尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年02月07日

2026年2月7日、開山住持上師である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において、「聖緑度母四曼達供奉儀軌」の法会を自ら主法され、台湾および一切衆生の祈願を執り行われた。リンポチェは昨日、ご帰国されたにも関わらず、本日も休むことなく聖緑度母の法会を修持され、自身の修行によって得られた功徳と福報を、参加者一同に惜しみなく授けられた。

法会の中で、リンポチェは古く荘厳な緑度母の聖像を手に取り、緑度母の心咒を誦して衆生を加持された。慈悲の法音は虚空に満ち渡り、香り高い妙香が漂い、地はたびたび震え、暖かい流れが直に心へと届いた。参加者たちは皆、身体が熱くなるのを感じ、煩悩がしばし鎮まり、リンポチェが衆生を利益する大悲の誓願力を深く体感した。

リンポチェは慈悲深く、参加者に対して《二十一度母礼讃文》・《二十一度母功徳利益文》・《二十一度母簡軌祈請文》の念誦を賜り、さらに熱心に勧められた。すなわち、殺生を避けて菜食を守り、貪欲を遠ざけ、法会に参加する貴重な縁を大切にし、具徳ある上師に帰依して仏法を学び修行することで、輪廻の苦しみから解脱するように、ということである。法会が円満に成就する直前、リンポチェは特に参加者に次のように注意を促された。まもなく到来する動乱の年にあたっては、慎重さを保ち、怒りを制し、際分をわきまえて身を正しく守り、学んできた仏法を日常生活の中で実践するように、ということである。

本日は寒さが増す中、リンポチェは慈悲深く衆生を護念され、弟子や信衆の健康を心に留められた。法会の休憩時間には、特に参加者に温かい黒豆茶とぬるま湯を提供され、喉を潤し、身体を温められた。上師のこうした慈悲深い配慮に、参加者一同は深く感謝の念を抱いた。

午前9時25分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、幡・幢・出家衆・八供女・宝傘・楽器・薫香が先導のもと迎請され、花びらが敷き詰められた八吉祥の白い絨毯の上を進み、仏寺の大殿へと入場された。参会大衆は迎請の荘厳なる楽音の中、合掌して粛立し、恭しくリンポチェの法座への昇座をお迎えした。リンポチェは壇城に上がり、諸仏菩薩に頂礼し、灯明を点して仏に捧げ、さらに四臂観音菩薩および緑度母の聖像に向かって一礼された。たちまち観音の聖像から光明が放たれ、リンポチェの衆生を救う慈悲の力が諸仏菩薩と完全に相応していることが示された。

リンポチェが法座に昇った後、出家衆に指示して参会大衆を率い、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請および『八聖吉祥祈祷文』を念誦させた。続いて慈悲をもって貴重なる仏法の開示をいただいた。

本日は『聖緑度母四曼荼供奉儀軌』を修する。緑度母は、観世音菩薩が輪廻の世において衆生の絶え間ない苦しみを見て、慈悲より流された二粒の涙のうちの一粒から現れた存在である。一粒は緑度母となり、もう一粒は白度母となった。度母と菩薩にはどのような違いがあるのか。度母も菩薩の果位にあるが、度母は世間法において衆生に多くの助けを与え、菩薩は出世法においてより大きな利益をもたらす存在である。したがって、緑度母を修すれば、世の事柄において助けを得ることができ、さらに転化させる機会を得ることができる。

多くの人は、法会に参加することについて、参加したい時に来ればよく、そうでなければ次回の法会に来ればよいと考えている。昨年12月、私はすでにすべての信衆および弟子に対し、本年この緑度母法会が行われることを告げ、さらに幾度も、申し込みをした信衆に欠席しないよう注意した。なぜなら、補欠として待っている者が多いからである。ところが、本日もなお十数名の申込者が出席しなかった。これを彼らだけのせいにすることはできない。彼らの信心が十分でなく、法会への参加を単なる「参加する」ことだと考え、参加後は自分とは関係がないと思っているからである。それは誤りである。私の修行経験によれば、法会に参加することは、上師および本尊があなたのために福報を積み重ねてくださる行為であり、その後は必ず自ら修行しなければならない。もし法会への参加を単に拝みに来ることとしか考えないのであれば、全く無駄ではないが、多くの面では効果が及ばない。では何に対して有効か。それは、未来世において再び仏法を学ぶ機会を得る因縁を増すことである。

私が緑度母を修したきっかけは何か。それは、私は40歳以前に事業に失敗し、生活は極めて困窮し、食事の金がなく食事すらままならず、仕事もなかったことである。ある因縁のもと、この法本を得て、緑度母の修法を始めた。そして緑度母に対し、仕事を得させていただけるよう祈願し、もし仕事が得られたならば、最初の一か月の給料をすべて緑度母に供養すると誓願した。すると二か月後、実際に仕事を得ることができた。そこで、最初の一か月の給料を一銭も残さず、緑度母の聖像二万枚の印刷に充てた。今、壇城に掲げられているその一枚が、まさに当時印刷したものである。その後、私はさらに努力して修行した。それは、緑度母が私に仕事を見つけてくださったからではなく、緑度母への感謝のためである。仏経には、諸仏菩薩は衆生の貧苦を解決することができると説かれている。ゆえに、本日、申し込みながら来なかった十数名の信衆は、将来もし何か事があっても、仏菩薩や修行者の助けを得る因縁はおそらく得られないであろう。

困窮の苦しみが解消された後、私は諸仏菩薩がこの機会を与えてくださったことに、さらに深く感謝し、三十代から現在の七十九歳に至るまで、一度も途切れることなく、真剣に修行に励んできた。多くの信衆は、法会に参加すればすべてが整うと考え、その後は法会に参加する必要はないと思っているが、それは誤った認識である。法会に参加した後、仏菩薩は困難や障害を転じてくださるが、それはあなたの心を落ち着け、しっかり定め、真剣に仏法を学び、修行するためであり、この生において生死を解脱するためである。世間のあれこれも、過ぎ去るものである。私自身、三十代からこの法門を学び始め、今七十九歳になったが、その年月があっという間に過ぎたと感じている。

