尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年04月05日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に登り、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十の二」を解説された。
経典曰く「又於金剛心時平等入解而能極勝安住。是為方便。」
この段落では、菩薩が修行する過程において、その心が私たちとどこが異なるのかを説いている。いわゆる「安住」とは、ただそこに動かずに留まることではなく、縁に随ってこのような心が生起することをいう。たとえば「金剛心時平等入解」とある。では「金剛心」とは何か。金剛はあらゆる損壊を受けず、極めて大きな力を備えた状態を指す。金剛心を持たない者は仏法を学ぶことができない。金剛心は生まれつき備わっているものではなく、長い年月の修行と訓練を経て、自らが衆生を利益し、仏法を学び修行する心において、ほんのわずかな怠りもなく、いかなる理由があっても歩みを止めないようにすることで培われるものである。とりわけ衆生を度しようとする心には、絶対に金剛心が必要である。もし菩薩に金剛心がなければ、衆生を救い導くことはできない。
いわゆる「度」とは、単に人に法会へ参加させたり、経を読誦させたり、懺悔を行わせたり、仏七をさせることがその人を度することではない。そうではなく、彼を彼岸へと渡し、輪廻という苦の海から離れさせることである。もし金剛心がなければ、それを成し遂げることはできない。なぜなら、衆生の心は非常に複雑であり、その業もまた錯綜しているからである。
一人の上師が衆生を助けようとするならば、まず自らが仏法に対して確固たる信心と認識を持っていなければならず、そのうえでごく自然に仏法を用いて衆生を利益するのである。したがって「金剛心」とは、自分の名声や利益のために衆生を助けることではない。金剛心とは、衆生に苦しみがあり、しかも自分と縁があるならば、自然に発動して助ける心のことである。
「而能極勝安住」という。「極勝」とは勝ちの意味ではなく、きわめて殊勝であることを指す。「平等入解」とは、金剛心があるときに用いられる語であり、「時」という一字を加えることで、空性に入るときには金剛心の因縁は滅し、衆生を助けるために金剛心が必要なときには、それが現れる、という意味になる。「金剛心平等入解」とは、相手がどのような人であれ、どのような衆生であれによって助けるかどうかを分けるのではなく、ただ衆生が仏法の助けを必要とし、しかも縁があるならば、平等の心をもって助けることをいう。「入解」とは、入り、そして輪廻という苦の海を解き離れることを指す。「而能極勝安住」。衆生をすべて度し終えるまで、この金剛心は衆生を助ける状態に「安住」し続ける。自分が疲れているからといって、あるいは多くの衆生は度し難いと感じて退転しようとすることはない。「是為方便」。方便とは決して「いい加減」や「適当」という意味ではなく、一種の方便法である。いわゆる「方便」とは、仏法においてさまざまな法門があることを指し、ある特定の法門だけが衆生を度するもので、他はそうではないと考えるならば、それは「方便」ではない。「方便」とは、衆生それぞれの因縁に応じて、それに適した助けを与えることである。
いわゆる「随縁」とは、自分の縁に任せて生きることではなく、衆生の縁に応じることである。すなわち、その人の縁が足りたときに助けを与え、縁がまだ足りないなら、その人が縁を得られるように助けるのである。例えば昨日、以前離れていった弟子がいた。その母も道場を離れていたが、最近亡くなり、そのことで助けを求めてきた。弟子でもないのに、どうして私はその人を済度できるのであろうか。彼が離れたのは、私が彼の欲望を満たせなかったからであるが、どのような欲望かは私にも分からない。そこで、彼にこの済度を求める縁を持たせるために、方便法を用いるのである。私は彼に仏法や三宝に対して敬意を持たせるため、出家した弟子たちに向かって三拝するように言った。出家弟子たちは非常に驚いた。なぜ突然、自分たちに礼拝するのか。それは、離れていった弟子には私に礼拝する資格がないという意味である。どういうことかと言えば、彼は上師を信じていないのである。なぜ供養を受け取らないのか。それも資格がないからである。礼拝することすら許さないのである。多くの人は、リンポチェに礼拝すればよいと思っているが、私は身をかわすので見つけることはできない。しかし彼を助けるために、この縁を作り、謙虚な心を起こさせるために、出家者に礼拝させたのである。礼拝すればすぐに福報が得られるというわけではないが、少なくとも三宝に対する敬意の心がわずかでも生じる。それは何のためかと言えば、ただ彼にどこで『地蔵経』を請う(入手する)ことができるかを教えるためにすぎない。多くの人は、仏経を手に入れることは簡単で、お金さえあれば買えると思っているが、彼はそれすら知らない。縁がなければ、仏経が目の前にあっても見えないのである。誰も信じようとしないのである。
リンポチェはあなたたちの善き因縁を作り出すために、四六時中叱り、毎日叱るのである。あなたたちは皆、福が薄く縁も浅いのである。ゆえに、リンポチェの務めとは、日々このようにしてあなたたちを導くことにほかならない。リンポチェは毎日修法し、仏を学び修行したいと願う弟子たちを助けることを望んでいる。私は彼らの障礙を減らすように助けるのである。多くの人はそれを感じていないが、今回の閉関によって、それが実在することを知るのである。
私の基準からすれば、この三十人には閉関する資格も条件も備わっていない。直貢噶舉の基準から見ても同様であり、この二人の出家者も含まれる。なぜなら、彼らは上師を尊重していないからである。しかもこの二人は、なお自分の修行に対する考えに沈んでいるのである。いかなる法本であっても、最後にはすべて上師への供養となるのである。そうではないか。ここで、曼荼羅供養を修したことのある者は手を挙げよ。(会場に手を挙げた弟子がいる)曼荼羅供養の法本には、すべてを上師および伝承上師に供養すべきであると説かれているのではないか。(弟子:はい)では、私は伝承上師であるか。(弟子:はい)たとえ私はまだ亡くなっていなくとも、やはり伝承上師に数えられるのである。だが、この二人はそうではない。リンポチェは日々修行し、一念一念すべて衆生のためであり、私の帰依弟子がよく仏を学ぶことを願っている。ただ彼らが仏を学ぶならば、私は彼らを助け、その障礙を減らすのである。
