尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2026年1月4日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が法座に昇り、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十之二」を開示された。
経典曰く「又此一切有情。是名三摩呬多。心常平等。是名三摩呬多。意常平等。是名三摩呬多。善巧平等。是名三摩呬多。」
先週調べてもらった「三摩呬多」(samāhita/サマーヒタ)とは何を意味するのか。(弟子の報告によれば、「三摩呬多」とは、禅定を修する際に心を一つに集中し、定力によって身心の安穏と平等が生じることを指す。)定は戒から生じるものであり、定がなければ智慧は開かれない。ここでは一切平等について説いている。本来、衆生の仏性は平等であるが、定に至らなければ、平等心は修得できない。常に皆に対して、必ず五戒十善と『仏子行三十七頌』を修するよう勧めている。在家衆の生活には多くの誘惑や煩悩があるため、仏は戒を制定し、煩悩を減らす助けとし、さらには煩悩を菩提へと転じて修行できるようにしたのである。もし戒を守らず、善を行わず、『仏子行三十七頌』によって自己を省みようとしなければ、生々世々、永遠に輪廻から離れることはできない。
多くの人は自分がまだ若いのだから、まず友人を作り、仕事を探すべきだと考えている。私は常に皆に、なぜ仏門に帰依するのかと問いかけている。ジッテン・サムゴンは次のように明確に説かれている。仏菩薩は福を求めるための神ではない。仏菩薩が与える福とは修行を助けるものであり、あなた方の業力を変えるものではないのである。私は何度も述べてきたが、業は自らによって転じなければならない。仏菩薩ははっきりと次のように説かれている。縁のない者は度することができず、仏であっても一切の衆生を度し尽くすことはできず、また衆生の業力を転ずることもできないと。では、そうであるなら法会に参加する必要はないのか。そうではない。ある人は、仏寺に参拝すれば何でも得られると思い込んでいるが、もしそうであるなら、それは福を求めているとしか言いようがない。仏寺に参拝することで必ず護りはある。その護りとは、できるだけ早く仏門に帰依し、仏法を学ぶよう導くためのものである。
もし帰依した後も言うことを聞かず、五戒十善を修さず、依然として自分の生活のために誤った行いをするならば、累世の業を転ずることは絶対に不可能である。なぜリンポチェが「あなた方を救うのは一度だけだ」と常に説くのか。それは、あなた方が帰依弟子であるからこそ、一度は助けるのである。しかし、五戒十善や『仏子行三十七頌』を修さず、上師が伝えた法に耳を傾けなければ、あなた方の業は決して転じることができない。
ある弟子が上師相応法を求めてやって来た。何度も求められたが、私は与えなかった。昨日、出家弟子に上師相応法とは何かをその弟子に説明させたところ、弟子は話を聞き終えると立ち上がり、振り返って供養を手に取り、そのまま帰ってしまった。この弟子には、今後いかなる供養も許さず、仏寺に行くことも許可しない。なぜこれほど重大なのか。私は何度も繰り返し説いてきた。仏法を伝えられるのは上師のみであり、上師がいなければ仏法は存在しないと。彼はそれを聞き入れず、私が出家弟子に法を伝えさせているのだと思い込んだ。出家弟子もまた私から学んでいるのであり、私が説明せよと言わなければ、出家弟子が勝手に説明できるはずがない。彼はそのことを忘れ、自分はただ方法を聞きに来ただけだと思い、だから供養を持ち帰ったのである。修行者として細かく分析すれば、彼には上師に供養し、上師を尊重する心がなく、金銭で仏法を買おうとしていただけである。だから、誰が説いてもよいと思っているのだ。あなた方は皆、この過ちを犯している。
私は以前から何度も話している。法王猊下は電話を通じてチベット語で上師相応法を口伝したが、私には法本すら与えられなかった。それでも私は修得することができた。その拠り所は、上師を百分の百信じ、上師を尊重し、仏法において一切自分の考えを持たなかったことである。そうしてこそ、「定」が現れる。自分の考えが生じた瞬間、比較が始まる。例えば、ある弟子は週に一、二回しか『仏子行三十七頌』で自分を省みない。私は、毎日自分を省察するよう教えている。それを行おうとしないのは、上師を尊重していず、懈怠している証である。帰依の際にも説いた。上師が伝えた法を修しようとしないのは懈怠であり、懈怠に陥れば、上師はもはや加持せず、法も伝えない。あなた方は、それがそれほど重大だと思うのか。重大ではない。ただし、あなた方はこの一生において法を学ぶことができなくなるだけである。
昨日、別の弟子が母親の済度を求めに来た。以前、彼女の父親が往生した際、私は彼女に大礼拝をさせ、私が父親を済度した。彼女は今回も同じだと思っていた。私は、母親がこれまでに私に会いに来て求めたことがあるのかと尋ねたところ、母親は阿弥陀仏大超度法会に三回参加したことがあると答えた。それを聞いた時、私は彼女が私を尊重していないと分かった。私は十六年間、阿弥陀仏大法会を主催してきたが、参加すれば必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると言ったことがあるだろうか。(大衆一同:ない。)私は、阿弥陀仏と縁を結ばせると言っているだけであり、縁を結んだ後は自分で修行しなければならないと説いている。法会に来ても修行しないのに、どうして私が済度できるのか。あなた方は、阿弥陀仏を利用して冤親債主を済度してもらい、自分が楽に生きようとしているだけであり、それでは阿弥陀仏と縁がない。だから私は引き受けなかった。しかも、彼女の家族も求めに来ていない。