尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年03月15日

リンポチェは法座に昇った後、六字大明咒を久しく持誦し、その慈悲の法音は虚空に遍満した。壇城は明るく輝き、香気はあまねく満ち、地はたびたび震動し、参会大衆は皆、全身に熱を覚えた。持咒の後、リンポチェはただちに施身法を修し、苦しむ衆生を済度した。
 
リンポチェは大衆に対し、救済を願う生者および亡者の名を三度唱えるよう指示された。その時、突如として冷風が幾重にも吹き寄せ、寒気が四方より襲来し、壇城はたちまち暗く光を失った。リンポチェは直ちに腿骨の法器を吹き鳴らし、その音は悲切にして深く長く響いた。リンポチェは平等なる慈悲の心をもって衆生を勾召し、済度を受けしめた。さらに大手印の禅定において、勝義菩提心をもって自らの血肉・骨をことごとく甘露と観じ、毫も余すことなく諸仏菩薩に供養し、六道一切の衆生に平等に布施された。

リンポチェが修法される際、法音は低くして雄渾に響き、威猛にして厳粛なる法相を顕現した。続いて六字大明咒を持誦するに及び、法音は悲切にして哀感に満ち、あたかも慈父が苦しむ子を撫で慰めるがごとくであった。リンポチェは衆生を憐れむがゆえに幾度も涙を流された。やがて持咒の節奏は次第に速まり、その一声一声が人心を深く摂した。参会大衆はただ一股の力が身心に貫入するを覚え、全身の脈輪が震動した。修法が円満に至る時、リンポチェおよび壇城は明るく輝き、空気中には妙なる香りが満ちあふれた。大衆はリンポチェが大悲心をもって切に衆生を救い、輪廻の苦海より抜け出さしめんとする恩徳に深く感謝し、思わず涙を流した。その後、リンポチェは弟子を導きアキ護法の儀軌を修し、さらに出家弟子に指示して大衆を率い、回向文を念誦させた。

リンポチェは貴重なる開示を賜った。

私は、来週の土曜日に仏寺において二日間修法し、その後閉関に入る。リンポチェが担当弟子に「今回は全部で何人か」と問うと、弟子は「三十人である」と答えた。三十人のうち、男性は出家者二名のみであり、在家の男性弟子は一人もいなかった。

なぜ不共四加行を修了してから閉関に入ることが求められるのか。それは、我々のいう閉関が、世間一般に想像されるように、ただ扉を閉ざしてひたすら読誦することではないからである。仏典には閉関の真義が説かれており、この生において修行成就の機縁を得た者は、必ず人群を離れ、都市を離れ、森林や洞窟において修行すべきであるとされる。ゆえにこそ、この仏寺が建立されたのである。法本および仏経の教えに基づき、私の願力は一切衆生を成仏へと導くことにある。したがって閉関はただの始まりに過ぎず、閉関すれば成仏できると考えるのは大きな誤解である。道はなお遥かに遠い。私から見れば、七日の閉関はあまりにも短い。しかし弟子たちにとっては、その七日間の閉関でさえ命懸けの修行となるのである。閉関とは、自らの福徳資糧を速やかに積み重ね、さらに修行を継続していくためのものであり、閉関によって別人へと変わることを目的とするものではない。

私のこの一生の修行を振り返れば、完全に閉関を中心としてきた。もしこれほど多くの閉関を経ていなければ、今日、仏法においてわずかながらも衆生を利益し、助ける力を持つことは不可能であった。寶吉祥仏寺の閉関センターの条件は、私がかつて閉関していた場所と比べれば、まさに六つ星の宿に等しいものである。もちろん、今回このような閉関が実現したのは、多くの衆生の努力と寄付によるものである。

したがって、今回閉関に参加する数十名の弟子は、決して驕ってはならない。自分はよく修めているからこそ閉関の機会を得たのだと思ってはならない。私は今回の閉関の様子を見て判断する。もし適さなければ淘汰することもある。一度閉関したからといって、次があるとは限らない。さまざまな修行の過程を経てこそ、はじめて自分が真に修行しているかどうかを知ることができるのであり、閉関の中でどれほど多くの咒を唱えたかによって成否が決まるわけではない。閉関とは、ただ一つのことに専念するだけでなく、最も重要なのは絶えず自らを省み、自分のどこが改められていないのか、どこに気づいていないのか、どれほど大きな誤りを犯しているのかを見極めることである。ひとたび閉関すれば、自己の姿は明らかになる。さもなければ、この凡俗の社会にあっては、誰もが自分こそ正しいと思い込んでしまう。ゆえに、いかなる成就者であっても必ず閉関を経るのであり、閉関なくして成就はあり得ない。

