尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年1月23日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十九「不動如来会第六之一」を解説された。
「仏典」は一冊の本・学問の類・哲学の類・守護の類なのだろうか。全部違う。仏典とは、文字通りに、仏の修行経験で、かつて仏が修行に当たって使われた方法・法門及びかつて開示された・教えた法話のことだ。500の阿羅漢の神通力を通して、仏が開示された仏法を一字一句逃さず全部記載するようにされたものだ。釈迦牟尼仏が仏法を開示されていた時、筆記もさせていないし、パソコンも何もかもなかった。全ては阿羅漢たちは定の中・不動地で、仏の説かれた仏法を阿頼耶識(第八意識田)に保存したお蔭だ。彼らは入定してから、仏がかつて開示された法門を、一字一句逃さず全部書き記すようにされたのだ。だから、仏法を学問・哲学・守護として捉えている者は、永遠に仏法が身に付くことにならない。
ここ数千年間、仏法は多くの異なった民族の文化・歴史・背景等々を経て、発展してきたこともあって、だんだんと仏法から少し(仏法以外の)外道へと変容したのだ。「私は上手くいかないなら、私が順調になるまで助けて欲しい」、「助けてくれなければ、霊験あらたかじゃないのだ」などと、仏法は即ち無事を求めることだと思い込んでいる人が多い。こんなのは、まったく間違った観念だ。如何なる行者もそなたを助ける能力があるが、最も肝心なのはそなた自身だ。どこが肝心なのか。そなたは受け止めるかどうか、自分に過ちがあるのを信じるかどうかにある。だが、誰しも自分に過ちがあると思わず、ひたすら自分はただの不運に過ぎず、自分は被害者だと思っている。
仏の仰せによれば、そなたの身に降り注いだ如何なる事も、必ず因果という成分が入っており、独りでにある事件が起こることにはならない。よって、こんな観念・因果・業力・無常を受け入れられなければ、全て邪見・邪説と為る。いわゆる「邪」とは、仏法による薫陶・修習によって一切の苦難と輪廻を解脱させられないことだ。私個人の修行では、35歳から今の75歳まで仏道修行しているが、そなたらが思うように順風満帆だったわけではない。数十年間、あらゆる事は順調かつ益々好転していたのに対して、修めれば修めるほど障礙が増えていて、問題が浮上してきている。どうしてか。過去に自分が為した業を、今生に返済し切らないといけないからだ。返済し切らなければ、修行上では進歩を遂げられないからだ。でも、時下の人々は、何れも返済しないことを望んでおり、「仏菩薩よ、こんな事を逃し、免れますように。こうなってはじめて仏菩薩の慈悲深さが感じられる」と願っている。
釈迦牟尼仏は、仏典の中で彼自身には三つの事ができないとはっきりと教えている。第一に、衆生の果報を変えることができない。つまり、衆生の業力を変えられず、業力というものは自業自得だということだ。何の為に仏道修行しに来ているのか。仏道修行してから、どうやって自分の業力を転じさせられるのかと分かるようになるのだ。仏道修行しなければ、どうやって自分の業力を転じさせられるのか分からないまま、流れに身を委ね、天を怨み人を咎めることしかできない。仏は我らにあらゆる法門は福慧から着手するのだと教えられている。福報さえ足りていれば、自ずとそなたの悪業を転じさせられるようになるし、智慧が開くようになれば、自ずと自身がしていることにどう向き合ったらたらいいかを判断できるのだ。法会の参列だけしていれば、何もかもが解決できるようなら、釈迦牟尼仏もきっと仏典の中でとっくに説かれていたはずだ。
前回も言ったように、不動如来が菩薩だった時に、仏に成ると授記された際、多くの瑞相が現れたという。例えば、妊婦は流産しないやら、視覚障碍者は見えるやら、横死する人がいないやら、こういった事が発生することになる。またそなたは「彼はできると言ったのに、どうしてあなたはできないというのか」と言うだろう。これらの衆生は必ず過去世に不動如来と因縁があったから、彼(不動如来)が仏と授記された際に、過去世に彼に付いて仏道修行したことがある、或いは過去世に一緒に修行したことがあると言った彼と縁のあるこれらの衆生は不動仏が成功裏に修め得られるようになったら、その願力によって助けられるようになるのだ。仮に、これらの衆生は過去世に不動仏とちっとも縁がなければ、きっとそうにもなれないのだ。これは、まさに釈迦牟尼仏が「縁がない者は度せない」と言われた所以だ。
第三に、仏は衆生を度し切ることができない。何故なら、縁なき衆生は度し難いからだ。縁とは何だろう。仏菩薩と上師がひたすら仏道修行しろとそなたに勧めるのではなく、彼らが自分らが知っている修行経験と法門を言い出してから、そなたが学び、修めようと受け止めるかそなた自身で決めるということだ。まるで、学校で先生が毎日生徒に教えているように、生徒が聞き入れるかは生徒自身で決めることだし、宿題をするかしないかも生徒で決めることのようにだ。例えば、この生徒は聞いたが、宿題も復習もしないままでは、成績がよくなるというのか。よくならないに決まっている。仏道修行も同じだ。多くの人は「私は全てをあなたに任せるから、全部信じるから、全部解決してくれる」と勘違いしている。そうだったら、私も全て法王に任せ、法王が解決してくれればいいのにとなる。仏菩薩によって助けられたことはどれだけあるか。
我らで言う信は迷信ではない。迷信とは何か。つまり、あなたに委ねて放っておくことだ。例えば、そなたが学生で学校に通っているとして、「先生、私は宿題をしない、試験も宿題も先生が代わってしてください、私はただの人数合わせだ。校長先生には、このクラスはこれだけの人数がいるよと言えばいい。」なんて言えようか。こんな話は世界のどこでも聞いたことがないぞ。どうして仏道修行の場合だけ、こうできるというのか。もしそうではなく、そなたらの考え方のままであれば、きっと釈迦牟尼仏も仏法を広めるに数十年もかかることがなかっただろう。釈迦牟尼仏は、王子だった頃から、出家してやがて説法をし始めるようになるまで、三十代から七十代という四十数年間もかかった。迷信というそなたらの考え方では、きっと釈迦牟尼仏は説法する必要もなく、ひたすらそこいらに座っていれば、人から礼拝されればいいに決まっているのだろう。それでは、どうして釈迦牟尼仏は四十数年も法を説かれたのか。きっと皆もこんな事を考えたことがないだろう。この場に居る出家弟子を含め、「私が悟りを開くよう、私の業障が解消されるよう、私が上師に信心を起すよう、仏からご加持ください」とばかり祈り求めている。しかし、仏典にはそうは記載していない。問題はご自身の、話を聞かない、信じない、聞き入れないところにある。