毎回同じだと思ってはならない。これは書物でもなければ、方程式でもない。『宝積経』には、諸仏菩薩は衆生の業力と福報に応じて助けると説かれている。彼女の母親は仏を信じておらず、菜食もしておらず、ただ法会に参加して福報を求めただけである。そのような状態で、済度できるはずがない。彼女は、自分が翻訳をしているから重要な存在であり、私は情けをかけるべきだと思っているようだ。しかし、私はチベット語が分からなくても修行を成就してきた。翻訳など本当に必要だろうか。翻訳は、あなた方のためにしているのであって、私のためではない。今は誰かがチベット語を翻訳しているから、私が楽をしているのだと思わないでほしい。まったく楽ではない。翻訳が終わった後、私はただ唱える回数を増やすだけである。私は何十年も修行してきたが、今に至るまでチベット語を学んだことはない。かつて法王猊下にこのことをお伺いしたことがあるが、猊下は、私にはチベット語を学ぶ必要はないと言われた。それは、時間を無駄にせず、法を学び、仏法を弘揚することに専念せよという意味である。
この二つの話が示しているのは、仏経を聞かず、上師の説法も聞かず、自分たちのやり方で行えば、必ず壁にぶつかるということである。彼女は父親が済度された瑞相を見たのだから、家族によく伝えるべきであった。たとえ一、二度話して聞いてもらえなくても、いずれは聞いてもらえる時が来る。ところが彼女は面倒だとして話さず、自分は翻訳者なのだから、済度を求めに来れば上師は必ず引き受けてくれると思い込んでいた。『阿弥陀経』にははっきりと説かれているが、「少なからぬ福徳因縁を具えた善男子・善女人が発願してこそ往生できるのであり」と。しかし、あなた方はそれすら不要だと考えている。釈迦牟尼仏の説いたことを聞こうとしないのに、なお帰依弟子でいられるのか。私があなた方を諭すことは、すべて仏経に基づいている。『阿弥陀経』に説かれる「若一日、若二日、若三日」とは、ただ臨終が近い時の閉関の修し方を指すだけだと思ってはならない。釈迦牟尼仏はさほど詳しくは説明されていない。「若一念、若二念」とは、一つの念の中に阿弥陀仏しかない状態、すなわち定を指す。あなた方は定を修得しているのか。吸う息から吐く息へと移るその間に、ほかの念が入り込まない状態を「定」という。それができないのに、何をもって往生できるというのか。何をもって済度法を求められるというのか。済度は非常に複雑であり、名前を書けば必ず済度できるなどと思ってはならない。亡者に福報と因縁があるのか、求めに来る者に恭敬の心があるのかが問われる。昨日来た者には恭敬がなく、ただ跪いて求めさえすれば、必ず母親を済度してもらえると思い込んでいたのである。
『地蔵経』には、地蔵菩薩がどのように求めたかが説かれている。倒れるほど礼拝し、血を流すほどであったが、仏はただ地蔵菩薩に、母がどこに生まれるかを告げただけで、母を済度したわけではなかった。私は多くの済度法を学んできたからこそ、やむを得ずあなた方のために済度しているのであり、私がやるのが当然だと思ってはならない。名前を書き、黄色い紙を貼り、少し念じれば済度できるなどと思ってはならない。ここにいる出家弟子の一人は、以前、職業として人のために読経し済度を行っていた。一度に少なくとも二十三部のお経を読んでいたが、亡者が済度されていないことを彼女はよく分かっている。読み終えても遺体は依然として硬直し、黒ずんだままであった。私から行うと、そこまで時間をかける必要はなく、ポワ法を修すれば、長くても十分程度で、遺体にはすぐに瑞相が現れる。そのレベルに至ってもなお、あなた方は上師を信じず、自分の考えで法を求めている。これほどまでに語っても聞き入れないということは、私の業力が深く、業の重い弟子たちを一群として受け入れてしまったということである。法王は福報が大きく、私一人の弟子を取ればそれで十分であったのだ。
ここで繰り返し「三摩呬多」が出てくるのは、仏法修行において「定」がいかに重要かを示している。たとえ「定」が一瞬だけでも意味があり、往生の際には絶対に「定」が必要である。普段の生活が忙しく華やかで、思考が多い状態では、「定」は決して現れない。若者だからといっていつも出張や外出ばかりしている者がいるが、私も若い時期はあったが、あなた方ほど忙しくはなかった。「定」を修得できなければ、どの法門もあなた方には全く役に立たない。経典に説かれる「意平等」やさまざまな「平等」も、すべて「定」から生まれるものである。あなた方が言うことを聞かないのは、「定」を修していないからである。「定」は「戒」から生じる。戒を守らなければ、「定」は自然に現れず、智慧をもって物事を進めることはできない。その結果、あらゆる事柄を人としての意識によって是非判断するだけになり、それはもはや仏法ではない。
仏は特に「定」という語ではなく、「三摩呬多」という専門用語を用いている。それは、この語が多くの意味を包含しているからである。「三摩呬多」に修し至ったとき、この種の「定」は、仏法を学ぶうえで必要とされる一切の根本条件と要件を開くことができる。「定」がなければ、何も成り立たない。理解すべきは、この定は外道の「定」ではないということである。外道の定とは、心をある一つの対象に置き続けることである。例えば、私がかつて見たインド教の修行法の写真では、片手を上げたまま下ろさず、最終的に腕全体が硬直し、その姿勢のまま固まっていた。これも一種の定ではあるが、生死の解脱にも、智慧を開くことにも何の役にも立たない。
