尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年10月5日

五年ぶりに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが再び金剛薩埵の灌頂を授けられた。リンポチェが灌頂を賜う際には、荘厳なる忿怒尊の相を現され、参加者の多くは胸の奥が衝撃を受けたように感じ、全身が熱くなり、毛が逆立ち、涙が止まらなかった。修法の最中、リンポチェの尊身および壇城から金色の光が放たれ、空間全体に清らかな香気が満ち、会場の全員が深い感動と讃嘆の念に包まれた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を憐れみ、空悲双運をもって、広大なる加持力によって有情を利益された。リンポチェは、衆生が修行の道において正しく上師に依止し、あらゆる障礙を清浄にし、勇気をもって精進し、生死の苦輪を離れることを願われた。 

尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは、宝傘・法具・薫香の先導と迎請を受け、荘厳なる壇城へと歩を進められた。諸仏菩薩に恭しく頂礼を捧げ、尊勝なる直貢チェツァン法王の如意宝の法座にカタを奉り、灯明を供養されたのち、法座にお上りになり、衆生を慈しむお心をもって、貴重な仏法の開示を賜った。

本日、すべての弟子に金剛薩埵の灌頂をお授けになった。(弟子一同:「リンポチェ、ありがとうございます。」)礼はいらない。前回の灌頂はいつだったか。(弟子の報告:「二〇二〇年です。」)もう五年になるな。多くの道場では頻繁に灌頂を行うが、灌頂で本当に大切なのは、灌頂を授ける者が本尊の修行で成就しているか、そして受ける側の動機だ。もし“密法の灌頂を受ければすごい人になれる”“灌頂を受ければ運がよくなる”と思っているなら、それは間違いだ。金剛薩埵は金剛乗で非常に重要な本尊であり、顕教には金剛薩埵の修法はない。しかし、菩薩乗を修めようとするなら、必ず金剛薩埵の助けが必要になる。
 
私たちが無数の生を重ねて行ってきた悪業は、書き尽くせないほど多い。この一生で肉を食べたり、殺生したりすることを些細なことだと思ってはならない。過去の無数の生において、私たちは自分でも覚えていないほど多くの悪業を積んできた。その結果、修行において多くの障りが生じる。修行上の障りは、怨親債主が与えるものではなく、自らが作り出したものである。もし菩薩乗を修しようとする時に、過去世からの怨親債主や虚空に住するすべての護法、そして天界の衆生が、「この者は衆生を利益し、輪廻から解脱させるためではなく、自分のために修行している」と知れば、多くの障りが現れる。彼らはあなたが成就することを望まないからである。
  
『宝積経』には明確に説かれている。菩薩道を修する者にとって、心の準備、つまり心理的な構えがいかに重要であるかということだ。ただリンポチェに従っていればよいというものではない。私は何度も話してきたが、菩薩道を修めようという決意がなければ、私についてくることはできない。それでもあなたたちは信じない。私は自分の果位がますます高くなっているとは言わないが、少なくとも自分の未来がどうなるかはよくわかっている。あなたたちはそのようにできていないのに、どうしてついてこられるのか。簡単に言えば、私が良い車を運転しているのに、あなたたちは自転車に乗って「ついていきます」と言っているようなものだ。車のテールランプさえ見えない。今のあなたたちはまさにその状態だ。なぜ見えないのか。それは、まだ自分のため、自分の利益のために修行しているからだ。

何度も言ってきたが、寶吉祥道場と仏寺は、完全に菩薩乗を伝える場所であって、人天教や人道の仏法を伝えるところではない。菩薩乗を学ぶことは、人間界にも六道にもあり、すべての有情衆生の中に菩薩は存在している。しかし、今この生で人身を得たのは、ただ日々を楽しみ、欲望を満たすためではない。人身というものは、自らが無数の生において身・口・意で積んできた善悪の業の結果として得られたものであり、いつかこの身体が使えなくなれば、その時は去るだけだ。学仏とはそういうものだ。毎日数千遍、数万遍と真言を唱えればよくなると思ってはならない。そうではない。なぜなら、それは菩薩乗の修行ではなく、人道を修めることによった人天福だからだ。そのような修行では、生々世々にわたる善悪の業を転じることはできない。 

菩薩乗を修するには、まず第一に本尊を修し、一切の障りを清浄にすることが必要である。ここで言う「清浄」とは、すべての障りを消し去るという意味ではない。障りが現れた時に、それによって仏法を学ぶ心を放棄しないということである。障りは必ずある。どんな修行者、どんな成就者であっても、修行の過程において障りがない者はいない。上師に加持を求め、自らの修行が成就し、障りがなくなるように願っても、それは不可能である。なぜなら、あなたが上師に信心がなく、心から降伏していないからだ。私は菩薩道を修しているが、あなたたちは菩薩道を修しているか。していない。だからこそ、あなたたちに与えられるのは、いわゆる「加護」、つまり意外な死を避ける程度の守りにすぎない。法会に何度も参加したからといって、菩薩になれると思ってはならない。それは絶対に不可能である。
 
今日の本尊は、菩薩道を学ぼうとする者、またはこれから修しようとする者を助けるものであり、懺悔を通してあなたたちの業を清浄にし、菩提道へ進むことを妨げないようにしてくれる。多くの人々、そしてかつてテレビで仏法を弘めていた法師の中にも、「懺悔は一度だけでよい。あまり懺悔ばかり考えると、その念が心に残るから良くない」と言う者がいた。私はこの言葉は間違っていると思う。『地蔵経』にこう説かれている——「起心動念、皆是業皆是罪(心を起こし、念を動かすごとに、すべて業であり、すべて罪である)」。あなたたちは、起心動念が罪であり業であるとは思わず、それを「自分の人生」だと考えるから懺悔しない。病気になった時、財を失った時、離婚した時、事業が失敗した時、恋愛がうまくいかない時だけ懺悔する。それ以外の時には、決して懺悔しようとしない。 

菩薩道を修する者の念は非常に微細であり、菩提心と関係のない念が起こったならば、その瞬間に懺悔しなければならない。だが、あなたたちにはそれができていない。今あなたたちが行っている懺悔は表面的なものであり、病気になるのが怖い、財を失うのが怖い、あれが怖い、これが怖い——そうした恐れの心から生じている。懺悔をすれば少しは軽くなり、体の調子も良くなるだろうと思っている。それは違う。私ははっきりと言う。このような懺悔は何の役にも立たない。なぜなら、私は懺悔の法門によって修行を成し遂げた者だからだ。よく分かっている。あなたたちは「もう懺悔したのだから大丈夫だろう」と思っているが、それは間違いである。成仏していないかぎり、毎日懺悔しなければならない。なぜなら、まだ完全ではないからだ。必ずどこかに欠けがあり、無明や煩悩があり、誤った念があるからである。あなたたちは懺悔をただのスローガンのように思っている。しかし、私は常に懺悔している。
 