今回の閉関では、本来であれば多くの障礙が生じるはずであった。そのため、閉関の前にリンポチェが先に修法を行い、その後に彼らが入関したのである。入関してからのことであるが、一つの出来事について、この三十人は誰一人として私に報告しなかった。ただ仏寺の警備責任者だけが私に知らせに来た。木曜日に彼と会議をした際、彼の表情はどこか恐ろしく、非常におどおどした様子で私に話した。彼は以前、私から功夫を教わっており、私を師父と呼んでいる。彼はこう言った。「師父、あの日……」。私は「何のことだ。まさか幽霊にでも遭ったのではあるまいな。」と言った。彼は「あの日、私たちはずっと閉関センターの外にいたのですが、あなたが真言を唱える声が聞こえ、またとても香しい香りも感じたのです。」と答えた。それは彼一人だけではなく、全員がその香りを嗅いでいたのである。では、この三十人の閉関していた弟子たちはどうであるか。誰一人として自ら進んで私に告げる者はいなかった。なぜか。自分たちが修行によってそれを得たのだと思い込んでいたからである。
なぜ私が持咒する声が聞こえたのか。それは閉関中、私が彼らを守っていたからである。この三十人の中には高齢の者もいれば、今にも命を落としそうな者もいた。それでも最終的に全員が無事に出関した。修行が成功したかどうかは分からないが、少なくとも無事に出関したのである。昨日、私は出家弟子に尋ねた。「お前たちは以前、仏を学ぶ中で閉関したことがあるか。」彼は「ありません。私たちが閉関すると発狂してしまうからです」と答えた。なぜか分かるか。上師の加護がないからである。それでもなお、自分が修行していると思っているのか。私が守らなければ、お前たちはたちまち発狂する。信じるか。試してみるか。私は本尊に何かを申し上げる必要もない。ただ私の念がそちらへ向かわなければ、それで十分なのである。
この話をするのは、私のすごさを示すためではない。ただあなたたちに、仏経に説かれていること、そして上師の教えに従って行うことは、必ず成し遂げられると伝えるためである。この仏寺の警備員は仏を学んでおらず、帰依もしていないし、菜食でもない。ただ仏寺を守る責任を負っているだけである。それでも彼は自ら進んで私に報告してきた。にもかかわらず、閉関していた三十人の中には、誰一人として話す者がいなかった。聞いた者はいたのか。ほとんど全員が聞いていたのである。彼らはずっと読誦している中で、そばで男の声が真言を唱えているのを聞いた。そして護法が来て自分たちを助けて唱えているのだと思ったのである。私の願力はある範囲を覆うことができるため、彼らが聞いたのは持咒の声であるが、実際には私の願力によるものである。私の願力とは、私の帰依弟子が進んで修行することを願い、その障礙を減らすことである。言い換えれば、私は彼らを守るということである。したがって、修行しない者を私は守らない。それは私の願力と関係がないからである。あなたがどれだけ修行するかに応じて、その分だけ守るのである。あなたが六字大明咒を一度唱えれば、私はその一度分を守る。護法の修法を一座行えば、私はその一座分を守る。もし上師に対してわずかでも誤った考えを抱けば、その加護はただちに失われるのである。
帰依のときにははっきりと説いてある。上師に対して怒りを起こし、上師と争えば、加持は失われるのである。あなたたちはこれまで何が加持であるか分かっていなかったが、今は分かったはずである。この三十人は、私の加護がなければ、閉関を何事もなく順調に終えることは不可能であった。下痢もせず、風邪もひかず、睡眠も乱れない。十分に食べ、よく眠り、中には八時や九時まで寝ている者さえいた。これで何の修行であるか。上師が衆生のために発した願力であるならば、諸仏菩薩は必ず私の願いを成就させるのである。
リンポチェに帰依したからといって、リンポチェは厳しく、一日中叱り、一日中管理するのだと思ってはならない。なぜ管理するのか。あなたたちが修行していないからである。あなたたちが修行しなければ、私の願力はそちらに届かない。なぜなら、修行しない者が出世して財を得るようにとは、私は発願していないし、修行しない者が良い夫や良い妻を得るようにとも発願していないからである。ゆえに、求めても得られないのである。あなたたちが仏を学び、修行することを受け入れ、上師の願にかなうならば、世間の事柄も自然に少しずつ解決していくのである。にもかかわらず、あなたたちは一日中、上師が世俗の望みを満たしてくれることばかり期待している。例えば昨日、ある弟子が来て、突然病気になったと言い、あれこれと話した。彼は十数年も帰依しているが、私はこれまで一度も会ったことがない。命は私が救ったのであるが、彼が供養しようとしても、私は受け取らなかった。私は彼にこう言った。「あなたの娘は、少しは心を入れて仏を学ぶようにとあなたに注意している。しかし、あなたはこれまで一度もそうしたことがなかったのである。」
したがって話を戻すと、先ほどの『地蔵経』を求めた者は、仏菩薩を信じていないのである。地蔵菩薩ははっきりと、三宝を軽んじれば地獄に堕ちると説いている。帰依した後で、上師や三宝が自分の望むことを満たさないと感じて離れていくのである。離れること自体はもちろん自由である。来るのも自由であり、去るのも自由である。しかし去る前に、「上師よ、私は帰依を退きます」ときちんと伝えるべきである。だが誰もそれを言わず、まるで私と仇になったかのようになる。私はいったい、あなたたちに何か害を与えたであろうか。あなたたちに何かあれば、リンポチェは世間のことでも出世間のことでも、あらゆる方法を尽くして助けてきたのである。ゆえに、仏を学んで力を得たいのであれば、本当に教えに従わなければならないのである。