本日この法を修するのは、来年の馬年が非常に動乱の多い年になると予想されるためである。今年皆が法会に参加すれば、来年たとえ動乱があっても、その渦に巻き込まれずに済むであろう。来年は一年間、可能であれば菜食を貫くことが望ましい。自分の体調が悪いから肉を食べる、あるいは外出や付き合いで肉を食べなければならないといった言い訳をしてはならない。私自身、仏門に帰依して以来、多くの付き合いの場はあったが、一度も肉を口にしたことはない。もう言い訳をせず、自分が肉を好むのであれば、その事実を認めればいい。中には「密教では肉を食べてもよいのでは」と言う者もいる。確かに法本にはその記述があるが、それは無上瑜伽部に至る修行に限られる。ここでは無上瑜伽部の詳細については説明しない。無上瑜伽部まで修行できる上師は極めて少なく、私たち直貢噶舉の系統でも多くはない。無上瑜伽部に至る者は、すでに仏菩薩であり、分別心がない者のみがその資格を持つ。しかしそれでも、わざわざ肉を求めて食べるのではなく、手に入るものを口にするだけである。だから、密教だからといって自由に肉を食べてよいと考えてはならない。我々の祖師ジッテン・サムゴンは菜食を守り、私の世代においても、かつてのチベットの大成就者や大修行者は皆菜食であり、私の上師も菜食であった。したがって「密教だから肉を食べてよい」と言い訳する理由はない。法本にはそのようなことは書かれていないのである。

本日法会に参加した後、皆が来年一年間、あまり多くの不慮の出来事に見舞われることなく、平安に過ごせることを願う。たとえ何かが起こったとしても、必ず乗り越えることができ、越えられない障碍はない。私が菜食を勧めるのも、衆生と悪縁を結び続けないためである。「皆がそうしているから自分も」という考えで行ってはならない。仏経には明確に説かれている。もし畜生を屠れば、将来必ず刀兵の劫を受けると。刀兵の劫には二つの意味がある。一つは戦争、もう一つは刃物や鉄器によって命を落とすことである。例えば交通事故で亡くなることもこれに含まれる。たとえ命を落とさなくても、事故に遭うこと自体がこの範囲に入る。私が弘法を始めて以来、帰依した弟子が時折交通事故で負傷するのを見てきた。その因を観ずると、いずれも過去世における殺業が重いか、あるいは家系において殺業が重かったことによるものである。

本日皆が法会に参加するのは、単に加護を求めるためではなく、仏の説かれた通りに行うためである。時に私は疑問に思う。もし仏の教えを聞いても従わないのであれば、なぜ法会に参加するのか。法会に参加する意味はどこにあるのか。ただ加護を求めるだけであれば、今日のように早起きし、いくつもの交通手段を乗り継いでここまで来る必要はない。実際、法会を準備するには多くの人手、物資、財力が必要である。現在の台湾において、一度に1800人を同じ場所に集めて法会を行える所は、決してないわけではないが多くはない。しかも、これほど快適で、空調が整い、明るい照明があり、立派な建物の中で法会に参加できるというのは、皆が過去世において善を積み、法会に参加した因縁があったからである。その因縁によって、今生において再びここに来ることができたのである。せっかく再び来た以上は、この機会をしっかりと把握し、この一生において仏法を学ぶ決意を固めなければならない。

緑度母は、私たち人間界の多くの事柄を助けてくださる。例えば、子どもを求めれば授かることができ、商売をより良くしたいと願えば、それも求め得ることができる。修法に入る前に、かつて上師から次のように教えられた。法会に参加する者は、できる限り斎戒沐浴すべきである。「斎戒」とは菜食を守り、殺生をせず、男女の欲を断つことをいう。「沐浴」とは、法会の前に身体を清め、清潔な衣服に着替えて参加することである。また、酒を飲まず、肉を食してはならない。法会に参加する者にとって最も重要なのは、輪廻から出離したいという心を起こすことである。多くの人は法会に参加しても、この一生のことだけを求める。しかし、この一生に起こることはすべて過去世の行いの結果であり、ただ今生に現れているにすぎない。法会に参加することによって、あなた方に影響を及ぼしている悪しき力を一時的に止め、あるいは多少軽減することはできる。しかし、それらの出来事を消し去るためではない。それは、あなた方の心を静め、仏法を学び、修行する時間を得させるためである。私たちが仏法を学ぶのは、この一生のためではない。最も重要なのは、この一生が終わった後、再び輪廻しないことである。多くの人は自分が輪廻するとは信じないが、私は保証書を書いてもよい。もし仏法を修せず、学ばなければ、必ず輪廻する。

輪廻は必ずしも人間として生まれるとは限らない。例えば、私たちのこの仏寺は深い山中にあるため、多くの衆生がいる。一か月余り前、大殿や観音殿の前で動物や昆虫が死んでいた。ある者が適当な場所を見つけて埋めてしまったが、私はそれを叱った。衆生もまた命である。どうして死骸をぞんざいに扱ってよいのか。必ずきちんと処理し、さらに私が持する真言を流して聞かせなければならない。不思議なことに、毎日十数匹から二十匹ほどが出てきて死んでいる。本来であれば、昆虫や動物は森の中や草むらで死ぬはずであり、わざわざ明るい場所まで出てくることはない。しかし今は、毎日のように現れているのである。