どうして一月の施身法を三週間早めたか知っているか。皆さんが知っての通り、施身法法会はふつう毎月の最終週にしているが、どうして一月だけ早まったのか。死者が多かったからではなく、政府はもうじき新しい政策を打ち出すと知っているからだ。今日の参列者は半分も少なくなった。誰しもリンポチェの凄さを信じていない。現在は、最低一回ワクチン接種しなければ入れないとしている。思いがけず、百数名の弟子は一回目の接種さえ終えていない。これ等の人たちの勇気に感服している。まさかパルナシャバリの真言を唱えたことがあるからと言って、必ず守ってくれると思うのか。厄介事に見舞われた時に、リンポチェによって保護されるつもりなのか。たとえそうだとしても、そこまで保護できないのだ。我らはこの世に生活しており、世界中、ワクチン接種が不要だと言った場所は一か所もない。このように世界規模で流行っているのに、自分だけはわざとしないというと、我らの道場は生き残れるというのか。
この百人余りの人はエゴだ。接種後の副反応を心配して接種を受けないようにし、リンポチェが守ってくれればいいという考え方だ。私は言う必要もなくそなたらを守るが、政府からの法令まで保証してあげられない。私はパルナシャバリの真言を唱えたことがあるから、絶対に感染されないとはっきりと知りながらも、どうしてまた二回もワクチン接種を受けたのか。暇だから受けたのではなく、今まさに明らかになっているだろう。我らは八大行業(特定遊興飲食店など)には属していないが、第九大行業だから、政府から我々に対して色々な規範を出ている。接種を受けなければ道場に入れないやらと、次々と打ち出されてくる。そなたらは上師を信じていない。上師もワクチン接種を済んだのに、どうしてそなたらは受けないままなのか。この百人余りには、病気やら、癌やらで色々な理由がある。しかし、海外のほうでは、癌患者優先にワクチン接種を実施している。何故なら、接種すると、新型コロナウイルスによって死に至ることがないからだ。ある者は一向に話を聞かない者だから、成功裏に修められないわけだ。そなた個人の思想で仏道修行するのなら、とても修め得られない。何故かと言えば、そなたに今生には仏道修行の経験がなく、もっぱら根拠のない噂ばかり聞いているに過ぎないからだ。
一人の大学生を例に例えると、小学校・中学校・高校を経ず、試験を受けたこともなければ、大学生になれると思うのか。たとえ天才児であっても、必ず試験と言う段階を経なければならない。それなのに、どうしてそなたらは誰もが仏法なら試験に通る必要がないと思えるのか。「私はインテリで、仏典を紐解いて読むとすぐ分かるから」なんて、そなたは文字だけは分かっているが、実践のしかたは分からない。たとえ実践の方法を知っていても、そなたには実践する決心がない。仏典についての解説をするのは、そなたらの運がよくなるためではなく、仏典を聞くと、過去の諸仏菩薩がどう修行されたか、彼らの観念・思想がこうだったのかと分かるようになり、自分も転じてその方法を習って実践できるのかどうかが為なのだ。そなたはこう実践し、こう転じれば、黒から白へ、悪業から善業へと変わるものだから、ただ念頭一つだけのことだ。仮に、そなたは守りを求める為に仏典を聞くのだと思うのなら、そなたはいまだに黒業のままだ。何故なら、そなたはまだ貪念でいっぱいだからだ。
そなたが仏典を聞いて分かってから、それを目指して思想・性格・人との接し方を調整することができれば、そなたは自身の業を転じるのだ。自分にはできないと言うだろうが、それはできないに決まっている。何故なら、そなたは凡夫だからだ。だが、諸仏菩薩も皆凡夫から始めるものであって、先方ができるのに、どうしてそなたができないのか。それは決心があるかないかの違いにある。どうして多くの人は成し得ないのか。「私は今凄くいい。私は無事・健康・順調そして全ての良くないことが発生しないよう仏道修行しに来ているのだ」という考え方があるから、たとえ「私はこれが為ではない」と言っても、つまるところこれが為のようになってしまうのだ。そなたを少し健康に、順調にさせるのは、私が霊験あらたかやら、私が凄いやらではなく、諸仏菩薩の威徳力が存在するのを信じさせる為だ。だが、最後の業はそなたが死亡する時に訪れるものだ。
今、我らが数十年も苦労しているのは、日に日に暮らしが良くなるようにではなく、我らが往生する一秒前に、全ての準備が整うようにする為なのだ。また、「私は悟りを開きたい」と言う人も多いが、何を悟るというのか。死亡についてすら、どう死んでいくか分からないのに、何を悟るというのか。死ぬ直前に、「私はまだ悟りを開いていない。どうしよう。悟りを開かなければ行かれない」と言うと、本当に行かれなくなるのだ。自分の性格さえよく弁えていないのに、どう悟るというのか。そなたらはひたすらしっかりと話を聞き、従っていさえすればいい。ワクチン接種を受けていないこの百人余りは話を聞かない者だ。上師が既に接種を受けたのを見たのに、まだ接種を受けないでいるのか。「上師は注射をされても副反応が少ないが、私の場合は副反応が起こらないわけがない。もう怖いから、打たないようにしよう。いずれにせよ、リンポチェは私を加持するから。感染したとしても、リンポチェは加持してくれる。」しかし、仮に彼に感染が確認された場合、道場全体でどれぐらい閉じ込められないといけないのかまで考えていないようだ。我ら千人余りの他、同居者は少なくとも三人ずついるから、合計でどれぐらいの人が隔離されることになるのか。接種を受けたにもかかわらず、感染された場合、それは突破的感染だと見なされるが、一回も接種を受けないのなら、もう言い訳が利かない。現在、政府でさえ、寶吉祥道場は「超前部署(将来、発生しそうなことを視野に入れて用意することを意識する意味)」だと知っている。だが、この百人余りの弟子はエゴだ。一部の弟子は「リンポチェ、私はワクチン接種を受けに行くから、加持をお願いできませんか」と賢く聞いたから、私は加持してあげるようにした。この百人余りの弟子は加持を求めに来るな。何故なら、加持という流れはもう過ぎたからだ。さっさと接種を受けてこい!他人も打っている時に、一向に打たないようにし、わざと人と違うようにしたくては、どう修めようと言うのか。
