尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年11月2日

台北寶吉祥仏法センターの会衆は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従い、2003年5月25日および2003年6月15日にリンポチェが説かれた仏法開示の法話テープを、恭しく拝聴した。

2003年5月25日に説かれた仏法開示の法話テープ:

ある人が弘法人に救いを求めたが、その弘法人は疫病を恐れて病院へ行くことすらできなかった場合、そこに慈悲はあるのか。私が病院へ行くのは、自分がどれほど慈悲深いかを示すためではない。衆生に苦しみがあり、求めがある以上、その苦しみは自らの苦しみと同じであり、ただちに応じなければならず、理由を設けてはならないのである。近頃、ある名山では封山され、出家者の外出が禁止されたという。出家者とは本来、衆生に仕えるべき存在である。これほどまでにSARSを恐れるのであれば、最初から出家などすべきではない。ゆえに、必ずしも山門に留まる者だけが衆生を利益するとは限らない。なぜなら、彼らが必ずしも「衆生皆が我の母なり」という教えを受け入れているとは限らないからである。

さらに続けて説明する。輪廻とは終わりなき牢獄のごとく、戻ることのできない孤独な道を歩むようなものである。私たちは業力に引かれて輪廻の中で期限なき苦を受け、欲望に引かれて飽くことなき苦を受け、生死の尽きることなきがゆえに無尽の苦を受け続けている。輪廻三界とは、欲界天・色界天・無色界天である。私たちが生きている世界は欲界天に属し、玉皇大帝も、キリスト教もカトリック教も、すべて欲界天の中にある。「欲」とは欲望であり、ゆえに欲界天の天人であっても欲望はなお深く、依然として形ある身体構造を有している。ただし、その享受は人間よりはるかに高いだけである。外道の禅を修する者、あるいは仏門において禅修を誤った者は色界天に生まれる。色界天の衆生は欲望が大きく減少し、ただ外形のみを残す。無色界天に至れば、外形すら存在せず、ただ心の神識のみが存在する。この三界はすべて輪廻の中にある。私が今に至るまで皆に禅定を教えないのは、禅修を誤ると極めて容易に無色界天に堕するからである。たとえ禅定をいかに善く修したとしても、一念の誤りがあればなお無色界天に落ちる可能性がある。たとえ最高位である「非想非非想天」の境地に至ったとしても、最終的にはなお輪廻を免れることはできないのである。

出家の真の定義とは、三界の家を離れることである。この一生において、欲界天・色界天・無色界天という三界の家を出離することを決意しなければならない。出家とは、結婚しないことでも、事業をしないことでもなく、また必ずしも剃髪することを指すものでもない。仏経において、出家には四種がある。第一は、身も心も出家していない者である。すなわち外に出家の相を現さず、出離の心も持たない。第二は、身も心もすでに出家している者である。第三は、身は出家していないが、心はすでに出家している者である。たとえば私のように、外見は在家の相を現しているが、心はすでに輪廻の家を出離することを決意している場合である。第四は、身は出家しているが、心は出家していない者であり、外相は出家であっても、その心は出離していない出家者である。私たちは第三の形を目指して修行すべきである。なぜなら、この一生に出家の縁があったなら、すでに出家していたはずであるからだ。ゆえに、今この瞬間において、心において必ず輪廻の家を出離する決意を固めなければならないのである。

皆、心の中で今生において輪廻の家を必ず出離するという決意を、明確に固めなければならない。もし世間に対してわずかでも執着や未練を残しているなら、たとえポワ法を学んだとしても成就することはできない。未練があれば死を恐れ、死を恐れれば往生を拒み、往生できなければ六道の中で輪廻し続けることになる。心の中に出家を決意する念が生じることを恐れてはならない。それは仕事、学業、結婚や子育てとは何ら関係のないものであり、これらはすべて過去世からの因縁に過ぎない。我々には四つの事しかない。すなわち、債を取り立てること、復讐すること、債を返すこと、恩に報いることであり、必ず返し、必ず清算しなければならない。眷属がいるから修行できないなどと考えてはならない。そのような誤った思いを持ってはならない。ただ禅のみを修するなら、最終的には男女の欲を断たねばならない。ゆえに、禅宗は初祖達磨大師以来、禅を修する者は皆、出家相を現してきたのである。

在家で菩薩道を修する者にも、生死を解脱へと導く多くの法門がある。決して「在家である自分は最後には清浄法を修すべきだ」と配偶者に言い出してはならない。これは誤りである。『大蔵経』には、菩薩道を歩む者が眷属との因縁を有する場合、それを拒んではならないと説かれている。なぜならば、それは今生において清算すべき因縁だからである。在家者は出家者のような生活をすべきではなく、戒律の観点から見ても、それは戒を破り、妄語を弄する行為にあたる。学仏が行き過ぎて不自然になり、配偶者と別々に寝るなどと言い出してはならない。仏は、学仏によって他人に苦しみを与えることを決して教えていない。「学仏するなら必ず清浄法を修さねばならない」と外の人の言葉を鵜呑みにしてはならない。さもなければ多くの煩悩を生み、今生を誤り、さらには家族に仏法に対する誤った認識を抱かせることになる。その原因はまさにここにある。我々は常に「縁に随い、無理にねじ曲げない」と言っているが、実のところ、仏道修行において最も重要なのは心であり、外相は最も重要なものではない。

出家の因縁を有する者には、自然に出家相が現れる。しかし、あなた方にはその願もなく、出家の縁もなく、さらには業が比較的重く、返さねばならぬ債を背負っている者もいる。その債を出家によって逃れようとしてはならない。なぜなら、来世においても再び生まれ、再び返さねばならないからである。私も過去世では出家者であったが、債が清算されていなかったため、今生において再び来ることとなった。ゆえに誤った考えを抱いてはならない。人それぞれの因縁は皆異なるのである。自らの内心において、なぜ学仏するのかを明確にし、自らに問いなさい。その答えは極めて簡明である――輪廻の家を出離せんがためである。この一句を固く銘記し、決して忘れてはならない。この方向を確定すれば、今生が艱難であろうと順調であろうと、修道の道に影響を及ぼすことはない。もしこの方向が定まっていなければ、境界に遭遇した時、容易に退転してしまう。輪廻は三界の中にあり、いずれの処に生まれようとも、苦こそがその真の本性である。なぜならば、苦に逼迫されるがゆえに、超脱することができないからである。

人天の福報を修することもまた苦である。多くの人は一生涯仏法を学ばないが、善行によって来世に人身を得、さらには天道に生まれる者もいる。天道に至れば、初めのうちは我々よりも幸福で安楽に過ごすかもしれない。しかし、天道の寿命が尽きれば、最終的には地獄へと堕するのが常である。その理由は二つある。第一に、天道の衆生は大神通を有するため、死の前に自らの終末を予知し、怨恨の心を起こす。第二に、天人が死に臨む時、その眷属や友人は皆そのもとを離れる。これは天人が神通によって、その者の死期が近いことを知り、近寄ることを避けるためである。死にゆく天人は、髪は乱れ、身体は悪臭を放ち、自らが地獄へと堕ちることを知って恨みの念を生じ、さらには仏を誹謗するに至ることもある。通常、天道に至る者は、過去世において多少なりとも仏法を修した者であり、とりわけ無色界天に至る者は、自ら修したものを涅槃であると誤認する。しかし、自らがやがて地獄へ堕することを悟った時、仏法に対して不敬の心を起こし、その結果、地獄へと堕ちていくのである。

仏様は、必ず輪廻を断ち切らねばならないと教えている。その理由はまさにここにある。天道に生まれれば善い生活を送れると考えてはならない。天人の寿命がいかに長くとも、やがて必ず再び輪廻に堕ちるのである。ゆえに、仏法を学ぶとは、神通や感応を求めることでも、直ちに境遇が好転することでもない。それは未来世において徹底的に苦しみから離れ、もはや輪廻の苦を受けないためである。したがって、いかなる道に生まれようとも、常に「輪廻は苦である」と深く思惟すべきである。この思惟によって、仏法と上師に依り、精進して修持し、ついには成仏の果位に至ることを決意するのである。

