尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年08月23日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、出家弟子たちに、台北寶吉祥仏法センターにおいて参列者を率い、六字大明咒を1時間持誦するよう指示された。その後、弟子および信者は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年6月29日に開示された法話テープを恭しく拝聴した。
この十数年、二十年の間、世界は非常に乱れ、多くの災難が起こり、多くの変化があった。もし私たちが今この瞬間に自分を変えず、依然として自分には間違いがないと思っているなら、いとも簡単にその中に巻き込まれてしまうのである。決して、リンポチェが一日中あなた方を守ってくれるなどと思ってはならない。諸仏菩薩と護法が守るのは、教えに従って実践する者である。では、教えに従って実践するとは、どういうことなのか。それは、仏が教えられたことに完全に従って実行する者のことである。なぜ仏はそのようになさるのか。この世にはこれほど多くの人がおり、これほど多くの有情衆生がいる。しかし、本当に仏がおっしゃった通りに実践できる者は、ほんのわずかしかいない。だからこそ、仏がそのような者をご覧になれば、何としてもその者を守ろうとなさるのである。なぜなら、その者は法器だからである。仏は、その者がしっかりと学んだ後、さらに多くの人々を助けることができるようになることを願っておられるのである。
私の母は今年78歳になった。少し前に健康診断を受けたばかりだが、検査結果では、どの臓器にも異常はなかった。私の母はもともと胃潰瘍があり、吐血したこともあった。また、子宮には腫瘤があった。しかし、この数年、私が努力して仏法を学んできたことによって、今では母の子宮の腫瘤もなくなり、胃潰瘍もなくなった。ただ、年を取ったことで気が足りなくなるという老人特有の症状だけは残っている。こればかりは仕方がない。だから、あなた方は一日中、自分は親孝行だと言っているが、いったい何が親孝行なのか。あなた方が仏の教えに従って修行するなら、両親の身体も自然と良くなり、両親も自然とあなた方が仏法を学ぶことを妨げなくなるのである。あなた方にこれほど多くの問題があるのは、きちんとできていないからである。だから、問題が次から次へと起こり続けるのである。あなた方はいつまでも僥倖を期待する心を抱き、リンポチェに一言謝れば、リンポチェはあなた方を許してくれると思っている。そんなことはない。私は、あまり多くの借りを作りたくないのである。
ある弟子は、もともと私のそばで仕事をしていた。数日前、私に辞職を申し出たので、私は「分かった」と言い、すぐに辞めてもらった。私が彼に辞めてもらったのは、彼が辞職を申し出たからではない。彼が私に腹を立てたからである。彼は、同じく私に帰依している弟子である自分の妻を、私が叱ったことで、私に腹を立てたのである。
私は彼の雇い主であり、同時に彼の上師でもある。その私に対してさえ腹を立てることができるのなら、いったい誰に対して腹を立てないというのか。これほど瞋念の強い者が、どうして変わることができるだろうか。彼が辞職を申し出た時、本来は私が彼と話し合うことを望んでいた。しかし、彼が口を開いた途端、私は、「今日中に離れなさい。」と告げた。同じように、あなた方は今、私について仏法を学んでいる。もしあなた方がこれからも自分を改めようとしないのであれば、ここを離れなさい。外には、たくさんの道場がある。
今日、あなた方には十分な福報がある。外には、顕教と密教の出家者があなた方と共に仏法を聴聞するような場所は、ほかにはない。これは非常に稀有なことである。この三人の出家者が下に座って私の話を聞いているからといって、私より劣っているなどと思ってはならない。そのように考えてはならない。彼らが参加していることによって、さらに多くの天龍八部がここに集まり、あなた方により強い加持の力を与えているのである。なぜなら、私たちは仏が説かれた四衆、すなわち比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を備えており、一つの僧団となっているからである。僧団とは、すべて剃髪した者からなるものではない。四衆が如実に仏法を修行する団体なのである。現在、台湾の多くの場所には二衆、すなわち比丘と比丘尼しかおらず、その他は皆、信者である。だから今日、あなた方がこの因縁を得て、ここで仏法を学ぶことができているのに、それを大切にせず、なおも自分が正しいと思い込んでいるのであれば、この機会は一瞬にして過ぎ去ってしまう。この数人の出家者が法会に参加しているのは、私が呼んだからではない。彼らは自ら来たのである。それは、彼らと私との因縁であり、同時に彼らと皆との因縁でもあるのである。
