十六年間開催した後、因縁のある者はすでに済度されたと感じた。因縁のない者は、済度してあげようと思っても、どうにもならない。また、十六年間開催してきたが、法会に参加した信衆は、その後も仏法を学び続け、仏法を修行していこうとはせず、ただ仏法を利用して良い暮らしをしようとしているだけであるとも感じた。そのため私は、この二万人規模の大法会を開催しないことに決めたのである。

二万人規模の大法会を中止して以来、現在に至るまで、台湾では二万人を超える済度法会を開催できる者は誰もいない。仏寺が完成してからは、私は毎年一度、阿弥陀仏済度法会を開催している。多くの人は、一度法会に参加して済度してもらえば、それでもう何も問題はないと思っている。しかし実際には、私たちは生生世世において、多くの悪業を造ってきた。また、生生世世における多くの眷属や父母の中には、まだ済度を受けるに足る善縁を具えていない者もいるかもしれない。だから、後代の者として、私たちは仏法において、絶えず仏法を修行し、精進し続けなければならない。そうしてこそ、累世にわたり私たちと恩のある者、怨みのある者たちを済度することができるのである。

多くの人は、ただお経を念誦すれば済度できると思っている。しかし、私自身の修行の経験から言えば、お経を四十九日間ほど念誦しなければ、済度することは不可能である。しかも、お経を念誦する者は、必ず清浄であり、何ものも求めない者でなければならない。中国の仏経には、真に阿弥陀仏の済度法会を修することができる伝承は、チベットにあるほか、中国にはないと記載されている。あなた方は『梁皇宝懺』に参加したことがあるだろう。顕教においても、この懺法について説かれている。この懺法には、梁武帝の妃が、生前に瞋念が非常に重かったため、死後、畜生道に堕ち、大蟒蛇となったことが説かれている。彼女は生前、梁武帝とともに菜食をし、仏に礼拝し、お経を念誦していた。しかし、修行していなかったため、畜生道に堕ちたのである。彼女は梁武帝の夢に現れ、輪廻の苦海から解脱したいと願った。そこで梁武帝は、当時の国師であった宝誌公に願い求めた。宝誌公は、およそ千人の出家衆を率いて『梁皇宝懺』を書き上げ、毎日絶えずこの懺を念誦した。しかし最後に、梁武帝の妃は、ただ畜生道を離れて天界に生まれただけであり、阿弥陀仏のもとへ往生したのではなかったのである。

仏法を学ぶ多くの人は、阿弥陀仏のもとへ行くことはとても簡単で、毎日ほんの数句を念誦するか、一度法会に参加したことがあれば行けると思っている。しかし、浄土五経を読んだことがある者なら分かるはずである。阿弥陀仏のもとへ行くということは、行きたいと言えば行けるものではない。また、死んだ後にお金を払って大勢の人を頼み、経を念誦してもらえば行けるというものでもない。阿弥陀仏のもとへ行くためには、釈迦牟尼仏が説かれた浄土五経に基づけば、満たさなければならない条件がある。あなた方は、その条件を何一つ満たしていない。だから、今日私がこの法を修するのは、あなた方が将来、良い暮らしをするためではないのである。

修行者であるならば、一つ一つの念において、衆生が輪廻の苦海から離れることを願わなければならない。今日、あなた方が因縁を得てこの法会に参加できたのは、ただ、過去世においてあなた方と恩のある者、怨みのある者たちが輪廻の苦海から離れ、善道に生まれる機会、さらには阿弥陀仏の浄土に往生する機会を得られるよう助けるためなのである。この法は密法であり、顕教の経典ではない。したがって、この法を修する者は、必ず密法において成就を得ていなければ、この法を修することはできないのである。

過去十六年間、私は毎年、二万人を超える大衆のために済度法を修してきたが、このような済度法を修したことによって、身体が悪くなったり、寿命が短くなったり、何か問題が起きたりしたことは一度もない。これは、私が主法するこの法会が大衆を利益し、一切の有情衆生が輪廻の苦海から離れることを助けることができる証しなのである。
 

だから今日、この法会に参加することができた者は、基本的に、過去世、あるいは今世において、何らかの善根を植えたことがあるからこそ、この法会に参加する機会を得ることができたのである。一か月余り前から、私はすでに多くの信者に参加の申し込みを開放していた。ところが、申し込みをしたにもかかわらず、突然感染が確認され、参加できなくなった者もいる。また今日も、二人が入口まで来たものの、体調が悪いと感じ、参加しなかったのである。