この後、地獄の苦しみについても説示があったが、ここでは詳述しない。本日は、いかなる者が地獄に堕ちるのかについて説示する。瞋りの心が極めて重い者は、必ず地獄に堕ちる。瞋りの心とは、言葉・行動・思考のすべてを含む。我々は皆、かつて他人を憎み恨んだことがある。真に怒りが起こる前、血が上り、顔が赤くなり、心が炎のように燃える。そのような瞋恨の心が重い者は火地獄に堕ちる。なぜなら、その神識がすでにその感覚に慣れ親しんでいるからである。頻繁に怒りを発する者、あるいは怒りを胸に抑え込んでいる者も、同様に瞋恨心に属する。臨終のとき、神識はすでにその感覚に慣れているため、業力に引かれて自然と火地獄へ入り、苦を受けるのである。火地獄は閻魔王や諸仏菩薩が人を罰するために造ったものではない。このような業を為していなければ、たとえ火地獄に至っても見ることはできない。これに相応する業を為した者のみが、その境を見るのである。もしこの一生において殺生の業を犯し、父母に孝養を尽くさず、三宝に対して不敬であり、争いを好み、不当に得た利益を貪り(公務員が汚職を行い、商人が人を欺き、量目をごまかすなど)、要するに五戒を破る者は、すべて地獄に堕ちる。ゆえに経典において、仏は地獄の衆生の数は、雪の降る空に舞う雪片のごとく、数え尽くすことも、見極めることもできないと説かれている。決して誤った考えを抱いてはならない。地獄に堕ちるのは困難だと思ってはならぬ。実際には、地獄に堕ちるのは極めて容易であり、たった一つの念が、そこへと導くのである。

私が多くの人に対して、「家族に癌患者がいる場合、それを本人に隠してはならない」と常々勧めている理由はここにある。たとえ自分では言いづらくとも、医師を通して伝えることは可能である。なぜなら、もしずっと隠し続け、「癌ではない」「治る可能性がある」などと偽り続けた場合、その人は死の数日前には、自らの死を明確に悟るようになる。そのとき、彼はどのような念を起こすだろうか。彼は「自分は家族に害された」と思うであろう。「もっと早く教えてくれていれば、医師を変えることもでき、他の方法を探すこともでき、あるいは早くから仏法を学ぶこともできたのに」と感じるのである。なぜ癌で亡くなる者の九十九パーセントが地獄に堕ちるのか。それは、善知識の助けを得る場合を除く。癌で死亡する者の殺業は極めて重いからである。これが第一の理由である。

多くの人は「彼は教師であり、殺生などしていない」と言う。確かに、多くの教師は直接殺生をしていない。しかし、教師でありながら生徒を真剣に教えず、えこひいきをし、言うことを聞かない生徒を放置し、従順な生徒だけを特別に指導するならば、たとえ賄賂を受け取っていなくとも、因果の観点から見れば、それも同様に「貪汚」にあたる。このような者もまた癌にかかるのである。なぜなら、その心が毒に侵されているからであり、死に際して大きな苦しみを味わうことになる。もう一つの状況は昏睡である。多くの人は、昏睡状態にある者には知覚がないと思い込んでいるが、それは誤りである。私に能力があることを知っている人なら理解できるであろうが、私は昏睡状態の人が何を考えているかを知ることができる。なぜそれが分かるのかと言えば、その人はまだ死んでおらず、外見上は昏睡しているように見えても、神識ははっきりと存在しているからである。昏睡状態にある者の多くは、心の中でこう思う。「なぜあなたたちは私を助けないのか」と。彼は家族を怨むのである。なぜなら、家族が以前「助かる」と嘘をついたからである。そして死の直前まで激しい痛みに苦しめば、嗔恨の念を起こす。昏睡の場合は、心に怨みを抱く。いずれも地獄に堕ちる因となる。ゆえに、多くの人が「情に欠ける」と感じる方法であっても、それはむしろ正しい方法である場合がある。正直に真実を告げることは、相手がそれを受け入れようと受け入れまいと、少なくとも欺くことにはならないのである。しかし多くの人は誤った観念を持っている。「真実を告げなければ、それはその人のためになる、悲しませずに済む」と考えるが、それは決して正しいとは言えない。

多くの癌患者は、癌そのものによって死ぬのではなく、恐怖によって命を落としているのである。癌は即ち死ではない。この二つはまったく別のものである。私は以前から繰り返し述べてきたが、私に施身法を伝えた老ラマは胃癌で亡くなったものの、腹水もなく、医師にもかからず、手術も化学療法も受けず、最後は禅定に入り、座したまま往生された。なぜなら、死と病は本来別のものである。寿縁が尽きれば、病がなくとも人は逝く。寿縁がまだ残っていれば、たとえ病を得ても救われる可能性はあるのである。私たち人間は多くの誤った観念を抱いているがゆえに、輪廻し、地獄へと堕ちていくのである。政府の統計によれば、台湾では平均して9分間ごとに1人が癌を発症しており、これはSARSよりもはるかに恐ろしい。なぜ現在これほど癌の発症率が高いのか。それは水源の汚染、バーベキュー、魚を食べること、殺生などが原因であり、さらに現代人は心が冷酷で残忍となっているため、癌になる可能性はますます高くなっている。私が今日この話をするのは、あなた方に伝えるためである――一念の違いで、地獄へ堕ちることになるのだ。

『大蔵経』には次のような物語が記されている。ある大修行者が一つの寺に掛単して滞在していた時のこと、夜中に窓辺から焦げた火の匂いが漂ってきた。火事と思い驚いて目を覚まし、窓を開けて外を覗くと、そこには一人の出家者の鬼が現れていた。その鬼は、古代の囚人が嵌められていた枷を身に着け、その枷が炎に焼かれていた。枷があまりにも重いため、その出家者の鬼は枷を窓辺にもたせかけていたので、そのために焦げた匂いが立ちのぼっていたのである。修行者は、この鬼に対して「なぜこのような果報を受け、地獄に堕ちてこのような苦しみを受けているのか」と尋ねた。すると鬼はこう答えた。自分は過去世においてこの寺の住職であったという。ある人が大殿に安置する仏像を造るために多額の供養金を捧げ、用途を明確に指定したが、自分はその資金を流用し、僧侶たちが住む寮房の建設に充ててしまった。そして自分の私的な利益のためではなかったとはいえ、約束を違えたがゆえに、地獄に堕ち、燃える枷を背負う報いを受けることになったのである。それゆえ、私は約束を破る者たちをなぜ厳しく戒めるのか、今になってその恐ろしさが分かったであろう。一生のうちに他人に約束して果たさず、人を幾度も失望させ、苦しめてきたではないか。では、地獄に堕ちる条件がないと言えるであろうか。いったい何を誇れるというのか。この物語の中の人物は、一銭も私利のために使っていないにもかかわらず、ただ約束を破ったというだけで、これほど重い果報を受けたのである。幸いにも彼は過去世に修行をしていたため、この大修行者に出会い、読経によって済度されるという因縁を得た。しかし、もしこの世においても修行せず、ただ業を造り続けているならば、地獄へ堕ちるのは極めて速いであろう。

なぜ私はあなた方をこれほど厳しく導き、仏法を拝聴する際に背もたれにもたれかかっているだけで叱責するのか。それは、あなた方が仏法を聞いているとき、決して一人で聞いているのではないからである。累世の眷属や祖先も、あなた方と共に仏法を聞いているのである。あなた方の不恭敬な態度によって、彼らは救済される機会を失い、その善縁を断たれてしまう。つまり、彼らを害しているのは他ならぬあなた方自身であり、その結果として地獄に堕することになる。なぜ三宝を恭敬しなければならないのか。それは仏菩薩が我々の恭敬を必要としているからではない。あなた方が三宝に恭敬の心をもって接するとき、宿世におけるすべての冤親債主や眷属が度脱され、歓喜の心を起こしてあなた方を助けに来るからである。しかし、三宝を恭敬せず、怠惰な心で仏法を聴き、居眠りをし、椅子にもたれかかって聞いているならば、冤親債主や歴代の祖先はあなた方を責め立てるであろう。彼らはようやく仏法を聴く機会を得たのに、あなた方は真剣に聞こうとしないからである。それは自分自身に対してだけでなく、歴代の祖先に対しても申し訳のないことである。科学者たちはスコットランドにおいて九千年前の人類の骨を発掘し、その遺伝子が近隣の村に住む数名と全く同一であることを発見した。人類の歴史から見れば九千年は非常に長い年月のように思えるが、虚空の時間からすれば極めて短いものである。そうであるならば、私たちの前にいかほど多くの祖先が存在したかを、どうして信じないでいられようか。