多くの人は、ただ懺悔を続ければ妻や子供が良くなると思っている。だから修行の結果が出ないのである。とくに出家者はさらに深刻である。自分は懺悔を続けてきたからこそ出家できた、もう在家の人とは違うと思い込み、そこから懺悔をしなくなる。我々が修する無上瑜伽部では、修法に入る前に必ず金剛薩埵を修し、金剛薩埵に懺悔を願い、修行の障りを軽くするのである。(この時、男性の出家弟子が自ら立ち上がり、跪いた。)リンポチェは女性の出家弟子たちに向かって言った。「お前たちはまだ跪かないのか。もう懺悔はすべて終わったのか。出家者でありながら、まだそんなに傲慢なのか。」(その言葉を聞いた女性の出家弟子たちは立ち上がり、跪いた。)

今日、金剛薩埵を伝授するのは、あなたたちを「良くするため」ではない。第一に、私はすでに老いている。第二に、これからますます忙しくなる。だから今日のうちに灌頂を授けておく。おそらく今回の灌頂の後、次に授けるのは十年後になるだろう。多くの道場では、金剛薩埵の灌頂を安易に授けているが、私は決してそうしない。なぜなら、あなたたちはまだこの法門を修する者ではないからだ。では、なぜ灌頂を与えるのか。かつて法王が私に大手印を伝授しようとされた時、私は法王に申し上げた。「まず十万遍の金剛薩埵を誦します」と。七日か十日だったかは忘れたが、十日を超えることなく十万遍を修了した。私は命がけで修行したのだ。あなたたちが想像するように、前世がどうであったからできたのではない。前世はただ、善き因縁を与え、仏法に帰依し、法王にお会いし、上師から法を受ける機縁を作ってくれただけである。結局はすべて、自分自身の修行によって成就するしかない。ゆえに、あなたたちに金剛薩埵の灌頂を授けるのは、菩薩道を修する準備をさせるためである。もし金剛薩埵の灌頂を「自分が良くなるため」「将来はどうのこうの」としか思わないなら、その灌頂はただ少しの福報をもたらすにすぎず、未来において何の助けにもならない。
 
金剛薩埵のこの法門は密教の中では広く知られているが、実際に修めることができる者はほとんどいない。少し前に、ある皈依弟子の子どもが皮膚病になった。私はその弟子にミネラルウォーターを一本持って来るように言い、百字明咒を唱え、息を数回吹きかけ、そこに甘露丸を一粒入れた。すると、その子の皮膚はすでに治った。私はそういう力を持っている。だが、それは来る者自身がどれほど恭敬であるか、どれほど懺悔の心を持っているかによって異なる。特に私は子どもたちに対しては特に慈しみ深い。私は、あなたたちの中で調子の悪い者を見ると、正直に言う。懺悔とは「生き延びるため」にするものではない。「なぜ今になっても仏法を学ぶ意味を理解していないのか」を懺悔するためにするのだ。昨日、ある弟子が供養に来た。だが、その供養は歯磨き粉を絞り出すように少しずつしか出さなかった。私は受け取らなかった。彼は「妻が亡くなる前にリンポチェに供養をするようにと言い残しました」と言った。私は言った。「お前の妻はこの金額だけではない。私は彼女を三悪道に堕ちず、善道へ行けるようにできる。そんなもので済むと思うのか。」つまり、彼には真の供養の心がなかったのだ。私は十数年前にも二千万元を何度も断ったことがある。
 
多くの人は、上師がいつもお金を欲しがっていると思っている。昔、供養を禁じた陳姓の弟子がいる。彼女には「成語(四字熟語)の物語」を話す役を任せていた。私は彼女に長い間、供養を禁じていた。(陳姓の弟子が答える:「リンポチェに報告いたします。弟子は最初は供養を禁じられ、その後は超度法会への参加を禁じられました。」)なぜ彼女に供養を禁じたのか。それは彼女が金銭を重視していていたからである。彼女はリンポチェが金銭を集めるために弘法しているとさえ思っていた。しかし最近、彼女は理事会にこう話した。「リンポチェはお金のために弘法しているのではないと確信しました。なぜなら、前回私が二百万元以上を出し、弟子たちを北京へ行かせたのを見たからです。彼女も同行しました。」と。彼女自身がそう言ったのだ。私はずっと、その言葉を待っていた。 
 
彼女は乳がんになった。母親が治療を受けさせたが、その治療がとてもつらかった。私は彼女に「成語(四字熟語)の物語」を語る役をさせた。すると彼女は、「リンポチェはやはり私に優しくしてくださる」と感じた。本来なら、供養を禁じ、施身法への参加も許されていない者に、なぜ優しくする必要があるのか。彼女が乳がんになった理由は明らかである。彼女夫婦は最初から最後まで極端にケチで、法会に参加するだけで十分だと思っていた。供養など必要ないと考え、まるで乞食に施すように五百や千元を渡せば、法を伝えてもらい、命まで救ってもらえると思っていた。このような人にどうやって法を伝えることができようか。彼女は、私が自ら二百万元以上を出し、全く自分の利益にならないことをしているのを見て、初めて「リンポチェは本当に慈悲深い方だ」と思うようになったのだ。

私は今月、すでに多くの善事にお金を使った。およそ八桁に近い金額である。今日、リンポチェが皆に灌頂を授けるのは、弟子の中に、もしかすると菩薩道を修めようと決意する者が数人でも現れることを願ってのことである。菩薩道を修めるには、自らが心を決めなければならない。上師に対して、ほんのわずかでも、一点の疑いもあってはならない。では、なぜ彼女は私を疑ったのか。それは彼女が皈依して長くなり、リンポチェがだんだん良くなっていく姿を見て、「商売もしているし、あれもこれもやっている。きっとたくさんのお金を受け取っているのではないか」と思ったからである。
  
おとといの夜、ある弟子が突然亡くなった。私はちょうど食事をしていたが、すぐに彼のためにポワ法を修した。この弟子は、あの陳姓の弟子と同じように、「リンポチェはお金持ちになった」と思っていた。だから二か月連続で百万元を寺に寄付した。彼が寺に寄付したことは間違いだったのか?あなたたちの考え方からすれば、決して悪いことではないだろう。しかし、上師の立場から見れば、それは間違いである。仮にどこかの寺に供養をしたいとしても、私は必ず法王にお伺いを立てる。場合によっては、そのお金を法王にお渡しして処理していただく。私は以前からそう言ってきたはずだろう?(会衆:「はい」と答える)だが、彼はそれを聞かなかった。私に会うのを恐れて、二か月間まったく来なかった。なぜなら、私に会えば必ず叱られるからだ。だから私は、彼に何が起こるか知ることができなかったのだ。
 
おとといの夜、彼は入浴中に亡くなった。私はとても悲しかった。彼が亡くなったことを悲しんだのではない。悲しかったのは、なぜ弟子たちが私の言葉を聞かないのかということだ。なぜお金にそれほど執着し、商売のように私と計算をするのか。多くの弟子が私に供養をしてくれるが、私はそのうちの半分、あるいはそれ以上を代わりに寺へ寄付し、残りを自分で処理している。なぜなら、私は多くのことを行わなければならないからだ。このような弟子は賢明である。亡くなった弟子は商売人であったため、何事も計算して考える人だった。リンポチェが最近よくなっているのを見て、「寺にはお金が必要だろう」と思い、寺に多く寄付をしたのだ。だが、寺の毎月の資金の流れや支出は、すべて私が決め、私が方法を考えている。それは弟子であるあなたたちの関わることではない。
 