衆生でさえ、仏法が自分たちに利益をもたらすことを知っているのに、ましてや人間である皆さんがそれを知らないのはなぜか。それは、自分は人間だから偉い、できると思っているからである。だが私は皆に告げる。あなた方も昆虫や鳥、カエルと同じで、いつか必ず死ぬ。私自身も含め、ここに座る1800人の誰一人、この生で死を免れる者はいない。では、私たちはなぜ修行するのか。それは、死が訪れたとき、自分一人で向き合えるように、準備をするためである。法会に参加する信衆の中には、家族を亡くした経験がある者もいるであろう。医者がいかに優秀であっても、あなた方がどれほど泣き、どれほど祈っても、家族が亡くなる前、一人きりで死亡の過程とその苦しみに向き合わなければならない。仏菩薩と上師以外に、誰も助けることはできないのである。

本日皆が法会に参加するのは、この言葉が示す通り、輪廻から出離したい心と菩提心を生じさせるためである。菩提心を発することは容易ではないが、まずその心を思い起こさなければならない。では菩提心とは何か。それは、仏法を学び、衆生を助けようとする心である。あなた方は今はまだ実践していなくても、まずその心を意識することが大切である。その上で、今日修法する本尊である緑度母、そして上師に帰依するのである。帰依とは、単に帰依証を一枚もらうことではなく、今日この法会の時間の間、この上師と本尊に頼って助けてもらうことである。だからこそ、完全に帰依しなければならない。単「この上師は何をするのか」と様子を見るのは誤りである。

「発心」とは菩提心を発することであり、あなたがいくらお金を出したかではない。本当の意味で発心しているのは、私たちの寶吉祥仏寺である。私たちはこの仏寺を建てるために多くの費用をかけたが、それは名誉や利益のためではなく、衆生を救うためである。今日皆が法会に参加するにあたり、送迎バスで上までお連れしているが、もし私の事業体に旅行会社がなければ、このような車は手配できなかったであろう。現在台湾中で観光バスが不足しており、旅行会社でなければ相手は商売に応じず、料金も非常に高額になる。さらに、私が仏寺を建てて以来、近隣住民と良好な関係を築き、常に利益を施してきたため、トラブルも起こらない。加えて、本日午後2時に法会が終了した後、皆が龍昇村で弁当を受け取ることができるのも、私が日頃から多くの支援をしてきたからである。今回の法会の執り行いには、多くの弟子たちが自費で、ボランティアとして手伝ってくれている。彼らは自分の交通費も負担し、皆のために多くの仕事をしてくれているのである。

この後、薈供を行う。薈供とは諸仏菩薩への供養であり、またその供物は参加者に配られる。一回の薈供には四十数万元がかかる。私たちは簡単に済ませたり、粗末な物を買うこともできた。しかし、なぜ日本食品を用意したかというと、私が初めて薈供を行ったとき、供物として買ったものはすべて不適切で、着色料や防腐剤が含まれ、場合によっては期限切れのものさえあったからである。仏菩薩に粗末なものを供えるわけにはいかない。だから私は発心してこの事業を行い、最高の食材を手に入れ、仏菩薩に供養することを決めたのである。仏菩薩は食べ物の良し悪しを気にすることはない。たとえ毒が含まれていても、それは善い食べ物に変わる。しかし、供養する者の心が最も重要である。安易に手に取ったものを供えるのは正しくないのである。

皆さんが法会に参加する心構えは、自分で正す必要がある。法会に来るのは単に拝むためでも、好奇心で「この人は何ができるのか」と見に来るためでもない。私は何でもできる。死者を済度することもできる。他に私にできないことがあろうか。だから、このような好奇心を持って法会に来てはならない。あなた方が心を静めれば、本日私が修する法は、必ず皆さんに利益をもたらすであろう。

リンポチェは修法を開始し、その後、参加者に《二十一度母礼讚文》を取り出すよう指示された。まず私が一度唱え、その後で皆さんも唱える。法本は手に持っても、最初は開かないこと。

リンポチェは自ら《二十一度母礼讚文》を唱え、左手で鈴を振り、右手に緑度母の聖像を持ち、頭上にかざして加持を行った後、開示を行われた。

二十一度母は緑度母の眷属であり、私たちが人間界で遭遇するさまざまな苦しみを消し去る助けをしてくださる。例えば、ある度母は悪夢を消すことができる。不吉な夢を見るということは、累世の冤親債主や祖先が三悪道におり、あなたに債務を清算させようとしていることを意味する。医学的に見れば、長期間悪夢を見ることは心の健康に良くない。仏法的に言えば、心に悪念が強いために悪夢が絶えず現れるのである。悪夢を頻繁に見ると、意念も悪に傾きやすくなり、自然に不運に遭遇したり、自分が悪いことをしても気づかないことさえある。

現在の台湾は非常に乱れており、多くの人が人として考えられない行為を行っている。もし仏法を学ばなければ、その渦に巻き込まれることになる。仏の教えに従って生きなければ、肉体は人間であっても、その心はもはや人間ではない。ニュースで報道される事件を見れば、信じがたい出来事ばかりで、人間として考えられない行為が行われている。父母や子どもを殺す事件を見るたびに、私は深く悲しむ。その悲しみの理由は、なぜ人が仏法を学ばず、地獄に堕ち、永遠に救われない行いをしてしまうかことにある。このような悪習の根本は何か。それは、長年にわたる殺生や肉食により、心の中に悪の念が蓄積されていくことである。悪の力が十分に蓄積されると、悪事を行うようになるのである。いくつかの法本には、年を取ると認知症になる人や、発狂する人がいると書かれているが、これは鬼衆の仕業である。どんな鬼衆かというと、かつてあなたが食べた衆生の霊である。

先ほど私は一度読み上げ、二十一度母にあなたたちを助けてくださるよう祈請した。これからは私の出家弟子があなたたちを率いて、もう一度唱える。私の手に持っているのは非常に古い緑度母像で、二十数年前に私がチベットへ行った際、ある上師から授かったものだ。あなたたちが唱えている間、私は真言を唱えて加持する。

