尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年12月28日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェには法座に登られ、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二〈禅定波羅蜜多品第十・その二〉ならびに、ジッテン・サムゴンの著作『一意』について開示された。
経典曰く「若於三世智都無礙。此説名智。又舍利子。於一切剎土隨意往來。此説名為神通。」
多くの人は、自分には神通があると言う。しかし仏経に説かれている基準によれば、この段階に至って初めて「神通」と称される。若於三世智都無礙。過去・現在・未来、全ての智慧に妨げとなる存在がないことを指す。これは、過去の諸仏、現在の仏、未来一切の仏が説かれた、すべての仏法の智慧について、完全に通達している、障碍が無いという意味である。すなわち、この一生の修行においてすでに法身菩薩の境地を証しており、過去・現在・未来を知り、すべての仏が目の前に現れ、その説かれる仏法の智慧が、すべて無碍に理解できる境地である。ゆえに、世間の些細な事柄を少し知った程度では、決して神通とは称されない。仏経に説かれるこの境地に至ってこそ、初めて神通と名づけられるのである。此説名智。三世智において一切無碍である者のみが、真に智慧を具えた者と称される。
又舍利子。於一切剎土隨意往來。此説名為神通。これは、あらゆる仏の国土において、一念を動かすだけで赴き、また戻ることができる境地に至って、初めて神通と名づけられるという意味である。『阿弥陀経』には、蓮華が開いて仏を見た後、ただ念を動かすだけで、行きたいだけどの仏の浄土にも赴くことができ、一食の間に往復できると説かれている。このことが示すのは、この肉体を具えている間には、この種の神通を得ることは不可能であるという点である。必ず仏の浄土に生じてからこそ可能となる。さらに言えば、必ず法身菩薩の境地を証していなければならない。そのとき初めて、念を動かすや否や、いかなる仏刹、いかなる仏の浄土にも、一切の障礙なく自在に往来できるのである。
経典曰く「於虛空剎土智都無礙。此説名智。」
虚空、すなわち全宇宙に存在する一切の刹土において、その刹土は必ずしもすべてが仏の浄土であるとは限らない。有情衆生が居住する世界である場合もあり、いわば一つの銀河系のようなものである。その中にあるあらゆる事象を、明らかに、余すところなく知り尽くしている境地に至って、はじめて智と名づけられるのである。
経典曰く「又舍利子。立法分位。此説名為神通。」
仏はまた舎利子に告げて、立法分位について説かれた。立法とは、仏法に基づいて定められる分位のことであり、すなわち、その修行者がどの果位に属するかを示すものである。法身菩薩は、修行者の果位を判断するにあたり、この一生において顕現した福報や功徳によって判断するのではない。あくまで、仏法の基準に照らして、その修行がどの段階に至っているかをもって判定する。仏経には、初地菩薩から十六地菩薩に至るまで、それぞれの段階において顕現する相、修行の功力、功徳の在り方が、きわめて明確に説かれている。この基準に基づいてこそ、その者が菩薩であるのか、阿羅漢であるのか、あるいは凡夫であるのかが定められるのである。密教の立場から言えば、一人の人物が自らをリンポチェであると名乗ることは許されない。必ず、その教派において最も重要で、法を保持する中心的存在、すなわち通常はその教派の法王によって、授記を受け、さらに坐床を経なければならない。とりわけ重要なのは坐床である。この坐床を経ていない者は、決してリンポチェと称することはできない。
経典曰く「於法觀察。此説名智。」
仏法に基づいて一切の現象を観ること、それを智慧という。これは、自分個人の考え方、あるいはどの民族・種族に属するか、その人たちの生活習慣や思考様式によって物事を判断するのではない、という意味である。智とは、仏法の定義をもって、衆生の行為、思想、そしてその果報を観察することである。ゆえに、そこには個人的な考え方で判断しない。私たちが四無量心を念誦する際、最後に修するのが平等に捨て去ること、愛憎住平等捨である。修行が進んでいるからといって、特定の人を特別に好むこともなく、修行が未熟だからといって、誰かを嫌ったりすることもない。このように分別することではない。
経典曰く「又舍利子。於諸世間善巧化導。此説名為神通。」
諸世間の六道に存在する、あらゆる異なる世界において、それぞれの衆生に応じ、善巧方便をもって教化し、導くこと、これを此説名為神通という。
経典曰く「於諸世間都無繫著。此説名智。」
それは、世間においていかなる事物にも縛られず、いかなる執着によっても、特定の場所や状況に留まることがないということである。これを此説名智という。たとえば、法王が私のために書いてくださった長寿祈請文の中には、はっきりと次のように記されている。「善縁のあるところへ、私は赴く」と。この一句にすべてが含まれている。すなわち、何ものにも縛られず、「必ずこうでなければならない」「必ずこの世界に行かなければならない」「必ずあの場所でなければならない」といった執着を持たないということである。ただ因縁に随い、衆生を度する。学仏の善縁がある場所があれば、そこへ行く。
経典曰く「又舍利子。出過一切釋梵護世。此説名為神通。」
この一句の意味は、これまでこの世に出現した一切の諸仏が、常にこの世間を護っているということである。これを名為神通という。いわゆる「釋梵」とは、必ずしも仏が直接この世に現れることを意味するのではない。仏法が現れること、仏の化身が現れること、それによってこの世間が護られているならば、すべて名為神通である。ある場所には、出家者もおらず、上師もいないことがある。しかし、そこに一尊の非常に荘厳な仏像が残されている場合がある。衆生がその仏像を尊重し、恭敬し、礼拝し、さらに戒を守っていれば、その仏像は、その世間を護る力を持つ。これもまた、神通である。
経典曰く「出過一切声聞縁覚。此説名智。」
かつて「出過一切声聞縁覚此説名智。」では、なぜ菩薩道を修する者であるにも関わらず、「一切の声聞・縁覚を超えている」と説かれるのか。『阿弥陀経』には明確に説かれている。西方極楽世界に往生するのは、大乗仏法を修する者だけではない。この一生において声聞・縁覚の修行をしてきた者であっても、臨終に至る前の一定期間に阿弥陀仏の法門へと転じて修行すれば、同じく極楽世界へ往生することができる。これはすなわち、声聞・縁覚を修しているからといって、大乗仏法へ転ずることができないわけではないという意味である。声聞・縁覚の修行者も、大乗を学び、菩薩道を修し、解脱の道へ進むことができる。ゆえに、仏経の中で仏は常に、声聞・縁覚を修する者に対して「その境地に執着してはならない」と勧め、大乗へと転じることを教えられている。なぜなら、声聞・縁覚の修行による最大の成就は阿羅漢果であり、それは自らの生死を解脱することには至るが、仏や菩薩が具える大慈悲の力によって、衆生を広く済度し、ともに生死を解脱させることはできないからである。
経典曰く「復次舍利子。如是所説。是名神通智業円満。」
以上に説いたごとき境界を具えてこそ、これを神通と名づけ、智のはたらきはすべて円満に成就すると言うのである。
経典曰く「又舍利子。所有煩悩散乱。菩薩摩訶薩定分行心及加持智。乃至一切有情染心散亂。及菩薩摩訶薩定分行等。応知積集。」
一切の大菩薩においては、所有煩悩散乱に対し、本来「散乱」という言葉は存在しない。しかし、衆生を度するためには、あえて衆生の煩悩の中に入って定に住し、その煩悩に応じて、修行を助けるはたらきを分別して起こす。これを「定分行心」という。衆生の煩悩は千差万別であるが、すべて貪・瞋・癡・慢・疑 の五毒から生じている。ゆえに、諸仏菩薩は五智・五方仏を説き、この五毒をそれぞれ対治する智慧の法門を示されたのである。諸仏菩薩は、衆生の五毒の性質に応じて、さまざまな善巧方便を用い、衆生をある境地に安住させ、そこから転じ、修行へと導かれる。たとえば、私が繰り返し勧めるなり、厳しく戒めるなりして、もしその言葉を受け入れてくれれば、きっと修行の在り方は必ず変わってくる。