法王はすでに高齢にあられ、八十歳になられた今、三年の閉関に入られている。もちろん、法王の閉関のあり方はあなた方とは異なり、来世のための準備として行われているものである。その大願力は私とは比べものにならないほど偉大であり、なおこの五濁悪世に再び来て衆生を救済しようとされている。しかし私は、この一生が終われば再び来ることはない。ゆえに限られた時間の中で、わずかながらでも条件を備えた者に対して、できる限り機会を与え続けている。修行する意思のない者には、当然ながら閉関の機会は与えられない。寄付をしたからといって閉関できると思ってはならない。閉関は両刃の剣である。一方では、修行において理解を深め、わずかながらでも進歩する機会となるが、他方では、心構えが正しくなければ、閉関中に精神を乱したり、命を落とした例さえある。私はそれを実際に見聞してきた。では、なぜ不共四加行を修了しなければならないのか。それは、少なくとも不共四加行を実践しようとする意思があるからである。

昨日、二人の男性弟子が不共四加行を求めて来たが、私はこれを授けなかった。以前すでに一度断っており、それにもかかわらず、四、五か月も経ってから再び求めに来たからである。それはすなわち、彼らが多忙であるということであり、それほど忙しいのであれば、修行に入るべきではない。なぜなら、私が閉関に入ると言えば、彼らは必ずあれこれと思い悩むからである。閉関したいと思いながらも、休みが取れない、妻や子のことが気にかかる、手放すことができないなどと迷う。修行を志しながら、何一つ手放すことができないのであれば、臨終の時になってこそ知ることになるであろう。あらゆることに縛られ、安らかに死ぬことができず、多くの苦しみを経ることになるのである

今回の閉関は初めての試みであり、閉関に入ることができなかったからといって、修行ができないわけではない。これまで通り修行を続ければよく、より基本的な修行に専心し、しっかりと持咒すべきである。夢のような考えは捨てなければならない。不共四加行を修了すれば自分がよくなるなどと考える者が多いが、それは誤りである。そもそも、菩薩道を修める準備があるのか、菩薩道を修める条件を備えているのか、その体力があるのか、その心があるのか、自らに問うべきである。もしそれらがなければ、何一つ手放せず、何一つ見抜くことができないまま、不共四加行を修して何になるのか。私はこれまでも繰り返し説いてきたが、仏経には六字大明咒はあらゆる咒の王であると説かれている。また、ある修行者の例も説かれている。その者はすでに出家し、菩薩の境地に至っていたが、それでもなお六字大明咒を求め、在家にあってこの咒を成就した者を訪ね、多くの差し入れを携えて教えを請うたのである。

あなた方の心は貪りに満ち、六字大明咒を軽んじている。中には失望したと感じ、「ただ持咒するだけだ」と思う者もいる。今、私の手元には六字大明咒の法本が四つある。そのうち三つはすでに伝えたが、一つはまだ伝えていない。すでに伝えたもののうち、二つは十数人ほどしか授かっていないはずであるが、そうであろうか。(答え:はい、二十四名のみである。)なぜあなた方に授けないのか、自らよく考えるがよい。私はこれほど多くの法を備えている以上、本来は伝えていかなければならない。しかし、なぜ伝えることができないのか、その理由を自ら省みるべきである。

たとえば昨日のあの二人の男性弟子である。前回、私は法を授けず、彼らを断ったが、四か月も経ってからようやく再び求めに来た。私は言った、「あなた方は忙しいのだろう」と。これまでも灌頂や伝法のたびに、法を大切にし、仏法を学ぶ機会を得たならば、必ずこれを惜しむことなく、決して先延ばしにしてはならないと説いてきた。彼らは四か月待った。すなわち四か月分、仏法を学ぶ機会を失ったことになる。この理屈は明らかである。彼らが急がないのであれば、私もまた急ぐ必要はない。私はかつて、仏経の中で普賢菩薩が説かれた言葉について話したことがある。学仏の心は何のごとしであるのか。(出家弟子答:「救頭燃」です)髪の毛に火がついたならば、人はどうするであろうか。ところが男性の弟子たちは皆、まったく急がない。頭に火をつけてみればどうなるか、試してみるべきであろうか。四か月も経ってからようやく求めに来るとは、その厚顔さには驚かざるを得ない。なぜ授けなかったのか。それは彼らが忙しいからである。四か月とは、ひと月を四週とすれば十六回の機会があったにもかかわらず、一度も来なかったということである。自分の都合がよい時を待つばかりである。しかも昨日は、たまたま私にも時間がなかった。気分の問題ではなく、本当に時間がなかったのである。ゆえに法を伝えることはしなかった。