リンポチェは衆を率いる出家弟子に指示し、参会者全員で『二十一度母礼讃文』を念誦させた。同時にリンポチェは緑度母の聖像を手にし、真言を唱えて大衆を加持された。

リンポチェは修法の過程で、左手に鈴を振り、右手に緑度母の聖像を持ち、真言を唱えて衆生を加持し、その後、緑度母の聖像を頭上に置かれた。続いて金剛杵を用いて衆生を加持し続けられた。

リンポチェは修法後に、次のように指示された。『二十一度母礼讃文』は通常七遍唱えるものだが、いまはまだ五遍足りない。彼らを率いて唱えなさい。出家衆は引き続き大衆を率いて『二十一度母礼讃文』を念誦し、リンポチェは真言を唱えて加持を続けられた。リンポチェの真言の法音は絶えることなく響き、その御身と壇城は金色の光に満ち、参会者は皆、心身が熱くなるのを感じ、ある者は妙なる香りが漂うのを覚え、ある者は大地の震動を感じた。その加持力はきわめて殊勝であった。

続いてリンポチェは『二十一度母功徳利益文』を一遍念誦して修法を行い、その後、出家衆に指示して参会者全員で『二十一度母功徳利益文』を五遍念誦させ、絶えず緑度母の聖像を手に真言を唱えて衆生を加持し続けられた。

リンポチェは修法後、次のように開示された。

この『二十一度母功徳利益文』は非常に霊験あらたかなものであるが、冒頭の二句がきわめて重要である。「若有智者勤精進。至心頌此二十一」とある。「智者」とは、聡明で有能な人のことではなく、仏門に帰依し、戒を守り修行する者のことである。もし一度だけ法会に来ただけであれば、決して智者ではない。「勤精進」とは、勤勉であること。たとえば閉関するなど修行に関わることに勤勉であることを指す。「精進」とは多くのことをする意味ではなく、要となるところにおいて絶えず努力し続けることである。「至心」とは真誠で偽りがなく、貪・瞋・痴・慢・疑のない心である。真心からこの功徳利益文を唱えれば、必ず相応する。もし相応しないのであれば、文が誤っているのではなく、自身が誤っているのである。なぜなら最初の一句の条件を満たしていないからである。

今日あなたたちを率いて唱えたのは、深い縁を結ばせるためであり、いつの日か目覚め、仏法を学ぶべきであると知ることを願っているからである。そのとき、この文は役に立つのである。もし日々なお迷いのまま自分の人生を送るのであれば、もちろん人生を生きること自体は必要である。『宝積経』にも明確に説かれているとおり、菩薩道を修める者も一般の人と同じように日常を生きる。ただし心が異なるのである。仏を学ぶことが生活に影響を与えるのではない。異なるのは心である。異なるとは、心の色が赤から他の色に変わるという意味ではなく、心構えや念が凡夫と異なるということである。そのようであってこそ修法は効力を持つのである。さもなければ、毎日唱えても無用であり、人天の福報を積むだけで、この生では用いることができず、来世になって初めて用いることになるのである。

この法本はこの生で用いることができるものであるが、この二句を必ず実行しなければならない。「若有智者」とあるが、自らに問うべきである。自分はそれに当てはまるか。もしそうでないのであれば、ただ自分で唱えればよく、何かを求めるべきではない。私は緑度母の修法において多くの相応を得たのである。先ほど自らの例を挙げたのも、相応したからである。あなたたちが相応しないのは、この一句を実行していないからである。私は貧しく、食べる金もなかったときであっても、諸仏菩薩の前の香・果物・生花を欠かすことはなく、必ず先に供養したのである。しかしあなたたちは、まず自らの腹を満たしてから仏を顧みる。世間の人としては誤りではないが、修行者としては誤りである。

世間の人の立場から言えば、金を稼ぐことは重要である。稼がなければ、どうやって生活するのか、ということである。しかし私は仏菩薩を信じている。観世音菩薩の経典にも説かれているが、至誠をもって信じ、観世音菩薩の法門を修するならば、観世音菩薩は決して住む家がなく、食べる物がなく、着る衣がないという状態にさせることはない。私はそれを信じている。ゆえに実行してきたのである。私は家賃や水道光熱費を払う金がなく、二日に一度弁当を一つ食べるだけでも生活してきた。それでも生きてこられたのである。私の貧困は仏菩薩が霊験あらたかでないからではない。それは自らの業である。どのような業か。過去世において布施供養を惜しみ、さらには慳貪であり、余った金でようやく布施供養をした、その業である。これはあなたたちにそのように布施供養せよと勧めているのではない。ただ自らの例をもって伝えているのである。仏菩薩や上師と相応したいのであれば、必ず仏経や法本に説かれているとおりに実行しなければならない。言うことを聞かずして求めても得られないのである。私はあなたたちと同じ在家の身であり、出家者でもなければ転世者でもない。この一生において修してきたのである。ゆえに私はよく知っている。あなたたちの語る苦しみは、すべて経験してきたのである。私ははっきりと知っている。仏菩薩は至誠をもって修行する者を必ず助ける。在家であるという理由で助けないことはない。ただし条件がある。至誠に修行することである。先に述べたとおり、法会に来るのも、至誠の発心をもって輪廻の苦から解脱しようと願うためである。そのようであれば、あらゆる法はあなたと相応するのである。

釈迦牟尼仏が世に出て仏法を弘めたのは、ただ一つの大事のためである。すなわち、衆生にいかにして輪廻の苦海を離れるかを教えるためである。もし私たちがこの修し方に従わないのであれば、どうして仏菩薩の心と相応することができようか。ゆえに仏教の法もまた、私たちと相応しないのである。たとえばこの法本には、財を求めれば財を得させ、何を求めても助けることができると説かれている。しかしその条件は、冒頭の一句にある。すなわち「智者勤精進」である。