最近、ある弟子が癌を患い、往生した。往生前は非常に苦しんでいたという。弟子からその報告を受けた私は、「彼には懺悔がなかった」と伝えた。報告に来た弟子がその言葉を本人に伝えたところ、彼は私の写真の前で口に出して懺悔を行い、その懺悔を終えたその日に息を引き取った。彼は亡くなる前、家族に対して、私への供養のことをはっきりと伝えていた。しかし、彼の財を管理していた一人がそれを渡さず、結果として家族は供養に来なかった。私はそれを追うことはしない。ここで誤解してはならない。私が供養を望んでいるのでも、必要としているのでもない。重要なのは、供養とは、まだ息があるうちに行うものだということである。家族の多くは仏法を信じていない。信じていない者にとっては、「亡くなった人の財は当然、生きている者のものだ」という考えになる。供養の重要性など、理解できないのが普通である。彼は死の直前、痛みを恐れたがゆえに懺悔をした。しかし懺悔があまりにも遅すぎたため、供養の功徳が現れることはなかった。たとえ私が彼を済度したとしても、その結果はせいぜい人として生まれ変わる程度である。だが、人として生まれ変わるとはどういうことか。それは再び、この一生と同じ生き方を繰り返すということである。なぜなら、彼には供養がなかったからである。彼の財が他人に使われてしまったのは、「死んでから与えればよい」と本人が考えていたからだ。そして、実はあなた方の多くも、まったく同じ考えを抱いている。
また、ある弟子の妻が亡くなったことがあった。その弟子は、どれほど供養しようとしても、私は一切受け取らなかった。なぜなら、その家には明らかに財があり、亡くなる前に供養することは十分に可能であったにもかかわらず、なぜ済度が終わってから初めて供養に来るのか。まだ「済度が施されていないから、済度が終わってから供養しよう」という考えであったため、供養を持って来ても、私は受け取らない。私はその家に財があることを知っている。財があるなら、事前に行うことができたはずである。それにもかかわらず、人が亡くなってから与えるのであれば、その供養は本来、非常に大きなものにならねばならない。私は何度もあなた方に話してきた。かつてチベットでは、リンポチェに済度を依頼する場合、まず大口の黄金を供養し、リンポチェを自宅に迎え入れ、毎日供養を行った。亡くなった後、リンポチェが修法を終えたのち、さらにもう一回大口の黄金を供養し、その上でお送りした。あなた方は、そのように行っているだろうか。答えは「していない」である。私は、あなた方にそこまで要求しているわけではない。ただし、そのように行うという心構えを学びなさいと教えているのである。
死が間近になってから、「少し金を出して交換すれば、楽に死ねるだろう」などと思ってはならない。多くの場合、それではもう間に合わない。なぜなら、家族は必ず供養を惜しむからである。あなたの代わりに「使ってしまう」。だから、たとえ生前に口で言っていても、実際にそれが行われるとは限らない。供養ができるかどうかは、言葉の問題ではなく、福報の問題である。福報がなければ、やろうとしてもできない。今日この話をするのは、あなた方に「早く私に供養しなさい」と言うためではない。私はそれを望んでもいないし、必要ともしていない。私が伝えたいのはただ一つである。自分の身体がもう長くないと分かった時、なすべきことを、すぐに整えなさいということだ。たとえリンポチェに供養しなくともよい。まず遺言書をきちんと書きなさい。必要であれば、費用を払って法律顧問に依頼し、公証された遺言書を作成すればよい。そうすれば、後になって誰も勝手に手を出すことはできない。これは、あなた方のためである。もし家族があなたの財産を巡って争えば、あなたは必ず怒りの心を起こす。
ずいぶん昔のことだが、ある女性弁護士が私のもとを訪ねてきたことがある。そのとき私は、彼女の背後に多くの鬼が立っているのを見た。その鬼たちは私にこう告げた。「この女性弁護士は悪くない人だ。だからこそ、最近持ち込まれたある訴訟を引き受けないよう、彼女を諭してほしい」と。その訴訟とは、一族の中の男たちが、孤児や寡婦となった女性たちを欺き、彼女たちの財産を奪おうとする案件であった。鬼たちは言った。「この訴訟を引き受ければ、彼女自身も必ず不幸になる」と。この話が何を示しているのか。それは、財産は生前に必ず整理しておかなければならないということである。決して、「自分が死んだ後は、家族が遺産の分け方を分かってくれるだろう」などと思ってはならない。そんなことは決してない。私ははっきりと忠告する。私の言うことを聞きなさい。リンポチェに供養しなくても構わない。しかし、自分の家庭のことは、必ず事前に整えなさい。仏経にははっきりと説かれている。家族とは、あなたの獄卒である。牢獄の中で人が死ねば、獄卒はその人の持ち物をすべて持ち去り、何一つ残さない。あなたの家族も同じである。「自分だけが最後まで生き残る」などという幻想を抱いてはならない。そんなことは起こらない。誰しも、自分が先に亡くなり、後のことを誰かに託したいと願う。
昨日、また一人の弟子が往生した。彼女にはほとんど財産がなかった。しかし、一年前に自分がもう長くないことを知り、自分が持っていた、わずかなすべてをリンポチェに供養し、ポワ法を求めてきた。私はその願いを受け入れ、約束した。だから昨日、私は彼女のために修法を行った。彼女は亡くなる前、まったく苦しむことがなかった。病気にもならず、病院に行く必要もなかった。その後、彼女の娘たちが感謝に来たが、私は「感謝は不要だ」と伝えた。もし感謝するというのであれば、彼女たちは家を売ってでも供養すべきであった。しかし、そうではなかった。それでも私は彼女たちの母親のために修法を行った。それは、私は彼女本人に約束したからである。現在、ポワ法を求める者が増えているが、私はもはや簡単には引き受けない。第一に、私は高齢になった。ポワ法は極めて消耗の大きい修法であり、多くのエネルギーを必要とする。私は自分のエネルギーを温存し、引き続き修行を続け、より多くの衆生を利益するために使わねばならない。それは、あなた方のためだけではない。第二に、福報がなければ、修しても意味がない。福報がなければ、たとえ私が修法を行っても、結果は生じない。だから自分自身に問いなさい。自分は一体、どれほどのことをしてきたのか。
昨日、数名の弟子が不共四加行を求めに来たが、私は誰にも伝えなかった。なぜ伝えなかったのか。私は彼らにこう尋ねた。「毎晩、『仏子行三十七頌』を用いて、自分の身・口・意を点検しているか」と。一人は「していない」と答え、一人は「時々」と答え、もう一人は「週に三、四回」と答えた。私は何と言っていたか。(大衆答:毎日)帰依のとき、「上師が伝えた教えを聞かないのは怠けであり、怠けがあれば加持は生じない。加持がなければ、法は伝えない」とはっきり伝えていたではないか。(大衆答:はい)それなのに、なぜあなた方は信じないのか。もし私が「毎日、『仏子行三十七頌』で身・口・意を点検せよ」と一度も言っていなかったなら、それは私の過ちである。しかし私は何度も、繰り返し言ってきた。それでも誰も聞かない。それは、あなた方が「自分の業はすでに清浄だ」と思っているからである。私は無上瑜伽部まで修行した上師である。それでも毎日、修法に入る前には必ず金剛薩埵を修する。なぜか。自分では気づいていない業、覚えていない業、極めて微細な業が、まだ残っていることを恐れるからである。それらが修行の障碍になるからである。それなのに、なぜあなた方は耳を貸さず、自分を偉人だと思うのか。口では「感恩」と言う。しかし、行いは伴っていない。私はもう年老いた。これ以上、あなた方に多くを語りたくはない。私はただ仏法を説き、仏経を説いているだけであり、本当は、もう叱りたくもない。しかし、私が伝えていることを、あなた方は今なお聞こうとしない。
昨日、ある弟子が息子を連れて来た。その息子は金封を手にしていた。私は尋ねた。「このお金は誰のものか」と。弟子は「私のものです」と答えた。私は言った。「あなたはこれだけ長く帰依していて、リンポチェは未帰依の信者からの供養を受け取らない、ということを知らないのか」と。自分の親族のことになると、「リンポチェなら例外を認めてくれるだろう」と期待する。親族が供養すれば福報が生じ、それによって帰依を許してもらえると思う。あなた方は、私にどうしろと言うのか。なぜ今、私は法会を行わないのか。それは、これ以上行っても意味がないからである。あなた方は誰も言うことを聞かない。それなのに、なぜ私がこれほど疲れてまで法会を行わなければならないのか。すべての人が「仏法は好きなときだけ行えばよい、そうでない時は行わない」「リンポチェの言ったことを一部でもやれば、それでリンポチェに対して責任を果たした」と思っている。ここにいる千人余りの者は、家に帰ってよく考えてみなさい。毎晩、寝る前に、自分の身・口・意が『仏子行三十七頌』に背いていなかったかを点検している者が、一体何人いるのか。誰もが「自分は何も悪いことをしていない」と思っている。私は何万回も言ってきた。起心動念、すべてが業であり、すべてが罪である、と。しかし、あなた方は信じない。毎日ただ、「良い日々を過ごしたい」と願っているだけである。