このことからも、このような殊勝なる法会に参加するということは、自分が来たいと思えば来られるものではないことが分かる。また、衆生を助けたいと言えば、それだけで参加できるというものでもない。累世にわたる因縁がなく、仏法に対する恭敬の心がなければ、たとえ入口まで来たとしても、護法が中へ入ることを許さないのである。

私が願うのは、まだ私の帰依弟子ではなく、今なお道に迷いながら、自分が良い暮らしをすることばかりを願っている者たちが、今日この法会に参加した後、まず第一に、菜食をすること。第二に、一日でも早く仏門に帰依し、一日でも早く仏法を学ぶことである。それは、あなた方のこの一生にとっても、未来世にとっても、絶対に助けとなることはあるが、悪いことはない。多くの人は、自分は在家だから、いろいろなことに忙しいと言う。しかし、私も在家である。私が忙しくしていることは、あなた方よりも多いのである。

これから阿弥陀仏済度法を修める。今日、法会に参加している者は、心を少し静かにしなさい。あまり多くのことを考えてはならない。また、阿弥陀仏に何かを助けてもらおうとも思ってはならない。そのようなことは何も考えず、自分が助けたいと思う人たちのことを思うだけでよい。阿弥陀仏に、良い暮らしをさせてもらいたいと求めても、阿弥陀仏はそのようなことを約束されたことはない。『阿弥陀経』において、阿弥陀仏が約束されたことは一つだけである。衆生が往生する前に、「不可少福徳因縁」の善男子・善女人が往生を発願して求めれば、往生を得ることができる。では、「不可少」とはどういう意味なのか。毎日行わなければならないということである。今日、法会に参加したからといって、明日は何もしない。明後日も何もしない。そして来年になって、「リンポチェが法会をするかどうか見て、あればまた参加しよう。」ということではない。それはただ参加しに来ただけであって、修行しているのではない。自分は大したものだ、もう修行を始めているのだなどと思ってはならないのである。

私たちが阿弥陀仏のもとへ往生したいのであれば、『阿弥陀経』に説かれているこの言葉を、必ず実践できなければならない。さらに、私たちは浄土宗の三福を修めなければならない。この福報は、あなたの貧困を変えたり、あなたが望まないことを変えたりするためのものではない。この一生において、必ず阿弥陀仏のもとへ往生できるようにするための福報なのである。阿弥陀仏のもとへ行くということは、呼べばすぐに行ける、口で言えばすぐに行けるというものではない。ただ、阿弥陀仏の本願の力によって、ほかの諸仏の浄土と比べれば、その条件が少し良いということなのである。
 
では、「少し良い」とはどういうことなのか。いかなる仏の浄土であっても業を伴って往生することはできない。善業であろうと悪業であろうと、業を持って往生することはできないのである。しかし、阿弥陀仏の浄土には業を伴って往生することができる。ただし、この「業」とは善業であって、悪業ではない。つまり、この一生において、すべての悪業を償い終えていなければ、阿弥陀仏の浄土へ行くことはできない。持って行くことができるのは善業だけなのである。ほかの仏の浄土では、善業さえも持って行くことはできない。何ものも残さず、清浄に、はっきりとした状態で往生しなければならない。だから、阿弥陀仏の浄土のほうが、比較的行きやすいのである。第二に、観世音菩薩は阿弥陀仏の弟子である。私たちは、ほとんど誰もが観世音菩薩を念じたことがある。だから、あなたが観世音菩薩を恭敬し、如法に修行し、世間のことを求めず、ただ浄土への往生だけを求めるのであれば、観世音菩薩は必ずあなたが往生できるよう助けてくださる。今日この法を修するのは、第一に、あなた方の累世の冤親債主、累世の父母が三悪道を離れ、善道に生まれ、さらには阿弥陀仏の浄土に往生できるよう助けるためである。そして同時に、あなた方自身にも、将来、阿弥陀仏の浄土へ往生する機会を得るための因縁を植えるのである。

しかし、この一生であなたが修行しなければ、やはり行くことはできない。あなた自身が修行し、帰依して、如法に実践し続けない限り、往生することはできないのである。これから修法を始めるので、皆、少し静かにしなさい。あちらこちらを見たり、あれこれ考えたりしてはならない。「本当にそうなのだろうか」と確かめようとする必要もない。先ほども話したように、私は二万人のためにこの法を十六年間修し続けてきたが、何の問題も起きていない。それだけでも、私がとてもすごいということを証明しているのである。
 