今、私の手元は多くの事務に占められている。閉関に入るにあたり、数多くの準備と手配を行わなければならないからである。あなた方は、申し込みさえすれば閉関に参加できると思っているかもしれないが、その背後には多くの作業があることを知らない。ハード面では施設の整備や改修、ソフト面では何をどのように用意するかなど、すべて整えなければならない。あなた方はいわば大切に扱われる存在であり、用意しているのは六つ星の宿に等しい環境での閉関である。ゆえに、この機会を必ず大切にしなければならない。もう一度言う。七日間の閉関を経験したからといって、自分が特別になったとか、すでに何かを学び得たなどと思ってはならない。その道はなお遥かに遠い。私自身、これまでの閉関は常に一か月以上に及ぶものであった。今回は彼らのために七日間としたに過ぎない。本来であれば七日間では足りず、まるで隔靴掻痒(靴の上からかゆい足を掻く)のようで、到底十分とは言えないのである。

私は弟子たちに、よく考えるよう望む。不共四加行を学ぶ資格がないのであれば、持咒を毎日ただ一千遍、二千遍と唱えるだけでよいのか、自ら問うべきである。自分は忙しいと思ってはならない。とりわけ、自ら忙しいと言い立てる男性たちを、私は最も好ましく思わない。いったい何がそれほど忙しいのか。ひと月にどれほどの収入を得ているというのか、それほどまでに忙しくする必要があるのか。私自身はさらに忙しい。三十名のための閉関を準備するために、法本を整え、数多くの儀軌を準備し、あらゆる手配を行ってきた。実のところ、一年前からすでに準備を始めていたのである。彼らが閉関することによって、私に何か利益があるのかといえば、何もない。ただ自らの約束を果たしているに過ぎない。言い換えれば、三十名に対して、いわばやむを得ず閉関の機会を与えているのである。本来、私の基準から見れば、彼らは合格には達していない。しかし現状を鑑み、ひとまずこのような形で行うこととしたのである。

つまり、もし持咒をしっかりと修しているのであれば、いずれ閉関に入る機会を得ることもあり得るのであって、必ずしも不共四加行を学ばなければならないわけではない。そもそも、自らが金剛乗の器でないのであれば、不共四加行を求めるべきではない。では、金剛乗の器とは何か。それは、上師に殴られようと、叱られようと、蹴られようと、決して怒りを生じない者である。ところがあの男性たちは、面子を重んじすぎる。いったん断られると、四か月も経ってからようやく再び求めに来る。私が怒りを収め、すでに忘れているとでも思ったのであろう。本来であれば、毎週のように求めに来るべきである。しかし彼らはそうしない。なぜなら、自らの負担を計算しているからである。毎週求めに来れば、それだけ供養も重なり、十六回ともなれば相当な額になる。それゆえに来ないのである。したがって、私は法を伝えない。あなた方は自分の金銭を計算するが、私もまたそれを見ているのである。中には、女性の弟子で七度、八度と繰り返し求め続けた者もおり、そのような者には私は伝えた。私は女性の粘り強さのほうが勝っていると感じている。ゆえに、女性を軽んじてはならないのである。(大衆笑)

今日、私はニュースを見ていたが、ある女性が路上で口論となり、車を降りるや否や、一方の手に銃を持ち、もう一方の手に警棒を携えていた。その気性の激しさには驚かざるを得ない。ゆえに今は、女性を軽々しく怒らせてはならないのである。私は女性に対しては、比較的多くの機会を与えている。一方で男性に対しては遠慮しない。もし争おうというのであれば、来ればよい。
しかし、あのような男性は見たことがない。四か月も経ってからようやく求めに来て、しかも控えめに様子をうかがいながら機会を探る。そのような態度では、機会を与えることはできない。機会を大切にしないからである。私も男性であり、あなた方も同じく男性である。なぜ私にはできて、あなた方にはできないのか。あなた方は、私がリンポチェだからだと言うかもしれない。しかし、かつての私はリンポチェではなく、一人の信者として修行を始めたのである。私とあなた方の違いは、私は命を惜しまない者であり、あなた方は命を惜しむ者であるという点にある。
命を惜しまないとは何か。それは、仏法が必ず衆生に利益をもたらすと確信し、他のすべてを捨ててもなお、学仏を第一とすることである。ところが多くの者は、休暇を取りすぎれば職を失うのではないか、年末の賞与が減るのではないかと心配する。そのように心配するのであれば、無理に求める必要はない。私はあなた方を追い出すことはしない。したがって、持咒をしっかりと続ければよいのである。 