顕教では「お金を寄付して寺を建てれば天道に生まれる」と説かれている。だから私は彼のためにポワ法を修した。しかし、彼が阿弥陀仏のもとに往生したとしても、その階位は最も低い。なぜなら、彼は上師の言葉を聞かなかったからである。この機会に、皆にも改めて言っておきたい。五十歳を過ぎた人がお風呂に入るとき、絶対に全身を熱い湯に浸してはいけない。同じような形で命を落としたのは、彼で四人目である。彼の心臓には何の問題もなかった。入浴するときは、必ず段階的に入らなければならない。そして熱い湯に浸かる時間は、絶対に三分を超えてはならない。若い人でも、年寄りでも同じである。特に今のように暑い季節では、本来の体温は三十八度だが、暑さのせいで三十九度、四十度まで上がっている。その状態で熱い湯に入れば、体温はさらに急上昇し、心臓が耐えられず、血液が回らなくなり、そのまま命を落とす。
 
仏法の観点から言えば、このように突然亡くなった弟子は、上師に対して十分な恭敬心を持っていなかったということである。もし上師に対して真に恭敬の心を持っていれば、上師は多少なりともその気配を感じ取るものだ。実際、多くの弟子は本来なら命を落とすはずだったが、上師に対する恭敬の心があったために死ななかった。この人は普段はとても穏やかで良い人のように見えた。しかし、いざという時にその本質が現れる。皆、よく気をつけなさい。もし突然亡くなることがあれば、私と縁のある者はポワ法で導くが、縁のない者には施身法を修する。だが、もしその時私がこの世にいなかったらどうするのか。決して「自分は大丈夫だ」という油断の心を起こしてはならない。今もそうだが、男の弟子たちの多くは全く修行をしていない。身体が丈夫だからといって安心してはいけない。彼もまたとても丈夫な人だった。まだ六十歳を少し過ぎたばかりだったのだ。亡くなったその日の昼には中医を受診し、「脈はとても良い」と言われたという。それなのに、その夜にはもう亡くなっていた。

今日この話をしたのは、誰かを批判するためではなく、皆に警鐘を鳴らすためである。自分がいつ命を終えるかを明確に知っている者など、一人もいない。上師が特別に占ってくださる場合を除いて、誰にも分からない。だが私は、全員のためにいちいち占うことはできない。私はいつも言っている。人生は無常であり、すべての出来事は常に変化する。だからこそ修行をしなければならない。一秒一秒を、自らの死に直面する準備のために使わなければならないのだ。もしこの亡くなった弟子に私という上師がいなかったなら、彼がどこへ行ったか分からない。彼は生前、「リンポチェに一生ついていきます」と口では言っていた。だが本当に私について来る心があったなら、死ぬときにその手は固まってはいなかったはずだ。つまり、彼はいまだに「死」を受け入れられず、執着を断ち切れなかったということである。 

お前たち男の弟子たちは、彼と同じように私に会うのを恐れている。叱られるのが怖く、面子を失うのが怖く、法を求めて断られたらどうしたらいいのか分からない。では、一体どんな理由で法を得ようとしているのか? 平穏無事に暮らしたいからか? 安定した生活を望むからか? それともリンポチェに済度してもらいたいからか? それでもよい、だがどう行動するかで結果は決まる。今日、金剛薩埵の灌頂を授けたのは、修行と仏法の学びには順序があるということを理解してほしいからだ。修行は一足飛びにはいかない。必ず段階を踏んで進むものであり、時間が必要である。上師の教えに従い、一つ一つ実践していくことが肝心だ。法王が私を育ててくださったときも、常に導き続け、多くの労苦と時間を費やされた。一朝一夕に成し遂げられることではなかったのだ。
 
昨日、手術を控えている弟子が加持を求めに来た。私はこれまで彼女を叱らなかったが、昨日ついに叱った。彼女は私の会社で働いているが、しばしば幹部が悪い、指導者が悪いと口にする。しかし給料はきちんと受け取っている。彼女が会社を罵るということは、誰を罵っているのか。私を罵っているのだ。会社の責任者は私だからである。このような態度で、彼女が上師に対して恭敬の心を持っていると言えるだろうか? 断じてそうではない。これは多くの人にも共通している。道場に来て法会に参加しても、不満を抱えている者が多い。中には、仏寺で法会に参加する際、「時間がないから後ろの席で早く出たい」と言う信者までいる。だが、法本にははっきりと書かれている。時間に追われている者は、そもそも法会に参加すべきではない、と。台湾で弘法することは本当に難しい。なぜなら、人々は皆、自分の考えばかりを持ち、仏が説かれた教えに耳を傾けようとしないからである。

壇城の上にたくさんの箱があるのを見ただろう。その中にはすべてザボンが入っている。これは私が自分のお金で買ったものだ。今日はまず仏にお供えし、これから法会に参加した皆に一つずつ供養する。(弟子たちが声をそろえてリンポチェ、ありがとうございます」と言う)礼を言う必要はない。なぜザボンを渡すのか? それは、あまりにも高価なものは私にも買えないし、皆も受け取ることができないからだ――もっとも、大事なのはその後の言葉である。

なぜ広東の人々は中秋節にザボンを用いるのか、知っているだろうか。私たち広東人は「沙田柚(サーティンヨウ)」と言うが、広東語の発音ではそれは「有(ヨウ/ある)」に近い。だから中秋節にザボンを食べるのは、「一家がそろう」という意味を表しているのだ。今日、皆にザボンを贈るのは、阿弥陀仏の浄土でいつまでも再びめぐり会い、共に円満であるようにとの願いからだ。世間での団欒ではなく、阿弥陀仏のもとでの団欒を願う。なぜなら、世間の団欒は決して良いものではないからである。(弟子たちが声をそろえて「リンポチェ、ありがとうございます」と言う)私たち広東人は中秋節にバーベキューなどしない。台湾ではなぜバーベキューが流行したのか、私には分からない。誰が始めたのかも知らない。だからこそ、台湾では地震が多く、災難が絶えないのだ。すべてはその「バーベキュー」から始まったのだ。 

天疱瘡を患った弟子が一人いた。私は彼の命を救ったが、その家族全員が仏法を学ぶことに精進していない(詳しくは『衆生済度の事跡』第20篇、第404篇を参照)。この話は以前にも話したことがある。天疱瘡という病は、全身に水疱ができ、それが破れても次々と新しいものが生じる。発症から死亡まで、最長でも七日。世界中でこの病を治した者はいない。私だけが治した。その弟子に「不共四加行」を修するように命じたが、彼は「辛いからやりたくない」と言った。彼の母親はまだ来ているか? 私はもう長い間、彼ら一家を見ていない。収入はあるのか?(弟子が報告:「リンポチェ、皆それぞれ安定した仕事と収入があります」)――まったく恩知らずである。命を救ったときには、まるで心から泣いて感謝しているように見えたのに。