あなた方は、これが当たり前のことだと思ってはならない。この世に「当たり前」という文字はないのである。すべては、主法者がこれまで多くのことを行い、多くの衆生を利益してきたからこそ、諸仏菩薩が私の願い、すなわち仏法によって一切の衆生を利益するという願いを成就させてくださるのである。これは、あなた方が探しさえすれば見つかるというものではない。この数人の出家者たちは、今日出家したばかりではない。これまでどれほど多くの人に会い、どれほど多くの仏法を聞いてきたことだろうか。今日、彼らは出家者としての高慢な心を捨て、在家の上師が説く仏法を聴聞しに来ることができた。私たちは、そのことを讃嘆しなければならない。だから今日、あなた方がこのような福報と因縁を得て、四衆を具えた道場で仏法を聴聞することができるというのは、非常に得難いことなのである。あなた方はこれまで多くの道場に行ってきた。このような道場がほかにあるかどうかは、あなた方自身がよく分かっているはずである。
この数人の出家者たちは、私が探して連れて来たのではない。ごく自然にここへ来たのである。これらはすべて、宿世からの因縁と福報によるものである。その因縁と福報によって、皆が今生でこうして集まり、仏法の中で共に何かを行うことができるのである。これは非常に得難いことである。もし今日、私の品徳や修行に多くの欠けたところがあるのなら、この数人の出家者たちは現れなかったであろう。あなた方は、人がリンポチェを批判する言葉を、たとえ一言であっても聞いてはならない。もしあなた方がそのような人たちとこれからも付き合い続けるのであれば、遅かれ早かれ、ここを離れることになるのである。
私は以前にも開示したことがある。もし誰かがあなた方の両親を批判するのであれば、その人から離れるべきである。ましてや、あなた方の上師について悪く言う者であれば、なおさらである。あなた方がいつもそのような人と一緒にいるということは、その人の行為を認めているということである。決して、自分にはその人を変える力があるなどと思ってはならない。あなた方は皆、仏法を学び始めたばかりであり、心もまだ十分に堅固ではない。あなた方には、その人を変えることはできない。反対に、その人があなた方を変えてしまうのである。このような人とは、距離を置かなければならない。私たちの心は、いとも簡単に引っ張られてしまう。決して、「別に構わない」と思ったり、相手に悪いと思ったりしてはならない。「何度も誘ってくれているのに、一度も応じなかったら申し訳ない」などと思ってはならないのである。反対に、自分自身に問いかけてみなさい。あなた方に災いや困難が起きた時、その友人たちはあなた方を救うことができるのか。できるのであれば、行けばよい!あなた方に災いや困難が起きた時、いったい誰があなた方を救っているのか。結局は、諸仏菩薩と私ではないか!
だから、多くの人は、自分が何かをしても上師には分からないから、別に構わないと思っている。しかし、あなた方に言っておく。諸仏菩薩とアキ護法は、必ず知っているのである。だから、もし誰かが私に対して悪念を起こしたなら、アキ護法は必ずその者をここから離れさせる。それは、その者に仏法を学ばせないためではなく、これ以上悪業を造らせないためなのである。
護法に慈悲がないのではない。むしろ、あまりにも慈悲深いのである。その者たちに口業を犯し続けさせたくないからこそ、いっそのことここから離れさせるのである。なぜなら、私と彼らには縁がないからである。だから皆、はっきりと理解しておかなければならない。仏法を学ぶ心構えにおいて、懈怠してはならない。気を緩めてもならない!ほんの少し気をつけなかっただけで、いとも簡単に人に引っ張られ、ここから離れてしまうのである!
私たちが今、毎日仕事をし、生活しているのは、やむを得ないことである。家族を養っていかなければならないからである。それ以外には、本当にそれほど多くの付き合いなど必要ない。多くの人は、人付き合いを増やせば、より多くの機会が得られ、商売の機会も増えると思っている。しかし、そのような考えは間違っている。あなたに財があるのなら、財のほうからやって来る。財がないのであれば、どれほど引き寄せようとしても、引き寄せることはできないのである。
帰依したある夫婦の話を例にしよう。その夫婦はとても貧しかった。夫の勤め先の社長が給料を支払ってくれなかったからである。帰依する前日、夫は私にこう報告した。それでも自分は、この社長のもとを離れないことに決めたというのである。彼は金型を作る仕事を担当しており、もし自分が辞めてしまえば、金型を作る者がいなくなってしまうからである。彼は、自分が辞めれば、工場のほかの従業員たちも、そのために仕事を受けられなくなるのではないかと心配していた。だから、給料をもらえていない状況であっても、彼はそのまま仕事を続けることを決めたのである。ところが、彼が帰依した途端、社長はすぐに2か月分の給料を彼に支払ったのである。