リンポチェは修法を始められ、その間、次のように開示された。

先ほど念誦したのは、阿弥陀仏の功徳を讃嘆する讃頌である。その中のいくつかの句について、少しあなた方に説明しよう。「名号を持誦すれば、非時の死を除くことができる。」だから、あなた方は求める必要はない。絶えず念誦していれば、諸仏菩薩が多くのことにおいてあなた方を助けてくださる。もちろん、五戒を守ることなどは、きちんと行わなければならない。「心中にこれを念ずれば、世間の災いを除くことができる。」心の中にその念が起こりさえすれば、世間におけるあらゆる災難を除くよう助けてくださる。「若し帰依すれば、自ずから恒常の楽を得る。」もし帰依することができれば、恒常なる、永遠の楽を得ることができる。この「楽」とは、世間の楽ではない。生まれることも死ぬこともなく、永遠に輪廻しない楽なのである。「我等、恒常に汝に向かいて敬礼讃嘆す。」つまり、私たちは永遠に、常に、敬礼し讃嘆するということである。ここでいう「常に」とは、ずっと礼拝し続けるという意味ではない。自分の考えと一つ一つの念において、阿弥陀仏を恭敬し、讃嘆するということである。阿弥陀仏が自分の思いどおりにしてくださらない、自分を助けてくださらないからといって、修行するのをやめてはならない。それは間違いである。なぜなら、仏菩薩も上師も、あなた自身の果報を変えることはできないからである。自分自身の果報を変えようとするならば、ただ、上師と仏から伝えられた法を通して、自分が絶えず行い続けるしかない。行い続け、行い続けていけば、必ず変えることができるのである。
 
リンポチェは引き続き修法され、参列した大衆を率いて、阿弥陀仏心咒を長らく持誦された。リンポチェが咒を持誦される間、尊身より大いなる光明が放たれ、金色の光があまねく衆生を照らした。それは、リンポチェが本尊と相応し、無二無別となった殊勝なる境地、そして一切衆生がことごとく解脱を得ることを願う尽きることのない大悲心を顕現するものであった。その間、リンポチェは絶えず慈悲に満ちた眼差しで周囲を見渡され、会場には妙香が満ち溢れ、幾度も大地が揺れた。大衆はそれに伴い、心の内から温かな流れが湧き起こるのを感じた。会場には感動のあまり涙を流す者もおり、さらに脈輪が震動し、全身が熱くなるのを感じる者もいた。リンポチェは、五色の紐によってご自身と本尊をつなぎ、引き続き修法された。

続いて、曼達供養の儀軌が執り行われた。リンポチェはガムポパ法帽を戴かれ、出家弟子および八供女が参列した大衆を代表して、曼達供養を行った。その後、薈供、八供女による献唱、供茶および供飯の儀軌が順次執り行われた。供物が配られる際、参列した大衆は、リンポチェによって加持された供物を一人一份ずつ授かるとともに、法会において本尊・上師と共に食をいただくという、得難く殊勝なる善因縁を得ることができた。
 

ボランティアが壇城の供物を参列者に配っていると、会場のあちらこちらから騒がしい声が上がった。リンポチェは呵責された。「なぜあなた方は、そんなに騒がしいのか。もう少し声を小さくできないのか。一人一人、自分だけもらえずに損をするのではないかと心配している。私たちはあなた方からお金を取っているわけではないのだから、そんなに焦らなくてもよいだろう。声を小さくしなさい。全員、黙りなさい。供物を開けて、皆、それぞれ少し食べなさい。」

リンポチェは、中陰にあって苦しむ衆生が、一刻も早く苦から離れることを切に願っているその心を思いやり、法務組の弟子たちに動作を速めるよう指示された。また、リンポチェの法卓に供えられている茶にも注意するよう指示された。
 