なぜあなた方にこれほど厳しく求めるのか。それは私が責めることや罰することを好んでいるからではない。地獄に堕ちることがいかに容易であるかを、私は誰よりもよく知っているからだ。もし慎重さを欠き、注意を怠り、なお緩んだ心で気ままに日々を過ごすならば、たとえ仏を学び、経を誦し、比丘・比丘尼の姿を現していたとしても、地獄に堕ちることは避けられない。私は経典を読む際、他の人とは見方が異なる。衝撃を受け、警鐘となるような内容こそを好んで読む。多くの名相や理論は読まない。我々は在家であり、そうした語句を研究する必要はない。自分たちにとって何が助けとなり、何が誤りへ導くのか、それを知ればよいだけである。地獄に堕ち、さまざまな刑罰と苦しみを受けるのは、生前に約束を守らず、多くの衆生に苦しみを与えた結果である。ゆえに神識がその苦を受けるのであり、決して仏が罰するのでもなく、閻魔王が魂を引きずって懲らしめるのでもない。すべては、生きている間に自ら作り出した業力の結果なのである。

ここでは、地獄に堕ちる者の相、特に火地獄に堕ちる相についても説かれている。近年、多くの若い男女がヘアジェルをつけて髪を逆立て、乱れて上に突き出した髪型を好んでいるが、これこそ地獄の相である。なぜ昔の人は「髪をきちんと整えよ」と言ったのか。それは単なる礼儀の問題ではなく、深い道理がある。生きている間にどのような相を現しているかによって、死後に向かう世界も決まるのである。私が「あなた方の顔には角ばった稜がある」と言うのはなぜか。そのような相は、将来牛か羊に生まれる相であり、多少福報があれば動物園で飼われるサイとなることもある。顔の相が変わらないのは、心が変わらないからであり、依然として悪を作っているからである。外相は心の反映であり、奇抜さや怪しさを好むのは、その心もまた怪しいということであり、この一生が終われば「怪なる世界」に引き寄せられるのである。ある少女は鼻にピアスをし、耳には八つの穴を開けていた。叱っても理解できないため、私はただ一言、こう尋ねた。「お金持ちの奥様で、鼻に穴を開けている人を見たことがありますか?」彼女は「ありません」と答えた。私は言った。「そうでしょう。ここに穴を開けた瞬間、お金はなくなり、良い男性も寄ってこなくなるのだよ。」すると彼女はすぐに鼻のピアスを外した。これが“随機度衆”である。彼女はまだ十代であり、難しい道理を説いても理解できないからだ。

生きている間に、人には人の相があり、鬼には鬼の相があり、畜生には畜生の相がある。これらはすでにこの世において顕現しているのであり、修行者の相もまた同様に現れる。今日に至ってもなお、皆の様子が暗く冴えず、容貌に変化が見られないのは、心が変わっていないからである。どれほど驕りを抱き、「聞きたくない」「つまらない」と感じようとも、それはすべて自らの問題であり、仏は決して我々を欺くことはなく、また欺く必要もない。もし不幸にも地獄に堕ちたならば、その期間は一、二年や十年、二十年といった短いものではなく、少なくとも人間界の千年に相当するものである。決して「十年で出てきて再び立ち直れる」といったものではない。ゆえに、七月の鬼月を「鬼門が開く時期」とするのは民間の迷信に過ぎない。一度地獄に堕ちたならば、業報を償い尽くさない限り、決して出ることはできない。修行者による済度の助けがなければ、不可能なのである。「鬼門が開く」などということは断じて存在しない。今日もし不幸にも地獄に堕ちたならば、その苦しみの期間は人間界に換算して少なくとも千年であり、この千年は最低限の基準であって、それ以上に及ぶことも決して少なくない。

この後の記述には、火地獄、夾山地獄など、数多くの地獄の様相が説かれている。中には、瞋りの心が極めて重く、日々争い続け、殺されてもすぐに蘇り、また再び争いを繰り返す地獄もある。またある地獄では、衆生が北京ダックのように、肛門から鉄の串を刺され、火の上で焼かれるのである。では、鉄串に刺して焼くバーベキューを「楽しい」と感じている者たちよ、よく心得よ。もしおまえたちが地獄に堕ちれば、鬼卒が同じようにおまえたちの肛門から鉄の串を刺し、焼き尽くすことになるのだ。それはまさに、おまえたちが楽しんでいる焼肉と何ら変わらない。ゆえに、親たる者は子どもをバーベキューに連れて行ってはならない。「他の人も皆しているから問題ない」「一度くらいなら構わない」と思ってはならない。ここにいるある子どもは、人に誘われて河辺でバーベキューに参加しただけであったが、その行為によって龍族を傷つけ、帰宅後に難治の病を患った。医師の手には負えなかったが、私が治療してようやく回復したのである。

鉄板焼きを好む者は、死後、地獄において鉄板の上に置かれ、焼かれることになる。一片の肉を焼くだけで「自分は殺していないから問題ない」と思ってはならない。ある衆生は死後も(鶏や鴨、さらには人間を含め)、なお肉体に執着し、神識が離れていないことさえある。その肉体が切られ、焼かれるとき、彼らは大きな苦痛を受けるのである。たとえ神識がすでに離れていたとしても、焼かれ、切られることに対する苦しみは依然として生じる。私たちの目には見えないが、例えば百匹の魚を殺したうち、四十五匹ほどは神識がまだ離れていないこともある。そうした魚を煮たり揚げたりすれば、死後に受ける果報は、彼らが受けた苦しみとまったく同じものとなる。場合によっては、死後を待たずして、熱湯を浴びて半身に大火傷を負う者や、火に焼かれて死ぬ者も、かつて同様の行為を行ってきたことによる報いなのである。

火地獄にはさらに「大号叫地獄」と「小号叫地獄」という区別がある。私はかつて、夜八時過ぎに有名な教育病院の腫瘍科へ赴き、病人を加持したことがある。ひと部屋に四人の患者がいたが、そのうちの一人が痛みに耐えきれず叫び始めると、隣の者も次々と叫び出し、その様子はまるで「号叫地獄」の如きであった。その声は極めて凄惨で、まるで豚や牛が殺される直前に発する悲鳴のようであり、経典に説かれる「大号叫地獄」「小号叫地獄」を思わせるものであった。殺生の業を多く重ねた者ほど叫びはさらに凄まじく、とりわけ殺すことを楽しみとした者は、その苦しみもまた格別である。

最も苛烈なる熱地獄の一つには、巨大な鉄鍋が存在し、その鉄鍋は三千大千世界にも匹敵するほどの大きさを有し、溶けた銅を水のように満たして衆生を煮えたぎらせる。その様は、まさに生きたままの無数の動物を湯の中へ投げ入れて煮るがごとき惨状である。また、地獄には刀林地獄、鉄器林地獄など種々の別もあり、その所在も一様ではない。あるものは地球上に、あるものは他の星々に、またあるものは深海の底に存在すると説かれている。

チベット人は古来より、魚を食すことは決してしなかったのである。その理由は幾つかある。第一に、魚の中には龍の化身が存在すると信じられていたことである。第二に、魚は業が極めて重い存在であると考えられていたことである。第三に、魚はチベットの人々に多大な恩恵をもたらしてきた存在であるということである。チベットには天葬、火葬のほかに水葬もあり、水葬の場合、遺体は魚によって食されるのである。また、深海の魚には鬼や龍が憑依している場合もあり、原因不明の糖尿病を発症する者の中には、こうした深海魚の摂取と関係している例もあるとされているのである。地獄道の苦しみは言葉では到底語り尽くせるものではなく、よほど大きな神通力を有する者でなければ、その実相を見ることもできないのである。