私は今、七十九歳である。不共四加行を授けたとしても、あなた方は一年に一つの修法をこなすのがやっとであり、すべてを終えるには四年を要する。四年後には、私はすでに八十三、八十四歳になっている。その時に、なおあなた方に付き合う時間があると思うのか。先日もある者が、大礼拝を授かったにもかかわらず、一日に三百回しか行わないと言った。私は、それならばやめたほうがよいと告げた。一か月で九千回に過ぎず、すべてを終えるには一年以上かかる。百字明にしても同様に一年を要するであろう。あなた方は少なくとも四年はかかる計算になる。苦を恐れ、痛みを恐れるのであれば、不共四加行を求めるべきではない。これは男性に限らず、女性であっても同じである。これを学べば自分が優れた存在になると思ってはならない。そのようなことは決してない。金剛乗の心を持たず、菩薩道を修める覚悟がなければ、不共四加行を得たとしても何の役にも立たない。ただ来世の福報となるに過ぎないのであり、現世においては時間と労力を浪費するだけである。自らに問うべきである。なぜ不共四加行を求めるのか。「不共」とは何を意味するのか。それは公開されず、共に修することのない法門であるということである。誰もが仏法を学びたいと願えば教えられるようなものではない。これは金剛乗においてのみ修される法であり、小乗や大乗では伝えられない。ゆえに「不共四加行」と称するのである。これに対して「共四加行」という法もあり、これは小乗・大乗・金剛乗のいずれにおいても聞き、修することができるものである。

「不共」とは、ただ金剛乗においてのみ聞き、修することが許される法である。したがって、あなた方の心が堅固でなければ、私はこれを授けない。休暇を取ることを恐れ、職を失うことを恐れ、身体の苦を恐れ、少し多く修する時間さえ持てないのであれば、それはすでに金剛乗の修行ではない。その場でこのように言えば面子を失うであろうから、あえて公にして語るのである。男性の弟子たちは、金剛乗を修する資格を備えていない。静かに六字大明咒を唱えるべきである。あなた方は皆、命を惜しみ、収入を失うことを恐れ、職を失うことを恐れ、住宅ローンの支払いができなくなることを恐れている。そのような心では、上師を真に信じているとは言えない。もちろん、私はあなた方にそれを強いることはできない。あなた方は私と同じようにはできないからである。かつて法王が私に閉関を命じられた時、私は何も顧みることなく、何一つ手配することもなく、そのまま閉関に入ったのである。 

六字大明咒を持誦する功徳は、この一生において三悪道に堕ちないことが確かであるという点にある。ただそれだけである。六字大明咒を唱えればすぐに成仏できるなどと望んではならない。閉関を経なければ成就は不可能である。三悪道に堕ちないということ自体、すでに極めて難しいことであり、百人いれば、その多くは死後に三悪道へと堕ちていくのである。今日、ここにいる千人余りの者が仏法を学ぶ機会を得ている。私は日々の願力をもって、あなた方が三悪道に堕ちないよう助けたいと願っている。しかし、それはあなた方自身が実行しなければならない。怠ってはならない。とりわけ男性の弟子たちは、苦を恐れ、痛みを恐れ、財を失うことを恐れ、命を惜しむ。そのようであれば、最も適した法門は六字大明咒を持誦することである。一万遍、二万遍と唱えても苦痛はない。大礼拝や百字明、曼荼羅供養とは異なり、また上師相応法ともまったく異なるものである。かつて、ある弟子が上師相応法を修しきれなかったことがあった。それは上師に対する恭敬の心が欠けていたからである。その者は、法本さえあれば文字を見て修行できると思い込んでいた。しかし、私が加持しなければ成就することはない。私はあえて成就させなかった。その者は損得を計算していたからである。私は商いに携わってきた者であり、そのような計算はよく見抜いているのである。