彼が給料を受け取ることができたのは、帰依したからではない。彼が私の前でこのような話をしたのを護法が聞き、彼を助けたのである。彼には、自分を犠牲にする心があった。自分の二人の子どももまだ病気であった。それでも、自分自身が苦しみを経験したからこそ、ほかの人が自分以上に苦しむことを恐れ、仕事を続けることを決めたのである。彼にこのような心があったからこそ、財がやって来た。護法がすぐに彼を助けたのである。あなた方には、それができているのか。あなた方は、たった一円でも少なければ、すぐに大騒ぎし、直ちに雇い主と勘定を始める。
この人は、まだ仏法を学んでいない時から、それができていたのである。なぜなら、彼は苦しみを経験したことがあるからである。しかし、あなた方は苦しみを経験したことがない。
あなた方は、自分がどれほど苦しんでいると思っているのか。夫婦で一日中喧嘩をし、上師に逆らってばかりいる。あなた方のこのような心は羅刹の心であり、瞋恨の心であり、餓鬼の心なのである。あなた方はまさにこのようである。上師に瞋恨を起こし、雇い主に瞋恨を起こし、友人にまで瞋恨を起こす。それで、あなた方は仏法を学んでいると言えるのか。たった一毛でも少なければ、すぐに人と勘定を始める。それで何の仏法を学ぶというのか。なぜ私は、この三十数人に供養させないのか。それは、彼らが羅刹の心で供養しているからである。私は羅刹のお金を受け取る勇気はない。なぜなら、供養すれば福報が生じるからである。その福報によって、彼らが羅刹でいる時間がさらに長くなってしまう。私は彼らを害したくないのである。
私は以前にも開示したことがある。真の修行者にとって、喜んで笑ったり怒ってののしったりしても、みな仏法なのである。つまり、喜んだり、笑ったり、怒ったり、叱ったりする、そのすべてを通して、仏法によってあなたを助けているということである。しかし、人というものは実に不思議である。皆、人から良いことを言われるのが好きであり、なだめてもらい、持ち上げてもらうことを好む。そして、自分たちの考えを説明する機会を与えてほしいと思っている。そのようであってはならない。仏ははっきりと説かれている。仏法を学ぶための二つの大きな条件とは、父母に孝行し、師長に仕えることである。ここでいう「仕える」とは、師長がおっしゃったことは、どのようなことであっても、その教えに従って実行するということである。この二つの条件は、すべての仏法の基本なのである。
私たちの道場では、これまで多くの事例が起きてきた。それによって、どのような状況の時に問題が起こり、どのような状況の時に物事がすぐに好転するのかを、あなた方に見せてきたのである。あの弟子が、工場の人たちのために自分を犠牲にしようという念を起こした途端、社長は彼にお金を支払った。このことからも分かるように、私たちがどのような念を起こすかは、非常に重要なのである。仏になるのも、羅刹になるのも、鬼になるのも、すべてあなた自身の念によるのである。あなた方は自らを知識人と称している。しかし、あなた方の心は、本当に知識人と呼べるところまで達しているのか。どれほど多くの本を読んだからといって、それだけで知識人と呼べるわけではない。大切なのは、自分の知識を皆と分かち合うことができるか、知識人としての崇高な心構えを持つことができるかということである。では、何を「崇高」というのか。細かいことまで、いちいち損得を計算しないことである。あれこれ計算したところで、人の計算は天の計らいには及ばないのである。
以前、私が初めて『華厳経』を恭しく拝読した時、二つの言葉が非常に印象に残った。天が最も嫌うのは、「心動機関」の人である。「心動機関」とは、心の中でいつも人のことをあれこれ計算しているということである。ここでいう「計算」とは、必ずしも人を害することではない。自分の利益のために、一日中、人をどう利用しようかと考えていることである。天が最も嫌うのは、このような人である。では、天に嫌われると、どうなるのか。ますます運が悪くなっていくのである。あなた方も考えてみなさい。自分は一日中、人のことをあれこれ計算していないだろうか。「私はこれほど多くのことをしているのに、どうして雇い主はこれだけしかくれないのか。」「私はリンポチェをこれほど尊重しているのに、それでも叱られるのか。」「私はもう供養したではないか!」このようにあれこれ計算する心こそが、「心動機関」なのである。自分自身で考えてみなさい。この一生のうちに、自分の心は何度「機関」を動かしてきたのか。
私たちは、起こす念の一つ一つで人のことをあれこれ計算しながら、自分自身を反省しようとはしない。だから、『華厳経』に説かれているこの言葉は、まさに私たちへの警告なのである。自分は頭が良く、考えることも計算することも得意だなどと思ってはならない。どれほど計算したところで、因果から離れることはできないのである。私たちは毎日ニュースを見ているが、多くの人が他人を算計し、人のお金を奪おうとする。その結果、刑務所に入るか、さもなければ身を滅ぼし、名誉を失っている。因果から言えば、このような人たちは皆、地獄に堕ちるのである。