仏法における「定」とは、妄念を起こさせないことである。念が全くない状態や、すべての動作が止まることを意味するのではない。修行で「定」に至ったとき、悪の作用は働かず、善の念は一つの位置に「定」まって絶えず積み重なるのである。「定」を修さなければ、どんな仏法も身につかない。例えば、ある高齢の女性はひたすら念仏を唱えているが、妄念がなく、死を意識して死ぬまで修行しているため、もしかすると若い人より「定」をよく修しているかもしれない。何も考えず、ただ修行に専念しているのである。一方、自分はこうすれば将来有望だと思い込む忙しく走り回る若者がいるが、それは絶対に「定」を修得できない。その結果、自己を放縦し、言動において上師を尊重せず、日常生活の習慣や会話の中でも軽率な態度を取るようになる。本人は面白く振る舞い、人との距離を縮めているつもりでも、他人から見れば、まさに当地で「瘋婆子」と呼ばれるような、常軌を逸した女性と同じように受け取られてしまう。
「定」に到達した者がいると、その定力によって、周囲の落ち着きのない心も自然に落ち着く。まさに、皆がリンポチェの高座での法話中に心を定めているのは、私自身が「定」の中にあるためであり、皆の妄念は自然に抑えられ、安定した心で法を聞くことができるのである。しかし、普段の生活で戒を守らず、自分の楽しさだけを追い求めている者は、お経や真言を唱え、道場に行くときだけ戒を守る。そのような状態では「定」は現れず、永遠に「平等」を得ることはできない。もう一つの観点として、「分別心がない」ことが重要であることも挙げられる。学仏者にとって、最も避けなければならないのは分別心である。「分別心がなければ、生活できるのだろうか」と考える人もいるかもしれない。確かに誰もが日常生活では、「この食べ物が好き、あの食べ物は嫌い」と判断している。しかし、分別心がないということは、人の善を受け入れ、悪を拒絶する、といった見方をしないことである。善だから付き合い、悪だから地獄に落ちるだろうと考えるのは、まさに分別心の現れである。実際には、善悪はすべて有漏であり、輪廻の中にある。平等とは、仏法の立場から衆生の本性がすべて清浄であると見ることである。貪・嗔・痴・慢・疑によって、その清浄な本性が覆われ、悪をなすのである。
最近、若い弟子の中には、メッセージで他人を迷惑させる者が出てきた。女性がそのメッセージを受け取り、不審者に狙われたのではないかと考えて、警察に通報した。世間の法で見れば、両者に明確な是非はなく、君子は相手を求めるのが自然であり、男性が女性を追うのも普通である。しかし、女性が見知らぬメッセージを受けて恐怖心を抱くのも事実である。科学が進化し、ソーシャルメディアなどが増えることにつれ、このような問題はますます多くなる。その責任は、こうしたソーシャルメディアを好んで使う自分たちにある。私自身は使用しないため、煩わしい問題が少ない。私が使うのは自分のメールだけで、他のスマートフォン機能はほとんど使わず、ソーシャルメディアにも参加しない。すでに一部の先進国では、未成年者のソーシャルメディア利用を禁止している。理由は、その影響が深刻であると知っているからである。ニュースでは、70歳の高齢女性がソーシャルメディアで恋愛し、相手に騙されて送金し、家を買わせた例も報道されている。
上師は、この二人の弟子の件には関与しない。両者とも、明らかに五戒十善を修しておらず、そのためにトラブルを招いたのである。彼らは自ら進んで上師に伺いを立てることもせず、自分のやり方で解決しようとした。その結果、多くの後遺症を残し、果報によって自らが懲らしめられることになる。男子が数行の文字を書いただけで問題はないと思ってはならず、また女子が警察に通報して自分を守ったから問題はないと思ってもならない。双方の間にはすでに怨が結ばれており、必ず果報がある。因果を恐れないのであれば、仏法を学ぶ必要がどこにあるのか。かつてリンポチェが交通事故に遭った際、ある者がテレビ局で私を攻撃したことがあった。そのとき私は皆に、反撃するなと話したではないか。(大衆:はい。)また、私が成仏したなら、最初にその人を度すると言ったではないか。(大衆:はい。)
リンポチェは叱責した。「あなたはまだ私の弟子か? 娘が自分を守ったのが正しいと思っているのか。」弟子は答えた。「弟子、間違えました。」リンポチェは言った。「間違いだなどと言うな。あなた方は間違っていない。間違っているのは私だ。あなた方をきちんと教えられなかったのは私の責任である。これほど多くの私自身の話をしてきたのに、なぜ聞き入れず、物事が自分に降りかかると対処法が変わってしまうのか。あなたが一番苦しい時、誰が助けてくれたのか。」弟子は答えた。「リンポチェです。」リンポチェはさらに続けた。「今、子どもたちは大きくなった。しかしだからといって、何をしても自由だと思っていいわけではない。女の子にとって最も大切なのは端正さである。端正でなければ、このような事態を招くのは当然である。私と話すときも軽薄で、外で悪いことを覚え、少額のお金を稼いだ代わりに、多くの悪知恵を身につけた。それでも、自分は賢いと思い込んでいる。」
経典曰く「意中極深平等。是名三摩呬多。」
「意中」の話をしよう。私たちの身・口・意のうち、「意」はすべてを含む。話す前、動作を起こす前に「意」がなければ、何もできない。たとえAIであっても「意」はある。AIの「意」は、私たちが入力したデータによって成り立つ。では、私たちの「意」はどこから来るのか。それは生々世々の善悪の業というデータからである。私たちは阿頼耶識の中に、これまでの生涯で行ったこと、見聞きしたことなど、多くのデータを蓄積している。だから私は皆に、あまり多くのソーシャルメディアを使うなと言ってきた。それらは過剰なデータを集め、それがあなたの「意」に影響し、入力されてしまう恐れがあるからである。「意」を平等にするためには、必ず「三摩呬多」を修行しなければならない。「三摩呬多」を修せなければ、「意」の平等は不可能である。