学仏において最も重要なのは戒を守ることである。五戒十善を修さず、上師が伝えた法を聞かない者が、どうして仏弟子と名乗る資格があるのか。常に自分の考えだけで学仏しようとしても、何の役にも立たない。上師相応法を求めに来る者もいるが、私は伝えていない。多くの人は、上師相応法を修すればリンポチェと相応し、自分が守られると思っている。はっきり言っておく。上師相応法とは、そのような意味ではない。上師相応法とは、上師の功徳、修行の方法、そして伝承と相応することである。何が「相応」なのか。それは、あなたが正しく修行すれば、伝承の上師がその修行に対して加持と助けを与えるという意味である。それは「保護してもらう」という意味ではない。私が上師相応法を求めたとき、一年間、法王に会うことができなかった。ようやく見つけたとき、法王はアメリカにおられ、私は電話の中で求めた。そのとき、法本はなかった。口伝だけであった。それでも、私は修行を成就させた。今は法本を持っていながら修行ができない者がいる。なぜか。上師を尊敬していないからである。なぜあなた方は菩提心を起こせないのか。以前にも言った。ジッテン・サムゴンの『一意』には明確に説かれている。菩提心を起こすために最も重要な第一の条件は、上師を尊重し、恭敬することである。しかし、あなた方はそれを一切行っていない。自分では「恭敬している」と思っているかもしれないが、毎日、自分を反省するように言っても、反省しない。これを恭敬と言えるだろうか。それは、教師が「毎日この課題を書き写しなさい」と教えているのに、まったく書かず、それで試験に受かると思っているのと同じである。自分の時間を無駄にしないほうがよい。あなた方には、まだわずかな福報がある。これほど厳格な上師に巡り会えたという福報がある。それにもかかわらず、なお言うことを聞かないのか。
私がいつまでもあなた方を加護し続けると思ってはならない。私は一度しか加護しない。あなた方は皆、自分の考えで仏法を学んでいる。昨日の弟子の例がそうである。息子に金封を持たせて私に供養しようとした。未帰依の者からの供養は受け取らないと分かっていながら、それでも私のルールを破り、自分の欲望を通そうとした。もし私が受け取れば、「リンポチェが受け取ったのだから、帰依を認めるべきだ」と言うつもりだったのであろう。私は数十年、一度もルールを破ったことはない。それにもかかわらず、あなた方は何をしようとしているのか。私の冤親債主なのか。よく考えなさい。学仏は決して遊びではない。自分の好き勝手にやってよいものではない。そのような学び方は、最終的に自分自身を害するだけである。
「及加持智」とは、前に説いた「定分行心」による加持の智慧を指す。「乃至一切有情染心散亂,及菩薩摩訶薩定分行等,應知積集」とは、菩薩摩訶薩は、一切の有情衆生の心が汚れ、散乱していることを明確に知り、定の中において、それぞれの衆生の煩悩がどこから生じているのかを分別し、修行へと導く。「應知積集」とは、菩薩自身がそれを用いるために集めるという意味ではない。衆生の煩悩の因を正しく了知するために、その状態を把握し、集中して観察するという意味である。ゆえに、自ら修行の経験がなく、世間におけるさまざまな試練や磨練を経ていない者が、ただ仏経を読むだけであれば、仏法の名相を語ることはできても、衆生一人ひとりの実際の問題に即して、それを解決することはできないのである。
最近、ある若い弟子が突然高利貸しに手を出し、また別の弟子が突然訴えられるということがあった。これらの問題の原因は、戒を守らなかったことにある。たとえ私のもとに来て懺悔したとしても、それではもう遅い。私は助けない。なぜなら、幼い頃から繰り返し戒を守るように教えてきたからである。私たちはこの国に住んでいる以上、車を運転するには交通法規を守らねばならず、家を建てるには建築の法律を守らねばならない。法を守らなければ、必ず処罰を受ける。これは当然のことである。私が仏寺を建立した際も、すべて完全に法律を守って行ってきた。それでも一度だけ罰金を科されたことがある。それは、工事の際に不注意で土が道路に落ちてしまったためであり、三十数万元の罰金であった。その罰金は私個人が支払い、基金会のお金は一切使っていない。これほど大きな仏寺を建て、多くの工程と出来事を経ながら、罰金が一度だけで済んだというのは、決して容易なことではない。それは、私が常に仏法をもって自らを厳しく監督し、一瞬たりとも気を緩めなかったからである。衆生が供養してくれたお金は、仏寺を建てるためのものであり、罰金を支払うためのものではない。私は基金会のお金でその三十数万元を支払うこともできたし、あなた方が知ることもなかっただろう。しかし、それをしなかった。これこそが「戒」である。今日これらの話をするのは、菩薩が衆生を助けるためには、多くのことを知る必要があるということを伝えるためである。菩薩は、あなた方の煩悩がどこから生じたのか、その因を正しく知り、その因から問題を解決していくのである。
二人の若者が問題を起こしたのは、根本的に言えば、親が教えなかったからである。親は「勉強さえしていればよい」「人を殺さなければよい」「大きな悪事でなければよい」と考え、細かいことは一切注意せず、すべてをリンポチェや仏菩薩に丸投げして「守ってもらえばいい」と思っている。高利貸しに手を出した弟子については、私はすでに帰依弟子のベストを脱がせ、弟子の資格を取り消した。もう弟子ではない。もう一人、法律に関わる問題を起こした者については、現在まだ結論が出ていないため、今の段階では処置を取っていない。彼らは二人とも、私に一切報告せず、すべてを隠していた。しかし最終的には、私は知ることになった。なぜ知ったのか、自分でも分からない。ただ分かってしまったのである。よく覚えておけ。寶吉祥の門下にいながら、違法なことをしても守られるなどと思うな。そのようなことは決してない。さらに言えば、若い者たちが道場の中で異性を追いかけ回している。何をしているのか。ここを結婚紹介所だと思っているのか。親たちはそれを一切注意せず、「子どもが楽しければいい」としか考えない。それなら、なぜ仏法を学びに来るのか。何のために学仏をするのか。
しばらくの間に、まだ勉強している二人の若者が交際していた。私はそのとき、「両親は知っているのか、同意しているのか」と尋ねた。すると、なんと両親は公然と交際することを認めていたのである。私は男女の恋愛そのものに反対しているわけではない。しかし、男は自分に問いなさい。相手を養う能力があるのか。女は自分に問いなさい。もし妊娠したら、結婚する覚悟があるのか。ここは一体どこだ。色情の場になっているではないか。すべての組長は何をしているのか。誰一人として役割を果たしていない。私一人で、これほど多くの人間すべてを見られると思うのか。皆、裏でこそこそと勝手なことをし、天も地も知らないと思っている。
今回の日本での法会において、すでに道場を離れた者が一人いた。彼は名前を変え、日本名を用いて申し込みを行ったため、日本側では事情が分からなかった。しかし結局、本人が自ら電話をかけてきて、「自分は誰であるか」「道場のルールを知っている」と名乗り出た。これは偶然ではない。アキ護法が、彼を来させなかったのである。あなた方は、自分の好きなように振る舞っても、アキ護法が必ず守ってくれると思ってはならない。アキ護法は決して甘くない。ルールを破る者、欺こうとする者は、必ず表に引きずり出される。この数十年、私は仏法を弘めてきた。あなた方に対して、恥じることは一切ない。あなた方が使った一円一銭は、すべて一万倍の価値として返っている。それでもなお、裏でこそこそと多くのことを行っている者がいる。親は子を放任し、教えもせず、正すこともしない。『地蔵経』にははっきりと説かれている。親が子を教えず、その子が誤った行いをすれば、親にも責任がある。私の子どもたちは、仏法を学ばないとしても、少なくとも悪事を働くことはしない。それは、親として教えるべきことを教えてきたからである。