よく多くの人が私のところへ来て、「どの仕事を選べばよいでしょうか。」と伺いを立てる。
私はいつも、「分からない。」と答える。また、「どの方角に向かって仕事を探せばよいでしょうか。」と聞きに来る者もいる。私はいつも、「東西南北、どの方角でもよい。」と答えるのである。なぜなら、あなたに福報が十分にあり、縁が良ければ、自然と自分が良いと思える仕事が見つかるからである。反対に、福報が足りず、縁が良くなければ、たとえ年収が数百万元ある仕事に就いたとしても、命を失うことだってあり得る。すべては縁に随わなければならない。食べていくことができ、少しでも足ることを知ることができれば、日々も少し楽に過ごせるのである。ただし、あなた方が私のように、お金を稼いだ後、その半分以上、さらには全部を人のために使うことができるのであれば、もう少し財を求めてもよい。しかし、それができておらず、一日中、自分の収入ばかり計算しているのであれば、それほど細かく損得を計算してはならないのである。
私は、お金とはよほど縁が悪いのである。あなた方も計算してみなさい。私はこの三十数人からの供養を受け取っていない。彼らが法会のたびに少しずつ供養し、それが10回も積み重なれば、かなりの金額になる。それでも、私はすべて受け取らない。なぜ受け取らないのか。供養する時の心を見なければならないからである。今日、私がこれほど多くのことを話しているのは、来年になれば、私が話さなければならないことがたくさんあるからである。四加行を教え終えれば、その後には密法が出てくる。もしあなた方の心構えが今のままで、なお改めることができないのであれば、密法を学ぶことはできない。だから、これからしばらくは、淘汰される者が非常に多くなるだろう。それは、私があなた方に去るよう求めるのではない。あなた方が自ら離れていくのである。なぜなら、福報がなく、菩提心のない者には、密法を学ぶことができないからである。
では、福報とは何なのか。それは、如実に供養することであり、必ずしも金銭である必要はない。先ほど話したあの弟子のように、衆生のために自分を犠牲にしようという心を起こした。これこそが供養であり、布施なのである。だから、彼の福報はすぐに起こり、状況もすぐに変わったのである。本来、彼には今年、財を得るはずがなかった。それが、たった一つの念によって変わったのである。あなた方も、自分が毎日どのように過ごしているのか、考えてみなさい。毎日、自分のことばかり計算し、自分のことばかり考えている。人のことを考えたことがあるのか。金剛乗において最も重要なのは、他者のことを考えることである。自分が苦しむこと、自分が損をすることなど重要ではない。他者を苦しませないこと、他者に損をさせないこと、それこそが重要なのである。これこそが、仏弟子としてあるべき行いであり、考え方なのである。よく覚えておきなさい。自分自身を訓練しなければならない。
以前の法会で、私はあなた方に、顕教における問訊の手印の意味について説明すると約束した。
その説明に入る前に、まず皆に、仏経の中でも説かれている白毫光について説明しておこう。
白毫光とは何なのか。実際には、すべての有情衆生には、修行しているかどうかにかかわらず、白毫光があるのである。修行を重ね、禅定の力が十分にあり、恭敬心も十分にあり、慈悲心によって空性を証するに至れば、この白毫光は非常に強くなるのである。
以前、私が顕教を学んでいた頃、白毫光についての体得は、一般の出家者とさほど変わらなかった。ところが、1990年に二度目に昆明を訪れた時のことである。ある日、友人と食事をしていると、その途中で突然、目の前にある光景が現れた。この「見えた」というのは、自分で目を閉じて、光が見えたように感じるというものではない。そのようなものは偽物である。私ははっきりと、非常に古い建物が見え、その中には銅製の観世音菩薩像が安置されていた。そこで私は、昆明に長く住んでいる年配の人に、「昆明の近くに、このような建物はありますか。」と尋ねた。私はわざわざ、その建物の形を絵に描いて見せたのである。その建物の様式は宋代の建築様式であり、現代のものではなかった。すると、その昆明の人はすぐに、「安寧に一つの仏寺があり、そこには銅製の観音像が安置されています。伝承によれば、宋代から伝わってきたものです。」と答えたのである。
翌朝、私はすぐにその場所へ向かった。そして大殿に入り、その銅製の観音菩薩を目にした瞬間、自分の眉間から一本の白い光がまっすぐ放たれ、観音菩薩へ供養されていくのが見えた。その白い光は、私たちが普段目にするレーザー光線のようなものであったが、それよりもさらに細いものであった。その後、私が密法を学ぶようになると、白毫光は供養のためだけでなく、加持の働きも持つことを学んだ。実際のところ、私があなた方を見ている時、目で加持しているのではなく、白毫光によって加持しているのである。私たちの眉間には眉輪がある。道教で言うところの「竅門(きょうもん)」に相当するものであり、両眉の間の内部には一つの通路が存在している。そして、私たちの身・口・意のうち、意識の働きを通して、その通路から脳波の信号が外へ放たれるのである。多くの人は、脳波は脳から発せられると思っているが、実際にはそうではない。眉間から放たれるのである。しかし、この光は、どのような機器を用いても測定したり検出したりすることはできないのである。