特に「意中極深平等」という点が重要である。通常、私たちは表面的な「意」で動いているが、深層にはさらに深い「意」が存在する。意識心理学でいう潜在意識にあたるものであり、仏法では「意中」と呼ばれる深層の「意」である。この深層の「意」は、普段は意識されず、使われることもなく、発動する因縁がなければ現われない。つまり、誰もこの「意」を呼び出さなければ、動かないのである。日常生活では、眼・耳・鼻・舌・身の感覚に従って行動するが、それらを駆使する者こそ「意」であり、「意」が指揮する役割を果たす。しかし、眼・耳・鼻・舌・身は深層の「意」に関与しない場合、深層の「意」は出動しない。言い換えれば、阿頼耶識というデータベースから引き出されていないということである。この甚深の「意」を修行によって現すためには、必ず「定」から修める必要がある。深い「意」に到達したとき、自分がなぜ間違ったのか、どこで誤ったのかをはっきりと見極めることができる。その上で、平等な心をもって、自分の身に起きるあらゆる出来事に対処できるのである。
平等の心とは何か。今日、自分が被害を受けるのは、過去に他人を害したからである。以前、私が交通事故に遭ったのも、間違いなく過去世においてその相手に借りがあったからである。あれほど多くの車がある中で、なぜその人とぶつかったのか。もし甚深なる「意」を修得していなければ、平等心は現れない。その場合、あなた方のようにやり返し、報復し、事をさらに大きくしてしまう。しかし、「意平等」を修し得たからこそ、問題がどこにあるのかをはっきりと見ることができるのである。
経典曰く「布施平等。是名三摩呬多。」
なぜ昨日、私が出家弟子に、法を求めたその弟子の前で説明させたとき、法を求めたその弟子はすぐに供養を持ち去ったのか。それは、布施の心が平等でなかったからである。もし彼に平等な布施心があれば、布施や供養は自分の福報を積むためであり、その福報を使って仏法を修行することが目的であると理解できる。しかし、彼の場合は布施や供養を“物の売買のように交換するもの”だと考えたため、上師が法を伝えないと思うや否や、供養を持ち去ったのである。彼は、「自分が緊張していたので、リンポチェが立つように言ったから立った」と説明することもできるだろう。しかし、リンポチェは「供養を持ち去れ」とは言っていない。では、なぜ彼はその点を考えなかったのか。それは、彼の布施心が毎回「何か見返りがほしい」と思いことに支配されていたからである。
仏法には「無相布施」という教えがある。出家弟子が答えた:「三輪体空、我もなく、物もなく、他もない。」しかし、彼の布施は三輪体空ではなく、供養すればリンポチェが自分の願いを叶えてくれると思っているものであった。そのため、ほんの少し思い通りにならないことがあると、布施のことを忘れ、供養を取り下げてしまったのである。あなた方も同じである。平時には三宝殿に参拝せず、困ったときだけ供養や布施をしに来る。
「平等布施」は非常に重要である。なぜなら、平等布施を理解して初めて、法布施や無畏布施のやり方も分かるからである。以前、私が昆明へ行ったときのことを話したように、飛行機の中で、キリスト教の老夫婦を安心させたことがあったが、これこそが「平等布施」であり、無畏布施の一例である。もし私に平等心がなく、「私は上師だ、仏教徒だ、だから必ず仏法を説かねばならない」と執着していたなら、相手の恐怖は消えず、平等布施にはならなかったであろう。私が布施したのは、彼らの恐怖心を取り除くためであり、「我」という存在はなく、相手の安心が最も重要である。用いた方法によって彼らの恐怖心はすぐに静まったが、これこそが「定」の力である。「定」がなければ、絶対にできないことである。では、なぜあの女の子は、自分に恐怖を与えるメッセージを受け取った途端、すぐ警察に通報したのか。それは、自分が傷つくのを恐れ、物事を見極めたり、考えたりせず、リンポチェに伺いを立てることもしなかったからである。その心の中にリンポチェがいなかったのである。彼女の家族全員は私が救ったが、彼女自身は私を利用したに過ぎない。私は皆に利用されても構わないが、そのことを理解する必要がある。
経典曰く「持戒平等。是名三摩呬多。」
「持戒平等」の話をしよう。持戒は、罰を恐れて守るものでも、リンポチェに追い出されるのを恐れて守るものでもない。持戒の目的は、自らの福報を積み、一切の悪を断ち、一切の善を修することである。そうして初めて、平等の福報が現れ、仏法を学び、修行する基盤ができるのである。持戒は自分の地位や身分を保つためではない。わざと持戒するように見せ、周囲から清浄だと尊敬されようとする者もいるかもしれない。しかし、それは持戒の本意ではない。持戒の本来の目的は「定」を生み出すことである。したがって、持戒の平等心とは、ただひたすら平等に持戒することである。人に褒められたいと他人の評価を求めず、持戒することで大きな福報を得て悪いことを避け、良いことを得たいという見返りも一切期待しない。そうした心は、もはや平等心ではないのである。
「持戒」とは、仏弟子である以上、必ず行うべきことである。例えるなら、私たちが国民として国家の法律を守るのが義務であるのと同じである。「持戒」もこれと同じ意味で、必ず行わなければならない。身分や地位のために行うのではなく、仏門に帰依し、弟子である以上、持戒して平等心を修めることが求められるのである。では、なぜあの男性はメッセージで他人に迷惑をかけたのか。それは、彼に平等心がなく、自分の手が届く範囲で相手を選んで苛めようとしたからである。そのため、この男性は寶吉祥弟子専用のベストを返却すべきであり、以降は信者としてのみ扱われるべきである。
仏弟子である以上、どんな理由があっても、自分のせいで他人に恐怖心を与えてはならない。私たちは出家者ではないから、当然欲望はある。しかし、欲望は正常か正常でないかで判断するのではなく、五戒の基準で見なければならない。私は弟子が帰依するとき、必ず五戒を授け、「守ることができるか」と確認している。皆は「できる」と答えたのであれば、必ず守らなければならない。もし破戒するなら、寶吉祥弟子のベストは返却するほかにない。