リンポチェは医師である謝という弟子に尋ねた。「私が話した天疱瘡という病気を聞いたことがあるか?」(医師の弟子が答えて言った。「はい、ございます。皮膚科の中で命に関わる病は多くありませんが、天疱瘡は最も有名なものの一つです。」)リンポチェはさらに問うた。「もしある人がその病を治してもらったなら、その医師にどのように感謝すべきだと思うか?」(医師の弟子が答えた。「報告いたします、リンポチェ。命をもって感謝しても足りません。なぜなら、この病の苦しみはまるで全身を火で焼かれるようなものだからです。水疱が破れてもすぐに新しいものができ、皮膚が癒える間もなくまた痛む。食べることも、飲むことも、呼吸することもできません。なぜなら肺胞までもが壊れてしまうからです。腸も同じく損なわれます。私の知っている範囲では、たとえ150〜200cc注入しても、吸い出す量のほうが多く、体はまったくそれを利用できないのです。私たちはこの病を実際に経験したことはありませんが、他人がその苦しみの中にあるのを見るだけでも、言葉にできないほどの痛みです。」)
 
リンポチェは開示された。「その日、私は彼女の息子を見に行った。全身包帯で巻かれ、まるでミイラのようであった。包帯を取り替えるたびに、まるで豚を殺すような悲鳴を上げていた。皮膚が層ごとに剥がれ落ちていくのだ。私は本当に心が痛んだ。だからこそ、彼を助けたのだ。」そしてリンポチェは弟子に指示された。「彼ら一家三人に伝えなさい。ひと月の猶予を与える。それでも精進しなければ、もうここへ来る必要はない。ベストも、皈依も返上させなさい。この三人はあまりにも恩知らずで、こんな不義理な一家を見たことがない!」
  
この事例は、私が彼の病を治したものである。主治医はその経過を論文にまとめたほどであった。当時、私は医師に尋ねた。「私はこういう方法でやろうと思うが、同意するか?」医師は答えた。「はい、構いません。どのような方法でもお任せします。」彼らにはもう手立てがなかった。私はただ二つのとても簡単なもの――ミネラルウォーターとマーガリン――だけを用いて、その病を治した。ところが今では姿を見せない。私はこれほど恩知らずな者たちを見たことがない。彼らに一ヶ月の猶予を与える。今日から数えて一ヶ月以内に姿を見せなければ、自ら去らせなさい。「不共四加行」ができないというならば、望みどおりにさせてやればよい、もうやらなくてよい。
  
明日は中秋節だから、できるだけ川辺や渓流のそばに行って月を眺めないようにしなさい。もし誰かがそこでバーベキューをしていれば、龍を傷つけてしまい、そばにいる者たちまで災いを受けることになる。あの日、私はあの天疱瘡を患った弟子を見に行った時、彼に尋ねた。「あなたは叔父と一緒に川辺へバーベキューに行ったのではないか?」彼は「はい」と答えた。龍はまさにそのようにして上がったのだ。彼の心の中では納得がいかなかったかもしれない。「一緒に行った叔父はなぜ無事なのか」と思ったのだろう。しかし、彼が天疱瘡にならなければ私と出会うことはなく、私と出会わなければ仏法を学ぶこともなかった。彼の叔父が私を見つけることなど不可能である。だから、彼の叔父にもいずれよくないことが起こるだろう。どんなことかは私にもわからない。では、これから金剛薩埵の法本の修行を始める。
 
リンポチェは修法を開始した。その尊い御身と壇城からは金色の光が放たれ、空気の中には清らかで妙なる香気が満ちあふれた。その光景に、参列したすべての人々は深い感嘆と歓喜の念に包まれた。続いて曼荼羅供養の儀軌が行われ、リンポチェはガムポパ法帽を戴かれた。出家衆が衆生を代表して曼荼羅を献じ、上師に恭しく供養を捧げた。
  
修法の過程においては、薈供および供茶の儀軌が行われた。参会者一人ひとりが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けた供物を授かり、法会の中で上師および諸仏菩薩とともに食すという、極めて稀有で殊勝な因縁を得た。
 
灌頂に先立ち、修行の際によく起こる六つの過失について開示する。第一は「傲慢」である。自分はすでに法を伝え、説法する上師よりも優れていると思い上がること。第二は「不信」。上師と正法に対して信心を起こさないことであり、これはほとんどの者に見られる。第三は「求法せず」。正法を慕い求めないことで、これはすべての男性に当てはまり、長年出家している弟子たちも例外ではない。第四は「外散」。心が外の事物に散乱し、思考が外に向かってしまい、心がここに留まらないこと。第五は「内収」。心が内に閉じこもり、眠気が起こることを指す。第六は「疲厭」。心の中で「この法が早く終わればいい」「早く帰って電車に乗りたい」と思うこと。法会に参じる時は、上師と本尊を別の存在と見なしてはならない。上師と本尊は無二無別であると観じるべきである。
 
灌頂を受けるには、以下に述べる特別な動機と行為を具えていなければならない。続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を導き、法本を読誦された。そして身・語・意の授権灌頂を授け、さらに貴重なる仏法の開示を賜った。

リンポチェは、菩提心甘露で満たされた白い宝瓶を高く掲げ、身の灌頂を授けられた。修法の最中、リンポチェは荘厳なる忿怒相を現され、会場には芳しい香気が漂った。参会者たちは胸の中心から全身にかけて熱を感じ、体毛が逆立ち、涙が止まらなかった。修法の後、リンポチェは次のように開示された。これは「身の灌頂」であり、この灌頂を受け聞いた者のみが、金剛薩埵の身を観修する授権を得るのである。
 
続いて、リンポチェは数珠を高く掲げ、回転させながら語の灌頂を授けられた。リンポチェ自ら一語一句、会衆を導き、百字明咒を三遍唱誦させられた。その後も修法を続け、大衆を導いて法本を読誦された。そして次のように開示された。「今、語の授権を得た。語の授権を得た後は、言葉に関する障りと習気が浄化されるのである。」
  
リンポチェは続いて意の灌頂を授けられた。修法の過程で、リンポチェは侍者に問われた。「胸のあたりを一度打たれたように感じたか?」侍者が「はい」と答えると、会衆の中からも同じく「感じました」との声が上がった。リンポチェは次のように開示された。「意の授権とは、凡夫の心をそのまま仏法の修行に用いないということである。自分の考え、自分の観念、自分の発明や方便によって修行してはならない。上師の教えに従い、段階を踏んで実践すべきである。そうでなければ、永遠に上師や諸仏菩薩の意の加持を得ることはできない。自分の好きなように加減して修行しても、何の意味もない。このようにして意の障りと習気が清浄となる。習気というものは非常に複雑であるが、ここではこれ以上は述べない。」
 