あの日、私は閉関しており、さらに2007年に私が『喜金剛』の閉関を行ったときの法本を見直した。現在の法本と比べると、その中の内容はほとんど大部分が誤っていた。しかし2007年当時、私はそれでも同じように閉関を成就したのである。真言も間違っており、発音も誤っており、何もかも誤っていた。それでも私はただ自分の上師を信じた。上師がこの法を私に伝えた以上、それは正しいのだと信じ、修行して成就したのである。だからこそ後に、上師は私にこれほど多くの法門を伝えたのであろう。あるいは、上師は私を試したのかもしれない。わざと誤ったものを与えて、どうするかを見たのかもしれない。ゆえに金剛乗においては、上師の言葉はすべて正しいと明確に説かれているのである。なぜなら、上師がどのような方法であなたに対処しているのか、あなたには分からないからである。かつて堪布はしばしば法務チームに対して、「最終的に決めるのはリンポチェであり、堪布でもなく、法務チームでもない」と伝えていた。リンポチェはある法務チームの弟子に対して、「もう一度同じことをしたら追い出す」と言った。
なぜ堪布はそのように注意したのか。それは「法無定法」からである。たとえ儀軌がそのように定められていても、私は突然その儀軌を行わないこともあり得るし、あるいは突然いくつかの項目を取り除くこともある。その内在する関係を、あなたたちにどうして理解できようか。ゆえに本日、釈迦牟尼仏は経典の中で金剛心について説いているのである。衆生を度することは極めて困難であり、容易ではないからである。誰もが自分のことを優先し、より多くを得たいと願っている。しかし実際には、上師や諸仏菩薩の加持と守護がなければ、修行を続けることはできないのである。なぜなら、この五濁悪世、末法の時代においては、魔が群れ舞っているからである。年の初めの前にも、私は修法の中で今年は乱れると伝えたが、実際どうであるか。(大衆:乱れています。)また、私は皆に対して、むやみに売買を繰り返すなとも言った。何を言っているのかと思った者もいたであろうが、株を売買するなという意味である。中には「何を売買するのか」と尋ねる愚かな者もいた。(大衆笑)なぜ私はこれほど愚かな弟子を多く受け入れているのか。株式市場を見れば、値は一気に上がり、また急に下がる。あなたたちにそれを操ることなどできない。株を買うこと自体が悪いわけではないが、現在のこの市場はあなたたちが主導できるものではない。もちろん利益を得る者もいるが、それはごくわずかである。
経典曰く「於彼正念念無散亂。是為智慧。」
衆生が生死を解脱するのを助けるあらゆる念は、すべて「正念」と称するのである。八正道においては、それぞれの「正」を本来一つ一つ解釈すべきであるが、私の修行の見地から言えば、いわゆる「正念」とは、あらゆる念において上に仏菩薩の恩、師の恩に報い、下に衆生を度することであってこそ成り立つものである。衆生を度するとは、すなわち衆生が修行できるよう助け、この一生において生死を解脱できるよう助けることである。現在、リンポチェは無上瑜伽部にまで修行が至っている。かつてチベット密教を学び始めた頃、多くの人が「即身成仏」などはでたらめであると語っていたが、私はそれらに耳を貸さなかった。しかし次第に理解が進むにつれ、それは可能であり、実現し得るものであると分かってきたのである。
いわゆる即身成仏とは、私が別の仏として現れるということではない。私の心そのものが仏の境地に至るという意味である。すでに仏となったということでもない。もし成仏しているのであれば、すでに涅槃に入っているはずだからである。すなわち密乗・金剛乗とは、凡夫の身のまま、成仏へと至る道を歩ませるものである。この道は進みやすい面もあるが、同時に決して容易ではない。なぜなら、人は自ら多くの障礙を作り出してしまうからである。もし私が在家ではなかったなら、在家の問題を理解することはできなかったであろう。しかし私は在家であるがゆえに、それをよく理解している。人は皆、結婚し、子どもを持ち、仕事を抱え、また身体の問題も抱えている。それにもかかわらず、なぜ私は一つ一つの障礙を乗り越えることができたのであろうか。
単に私の心が堅固であるというだけではない。最も重要なのは、私は上師を百分の百信じ、疑いの心を起こさないという点である。では、あなたたちはどうであるか。昨日、ある弟子が法を請いに来た。いくつか言葉を交わしただけで、彼がこの法を受けた後、どのように時間を配分して修行するかを事前に全く準備していないことが分かったのである。法王が私に閉関を命じるとき、閉関の前に具体的なやり方を教えることはない。今回、三十人が閉関に入るにあたり、私は一日に何座修するかだけを告げた。一座にどれほどの時間をかけるかは、彼ら自身に任せたのである。同じ理由である。人それぞれ身体の状態も生活のあり方も異なる以上、画一的にやり方を定めることは難しい。しかし、自分の能力の範囲、また適した範囲の中で、あらかじめ必ず計画を立てておくべきなのである。
私は以前にも皆に話したことがある。かつて閉関を半ばまで行ったとき、法王が私を呼び出し、大手印を伝えると言われた。そのとき私は法王に申し上げた。「私はまだ準備ができておりません。百字明呪を十万遍唱えてからでなければ、法を受けることはできません」と。ところが、あなたたちは皆、自分は準備ができていると思い込んでいる。私が問えば、実際には誰一人として準備ができていないのである。誰もが自分は必ずできると賭けているにすぎない。なぜ私は百字明呪を十万遍唱えようとしたのか。それは謙虚さのためである。あなたたちは互いに競うように高慢である。それではどうなるのか。『宝積経』には明確に説かれている。慢心・高慢であれば、いかなる功徳も得られないと。法を求めることでさえこのように傲慢であるなら、どうして法を得ることができようか。謙虚でなければ、自然と慢心・高慢へと陥っていく。一度そこに陥れば、福報が良ければ阿修羅に生まれ、福報が悪ければ大力鬼王となる。リンポチェは、自分の弟子がこのいずれかに堕ちることを望まないのである。