したがって、顕教における問訊の手印は、一つの壇城を表す手印なのである。この手印で用いる二本の指は、私たちの心脈とつながっている。仏がどれほどすごいか、あなた方も分かるだろう。この二本の指が心と関係していることを、仏はご存じだったのである。だから問訊をする時には、心から発した信号を、身・口・意を通して仏と上師に送り、ご挨拶をするのである。これは、チベット仏教で合掌する時の「嗡(オム)・啊(ア)・吽(ホーム)」と同じ意味なのである。顕教に密法がないわけではない。この問訊そのものが密法なのである。では、なぜ手を三角形にするのか。今日はまだ開示しない。あなた方には、まだ密法を学ぶ資格がないからである。これは気脈明点に関わることである。簡単に説明すれば、問訊とは、私たちの身体の構造、そして白毫光と関係しているのである。
したがって、密法を学んでいる者は顕教を見下してはならないし、顕教を学んでいる者も密教を良くないものだと思ってはならない。顕教と密教の両方を理解すれば、自然と修行も少し順調に進むようになるのである。私は他の修行者とは違う。日々の生活の中で実際に体得し、仏経に説かれていることは、すべて正しいのだと分かったのである。例えば、仏経には、仏は一つ一つの毛穴から光を放つと説かれている。あなた方がこの一節を読めば、不思議に思うだろう。「毛穴から、どうして光が放たれるのだろうか。」以前、私もこの一節を読んだ時には、とても不思議に思った。以前、ある弟子がこのことを他の人に尋ねたところ、返ってきた答えは「平等心」だったそうである。これは、分からないからこそ、「平等心」だと言ったのである。では、なぜ仏は一つ一つの毛穴から光を放つことができるのか。私も密法を学んでから初めて、それが確かにできることであると分かったのである。しかし、これについても今日は話すことはできない。
実際のところ、仏経に説かれている多くのことは密法なのである。多くの人は、灌頂こそが密法だと思っている。しかし実際には、灌頂とは、上師が仏を代表して、あなた方にその法を修める権限を授けることにすぎない。仏経の中には、すでに密法における多くの境地が説かれている。しかし、あなた方は密法を学んでいないため、理解することも、知ることもできない。だからこそ、信者に対して「それは平等心である」と説明する者がいるのである。もし本当に平等心という意味だけであるならば、仏経でわざわざ、仏の毛穴から光が放たれることを強調するはずがない。そこには必ず働きがあり、理由があるからこそ、仏はそのように説かれたのである。仏がお説きになる言葉は真実語である。仏がお説きになった一言一句には、決して無駄なものはなく、理由のないものもなく、意味のないものも決してないのである。
では、なぜ密法を学ばなければならないのか。顕は理論であり、密は加行である。密法を学んでこそ、仏がお説きになった真の意味を体得することができるのである。顕教の経典では、よく「深入経蔵」と説かれている。多くの人は、『大蔵経』をすべて読み終えることが「深入経蔵」だと思っている。また、仏学院で5年間学べば、経蔵の意味が分かるようになると思っている。これらはすべて誤った考え方である。「深入経蔵」とは、密法を学んだ後に初めて、仏がお説きになったすべての意味がどこにあるのかを知ることができる、ということなのである。私たちが仏法を学ぶには、信・解・行・証が必要である。まず、仏がお説きになったことは、自分にも必ずできるのだと絶対に信じなければならない。「解」とは、上師から仏法の解説を聞くことである。「行」とは、それを日々の生活の中で実践することである。そうして初めて、自分自身で体得することができるのである。
現在の台湾には、「信」の門しかなく、「解」の門すらない。なぜ「解」の門がないのか。先ほど話したように、世間では、仏の毛穴から光が放たれる理由を尋ねられて、「平等心である」と答える者がいる。これこそ、「解」の門がないということなのである。では、なぜ仏は一つ一つの毛穴から光を放つのか。私たち一人一人には光があり、植物にも動物にも光がある。現在では科学によって、人の頭頂部、胸部、両肩、腹部、そして両膝には光があることがすでに証明されている。昔から年配の人たちは、「鬼を怖がる必要はない。私たちの両肩には灯りがあるので、鬼はそれを見ると立ち去る。」とよく言っていた。現在では科学によっても、確かにその通りであることが証明されている。では、この光とは何なのか。それはエネルギーであり、自分自身が使うことのできるエネルギーなのである。しかし、それを他人に与えることはできない。なぜなら、それぞれの場所にほんの一塊ずつあるだけだからである。それはただ、自分の命を守り、自分の肉体を守るための光なのである。