そんなに軽い話ではない。非常に深刻である。仏経には、文字によって他人に恐怖心を与えたり、淫心を起こさせたりするものは、その文字がこの世に存在する限り、地獄に堕ちると説かれている。特に現代はデータがクラウドに保存されるため、文字は消えることはない。皆さん、彼はもう終わりではないか。彼は「大したことはない」と思い込み、自分と相手に限る内容で、ただ文字を送っただけだと考えているかもしれない。しかし、クラウドに残る限り、それは消えない。もし彼が丁寧に書くなら、例えば、「友達になれませんか?自分は醜いし金もないけれど、本当に友達になれたら嬉しい」といった内容であれば、相手は恐怖心を抱かないだろう。しかし、彼が書いた内容は「あなたは私のことを無視する」といったものであり、明らかに脅迫や恐喝の性質を持っている。
私たちの道場は、社会の縮図である。あらゆることが起こるが、関わるのはすべて仏弟子である。リンポチェは名前を公開しないのは、私が誹謗していると言われないためである。だから私たちは、「布施平等,是名三摩呬多。持戒平等,是名三摩呬多」と修行しなければならない。先ほど持戒の話をしたが、この二人が問題を起こしたのは、持戒を守っていなかったからである。しかし、彼らはリンポチェの門下に帰依していたため、事態は自然に解決した。もし帰依していなければ、事態はさらに大きくなっていただろう。
経典曰く「忍辱平等。是名三摩呬多。」
「忍辱」の法門は修行が難しい。忍辱とは、誰かに殴られたり罵られたりしても怒らない、ということだけではない。むしろ、あらゆる誘惑に直面したときに、それを平等に見る心を持つことをいう。では、なぜあの男の子はメッセージで女の子を追いかけたのか。それは、忍の心がないからである。もし忍があれば、正直に女の子の両親に「友達になりたい」と申し出て、許可を得ればよいだけである。しかし、彼はこそこそ行動した。だから改めて言う。ソーシャルメディアを使ってメッセージを送るな。理由はこうだ:ソーシャルメディアでは相手がどう反応するかわからない。無視されるかもしれないし、通報されるかもしれない。もし電話で連絡して相手が出なかったり電話を切ったりしたら、すぐに無理だと分かる。だから少し電話代を払ってでも、正しい方法でやれ。女の子に連絡するのにまでケチってはいけない。
今は電話もほとんど無料になったようだね。(大衆答:はい。)それでも、ソーシャルメディアを使って電話するな。通信事業者に少しでも儲けさせてやればよいではないか。ソーシャルメディア経由の電話でも、トラブルは起こり得る。だから、私の言う通りにすれば間違いないのである。私がいつも言っているように、私の依頼で何かを伝達してもらうときには、文字でメッセージを残すのではなく、必ず電話で確認せよ、と言っている所以である。電話なら相手の声や口調で、好意があるかどうか分かる。もし相手が嫌がっていたら、「すみません、もう迷惑をかけません」と言えばよい。しかし、文字のメッセージでは相手の気持ちは分からない。返信がなければ、勝手に了承したと思い込み、さらに送信してしまう。私も女の子を追ったことはあるが、そんな馬鹿なことはせず、問題は起きなかった。(大衆笑)
「忍辱平等」で最も難しいのは誘惑である。逆に悪いことは耐えられるが、誘惑や自分が傷つくかもしれないことは耐えられない。「忍辱」という言葉の意味は、人に罵られても怒らない、といった単純に説明できるものではない。本質は、良いことにも悪いことにも心を動かさず、ただ耐えることである。良いことだから心が動き、悪いことだから拒絶する、ということではないのである。リンポチェも以前言ったことがあるが、人がどんなに私を供養しても、条件が整っていなければ受け取らない。これは「忍辱」である。私はこの法門を修行しており、お金持ちだからといって贔屓したり、偏ったり、特別扱いしたりすることは決してない。
経典曰く「精進平等。是名三摩呬多。」
修行のとき、常に精進すること――それが「精進平等」である。しかし、決して、自分のためによりよくなろうとするためではなく、また口先だけで「衆生のために修行する」と言うためでもない。実際には、仏法を学び修行することが、自分の未来にとって必ず良いことだと理解している。修行することで輪廻から解脱でき、将来、必ず衆生を助ける力を持つことができる。その理解に基づき、平等心をもって精進するのである。好きな法門だからといって、必ず学ぶ、必ず修得するといった姿勢ではない。また、この法門は自分にはできないと思い込み、修するのを諦めるということでもない。2007年、法王猊下にラプキ雪山での閉関を命じられたとき、事前に修行の内容や意味、結果については何も知らされず、渡されたのは数枚のA4サイズの法本だけであった。それでも「精進平等」で修行できたのは、上師への深い尊敬によって「定」が生じ、「平等心」が現れたからである。法本がわずかA4サイズ数枚しかないことと、法本が全部揃って初めて唱えようなどと分別しない──これこそ、「精進平等」の姿である。
経典曰く「禪定平等。是名三摩呬多。」
「禪定」における平等とは何か。大乗仏法の禪と、小乗の禪は異なる。小乗の禪は、初禪から第四禪まで順に修し、禅ごとに身体や心の変化、修行の感応が現われることを重視する。一方、大乗仏法の禪定は、自分が何か結果を得るためのものではない。禪定の目的は、自らの清浄な本性を回復することである。清浄な本性が回復して初めて、仏法の智慧を用いて自己を生死の苦から解放し、衆生をも救うことができる。そのため、禪定修行においては、果位を求めることは本質ではない。多くの人は、禪定中に何らかの感覚や体験、心の変化、快適さ、清浄さを求める。しかし、それらは禪定の本質ではない。