したがって、絶えずあなたたちを教え諭しているのは、謙虚であれというためである。とりわけ上師に会うときは、必ず謙虚でなければならない。決して上師を単なる人として見てはならない。以前にも述べたように、上師を人だと思えば、人としての加持しか得られない。上師を菩薩と見れば、自然に菩薩の加持を得る。上師を仏と見れば、自然に仏の加持を得るのである。なぜか。「萬法唯心造,法無定法(万法は唯心に造られ、法に定まった法はない)」からである。上師を人と見るならば、当然ながら人の加持しか得られないのである。ここでいう「智慧」とは、このような事柄によって人が単に賢くなったり、優れた能力を得たりすることを指すのではない。一切の森羅万象がどのように縁起し、どのように滅していくのかを理解しているがゆえに、さまざまに異なる衆生をどのように助けるべきかを知っている、という意味である。
「彼正念念無散亂(彼の正念は念々にして散乱なし)」とは、ひとたび念が散乱すれば、すべての功徳もまたそれに伴って散乱してしまうということである。なぜ閉関が必要なのか。それは、あなたたちが日頃から散乱した状態に慣れているからである。閉関して初めて、自分の心がどれほど散乱しているかに気づき、その散乱を減らす訓練をするのである。散乱を減らさなければ、智慧が生じることは決してない。この三十人も閉関の最初の一、二日は、さまざまな念が次々と湧いてくると感じたであろう。それこそが散乱である。なぜなら、私たちは日常生活の中で、まさに一瞬一瞬そのようにして過ごしているからである。
なぜ閉関するのか。閉関してこそ、自分自身を点検できるからである。彼らが閉関に入る前に、私はすでに言っておいた。数日閉関したからといって、外に出たときに別人のように変わるわけではない。ただ静まり、一人で自分をはっきりと見つめる機会が得られるにすぎないのである。なぜなら、人は死ぬとき、息を引き取る前後は孤独だからである。どれほど多くの人がそばにいようと、医師がどれほど手を尽くそうと、その瞬間は孤独である。もし日頃から心が散乱しているなら、その一刹那においてもまた散乱しやすく、六道輪廻に堕ちる可能性が高くなる。ゆえに、生きている間に修し、改め、散乱した心を減らさなければならない。そうすれば、往生のときに六道へ堕ちる機会は大いに減少するのである。
なぜ繰り返し繰り返し、上師を尊重せよと説くのか。それは、息を引き取ったその一刹那に、本当に救いに来るのは上師だからである。しかし心が散乱し、日頃から上師を尊重せず、信じず、疑いを抱いていれば、たとえ上師を目の前にしても、見えていないのと同じになってしまう。「では阿弥陀仏を待とう」と思っても、待っても来ない。「六字大明咒をたくさん唱えたのだから、観音菩薩が来るはずだ」と思っても、来ないのである。なぜか。例えば私が持咒すると、あなたたちの身体は熱を感じるであろう。しかし自分で持咒して、そのような内側からの熱を感じることがあるか。(答:ありません。)もちろん冷房をつけなければ暑くて汗はかくが、それは内から湧き出る熱ではない。なぜそのようにならないのか。本尊と相応していないからである。なぜ相応しないのか。慈悲心がなく、上師を信じず、自分で修していると思い込んでいるからである。我々がこの段階に至って閉関するとき、最初に祈請するのは、上師が今日自分を加被してくださるよう願うことであり、その日に修したあらゆる功徳をすべて上師に供養するということである。自分のためではないのである。
したがって、この二人の出家弟子は悪い習慣を改めることができないのである。ゆえに私は、これ以上閉関しないよう勧める。あなたたちには閉関をやり遂げることはできない。私の経験から言えば、上師がいなければ閉関は不可能である。自分たちだけで修行していると思ってはならないし、自分に福報が来たから修行できるなどと考えてはならない。では、その福報は誰が与えたのか。あなたたちがわずかに経を読むだけで、果たして福報が得られるというのか。
経典曰く「又於往昔願是平等入解而能成熟有情極勝安住。是為方便。」
彼は過去に菩薩道を修する中で、「平等入解」、すなわち平等性智を修得しているのである。平等の立場から輪廻を解き明かす門に入ったのであり、「而能成熟有情極勝安住」とは、この「平等入解」を具えているということである。しかもそれはこの一生で修したものではなく、過去世においても生々世々このように修してきたからこそ、一切の有情を成熟させ、「極勝安住」させることができるのである。「一切有情を成熟させる」とは何か。例えば今回の閉関において、私が彼らを成熟させ、閉関できるようにしたということである。誰一人として分かっていないが、上師がいなければ、自分一人で閉関することはできない。誰もが、自分を閉じこめて中で読誦すればよいと思っている。では問う。もし私があなたたちを導いて閉関させなかったとしたら、自宅で何日間閉関できるであろうか。三日が限度であり、四日目には発狂し始めるであろう。今回は彼らの携帯電話を取り上げなかった。なぜか。各自の良心に任せたのである。(大衆笑)実際に使った者がいるかどうか、私には分からない。電波を測定する装置も用いていないからである。しかし、上師の支えと加被がなければ、閉関は極めて困難である。なぜなら人の心は猿馬のごとく、極めて散乱しているからである。自分は散乱していないとか、以前より考えが減ったなどと思ってはならないのである。
皆に一つ実験を与える。ある日を選び、朝起きてから、顔を洗い食事をする以外は何もせずに、自分の心がどうなるかを観察してみるがよい。今、自分は修行していると思ってはならない。上師の庇護がなければ、修行を続けることはできないのである。上師は絶えず機会を作り、あなたたちがさらに一歩進んで修行できるようにしている。では、あなたたちは上師に対してどのような態度で向き合っているのか。私はこの一生において、第一に、生々世々にわたって負ってきた負債を返すことである。第二に、私と縁のある衆生を助け、この一生において生死を解脱し、輪廻の苦海から離れさせることである。ゆえに、あなたたちに対して耳に心地よい言葉をかけることは決してない。リンポチェがあなたたちを甘やかし、持ち上げてくれるなどと期待するなら、待つがよい。しかし来世になっても、そのような機会はない。なぜなら、私はそのような修行者ではないからである。
経典曰く「於一切有情念無實我。是為智慧。」