今日、あらかじめ伝えておくが、来週の法会が終わった後、私は一週間の閉関に入る。なぜこれまで繰り返し、リンポチェは常にいると思ってはならないと説いてきたのか。それは、この二週間で2回の土曜日に、あなた方は私に会うことができなくなるということである。リンポチェはまだ生きているのだから、いつでも会えるなどと思ってはならない。もしさらに閉関に入れば、三週間は会えないことになる。ゆえに、これまで教えてきたことを、よく心に留めなければならない。私があなた方を叱っているとか、冗談で言っているなどと思ってはならない。私に残された時間は多くない。語れることはできる限り語っている。聞くかどうか、改めるかどうかは、すべてあなた方自身の選択であり、三悪道に堕ちるかどうかもまた、あなた方自身の選択である。私の法本があなた方の手に渡っていない以上、ただその程度に持咒するだけで浄土に至ることは容易ではない。しかし、少なくとも三悪道に堕ちることはない。私は法座にあってこの言葉を明言する。あなた方が毎日しっかりと持咒するならば、たとえ私がこの世を去った後であっても、決して三悪道に堕ちることはない。しかし、これも修さず、あれも修さないのであれば、どうなるのか。自分は修行していると思い込んではならない。確かに、仏門に帰依していない者に比べれば、多少はましであろう。しかし、帰依したからといって三悪道に堕ちないとは限らない。出家者であっても、なお三悪道に堕ちることがある。中国には「地獄の門前には僧道多し」という言葉がある。出家者や道士であっても、地獄の門前に列をなして入ろうとする者が多いのである。

寶吉祥がこの五濁悪世において一つの仏寺を建立することができたのは、修行者自身の大願力、伝承の大願力、そして根本上師の大願力によるものである。決して資金があるだけで成し遂げられるものではない。建立の過程においては、あなた方には知ることも、体会することもできない数多くの障碍と困難に直面した。もし諸仏菩薩、上師、そして伝承の加持がなければ、この仏寺が建立されることは決してなかったのである。

あなた方が直貢噶舉・寶吉祥の門下に身を置いているのは、累世にわたって自ら修してきた福報によるものである。しかし、福報があるからといって、必ずしも修行が成就するとは限らない。ただ善き因縁を得たに過ぎないのであり、その因縁を確実に捉え、真に決意して実践しなければならない。試しにやってみる、聞いてみる、様子を見てみるといった態度であってはならない。リンポチェが何を言うかを見てから決めるのではなく、すべては自らの決断にかかっている。法王が私に閉関を命じられたとき、それに従うかどうかを決めたのは私自身である。もしそのとき、「申し訳ありません、休暇が取れません」「商売の手配がまだ整っていません」「閉関に入れば妻に離縁されてしまいます」と言うこともできたであろう。そう言うこと自体は可能である。しかし私は、たとえそうなっても構わないと思ったのである。(大衆笑)あなた方にはそのような覚悟がない。私はそれを持っている。なぜその覚悟があるのか。それは、父が亡くなるとき、いかなる方法もまったく助けにはならず、ただ仏法のみが亡者を救うことができると、身をもって知ったからである。
 
ゆえに私は、この一生において決して仏法を手放すことはない。それは単に手放さないということではなく、仏法を自らの生命よりもさらに重要なものとしているということである。仏法がなければ、多くの衆生は苦海の中で輪廻し続けるほかない。あなた方はすでに帰依しており、私は絶えず仏法を伝えている。ゆえに自らこれを大切にしなければならない。法本を手に入れ、毎日ただ読誦していればそれが修行であると思ってはならない。それは修行ではない。修行とは、輪廻をもたらす自らの行為を改めることである。あなた方はその行為を改めているであろうか。法を求めるにあたってすら、恭敬の心を持たず、数か月も経ってからようやく来る。そこには必ず多くの理由があるであろう。しかし、法を大切にしなければ、法を得ることはできない。かつて法王が書かれた一枚の紙、一言の言葉であっても、私は今に至るまで大切に保っている。仏法を学ぶことが日常生活を妨げることはない。もし真に決意するならば、いかなる障碍や困難も乗り越えることができる。すべては自らに決意があるかどうかにかかっている。もし決意がなければ、業の流れに従って流され続け、ついには引き返すこともできなくなるのである。

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2026 年 03 月 18 日 更新