さらに八寒地獄、すなわち寒氷地獄が存在するのである。この地獄に堕ちた衆生は皮膚が薄く、眼は突出し、風が吹くだけでも激しい苦痛を受けるのである。全身が凍結して水泡が生じることから、水泡地獄とも呼ばれるのである。ここは貪念の極めて重い衆生が堕ちる地獄である。たとえば、非常に気に入った物を目にしたとき、それを手に入れたいという欲望が生じ、無意識に深く息を吸い、心が一瞬冷たくなる感覚を覚えるのである。また、好意を抱く相手に対し、自分の望む言葉をかけてほしいと期待する心が生じると、待つ意識と共に息を吸い込むのである。しかし相手がその欲望を満たさず、あるいは拒まれたとき、人はまるで冷凍庫へ突き落とされたかのような感覚に陥るのである。これこそが貪念の現れであり、その結果として寒氷地獄に堕するのである。寒氷地獄の中には、くしゃみ地獄、歯打ち地獄(寒さのあまり歯を食いしばる地獄)などが存在し、いずれもこの極寒の世界で受ける苦しみである。寒氷地獄における衆生の寿命は極めて長く、斗に胡麻を満たし、百年に一粒ずつ取り出していき、すべて取り尽くすまでの時間に等しいほどである。

さらに「耕長舌地獄」というものが存在するのである。この地獄の衆生は舌が極端に長く、その上を鉄製の犂で何度も削られ、傷が癒えるたびに再び削られるのである。その痛みは舌を噛んだときの比ではないのである。他人を中傷し、是非を挑発し、人々を離間させ、上師に嘘をつき、約束したことを果たさなかった者は、この地獄に堕するのである。地獄に堕ちるのは実に容易であるため、仏は経典の中で数多く地獄の苦しみを説いているのである。営業に携わる者は人を欺いてはならないのである。商品の長所と短所を正直に伝え、相手に選択させるべきである。仏は利益を得ること自体を否定していないが、不当な利益を得てはならないのである。他人の苦しみに乗じて暴利をむさぼることも許されないのである。例えばSARS流行時にマスクの価格をつり上げること、事実を隠して人を欺くこと、量をごまかすこと、建築においてセメントや鉄筋の量を減らすことも、すべてこの範疇に属するのである。これらを語るのは脅すためではなく、人々に真摯に生活することを促し、自らの身・口・意を決して怠ってはならないと警鐘を鳴らすためなのである。

地獄や鬼道の衆生が住む場所は一定ではなく、その苦しみの様相も一定ではないのである。あるものは山や岩の間に挟まれ、あるものは氷塊の中に凍りつき、あるものは温泉の中で煮られ、またあるものは箒、瓦壺、門、柱、竈などの器物や日用品に附着して存在するのである。このような例を私は数多く見てきたのであり、鬼がおもちゃ、装飾品、鍵、衣服などに附しているのも見受けられるのである。だからこそ我々は修行し、懺悔し、仏法を学ぶのである。十分な福報を積まなければ、このような物を買わずに済むとは限らないのである。帰依したからといって絶対に手に入らないと思ってはならないのである。善を行わず、如法に修せず、殺業が重い者は、こうした物を買ってしまい、それを自宅に置くことになるのである。鬼は人を害しようとしているわけではないのである。なぜなら鬼と我々とは異なる空間、異なる磁場に属しているからである。しかし彼らは人のエネルギーを吸収するのである。簡単に言えば、運が良ければそのような物を買うことはないのである。だからこそ、私は常々、郊外に行った際にはむやみに石を拾ってはならないと告げているのである。ある衆生は石に附着している場合があるからである。

私はかつて、心臓に異常を抱える一人の者を助けたことがある。医師の検査では原因が判明しなかったが、私は彼がかつて寺院の門前でふざけた態度で写真を撮っていた場面を見ていた。その際、寺内ではちょうど喪事が行われており、鬼が彼に憑いてしまったのである。また、別の者は日々激しい頭痛に悩まされ、夢の中で追いかけられ殺されるという状況にあった。彼が私を訪ねてきたため事情を確かめたところ、彼はかつてミャンマーに滞在していた際、他人の家の門前で下品な冗談を口にし、さらにその門を足で蹴ったという。その行為によって、鬼が彼に附着したのである。

またある少年は、夢の中で戦闘機を操縦し、アメリカの飛行機と空中戦を繰り広げている場面を繰り返し見るという。私はその家を見たところ、家の中に一つの機械部品が置かれているのを見た。それは、かつて彼の父親が戦闘機の整備士であった際、機体を解体したときに記念として持ち帰った部品であり、そこに鬼が憑いていたのである。私はその部品を処分するよう指示し、その後、何事も起こらなくなった。このことからも分かるように、外においてはあらゆる人事物を尊重すべきである。万物にはそれぞれの主が存在し、必ずしも何かを取ってよい、あるいは取ってはならないという問題ではない。最も重要なのは、自らがどれほど悪を止め、善を行っているかという、その修行の度合いに他ならない。

法界には十の次元が存在し、現在の科学においてもすでに五次元の存在が証明されている。十方法界とは、六道の衆生に加え、声聞・縁覚・菩薩・仏を含むものである。これら十方法界は同時に存在しているがゆえに、人の起こす一念一念は、鬼神も諸仏菩薩も悉くこれを知るのである。もし人が善念と善行を備え、福報を具えているならば、鬼神は害を及ぼすどころか、かえって敬意をもって接するのである。

病院は鬼の集まりやすき場所であるゆえ、特段の用なき限り、子どもをむやみに病院へ連れて行かぬがよい。現代においては、人が亡くなると直ちに冷蔵庫へと安置されるが、なお往生を拒む神識は病院内に留まることがある。しかし彼らは人を害そうとするものではなく、ただ善念をもって臨むならば、恐れるに足らぬのである。帰依ある者の頭頂および両肩には光が放たれ、鬼道の衆生はこれを見て自然に離れてゆく。もし帰依後、すべて教えに従い、誓願を違えることなく行ずるならば、護法神が来護し、鬼神が近づき害を及ぼすことはないのである。それにもかかわらず、鬼を恐れ、鬼に祟られることを怖れる者は、なお貪・瞋・痴を内に有する証である。我はしばしば深夜に電話を受け、即座に起きてポワ法を修するが、少しも恐れを抱かぬ。それは我が貪・瞋・痴がすでに極めて少なくなっているがゆえである。心中の貪・瞋・痴が少なき者は鬼を恐れぬ。鬼を助けることさえ間に合わぬほどであるのに、どうして恐れるであろうか。

鬼には「怨みあれば必ず報い、恩あれば必ず報いる」という性質がある。これに対し人は、「怨みあれば必ず報いるが、恩には報いぬ」ことが多い。これこそが人と鬼との大きな差である。自ら顧みてみよ、汝らは果たして恩に報いているであろうか。報恩とは何であるか。それは「教えに依りて行じ、真実に仏法を学び、生死より解脱する」ことである。今に至るまで、それを成した者がどれほどあろうか。ゆえに汝らは、いまだ報恩を果たしておらぬのである。この一生において人として生を受けたことは、仏菩薩の加護なきにはあり得ぬ。さらに今日、この場にて仏法を聴聞する機会を得たのも、まさしく仏菩薩の導きによるものである。ゆえに人は、必ずや恩を知り、報恩の心を持たねばならぬ。仏の恩に報いるとは、教えに依りて行じ、真実に修行し、怠ることなく、常に自らを戒め、一瞬一瞬を省みて歩むことである。斯くしてこそ、この一生において生死の苦より解脱することが可能となるのである。

続いて、信衆および弟子一同は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年6月15日に示された御教示を、深き敬意をもって静かに聴聞したのである。

皆は承知の通り、今週の日曜日より、まだ帰依していない者は法会に参加し、仏法を聴聞することができなくなるのである。これに対し、多くの人は「それでは慈悲に欠けるのではないか。他人が仏法を聴きに来たいと言っているのに、なぜ拒むのか」と疑問を抱くであろう。仏道の修学には、極めて重要な二つの法門がある。それは「解門」と「行門」である。解門と行門とは、すべての学仏者が絶えず実践すべきものであり、「解」とは仏法を聴聞し、それを思惟した上で、直ちに自己の行為を改め、日常生活の中で実行に移すことを指すのである。ただ聴聞するのみで帰依しようとしない者は、第一に信心が不足しており、第二に疑念を抱き、第三に自らを過信し、第四に仏法を一種の学問として捉えているのである。もし仏法を単なる学問として扱うならば、我々人間の知恵をもってしても、百二十歳まで研究し続けたとしても、『大蔵経』に説かれる一切の内容を完全に理解することは不可能である。