経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の授記を獲たる時に、大夜叉の手に金剛を持ちたるありて菩薩を侍衛せること、我が如くにして異なることなし。復次に、舍利弗、不動菩薩の佛記を蒙れる時に、諸天及び人の、諸の名花・塗香・末香を菩薩の上に散ぜること、亦我が大菩提を證せる時に諸香華を散ぜるが如し。」
釈迦牟尼仏は舎利弗に、不動菩薩が授記を獲た時には、菩薩を保護するよう金剛杵を持った夜叉がいたが、私の時でも同様だったと言った。この段落では、どの名号の仏であろうと、如何なる仏の円満なる功徳においてもこんな事が発生するようにし、もしこんなのがなかったら仏ではないということだ。十地菩薩まで修めたとしても、授記を得る前に、これ等の功徳が現れないとする。というのは、仏からの授記を得てから、これ等のことが現れるようになるのだ。授記とは、そなたは必ず為し得ると予言することだ。
どうして仏の授記があんなに重要なのか。仏は我らに妄語をしてはならないと教えていて、つまり、存在しないことを存在すると言わないことだ。仏はこの菩薩の未来がどうなるかを見通したから、授記するのだ。仏はその心がどうなっているのかをはっきり知っているから、授記するわけだ。法王から私への長寿文も同じように、簡単に言えばこれも授記だ。成し遂げられないことを法王は書くようなことはない。何故なら、その文末に「私は懇誠に執筆した」と書いてあるからだ。法王は私に対しての懇誠ではなく、衆生に対して、仏菩薩に対して、この弟子は今後どうなるかを誠懇に伝えているのだ。今後、諸仏菩薩も私がこの道を邁進し、精進し続けるよう加持・護持するのと同じだ。いわゆる長寿文とは、私の世間での壽命が伸びる他、私の法も延長するという意味で、衆生に必要がある限り、この法は延々と伝わるようになる。
不動菩薩が未来仏だという廣目如来による授記を得た時に、諸天と人は諸名花を散かす。この名花は人類が見える地球上の花ではなく、いわゆる「天花乱墜」だ。それは、阿弥陀仏浄土に咲いている花で、地球にはない。前回、私が説明した四臂観音の左手に持つ花も地球上の花ではなく、浄土の花だ。よって、四臂観音の左手に持つ花がしきりに描かれながらも、なかなかはっきりと描けないわけなのだ。何故なら、初代から伝わってきているもので、自分の目で見たことがないからだ。
授記を蒙った時、どうして天人たちはこうしてくれるのだろうか。彼らは未来仏を供養する為だ。我らは、八供養の中で、花・香・塗香等があるのも同じ意味だ。釈迦牟尼仏は、私自身が大菩薩を證した際もそうだったと説かれた。
経典:「復次に舍利弗、彼の不動菩薩の授記を得たる時に、諸の天・人各二十億ありて、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を發して、廣目如來より佛菩提の記を授かることを得たり。」
菩薩が仏と授記を得た時、その功徳・福報によって多くの衆生を庇うことができる。釈迦牟尼仏は舎利弗に、不動菩薩が授記された際、「諸の天・人各二十億ありて、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を發す」と言った。もともとこの発心がなかったところを、不動菩薩が授記を得たことによって、彼らも発心するようになり、廣目如来によって将来仏の菩提果を證すると授記を受けることになった。
経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の、佛記を蒙れる時に、優鉢羅花・波頭摩華・紛陀利華の遍く大地に滿てること、亦我が道場に諸華の遍く覆へるが如し。」
釈迦牟尼仏曰く、不動仏が授記された時に、これ等の花が現れる他、釈迦牟尼仏の道場さえも満遍なく花で覆われるという。
経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の授記を得たる時に、無量の諸天の虛空中に在るありて、諸の天衣を散じて菩薩の上に覆ひて、咸是の言を作さく、願はくは此の菩薩の速に無上正等菩提を證せんことを、と。亦我が昔一切智を得たるに、諸天の衣を散じたる如く異なるあるなきなり。」
釈迦牟尼仏曰く、不動菩薩が授記された時、彼に一日も早く仏果を証していただくよう、無量の諸天は虚空に天衣を散かして菩薩の上を覆ったという。以前、私もそうだった。密法の修行に布をこう前に操るという儀軌があるが、まさにこれに因んだと言えよう。
経典:「復次に、舍利弗、彼の世間の天・人・阿修羅等は不動菩薩の阿耨多羅三藐三菩提の記を授るを得たるを見て皆大に歡喜して、世間の父母の、子を生めるよりも甚だしかりしこと、猶我が一切智を證せる時に、諸天人等の皆大に歡悅せるが如し。」
世間とは世間を輪廻することを指す。たとえ天界に生まれたとしても、輪廻を繰り返すものだ。天人阿修羅等は不動菩薩が阿耨多羅三藐三菩提心の授記を得たのを見た時、世間でいう親にとっての子供の誕生以上に、皆悉く喜んでいた。
経典:「復次に、舍利弗、彼の三千大千世界の有らゆる天人は佛の神力を以て皆、不動菩薩の菩提の記を授れるを聞きて、各種種の上服・名衣・珍奇の美膳を施せること、譬へば比丘の、加提の月滿ちて、一切の諸人の悉く皆供養するが如し。」
三千大千世界でいうと、要は宇宙中天にいる全ての人が、皆仏の神力を以て不動菩薩が授記されたことを知ることになる。これで、様々な最高の衣服・珍宝・ご馳走を布施・供養するようにし、まるで「比丘の、加提の月滿ちて、一切の諸人の悉く皆供養する」のようにだ。
経典:「舍利弗、彼の不動菩薩の授記を得たる時には、欲界の衆生は諸の上味を持ち並に天樂を奏して以て供養せり。」
ここでは、欲界天を指し、三千大千世界に於けるあらゆる天人を指すのではない。天は、欲界天・色界天と無色界天に分かれ、地球の人類は欲界天に属する。