続いて、金剛薩埵の意の空性と大悲の双運、すなわち「空悲双運」の観修の授権が与えられた。というのは、「上師が修法を行うとき、その修行は空性の中にあり、同時に慈悲の心と共に行われる。これが双修の方法である。空性を証得していない段階では、いかなる咒を唱えても衆生を救うことも、自らを変えることもできない。では、どのようにして空性を修するのか。それは座禅や経典の読誦、あるいは思考によって得られるものではない。役に立たない!空性とは、法界に本来存在し、我々の意の中にも本来具わっているものである。空性がどのように働くかというと、六波羅蜜や『仏子行三十七頌』を実践することによって、すべての因縁が整った時、一瞬にして空性を悟るのである。空性を悟るとき、慈悲の力は倍増するにとどまらず、十倍、百倍の力となって現れる。」
 
たとえば、私があの子供の皮膚病を加持したとき、明らかにその両親は祈り方を間違えていた。しかし、その子の苦しむ姿を見て慈悲心が起こり、空性が働いた。何が働いたのかというと、私の心に「求める心」がなかったということである。天疱瘡の弟子のときも同じである。私は彼を加持したが、一銭も受け取らず、逆に交通費まで自分で出した。では、今あの家族はどうしているのか?もし私に空悲双運がなければ、あのような瀕死の人のところに行く場合、普通なら誰かが「こんな大リンポチェが来るのだから、まず条件を話し合ってから」みたいな話を持ち掛けておくが、私はそうしなかった。だからこそ、あの家族には一ヶ月の猶予を与えた。来なくても構わない、私はそのような弟子を必要としない。空悲双運がなければ、衆生の問題を解決することはできない。私はその瞬間に問題を解決した。もちろん、彼にその福報があったからこそ死なずに済み、私に出会えたのである。私は誰が彼を紹介したのかすっかり忘れていたが、(弟子が報告:「楊という弟子が紹介しました。」楊の弟子は私に大きな厄介を持ってきたものだ。彼らが来ないなら、あなたは一言叱ってやるべきだ。まさか彼らと仲良くしているのか?彼らとは付き合いを断るべきだ。どのような関係を持つのか?(弟子が報告:「その天疱瘡の弟子の母親は、楊の弟子の社員です。」)なるほど、私は本当に親切だ。あなたの社員の面倒まで見てやって、私には何の得もないのに。
  
これから本尊の観修と咒の持誦のために、誓いを立てなければならない。誓いの方法は一般のと一緒で、どの法本も同じである。もちろん、誓いを立てた後に実際に行わなくても構わない。下で唱えなくても、私には分からない。なぜ誓いが必要なのか。誓いを立てないということは、すなわち――第一に、この法門を修する準備ができていないということ。第二に、上師に対してまったく敬意を持っていないということ。第三に、この法門を修する福報がないということ。誓いを立てなくても私は気づかない。恐れる必要はない。千人以上もいるのだから、私は絶対に聞こえない。まだすごい天耳通を得ているわけではないから、唱えなくても構わないし、声に出さなくても問題ない。
  
リンポチェは慈悲をもって大衆を導き、誓言を三度唱えさせた。そのとき、皆は大きな声でリンポチェに続いて誓言を唱えた。リンポチェは開示された。「声を少し小さくしなさい。唱えていない者たちが、自ら恥じるように、いいですか?」
  
この誓言はとても慈悲に満ちている。最初の一句から、すでに「あなたたちには供養の心がまったくない」と分かっている内容になっている。だからこそ、主尊である金剛薩埵に加持をお願いしているのだ。「あなたたちが今生、そして生生世世までも、上師を喜ばせる意念をもって奉仕を完成できますように」と。たとえば、いま皆がボランティアとして働いていることも、上師に奉仕していることと同じである。しかし、誰もが中途半端にしかやっていない。供品を担当している弟子たちなど、供物を壇城の両側に分けて置いている。なぜそんな置き方をするのか、私には分からない。もしかすると、私の手の動きを試したいのかもしれない。こちらで一回撒き、あちらでも一回撒けるように。だが、いまだに理解できない。なぜそう置くのか。上師が灑浄するときの便利さを少しも考えていない。自分の見た目の都合ばかりを考えて、「この方がきれいに見える」と思っているだけだ。たとえば、前回の阿弥陀仏大済度法会のとき、白いカーペットを動かす件も同じである。彼らは上師に奉仕する準備ができていない。ただ「自分の仕事をうまくやって、叱られなければいい」と思っているだけなのだ。
  
この一句「上師を喜ばせる意念をもって奉仕を完成する」というのは、自分が楽しくやるという意味ではない。つまり上師を悦ばせるということである。上師があなたの行いを見て、「よくやった」と思われたとき、それが一つの功徳になるのだ。しかし、多くの人はかえって逆のことをしている。私が何をしようとしているのか、次に何をするのかを勝手に推測している。どうしてあなたたちに分かるのだろうか?知っているのは仏だけである。私の根本上師であるチェツァン法王だけが、私の未来を知っておられる。あなたたちがどうして、私が次に何をするつもりかを分かるというのか?答えは簡単だ。分からないなら、直接聞けばよい。しかし多くの者は、聞いたら恥をかくとか、面子を失うと思って、聞かずに勝手に行動し、あとで誰が責任を取るかを見ている。そのような態度はいけない。
 
昨日、ある弟子が一箱の果物を私に贈ってくれた。私は感謝したが、同時に感謝しなかった。なぜなら、どうして私の店で物を買って供養しないのかと思ったからだ。つまり、彼は一つのお金で二つのことができたはずだ。私の店で買い物をして、それを供養として私に捧げればよかったのに。それなら私はおそらく、またそれを取り出して彼に返すこともあったたろう。。どうしてそうしないのか。それが賢いのか、有能なのか、器用なのか、私には分からない。きっと「リンポチェは高価な果物が好きだ」と思ったのだろう。だが私は頻繁に日本へ行っているから、食べようと思ったらいつでも食べられるのではないか。あなたたちは本当に、少しも考えない。たとえば、誰かに贈り物をするとき、相手が本当に使えるものを選ぶべきだ。「これを贈れば上師が喜ぶだろう」とか「これを贈れば上師が好きだろう」と思って選ぶものではない。あなたたちは密法を修める器ではない。私は法王に供養をするとき、いつもまず法王に伺ってから行う。だがあなたたちはそうではない。勝手にやって、あとで「まあいいか」と思っている。昨日、果物を受け取って私は呆れた。なぜなら私は果物を食べないからだ。法王はいつも私に「果物を食べなさい」と言っておられたが、最後にはもう何も言われなくなった。なぜ私は果物を食べないのか?糖分が多すぎるからだ。だから食べない。私は自分の体型に気をつけている。(大衆、笑う)いや、皆さんに「果物を食べたら太る」と言っているわけではない。誤解しないように。ただ、私は果物を食べると本当に太りやすいだけだ。