リンポチェは引き続き修法され、次のように開示された。
 
ここから、済度の修法に入る。では、その前にこれほど多くの儀軌を行ったのは、何のためなのか。衆生は皆、業障が非常に重く、そのままでは阿弥陀仏の来迎引接を得ることはできないからである。あなた方は、法会に参加して、阿弥陀仏を何句か念じさえすれば、阿弥陀仏の来迎引接を得られるなどと誤解してはならない。衆生には福徳因縁がなければ、往生することはできないのである。私がいつも例に挙げているように、どこへ行くにしても、旅費を準備しなければならない。旅費がなければ、どうやって行くのか。行きたいと言えば行けるものではない。たとえ航空券を買うお金があったとしても、ホテルに泊まるお金も、食事をするお金もなければ、行ったところで餓死してしまうではないか!だから、前に行ったすべての儀軌は、あなた方と、済度されることを願っている衆生に、速やかに福報を与えるためなのである。顕教の方法によって修するのであれば、非常に時間がかかる。しかし、密教の方法であれば、上師自身の修持と本尊との相応を通して、助けようとする衆生に速やかに福報を与え、その衆生が済度を得るための福報を増やすことができるのである。
 
だから今、下に座っているあなた方は、今日どのような理由でここへ来たのであろうと、私の立場から言っても、仏菩薩の立場から言っても、すべては輪廻の苦海をさまよい続けている衆生を助け、済度するためなのである。今生きているあなた方のために、何かをするためではない。法会に参加したから、これからすべてが良くなるとか、法会に参加したら身体が良くなるなどと思ってはならない。良くなる可能性はある。しかし、それは今日修している法とは関係がない。なぜ良くなる可能性があるのか。あなた方は多くの肉を食べてきたかもしれない。そのため、多くの衆生の業力があなたの身にあり、それによって身体が悪くなっている可能性がある。また、あなたが祖先に対して恭敬の心を持っていなかったために、祖先が瞋恨の心を起こし、それによって身体が悪くなったり、物事が順調にいかなかったりしている可能性もある。だから私たちは常々、「孝順(親孝行)」と言っているのである。孝があってこそ、順となるのである。したがって、あなた方が法会に参加して良くなったと感じたとしても、実際にはそれは一時的なものであって、永遠のものではない。自分は法会にとても真剣に参加し、とても恭敬していたから、今日は仏菩薩が慈悲によって自分を良くしてくださったのだ、などと思ってはならない。迷信してはならない。仏法を外道と同じように考えてもならない。一緒になって拝みさえすれば何でも手に入り、リンゴを一つ供えれば、何でも与えてもらえるというようなものではない。もしそんなに簡単なことであるなら、私たちもこれほど多くの法を修する必要などないのである。
 
今日、あなた方は私が多くの法を修しているのを見ているが、実際には、昨日からすでに修法を始めている。もし二万人を超える大法会であれば、私は三日間閉関して、ずっと修法を続けなければならない。なぜなら、自分の福報が足りないことを恐れるからである。あなた方の言い方をすれば、「功力が足りない」ということである。だから、十分な功力を積み重ね、これらの衆生を阿弥陀仏のもとへ送り、阿弥陀仏に彼らの行く先をお任せするのである。必ずしも浄土へ行けるとは限らない。もし彼らが生生世世において阿弥陀仏と一度も縁を結んだことがなければ、今生において彼らを阿弥陀仏のもとへ送ったとしても、阿弥陀仏はまず彼らを人道に生まれさせるかもしれないし、天界に生まれさせるかもしれない。その後、彼らが修行して阿弥陀仏のもとへ行くことができるかどうかを見るのである。もしこれらの亡者が生前、たとえわずかであっても阿弥陀仏に接したことがあり、あるいはかつて仏門に帰依したことがあるならば、今回私が修法することによって、彼らには阿弥陀仏のもとへ行く機会がある。だから私はいつもあなた方に、仏門に帰依するよう勧め続けているのである。それは、仏菩薩が弟子を必要としているからではない。必ずそうしなければならないからなのである。
 
あなた方が学校で勉強するにしても、入学手続きをするだろう?医者に診てもらうにしても、受付をするだろう?あなた方は仏菩薩をそこまで軽く見て、自分が行きたいと言えば、行かせてもらえるとでも思っているのか?先ほど供物を配った時にも、あなた方が仏菩薩と私を軽く見ていることがよく分かった。もらえないのではないかと心配だったのか?先ほど配った供物について、私はあなた方からお金を取ったか?(大衆が一斉に「いいえ」と答える。)では、なぜそんなに焦るのか?あなた方は何でも食べるくせに、損だけは食わない。法会に参加する時でさえ、これほど貪るのか。配ってもらえなかったのなら、そういうものだと受け入れればよいではないか!それなのに、自分は善い人間だと思って、「こちらは一つ足りません!」「それを私にください。向こうへ回してあげます。」などと言っている。私のこの仏寺はお金を取らない。だから私は人を叱ることができるのである。お金を取っていたら、叱ることなどできない。私が済度を行う時、あなた方は位牌が貼られているのを見たことがあるか?一つもない。あなた方の名簿はすべて、このディスクの中に入れてある。少しは科学的に、そして環境にも配慮しなければならないのである。