では、仏が衆生を加持する時、どのように加持するのか。虚空法界全体、そのいかなる場所にも、仏光が遍く照らすのである。では、どうすればそのようなことができるのか。一つ一つの毛穴から光を放つことができてこそ、それが可能になるのである。もし頭頂部、あるいは特定の場所からしか光を放つことができないのであれば、前方にしか光は届かず、後方には届かない。では、なぜ私は、毛穴から本当に光を放つことができると知っているのか。それは、気脈明点を修めることによって知ったのである。なぜなら、毛穴の中にまで修めていく法門があるからである。その修法の過程については説明しない。しかし、異なる空間にいる衆生、すなわち十法界にいる他の衆生たちは、自然とその修行者の慈悲の光を感じ取ることができる。そのため、彼らはその修行者のもとへ来て、その導きと助けを受け入れるのである。時に私は、施身法を修めた後、今日どのような衆生がやって来たのかを皆に話すことがある。では、何が彼らをここへ来させるのか。単に食べるものがあるからといって、それほど簡単にやって来るわけではない。彼らを引き寄せて来させるものがなければならないのである。それこそが、毛穴から放たれる慈悲の光である。その慈悲の光によって、彼らはとても心地よく感じ、それを受け入れることができる。だからこそ、彼らはやって来るのである。
だから私は、まだ帰依していない信者からの供養は受け取らないのである。なぜなら、私は彼らに物事を説明する機会がないからである。供養を受け取れば、返さなければならない。私はあなた方には何も借りていない。なぜなら、私はもう来世には戻ってこないからである。ただ、私の心の中には一つの考えがある。直貢チェ・ツァン法王が来られないのであれば、私も来ない。法王が来られるのであれば、私はどうしようもない。だから、法王が別のところへ行かれれば、私もそこへ行くのである。このことについては、今のところ、まだ法王に伺う勇気がない。もし法王から「もう一度来なさい」と言われたら、私は大変なことになるのである。
だから、仏法を学ぶということは、それほど簡単なことではない。ただ仏法を聞き、仏教の本や仏経を少し読めば分かるというものではなく、行門の面を必ず強化しなければならないのである。いつの日か、あなた方自身が実修の過程において体得することができて初めて、仏がお説きになった言葉は真実であり、決して虚偽ではないということが分かるのである。実際、私が仏法を学んできた時には、あなた方のようにそれほど多くの疑問を持つことはなかった。あれこれ尋ねることもほとんどなかった。私はとても単純である。法王がどのように教えられたか、その通りに行う。もし間違っていれば、法王が私に教えてくださる。「なぜこれをしなければならないのか」と尋ねる必要もなければ、「これをすればどうなるのか」と理解しようとする必要もないのである。だから昔の人は、「仏法を学ぶ者は、三分の呆けを持たなければならない」と言ったのである。なぜなのか。頭が良すぎる者には、仏法を学ぶことができないからである。自分が正しいと思い込んでいる者こそ、ここでいう頭の良い人なのである。では、「呆け」とは何なのか。一日中、自分は愚か者だと思っているような人のほうが、かえって仏法を学ぶことができ、かえって修行によって成就することができるのである。頭の良い人が仏法を学ぶのは、本当に難しい。私はこれまで、そのような例を数多く見てきたのである。
だから今日、この二つの光についての話をしたのは、仏がお説きになったことは、決して私たちを騙すものではないということを、あなた方に伝えるためなのである。仏経に説かれている境地は神話のような話ではなく、本当にあることなのである。では、毛穴から光を放つことについて、もう少しだけ説明しよう。本当に密法まで修めた行者であれば、見ればすぐに分かる。一目見ただけで、その人がまるで光を放っているように見えるのである。たとえその人がとても疲れていても、肌がとてもきれいに見える。だから、女性がきれいになりたいのであれば、絶対に仏法を学ばなければならない。そうすれば、自然と肌もきれいになる。なぜ肌がきれいになるのか。毛穴から光を放ち始めるからである。そのため、肌を見ると輝いて見えるのである。あなた方はいくらたくさんの化粧品を買って、ここに塗り、あそこに塗っても、結局はやはりそのままである。なぜなら、あなた方自身が光を放っていないからである。では、どうすれば毛穴から光を放つことができるのか。そう思っただけで光が出るわけではない。訓練しなければならない。そして、教えに従わなければならないのである。