この後の一句にある「三門をもって上師尊に供養する」とは、私たちはまず「供養とは何か」を正しく理解しなければならない。供養とは、未来に何かを得ようという期待をもって行うものではない。また、いらなくなった物や余った物を上師に投げつけるように渡すことでもない。以前、誰かが意味の分からない不要な物を山ほど私に持ってきたことがあった。それ以来、私は命じた——「Cash only(現金のみ)」と。現金なら私は必ず使う。法王も以前、多くの物を受け取られたが、それが私のところに来たとき、私は一つ一つ説明した。「これには証書が付いています」と送った人は言ったが、私が見ると、すべて価値のない物だった。上師は受け取った当初、それを貴重だと思われたが、後で実際には価値がないことを知ったのだ。今の世の中では、現金が最も重要である。リンポチェは、毎日多くのことをしている。あまり私を知らない人たちも、「リンポチェは本当に多くの人を養っている」と言う。外の人はさておき、この出家の一団も、すべて私が養っている。あなたたちは誰かを養っているのか?今日、私はお金の話をしているわけではない。誤解しないでほしい。もしお金の話をしているなら、あなたが家を売ってまでもその代金を全部私に渡すべきだ。たとえば、あの陳という弟子には家があるが、彼女は決してそれを売らない。彼女は「リンポチェは金儲けのために弘法しているのではない」と証明したくて、やっとの思いで仏法を学び始めた。だが過去十数年、何をしてきたのか。お金がそんなに大事か?結果はどうなった?財を得たのか?あなたとあなたの夫はあれほどケチで、もう叱る気にもなれない。
 
生々世々、弟子であり続けるというのは、常に上師の後を追いかけるという意味ではない。私は今生でチェツァン法王に皈依した。法王は永遠に私の上師である。たとえ私が修行を成就し果を得ても、法王はやはり私の上師であり続ける。私がずっと後をついて行くということではない。では、あなたたちは何のために私について来るのか?私はこれほど速く進み、車を運転しても速い。あなたたちは私について来られないだろう。しかし、この一句はとても大切だ。「生々世々、弟子である」という意味は、あなたが弟子であるかぎり、上師が修する法門の加持があなたに及ぶ、ということである。それは上師の願いそのものだからだ。上師の日々の願いは、弟子たちの修行における障礙が減少することである。だが、あなたたちは自ら多くの障礙をつくり出している。昨日、ある弟子が私のところに来て「申し訳ありません」と言った。「法会は午後だと思っていて、午前中に行きませんでした」と。私は言った――「あなたは皈依を退きなさい。もう私の弟子ではない。」法会を忘れるなどありえない。本当は用事があって来られなかったのに、「忘れた」と言い訳するのは、仏法を重んじていない証拠であり、私を欺く行為だ。 

「依侍上師不分離」。依とは「依存する」ことではなく、「頼りたがる」ことである。頼りたがるとは、上師が伝えた法を拠りどころとして、絶えず修行を続けることである。「侍」とは、上師が仏法のために常に行じておられることに対し、弟子がその行いに随って修し続けることをいう。それが「上師に仕える」という意味である。
 
苗栗の法会に、いったい何人が申し込んでいるのか見てみなさい。あなたたちに親戚や友人がいないとは思えない。「遠すぎる」「忙しい」「時間がない」と文句を言う人がいるが、一度言われただけで終わり、信者にももう一度勧めようとしない。台湾の人々はチベットにも、インドにも行くのに、苗栗がどれほど遠いというのか?すべてあなたたち自身の問題である。仏寺が苗栗に建てられたのは、衆生を利益し、多くの人々が仏法に触れ、さらには皈依できるようにするためである。それをあなたたちは私の代わりに妨げている。阿弥陀仏の済度法会だけは申込者が多い。怨親債主を済度できると思い、自分が良くなると信じているからである。しかし、他の法会にも済度はある。ただ私がそのことを言うか言わないかの違いだけだ。あなたたちは法会をビュッフェのように選り好みしている。それはすなわち、上師に依止し奉仕していないということである。
 
 
上師がもうすぐ七十九歳になり、仏法の事業のために今もなお努力し続けていることを知っていながら、あなたたちは上師に依止し奉仕するならば、同じように行動すべきである。ところが実際にはそうしていない。私との間に線を引き、遠く離れている。時々弟子たちを見ても、誰だか分からない者が多い。なぜなら一度も会ったことがないからである。これこそ「遠く離れている」ということである。日曜の法会にだけ参加し、普段は姿を見せない。法会の人はあまりに多く、私はあなたが誰かなど見分けられない。それに、あなたたちの顔つきも次々に変わっていく。どうしてそう変わるのか、私にも分からない。お布施ができなくても構わない。土曜日の接見は無料であり、それでも私はあなたを見ることができる。だが毎回、土曜日の接見で見かけるのは女性ばかりである。男性たちはどこへ行ったのか。そんなに忙しいのか。忙しくしていても、別に財を得たようにも見えない。

私は「好きなように使ってください」と言うが、この「好きなように」とは「適当に」という意味ではない。あなたたちも知っているように、私は普段、個人的な用事のために弟子を使うことは決してない。いつも身近にいる、ほんのわずかな弟子たちにだけ用事を頼むが、それ以外の者には一切頼まない。あなたたちに頼むことがあるとすれば、唯一、私の店で消費することである。しかしこのような「差遣」は、あなたたちにも得るものがあり、決して無駄にはならない。演奏会のときも、あなたたちの親族や友人が来て楽しんでいるだろう。よく考えてみなさい。私が差遣することはすべて、仏法、仏寺、道場に関わることである。それ以外のことでは、私はあなたたちを使わない。
 
なぜこの誓いを立てなければならないのか。誓いを立てなければ、上師も本尊もあなたから遠く離れてしまうからである。誓いを立て、それを実行するとき、上師と本尊はあなたのすぐそばにおられる。彼らが差別心をもって遠ざかるのではない。あなた自身が拒むことによって、彼らを自らの手で押しのけているのだ。上師の思い、上師の行いと異なることをすれば、それはすなわち上師と離れるということである。たとえあとで謝っても無駄である。なぜなら、その行為はすでに起こってしまったからだ。だからこそ、常に懺悔しなければならない。あなたたちは貪・瞋・痴・慢・疑を決して離れることができない。特に女性の嫉妬心、男性の傲慢心、この二つによって上師と分離してしまう。私のほうから離れるのではない。あなたたち自身が自然に離れていくのだ。 
 
この誓いを立てるのは修行のためであり、上師にメリットがあるからではない。上師の心は常に、すべての有情衆生を輪廻の苦海から救い出すことに向けられている。弟子として上師と同じ発心をもつならば、あなたは上師の功徳大海の中にいることになる。しかし、もし上師の意志や計らいに反することを行えば、その瞬間に上師と分離する。事を起こす前に上師に伺うことはできる。だがあなたたちは尋ねようとしない。陰でこっそり行えば、天も地も知らず、自分だけが知っていると思っている。そして叱られたときになって初めて「知らなかった」と言い訳をする。死人のことですら私は知っている。ましてや生きている人間のことを知らないはずがあるだろうか。
 