経典:「舍利弗、彼の不動菩薩摩訶薩の授記を得已るや、是くの如き等の功德の成就せるあり。時に、尊者舍利弗、佛に白して言はく、世尊、如來應正等覺は甚だ希有を為す。善く諸佛の境界の不可思議、」
舎利弗は釈迦牟尼仏に、世尊はあらゆる仏の境地の不可思議を説くことができて甚だ希有でおられる、仏に見える境地は阿羅漢や全ての菩薩で思議できそうなものではないと言った。
経典:「如是禪定の境界及び諸龍の境界の不可思議、諸業果報の不可思議を説きたまふ。世尊、彼の不動菩薩も初發心に住して是くの如き殊勝の功德を攝受し、如來の記を得て又、此等の不可思議の諸大功德を成ぜり。」
例えば、全ての禅定・龍の境地、及び業果報はみな不可思議なことだ。仏、不動菩薩が初発心の時、殊勝な功徳を摂受して仏の授記を得、又これ等の不可思議な功徳を成す。
どうして急に龍の話になったのか。時として仏典も解説しにくい場合がある。どうして龍の話になったかと言えば、周知のように、仏の後光(ごこう)に龍がいるが、それは護法の一つだ。人類は龍の境地を分からないとするが、実は、龍は身を現したり、隠したりすることもあれば、ご想像以上に非常に小さく縮まったり、非常に大きく化したりすることもできる。それに、龍は雲を起し雨を降らせるとされることから、ある地域に雨水があるかどうかも、全て龍に関わっている。龍はあらゆる水族衆生を管理しているから、よく水族を殺したり傷つけたりする者は、疑いもなく龍に関わる病を患いがちになる。何故かと言えば、龍は眷属の為に仇討ちに来ているからだ。龍に関わる病って何だろうか。癌・治らない皮膚病・癲癇・紅斑性狼瘡・…の多くの治らない病気や不治の病などは全て龍に関わっている。今、こんな病気を治すため、医者は色々な方法を探っているが、対症療法にはなるかもしれないが、一時的によくなりつつも、暫く時間が経つと、また再発するようになる。仏典によれば、龍が目を開けてそなたを睨みさえすれば、そなたを病気にさせられるという。さらに言えば、龍がそなたの体内に侵入すると、言うまでもなくそなたは病気になるのだ。
「私は悪い事をしていないのに、どうして龍は私を傷つけようとするのか」という人もいるが、それでも以前、私も悪いことをしていなかったのに、皮膚がんを患ったのはどうしてか。私のどこが悪いかと言えば、小さい頃、家が貧乏で食材を買うお金がなく、母親は毎日のように、香港最大手の魚屋であった母方の叔父のところへ、魚の頭や売れ残った魚を取りに行っていたから、私は海鮮を多く食べていた。こんな状態で、返済する必要がないというのか。いや、必要がある。私は皮膚がんにかかったことを上師に言ったか。いや、言わなかった。私は自分がよく実践していないと言ったか。いや、言わなかった。仏菩薩に、自分が長生きして修行ができるよう、命を助けてくださいと言ったか。いや、言わなかった。仏菩薩に、自分にやり残しの願があるから、あと数年間か生きさせてくださいと言ったか。いや、言わなかった。それなら、どうして私は治ったか。私はリンポチェだからではなく、当時まだリンポチェではなかった。私は仏典通りに実践しているからだ。
帰依して十数年の弟子が癌を患って報告しに来たのに対しては、「そうか」としか答えようがない。何故なら、十数年の間、私はどれだけの仏法を説き、どれだけの法を修めてあげ、自分が癌にかかった話も言い聞かせるようにしていたのに、そなたらは依然に鼓動されず、びくともしないままに留まっている。厄介事に見舞われるようになってはじめて懺悔したいと言いに来ている。何を懺悔するというのか。懺悔など要らない。適当にだけ物事に取り組んだりしているのに、自分が修行していると思い込んでいる。私はよく自身の修行経験を皆に言い聞かせているのに、「あなたの事で、私と関係ないだろう。私はあなたみたいに悪い人間ではない。私はそんなに魚を食べていない」と思って皆は受け入れず、聞き入れない。魚を食べなくても癌に罹るが、どうやって罹ったのか。木を伐ったり、石を動かしたり、水源を汚染したりすることによるのだ。渓流でおしっこする男の子たちも癌に罹る可能性がある。そなたらは木の傍でおしっこする場合、ちゃんと「すみません、ちょっとおしっこさせてください」と言うのに、川となると、言わないようにしている。あいにくも、ちょうど通りかかった龍がそなたのおしっこを飲んでしまった場合、そなたを弄らないわけがないだろう。また、木にハートや誰と誰の名前を刻んだりする場合、もし龍がちょうどその中に気持ちよく宿っていたとして、そのハートがその皮を傷めると、そなたも律されるのではないか。若しくは、石を集める習慣がある者の場合、もうお気に入りではないが、龍が宿っている石を蹴ったりすると、龍への迷惑になる。白斑症を患うのも、龍の機嫌を損なうことによるのだ。
この世界に住んでいると、龍の機嫌を損なうのも難しいことではない。現在の人はややもすれば癌に罹るが、それは龍の機嫌を損なって、先方が傷つけてくるようになったからだ。そなたの体を傷つけさせられなかったら、そなたを不運にさせるとする。仏教では菜食しろと勧める理由に、そなたらに問題をあまり生じないよう、衆生を傷つけないようにしたいからだ。何を理由にあなたの癌は治ったかと、そなたらは言うのだろう。毎日、多く修法したのか。正直に言って、そうはしなかった。どうして治ったのか。上師の言い付け通りに、仏典の教え通りに、まるで毎日ご飯を食べるように着々と、手抜きせずに、素直に実践しているからだ。そなたらだったら、しない理由がいっぱいある。それはご飯ではないから、満腹にならないと思っている。リンポチェは現在どういった境地に至ったかというのは言えないが、少なくとも今でも毎日二時間は修めている。それに対し、そなたらには20分でもあればもう偉い。それなら、もうそれまでだ。
私は屡々言っているが、法会で法を修める際にこんなにも参列者がいるし、私も別に誰かの為に法を修めているわけではないが、得るものは人それぞれだ。私が区別して対処し、区別心があるのではなく、そなたらにこそ区別心があるのだ。上師に絶対に信じる者には、加持力が生じる。上師に対して、「ちょっと法会に参列してみて、効果があるかどうかを試そう」というような人には、加持力が生じない。