なぜ一枚の紙に名前を書くのか?あなた方に、自分のお金が今この紙の上にあるのだと見せるためである。あなた方は本当に賢い!あなた方のお金がその紙の上にあるからといって、そこに名前を書けば、仏菩薩がその亡者を済度してくださるということではない。私が見る限り、法本にはそのようなことは書かれていないし、仏経にもそのようなことは書かれていない!もし仏経に、「お金を払い、名前を書いてそばに貼っておけば、仏菩薩がそれを知り、その者を済度してくださる。」と書かれているのであれば、私もそうすることができる。しかし、私が読んだ仏経にはそのようなことは書かれていないし、私が修している密宗の法本にも、そのようなことは書かれていない。つまり、これは仏菩薩が私に教えられた方法ではない。だから私は絶対にやらない。あなた方は、ここに光明灯があるのを見たことがあるか?(大衆が一斉に「ありません」と答える。)第一に、環境に配慮するためである。第二に、私は迷信を奨励しない。灯明を一つ点せば、一年間あなたを守ってくれるというのか?そんなに安く済ませようというのか!今では安いものなら二千元、高いものなら二万元くらいだろう。主灯なら十万元、二十万元するのかもしれない。私は知らない。もし二十万元を払うだけで一年間の平安が得られるのなら、真っ先に私が手を挙げて阿弥陀仏に言う。「阿弥陀仏、私はあなたに百万元差し上げます。だから私は修行しません。」そんなことはないのである。分かったか?

この法会の機会に、正しい仏法についても少し皆に話しておこう。外ではどのようにしているのか、私はそれについて論評しない。私はただ、仏経に説かれていること、法本に記されていること、そして上師から教えられたことに基づいて修法している。この法本は二十数年前、法王が一対一で私に伝授されたものである。その後、法王はこの法本をどのように修するのかについて、私に説明されたことはない。しかし台湾において、私たち直貢噶舉派の中で、一万人、二万人という大衆のために、公に済度法を修することができるのは、私だけである。おそらく法王は、私にこの因縁があることをご覧になったのだろう。あるいは、私と浄土との因縁が非常に深いのかもしれない。だからこそ、法王は特別にこの法を私に伝授されたのである。この法を学ぶには、ただこのように念誦して終わり、というわけではない。必ず密法まで修し、さらにポワ法を理解し、それを成就して初めて、この法を修することができるのである。今日、あなた方には因縁があってこの法会に参加することができた。皆、この機会を大切にしなければならない。この一生において、あなた方が私のこの法会に参加できる機会は、もうそれほど多くはない。なぜなら、私ももう年を取り、すでに80歳になった。あと何年この法会を行うことができるのか、私にも分からないからである。現在、私の知る限りでは、これほど大規模に、これほど多くの人々のために、公開で済度法会を行うことのできる者がほかにいるのかどうか、私は知らない。しかし、少なくとも現在の台湾には、おそらくもういないだろう。

だから、今日私が話したことを、あなた方はすべてしっかりと聞き入れ、改めなければならない。例えば、先ほど供物を配った時も、あれほど焦り、あれほど貪欲な顔つきを、あなた方はすべて顔に出していた。まさに「貪」の一字になっていたのである。あなた方がまだ来る前から、私たちはすでに、供物を何人分ずつ分けるに分けてあなた方に配るのか、きちんと計算してあった。たとえ係の者が配り忘れたとしても、それもあなたの縁なのである。これから私の法会に参加する時は、そんなに焦る必要はない。私はとても公平である。例えば、今日あなた方が注文した弁当についても、私は一切手を出さないし、関与もしない。本来なら、私が注文を取りまとめれば、多少の手数料を稼ぐこともできる。しかし、私はそのようなお金すら稼げないのである。
 

私は、これから法会に参加する人には、参加する前に観世音菩薩に、法会へ参加する機会を得られるよう祈ってほしいと思っている。そうでなければ、さまざまな障碍が現れてくる。今回の法会でも、私は事前からずっと、すべての信者に、申し込んだ以上は必ず来るように、直前になって来ないということがないように伝えなさいと言っていた。なぜなら、キャンセル待ちをしている人が大勢いるからである。今でも百人以上がキャンセル待ちをしている。ところが今日、八人が突然来なくなり、電話にさえ出ない。あなた方は、このような人に信用があると思うか? 