アキ護法は必ず助けてくださる。私の背後で行われたすべてのことを、一つ残らず明らかにしてくださるのだ。たとえば翻訳チームは、二〇二三年から今日に至るまで何もしていない。時間が過ぎれば問題にならないと思い込み、リンポチェも叱らず、理事会でも話題に上らず、誰も気にしない──そう思っていたようだ。だが不思議なことに、私はすぐにそれを見抜いた。彼らは何度も懺悔に来たが、私は言った。「私に懺悔するのではなく、衆生に懺悔しなさい」と。なぜなら、あなたたちは知らないかもしれないが、ある外国人がたまたまその翻訳を見るかもしれない。その瞬間、彼の心が変わるかもしれないのだ。翻訳チームは「人材がいないからできなかった」と言い訳する。しかし、彼らが使わなかった人材を私が使えば、問題なく立派にできている。これこそ「完成令悅意服侍」ができていないということだ。自分が日々していることだけが「正しい仕事」だと思い込み、道場や仏寺のことは副業(サイドビジネス)にもならないと考えている。時間があるときだけ、暇なときだけやればいい──そう思っているのだ。
 
あなたたちは今日まで大きな災難もなく生きてこられた。それは誰の助けによるものか。(大衆一同:「リンポチェです。」)私は何も言っていない。それはあなたたち自身の口から出た言葉である。だからこそ、これらの誓いの一つひとつは、あなたたち自身が仏法の上で進歩したいと願い、そのために自ら決意を固めるためのものである。
 
リンポチェは修法を終えられた後、まず弟子たちを導き、アキ護法の修持を行われた。その後、武のアキ護法の儀軌を修持されたのち、出家の弟子たちに指示を与えられ、大衆を導いて以下の祈願文を唱えさせた。すなわち、直貢チェツァン法王の長寿祈請文、チョンツァン法王の長寿祈請文、リンチェンドルジェ・リンポチェの長寿祈請文、そして『発菩提心』である。
 
 リンポチェはさらに、参会した大衆に対して殊勝なる仏法の開示を賜われた。
 
リンポチェは医師の弟子(謝氏)に問われた。「医学の立場から見て、人間の体にある良い細胞と癌細胞は、どのように区別されるのか。」謝氏の弟子が答えた。「普通の細胞は節度があり、一定の範囲を超えて増殖せず、他の部分を侵さず、それぞれの位置を保っています。しかし癌細胞には制限がなく、際限なく増殖し、全身へと転移します。また、過剰に成長して栄養が届かなくなると中心部が壊死し、潰瘍が生じますが、外側の細胞はなおも広がり続けます。癌細胞とは、規範を受け入れられない細胞です。」リンポチェはさらに問われた。「では、その癌細胞はどこから来るのか。」謝氏の弟子は答えた。「リンポチェに試されました……。ただ、癌細胞は分化の過程で制御を失ったものだとしか申し上げられません。」リンポチェは続けられた。「つまり、癌細胞も良い細胞も、もとは同じ人間の細胞である、そうだな?」(弟子の答え:「はい。」)
 
リンポチェはさらに、外科医である蔡氏の弟子にも尋ねられた。「では、あなたはどう考えるのか。」蔡氏の弟子は答えた。「癌細胞は本来、自分の身体の細胞と同じものですが、遺伝子の突然変異が修復できなくなったり、大気汚染などの環境要因、または飲食の影響などによって、正常な細胞が癌細胞へと変化します。」リンポチェはまとめて言われた。「つまり、あなたたち二人の医者の定義によれば、癌細胞は人の体内の細胞が変異したものであり、しかしなぜ変異するのかは分からない、そうだな。」(二人の医師の弟子が声を揃えて答えた。)「はい。」
 
弟子の中には、癌を患った途端に天が崩れ落ちたように感じ、あらゆる方法を探し回って癌細胞をどうにかしようとする者もいる。しかし、体内の細胞が悪へと変わるのは、いったい誰がそれをそうさせるのか。医学では、空気や食物など様々な要因が語られるが、根本的には「なぜ善い細胞が自らを害し、殺す細胞へと変わるのか」という確かな答えはいまだ存在しない。「私の言っていることは正しいか。」(二人の医師の弟子が答えた。)「はい。」リンポチェは続けられた。「仏法の観点から言えば、それは自らが多くの悪業を積んだからである。悪を作りながら修行せず、懺悔せず、善行を尽くす努力を怠った結果、体の中の細胞、良い細胞も悪い細胞も“善”を失ってしまう。現代医学でもすでに証明されているように、人は心が明るく、善いことを行うほど癌になる確率は低い。それでも癌を患うということは、いまだ自分を改める努力が足りず、さまざまな方法で自分を救おうとしながら、病気を治療するために多くの財産を抱え込んでいるということだ。」リンポチェは外科医の蔡氏の弟子に向かって言われた。「あなたは“快刀手”であり、手術の腕も速く、一日に二十件も執刀できる。その多くは癌の患者であろう。では問うが、癌の患者で、手術後に本当に良くなった者、長く生きた者はいるか。」蔡氏の弟子が答えた。「手術自体はうまくいった方もおりますが、ほどなくして亡くなる方も多いです。」

医学的に見ても明らかなように、良い細胞であれ悪い細胞であれ、癌細胞はもともと身体の一部である。それを取り除けば他の細胞には影響しないと思っているが、実際にはそうではない。なぜなら、取り除かれたその細胞と他の細胞とは、本来“兄弟姉妹”の関係にあるからである。人の身体のすべての細胞は、一つの細胞から分裂してできたものである、そうだな?(二人の医師の弟子が答えた。)「はい。」「兄弟姉妹を殺したら、最後はどうなるか?それはすなわち、自分自身を殺し続けているのと同じである。私の経験から言えば、癌というものは“悪を改めなかった結果”であり、現代の言葉で言えば、その人のエネルギー、磁場が“、マイナスの方向”に傾いているということだ。」

常に皆に言っているように、上師を尊重しなければならない。なぜなら、上師とは“純なる善”そのものであるからだ。もし上師を尊重せず、疑い、上師から託されたことを怠るなら、それは自分の中に“悪”があるという証拠である。悪を持つからといって必ず癌になるとは限らない。しかし、別の形で必ず結果は現れる。今日の話は、皆に私の言うことを無理に聞かせようというものではない。また、「真言を唱えて、冤親債主に回向すれば癌を克服できる」などと思ってはいけない。誰があなたの冤親債主なのか。――それは“あなた自身”である。菜食を始めたからといって、すべてが解決するわけでもない。菜食を始める唯一の利点は、そこから“悪”を“善”へと転ずるきっかけを得られるということだけだ。しかし、それは過去に積んだ悪業を根本的に清めることを意味しない。
 
法本にははっきりと説かれている。灌頂を受けた後でも、上師の教えを聞かず、誓いを実行しないまま、この本尊を修しても、百字明咒を一千万遍唱えても無意味である。なぜなら、その心がまだ“悪”だからである。私は何度も心を込めて言ってきた。『仏子行三十七頌』を徹底的に実践しなければならない。そうすれば善は絶えず積み重ねられていく。しかし、実行せず、「自分は間違っていない」と思うこと、それこそが“悪”である。自分は間違っていないと思う、その瞬間にすでに“間違っている”。なぜなら、私たちは仏道修行者であり、一切の行い・言葉・思考は仏法に基づくものでなければならず、凡夫の考えに従うべきではないからである。もし嫉妬や嫌悪の心が起こり、誰かを陥れようという念が生じたなら、それこそが“悪”であり、すでに癌になる準備をしているようなものだ。なぜなら、その瞬間、自らの細胞を“善”から“悪”へと変えているからである。
 