この法会を開催するに当たり、私は繰り返し皆に告げてきた。申し込んだ以上は必ず来なさい。来られないのであれば早めに知らせなさい。まだ多くの人が(補欠として)順番を待っているからである。それでもなお十数名が来なかった。理由が何であれ、ただあなたたちに伝えておきたいのは、福報がなければ、来ようと思っても来られないことである。発心がなければ、来ようとしても来られない。ただ見に来たいという気持ちだけでも来られない。私の護法が自然にそれを遮るのである。なぜなら、この道場は名のためでも利のためでもないからである。ここは清修のための仏寺である。現在、閉関の条件はすでに成熟し、これから閉関に入るのである。法会を開催するのは、あなたたちが上師や教派、仏菩薩と縁を結ぶのを助けるためである。一度来ればすべての問題が解決すると思ってはならない。そのように安易なことはない。もしそれで済むのであれば、私が真っ先に修行する必要はないのである。

リンポチェは修法が円満に終わった後、次のように開示された。今日は修法が速すぎた(一同笑)。午後は薈供を行い、本尊の真言を唱える段取りとなっている。本尊の真言は非常に重要である。私たちが閉関する際も、本尊真言の念誦を主としている。いまから四十五分休憩とする。(休憩時間に)、ゆっくり歩くといい。走ってはならない。何故なら、あなたたちは今朝すでに時間どおりに到着しているのだから、もしトイレに行って戻るのが間に合わなくても、走って戻る必要はない。もし転んだら、私はとても心が痛む。だからゆっくり歩きなさい。(大衆は「ありがとうございます、リンポチェ」)リンポチェは十一時四十五分に再び法座に上がって修法を行う。遅れて入ってきても歓迎する。走らず、急がず、歩くときは足元をよく見て歩きなさい。

正午十一時四十分、寶吉祥仏寺開山住持上師である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、経幡、出家衆、八供女、宝傘、楽器、薫香の先導および迎請のもと、生花が撒かれた八吉祥の白い絨毯の上を進み、大殿に入り壇城へと歩み上がり、法座に登られた。

リンポチェはマンダラ供養の儀軌を行うよう指示された。リンポチェはガムポパ法帽を着け、出家弟子衆および八供女が衆生を代表して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダラ供養を捧げた。

続いて薈供と供茶の儀軌が行われ、参会者はリンポチェによって加持された供物を受け取り、法会の中で上師や仏菩薩と共に食するという、きわめて貴重で殊勝な因縁を得た。リンポチェは、大衆に供物を受け取ったら少し食べ、残りは家に持ち帰るよう指示された。

リンポチェは修法を続けた後、次のように開示された。この儀軌は顕教にはなく、密教にのみあるもので、「薈供」「茶供」と呼ばれる。「薈供」とは、真言を唱えて加持することによって、普通の食物を甘露に変えることである。甘露は、私たちが累世に犯した身・口・意の悪業や、修行を妨げる障害を清める力を持つ。仏経や法本にも記されているとおり、仏菩薩や上師と共に食物を享受できることは、非常に大きな福報であり、また大きな供養である。薈供とは、私たちが修行を通じて諸仏菩薩、本尊、護法、上師に供養するだけでなく、同時に上師や諸仏菩薩、本尊、護法と共に甘露を享受することである。これにより、将来、浄土においても、諸仏菩薩や上師と共に受用する因縁を植え付けることになる。

先ほど皆に少し食物を出してもらったのは、現場にいる人だけでなく、外にも多くの衆生がいるからである。ゆえに、外の衆生にも布施供養を行い、彼らを満たすことで、将来私たちの修行に障害が生じないようにするのである。薈供は修行において非常に重要である。福報がなければ仏法を学ぶことも修することもできないからである。そのため私たちは、さまざまな供養や布施の方法を通じて、できる限り早く自らの福報を積むのである。薈供は、皆の将来の仏法学修や修行の福報を積むものである。もし長期にわたり薈供の儀式に参加すれば、生々世々において飢えや食物の不足といった苦しみを免れるのである。

リンポチェは修法後、しばらくの間、緑度母本尊の真言を持誦された。その後、自ら参会者を率いて『二十一度母簡軌祈請文』を念誦させ、同時に緑度母本尊の真言を持誦させた。

リンポチェは参会者を率いて緑度母の真言を持誦した後、こう問われた。「疲れていないか。」(大衆「疲れていません」)「では、唱えるのが遅すぎる。もう一度唱えよう。もっと速く唱えなさい!」(大衆「はい」)

リンポチェは再び参会者を率いてしばらくの間、緑度母の真言を持誦させた後、次のように開示された。「よいではないか、まだ続けて唱えられる。体力もなかなかある。よい、残りは私が唱えるから、あなたたちは聞いていなさい。」

リンポチェが緑度母の真言を持誦する際、左手に緑度母の聖像を持ち、しばらくの間、衆生を加持し続けられた。リンポチェの慈悲に満ちた法音は虚空に遍満し、地はしばしば震え、妙なる香りが漂った。温かい流れが頭頂から心に入り、雑念は煙のように消え去った。大殿は華光に満ち、荘厳であった。

続いてリンポチェは開示された。「体は熱くなっていますか。」(大衆「なっています」)「とても熱いですか。」(大衆「とても熱いです」)「熱を発するマシンはここにある」(リンポチェは自分を指して)「皆に熱を与えているのだ。」しばらくして、大衆は答えた。「ありがとうございます、リンポチェ。」「反応が遅いな。今になって感謝するとは、皆もう年を取ったな!」(一同笑)

先ほど皆は600遍唱え、私は1100遍唱えた。今日は1800人が一緒に600遍唱えたので、600遍×1800人で、ほぼ100万遍になる。つまり、今日皆が共にこの緑度母の真言を修した場合、もし全員の心が同じで、先に述べたように輪廻からの解脱や菩提心のために行っていれば、この100万遍の真言の功徳を皆で分かち合うことになる。もし先ほどの真言の持誦を、自分のため、息子のため、夫のためだけに行っていたなら、功徳は一人分にしかならないのである。