仏を学ぶという観点から言えば、もし帰依を拒むのであれば、それは善根がいまだ芽生えておらず、因縁もまた未だ具備していないことを意味するのである。それにもかかわらず聴聞のみを続けていると、やがては自らを正しいと錯覚し、自身の知見によって仏法を解釈するようになり、その結果、邪見・邪行を生ずるに至るのである。『楞厳経』において、仏はすでに予言されている。末法の時代において、正法を説かぬ邪師は、恒河の両岸にある砂の数ほど多いのである。これらの者は必ずしも外道とは限らない。実際には、その大半は仏法を聴聞し、経典を読み、さらには禅修すら行った者たちである。では、彼らはいかにして邪師へと変じたのであろうか。それは、仏法の一部を聞いた後、それを自らの人生経験や学問、自分勝手な知見によって解釈したからである。その結果、わずかな差異であっても、その帰結には甚だしい隔たりが生じてしまうのである。

チベット仏教においては、いまだ証果を得ていない修行者は、公に説法を行ってはならないとされている。帰依することを頑なに拒む者は、しばしば「自分が理解してからにする」と口にするが、仏法は人に理解させるためにあるものではないのである。まさに理解できないからこそ、仏法の助けを必要とするのである。もし「仏法を理解してから」と言うのであれば、その唯一の解釈は、すでに成仏しているということである。なぜなら、仏と仏のみが相通じることができ、凡夫が仏と通じることなどあり得ないからである。ゆえに、このような驕慢なる者に対して、これ以上仏法を聴聞させ続けることは、かえって害となるのである。仏法を学ばなければ何事も起こらぬものを、学んだことによって問題がより深刻化することすらあるのである。これより以後、帰依しない者、帰依する意思のない者、または私が何者であるかを見極めようとする者は、決してここへ来てはならないのである。

『宝積経』を通じて、釈迦牟尼仏は、具徳の上師をいかに見極めるべきかを衆生に教えられている。これら二十の条件については、私はすでに過去に開示してきたが、あえてここに述べるのは、法王による長期間にわたる厳正なる検証を経て、私が確かに仏法を広める資格を具えていることを示すものである。今後、皆が紹介する友人や親族に、なお迷いや躊躇の心がある場合は、施身法および結縁法会への参加、あるいは諮問に訪れることのみが許され、仏法を聴聞する資格は与えられないのである。私の開示した法帯のうち、一部には流布を許すものもあるが、今後、不共の法話テープ、たとえば観音法門の観想などに関しては、他者に貸し出して聴かせることを固く禁ずるものである。

私はすでに開示し、また何度も皆に注意を促してきたが、口伝を受けていない仏法は決して修習してはならないものである。決して余計な世話を焼いて他人に貸して聴かせることのないよう、これらはすべて如法にあらず、戒律に背く行為である。本来、仏法とはきわめて殊勝かつ厳正なものである。仏法に限らず、古においては師を家に迎えて教えを請うにも、守るべき礼法と恭敬の心があり、それすら現代人は失ってしまっているのである。今日の台湾においては、師道もまた師への尊重もすでに存在せず、人々は皆、自らのやり方で学び、ただ教師の過ちを探すばかりで、自分自身の過ちを顧みることはない。このような学びの姿勢では、世間法であれ出世法であれ、いずれにおいても大きな障碍を生ずることは免れ得ないのである。

今後は、皆の友人に「日曜日にリンポチェの説法を聴きに行ってみてはどうか」「リンポチェの仏法は他とは違う、気に入ったらその時に帰依を申し込めばよい」などと決して勧めてはならないのである。私は彼らの試験を必要とせず、また仏法を学ぶ意思なき者による検証も必要としないのである。私はただ仏菩薩および法王の検証を受ければ足り、あなた方にその資格はないのである。今後、あなた方が友人を紹介する場合、もし相談や問題があるのであれば、リンポチェは必ずこれを解決するであろう。しかし、仏法を学ぶ心なき者に対しては決して無理に勧めてはならないのである。さもなければ、彼らに口業を犯させ、また私が弟子を必要としていると誤解させる結果となるからである。

私はこれまで一度も弟子を必要としたことはないのである。『金剛経』には「度すべき衆生は一人もいない」と説かれているのである。我々の立場からすれば、衆生を度しているという意識もなく、衆生を助けているという自覚もなく、ただ縁に随って日々を過ごしているだけなのである。ゆえに、法王が寶吉祥仏法センターの設立をお許しになって以来、私は自ら進んで弟子を求めたことは一度もないのである。実際、一人の人が私の前に座った時、その者に縁があるか否か、仏法を学ぶ者であるかどうかは、基本的にすべて分かっているのである。しかしながら、台湾の仏教界では「慈悲であるべきだ」「寛大であるべきだ」と言われ続け、私はやむを得ず、時には皆に対して多少なりとも寛容な対応を取らざるを得なかったのである。言い換えれば、それは方便の門を開いたに過ぎないのである。

いわゆる「方便の門」とは、あなた方の便宜に合わせて好き勝手にすることではないのである。これは、衆生それぞれの必要と根器に応じて、異なる成就の法門を説き授けることを指し、これを方便法というのであり、決してあなた方の都合に迎合するものではないのである。もしあなた方の都合に従うのであれば、あなた方は永遠に仏法を成就することはできず、生死の輪廻から解脱することも決してできないのである。仏法を学ぶことは、累世にわたる福報によるものであり、あなた方が聞きたいと思えば聞けるものでもなく、学びたいと思えば学べるものでもないのである。もし仏法や三宝に対して尊重の心を抱かず、軽率で疎忽な心で向き合うならば、その人生において悪をなす機会もまた極めて大きくなるのである。このメッセージを、あなた方の親戚や友人に必ず伝えなければならない。例外は一切ない。誰であろうと求めに来ても同様である。私が特別に、この人は仏法の助けを必要とすると判断した場合にのみ、共修法会への参加を許可する。それ以外の場合は、施身法法会にのみ参加することができるのである。

私は場面を必要としていないのである。事実、輪廻の中にある他の道の衆生を度する数は、人間を度する数よりもはるかに多いのであり、あなた方人類はあまりにも度しがたい存在である。仏典にも明確に説かれている通り、全宇宙において最も度しがたいのは地球の人類であり、その理由は「剛強自用、難調難伏」であるからである。特に今後、私は直貢噶舉の多くの不共の法を、順次世に伝授していくのである。帰依する意志のない者がこれを聞きに来たとしても、何の益もなく、ただ時間を浪費するのみである。よって、今後は親戚や友人に対し、仏法とは「自分が聞きたいと思えば聞けるもの」ではないということを、はっきりと伝えなさい。他の道場では許されるかもしれないが、少なくともここではそのような形は取らないのである。

私が顕教の師に帰依した当時を振り返ると、あなた方のようにこれほど多くの言い分や思案はなかったのである。まず上師に助けを求め、問題が解決してはじめて「この上師は霊験あらたかであり、従うに値し、自らを守ってくれる存在である」と感じる――在座の九五%はこのような考えである。しかし私は、顕教の師に初めてお目にかかったその瞬間、第一声として「帰依させていただけますでしょうか」と願い出たのであり、あなた方のように多くの思いを巡らすことはなかった。これこそが、今日あなた方が下に座して叱責を受け、私が法座に坐している所以である。また、法王にお会いした時も、「この方は法王だから、よくして差し上げねばならない」などと考えたことは一度もなかった。ただひたすら純粋な心で向き合ったからこそ、私は仏法の道において速やかに進歩することができたのである。あなた方の心はあまりにも複雑であり、欲求や思惑が多すぎる。これらはすべて、世間法においても出世法においても、あなた方の障碍となるのである。今後、あなた方が友人を紹介する場合、相談や助けを求めることであれば、私は必ず力を貸す。しかし「まずは来て聞いてみなさい、リンポチェの説法は他と違うから」などとは、決して言ってはならないのである。