一切有情衆生を教導するにあたり、また自ら菩薩としてある以上、念頭は「無実我」でなければならない。この「我」は仮のものである。では、真偽の基準はどこにあるのか。私はよく例を挙げる。もし今日、あなたの名前が取り去られ、すべての身分証明がなくなったなら、あなたは誰であるのか。この「我」はどのように成り立っているのか。両親から名前を与えられ、政府から身分証番号を与えられ、仕事をすれば社員証があり、学べば卒業証書がある。このような諸々によって、あなたの「我」は構成されているのである。もしこれらがすべて取り去られたなら、あなたは何者であるのか。ただ骨に皮が張り付き、その内に肉と血と五臓があるだけである。この皮はいずれ朽ち、五臓もやがて衰える。そのとき「我」は存在しない。今生におけるこの「我」は、業力によってもたらされたものであり、真の「我」ではない。すべては仮のものである。たとえこの一生で多くの出来事を経験し、さらには多くを尽くし、懸命に努力し、多くを得、多くを失ったとしても、それらはすべて因縁業力によるものである。その因縁業力が尽きれば、この「我」もまた消え、そして再び別の「我」が生起するのである。
したがって、「自分という存在が重要だ」という念にとらわれている限り、智慧を開くことは不可能である。なぜなら「我執」が極めて強いからである。例えば、常に「自分は修行している」と思い込むこと自体が我執である。「もっと進歩したい、もっと理解したい」といった思いも、すべて「我」に基づくものである。リンポチェは閉関において、これをしようあれをしようと考えたことはない。ただ上師が閉関を命じたから、そのとおりに閉関するのである。今回の閉関も、法王が入関される前に、ある本尊を修するよう命じられた。その本尊は以前すでに修したことがあったが、法王の指示である以上、再び修したのである。私は別の法を修することもできた。法王はブータンにおられ、遠く離れているため、私の行いを直接見ることはできない。しかし私はそれでも指示に従った。なぜなら、すでに約束しているからである。もし日々、自分の感覚や得失、名誉などばかりを考えているなら、本来は「仮である我」が、あたかも「実我(実体のある我)」となってしまう。その実体視された「我」のために、絶えず追い求め続けることになり、苦しむのは自分自身である。もし菩薩がすべての衆生に対して、この「我」が仮のものであると理解させることができなければ、その者は菩薩とは言えず、それは仏法でもないのである。
経典曰く「念彼善根證無所證。是為方便。」
「念彼善根證無所證(彼の善根を念じて、証するところ無しと証す)」とはどういう意味か。善根は本来、目に見え、証明できるものではないのか。なぜここでは「証するものがない」と説かれるのか。それは、菩薩がいかなる善根を修するにしても、衆生のために修するのであって、自分のためではないからである。例えば今回、弟子たちは自分のために善根を積み、来世でもっとよく修行できるようにと考えて閉関している。中にはそれを最も好む出家弟子もいる。しかしその考えであれば、諸仏菩薩はもはや修行する必要がなくなってしまうではないか。菩薩は法身菩薩に至る以前においては、修するあらゆる善根はすべて衆生のためであり、自分のためではないのである。
例えば最近、ある出来事があった。昨日、私の新しいレストランで食事をしていると、一人の女性が入ってきた。聞けば、彼女は毎月私の仏寺に通っているという。あの場所は景色が特別よいわけでもなく、長い道のりを経てようやく辿り着くような所である。では、何が彼女をそこへ向かわせたのか。彼女の話によると、何度か仏寺に行った後、友人に連れられて占いに行ったという。その占い師がこう言った。「あなたは金色の光に包まれている。あなたがよく行くあの場所には大きな修行者がいて、あなたを守っている。ほかの場所には行かない方がよい。」彼女は考えてみて、自分が通っているのは寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺しかないと気づいたのである。なぜ守護があるのか。それは私の願力によるものである。私の仏寺を訪れる者、あるいは仏寺に寄進した者については、その修行の面において私は守るのである。では、なぜあなたたちに友人を連れて行くように言うのか。私が金を必要としているからではない。現在、私の仏寺は資金を受け取らなくても運営を止めずに十年は持つと計算している。あまりに打算的になってはならない。もし友人に「いくら供養したのか」と聞かれたなら、「自分で決めればよい」と答えればよい。「私は二千元出した」などとは決して言ってはならない。そのように言う弟子もいるが、他人がどのように供養するかは関係のないことである。先ほどの話は、彼女自身が語ったことであり、私は彼女を知らなかった。我々はよく「信・願・行」と言うが、「信」とは何を信じるのか。自分がどうであるか、どれほど優れているかを信じるのではない。仏菩薩が説いたあらゆる方法、あらゆる仏法を信じるのである。いかなる有情衆生も、いつか必ずそれを成し遂げることができる。ただし焦ってはならない。「願」とは何か。諸仏菩薩の願に学び、衆生を助けることである。「行」とは何か。実際に行動し、実践することである。
なぜ仏寺を建てるのか。仏寺を建てれば自分が有名になり、信者が増えるからではない。この道場は一つのコミュニティの中にあり、多くの状況や出来事について、私は思い通りにすることができない。なぜなら、それは因縁法によるからである。しかし仏寺であれば、全体としてある程度は自分で調整することができ、その雰囲気をコントロールし、修行が他の場所とは異なるものとなるようにできる。そうすれば、私のすべての願力と、仏菩薩の磁場と願力も、その場所に自然と集まるのである。ゆえに私は帰依弟子に勧める。友人を連れて行きなさい。そして、いくら寄付すればよいかなどと教えてはならない。自分自身もそのようにしてきたからである。私はこれまで、あなたたちにいくら必要だと言ったことがあるであろうか。
リンポチェが問うた。「昨日、私はいくら返したか」と。(出家弟子:120万。)彼は今、目がとても利き、一目で金額が分かるのである。(大衆笑)「君は会計の出身か、それとも銀行の出身か。」(出家弟子:「その厚みを見て判断しました。」)この点からも、あなたたちは親しい人々に伝えることができる。リンポチェは金を求めているのではない。昨日の午後だけで120万を返したのである。