私は事前に触れずに、事後に話すようにした。なぜなら、皆は普段、自分の夫や息子、妻のために唱えることに慣れているからである。最初にしっかり告げたではないか、輪廻から解脱する決心を立て、菩提心を発するように、と。(大衆「はい」)では、なぜ言うことを聞かないのか。悪い習慣がまた出てきた。法本に書かれていることには必ず理由がある。今、皆は仏菩薩や上師の修法を聞きに来ているのである。人間的な思いをいったん置き、そんなに自分勝手にならないことができるか。皆は600遍を唱えるだけでとても大変だと思っているが、私は1000遍唱えても速く終わる。皆は私の口がほとんど動いていないのを見ればわかるであろう。私は今日で79歳であり、その前にもすでに1000遍唱えているのである。私の1000遍の功徳は、皆の100万遍に匹敵するのである。ではなぜ法会に参加するのか。それは、家では皆、修し得ないからである。それに、100万遍を唱える機会を持てようか。持てないであろう。仮に私たちが緑度母100万遍の閉関を行うとすれば、一日中唱え続けても、最低15日間、人に会わず、話もせずに過ごさなければならない。皆にそんな時間があろうか。不可能である。たとえ時間があっても、そんな忍耐力を持つか。これも不可能である。なぜなら閉関の訓練をしていないからである。ゆえに、皆は今日のこの因縁と機会を大切にしなければならないのである。

なぜ12月にこの法会の準備に取り掛かった時に、私は何度も皆に繰り返し告げたか。それは、申し込んだら必ず来ること、来られないなら早めに知らせること、最後の最後になって来られないと言うのは良くない、ということである。なぜなら、皆が約束したのは私や仏菩薩にではなく、自分の冤親債主に対してである。だから先ほど皆にこの真言を唱えさせたのも、真言を持誦する際の心構えがどこにあるべきかを感じさせるためである。私は79歳であるが、朝から今まで唱え続けている。実際には昨日、日本から戻ったばかりであり、今日すぐに法座に上がって法会を始めたのである。

今日、皆がこの法会に参加するという福徳因縁を得たことは、決して容易でもなく、簡単でもない。なぜなら、私は宣伝をしておらず、ウェブサイトにも法会の日程や自由参加のことは一切書いていないからである。すべては、皆が偶然聞いて参加しただけである。では、なぜ参加しようと思ったのか。それは累世の福徳因縁によるものである。私たちは「隔陰迷」という仏教用語にあるように、一世を隔てて生まれ変わると、過去のことを忘れてしまうのである。今日、リンポチェは皆のこの因縁を再び引き出した。まるでその情報をコンピューターに埋め込んでおき、呼び出していなかったものを、今呼び出したかのようである。だから今日、皆を率いて真言を持誦させたのは、諸仏菩薩の慈悲心を少しでも体得させるためである。

皆は決心しなければならない。人生は短く、ほんの一瞬で過ぎ去るものである。私自身、まさか79歳になったとは思わなかった。光陰は一瞬で過ぎ去るのである。人生で仏法に接する機会を得られるのは、決して偶然や運が良いからではない。それらはすべて過去世の因縁によるものである。その因縁が再び訪れたとき、決してそれを無駄にしてはならない。いわゆる「惜縁」とは、仏法を学ぶ機会という縁を大切にすることである。決して、すでにお腹がいっぱいなのに食物を食べきらないことを「惜縁しない」とするのは間違いであり、仏経もそのようには説いていない。人のいい加減な話を聞いてはならない。「惜縁」とは、仏法を学ぶ機会の縁を大切にすることであり、「惜福」とは、この法会に参加するという福報を大切にすることである。

結局のところ、今朝突然来なかった十数名のせいで、補欠者が参加できなくなったのである。これ、自分勝手だと思わないか。私たちは誰も無理やりここに来させたわけではない。すべて自発的な参加である。自発的に来るのなら、少しは道徳心を持たなければならない。来られないのなら構わない。しかし、その場合は事前に知らせて、後ろの補欠者に順番を回すべきである。補欠者はおよそ70名いたが、彼らも朝になって急に現れず、事前に連絡もしなかったため、後ろの人は繰り上がることができなかった。それもまた補欠者の縁である。もし早めに知らせていれば、繰り上がることができたのかもしれない。

今日、皆に真言を持誦させたのは、皆が緑度母と非常に深い縁を結ぶことを願ってのことである。今後はこの縁を大切にし、仏が教えられた通りに人生を歩むべきである。先ほど、寿命や財を増やすことについて話した。そんな好条件、どこで手に入るのか。真言を唱えるだけで寿命や財が増えるのか。それはリンポチェが皆のために助けているからである。(大衆一斉に「ありがとうございます、リンポチェ」)皆は普段修行していない。もし数百遍唱えるだけで寿命や財が増えるのなら、私がまず手を挙げて法王に抗議し、「こんなに苦労して修行する必要がない」と言うであろう。法本には確かに書かれており、実際に可能である。しかし、それには適切な儀軌をもって行う必要がある。先ほども供養を行い、懺悔をし、さまざまな儀軌を経てから本尊の真言を持誦することで、この力は現れるのである。ゆえに、後ほど再び皆を率いて唱えるのである。

リンポチェは参会者を率いて『二十一度母簡軌祈請文』を念誦させ、次のように開示された。

「度母よ、私の苦しみを理解し、加持してください」と、ここで明確にしておくが、結婚相手が見つからない苦しみや、離婚できない苦しみ、子どもが勉強しない苦しみは含まれない。この「苦しみ」とは、輪廻の苦しみ、仏法を学ぶ障害、学ぶことを妨げる苦しみ、そして人間の八苦や生老病死の苦である。人生では必ず老い、病み、死ぬ。しかし、この法門を修すれば、老いるのが比較的遅くなる。例えば私、リンポチェは79歳だが、同年齢の人より老いるのが遅い。それは本尊と相応しているからであり、老いの苦を減らすことができたのである。皆も見ているであろう、私の男弟子たちは白髪で背を曲げて歩いている。これはどうしてか。決して私が特別に保養しているからではない。ただし、私は保養もしている。だが、最も重要なのは、本尊が私を護ってくださっていることである。私の求めることはすべて相応している。それは、私が輪廻から解脱する決心を立てたからである。これこそ私の最大の苦しみであった。なぜ私の病が少なく、老いの進行が遅いのか。それは、人が病気や老いに倒れると、修行する力が自然に足りなくなるからである。一日中寝ていては修行できようがないであろう。老いて、話す力もなくなったらどうやって修行できるか。皆も見ているように、私は今も叱っている(一同笑)。だからこそ、必ず相応しているのである。