「禪定」の定義は極めてシンプルである。複雑な心を簡単にし、最終的に定の状態に入ることを指す。ここでいう「定」とは、念頭が全くない状態ではない。「定」とは、虚無の空間に閉じこもり、何も思想がないことでもない。「定」は生き生きとしており、いつでも自分の心を自在にコントロールできる状態を意味する。入ったら出られなくなるような定は正しい定ではない。
経典曰く「勝慧平等。是名三摩呬多。」
「智慧」の心にも平等がある。では、平等とは何か。すべての智慧は、自分の利益のために使うものではない。「智慧」とは、仏が説かれた空性の意味を理解することである。「空」を説明するために、仏は『大般若経』という膨大な経典を説かれた。言うまでもなく、文字だけで「空」を体得するのは極めて難しい。なぜなら、現代の科学や人間の経験の範囲では、「空」が何であるかを直接体験することはできないからである。「空」を体得できるのは、智慧のみである。智慧を修行するには、まず戒から始めなければならない。「戒」を守ることで「定」が得られ、「定」を得ることで「慧」が開く。戒を守らなければ「定」は生じず、「定」がなければ「智慧」は開かない。「智慧」が開かれなければ、「殊勝平等智慧」とは永遠に縁がないのである。
なぜリンポチェは皆に対して厳しくしているのか。それは、こうしなければならないからである。もし「自分には必要ない」と考えるなら、それはもはや仏弟子ではない。その場合は、帰依弟子のベストを返して信衆に戻ればよい。追い出すことはしない。しかし、こうした修行をせずに、毎回「福を得たい」「あれが欲しい、これが欲しい」と願うだけでは、到底、戒・定・慧とは無関係である。リンポチェ自身も、仏法を学び始めた頃、阿弥陀仏のもとへ必ず行けるようにと願ったわけではなく、何かを得ようともせず、ただ経典や上師の教えに従ってひたすら修行したのである。すべての仏法は、経典も顕教も密教も、本質的には戒・定・慧を修めるためのものである。もしこのように修行を続ければ、慧が開き、平等心が生まれる。そして、物事を見る視点は、他人の意見や判断の角度とは異なるものとなる。
経典曰く「彼一切法平等。是名三摩呬多。若於一切法平等。即一切有情平等及一切菩提平等。」
所謂「一切法」とは、目にするすべての現象が平等であるということである。なぜなら、私たちが知る、聞く、見るすべての現象は縁によって生じ、縁によって滅する──すなわち縁起性空であり、平等だからである。どんなものも永遠不変ではなく、必ず因縁によって生滅し、変化する。生じるすべての法、起こるすべての事象は、結局のところ心の動きによって現れるものである。例えば、リンポチェが以前入定中に言った言葉に「一法不生、一法不滅、法生心之動也」がある。つまり、法には生もなく、滅もない。あなたが平等心を修し得たとき、法に生滅がないことが見える。動いているのはあなたの心である。私は観想や持呪によって人を済度することができ、屍体を変化させることもできる。これが空性そのものである。これほど遠く離れているのに、どうして私が屍体を美しくし、若くすることができるのか。実際、私は料金を取ってはいない。医療美容は若くするために料金を取るが、あなた方の供養はわずかである。それでも法は働くのである。
リンポチェが傅という苗字の弟子に問いかける:「土曜日に供養に来ると言ったのに、来なかったのか?ふざけているのか!お金がないとか、病気とか、そういう事情を教えてくれればいいのに。」傅という苗字の弟子答える:「報告します、リンポチェ。母が明日火葬されるので、円満後に来て報告します。」リンポチェ:「まだ日を選ぶつもりか?来ない!」傅という苗字の弟子:「違います。」リンポチェ:「昨日、来ると言ったのか?」傅という苗字の弟子:「いいえ、言っていません。」リンポチェが賴という苗字の弟子に問う:「彼女は言ったのか?」賴という苗字弟子:「後で供養に来るとは言いましたが、特別には…」リンポチェ:「後でとはどういう意味だ?」賴という苗字の弟子:「母の出棺の後です。」 「まだ日を選ぶつもりか?心の調子が良くなってからにするのか?私があなたの供養を受け取らない。いいかい?今、あなたが私を操ろうとしているのか?あなたのすべてのことが片付き、心の調子が整ってから供養に来るつもりか?あなたのお母さんの死後のことが整理されてからでないと、供養の用意をする時間がないのか?その供養金はあるのか?」(傅という苗字の弟子答え:あります。)「心の調子が整うまで待つつもりか?あなたはまだ役職についているではないか。私たちは皆、できるだけ早く供養し、お母さんに少しでも多くの福報を積ませようとしているのに、あなたはすべてのことを片付けて、時間ができてから来ようと考えているのか?」リンポチェは賴という苗字の弟子に指示する:「彼女に言え、来る必要はない、と。」
この機会を私は長い間待っていた。傅という苗字の弟子は一生、自分で物事を取り仕切ることを好み、まったく言うことを聞かず、自分のやり方で仏法を学んできた。自分の段取りがすべて終わり、用事を全部片づけ、金が余ったら私に施すつもりなのか。これは平等な布施の心がまったくないということである。上師が彼女の母親にこれほど良くしてきたことを知っていながら、もし私の立場であったり、あるいはあなた方であったなら、先に供養するはずである。彼女はすべてのことが終わり、時間ができてから来て、さらに金が残っているかどうか計算するつもりなのだ。私は彼女の正体が露わになるのを長い間待っていた。私は彼女の施しなど必要としていない。姉妹たちも供養に来る必要はない。私は受け取れない。彼女の母親に約束したことは、すでに果たしている。