何故、これらの菩薩が修行する際に、こんなにも瑞相が生じるのか。彼らは未来仏で、未来仏を証するまで、彼らは引き続き数えきれない衆生を利益するよう尽力していくことから、彼等は功徳無量。毎回、法会が始まる前に、唱える七支供養こそ、随喜功徳そのものだ。随喜功徳は最も大きな功徳だ。そなたらに上師の功徳を褒め称えろと言っているだろう。ここでは讃歎ずくめ、随喜功徳ずくめだ。そなたらはまったく成し得ていない。「それを言ったら、気まずい」という。仏道修行をしているうち、ついにそれが恥ずかしいと思ったことに対して、私はそなたらに感服した。
経典:「佛、舍利弗に告げたまはく、是くの如し、是くの如し。汝の所説の如し。と。爾の時に尊者阿難は舍利弗に白して言はく、大德、彼の初發心の菩薩の、精進の甲冑を被れるを世尊は略少分の功德を説けるのみにて、猶故より未だ盡さゞらん。舍利弗言はく、是くの如し、是くの如し。如來は略説けるのみ。何を以ての故に。彼の菩薩は初發心に住して精進の甲を被れるときに、不可思議、無量の功德を成就したればなり。時に、舍利弗、復、佛に白して言はく、世尊、今已に略不動菩薩の被甲精進の殊勝の功德を讚したまへり。唯願はくは世尊、現在・未來の諸菩薩を攝受せんための故に、廣く宣説を為したまへ。佛、舍利弗に告げたまはく、不動菩薩の初發心に住して精進の甲を被たるときに、是くの如く功德は不可思議なり。吾れ今汝のために其の少分を説かん。」
功徳について、釈迦牟尼仏は僅か部分的にしか説かず、まだ説き切れていない。舎利弗は釈迦牟尼仏に向かってこう言った:釈迦牟尼仏は少し不動菩薩の被甲精進の殊勝の功徳を褒め称えられ、唯願わくは、仏は現在・未来の諸菩薩を摂受させるが為に、広く宣説を為さるべきだ。舎利弗は自分の為だと言っていないのに対し、そなたらはみんな自分の為だ。そなたらはなんだかんだ「私は懺悔します。私は間違いました。」とばかり言っている。どうしてか。自分が良くなるが為だ。そなたらは精進したことがない。私は癌に罹って、私は精進する。それは癌が治るのを願うのではなく、自分には共業(ぐうごう)があって、魚を食べる家庭に生まれたことを変えられないのを知って、家族全員が得度(とくど/度を渡ること)されるよう助けてあげたいからだ。私の母方の叔父は毎日のように大量の魚を殺していたから、地獄に堕ちないわけないだろう。私は自分自身の為ではないのに、そなたらはどなたも自分の為なのだ。「私の怨敵に廻向しよう」と言っても、なお自分の為になる。毎日私は何をしているのか知っているか。私は自分の怨敵を一日も早く西方極楽世界に辿り着かせるよう助けている。それに対し、そなたらは怨敵が一日も早く私から離れるよう願っている。そなたらがリンポチェに彼等をよく西方極楽世界へ済度させるよう願うのは、もっぱらご自身の為であって、衆生の為ではない。
だから、そなたらは四無量心を何れも修めていない。もし修めているのなら、帰依して十数年にして、癌に罹るわけがない。どうして修めていないのか。どうして修め得られないのか。エゴだからだ。仏法を習い始めた頃、自分の為に修めるというのも自然な事であって、あたかも我らが閉関修行し始めた時でもまず自分を修めるようにしているようにだ。先立って自分のことを修めるのは自分をよくさせる為ではなく、自分に殊勝な功徳を具備させてはじめて衆生利益するに足る功徳があるようになるからなのだ。しかし、そなたらは誰しも自分が良くなるが為だ。かりにそなたが良くなったら、そなたの怨敵はどうするというのか。誰を当てに取り立てればいいのか。きっとそなたらはこの点に関して考えた事すらもないだろう。
仮に私は癌に罹ったことがなければ、そなたらを諭す資格さえないかもしれないが、謝という医者弟子は私が癌に罹ったことを証明することができる。医療機器での検査は行わなかったが、彼の経験によって私は患ったことがあると証明できる。(謝という医者弟子は、凡そ二十数年前、リンポチェの顔にある斑点が変化し始めたことに気づき、その変化は怪しい、良くない物のはずだ、いわゆる我らで言う癌だと、私はリンポチェに申し上げた。皮膚がんは簡単なものではなく、皮膚がんは数種類に分けられ、上皮細胞癌或いは他のならまだよくて、数年経ってもなお支障がないかもしれないが、黒色腫の場合、体の各部位に転移したりするという、非常に悪性とされる癌である。内臓・組織・皮膚・筋肉・脳・・・等々多くの部位に転移するし、それを切り取ってもまた別の所に現れたりすることになるし。だから、あの時、私はリンポチェに治療するようにと切に願っていたが、リンポチェは私の願いに応じなかったと述べた)。本日、私は自分自身の経験を以て皆に仏法にできないことがないと言いたいのだ。できないのはそなたの心だ。私は薬も飲まなかったし、法王・仏菩薩にも求めなかった。そして、皆が言うような、癌細胞と共に生存しようというのでもない。
癌細胞はどこからやってくるのか。外来からの異物ではなく、そなたの細胞が変化したのだ。(医者弟子も癌細胞は自分の細胞が悪性細胞に変化したことが確かだと述べた。)いつでも癌細胞をやっつけたいというそなたは、つまりご自身をやっつけていることになる。どうしてそなたの細胞が悪になるのか。医学によれば、機嫌がよくなかったり、よく癇癪を起したりする人が、癌に罹る傾向がある。(医者弟子は確かにそうだと言った。)つまるところ、悪なのだ。言い換えれば、帰依して十数年経ってもなお癌に罹ったというのは、ここ十数年の間、悪の念頭・悪の心がまだ転じられないままだから、そなたの細胞が変わり始めるのだ。これこそ原理だ。医学がこんなにも進んでいるのに、今まだ癌を完全に根絶させるような薬がない。あるか。(医者弟子も、確かに現在、癌を完全に根絶させるような、癌治療の薬品がないと述べた。)ただし、医学では、機嫌が変わることによって、癌の悪化が緩和することもあると示している。(医者弟子は確かにそうだと言った。)私の前で可哀そうに泣く必要などない。偽りだ。十数年前から今までずっと装っている。今装っている。心が善であれば、それにつれて細胞も善になる。これらの細胞はご自身の物であって、誰かからの物ではない。どうしてそなたの細胞が悪くなるのか。それは、そなたは多くの悪事をし、さらにし続けて、心を改めないからだ。決して自分が仏教徒である上、菜食も、供養も、法会参列も、礼拝も、そして言い付けられただけ全て実行していると自惚れてはならない。それなら、きっとそなたが充分に為さず、正しく実行せず、さっさと気軽に終わらしているにすぎないとしか言いようがない。