最近、ある業者の施工が不十分であるのを私が見つけた。林姓や魏姓の弟子たちは、どこが悪いのかまったく分かっていなかった。相手も出来が悪いことを認め、資金が足りないと言ったので、私は「構わない、リンポチェが出すから、きちんと仕上げてほしい」と言った。私が出すと言えば、それは六桁以上の金額である。出さずに基金会に任せることもできたのである。だからこそ皆に頼む。仏を学ぶには金がかかるという考えを、決して持ってはならない。昨日も、病気だと言って来た弟子がいた。甘露丸を与えれば命は保てる。その彼が金を供養しようとしたが、私は受け取らなかった。「家を売ってまで供養したわけでもないのに、この命はそれほど安いのか」と言って受け取らなかったのである。多くの人は、何かをリンポチェに差し出せば喜ぶと思っているが、私は嬉しくない。なぜなら、リンポチェはかつて金も持ち、商売もしていたからである。ゆえに、仏経に説かれていることは実現し得るものであり、必ず成し遂げることができる。ただその方法に従い、順を追って、一歩一歩着実に行っていけばよい。いつ成し遂げられるかは、この一生とは限らないが、必ずどこかの生で達成される。しかし、決して気落ちしてはならず、諦めてもならないのである。
『優婆塞経』の中では、はっきりと説かれている。優婆塞とは在家で修行する男性のことである。釈迦牟尼仏は明確に、優婆塞は男性、優婆夷は女性であり、出家者と同様に菩薩道を修することができるが、出家者の方が比較的容易であると説いている。なぜなら、在家の者は悪業にまとわりつかれているからである。あなたたちはきっと、自分は悪業にまとわりつかれてなどいない、悪いことはしていないと言うであろう。しかし、そうではない。『宝積経』にははっきりと、家族はすべて獄卒であると説かれている。それはすなわち悪業ではないのか。
あなたたちは家族のために、毎日苦労してお金を稼いでいる。家族を捨てよと言っているのではない。ただ釈迦牟尼仏は、在家であっても出家者と同じように菩薩道を修することはできるが、在家の者はより苦労が多いと説いているのである。この苦労とは体力的なものではなく、心の力をより奮い立たせねばならないということである。自分を甘やかしてはならない。なぜなら悪業にまとわりつかれているからである。もし悪業にまとわりつかれていないのであれば、すぐにでも頭を剃って出家しているはずである。ではなぜ今も在家でいるのか。それは在家としての縁がまだ多く残っており、返しきれていないからである。我々はあまりにも多くの衆生に負い目がある。負っていること自体は問題ではない。むしろ多く負っているほど、私は喜ばしく思う。なぜなら、それを返す機会があるからである。そして返していく過程において、自らの修行の資糧も多く積み上げることができる。したがって、在家の修行とは、あなたたちが考えるように、ただ線香を焚き、礼拝し、経を唱えるだけで済むものではない。それでは単なる信者にとどまるにすぎないのである。
在家の上師として言えば、私も最初は同じであった。しかし次第に、それでは単なる信者にすぎず、仏経に説かれている内容には到達できないと分かってきたのである。それは私の生活と衝突したか。まったくしていない。衝突しているのは、自分自身の内面にすぎないのである。ここで皆に勧める。もし本当に修し学ぶ意思があるなら、順を追って着実に行い、決して焦ってはならない。そうすれば必ず自分の業力は変わっていく。なぜなら、私があなたの業力を変えることはできず、釈迦牟尼仏でさえも変えることはできないからである。変えるのは自分自身である。しかし釈迦牟尼仏はその変え方を知っており、それを伝えてきた。我々はそれを学び、自分が変わっていることも実際に見ている。私たちは修行の経験と方法をあなたたちに伝えているのだから、それをよく聞き、そのとおりに実行すべきである。決して勝手に方法を変えてはならない。修行の経験もないのに、どうして経験ある方法を変えることができるというのか。それは、法王が私に法を伝えたのに対して、私が「そのやり方は嫌だ、別のやり方でやる」と言うようなものである。しかしあなたたちは皆そのように振る舞う。リンポチェが伝えたことを実行しないか、あるいは自分のやり方に変えてしまう。だからこそ、いつまでもリンポチェの功徳の大海に入ることができないのである。
私の「功徳の大海」とは、私個人のものではない。私は教派の歴代伝承上師と一体であり、すべての本尊とも一体である。法本にははっきりと説かれている。我々が一滴の水ほどの功徳を修したならば、その一滴によって本尊の功徳の大海に入ることができ、これと一体となるのである。しかし、その一滴の功徳の水でさえ、一生を尽くしてようやく得られるほどのものである。どれだけ多く読誦したからといって、多くの功徳を得たと思ってはならない。必ず上師の加被と護りに依らなければ、仏法において絶えず進歩することはできない。私自身、この一生はまさにそのようにして修してきたのである。私は他に上師を持たず、あちこちと求めて回ることもしない。誰が有名であるかは、その人自身のことである。私は有名だからという理由で会いに行くことはしない。その人が有名であるのは、その人が修してきた結果であり、私が会いに行ったところで、その力が私に与えられるわけではない。無駄に金を使う必要はないのである。ゆえに、仏経に説かれていることは、しっかりと受け止めなければならないのである。
経典曰く「又念彼無根及無住著。是為智慧。」
「念彼無根(彼の無根を念ず)」とは、無根とは善根がない、悪根がないという意味ではない。大きな悪もなく、大きな善もない者がいるということである。また、阿羅漢を修し四果に至った者は、すべての根器、すなわち六根が止息するのである。「及無住著(及び住着なし)」とは、いかなる法門にも心を留めていないという意味である。「是為智慧(これを智慧という)」とは、この菩薩はすでに空性を証しているということである。もし空性の中にあるならば、煩悩によって心が動くことはない。衆生からの求めがある場合、あるいは自身の願力と関係する場合にのみ、その心が動くのである。
経典曰く「又於佛仏刹平等入解而使現前清淨。是為方便。」