皆も知っているように、私は五十歳前後の頃に癌を患った。その時、謝姓の弟子が「切除した方がいい」と勧めたが、私は弟子の言葉には従わなかった。しかし、身体に痛みもなく、そこから二十八年も長く生きている。多くの人は癌になると、あらゆる方法で癌と戦おうとする。私は医者にかかることを反対しているわけではない。また「私があなたの癌を治せる」と言うつもりもない。しかし仏法の観点から言えば、もしあなたが教えを聞き、すべてを純善へと改めるなら、癌による苦しみは次第に軽くなる。なぜ末期癌の患者の中で、上師に信心を起こした人の方が、他の患者よりも苦痛がはるかに少ないのか?皆もそのような例を多く見てきたはずだな。謝姓の弟子、そうだろう?(謝姓の弟子が答える:はい、あまりにも多く見てきました。ある老婦人が肝臓癌を患い、モルヒネをどれだけ打っても痛みが止まりませんでした。その方はまだ皈依しておらず、リンポチェが病院に来て加持をされました。私は上師の正面に立っていましたが、上師が「どいて」と言われ、彼女に向かって数回息を吹きかけて加持されました。翌日、彼女は『もう痛くない』と言いました。病院ではこのような上師の加持を何度も見ています。吐血していた人が加持後に止まり、モルヒネを使わず苦しまずに安らかに亡くなる――これは仏菩薩にしかできないことですが、リンポチェはそれを成し遂げられました。)
 
ある時、私は病院で病人を加持し終えた後、向かいの病室にいたある夫人が私を見て、跪いて助けを求めてきた。その夫人の夫は広東人で料理人をしており、肝臓癌を患って腹水がひどく、生きることも死ぬこともできない状態だった。医者にもどうすることもできず、腹水はまったく抜けなかった。私はその夫人があまりにも気の毒だったので、彼女とは全く面識がなかったが、彼女の夫を加持してあげた。すると翌日、その夫は安らかに息を引き取り、同時に腹水も完全に消えていた。これこそが「空悲雙運」の力である。
 
仏法というものは、実に科学的である。今の科学もすでに証明している。人の心が善であれば、病や痛みは少なくなる。これほど多くの病気があるということは、その心が必ず悪に染まっているということだ。だから、私のところに懺悔に来る必要はない。私は以前から年配の弟子たちにも注意してきた。腰をかがめたり、しゃがんだりする時は気をつけなさいと。しかし、やはり言うことを聞かない。何かあれば「リンポチェに助けてもらおう」と考える。だが、リンポチェは――あなたたちを救うのは一度きりだ。
 
今日、特に癌のことを取り上げたのは、この末法の時代、人々が毒のある水や食べ物を口にしやすい時代だからである。多くの金剛部の法本にも記されているように、一度でも灌頂を受けた者は、とりわけ毒のある食べ物や水を口にする機会が少ない。たとえ毒を摂ったとしても、大きな影響は及ばない。しかし、その前提がある。それは――上師に対して揺るぎない信心を持ち、伝承に忠誠であり、二心を抱かず、他人の言葉に耳を貸さないことである。私は信じている。今でも多くの男性弟子がネットで他のリンポチェの開示を見て、比較しているだろう。何を比べるというのか?私が知らないとでも思うのか?率直に言おう。ネット上に公開されているものは、決して密法ではない。若い女性の中にも、他のリンポチェの開示を見ている者がいる。彼女たちは「リンポチェは密殿でどんな法を修しているのか」と興味を持って調べているが、そんなことは絶対に調べても分からない。そのような心で仏法を学んでも、得られるのはせいぜい来世の人天の福報だけであり、今生においては何の利益にもならない。
 
チベット仏教のある法本には、はっきりとこう書かれている。「大きな福報と功徳を積んだ修行者である上師は、この一生のうちに必ず一つの仏寺を持つ」と。私がなぜ仏寺を建立しようとしたのか。それは、法王が私の修行の成果を人々に証明するためである。たとえ転生したリンポチェであっても、どれほど多くの生を経ようとも、もしそのリンポチェが「この一生では寺を持たない」と最初から誓願していない限り、必ず自分の仏寺を持つことになる。中には三つの仏寺を管理しているリンポチェもいる。仏法とは文字によって得られるものではない。それは、すべて諸仏菩薩と上師の加持によって初めて得られるものである。
 
ガムポパ大師は法本の中で明確に説かれている。カギュ派とは「加持の伝承」であると。すなわち、上師の加持によって受け継がれる伝承である。ガムポパ大師は決して人を欺くことはない。私が曼荼羅を奉献するときに戴く法帽、それこそがガムポ大師の法帽である。
  
今生で仏門に帰依すると決め、この一生で本当に仏法を学びたいと願うなら、上師の言葉をよく聞かなければならない。どれほど忙しくても、私ほど忙しい者はいない。いつも予期せぬ出来事が起こるからである。本当は十月に休むつもりでいたが、また用事ができて外に出なければならなくなった。一年はあっという間に過ぎていく。死は、あなたたちのすぐそばにあることをどうか信じなさい。体力のある今のうちに、そしてリンポチェにもまだ体力のあるうちに、どうか自分に言い聞かせなさい。――この人生で唯一の財富は仏法である。それ以外のものはすべて偽りである。お願いだから、すべてを私に押し付けないでほしい。もし突然、家を私に差し出されたら、私も困る。今は家が売れにくく、毎年税金も払わなければならないからだ(会場笑)。現金の供養なら、必ず有効に使うことができる。以前、弟子の一人がベリーズの土地を供養に持ってきたが、私はあそこに寺を建てるつもりはない。あの国では皆魚を食べ、精進料理などほとんど存在しないのだから。それはつまり、自分がいらないものを上師に供養しているということである。 

今日、灌頂を授けたのは、皆が修行の道においてあらゆる障礙を清め、迷いなく前に進めるよう願ってのことである。どうか修行の道を歩むうえで、ためらったり、良い生活を送りたいなどと考えたりせず、勇気をもってまっすぐ進みなさい。そうすれば必ず法を得ることができる。今日お渡しするザボンは、食べれば甘くて心も和む。阿弥陀仏のもとで、皆がいつまでも団円できますように。ただし――もし食べたあと修行しないなら……(会場笑)私は何も言っていない、笑ったのは皆の方だ(笑)。(会衆一同:リンポチェに感謝いたします)
 
このあと法会が終わったら、皆さん上に来てザボンを受け取りなさい。出家衆はその場で見守っていなさい。皆さん、決して選んではいけない。手に取ったものが、あなたのザボンである。市場で野菜を選んだり、値切ったりするような習慣をここに持ち込んではならない。実際のところ、どのザボンもすでに私が加持してあるのだから、選ぶ必要などないでしょう?(会場笑)(会衆一同リンポチェに感謝いたします)

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2025 年 10 月 13 日 更新