舎利弗が口にされた如何なる言葉も衆生の為であって、自分の為ではない。まだ菩薩道を修めていず、阿羅漢である舎利弗が仏に法を請うのも、衆生・行者の為だ。どう修めたらこうなるのかを多めに言い聞かせてくださいと、舎利弗は釈迦牟尼仏に請わなかったのか。逆に、どう修めたら不動仏と同じようになれるのかと一般の人も分かるように、仏に開示していただいた。だから、舎利弗の大阿羅漢に対し、そなたらは「羅漢脚(台湾語で適齢期を過ぎた独身男性のことを指す)」にしか成れないわけだ。明らかに心が違っていて、そなたらはひたすら自分自身のことで頭がいっぱいだからだ。阿羅漢は小乗を修めるとされる。そなたらは大乗・菩薩道を修めると名乗っているのに、エゴの心を持っている。例えば、この百数名のワクチン接種を受けない人達はエゴの心だ。強制されないと、接種を受けない人もいる。世界中の人が打っているのに、打たないそなただけが異類になるのではないか。
仏典を通じて何を見出だして欲しいかと言えば、とりもなおさず、自分がないということだ。舎利弗は此の法門が広大なる菩薩を修行させるよう利益することができると聞くと、すぐ衆生に分かるようにもっと言い聞かせてくださいと仏に請うた。この心持は、どれだけ偉大なことか!そなたらにはあるのか。誰しも、自分の怨敵・自分の子供が為だ。千年経っても、如何なる仏典も舎利弗のことを尊者と呼んでいることこそ、千古に名を残すことだ。仏典が存在する限り、尊者の名前もずっと存在する。例外なく全ての偉人の名前は、歴史の流れに従って消えて行くものだが、ただ唯一仏典に書かれている大行者のみ、仏典が一日でも存在する限り、彼らの名前は消されないとする。
釈迦牟尼仏が現在説かれている他の仏も、我らの時代にましますような仏ではないようにだ。釈迦牟尼仏の話によれば、地球へ衆生を済度しにやってくる仏は七尊いらっしゃるとし、釈迦牟尼仏は第五尊であって、それまで四尊もいらっしゃったという。というのは、地球の文化は我らの時代から始まったのでもない上、後に二尊の仏が在世なさる予定であって、この二尊の仏が去ったら、もう地球の存在もなくなるわけだ。これは非常に長い時間を必要とし、すぐ我らの世代で見れることでもないし、次の世代でも見れないものだ。釈迦牟尼仏が説かれた全てのことは衆生の為である上、釈迦牟尼仏だけしか修め得られないとも言っていない。彼だけが我らと違うやら、彼だけ桁が違うやらとは言わないほか、他の仏もそうだったし、釈迦牟尼仏もそうだったと教えている。
どうして仏はこう説かれたのか。つまり、成仏する場合、こういう事があるに決まっているし、こんなことが無ければ、紛れもなく本物の仏ではないことを、はっきり教えて下さっているのだ。だから、何かしらの仏と自称している者がいれば、それは聞かない方がいい。何から何まで仏典に基づくべきであって、仏典に記載されていないことは全て偽りだ。
経典:「諦に聽き諦に聽きて善く之れを思念せよ。」
釈迦牟尼仏が重要な法を説くに当たって、必ず「諦に聽き諦に聽きて」を言うようにしている。「諦に聽き」というのは、そなたは注意を払って聞くべきであって、しかもその口にされた言葉は何れも偽りの事がなく、どれも正確だから、言葉の皇帝が至高であるように注意を払って聞くようにするべきだ。聴いてから「善く之れを思念せよ」にするのだ。「善く」とは疑ったりせず、明らかにこれが善であると認識することだ。「思」とは自分の思想であって、思想がこの善と一致するかどうかを確かめることだ。もし、一致しないのなら、自分で進んで調整をしようとするべきだ。「念」とは、考え方の中でしっかりと覚えておくことだ。決してそなたらみたいに、カモの背中から落ちた水のように、何も跡が残らないようなことではない。
ご自宅へ帰ってから、リンポチェが本日開示したことについて、自身も成し得ているのか、し出しているのか、受け入れているのか、覚えているのか、じっくりと考えろと私は屡々言っている。もし、そうなっていないのなら、今日の参列も無駄なのだ。公式サイトをチェックすればリンポチェの開示が見れると思ってはならない。もしそんなのが正確であれば、きっと釈迦牟尼仏も二千数年前から大量の文章を残し、その弟子らに一人一部写してもらうようにしていたはずだ。どうして釈迦牟尼仏の説法に、毎回1200人の弟子がついて聞いていたのか。どうして「諦に聽き諦に聽きて」を言うのか。注意して読めと言うのではないか!私が言い聞かせた仏法を公式サイトに載せるのはただの便法に過ぎず、そなたらが覚えられないのに配慮して、再び読めるように載せているのであって、必ずしも上の空で、心が空っぽのまま遊ばせながら法会に参列することが許されるとは限らないし、また、本日リンポチェが説かれた内容は自分と関係なく、自分の名前まで呼ばれていないから聞き流すにしよう、自宅へ帰って夕食でも支度して皆で食べて、食べ終わってから日課を終わらせて寝ようと思ってはならない。本日、何を聞いたかと振り返らないし、自分の名前が指名さえされていなければ、自分と無関係だと思ってはならない。仏典の中で、仏がどう仰せになったか、どう教えられたかをよく読むといい。だから、「諦に聽き諦に聽きて善く之れを思念せよ。」との一節については、誰でも漏れなく為し得るべきことだ。
経典:「舍利弗言はく唯然り、世尊、願樂して聞かんと欲す。」
舎利弗曰く:はい、世尊、私は進んで喜んで聴聞したい。
経典:「佛言はく、彼の不動菩薩は是くの如き願を發せり。假使虛空にして變異ありとも、我れの弘誓は終に退轉するなけん。と。」
この願はあまりにも凄すぎる。仏からしてみると、虚空は因縁によって生じるものであって、いったん生じると果てしなく広がるとされるものだ。現在、科学も宇宙の果ては止まらずに外へ外へと広がっていると証明できたが、実は2000数年前に仏はすでにこの話に言及されていたのだ。「假使虛空にして變異ありとも」というのは、仮に虚空に変異があったとしても、それは空性である他に、因縁があってはじめて変異があり、因縁なしには変異が現れないということだ。もう一通りの解釈に、虚空は実体が伴わず、存在さえしておらず、空という境界でもないことから、どう解説しようというのか。