再びはっきり言っておく。夫や妻、子どもが言うことを聞かないことや、ローンを払う金がないことは、この範囲には入らない。だから、どれだけ唱えても助けてもらえないと思わないことである。食事に困るほどの貧乏なら助けてくださるが、ここにいる皆さんはいずれも以前の私ほどの貧しさには至っていない。この「苦しみ」の本質は、輪廻の苦しみ、仏法を学ぼうとする際の障害の苦、人間の八苦――生老病死の苦、求不得(願いが叶わない)、愛別離(愛する者と別れる)、怨憎会(嫌いで憎む相手と共にいる)、五蘊熾苦(眼・耳・鼻・舌・身の強い欲望による苦)――である。これら八苦は誰にでもある。これらの苦しみは、累世の自らの業によって生じるものである。私たちは仏法を学び修行することで、この一生の中で八苦の力を減らし、場合によっては気にならなくすることができる。特に老いることは避けられない。年齢に関わらず、老いは必ず訪れるのである。だから、仏法を学ぶときは、仏法の本当の意味を理解しなければならない。目先の小さな利益を求めるためではない。それなら、仏菩薩でなくても、縁のある神に願えば解決できるかもしれない。しかし、それ以外の問題が生じる可能性もある。本当に解決すべき苦しみは、輪廻の苦である。輪廻を避けるために、この一生、人としての行いを減らし、菩薩の行いを学ぶことで、輪廻に戻る機会は次第に少なくなるのである。

讓我遠離悲傷與恐懼(悲しみと恐怖から遠ざけてください)」。この二句もまた、輪廻の苦を指している。もしこの人が一生のうちに仏法に触れず、学ばず、帰依せず、上師の加護も受けていなければ、死の前には非常に悲しみ、恐怖することになる。なぜなら、この生で死に関する学問や経験がなく、死のときにどうなるかを知らないからである。死が訪れたとき、未来がどうなるかわからないため恐怖するのである。特に、因果や業力を信じない者は非常に恐れる。これは仏経にも説かれている。私は衆生のために済度を行っており、加持を受けていない衆生がどれほど恐怖するかをよく知っている。だから「讓我遠離悲傷與恐懼(悲しみと恐怖から遠ざけてください)」と唱えるのである。前に述べたように、緑度母本尊を修すれば、浄土に至ることができる、阿弥陀仏のもとに行くことも可能である。なぜなら緑度母は観世音菩薩の涙であるから。また、観音菩薩はどなたの弟子かと言えば、阿弥陀仏のである。順に繋がって理解するとよい。必ずしも阿弥陀仏の名を唱えなければ浄土に行けないわけではない。緑度母を修すれば同様に浄土に至ることができる。多くの人は「阿弥陀仏を修すべきだ」と言うが、実際には阿弥陀仏に関わる本尊を修すれば浄土に行くことができるのである。

「願我迅速以此善、成就聖度母尊、一切衆生盡無餘、悉皆安置彼佛地」。この四句は、まさに菩提心について説いている。「願我迅速以此善」とは、私が修行し仏法を学ぶこの善によって、速やかに聖度母尊を成就することを願うという意味である。ここでいう「成就」とは、自分が聖度母になるということではなく、身・口・意で行うすべての行為や思考が緑度母と同じということである。「一切衆生盡無餘」とは、すべての有情衆生がその仏土に生まれることを願うことであり、これこそ菩提心である。菩提心は口で唱えるだけではなく、実際に心と行いで示さなければならない。菩提心には世俗菩提心と勝義菩提心がある。世俗菩提心は修習によって身につくものであり、勝義菩提心は本性を開発した後に自然に現れるものである。皆がこの儀軌を念誦することは、いつの日か生死を完全に解脱し、再び輪廻することのない境地に至るための助けとなるのである。(大衆「ありがとうございます、リンポチェ」)

お礼を言う必要はない。皆は自分の努力に頼るべきである。私に法を伝えてもらったことに感謝することはできるが、努力しなければ、私もどうすることもできない。だからこそ、地蔵菩薩は「地獄不空誓不成佛(地獄が空になるまで、成仏せずに衆生を救うことを誓います)」と言ったのである。地獄は決して空にならない。なぜなら、多くの衆生は因果を信じず、仏を信じず、業力を信じず、多くの悪業を行うから、必ず地獄に落ちるのである。地蔵王菩薩が「大願地蔵王菩薩」と呼ばれるのは、彼の願力があまりにも大きいからである。例えば釈迦牟尼仏も言われた、彼でも衆生をすべて度しきれない、と。縁のない者は度しきれないのである。例えば、法会に参加するために申し込んだのに、今朝突然十数名が来なかった場合、私が度しようとしても度せない。それは縁がないからである。同様に、家族に仏法を学ばせたいと思っても、彼らが学ばなければ度せない。それも縁がないからである。