「仏刹」には二つの意味がある。一つは仏の浄土、もう一つは正信の仏寺である。「平等入解」とは、平等心をもって入るということであり、「而使現前清淨(而して現前を清浄ならしむ)」とは、例えば多くの人が寶吉祥仏寺に来て、私の戒香を嗅ぐと、たちまち煩悩が減少し、静まるということである。これが清浄であり、上師の修行の願力と関係しているのである。あなたたちは香水の香りを嗅いでも清浄にはならない。むしろおかしくなることすらある。香水には動物の分泌物が多く含まれているからである。それを知って以来、私は一切使わなくなった。以前はアフターシェーブを使っていたが、今は使っていない。この文の意味は、どの仏刹に行っても、「この仏はあの仏より功徳が優れている」などと分別してはならないということである。どの仏寺に行っても、「ここは特に荘厳だ」などと考えてはならない。ただ清浄な仏寺であると知ればよいのである。以前行った場所と比べて、「ここはあそこほど荘厳ではない」とか、「あそこはここより荘厳だった」などと考えてはならないのである。
「仏浄土」とは、その仏の願力によって生じる仏土である。例えば阿弥陀仏は四十八願を発し、それによって西方極楽世界が現れた。また不動如来の願力によって、東方不動浄土が現れる。このように、すべては仏の願力によって生じるのであって、どの仏刹がどれより優れているということではない。そのように考えるならば誤りである。例えば、阿弥陀仏のもとに往生したいと願うことは、阿弥陀仏の浄土が宇宙で最も大きいという意味ではない。自分の願力が阿弥陀仏の願力と相応するから、そこに往生するのである。しかし心の中で、「華厳を修する者は浄土に行けない」などと考えてはならない。誰がそのように言ったのか。『華厳経』にも浄土に往生することが説かれている。ゆえに我々は平等心をもつべきである。平等心とは、分別して優劣や善悪を比較することではない。ひとたび証果すれば、その功徳は諸仏菩薩と差別はなく、ただ願が異なるにすぎないのである。
例えば文殊菩薩の願力は、衆生の智慧を開くことを助けることであって、与えることではない。多くの人は、文殊菩薩を礼拝すれば智慧を与えてくれると思っているが、確かにそういう側面もあるとはいえ、実際には、あなたが菩薩道の修行を始めたとき、文殊菩薩は智慧を与えるのではなく、その智慧の光をあなた自身の智慧の光と結び合わせるのである。もし修行していなければ、文殊菩薩の智慧の光が来ても何の役にも立たない。礼拝すればそのまま智慧が得られると思ってはならない。例えば観世音菩薩の願力は慈悲を主とする。我々がどの本尊を修するかによって、その本尊の願力に触れることになる。その願力が自らの願力とまさに一致したときにこそ、相応するのである。
例えば我々の不共四加行における上師相応法について、なぜ多くの弟子に私はそれを伝えたくないのかというと、あなたたちは上師を尊重していないのに、念じ終われば上師と相応できると思っているからである。この「相応」とは何か。私がどの法門を修すれば、あなたもその法門を修するということである。相応法を持つというのは、ただその法門を念じることで、その法門に触れる機会、チャンスが得られ、上師がその法門を伝える縁が生じるという意味であって、「私とあなたが相応する」ということではない。毎日眠れば私の夢を見る、外に出れば私の姿が見えるなどと思うのはやめてほしい。私はそのようなことをされると非常に煩わしいのである。今はっきり言うが、「相応」とは、上師が修している法門を、あなたがそのまま学びたいと願い、どの法門であっても、上師には多くの法門がある中で、それを繰り返し繰り返し念じ、かつ上師に対して百分の千の降伏の心を持つならば、上師が修する法門は自然にあなたも学ぶことになり、修することができるようになるということである。しかし、上師に対してわずかでも不正確な思いがあれば、この相応法をいくら唱えても意味はないのである。改めて皆に忠告するが、自分が修行していると思い込んではならないのである。
もし科学的に見るならば、私たちは広大な仏の世界の中において、顕微鏡でも見えないほどの、ごく小さな分子にすぎない存在である。今の私たちができるのは、その無数の分子を集めて一つの原子をつくり、その原子をさらに集めて力を生み出し、それによって衆生を助けることである。決して自分が修行しているなどと誇張してはならない。したがって「有根無根」とは、誇大に語るなという教えである。我々が修行するのは当然のことである。なぜ当然なのか。それは、我々はすでに長い輪廻の中で幾度も苦しみ続けてきたからである。この一生においては修行によって生死輪廻の苦しみ、生老病死の苦しみから離れたいと願うからである。しかし、それは単なる掛け声や、仏法を聞きに来ることや、リンポチェの加持を受ければそれで終わるというものではない。もしそれで済むのなら、私が閉関をする必要などないはずである。すでに私は何度も閉関してきたが、なおさらに閉関を重ねているのである。私は近いうちにもまた閉関することになるであろう。
本日ここまで皆に話した要点は、仏法は誰もが学ぶことができ、修することができるということである。その鍵はどこにあるのか。それは上師があなたを助けるという点にある。単にその文字を読めるから仏法が得られるわけではない。毎日持咒すれば仏法が得られるわけでもなく、毎日礼拝すれば仏法が得られるわけでもない。すべては心によるのである。ここで多くの「心」と言われているが、それは菩薩に多くの心があるという意味ではない。菩薩は衆生それぞれの異なる因縁に応じて、どのような心をもって助けるかを現すのである。菩薩の自性は清浄であり、その心は衆生の因縁に応じて生じるものである。その清浄な自性は、自らの存在のために何らかの法門を行うのではない。ただ衆生が求めることに応じて、それを行うだけなのである。
多くの人は、観世音菩薩が苦しみを救い、声を聞いて苦を救うと考えている。はっきり言えば、それは世間的な苦ではなく、輪廻の苦である。病にかかり、最も苦しいときにもし観世音菩薩と呼ぶならば、輪廻から離れ、三悪道に堕ちないよう救われる機会はある。しかしあなたたちはまだ最も苦しい状態には至っていない。問題はそこにある。いざ病床に横たわったときには、もはや声を出して念ずる力さえ残っていないかもしれない。だからこそ、生きているうちに訓練しなければならないのである。念ずることを習慣とし、観世音菩薩を呼ぶことを身につけなければならない。もし観世音菩薩を呼ばなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェを呼べばよいであろうか。(大衆:はい。)