なぜ私はいつも、あなた方の顔色が黒ずんでいると言うのか。それは、光を放っていないからである。だから一目見ただけで、黒く見えるのである。これは日焼けして黒いということではない。また、肌が白ければ黒く見えないということでもない。肌が白くても、同じように黒く見えるのである。あなた方の毛穴から光が放たれていないのは、慈悲の力が遍く行き渡っていないからであり、そのため黒く見えるのである。これは、業障がまだ消えていないこととは関係がない。なぜなら、成仏するまでは、業は依然としてあなたについてくるからである。たとえ成仏したとしても、業はなお存在する。ただ、それに影響されなくなるだけなのである。黒く見えるのは、心が依然として貪・瞋・癡・慢・疑という垢に覆われ、法性の光が顕れていないからである。だから一目見れば、黒く見えるのである。私たちが仏法によって絶えず自分自身を薫陶していけば、垢が少しずつ減り、自らの光が次第に顕れてくるのである。しかし、光が顕れるのはまだ第三段階である。第一段階は、人から見て少し好感を持たれるようになること。第二段階は、自分の角が取れ、人から見て少し慈悲深く感じられるようになること。そして第三段階になって、ようやく光が顕れてくるのである。実際、第一段階の「人から見て好感を持たれる」ということだけでも、すでに容易ではない。今でも、私を見て気に入らないと思う人はいる。私と縁のない者は、私を見れば気に入らないと感じるのである。
仏法を学ぶということは、必ず実践することができ、必ず成就することができるのである。仏は決して私たちを騙すことはない。仏ができたということは、私たち一人一人にも必ずできるということであり、ただ時間の問題なのである。今日、仏法を聞くのは、生活を良くするためでも、心を少し平静にするためでもない。これらは仏法とは直接には何の関係もないのである。もし心を少し平静にしたいだけなら、心理カウンセラーのところへ行けばよい。いわゆる「心が平静である」ということは、相対的に言えば、そこには「波動」があるということである。平静があるなら、必ず波動もある。だから、平静を求めている時というのは、まさにあなたの心が波立っている時であり、心が煩い、苛立っている時なのである。本当の平静とは、心が自在であることであり、五毒、すなわち貪・瞋・癡・慢・疑を減らしていくことなのである。
もし人から何か一言言われた時、自分は間違っていないと思い、すぐに瞋念を起こして話す口調まで変わってしまうのであれば、それはあなたにまだ五毒があるということである。一つ、よく覚えておきなさい。「私を陥れた」「私を誤解した」「私はそんなことをしていない」などと、決して思ってはならない。このような考えを起こすことは、すべて羅刹の心であり、人の心ではないのである。改めなければならない。そうしてこそ、私たちは仏法を学ぶ道において進歩することができるのである。なぜ私は、あなた方に責任を持つよう教えているのか。自分の行為は間違っていないと説明しようとする時、それはすでに自分に間違いがあるということなのである。では、何が間違っているのか。依然として自分を中心に考えており、なぜ自分が人から誤解されたのかを、まだ自ら反省していないことが間違いなのである。必ず、あなたの何らかの言動によって相手に煩悩を起こさせたからこそ、相手はあなたを誤解したのである。もしあなたの言動が、まったく人に煩悩を起こさせないものであれば、どこに誤解が生じるだろうか。では、人に煩悩を起こさせるとは、どういうことなのか。それは、人を苦しませるということなのである。
皆、よく覚えておきなさい。仏法を学ぶことは容易である。しかし、自分の心をしっかりと保つことは、本当にそれほど容易なことではない。私たちは生生世世、自分の心を放任することに慣れてしまっている。心を制御せず、しっかりと保つこともせず、いつも意識を自分の主人としてきたのである。だから仏経では、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を「六賊」と説いている。私たちは賊を父と認めてしまっているからこそ、真心を忘れてしまったのである。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を通して外界のあらゆる環境を受け取り、それが自分に反映されることによって、我執の観念を起こしているのである。そして私たちは、この六根の欲望を満たすために、絶えず悪をなし続け、一度も止めたことがない。では、仏法を修めるとは、何を修めることなのか。それは、私たちが日々を過ごす時、常に真心をもって生きているのか、それとも六根をもって生きているのかを、はっきりと見分けることなのである。眼・耳・鼻・舌・身・意は、ただの六つの道具にすぎない。それらは、この身体が外在と内在の世界と意思を通じ合わせるための道具なのであって、私たちの主人ではない。本当の主人とは、私たちの真心と仏性なのである。
私たちが、六根によって生じるさまざまな現象は、ただ因縁法によって生じたものにすぎないと体得することができれば、自然と、他人から受ける誹謗や称賛を気にしなくなるのである。