例えば、我らは毎日空気の中で生活しているが、自分が空気の中で生きていると思わないようにだ。又は、魚が水の中に生息しているようにだ。我ら人間からすれば、どうして魚が水の中で自由自在に生きていられるのに、水を出ると死んでしまうのかと、疑問に思っている。よって、水は魚にとって一つの虚空だ。空気は我らにとって虚空だ。だが、空気というものは、我らが作り出したものでもなければ、わざと現れさせるものでもなく、自然に因縁によって生じるものだ。しかし、生じられてから、空気自体が変えたいのではなく、我ら人々の心によってそれを変えようとしているのだ。
もし、この土地にいる人々の心がみな善であるのなら、きっと善の事が現れ、悪の事が現れないだろう。不動菩薩が発された願とは、仮に虚空に変異があったとしても、彼の誓言は退転しないという意味だ。それに対して、そなたらの誓言は何れも自分らの事のためであって、自分の癌細胞をやっつけたいから、ある回数まで唱えると誓っているが、こんなのは全く役に立たないぞ。
経典:「此の願に由るが故に、不動菩薩の有らゆる功德は皆速に成就せり。」
こんなに大きな願力を発されたが故に、不動菩薩のあらゆる功徳は早々成就を得るようになられた。そなたらは自分自身の功徳が成就したかを見てみるといい。どうしてそなたら出家衆は少しも功徳が現れていないのか。それはそなたらが発された願は、何れも死を恐れる為の願や、自分が安逸で快適な生活を暮らす為の願などだから、効果を発揮しないのだ。例えば、「衆生が成仏しない限り、私も成仏しない」というリンポチェの願は、実に大変苦労する願にはなる。そなたらの面倒を見るだけで充分苦労するのに、況やこれからももっとたくさんの衆生がいるをや。そのため、私が修法すると、早く功徳が現れるようになるのだ。それは言わずと知れた願力によるものだ。
こんな願力とは、自分が成し遂げられないことやら、成し得る能力がないことやらを発明するのではなく、四無量心に基づいて発願するものである。そなたらは毎日四無量心を唱えながらも、実践しようとしていない。仏道修行する我らは、如何なる動作・言語・思想も、衆生を離苦得楽、つまり輪廻の苦を離れさせ恒久の不生不滅の楽を得させる為であって、世間の些細なトラブルや煩悩の為にやっているのではない。こんな願まで発せれば、自ずとどんな法門を修めようと相応することになる。上師相応法を求めに来た人の一部に、私はまだ法を授けようとしないのは、彼らはこんな願まで発されるのかという懸念があるためだ。発すことができなければ、どう相応しようというのか。それでは、どうしようというのか。つまり、大人しくして、言われた通りに実践すればいい。自己流なんて発明する必要などない。
昨日、私は自宅で『大蔵経』を片付けていたら、続タントラのお経と、私が以前書いたメモを見つけた。メモの内容はその後記憶から薄れて行っていたが、その中にダイナミックな部分がある:密法を学ぶ者には決まった相貌があると仏は言及されたことから、上師がそんな相貌を見かけると、決して少なく授けず、広く法を授けるといいし、こんな人には「とりわけ御恩を有難く感じる心がある」という特質があるとする。そなたらにはそれがあるのか。皆無!だから、「御恩を知り、御恩を感じ、御恩に報いる」を教えているわけだ。御恩を知らず、感じず、さらに報いないのなら、どう修めようというのか。誰しも、自分が凄いと自惚れていて、自分で修め得られると思い込んでいる。これは仏が説かれたことである故、こんな相と特質がなければ、密法を授けないとする。どんな相に関しては、今は教えないでおこう。出来るものなら、自分で仏典の中から見つけろ。『大蔵経』には何冊もあるものだから、どうぞ思う存分に探せばいい!それが見つけられる人に対して、私は敬服するぞ。
その段落は不意にめくったものであって、私が仏典を拝読する場合は、そなたらと違って、手当たり次第にめくったら、いみじくも私が衆生を救済するのに当たって役立つものが出ている。この段落では、はっきりと説かれており、密法を修習する弟子の相は他の人のと異なるし、「御恩を有難く思う心がとりわけある」という性質も他の人にないようなものだと教えている。私は自分自身が「とりわけある」とは言わないが、法王からの御恩を心から有難く感じている。犬二匹のことさえ、私は法王の為によく段取りをしていて、ひいてはどう連れて行くかすら、私は法王の侍者に詳しく教えている。犬は連れて行くよと、法王に約束した人はもともといたが、その人が約束を守れなかった故に、弟子たる私は上師の煩悩を当たり前のように解決するべきだと思って取り掛かったのだ。しかも、単に手伝うだけではなく、首尾よく解決したのだ。
そなたらはできているのか。できていない。さっき法会が始まる前に、私の紫檀の椅子にぶつけたのを懺悔した弟子がいたが、それは常住のではなく、私の物だ。やたらと仏法を誤用しないでくれ。私は常住ではなくて、何だろうか。(リンポチェは出家して30年の弟子を指名して回答してもらった。弟子は、何も言えず、仏からすれば、仏は単独で、僧団の中に属していないと答えた。)どうして紫檀の椅子にぶつけたのか。紫檀は物凄く硬い材質なのに、どうしてぶつけて壊したのか。これもずいぶん前の話だったので、もう忘れていたし、彼が言ってから、私はそれについて思い出すようになったのだ。これこそ、御恩を有難く感じる心が重くない者の場合だ。もし、そうではなかったら、上師の如何なる物を手に入れると、きっと最善の注意を払って扱うはずだ。
私に仕える人たちがひたすら過ちを犯しているのは何故だろうか。彼等はリンポチェに仕えると、功徳があるとばかり思っているから、感謝の気持ちに着眼せずに取り掛かっているのだ。例えば、私が法王に対するのが、まさに感謝の気持ちだ。犬二匹のことでも無造作に連れていけば済むことだが、私は法王の為に、二匹の犬が新しい所で落ち着くことができるように、ピンからキリまで一通り確認してきた。これこそ、感謝の気持ちだ。そなたらには全くそれがなく、どれも上辺だけの感謝だ。
だから、口先のみ言って実行に移さないのは妄語を言うことだ。そなたらにとって、感謝というのは口癖に過ぎない。御恩を有難く感じるまでしていない。そなたらが懲らしめられると、徐々に自分が感謝の気持ちを込められていないことに気づき、口先の代わりに実行に移すようになるのだ。私が法王に対して、どういう風に感謝しているのか。法王が台湾に滞在している間のすべてのことに私は責任を取るから!