リンポチェが年を取ったからといって、「耳が遠くなってもう聞こえないだろう」などと思ってはならない。そうではない、やはり聞こえるのである。今回の閉関でも同じで、三十人が関房にいる間、リンポチェは常に彼らを守ろうとしていた。警備担当ですら私の持咒の声を聞いたのに、ある出家弟子は「聞こえなかった」と言った。それは明らかに心が上師に向いていないからであり、だから聞こえないのである。実際、多くの閉関者は聞いていたのである。(閉関弟子:はい。)聞こえていた者は、上師を非常に尊重している者であり、今回の閉関が自分の福報によるものではなく、上師の助けによるものであると理解している。あなたたちの閉関のために、リンポチェは多くの準備をしている。そんなに簡単なものではない。寝具は日本から輸入の敷布団であり、掛け布団も日本製である。我々の閉関はまさに六つ星ホテルのようなものである。しかしそれで利益を得ているわけではない。今日と、これまでとする。(大衆:リンポチェに感謝申し上げます)
現在すでに旧暦の二月末であり、もうすぐ三月である。今年もまた二か月が少なくなったということである。皆に願うのは、家に帰ったらリンポチェの話したことをよく思惟することである。リンポチェはあなたたちに圧力をかけているのではない。私もあなたたちと同じように、結婚し子をなし、商売もしてきた。しかしなぜ私はできたのか。それは決意である。私は仏法を学ぶと決めたのであり、いかなる障礙も私を止めることはできない。苦しみを恐れないのである。苦を恐れなくなれば、苦の因縁は自然に消えていく。そして苦の因縁が消えれば、人生の苦は次第に減っていく。このようにしていくのである。平常から苦を受け入れようとしないなら、その苦の因縁は常にあなたに付きまとい、止まることがない。考えてみれば、その通りではないか。我々は方法によって苦の因縁を減らすことができる。例えば大礼拝を行えば身体に苦が生じる。またリンポチェに叱られれば心が苦しくなる。そうではないか。(大衆:はい。)そのような苦の因縁は次第に減っていくのである。
多くの人は、仏法を学ぶ理由を理解しておらず、ただ加護を求めるものだと思っている。もし仏法を学ぶ目的が加護を求めることであるならば、あえて仏法を学ぶ必要はない。むしろ、四十万人が神輿について走り回るようなものに参加すればよいであろう。加護があるかどうかは分からないが、おそらくあるであろう。なぜなら、鬼神でさえも縁のある者を護ることがあるからである。しかしここの「加護」とは何か。それは一時的で、その場限りのものである。永遠に護ることはできない。なぜなら、そのたびに新しい出来事が起こり、その都度求めなければ相手には分からないからである。ではなぜ仏法は外道と異なるのか。仏法は、生生世世からこの一世に至るまでの問題を根本から徹底的に解決するものであり、それを解決すれば未来世の問題はなくなるのである。最も重要なのは、この一生である。我々は誰一人として例外なく、必ず死に直面するのである。例外はない。
もし心の中に一つの依り所があり、死のときにはリンポチェが救い、助けてくれると知っていれば、恐れはなくなるのである。人生の中で恐れがなくなれば、目の前に起こるどのような出来事も、恐怖の心で処理するのではなく、物事を処理する理論によって解決するようになるのである。少し文芸的であるが。(大衆笑)皆理解できているか。私の言っていることは明確であるか。なぜなら、我々は毎日問題を解決しているが、その多くは恐怖の心によって行っている。最も深い恐怖は心の奥にある。自分に問うてみればよい。死を恐れない者がいるであろうか。しかし仏法はその恐怖を取り除くのである。最も恐れるべきものがなくなれば、人生で日々起こる出来事など、何を恐れる必要があるであろうか。向き合い、受け入れ、処理すればよいのであり、眉をひそめて日々を過ごす必要はないのである。リンポチェの立場から言えば、私は毎日、あなたたちが直面できない多くのことに向き合っているのである。
例えば苗栗で大雨が降ったとき、彼らは非常に緊張していたが、昨日「中に入る必要はない、問題ない」と私は言った。何故なら、すでに多くの対応をしていたからである。私が仏寺を建立する際には、建築士の定める基準を上回る仕様で建設する。屋根の排水能力についても平均値ではなく、その倍の能力を持たせるよう建築士に指示した。今回それが正しかったことが証明されたのである。そうでなければ仏寺は浸水していたであろう。(大衆拍手)なぜそれが分かるのか。それは単純なことである。衆生の寄付によって仏寺は建てられている。私自身も多くを出しているが、それでも私は必ず慎重に行う。なぜなら衆生のお金は簡単に得られるものではないからである。私はその仏寺を必ず守らなければならない。今回の大雨でも、仏寺そのものには問題がなかった。私は最初から地下室の対応方法も指示した。処理した場所は問題なかったが、処理しなかった場所は少し浸水した。これはつまり指示に従わなかったということである。ではなぜリンポチェの心は比較的清浄であり、物事が見通せるのか。それは死に対する恐怖がないからである。そのため、どのような出来事が起きても、その中の問題がどこにあるのかを見ることができるのである。
この観念はどこから来るのか。それは、リンポチェの恐怖心が非常に低いからであり、そのため物事を見る角度が他の人とは異なるのである。我々のように仏法を学び修行する者は、あらゆる事柄に対してより深い見方を持つようになる。どのようなことに対しても目を曇らされることはない。一度よく考え、そこから問題の本質を見つけ出すのである。したがって仏法を学ぶことには多くの利益がある。それには恋愛でさえも利益がある。なぜなら、相手が何を企んでいるのかを見抜くことができ、その次の手も予測できるため、騙されることがなくなるからである。そうでなければ、甘い言葉に惑わされてしまうであろう。「甜言蜜語」という歌もあるが、私は歌が上手である。よし、今日はこれで。(大衆:リンポチェに感謝申し上げます)
2026 年 04 月 08 日 更新