仏法にはただ一つの体系しかなく、二つは存在しないのである。法王であれ、私であれ、またいかなる高徳の修行者であれ、正法である以上、その説く仏法は常に一つであり、ただ用いる語が異なるにすぎない。ある者の修行が優れているからといって、その説法だけが特別に異なるということはなく、正法である限り、仏法はただ一つである。今後、日曜日に特別な事情があって法会に参加できない場合は、容赦することもある。しかし、自身の諸問題を理由に継続して参加しない者については、その後は施身法法会にのみ参加することとする。あなた方には理由が多すぎる。中には「台湾では仏法を学べないから、必ずどこかへ戻らなければならない」と言う者もいる。ある人物などは理由を重ねすぎて、かつて私が出会った五十二歳の女性のようである。彼女は『妙法蓮華経』の一節を誤解し、仏像に恭しく頭を下げれば「已成佛道(すでに仏道を成ず)」とあるのを、自らはすでに成仏したのだと思い込んでいたのである。しかし古代の文言における「已成佛道」とは、仏像に対して恭敬の礼を示したことによって、ようやく成仏への道を歩み始めるという意味である。仏像に恭敬の心を起こすことができれば、やがて衆生に対しても恭敬の心を起こすようになり、衆生に恭敬の心を持てば、自然と悪をなさなくなる。こうして仏法を学び始めることこそが、成仏への道に入るということである。にもかかわらず、その女性はこれを誤解し、自分はすでに仏となったのだと信じ込んでいたのである。

文字によって仏経を解釈しようとすることについて、古の大徳は「三世の仏もこれを冤と称ぶ」と説いている。仏経は文字のみで解釈できるものではなく、その含意は極めて深遠かつ広大である。私の経験においても、毎年仏経を読み返すたびに、その意味は常に変化し続けている。これは仏の言葉が変わったのではなく、私自身が経文の真意をより深く理解するようになったに過ぎないのである。いわゆる「深く経蔵に入る」とは、何巻の経を読誦したか、あるいはどれほど多くの法を聴聞したかということではない。自らの心が、仏の説かれた法の真の意義を実際に体得し、それを深く感じ取ることができてこそ、はじめてその境地に入ったと言えるのである。ゆえに、古今を通じて仏法を学ぶ者は、必ず一人の師に依り、これに随うべきであるという道理は、まさにここに存するのである。

一人の師がこの世で数年仏法を学んだのみで弘法に出てくるということは決してあり得ず、その人物の宿世の因縁と極めて深い関わりを有するのである。寶吉祥佛法センターにおける弘法は、世俗に迎合せず、流行に随わず、決して俗化することなく行われている。仮に私が弟子を求めるならば、わずかに広告を打ち、メディアに登場し、諸君の身に起こった幾つかの事例や、私がそれを如何に解決したかを語るだけで、既に十分に名声を得ることができるであろう。にもかかわらずそうしないのは、私は縁に随って衆生を度し、縁ある者は度し、縁なき者に無理強いはせず、仏法をもって利益を図ることを為さないからである。仏法を学び、また弘めんとする者は、決して世俗化してはならない。我々は衆生に方便を与えることはできるが、それを放任し、勝手気ままにさせてはならない。衆生の思惟のあり方が正しくないとき、我々仏弟子はこれを正し、導き、助ける責務を負うのである。ゆえにまず、我々自身が己の悪しき習慣を改めることこそ急務である。

チベット仏教における礼仏の作法は、顕教とはやや趣を異にするものである。チベット仏教の礼仏は、両手を合掌し、まず額に当て、次に喉、そして心の位置へと移す。その所作は、身・口・意の三業をもって諸仏菩薩に頂礼することを象徴するものである。唯識学の観点からすれば、「身」とは単なる肉体の動作を指すにとどまらず、全ての意識を完全に仏に帰依させて頂礼することを意味するのであり、そこには思惟までもが含まれるのである。医学的には脳が身体のあらゆる働きを主宰するとされるが、仏教の唯識学においては、脳はあくまで行動を統率する「総司令部」に過ぎず、心王の指示を受けて初めて作用し、身体の諸機能を統御するものとされている。ゆえに「身」とは単に肉体そのものを指すのではなく、累世にわたり意識田に積み重ねられてきた一切の善根をも含み、それらすべてを挙げて仏に頂礼するという深い意味を持つのである。すなわちこれは、供養と懺悔を同時に表す行為である。

供養には、財施・法施・無畏施のほかに、チベット仏教においては「内供養」および「秘密供養」が説かれている。財施・法施・無畏施は、いずれも外供養に属するものであり、内供養とは、一切の意識と肉体をもって仏に対し、深く恭敬し頂礼することを指すのである。「口の供養」とは、すべての言葉をもって仏および上師の功徳を讃嘆することを意味する。仏典には仏や修行者の功徳を讃嘆する記載が数多く見られ、これを実践することにより、莫大な功徳を積むと同時に、累世にわたる多くの口業を清浄する助けともなるのである。チベット仏教においては、この口供養は秘密供養に属し、必ずしも言葉として口に出す必要はなく、供養せんとする一念を起こすこと自体が、すでに口の供養となるのである。さらに「意の供養」がある。通常、六識――すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意――は身供養に属するが、意供養とは末那識、阿頼耶識、そして究極の清浄なる本性に至るまでの供養をも包含するものである。これ以上説き進めれば、すなわち秘密供養、すなわちチベット仏教において不共とされる供養に及ぶこととなる。それは身・口・意すべてをもって仏および上師に頂礼する、究極の供養である。かくのごとく、最大の恭敬心をもって頂礼することは、累世の業および貢高我慢の心を速やかに転じるうえで、極めて大きな力を有するのである。

頂礼の際には、両手を合掌し額に当て、心中または口中にて「オーム」と唱え、喉に至っては「アー」、心の位置に至っては「ホーン」と念ずるのである。「オーム・アー・ホーン」は一切の諸仏菩薩の密語の種子字であり、あらゆる仏菩薩の真言は、すべてこの三音より変化して生じたものである。「オーム」は十方三世一切の仏の智慧を象徴し、「アー」は空性を表し、「ホーン」は一切の煩悩を断ち切ることを表すのである。色によって観ずるならば、「オーム」は白色、「アー」は赤色、「ホーン」は青色である。この三字のみであっても、その義理は極めて深遠にして多岐にわたる。いかなる法門を修するにせよ、「オーム・アー・ホーン」より離れることはなく、さらには禅定を修する際においても、この三音をもって修行するのであり、これこそチベット仏教密部における特別なる修行法である。

禅宗は数息法によって禅定を修するが、末法の時代に生きる衆生にとっては、必ずしも適した方法とは言い難いのである。多くの禅宗修行者は、数息は仏が伝えた修行法であり、すべての衆生が用いるべきであると考える。しかし、末法の衆生は業障が極めて重く、気脈もまた不調であるため、数息を行えば息が詰まり、耐え難くなるのである。信じ難いのであれば、ゆっくりと一から十まで数え、その間一切呼吸を止めてみればよい。息を止め続けることができず、やがて苦しくなり、その瞬間より心は乱れ始めるのである。なぜ妄念が生じるのかと言えば、呼吸を調整する術を知らず、気が気脈の中で動くため、心もまたそれに随って動くからである。気を制御することができれば、自然と心もまた制御されるのである。

「オーム・アー・ホーン」の三字は極めて簡潔であるが、その作用は誠に大いなるものである。「オーム」は一切諸仏の智慧を象徴し、「オーム」を観想することにより、仏の加持を得ることができるのである。「アー」は空性を象徴し、実のところ宇宙そのものの音である。人類で初めて月に降り立った宇宙飛行士は、そこにおいて一切の音を聞くことができず、ただ「ア」という音のみを聞いたと述べている。彼は帰還後、その音の源を探し求め、やがてイスラム教に帰依したという。イスラム教ではこの音を「アッラー」と称し、キリスト教では「アーメン」と呼び、仏教では「阿弥陀仏」と称するのである。「アー」は仏教特有の音ではなく、宇宙万有が最終的に帰結する根源の音である。言語とはすなわち経験の法であり、いかなる音声も「アー」より始まるのである。幼子が言葉を学ぶ際に「アーアー」と発声するのも、まさにこの「アー」より始まる証である。