私のところでは、お金を取っていない。この後、あなた方が仏寺に供養するかどうかも、あなた方自身が決めることである。供養しなかったからといって、私があなた方に嫌な顔をすることもない。私があなた方に渡した供物1人分は、だいたいいくらくらいするのか?(担当の弟子が「二百三十元です」と答える。)私はずいぶん気前がよいのである。法会を行う時、私はあなた方と何一つ細かく損得を計ったりしない。例えば、壇城にあるすべてのものについても、あなた方に費用を請求していない。どれもすべてお金がかかっている。例えば、ここにある法器も、すべて私のものである。だから、法会に参加するあなた方には分かってほしい。私は何も求めない。それだけでも、私がとてもすごいということである。私は仏法を利用してもっともらしい名目を作り、もっとお金を寄付させたり、慈悲や善行を勧めたりするようなことはしない。。私はそのようなことは一切やらない。私はただ、仏経に説かれていることに一言一句に則って誠実に従って、あなた方を助けているだけなのである。 

今日の法会に参加した後、私はあなた方に、この一生で仏門に帰依するのか、仏法を学ぶのかを、よくよく考えてほしい。この一生を無駄にしてはならない。この一生が終わった後、再び人として生まれてこられるかどうかなど、誰にも分からない。仏菩薩でさえ、必ずそうなるとは言われていない。死んだらすぐにまた人として生まれてくる、などということはないのである。「大丈夫。私は今とても忙しいから、退職してから、子供たちが大きくなってから、修行を始めよう。」などと思ってはならない。もし今日、私が出家者で、あなた方が私にそのようなことを言ったなら、私はこう言うだろう。「善女人、善男子よ、本当に発心したのですね。大丈夫です。仏菩薩はあなたを待ってくださいます。」何が待ってくれるものか!仏菩薩は不生不滅であり、永遠におられる。待ってくれないのは、あなたの冤親債主であり、あなた自身の業力なのである!だから、よく考えなさい。今日、80歳のこの老人が、これほど苦労してあなた方を助けている。お金の損得も計らず、名利も求めず、あなた方を助けているのである。それでもあなた方が相変わらずこのままで、これほど心を頑なにして仏法を学ぼうとせず、いつまでも仏菩薩を利用し続けるのであれば、見ていなさい!何を「見ていなさい」と言っているのか。私が今後もあなた方のために法会を行う機会があるかどうか、見ていなさいということである。私があなた方を呪っているなどと思ってはならない。仏菩薩も上師も、決して誰かを呪うことはない。しかし、私のこれまでの人生経験から言えば、仏法を学ばないことこそ、あなたにとって最大の損失なのである。その損失は、家を一軒失うことよりも、はるかに大きいのである。

これから私は済度の修法を始める。皆さん、心を静めなさい。そして、六道の中で今なお輪廻し、苦しみを受けている衆生のことを思いなさい。自分はとても苦しいなどと思ってはならない。あなた方はまだ眠ることができ、食べるものもあり、着る服もある。それだけでも、すでに十分に恵まれているのである。私たちは今、台湾というこの地にいる。まだいろいろと混乱はあるが、それでもほかの場所と比べれば、まだ恵まれている。皆、この福報を大切にしなければならない。この福報を大切にするというのは、良い暮らしをするということではない。この一生において仏法を学ぶ機会があるという、この福報を大切にするのである。ほかの場所では、仏法を学びたいと思っても、非常に難しいところがある。どこのことを言っているのかは、私は言わない。勝手に自分のことだと思い込まないように。
 

リンポチェは修法を始められ、その後、会場の参列者に亡者の名前を声に出して言うよう指示された。大衆は直ちに、自分が助けたいと願う亡者の名前を口々に唱えた。リンポチェは次のように開示された。「もっと大きな声で言いなさい。先ほど話をしていた時はあれほど大きな声だったのに、今、名前を言う時になると、どうしてそんなに声が小さいのか。もっと大きな声で言いなさい。恥ずかしがる必要はない。」