「菩提平等」、この一句は前からずっと続いて最後まで伸びており、ここが重要である。「一切法平等。是名三摩呬多。若於一切法平等。即一切有情平等」とは、あらゆる現象を平等に見なすことを意味し、分別心がなく、金持ちか貧乏かで区別しないということである。例えば、私が傅という苗字の弟子の母親のためにポワ法を修したとき、彼女には金がなかったが、私は約束したので修法を行い、徴候も見られた。つまり私は平等に彼女を助けたのであり、彼女が金持ちかどうか、または娘が私に供養するかどうかに関係なく、私は平等に行ったのである。
私が平等であるとき、すべての有情に対して平等であり、彼らが何者かで区別することはなく、ただ上師に対する心構えが正しいかどうかだけを見分ける。彼ら一家は間違っている。すべてのことを済ませ、心が落ち着いてから供養に来ようとする。《地蔵経》ではどう書かれているか?地蔵菩薩は家を売ってでも絶えず仏に供養した。だから傅という苗字の弟子が法会に参加してどこまで聞いたのかはわからない。彼女は自分は地蔵菩薩ではなく、ただの傅という苗字だと思っており、傅という苗字の人は地蔵菩薩の行いとは違うと考えている。なぜこうなるのか?それは戒・定・慧を修していないからである。
「及一切菩提平等」。菩提心には平等心が必要である。例えば、私が仏寺の職員を叱ったことがある。衆生が死んだのに、勝手に穴を掘って埋めてはならないということである。仏寺には多くの鳥や昆虫がいるが、彼らが死ぬと、職員の目に見えるように出てくる。最初はなかったが、今は少しずつ出てきている。たぶん冬で寒いからであろう。叱った後、彼らはようやく分かって、私が持する真言を流して聞かせるようになった(大衆笑)。これが平等である。私は彼らに言った。「もしあなた方があの生き物だったとして、私が勝手に穴を掘ってあなた方を埋めたら、納得するか?受け入れられるか?無理だろう。ではなぜ、あの動物たちは勝手に穴を掘って放り込んでいいのか」。衆生は平等である。彼らが私の仏寺の中で死んだということは、私と縁があるということであり、私は彼らに何らかの助けを与えなければならない。この前は、観音殿の入口で死んでいることが多かった。もしかすると観音菩薩を見て、そこで命が尽きたのかもしれない。もし私が、すべての有情衆生に対して平等に修していなかったなら、埋めればそれで終わりで、私に何の関係があるのか、となるであろう。しかし私はそれを聞いてとても腹が立った。これほど長く仏法を学んでいながら、ほんのわずかな思いやりの心もないのか、と。衆生が死に、しかも私たちの仏寺の中で死んでいる。彼らには神識がある。私たちは仏弟子として、少なくとも何らかの助けを与えるべきである。それなのに、適当な場所を見つけて穴を掘り、放り込むだけだと聞いて、私はとても悲しくなった。彼らは何のために帰依したのか分からない。あなた方は人間で、彼らは畜生だから良くしなくていいのか。それでは、この菩提心は平等ではない。
だから『宝積経』の開示をすると、学ぶ者はだんだん仏道を修行するのが大変だと感じる。『宝積経』は菩薩道を説く経典であり、菩薩道は経典に書かれた通りに実践しなければならない。在家の者は小乗や禅宗を修行することはできない、なぜなら出家ではないからだ。だから修行できるのは菩薩乗だけである。菩薩乗を修行するとは、『宝積経』が説くことを必ず聞き、実践することである。しかし、あなたたちは聞こうとしない。傅家の姉妹が、自分たちに都合がいい時まで供養を待つような態度を取った。私は彼女たちのやり方を見て、悲しいというか、なぜ分別心がこんなに強いのかと思う。自分たちが暇になるまで上師への供養を後回しにするのは、上師を乞食のように扱うことではないか。
経典曰く「如是普遍入解。此說名為三摩鉢那。」
「此說名為三摩鉢那」。この名詞を調べてくれないか。「如是普遍入解」。釈迦牟尼仏はこのように多くの「三摩呬多」を説かれたが、最後に最も重要な言葉は「如是普遍入解」である。これは仏法に対する迷いを解き、生死の輪廻という大海を解き明かすことを意味する。つまり、あなたたちが戒・定・慧を修行しようとしなければ、このことはあなたたちには関係がないということである。恐らくあなたは「絶対に自分に関係ない。だってリンポチェの位まで修得をしていないもの」と言うかもしれない。確かに、あなたはリンポチェではないが、せめて心構えは正しくなければならない。ちょうど私が寺院で働く弟子たちを叱ったように、動物の死に対して慈悲の心がないのは、すべての衆生に対して普遍的ではないからである。戒・定・慧を修行すれば、この感覚は現れる。たとえできなくても、少なくともこの感覚を持ち、まずリンポチェにどうすべきかを尋ねるべきである。幸い、弟子が報告を書いてくれたので、私はそれを見て叱った。これが、なぜ彼を寺院の弟子たちの監督に派遣したのかの理由である。
仏法を学ぶことは簡単でもあり、また難しくもある。どこが簡単かといえば、上師の言うとおりに行えばそれでよいからである。どこが難しいかといえば、言うことを聞かず、実行せず、常に自分の考えでやろうとするからである。傅家の姉妹は本当に大したものだ。自分たちに時間ができてから私に供養しようとする。しかしその時、私がいないかもしれないし、死んでいるかもしれない。先週も言ったばかりなくせに、供養は早くしなければならないと。ある弟子は生前に供養せず、死後に言い残したが、それでも私に供養することはできなかった。ところが傅家になると、また別の話が出てくる。これだけ長年帰依していながら、もう利用し終わったということか。傅家の姉妹は非常に頑固で、どう言っても聞き入れず、改めようとしない。お前たちの母親は福報があったから、私は彼女のためにポワ法を修した。だが、あなた姉妹らが母親と同じだけの福報を持っているとは、私は信じない。
経典曰く「又若普遍入解諸法如虛空等。此說名為三摩鉢那。」
「普遍」とは、因縁を無視して行うことではなく、六道のどの道の衆生であろうと、すべてに対して普遍の菩提心をもって助けることである。「入解諸法」とは、平等心があるからこそ、「普遍入解」、という意味である。