私の経験を話そう。私は在家修行者であり、子どももいる。しかし、私の子どもたちは仏法を学ばない。だからと言って、私は彼らに怒ったり、毎日無理に学ばせようと機会を作ったりはしない。縁がないからである。彼らとは父子、父女の縁しかなく、仏法の縁はない。私がいくらリンポチェとして尊い立場にあっても、無理に仏法を学ばせることはできない。ただ、例えば肉を食べないようにするなど、最低限できることはある。それは変えられるが、仏法を学ぶかどうかは本人次第である。多くの人は、家族に仏法を学ばせようとして家庭がめちゃくちゃになったり、「絶対に学べ、学ばないならこうなる」と言ったりする。そういうことを言ってはいけない。それを言う資格はない。そういう言葉は「呪い」となるからである。あなたは上師ではないので、仏法を説くことはできない。しかし、勧めることはできる。自分が手本になることで、相手に示すことができる。あなたが変われば、相手もその行いを見て変わる。今の私のように、私が変われば、子どもたちは自然に良くなり、少しは孝行にもなる。それは、私が身をもって示したからである。

親として、また子として、家族に仏法を学んでほしいと思うのはよい。しかし、それは毎日回向することではない。法本にはっきりと、「すべての衆生」と書かれているが、あなたの父母だけではない。もし父母だけに回向して、他の衆生は無視するなら、それは菩提心がないということである。菩提心がなければ、すべての菩薩乗の仏法、大乗の仏法とは関係がなくなる。なぜなら、大乗や菩薩乗はまさにこのことを説いているからである。家族だけに回向するのは間違いではない、悪でもない。しかし、その心構えは十分に大きくないため、菩薩の行いを学ぶことはできない。よく聞くこと。私は皆に、仏寺を離れて家に帰ったあと、家族に笑顔を見せるよう望む。今日配られた供品を持ち帰る際、もし相手が自分の冤親債主だと思うなら、なおさら与えるべきである。それによって怨みを解消するのである。決して、「最も愛する人に食べさせて、もっと愛されよう」と考えてはいけない。愛してくれる人もまた、あなたの冤親債主である。

リンポチェは修法中、大衆に法本に従って念誦するよう指示された。

修法後、リンポチェは開示された:先ほど再び吉祥祈願文を読んだのは、この土地で仏法を学ぶ人々が速やかに二資糧を得られるようにとの願いであり、この土地に魔障や疫病、疾病などの災いが起こらず、非時の死や悪夢、不吉な兆しもなく、戦争もなく、正法が永遠に続くことを祈るためである。これらはすべて吉祥文である。実際にこの法本を修すると、貧困や疾病、戦争さえも平息する。なぜなら、長く修法を行うことで、この土地の福報が上がるし、悪いことが次第に減っていくからである。表面上は生死の解脱のために修行するが、修行中に福報と智慧が増すことで、多くの事が自然と不利から有利に変化する。それでは、護法を修めよう。

リンポチェは弟子たちを率い、アキ護法儀軌を修持された。続いて、リンポチェは武のアキ護法儀軌を修められる同時に、出家弟子に大衆を導き、回向文および尊勝なる直貢チェツァン法王、尊勝なるチョンツァン法王、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの長寿祈願文を読誦させた。

大衆が一度《求生極楽浄土祈請文》を読誦した後、リンポチェは言われた:「私にも一度、唱えさせて、思う存分味わわせてもらってもいいですか」(大衆:はい)ありがとう。

その後、リンポチェは《求生極楽浄土祈請文》を二度、《発菩提心》を三度読誦し、衆生が皆浄土に往生し輪廻を解脱できるよう懇切に祈られた。その声は時に詰まり、聴く者の心を打つほどであった。大修行者の願力が、会場にいるすべての人々に深く響いた。

修法が円満に終わると、リンポチェは開示された:今日は20分早く終わった。(大衆:ありがとうございます、リンポチェ!)今年、仏寺での最後の法会である。来年の午年は比較的動乱の年になるため、皆が法会に参加した後、来年が平安無事であること、どんな障害があっても克服できることを祈る。来年は変動が多い年なので、冒険的な行動や不明なことは避けるべきである。株や投機で儲けようとするのは大企業の話であり、我々庶民は安分守己に徹するべきである。たとえ偶然の利益があったとしても、他で損失が補われ、最終的には不利になることが多い。

来年は行動に慎重さをもち、気性を少し抑え、暴力的にならないことが重要である。皆が穏やかな心であれば、台湾では多くの不幸や戦争を避けられる。争いや奪い合いを好むと、必ず悪い結果を招く。先ほど読んだ浄土祈願文は、皆に浄土の尊さを体験させるためである。浄土往生を願う際、心は懇切でなければならず、ただ読むだけでは意味がない。真心をもって祈ってはじめて効力が現れる。

今日多くを語ったのは、皆と良い法縁を結ぶためであり、この法縁が継続することを願っている。人はこの世に生きる中で、借りを返すか、借りを請求するか、完全に順調に過ごすことはほとんどない。仏法を学ぶことは、次の生への備えであり、転ばぬ先の杖の行いである。この準備をしっかり行えば、人生の後半は徐々に順調になる。若い人が働き、財を成すことがダメとは言わないが、体力や能力を考慮すること。人が富むからといって、自分も必ず富むわけではない。特に台湾では詐欺グループが多く、騙される原因は貪欲である。たとえば、口座が凍結されると脅されて恐れるのは貪念の表れである。凍結なら凍結で、大した事ではない。恐れの心があるからこそ、それに引っかかるのである。来年は際分を弁え、際分に徹するべきである。今日は時間を少し早めた。もしまだ空腹でなければ、観音殿に行き、仏を拝みながら参拝するとよい。緑度母の本尊は観音殿にある。(大衆:ありがとうございます、リンポチェ)すべて吉祥!

法会の円満終了時、リンポチェが壇城を下りられると、前列の信衆が手持ちの手回し経輪を持って敬意を表して礼拝した。リンポチェはその経輪を手に取り数回回し、息を吹きかけて加持なされた。信衆は感謝の念を込めて長く跪き、リンポチェをお見送りした。大衆は法喜に満たされ、法会は荘厳で吉祥な雰囲気の中、円満に終了した。

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2026 年 02 月 10 日 更新