「ホーン」という音は爆発音の如き響きを有するものであり、科学においても宇宙はビッグバンによって誕生したことが証明されている。「ホーン」は、我々の累世にわたる煩悩および業障を消滅させる力を有するため、忿怒尊を修する際には必ず「ホーン」の音が用いられるのである。密教にはこの「ホーン」の字を専修する特別な法門があり、私が唱える「ホーン」の音のエネルギーは極めて強いものである。もし煩悩が非常に重い場合、「ホーン」という音を修することにより、その煩悩の心は次第に鎮まり、低減してゆくのである。もし思惟が過度に多い場合には、「アー」という音を修することで、それを減少させることができる。また、身体の調子が悪く、頭が重く、めまいや膨張感がある場合には、「オーム」の音を修することによって、それらを消除することができるのである。

私が「オーム・アー・ホーン」という三つの音の真義を理解するに至ったのは、直貢澈贊法王より親しく口伝を受け、これら三字をもって禅定を修する方法を直接ご教示いただいたご加持によるものである。法王は多くを説明なさることなく、ただ自ら体得すべきものとして示され、教えられたならば実行せよと仰せになったのである。しかしながら、汝らは説明を好んで聞くものの、聞き終えた後に実践しようとしない。「ホーン」の音を修する際には、絶えず連続して唱えることが肝要であり、この音は気脈を動かす力を有するのである。修行が正しく成就すれば、この生において病苦を除くことができ、さらに最高の境地に至れば、往生の際に肉体は滅することなく、虹光身へと転化し、仏土に生ずるのである。

私が迅速に入定できるのは、まさにこの三字によるものである。ある者は密法は極めて複雑であり、法本に数多の真言を書き写し、日々大量に唱えねばならぬと考えているが、実のところ、密法は修めれば修めるほど、次第に簡潔となるものである。太鼓を打ち、鈴を振るのは、汝らのために見せているに過ぎず、ただ汝らが退屈すると感じるのを恐れてのことである。

白は息法を表し、紅は懐法を表し、青は誅法を表すのである。さらにもう一つの法が存在するが、汝らはこれを聴く資格を有さぬゆえ、ここではあえて述べないものである。実のところ、顕教においても多くの動作が気脈および明点と深く関わっている。たとえば、問訊の際、なぜ定められた二本の指を眉間に向けるのか。あるいは、顕教の頂礼において、なぜ左・右・左の順で動作し、さらに掌を翻すのか。弘法人はこれらを汝らに語ってこなかったであろう。しかしながら、仏教におけるあらゆる所作には必ずその意味があり、決して無意識に為されるものではない。問訊の手印は気脈と明点に関わり、左・右・左の動作は身・口・意を象徴するものである。掌を翻す所作は、黒業より白業へと転じることを示すのである。真の掌の翻しとは、一度に全てを開くことではない。一本の指、また一本の指と、徐々に開いてゆくのであり、これは十方法界を象徴するものである。そして翻し終えて再び掌を収める時も、同様に一本ずつ指を閉じてゆくことで、仏が我らに授けた福と慧を大切に収めてから起立するのである。

それぞれの動作の意味を理解してこそ、いかに行うべきかを知ることができるのである。我はチベット仏教の密部を修行するに至って初めてこれらを知ったのであり、顕教の法師は密法を修していないためこれを知らず、ただこれらの動作を儀軌としてのみ捉えているに過ぎないのである。実のところ、顕密を問わず、またチベット仏教であれ、いずれの頂礼も気脈・明点と深く関わっており、ゆえにかかる動作形式が存在するのである。大礼拝もまた同様であり、決して理由もなくこれらの動作を行い、それをもって礼拝としているわけではないのである。今日このことを知るにより、仏法の修行が単なる外相の学びではなく、その真の意義は実修によってのみ得られるものであることを、初めて理解するのである。

仏は四十九年にわたり説法し、多くの経典を説かれたが、弟子たちの失念により、当時の口頭による教えの多くは記録されず、実修と徐々なる覚悟を通じてこそ、はじめて仏の大慈悲と大智慧を体得することができるのである。それゆえ、なぜ必ず帰依し、直ちに修学を開始し、時間を引き延ばしてはならないのかというのである。それは、いかに上師が卓越し、説法が優れ、学識が深くとも、自ら修行しなければ決して体得することはできないからである。例えば、法王が我に法を伝授されたとしても、たとえ法王が八度の転生を経た果位を有する方であれ、そのような上師に出会い法を授かろうとも、最終的には自ら修行しなければならないのである。法王は何かを直接与えることはできず、ただ方法を教示されるのみであり、それを実行するのは我自身である。もし方法を教えられても実行しなければ、たとえ百萬回聞こうとも何の益もないのである。我の説くところは顕教、すなわち理論であり、聞いたならば必ず行動に移さねばならない。ただ聞くだけで実践せず、文字や外相に留まっているならば、修行に何の助けともならないのである。仏法の修習においては、解門もまた重要であるが、行門はさらに重要であり、ゆえに仏法を必ず実践に落とし込むことが肝要である。

前回は、六道のうち畜生道における苦について説示したが、享楽を好む者のみならず、戒を破った者もまた畜生道に堕ちる可能性があるのである。実のところ、仏法を修する者でありながら戒を破れば、畜生道に堕ちる可能性は極めて高いのである。経典には、このような事例が数多く記されている。修行者が戒を破って畜生道に堕ちた場合、福報がある程度具わっている者は龍族に堕ちることもあり、この場合は嗔念の重き者であることが多いのである。また、身体の大きな動物に堕ちる者は、戒を破ったとはいえ福を修してきた者、すなわち供養や布施を行ってきた者である。畜生道に堕ちる最大の過患は、仏法を聞くことができないことであり、たとえ聞いたとしても生死を解脱することはできないのである。ゆえに、我々は極めて慎重であるべきであり、自らの一切の行為と思惟に細心の注意を払わねばならないのである。

続いて、人道における過患について開示するのである。我々は人道に生まれながら、壊苦・苦苦・行苦という三大の苦をはじめ、生・老・病・死、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊熾苦という八苦を受けているのである。さらに、自己の所有を護ろうとする苦がある。自らのものと思い込み、全力を尽くして守ろうとするがゆえに生ずる苦であり、例えば子どもや財産を守ろうとするあまり、夜も眠れず、泥棒が入るのではないかと恐れ、息子が恋人をつくれば奪われるのではないかと案じる、これもまた苦である。また、自らに無きものを求める苦もある。常に自分に不足するものを追い求め、昇進を願い、良い男性と付き合いたい、美しい女性と交際したいと欲するが、これらもすべて苦である。しばしば人は事業のことを請示し、いつ昇進できるかと問うが、実のところ、命と福があれば自然に昇進するのであり、命なく福なき者は、たとえ昇進しても、かえって身を滅ぼすことすらあり得るのである。数日前、ある一族が私を訪ね、両親が癌を患い、唯一の男子が麻薬に溺れていると訴えた。私はその場において、彼らの一族が過去に不義の財を得た、すなわち本来得るべからざる財を手にしていたことを観じた。彼らは即座に、それは汚職によるものかと問い、私は然りと答えたのである。我々は一生のうち、自らの欲望を満たすために悪業を造りながら、なおそのことに気づかぬ場合が実に多いのである。

「壊苦」とは、安楽な日々を過ごしていると思っていたものが、突如として苦へと転ずることを指すのである。たとえば、高位より転落し、富より貧へと変ずるがごときである。私自身もまた、この壊苦を経験してきた。かつてはジャガーの高級車を乗り回し、護衛二名を従えていたが、やがては食べる物にも困るほどに困窮したのである。香港にいた頃、あるレストランには私のために常に一卓の円卓が用意され、私を知る者、あるいは名を口にできる者であれば、誰でもそこに座って食事をすることができ、代金はすべて私が支払っていた。しかし、私が没落した後、かつての知己たちは、面と向かって私を見ながら、何も言わず背を向けて立ち去っていったのである。だが幸いにも、私は苦に耐えることのできる人間であった。ゆえに私は常々、自らの子どもたちに叱るのである――苦瓜も食べられぬ者は役に立たぬ、と。多くの人はこのような境遇に遭えば、自分はなんと不幸なのかと嘆き、あらゆる手を尽くして早く好転させようとする。しかし、私が最初に没落したとき、逆境をどう転じるかなどとは考えず、ただ自らの過ちを省みたのみであった。二度目に没落したときは、至って簡単であった。誰にも煩わされることのない一年という貴重な機会を得て、その間に四加行を完全に修し終えたのである。かくして、世間において「苦」と見なされるものは、修行者にとっては修行の機会であり、修行なき俗人にとっては、ただ「惨め」「不運」「運が悪い」と映るに過ぎぬのである。だが、どうして順境ばかりであろうか。仏となるでもなければ、それはあり得ぬのである。