「諸法如虚空等」。私たちの仏寺で動物が往生した場合、もし戒定慧を修しておらず、「諸法如虚空等」の境地に至っていなければ、彼らの報告を見てすぐ腹が立つようなことはない。彼らには「普遍入解」がなく、分別心があり、「ただの虫や鳥」と見なして衆生を尊重しない。これらの衆生は過去世で多くの悪業を行い、この生では畜生道に生まれ落ち、仏寺の範囲内で死を迎える福報を持っている。私たちは彼らに助けを与えるべきである。あなたたちは虫やトカゲを踏みつければ死ぬから助ける必要はないと思うかもしれない。これは仕事の範疇ではないと思うかもしれないが、仏弟子だからこそ、人間と同じ目線で衆生を軽んじることはできない。現代科学でも示されているように、昆虫がいなければ植物は受粉できず、果実が生じず、私たちの食物もなくなる。だから昆虫を軽んじてはいけない。彼らがいなければ、私たちは全員死んでしまうのである。
実際、仏法を学ぶことは非常に科学的なことである。我々は普遍的に菩提心をもって衆生を助けるが、それは自分を慈悲深く、修行が他人より優れていると見せるためではない。必要だから助けるのである。昆虫がいなければ、人は生き延びることすら困難である。家にヤモリがいて蚊やハエを食べてくれなければ、生活も成り立たない。ある人はヤモリを見て驚き、ある人はゴキブリを見て跳び上がるが、ゴキブリもまたある意味で消毒役を果たす。有毒なものを食べてくれる。ゴキブリがいるのは、家の中に毒や汚れが多いからであり、家が清潔であれば現れない。例えば、私の店にも以前動物が巡回に来たことがあるが、捕まえず殺さず、放置していたら徐々に来なくなった。だから理解すべきなのは、心が普遍で平等であれば、自然と衆生は害をなさず、たとえ目の前に現れても避ける。それは自分が害されないことを彼らが知っているからである。
我々が今日仏法を学ぶにあたり、自己の個人主義は本当に捨てなければならない。捨てなければ、たとえ供養をしても、必ず間違いを犯す。傅家の姉妹は金銭をすでに用意しているにもかかわらず、すぐに供養せず、都合の良いとき、心地よいときまで待ち、母親の火葬のときに頭頂の梵穴に孔があるかどうかを確認し、もしなければ「リンポチェが修法できなかった」と思い、供養を減らそうと思う。すべてこうした態度である。姉妹たちは今日、自分たちが叱られるとは思わなかった。仏法を長く学び、心が落ち着いていると思い込んでいたからである。
『宝積経』が説く一言一句、我々初学者、中学者、深学者、すべて覚えておくべきである。なぜなら『宝積経』は菩薩道の修行を専門に説いており、我々の祖師ジッテン・サムゴンの著作もすべて『宝積経』の出典に基づいているからである。
今日説く「平等」とは、まさに四無量心の最後の一句「遠離愛憎住平等捨」と同じ意味であり、我々に平等心を訓練せよと教えている。無上瑜伽部を修する際も平等心を修するが、平等心とは日常生活の中で物事を判断する際に、分別をそんなに厳しくしないことを保つ心である。人間である以上、分別心は必ずあるが、衆生のご利益、すなわち衆生の輪廻に関わる場合、例えば死んだ畜生に対して助けを与えることこそ平等心である。もちろん、彼等と同じように、死んだ畜生を掃いて穴を掘って埋めるだけでも、十分よくしていると思われるかもしれない。ではなぜ助けるのか。それは修行者として因縁が生じたとき、平等に対処するべきだからである。傅家姉妹のように、供養するときに平等心がなく、空いた時間を待って自分の都合で行動し、すぐには行わないような態度は、平等心に欠ける例である。
私はこの一生、他人に自分のことを取り仕切らせることはない。私が委ねるのは、自分の業力と修行の歩みだけであり、それは仏菩薩と上師に任せる。他に私を取り仕切れる者は誰もいないし、誰の指図も聞かない。七十九歳まで生きてきて、今さらあなた方の言うことを聞く必要があるのか。たとえ修行者でなくても、七十九歳まで生きてこれほど健康で、これだけ長く人を叱れるということ自体、必ずそれなりの力があるということだ。中には「上師の言うことを聞かない」と言う者もいるが、構わない。私の言うことを聞かないなら、私はむしろうれしい。済度する人数が減るだけだからだ。済度に私の体力や精力が要らないと思っているのか。そんなことはない。絶対に必要だ。日本で阿弥陀仏済度法会を終え、翌日に二つの財神法を修したら、脈の調子が乱れた。それは私のエネルギーを外に出したからである。なぜエネルギーを出さなければならないのか。それは、自分の福報を使わなければ衆生を助けることができないからであり、必ず自分の福報を使うことになる。ちょうど、私に金があるからこそ人を助けられるのであって、金がなければどうやって助けるのか。つまり、自分の金を出して人を助けるのと同じである。多くの人は、私に供養することが大したことだと思っているが、別に大したことではない。私が与えているものは、あなた方にはできないことであり、それは私が生々世々積み重ねてきた福報だからだ。その福報こそが、衆生を助けるために用いられるものである。
今日は皆に開示した『宝積経』の教えを、皆がお家に帰ってからもよく考えてほしい。聞いただけで終わったと思わないこと。今、自分はまだ菩薩道の修行を始める準備ができていない、若いし、友達作りや結婚の準備をしている、これは個人的な問題であり、仏法の学びと矛盾しない。交際や結婚が仏法と衝突すると考えて学びをやめる者がいるが、『宝積経』には在家衆が結婚することを止める記述はない。男女の交際を禁じることも書かれていない。しかし、そのときには平等心をもって行うことが必要であり、物事を正しく見極めること。自分の欲望を満たすためだけに行動すると、必ず思い通りにならないことが出てくる。
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2026 年 01 月 08 日 更新