法会に来ているからといって、良い人であると思ってはならない。あなた方が法会に来る心は、多くの場合、仏菩薩やリンポチェに「守ってほしい」「加護してほしい」と求める心である。無事に卒業したい、恋人が欲しい、人生に障碍が起こらないようにしたい、仕事が順調であってほしい――そのような願いで来ている者がほとんどだ。そのように願うこと自体は、別に構わない。私はそれを叶えることもできる。しかし、それは仏法の方法ではない。もし私が世間のやり方を用いるなら、仏法を一切語らず、ただ拝ませて、いくらいくらと金を取ることもできる。だが、私は絶対にそのようなことはしない。
経典曰く「舍利子。此菩薩摩訶薩普遍積集而得安住。此說名為三摩呬多。」
三摩呬多という語を調べてもらおう。これは、このような大菩薩が広く積み重ね、集中することによって「而得安住」を意味する。いわゆる安住とは、これら衆生の煩悩によってその心が乱されることがなく、安らかに住することである。これらを積集するのは、自らの修行のためではなく、衆生が修行の道へと歩んでいくのを助けるためである。
経典曰く「又此一切有情。是名三摩呬多。心常平等。是名三摩呬多。意常平等。是名三摩呬多。善巧平等。是名三摩呬多。意中極深平等。是名三摩呬多。」
この用語が何度も出てくるから、調べてください。意常平等、意中極深平等。ここで特に「意」を強調しているのは、私たちのあらゆる思考・言語・行為は、すべて意から始まるからである。菩薩の意念は平等である。いわゆる平等とは、衆生と諸仏菩薩は本来すべて平等であると見ることをいう。一切の有情衆生は皆、成仏する条件を具えている。ただ汚染されているために迷い、六道の中で輪廻しているのである。菩薩はすでに悟りを開いており、輪廻の原因がどこから来るのかを明確に理解している。ゆえに衆生を助けるとき、衆生の身分や地位によって異なる心を起こすことはなく、平等心をもって助ける。ただその衆生に縁があり、助けを必要としていれば、助けるのである。昨日も、この年配の弟子にポワ法を修した。彼女にはお金がなく、娘たちにもお金がなかった。お金があっても供養しなかった。しかしリンポチェはそれでも平等に彼女を助けた。なぜなら、彼女にはリンポチェに対する信心と恭敬心があり、それが助ける条件を具えていたからである。私は彼女にお金があるかどうかを見ていない。彼女が供養をしたことがあるかどうかも、私は知らない。ただ、私は彼女に約束したから修したのである。だが、なぜ私は彼女に約束したのか、それは私自身にも分からない。もし私が約束しなければ、どれほど求めても無駄である。私が約束したということは、必ずその中に多くの因縁があるのである。
意中極深平等。意の平等には、表面的なものもある。たとえば四無量心を読誦したことがあり、この言葉を覚えているため、時折そのような平等の行為が現れることがある。しかし、意の深いところには、まだ平等心が確立されていない。だから五智の中に「平等性智」がある。これは、非常に深い心の中の智慧であり、それによって初めて平等性智が生じるのである。たとえば、リンポチェは常に多くの衆生を助けている。少し前、仏寺の観音殿の近くで動物が死んだことがあった。弟子たちはいい加減に場所を探し、適当に埋めた。私はそれを叱った。なぜなら、彼らはその動物たちを見下しており、適当に穴を掘って埋めただけだったからである。私は言った。「あなたたちは、人をこのように埋めてもいいのか?」と。もし人が観音殿のそばで亡くなったなら、救急車を呼び、葬儀社を呼び、どのように葬るかをきちんと手配するだろう。それなのに、動物に対してはそうしない。これが平等心がないということである。平等心を持つことは非常に難しい。過去世から修行を積んできた者でなければ、本当にできない。
前に話した通り、子どもが仏法を学ぼうとしないなら、私はその子とほとんど付き合わない。子どもだからといって、特別に良くすることはない。見れば分かるだろう。たとえ私の子どもが仏寺に来て法会に参加しても、あなたたちと同じようにそこに座っているだけで、前の席に座ることもなく、特別扱いは一切ない。せいぜい私の部屋に来て、一緒に食事を一度するくらいだ。それだけである。これが平等心だ。あなたたちは違う。皆、自分の子どもが一番親しい存在だと思っている。
例えば昨日、子どもを連れて来たあの弟子のように、子どもにお金を持たせて私に供養させようとするのは、まったく平等心がないということだ。彼女にとっては、子どもが一番大事だからだ。だから、上師がどんなルールを定めていようと関係なく、子どもが望むことを何としてでも叶えようとする。こういう人たちが、どうやって仏法を学ぶというのか。なぜリンポチェがこれほど多くのルールを定めるのか。それは、あなたたちに平等心を身につけさせるためだ。あなたの子ども、両親、夫や妻は、すべて累世の冤親債主であり、だからこそこの一生で一緒になっている。この話を仏教徒でない人が聞けば、きっと奇妙に思うだろう。しかし、冤親債主であるからこそ、彼らを通して修行しなければならない。なぜなら、それは過去世で自分がきちんとできなかったからこそ、今世で在家衆として生まれ、これほど多くの煩わしさを抱えているということだからだ。だからこそ、この一生で決心しなければならない。「自分は人間だから仏法を学ばなくていい」「信者として来るだけでいい」「帰依しなくてもいい」「帰依弟子のベストを着なくてもいい」などと思ってはならない。帰依を求めるということは、未来世において、もう人として輪廻したくないと願うことだ。しかし、あなたたちの今世の行いはすべて人間の行為ばかりではないか。それでどうして阿弥陀仏のもとへ行くことができるのか。
阿弥陀仏を念じさえすれば行けると思うな。阿弥陀仏の浄土と、妙喜国・不動仏の浄土は同じではない。阿弥陀仏は中国でとても盛んで、多くの人が阿弥陀仏を念じている。だが、阿弥陀仏のところでは、修行は基本的に一人で行う。毎日、蓮の花の中に閉じこもるのだ。一方、妙喜国・不動仏のところへ行くには、この一生で菩薩の果位まで修行していなければならない。眷属がいれば、向こうへ行っても同じように眷属がいる。この違いだ。どちらにも出家衆はいるし、どちらも菩薩道を修する。しかし決定的な違いは、阿弥陀仏のところへ行ったら、完全に単独だということだ。だから、この一生で何一つ放下できない者は、阿弥陀仏のところへは行けない。どうやって閉じ込めるのだ。一日閉じ込めただけでも耐えられないだろう。もし体に刀を持っていたら、すでに蓮の花を切り裂いて飛び出している。刀がなければ、花を引き裂いて出ていくだろう。(一同笑)
この一生であなた方が訓練してきたことが、そのまま来世を決める。人間の行為が強ければ人として生まれる。畜生の行為が強ければ畜生になる。餓鬼道の行為をしていれば、餓鬼道へ行く。さきほど話した、金は持っているのに、死ぬ前に私へ供養しなかった者がいる。この一生では、たとえ私が済度して三悪道に堕ちさせなかったとしても、私は断言できる。どこかの一生で、必ず餓鬼道へ行く。なぜか。供養を惜しみ、供養を計算しているからだ。「計算する」とはどういうことか。損か得かを計算し、自分に利益があるならやる、利益がなければやらない、ということだ。口では「リンポチェに感恩します」と言う。では家はどうだ。これはわざとあなた方に言っている。私はあなた方の家が欲しいわけではない。私は今まで多くの家を返してきた。だが、供養を計算するな。供養は供養だ。はっきり、清らかに行え。
リンポチェがこの一生で修行を成し遂げることができたのは、過去世の善根もあるが、最も重要なのは、私は本当にもう人として生まれたくない、という一点だ。私の人としての行為は、この世に生きて仏法を弘揚し続けるためだけのものだ。それ以外に、人間的な思考や人間的な行為はとても薄く、ほとんどない。皆はコンサートに参加したことがあるだろう。出家者は行けないとしても、どの公演でも、出演者が最後に総裁へ感謝しないことがあるか。私は行ってもいいはずだ。服を着れば格好いいし、舞台に立てば、皆は拍手するだろう。では、なぜ私はそれをしないのか。それは、コンサートを開く目的が、金を稼ぐためではないからだ。一つのコンサートを開けば、少なくとも百人以上が給料がもらえる。ほんの数千元を使うだけで、これほど多くの人が皆の恩恵を分かち合うことができる。これこそが、皆の善い因縁を積み重ねているということだ。彼らが舞台の上で総裁に感謝し、寶吉祥に感謝するとき、彼ら自身もまた、未来に善い因縁を得ることになる。