まさに仏がお説きになった、「八風吹けども動ぜず」ということである。なぜなら、耳に聞こえてくるものはすべて空性であると、すでに理解しているからである。空とは、何もないということではなく、自性がないということである。あなたの心がそれに作用しなければ、その言葉はただの一言にすぎず、すぐに空気の中へ消えていく。しかし、あなたの心がその言葉に作用すれば、それは執着する心であり、たちまち煩悩が起こるのである。では、何を煩悩に思うのか。
「あの人は、私を間違って叱ったのではないか。」「私はこれほどよくやっているのに、なぜあの人はまだ私を称賛してくれないのか。」このようにして、煩悩が起こるのである。
私はこれまでにも、皆に何度も話したことがある。私が直貢チェ・ツァン法王に帰依してから、巳年大法会に至るまでの十数年間、法王は私の前でも、他の人の前でも、私について一言も褒められたことがなかった。私は教派のために多くのことをしてきた。他の法師であれば、きっと「とても発心している」と言っただろう。しかし、法王は本当に何もおっしゃらなかった。一言たりともおっしゃらなかったのである。なぜなら、私の欠点は貢高我慢であったからである。法王は、私にはまだ角が残っているとご覧になっていた。早くから褒めてしまえば、かえって私を害することになる。だから、まったく何もおっしゃらなかったのである。巳年大法会が終わろうとする頃になって初めて、法王は公の場で、私が教派のために多くのことをしてきたと讃嘆された。なぜなら、法王は、私がすでにそのことで念を起こさなくなっていることをご存じだったからである。
このことからも、あなた方が今日、どのような心で仏法を学び、どのような心で日々の生活を送っているのかが分かるだろう。あなた方の心は、皆、人から褒めてもらうことを望んでいる。自分はよくやっている、自分のしていることは正しい、素晴らしいと思っている。しかし、あなた方がしていることを私がしてきたことと比べれば、まさに「月の前の灯火」である。法王は以前、本当に私を一度も讃嘆されたことがなかった。なぜなら、法王は私のことをあまりにもよくご存じだったからである。それは、私があなた方のことをよく分かっているのと同じである。多くの人は、私から、「よくやっている。とても発心している。とてもよく修行に励んでいる。」と言ってもらいたいと思っている。まだまだ早い!あなた方が私にこのような言葉を言ってもらおうとしても、あまりにも早すぎるのである。あなた方には、まだ改めていない欠点が山ほどある。それなのに、何を根拠にそんなことが言えるのか。
だから、普段あなた方を讃嘆し、「あなたはよくやっている」と言うことが、必ずしも良いことだとは限らないのである。衆生を済度する際には四摂法があり、その一つに愛語がある。しかし、愛語とは、あなたが聞いて喜ぶようなことを言ったり、にこにこしながら優しく話したりすることではない。行者があなたに話す時、あなたを気遣う心、あなたのためを思う心から語る言葉であれば、それはすべて愛語なのである。あなたを叱ることであろうと、打つことであろうと、咎めることであろうと、すべて愛語なのである。私たちは仏経の中でも、釈迦牟尼仏が弟子を呵責されたことをよく目にする。つまり、弟子を叱られたのである。もしあなた方が、「釈迦牟尼仏は慈悲がない」と思うのであれば、それはあなた方が間違っている。また、すべての修行者はいつもにこにこしていなければならないと思っているのであれば、それもまた間違いなのである。
もし今日、修行者があなたににこにこと接しているのであれば、二つの可能性がある。一つは、あなたがすでに、仏が修行者に求めている条件を満たしている場合。もう一つは、その修行者とあなたに縁がない場合である。では、「縁がない」とはどういうことなのか。その修行者が、あなたを自分について仏法を学ばせるつもりがないということである。そうであれば、あなたににこにこと接するだろう。なぜなら、あなたと怨みの縁を結ぶこともなく、にこにこしながら、
「また時間があれば来てください。さようなら。」と言えばよいからである。そして、その「さようなら」は、本当に「さようなら」なのである。なぜなら、その後はもう会うことがないからである。しかし、人というものは本当に不思議である。皆、人からにこにこと接してもらうことを好む。誰かが険しい顔をしていれば、すぐに気に入らなくなり、「自分は濡れ衣を着せられた」「自分について間違ったことを言われた」と思うのである。私たちにはこのような習慣があるからこそ、しばしば瞋念を起こし、上からの指導を受け入れようとしないのである。それは職場であろうと、仏法を学ぶ道においてであろうと、同じことである。だから皆、よく覚えておきなさい。私たちがこの世に生きている中で起こることは、ただ四つしかない。債を取り立てること、債を返すこと、恩に報いること、仇を返すことである。仏弟子である以上、仇を返してはならないし、債を取り立ててもならない。怨みの縁は、解くべきであって、さらに結ぶべきではないのである。
2026 年 08 月 27 日 更新