ある者が、家族に病人が出て、息子の商売もうまくいかず、自身もまた病んでいると語ったことがある。私はその者に対し、むしろ祝すべきであると告げた。債を返しているのであるからである。息子が商売不振のために金を求めてくるならば、それは債の清算であり、来世にはもはや返って来ることもなかろう。かくして、安楽が苦へと転ずるとき、多くの人はそれに耐えきれず崩れ去るのである。なぜ人は悪事に手を染め、強盗、詐欺、汚職、自殺、殺人に至るのか。それはこの厳しき苦に耐えられぬがゆえであり、ゆえに悪業を行ってしまうのである。ある者は財を盗賊に奪われ、ある者は家を火災で失い、ある者は突如として事故により命を落とす。これらはいずれも、輪廻の中において避けがたきことである。ゆえに我々はよく心得ねばならぬ。安楽も、幸福も、名声も、すべて無常であるということを。無常とは、すなわち、いかなるものも常に変転し、いつ変わるとも知れぬということである。

かつてあるリンポチェはこう教えた。「不調に陥り、極めて不運なときこそ落胆してはならぬ。むしろ胸を張り、顔を上げよ。順調であるときには驕ることなく、かえって謙虚になり、頭を低くせよ」と。しかし現代の我々はこれと逆である。うまくいっているときには胸を張り、天すら低いと感じ、さらに高みを求める。不運に見舞われたときには、喪家の犬のごとく、見るに耐えぬ姿となる。人が不調のときに胸を張り顔を上げるのは、他人に「自分は打ち倒せぬ、かかってこい」と誇示するためではない。そうではなく、自らの気を堅固に保ち、衰敗の気を生じさせぬためである。私は多くの人に勧めてきた。不調のときに「運が悪い」「ついていない」「本当に最悪だ」などと繰り返し口にしてはならぬ。言えば言うほど、その不運は底まで落ちていくのである。一切は因縁であり、因果である。我々はそれを受け入れれば、やがて速やかに過ぎ去るのである。順調なときには驕ってはならず、謙虚であるべきである。なぜなら無常の理からすれば、我々はいずれ必ず不調に見舞われる日が来るからである。そのとき、かつての驕りはたちまち露わになるのである。

私が初めて没落したとき、それは当時の私があまりにも驕慢であったがゆえであり、人々が私の顔を見ると、背を向けて去っていくことに気づいたのである。二度目の没落のときは、その点もやや改善され、ようやく学ぶところがあった。ゆえに、我々は人生における得失は本来同一のものであると理解せねばならない。失うことはすなわち得ることであり、得ることもまた失うことである。失ったとしても、それが真に失われたとは限らず、得たとしても永遠に所有できるとは限らない。すべては無常の中で転変しているのである。決して驕ってはならない。自らの思うこと、語ること、行うことがすべて正しいなどと考えてはならない。そのような者は救いようがなく、罪業が重ければ地獄道に堕ち、罪業がやや軽ければ畜生道に堕ちるであろう。多くの人はこれを信じないが、他人に何かを言われると、すぐに「あなたには分からない」「あなたには理解できない」と言い返す者がいる。このような言葉を発する者は、極めて驕慢である証である。そのような者は、いかに仏を念じ、真言を持したとしても、何の益もないのである。

我々は見極めねばならない。安楽、幸福、名声はすべて絶対に無常であるということをである。無常を受け入れるならば、これらの喜びが苦へと転じたときでさえ、なお平穏に、そして安らかに生きることができるのである。私が初めて没落したときは、妻は去り、事業は失われ、財も尽き、大きな苦しみを味わった。しかし二度目の没落のときは、もはや苦しみではなかった。その時すでに私は仏法を学び、無常を受け入れ、因縁と因果の法則を受け入れていたからである。すべての事は必ずや過ぎ去るものであり、ただ時間の問題にすぎないと、私は深く信じていた。この一生で転じ得なくとも、それでよい、来世に委ねればよいとさえ思っていたのである。しかし多くの人々は、この道理を信じることができず、すぐにでも好転することを望む。ゆえに我々は、最終的にはすべてが苦へと帰することを知ったとき、この人生に対して真の理解と厭離の心を生ずるのである。

次に「苦苦」について説く。不順な出来事は、往々にして同時に重なって起こるものである。たとえば重病に罹ったとき、子どもが突然亡くなること、あるいは両親が相次いで他界し、自らの事業もまた破綻することがある。私が最初に没落したときも、事業は崩れ、妻とは離婚し、子どもは病を患った。これこそ苦苦である。多くの者はこの苦に耐えきれず、人生に絶望し、行き場を失ったと感じ、自らを放棄してしまう。しかし、この苦苦は決して自分だけのものではなく、誰もが経験するものであり、ただこの一生の中で現れる時期が異なるにすぎない。仏法を修行し、因縁と無常を理解してこそ、はじめてこの苦苦の力を受け入れることができるのである。人生の出来事はすべて過程であり、永遠不変のものではない。多くの人は自分がよく修行していると思い込むが、この驕慢の心が改まらなければ、いざ苦苦が現れたとき、到底これを受け入れることはできないのである。

思えば、私が三度目にチベットの直貢梯寺を訪れた際、ラマたちに迎えられて客間へ通された。私は普段から歩行には慎重であるが、その日はことのほか不思議で、扉に入ろうとした瞬間、額を門框に強く打ちつけ、しばし眩暈を覚えた。最初にぶつかったとき、私は自分の不注意を笑って「まったく自分は愚かだ」と口にしたが、振り返って再び進もうとしたところ、また二度目も同じように額を打ったのである。このとき私は悟った。人は頭を下げねばならないのだと。もし頭を下げることを拒み、自らを偉いと思い上がるならば、私のようにわずか数秒の間に二度も頭を打つことになるのである。歴代の祖師は私の欠点を見抜き、だからこそ直貢梯寺に戻ったとき、私を戒めたのである。私ですら、あなた方より多く修行していながら、なお欠点を有している。それなのに、どうしてあなた方が自分には欠点がないなどと言えようか。

多くの出家者は、このような話をあなた方に語ることを恐れているが、私は恐れない。なぜなら、かつての私もあなた方と同じように多くの欠点を持っており、今なお欠点を有しているからである。私とあなた方の違いは、私はその欠点を改め続けようとするが、あなた方は改めようとせず、そのまま六道の中を輪廻し続けているという点にある。我々は、ほんの一念でも「自分は正しい」と思ったならば、直ちに自己を省みなければならないのである。なぜなら、いまだいかなる果位にも証達していない段階において、「自分は正しい」と思うその原因は、すべて自己の利益、面子、驕慢のためであるからである。ゆえに、その瞬間に反省すべきである。なぜ多くの人は「苦苦」を受け入れることができないのか。それは一生を通じて、この虚偽の現象――「自分は有能であり、すべてを掌握できる」という思いの中に生きているからである。苦苦が到来したとき、そのような者は実に哀れな存在となるのである。

最後の一つは「行苦」である。驕慢に満ち、自らを誇り、目前の安楽に耽ることは、すべて苦の原因となるのである。美食を好み、結果として糖尿病を患うのも、これと同じ道理である。なぜ糖尿病になるのか。それは、驕慢により自らの行いも思いもすべて正しいと信じ、心が先に病み、毒を宿し、さらに美食――すなわち大魚大肉や多種多様な調理を好むことで、そのような者は糖尿病や癌を患いやすくなるのである。これらはすべて、驕りから生じるものであり、人の言葉を受け入れず、忠告や助言に耳を貸さないことに起因する。ゆえに私は常々説いている。人から与えられる意見は、良し悪しにかかわらず、すべて意見であるに過ぎない。あなたがそれを「良い意見」と思うのは、それが自らの考えに合致しているからであり、「悪い意見」と言うのは、それが自分の考えに合致しないからに他ならないのである。

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2025 年 11 月 05 日 更新