チケットを買うことも、一種の布施である。表面上は楽しみに行っているように見えるが、今では皆、このコンサートが回を重ねるごとに良くなっていることを知っている。参加しているスタッフたちも、寶吉祥はお金を差し引いたりせず、約束をきちんと守る道場だと分かっているから、安心して仕事に来る。あなた方が参加すると、彼らは「自分たちが歓迎されている、好かれている」と感じる。だから彼らも嬉しくなる。皆が嬉しければ、自然とあなた自身の生活も楽しくなる。ところが、多くの人はこう言う。「仏法を学んだのだから、こういうものには参加しなくていい」と。それはでたらめだ。それなら、いっそ森に入って出家すればいい。ここで言う「人間的な生活を減らす」というのは、行動のことではなく、思考のことだ。しかし、これほど複雑な商業社会においては、人としての生活は必要になる。あなた方には、自分で善い因縁を作る力がまだない。だから上師が、さまざまな方法を用いて善縁を作り、あなた方を参加させる。そうして、気づかないうちに、意図せずとも、善行を行っているのである。
だから将来世、もしあなた方が再び修行する機会を得たなら、必ず信衆がいるようになる。なぜなら、これらのコンサートに参加した人々、そしてあなた方が連れてきた親戚や友人たちは、皆「感謝」の心を持っているからだ。感謝の心があれば、あなたと善い因縁が結ばれる。あなた方はずっと、仏法は「一来一往」、つまり与えたら返ってくるものだと思っている。しかし仏法はそんなに単純ではない。とても複雑なのだ。だから前に言ったように、菩薩は衆生の汚れた心を理解しなければならない。どのような方法で助けるべきかを理解し、相手が気づかないうちに、形のないところで助ける。それこそが、最も高い仏法である。必ずしも毎日「阿弥陀仏」を念じる必要はない。相手が聞こうとしないのに、あなたはまだ相手に対し阿弥陀仏を唱え続けるのか。
以前、あなた方に話したことがある話だが、もう忘れているかもしれない。長く帰依している人は聞いたことがあるが、若い人は聞いていないだろう。ずいぶん昔、飛行機で昆明へ行った時の話だ。当時は小型機で、乱気流がひどく、昆明に着くまでずっと激しく揺れていた。その頃は皆エコノミークラスで、3席一列だった。私の隣にはアメリカ人の老夫婦が座っていた。最初は少し会話をした。彼は中国語で話し、私よりも標準的だった。彼の父親と彼自身はキリスト教徒で、以前雲南で布教していたため、中国語がとても上手だった。長年帰国していなかったが、開放されたので一度見に来たと言っていた。宗教観の話になったとき、私が「私は仏教徒です」と言った瞬間、会話は止まった。それ以降、視線すら合わなくなった。雲南に近づいた頃、飛行機が激しく揺れ、彼の妻が大声で叫び出した。夫がどれだけなだめても、まったく効かなかった。そこで私は振り向き、中国語で彼女にこう言った。「あなたはキリスト教を信じているでしょう。あなたの主はあなたを守ってくれるはずです。安心してください。何も起こりません。」彼女は叫ぶのをやめた。これ以上叫んだら恥ずかしいと思ったからだ。もし私が「観世音菩薩があなたを救います」と言っていたら、彼女は受け入れなかっただろう。彼女は「Who? What?」と聞いたはずだ。だから私は言った。「あなたはキリストを信じている。キリストがあなたを守ってくれます。」
我々仏教徒は、決して一つのやり方に固執することはない。衆生の悩みを解決できるのであれば、その人が慣れ親しんでいる方法を用いて助ける。今回の日本での法会も同じである。私は、茶道による献茶を行わせ、笛を吹いて献楽させた。それが私に必要か。必要ではない。しかし、日本人は「尊重されている」と感じる。そうすれば、彼らはまた来るようになる。これこそが、先ほど述べた「多くのものを積み集める」という意味である。あなた方が私の前で、どれほど奇妙なことをしようとしても、通用しない。あなた方は分かっていない。あなた方のリンポチェは、他の修行者とは違う。私は幼い頃から深山に隠れて修行してきたわけではない。この世間の中で、長い時間を生きてきた。あなた方のそうした奇妙なことについても、私は多少なりとも見聞きし、知っている。だからこそ、私のもとで仏法を学ぶのであれば、おとなしく仏法を聞きなさい。自分が「すごい」と思っている部分を、私の前で見せようとしてはならない。なぜなら、あなたが「すごい」と思っているその部分は、ほとんどの場合、他人を傷つけ、陥れるものだからである。私がそれを見れば、必ずあなたを整える。それならば、ここに残って何をするのか。
ここは、極めて純粋に仏法を弘める場所である。私は、あなた方に何かを要求しているわけではない。しかし、あなた方は必ず仏法を聞かなければならない。必ず仏法を用いて日常生活を送らなければならない。決して、今日は少しやり、明日はやらない、そのようなことをしてはならない。それでは力が足りないのである。たとえば、彼らは「一週間に三日、《仏子行三十七頌》で自分を省みている」と言っていたが、三日というのは、すでに大げさである。私が見る限り、せいぜい一回である。それで、どうして修行になるというのか。リンポチェが口伝で伝えた法すら聞き入れない。そのような者が、他の法を聞き入れることなどできるはずがない。一日中、「もっと法が欲しい」「もっと教えを受けたい」と思っているだけでは、何の役にも立たない。五戒十善も守れない。師長を尊重することもできない。そのような状態で、いったい何の法を学ぼうというのか。
浄土宗で修する三福のうち、第一の福は「師長を礼敬すること」である。「礼」とは、師弟の礼を守り、従うことである。「敬」とは、恭敬の心をもつことである。師長を礼敬しない者は、阿弥陀仏のもとへ行くことはできない。なぜなら、阿弥陀仏の浄土では、阿弥陀仏、観世音菩薩、金剛手菩薩が法を説き、多くの菩薩が法を説いており、皆が師長となるからである。もし地球上で、師長を礼敬しないことに慣れていれば、その世界に行っても、自然と師長を礼敬しなくなる。『宝積経』には次のように説かれている。過去世に行わなかったことは、この一生には起こらない。この一生に行わなかったことは、未来世にも起こらない。この一生に行ったことは、未来世に必ず起こる。だからこそ、私は常にあなた方に、善を行い、戒を守るよう勧めている。それは、あなた方の未来世に起こることが、すべて善であるよう願っているからである。
この一生は、ほんの数十年で過ぎ去ってしまう。私自身も、七十八歳まで生きているとは思っていなかったが、これもすぐに過ぎていく。私がまだ生きているうちに、あなた方は、私が勧めているすべての善を、きちんと心に入れて聞き、そして実際に行わなければならない。中途半端に行ってはならない。昨日、息子に金封を持たせて供養させようとした弟子は、まさに師長を礼敬していない例である。彼女は自分の欲望のためだけに行動していた。それは、息子を帰依させたいという思いであり、その欲望を満たすために、師長が何を言っても、耳に入らず、分からなくなっていたのである。私は、その供養を受け取ることもできたし、「まだ帰依の時期ではない」と言うこともできた。しかし、私が定めたルールを、私自身が破ることがあるだろうか。
寶吉祥が仏法を弘めて数十年になるが、他人から攻撃される機会は非常に少ない。なぜか。それは、この一点を守っているからである。他人の財路を遮らないということだ。私の弟子でない者からは供養を受け取らない。だから外部から攻撃されることがない。もし私がすべての供養を受け取っていたなら、人々は「全部取り尽くされた」と感じるだろう。だから私は自分を犠牲にして、仏法全体を成り立たせているのである。中には済度を求めて来る人もいるが、私が「縁がない」と感じた場合は、出家衆に指示して、各地の名山へ行って済度を申し込むよう勧めている。私は「分かりました」と引き受けることもできる。しかし、それはできない。私は菩薩道を修している者であり、縁があるかないかを知る力がある。縁がないにもかかわらず無理に助ければ、助けにならないばかりか、その人に口業を作らせてしまい、かえって良くない。それならば、いっそ自分で縁があるかどうかを試してもらうほうがよい。私はこれまで多くの人を外へ紹介してきた。そうだろう?(出家衆答:はい)彼らは皆、紹介してきた。縁がある者は私が助ける。縁がない者は、誰であっても同じである。