この後の言葉は、とても重要である。上師の慈悲心、そして仏菩薩、本尊の慈悲心によって、あなた方が懇切に願うその心を通して、これらの衆生を助けるのである。だから、なぜあなた方にもっと大きな声で名前を言うように言ったのか。力のない声で言ってはならない。先ほど供物を取り合っていた時には、皆、あれほど元気よく声を出していたではないか。もう三回言いなさい。あなた方が済度したい亡者の名前を三回、もっと大きな声で言いなさい。(大衆は直ちに、助けたいと願う亡者の名前を大きな声で三回唱えた。)

この後の言葉では、あなた方が助けたいと願う亡者が、三界六道のどこにいようとも、地獄・餓鬼・畜生・人・阿修羅・天のいずれにいようとも、一刹那にしてこの亡者の名簿の中に融け込むのである。では、修法するとはどういうことなのか。仏菩薩と上師の功徳と慈悲を、済度によって助けようとする衆生に与え、さらに、その衆生を助けたいと願っている人にも与えるのである。普段、あなた方は喧嘩をする時にはあれほど大きな声を出すのに、亡者の名前を呼ぶとなると、皆、声が小さくなる。真剣そうに見せようとしているのか? それとも上品に振る舞っているつもりなのか?あなた方は、本当に懇切な心で、その亡者の名前を念じ、呼ばなければならない。供物を取り合っていた時には、あなた方がどれほど懇切だったことか。「ここ、一つ足りない! ほら、ほら、こっち!」ところが亡者の名前を呼ぶ時には蚊の鳴くような声しか出ない。仕方がない。誰もあなた方に教えてこなかったのだから。済度法というものは、私がすごければ、それだけで済度できるというものではない。あなた方にも、その亡者を助けたいと願う懇切な心が必要なのである。どちらが欠けてもいけない。恥ずかしがる必要はない。これほど大勢の人が一斉に名前を呼んでいるのだから、私には聞こえない。聞こえるのは、亡者だけなのである。
 
この言葉には、六道のどこにいる衆生であっても、皆ここへ来ることができるとはっきり説かれている。それなのに、あなた方は名前を呼ばない。考えてみなさい。あなた方も子供の頃、何かとても苦しいことがあれば、大きな声で「お母さん!」と呼んだだろう?では今、なぜその亡者の名前を、大きな声で呼んであげないのか?恥ずかしいのか?格好悪いのか?気が引けるのか?
それとも力がないのか?これで、あなた方が今日ここへ来たのは、皆、自分が良くなるためだったということが証明された。私が先ほど話した修法の目的とは、まったく関係がないではないか。騙されたと思っただろう!今日初めて来た人も大勢いるから、まさかこういうものだとは知らなかったのだろう。供養を受け取らないほうが、気を遣わなくて済むから。

「もう三回、名前を呼びなさい。」(大衆は直ちに、助けたいと願う亡者の名前を大きな声で三回呼んだ。)「よし、聞こえた。彼らに聞こえたのであって、私に聞こえたのではない。」

リンポチェは引き続き修法された後、参列した大衆に起立して合掌するよう指示され、慈悲をもって、次の偈頌を共に念誦するよう導かれた。中陰にて閻魔の関を恐れ、煩悩と苦しみに苛まれ、淋しき境涯を彷徨う者を、慈悲の力もて救護したまえ。(三回念誦した後、リンポチェは再び参列した大衆に、リンポチェならびに諸仏菩薩に向かって一礼して頂礼し、その後着席するよう指示された。)

修法の間、リンポチェは忿怒尊の法相を顕現された。リンポチェが済度を始められると、済度を待ち望んでいた苦しみの衆生が四方八方から一斉に押し寄せ、会場では直ちに、壇城から冷たい風が幾度となく吹き出してくるのが感じられた。天井から吊り下げられた巨大な勝利幢も、たびたび揺れ動いた。上着を重ねて着る者もいたが、それでもなお寒気が身に迫るのを感じ、泣き声を上げる子供もいた。済度が円満に修された後、会場は一転して温かく明るくなり、大衆はようやく気温が上がり、全身が温かくなるのを感じた。そして、リンポチェならびに壇城の諸尊像から大いなる光明が放たれ、会場全体が祥和なる雰囲気に包まれた。