以前にも、ある会社が私のために仕事をしてくれたことがあった。その社長の母親が亡くなったが、彼は仏法を信じていなかったため、私は別の場所へ行って済度を求めるように伝えた。もし私が少しルールを緩めていれば、もっと楽に生きられるだろう。昨日、法を求めに来た者たちもそうだ。引き受けてしまえばよかったではないか、なぜここまで厳しいのか、と。修できるかどうかは彼ら自身の問題なのだから、と考えることもできる。しかし、私はそれができない。なぜなら、私は自分がどのように修行してここまで来たかをはっきり知っているからである。私は法本すら持たずに、上師相応法も、修し出した。なぜできたのか。私はチベット語が分からない。法王が口伝されたとき、すべてチベット語であった。一音も理解できなかった。それでも私は修し出した。なぜなら、そこにあったのは「信」と「恭敬」だけであり、他の考えは一切なかったからである。この法を得たら自分が良くなる、偉くなる、などという思いもなかった。しかし、あなた方は私と正反対である。だから、あなた方がどのような法を求めても、たとえ私が伝えたとしても、修し出すことはできないのである。
祖師 ジッテン・サムゴン著作《一意》。
今日、私はジッテン・サムゴンが著した『一意』を読んだが、その中にちょうど「戒」について述べている一篇があり、まさにあなた方に必要な内容であった。ジッテン・サムゴンは次のように述べている。世には、戒とは比丘や沙弥など、特定の戒を受ける者のためにのみ制定されたものだと主張する人がいる。しかし本宗では、一切の戒制は、すべての衆生のために制定されたものであると主張する。我々は戒を受けた後、この戒を用いて自らの身・口・意を制御しなければならない。これを戒制という。直貢噶舉では、一切の戒制は全衆生のために制定されたものであると考える。つまり、すべての有情衆生が守るべきものである。仏陀は前後して三度、法輪を転じられた。そのうち、律蔵は、仏に随従する弟子たちのために特別に制定された戒制である。人々がよく言う「三蔵法師」とは、経・律・論の三つすべてに精通した者を指す称号であり、かつて玄奘が三蔵法師と称されたのも、そのためである。
律蔵とは、戒律を意味する。これは、かつて釈迦牟尼仏に随って修行していた弟子たちのために制定されたものであり、特に比丘のために設けられた戒制である。もし比丘がこの戒制に従って行動しなければ、僧残となる。たとえ出家の姿を保っていたとしても、それは不完全な身であり、堕(堕落)であり、粗過(粗重な過失)であり、分別悔であり、悪作、すなわち行うことすべてが誤りとなる。なぜなら、比丘の戒は比丘に対して伝えられたものであり、他の一切の有情衆生に向けて説かれたものではないからである。したがって、それは他の衆生に対して制定された戒制ではない。
これについて、ジッテン・サムゴンは「一切の戒の制定は、我々の自性の智慧、すなわち本来清浄である法性の智慧と同一である」と説いている。我々の自性が最も忌み嫌うものは、貪・瞋・癡・慢・疑という五毒であり、一切の戒はまさにこの貪・瞋・癡・慢・疑を対象として制定されている。したがって、両者は本質的に同一であり、一切の戒制は全ての衆生のために設けられたものである。佛陀於最初發心也是為饒益有情而發心,於中間積資也是為饒益有情而積資,於最終成佛也是為饒益有情而成佛(仏陀は、最初に発心されたときも、衆生を利益するために発心された。修行の途中で資糧を積まれたときも、衆生を利益するために資糧を積まれた。最終的に成仏されたのも、衆生を利益するためであった)。これは、先ほど述べた『宝積経』の内容とも呼応している。仏がなされたすべての行いは、有情を利益するために成仏するという一点に帰着する。同様に、法輪を転じることもまた、有情を利益するために転じられるのである。
薄伽梵は『法句経』において、給孤独長者園で阿難に次のように開示された。「一惡不做,圓滿善行,盡律自意,此乃佛教」。(一切の悪をなさず、善行を円満にし、自らの意を律する。これこそが仏教である。)帰依のときにも言ったが、我々にとって最も重要なのは、釈迦牟尼仏が阿難に示されたこの教えである。すなわち、一つの悪も行わなければ、すべての善は円満となる、ということである。では「一つの悪」とは何か。たとえば、先ほど私が叱責したいくつかの行為は、すべて悪であり、その時点で善は円満とはならない。なぜリンポチェは、常に人間的な思考や行為で仏法を学ぶなと勧めるのか。それは、人間の思考と行為は、百分の百すべて悪だからである。『地蔵経』には、「起心動念皆是業皆是罪」と説かれている。では、すべてを放棄すべきなのか。そうではない。「仏法を学んでいるのだから、身外のものは気にしない」という考えは、まったくの虚言であり、自己を高く見せる慢心である。五戒十善に背くものはすべて悪であり、ほんのわずかでも悪が残っていれば、どれほど多くの善を行っても、善は円満とはならない。それゆえ、この一生においては、善と悪が絶えず交互に現れることになる。悪を断つためには、必ず善を行わねばならない。善を円満にするためには、わずかな悪であっても行ってはならない。「少し怠けてもよい」「物事はゆっくりやればよい」「暇ができたらやればよい」と思うことも、すべて悪である。また、仏法を学んでから初めて戒を守ればよい、という考えも誤りである。ジッテン・サムゴンは明確に説いている。一切の戒制は、すべての有情衆生のために制定されたものである。
戒制とは、戒を用いて貪・瞋・痴・慢・疑を制御することである。なぜ帰依のときに五戒を授けるのか。それは、あなた方の貪・瞋・痴・慢・疑を制御するためである。たとえば、高利貸しに手を出したり、法律を犯した二人の若者を考えてみよ。もし彼らが五戒を覚えていたなら、法律を犯したり、高利貸しに手を出したりしただろうか。しなかったはずである。それは、忘れたからだ。貪の念が一度起これば、すべての戒は頭の中から消え去り、結果としてトラブルが起こる。トラブルが起こるのは、実に簡単なことである。
一切戒制是為全眾生而做戒制,單純是為了戒律取捨而宣說。(一切の戒制は、すべての衆生のために制定された戒制であり、ただ戒律における取捨の基準を示すために説かれている。)なぜなら、私たちは取捨を知らず、この行為が正しいのか誤っているのかを判断できないからである。なぜ五戒十善を守るよう勧めるのか。なぜ『仏子行三十七頌』を用いて自分自身を点検するように言うのか。それは、取捨の方法を持たせるためである。これらを基準として取捨を行えば、大きく誤ることはない。それでも分からなければ、来て尋ねればよい。しかし、あなた方はたいてい尋ねようとしない。自分自身の利益が最も重要だと思っているからである。
昨日、ある弟子が供養しに来たが、「この金は自分が悪いことをして得た金ではない」と言った。私は受け取らなかった。なぜなら、彼は何十年もの間、雇い主のために不正な帳簿を作ってきたからである。今は癌を患い、もうすぐ亡くなるという段階になって、ようやく一年以上前に父親から受け取った金のことを思い出したのだ。なぜ今になって思い出したのか。それは今、痛みがあり、自分が死ぬと分かったからであり、その金で何かと引き換えにしようとしているからである。もし本当に供養の心があり、自分が不正な帳簿を作ることが間違いだと分かっていたなら、一年余り前にその金を供養していたはずである。なぜ当時しなかったのか。それは彼が、不正な帳簿を作ることを間違いだと思っていなかったからである。雇い主に命じられたことであり、自分は悪くない、ただ給料を少し多くもらっていただけだと思っていた。雇い主のために不正な帳簿を作ることは脱税であり、海の向こうでは刑務所に入る行為である。彼は辞職してやめることもできたが、戒よりも金が重要であり、仏法よりも金が重要だった。今、癌になって初めて一年以上前の金のことを思い出したが、その時でさえ供養しようとは思い出せなかった。私は彼にはっきり言った。その金は清浄ではないから受け取らない。たとえそれが父親からもらった金だと言っても、同じく受け取らない。供養の心がないからである。彼は私の帰依弟子である。私はあなた方に約束している。私の帰依弟子である限り、この一生において三悪道に堕ちないよう必ず救う。それは私の約束である。しかし、供養を受け取るかどうかは、私が決めることである。私はそれほど簡単に買収されるのか。
五戒十善と『仏子行三十七頌』は、あなた方に取捨を理解させるためのものである。それを用いないということは、貪・瞋・癡・慢・疑を捨てることができないという意味である。では、仏が説いた「無所遮立平等性」とは何か。これは依然として「遮」と「立」の範囲の中に含まれている。平等性を悟るこの本来の智慧は、煩悩を断つために用いられるものであり、これは遮制である。功徳がその境界の中で働くことは、立制である。この一段は、先ほど私が説いた『宝積経』の中の平等性と呼応している。ジッテン・サムゴンの著作は『宝積経』を根拠としており、ここは直貢噶舉の道場であるため、私は必ず『宝積経』を説く。此了悟平等性的本慧(この平等性を悟る本来の智慧)とは、平等性が自分の根本の智慧から生じ、去斷除煩惱所斷(煩悩を断つために用いられる)ということである。平等性智をもって煩悩を断ち、善悪を過度に分別せず、何かを過度に愛着することもなく、捨てることを知るべきである。この「捨」とは、不要にする、捨て去るという意味ではなく、それに執着しないという意味である。
私は自分の子どもを愛しているのか。愛している。生まれてから小さい頃から育て、オムツも替え、食事も食べさせてきた。愛していないはずがない。私は父親として十分に役目を果たしてきた。ここにいる多くの父親は、子どものオムツを替えたことも、洗ったこともないだろう。なぜなら、何十年も前には紙オムツがなく、毎日洗わなければならず、どうやってオムツを包み、どう留めるかまで分かっていなければならなかったからだ。私はそれを全部やってきた。私は平等に捨てることができる。彼が仏法を学ばないなら、私との関係はただの父子の縁である。それを私は捨てる。あなた方のように、わざわざ子どもにお金を持たせて、帰依を求めさせるようなことはしない。それは執着である。執着すれば、必ず苦しみが生まれる。私は「子どもを捨てろ」と言っているのではない。しかし、このように執着し、子どものすべての欲望を必ず満たそうとするなら、いずれ何かが起きたとき、苦しくないのか。苦しいのである。
したがって、去斷除煩惱所斷(煩悩として断じるべきものを断除すること)、すなわち平等性で断つことが「遮制」である。功德從其境中運行,是立制(功徳がその境の中で働くことが「立制」)である。つまり、平等性という本来の智慧を用いて、煩悩として断じるべきものを断除するならば、それが遮制であり、功徳はその境界の中から自然に働き始めるのである。あなたが仏法を学び、煩悩を平等心によって断除してこそ、功徳は修行の境界の中で働き、生活の境の中で働く。そうでなければ、功徳は生じない。なぜあなた方は、いくら修行しても功徳が現れないのか。それは、平等性をもって煩悩を断っていないからである。煩悩は減るどころか、ますます増えている。本来、仏法を学ぶことは煩悩を断つためである。しかしあなた方は、煩悩を断つどころか、かえって煩悩を増やしている。仏や菩薩に何かをしてほしい、リンポチェに何かをしてほしい、助けてほしい――それらはすべて、貪・瞋・痴・慢・疑の煩悩が絶えず働いている姿ではないか。もし煩悩を断つことができれば、あなたの功徳は修行の環境の中で自然に働き出す。ちょうど先ほど話したように、私がコンサートを開催することもまた修行なのである。
あなた方は知らないかもしれないが、私は毎回コンサートの前日に必ず会場へ行く。名目上はリハーサルを聴きに行くということになっているが、実際には一人ひとりに二千元の金封を渡し、さらに一人ひとりに深くお辞儀をして感謝を伝えている。彼らは全員すでに給料をもらっている。それなのに、なぜさらに金封を渡し、しかもお辞儀をして感謝するのか。それは平等性智である。彼らは労力を提供し、多くの人を喜ばせてくれている。だから私は彼らに感謝しなければならない。もし平等性智を修得していなければ、金を渡すだけで済ませ、わざわざ立って配り、一人ひとりに「ありがとう」と言うことなどしないだろう。中には十代、二十代の若いダンサーもいるが、私は同じように感謝を伝えている。王姓の弟子はそばでよく見ていたはずだ。私は形だけでやっているのではない。本当に一人残らず、そうしている。そうではないか。(王姓の弟子:「はい。」)これはすべて仏法から来ている。金封を渡すことは、相手に吉祥を与えることである。だからこそ、私はこれほど長年コンサートを開催してきても、常に平安で、静かに行われてきた。昨日の地震も、幸いコンサートの最中ではなかった。(大衆拍手)もしコンサートの最中に起きていたら、どうなっていたと思うか。大混乱になり、人はステージから転げ落ち、ギターは轟音を立て、ドラムも乱れていたはずだ。それもすべて、仏菩薩の加護である。
だから、一切の功徳はすべて「境」にある。すなわち、生活している環境の中で運行しているのである。煩悩を断つことができ、戒を守っているなら、たとえ人に食べ物を一つ与えるだけであっても、それはすべて修行である。ゆえに、環境の中で行う一切の行為は、すべて功徳の中で運行している。今、理解できたか。では、なぜリンポチェはコンサートを開催するのか。あなた方は「なぜ弟子なのにチケットを買わなければならないのか」としか考えない。あなた方は、この一生で衆生との縁を結ぶ資格がどこにあるというのか。まして今の台湾はこれほど荒れ、毎日のように問題が起きている。それでもなお、衆生と善縁を多く結ぼうとしないのか。
ジッテン・サムゴンは、この制度を確立した。身分が何であれ、戒制を守る功徳と、戒を守らないことによる過失、この二つは必ず現れる。ゆえに、純粋な善でない限り、この二つは必ず現れ、誰もが両方を行ってしまうのである。だからこそ、法王は一切衆生のために戒制を立てたのである。ここで言う法王とは、一つの教派における法の保持者を指す。では、何の法か。それは戒制である。その戒律は、法王自身の身に体現されている。なぜ私は上師相応法を、法本もなく成就できたのか。それは、私は上師を信じ、上師を尊重し、この戒を守ったからである。上師もまたこの戒を守っている。ゆえに、私は相応し、修行が成就したのである。あなた方にはそれがない。法本から多くを得て、自分のものにしようとするだけである。ここで何を語っているのか、よく理解しなさい。
もう一度言う。法王が口伝されたとき、用いたのはチベット語であり、中身についての説明は一切なかった。その後、二度と語られることもなかった。では、私はどうやって修行したのか。2007年に私が閉関したとき、法王は喜金剛を伝えてくださった。渡されたのはA4用紙数枚だけで、その使い方についての説明もなかった。では、私はどうやって修行したのか。私はただ一つのことだけを信じていた。上師が法を伝えた、それだけで「法はすでに伝えられている」ということだ。どう修行して成就するかは、自分がやることである。修行できないのは、自分が上師を信じていないからであって、上師の過失ではない。上師が教えなかったからでもない。たとえば阿弥陀仏済度法も同じだ。法王は、窓の下で日差しが比較的明るい場所に立ち、一度それを唱え、「持って行きなさい」と言っただけであった。それで終わりである。では、どう修行するのか。それは戒制である。
もちろん、私はあなた方がこの一生でリンポチェになるとは思っていない。しかし、来世においては、あなた方全員がリンポチェになることを願っている。そうなれば、私の負担は大きく減り、我々の直貢噶舉派も大いに発展することができる。だが、今のあなた方のこの有り様で、どうやってできるというのか。法を求めに来ても、言うことをまったく聞かないではないか。
法王は地界の、ある一つの区域において、善なる心によって法輪を転じている。
此乃佛陀對山仙所說,此為法王為全眾生說戒之理由一,佛陀是緣起之身,因此不作為福神與大自在天等造作物主此為理由二。(これは仏陀が山仙に対して説かれたものであり、これが法王が一切衆生のために戒を説く理由の第一である。仏陀は縁起の身であるため、福神や大自在天などの造物主として振る舞うことはない。これが第二の理由である。)まず第一の理由とは、仏陀が山仙に説いたこと、すなわち法王が一切衆生のために戒制を立てる理由である。第二の理由として、仏陀が縁起の身であるとはどういう意味かというと、ある場所に仏法を必要とする衆生がいるがゆえに、仏はその因縁によって法身を証得し、仏の法身が現れたということである。しかし仏は福神ではない。だからこそ、仏菩薩や上師に福を求めるなと、あなた方を叱るのである。この点については、私はずっと以前から学んできたことであり、いつのことかは分からないが、早くから理解していた。仏は、私たちに戒を守ることを教え、自らどのように福報を積み重ねるかを教える存在である。仏が福を与えるのではない。仏が私たちを造ったのでもない。外道が言うような、私たちを造った造物主がいて、福や愛を授けるという考え方ではないのである。だからこそ、まず仏法において戒律を学び、徹底して戒を守ることが必要である。そうしてこそ、福は生じ、功徳も生じるのである。