続いて、リンポチェは大衆を率いて『極楽浄土往生祈請文』を一遍念誦された後、次のように開示された。「これからは私が念誦する。あなた方は念誦しなくてよい。あなた方は一遍念誦すれば、それで十分である。なぜなら、あなた方は菩提心をもって念誦しているのではないからである。」
 
リンポチェは自ら、『極楽浄土往生祈請文』を二遍、ならびに『菩提心発願文』を持誦された。リンポチェの慈悲に満ちた法音は、深く、切なる響きをもって虚空いっぱいに震動し、こだました。その時、虚空より花びらが舞い降り、甘露のような細雨が絶え間なく降り注いだ。参列した大衆は深く感動し、多くの者が涙を流した。その後、リンポチェは、出家弟子に大衆を率いて回向文を念誦するよう指示された。

この時、一人の参列者が膝掛けを畳み始めた。リンポチェはその参列者を呵責された。「あなたはさっきから、膝掛けを畳んで何をしているのか? まだ終わっていない!先に帰りたいのなら、今すぐ帰ってもよい。礼儀がない。」

続いて、リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法儀軌を修持された後、武のアキ護法儀軌を修持された。修法を円満された後、リンポチェは長い間、両手を合掌された。その尊容は慈悲に満ち、荘厳であり、一切有情を決して見捨てることのない広大なる大悲心が表れていた。そして、すべての衆生が輪廻から解脱し、苦を離れ楽を得られるようにと願われていた。

法会は円満に終了した。参列した大衆は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲をもって修法され、殊勝なる開示を授けられ、無辺の衆生を利益されたことに深く感謝し、一同起立して、リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお見送りした。リンポチェは八吉祥が描かれた白い絨毯の上を歩まれ、慈悲に満ちた眼差しで大衆を見渡されながら、道中、絶えず手を振って挨拶された。また、敬虔な信者の中には、法会の前後ともに長時間にわたり跪き、恭しくリンポチェをお迎えし、またお見送りする者もいた。

法会前は連日にわたって豪雨が続き、天気予報でも、法会当日の苗栗の降水確率は50~70%とされていた。しかし早朝、仏寺へ足を踏み入れると、そこには青空と白い雲が広がり、そよ風が吹き、非常に心地よく涼やかな天候となっていた。さらに、二本の虹が空に架かるという瑞相も現れた。この雲一つない晴天は、法会が円満に終了するまで続き、大衆が皆その場を離れた後になって、初めて激しい雨が降り始めた。リンポチェが衆生を利益されるすべての事業は、諸仏菩薩の護持を蒙り、ことごとく円満に成就された。この殊勝なる法会に参列することのできた大衆は、深い感恩の念を抱き、心より讃嘆した。
  
後記:

海外の弟子は映像配信を通じ、千里を隔てた画面越しにも、リンポチェが修法される際の殊勝なる瑞相を自ら目にした。リンポチェが五色の紐を身につけて持誦されている時、尊身から燦然たる金色の光が放たれ、その光輪は大きくなったり小さくなったりしていた。続いて、その弟子がいたリビングルーム全体が、金色の霧に包まれた。初めは自分の目の錯覚ではないかと思い、何度か瞬きをしてみたが、かえってその光景はより鮮明になったという。弟子は、リンポチェの広大なる慈悲心と、不可思議なる加持力を心より讃嘆した。

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法会が円満に終了した後、晴れ渡った空には、殊勝なる雲の瑞相が現れた。その姿は、阿弥陀仏が蓮華座の上に端座され、その背後には七色の光背が輝き、自らこの場に臨んで加持を授け、衆生を来迎引接されているかのようであり、周囲には諸仏菩薩が取り囲むように現れていた。その時、空からは甘露のような細雨が絶え間なく降り注ぎ、身体に触れても衣服を濡らすことはなかった。法会の開始から円満に至るまで、仏寺の境内全体には終始妙香が漂い、長い間消えることがなかった。その香りを感じた者は皆、身心が清浄になるのを感じ、讃嘆し随喜した。こうした数々の殊勝なる瑞相は、あたかも諸仏菩薩が自らこの場に臨み、リンポチェの殊勝かつ円満なる修行の成就、ならびに衆生を利益する広大なる悲願と功徳を讃嘆されているかのようであった。

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2026 年 09 月 10 日 更新