仏陀は大悲心そのものの身であり、いかなる過患も集めることはない。人を輪廻へと向かわせるいかなる事柄も、仏陀はそれを集めて人に与えることはない。また、仏陀は、私たちが精進して仏法を学ぼうとする心を決して捨て去ることもない。ここで言う精進とは、毎日どれほど多く経や真言を唱えるかということではない。心が精進しているかどうかである。すなわち、仏法において自らに絶えず要求し続け、進歩するかどうかではなく、止まらずに行じ続けることである。「進歩」ではなく、「不断に行い続ける」ことなのだ。よく聞きなさい。罪墮不具差別皆相同、罪による堕落には差別はなく、すべて同じである。身分が何であるかによって、堕落の罪が異なることはない。すべて等しく同じである。この続きは次回に譲る。――弟子よ、答えなさい。(出家弟子答)「戒を師とし、戒を無上菩提心とします。」――では、上師がいなければ戒はあるのか。(答)「ありません。」
自分は仏を信じているから大丈夫だと思ってはならない。自分は仏が定めた戒を受けたことがあるから戒があると思ってはならない。上師から戒を授けられておらず、上師が戒を守っているかどうかを監督していなければ、その戒は存在していないのである。自発的に戒を守ることができる者は、きわめて稀である。私は毎週日曜日に叱り続けている。いつか、叱っているうちにあなた方が目を覚ますことを願っているからだ。私は、あなた方が死ぬ直前になって目を覚ますことを望んでいない。体が健康で、きちんと生きているうちに目を覚ましてほしい。では、目を覚ますとはどういうことか。それは、自分が悪を行っていることすら分かっていなかったと気づくことである。目を覚まして初めて、仏法の殊勝さと偉大さ、仏法が自分自身と衆生にもたらす利益を知ることができる。そうなれば、仏法を放棄することはない。そうでなければ、生活の中で少し波風が立っただけで放棄し、ほんのわずかな出来事が起きただけで、また放棄してしまう。だからこそ、戒があれば、決して放棄することはないのである。
リンポチェはこの数十年、仏法を学ぶ中で多くの荒波を経験し、また、人として耐え難い数多くの困難も経験してきた。しかし、精進の心は退転せず、初心も退転していない。ジッテン・サムゴンが説いたとおり、戒を守っていれば、すべての功徳は境の中で運行する。そのため、私の生活は在家のように見えても、私の心は出家者である。私が行っている一切のことは、すべて功徳の中で運行しており、すべて衆生のためである。
だから今日、皆が寶吉祥の門下に帰依し、私の弟子となった以上、理解しておかなければならない。戒を守るというのは、あなた方を管理するためではない。私たちの根本智においては、この戒が自分たちにとって善であることは明確である。それなのに、なぜあなた方はこの戒が自分にとって良いものだと分からないのか。それは、あなた方の根本智が貪・瞋・痴・慢・疑によって覆われているからであり、そのために感覚が失われているのである。上師の責任とは、あなた方の貪・瞋・痴・慢・疑を断ち切り、取り除くことである。貪・瞋・痴・慢・疑が減少すれば、あなた方の後得智は根本智と結びつき、物事をはっきりと見通すことができるようになる。今、あなた方が見えなくなっているのは、まだ迷いから覚めておらず、「生活がうまくいっている」「事故がない」それだけで仏法を学んでいると思い込んでいるからである。
どれほど自分が優れていると思っていても、昨日の地震は怖くなかったのか。もし台北でこれまで正信の仏法をずっと広めていなかったなら、昨日の地震はとんでもないことになっていた。皆、無事だったか。(大衆:無事でした。)ガラスのコップ一つ割れていないではないか。(大衆:割れていません、リンポチェに感恩します。)(大衆拍手。)今後、コンサートのチケットを売ることについて、またあれこれ文句を言う者がいるなら、その者は一般信徒に戻せばよい。それは、上師の心を理解しておらず、上師が何をしているのか分かっていないからである。できるものなら、私のようにやってみよ。八十人以上を前にして、一人一人に金封を配り、しかも頭を下げて感謝することができるか。これは偽りではなく、自然に発露したものである。受け取る側もとても喜び、尊重されていると感じる。だからこの楽団には、いちいち指示する必要がない。彼らは自発的にきちんとやる。私は、彼らがプロの職業人であり、仕事をいい加減にするはずがないと信じている。そこにさらに尊重を与えれば、彼らは自然に自分自身を尊重し、すべてをとてもよくやり遂げる。欠点もなく、不十分なところも一切なかった。
だから人というのはこのようなものだ。尊重することを理解しなければならない。では、その尊重はどこから来るのか。戒から来るのである。なぜあの数人の弟子は、私を尊重しなかったのか。なぜ死んでから供養をするのか。なぜ供養を分けて行うのか。すべては戒を守っていないからである。上師を商売のように考え、気に入れば多く与える、そのような態度である。私は、あなた方の財産が欲しいのではない。誤解してはならない。ただ、どのように供養すべきかを教えているだけである。物事が起きてから供養するのではなく、何も起きていない時には、金がどこに隠れているのか分からず、棺桶代として取っておく、そのようなことをするなということだ。もし無一文で亡くなったとしても、たとえ一生のうちに多くの供養をしていなかったとしても、少しでも供養があれば、私は必ず多少の助けを与える。金がないことを、一日中心配する必要はない。
2026年2月7日の法会の申込人数は何人か。(担当弟子の報告:現在の申込は1800人、補欠待ち7人である。)法会に申し込んだ親戚や友人全員に伝えなさい。もし参加できないのであれば、直前でキャンセルしてはならない。後には、まだ多くの人が申込みを待っているからである。直前になって、電車に間に合わない、風邪をひいた、腹が痛い、頭が痛い、生理痛がある、座っていると脚が痛い、そのような理由でキャンセルしてはならない。親戚や友人とよく確認し、本当に参加する意思がないのであれば、必ず早めに申し出るようにさせなさい。なぜなら、あなた方が申込みをした以上、こちらは少なくとも1800人分の弁当や、多くの物を準備しなければならないからである。それでも直前でキャンセルが続くのであれば、今後は申込みの際に先に1万元を納め、参加後に1万元を返金する方式にするしかないかもしれない。(会場笑)しかし、私はそのようなやり方はしたくないのである。
人は皆、自由主義であり、参加したいと思えば参加し、行きたくなければ行かないと考えている。それ自体は構わない。参加しなくても、特に問題は起きない。しかし問題なのは、すでに申込みをしておきながら、直前になって来ないことである。そうすると、後ろで順番を待っている人が繰り上がれなくなる。「数人くらい来なくても問題ない」と思ってはならない。その数人の分だけ、本来参加できたはずの人が来られなくなるのである。そのような自己中心的なことをしてはならない。すでに12月末である。来月になってから言えばよいなどと思ってはならない。今日からすぐに伝え始めなさい。一週間に最低でも二、三回は伝えるべきである。なぜなら、来る予定の人たちは、あなた方が皆よく知っている人たちだからである。直前でキャンセルしないよう、必ず注意を促しなさい。
キャンセルしてはいけないと言っているのではない。行かないこと自体が問題なのではない。参加しないのであれば、それで構わない。ただし、2月6日や2月7日になってからの直前キャンセルはやめなさい、ということである。最近よく聞く理由に、「当日の朝、電車に間に合わなかった」というものがあるが、私はそれを信じていない。南から来ようが、北から来ようが、苗栗へ向かう列車が満員になることなど、私たちが法会に参加するその列車以外では一度もない。また、「お腹が痛い」「風邪をひいた」と言う人も多いが、自分で自分に不幸なことを言い聞かせてはならない。参加できないのであれば、「事情があって参加できない」と言えばそれでよい。
もう一度言う。あなた方は、自分の親戚や友人に必ず伝えなさい。申し込んだ以上、必ず参加すること。補欠で待っている人に迷惑をかけてはならない。参加できないこと自体は問題ではない。参加できないなら、必ず早めにキャンセルしなさい。ただし、キャンセルするなら、後悔してはならない。
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2026 年 01 月 02 日 更新