本日の仏典解説を通して、我々は仏典の内容に基づいて自分が為し得えていない部分・自分が実践していない部分を検証するべきであって、仏法を聞きにさえ来れば、あらゆる悪い事が発生しないよう、加持と守護が得られるという迷信を持つべきではない。そなたらが進んで聞き入れて、自分がまだ実践していないとわかれば、もう善念が始まることになる。善の根っこの植え始めは、悪の根っこを抜き始めることからで、こうして悪の念が転じられるようになるのだ。よって、本日はそなたらに法門を教えたのだ。
いくら毎日拝んでも効果が出ないという人が多い。そなたの念頭が転じない限り、そなたが聞き入れない限り、上師に口答えする限り、効果が出ないぞ。どうして上師に口答えすると効果が出なくなるのか。それは感謝の気持ちがないからだ。もし御恩を有難く感じていれば、口答えするものか。私は屡々自身の出来事を皆に言い聞かせているが、それを聞き入れられる人はいない。私はどんなに法王に怒られても、絶対に口答えや説明などしない。しかし、そなたらは何よりも先に、それは・・・と説明するようにしている。昨日のことだが、自分の娘のために何とか説明しようとしているのを私は聞いたが、もうそなたは聞かなくていいから、立ち上げろと私は言った。今どきの人たちはよく説明する癖があるが、「御恩を有難く感じる」ことと全く関連性がない。
我らが仏典の解説を聞くのは、目の前にある利益を目当てにするのではなく、自分自身を見直す為だ。そなたらは自分が仏や菩薩に成るのが目的ではないと言っているのは、そなたの本質・願力と善根の足りなさによっっているのだ。しかし、諸仏菩薩はこうして修め得られるようになられたのだから、きっとこの中には利益・根拠と道理があるに違いない。我らは今は成し得ないとしても、少なくとも自分はするかどうか、できるかどうか、こんな観念を受け入れるかどうかを考えるべきだ。仮に、そなたはこの観念さえ受け入れず、自分自身の観念ばかり持っていて、自分に学があるから、自分が考えたほうが正しいと思うのならば、いっそこの仏典を捨てて、そなたが説くようにすればいいのではないか。
我らは自分自身を見直すべきであって、そなたが正しいか正しくないかを論じるのではなく、そなたは仏が説かれた善法に似ているか、近づいているかを論じるのだ。もし、そうなっていなければ、今すぐ決定して実践するといい。決定して実践する場合、悪は停止し、善は増長することになる。悪を停止させ、善を増加させるにつれて、悪による影響も次第に減っていく。しかし、そなたらはひたすら悪を累積しているが、善をちっとも蓄積していない。仏法を聞きに来る際も、自分への利益を目当てにしているから、これこそ悪なのだ。仏法の原理とは、これ以上悪を為さず、悪による動を生まれさせず、善を止まずに増加させるようにし続け、善のをずっと動かせるようにし、善が相当高くなった時点で、自ずとその力によって悪の力を圧倒されるようにし、悪の力を停止させ動かないようにするのだ。
私の癌はこうして治ったのだ。言うのは簡単だが、実行となるとそう簡単には行かない。何故なら、人の起心動念は全て悪であるからだ。まさに地蔵菩薩が説かれた「人の起心動念はみんな業であり、罪である」のようにだ。仏法で最も基本的な概念としては、悪多く善少なしで、我らはどうやって善を増やすのかにある。そのため、仏は「諦に聽き諦に聽きて善く之れを思念せよ。」と言う。これこそコツなのだ。そなたは聞き入れて、善の念頭で仏と上師が説かれたことを思惟するにつれて、悪の念頭は停止し、悪の業が動かなくなる。たとえそれが存在しつつも、動かないままに留まっている。そなたの善の業は成長し続け、善の根っこが深く植え付けられるから、善が止まらずに上がっている。いつか善がいっぱい溜まって、悪業を覆うことができるようになると、悪による力は全部消えてしまうようになるのだ。
しかし、悪の果報がないわけではなく、例えばちょっとした病気になったり、少し懐が寂しくなったりするのも悪の果報だが、それは大きな出来事が現れるよりもずっといい。だから、我らは聞き入れるべきであって、もっぱら仏法は迷信だ、宗教だと主観的に思ってはならない。仏法は、人にどうやって悪党から善人・いい人になれるのか教えている。もし、そなたが聞かなければ、もう他に施しようがあろうか。多く勉強していればいい人になると思ってはならない。仏が教えられた方法に従ってはじめて、良い人になれるのだ。だから、この方向を目指して実践するといい。私の経験と成果を見てみよう。見ての通り、癌が理由もなく消えてしまったのは、私は善のみ蓄積しているから、悪が全部止まってしまっているのだ。
私にとっては簡単だが、皆にとってはそれは複雑なことだ。何故なら、そなたらはエゴで、ワクチンを打つぐらいのことでもエゴだ。打てと促されても打ちに行かない者までいる。これもエゴだ。副反応のことばかり恐れているが、ちっともこんな大きな団体のことに配慮していない。人は往々にしてエゴになりがちで、自分を苦しめるようなことを絶対にしたくない。自分と関係ない皆の為だし、自分の親友の為でもないのに、どうしてあんなに強い副反応を私は受けなければならないのか。打つ必要があるのか。感染されないように、リンポチェが加持し、保護してくれると思っている。自分のことばかりに頭がいっぱいで、これこそ悪のみで、善がないのだ。一見物凄く私のことを信じ、尊重しているように見えるが、本当は私を利用している。しかも、業突く張りで、何から何まであげなければならない上、何から何まで無事であるよう世話しなければならない。そなたら皆は漏れなくそうだ。
よって、この方法が正しい、必ずこれに従って実践するよう、菩薩道を修める全ての者を摂受する為に、ここでは舎利弗は改めて仏に再度説かれるようお願いした。仏は暇なわけではないだろう。他の法門を説かずに、これだけ説くつもりか。要は、法を勧請した人がいるから!舎利弗は我らを代表して勧請したのだ。そなたらが聞いてから、それを目指して思惟し、実践するかどうかはそなたら次第で、決して仏から強いられることではない。
経典:「舍利弗、我れ賢劫中の諸菩薩にて精進の甲を被たること不動菩薩の如くなるを見ず。」
賢劫における菩薩道を修めるあらゆる菩薩で、不動如来ほど精進して修行する者がいない。よって、不動仏が成仏すると授記されたのも、それなりの理由がある。それは、法王の大勢の弟子の中で、漢人の私だけが今生にリンポチェに成れたのと同じように、それなりの理由がある。つまり、私は精進の甲を被っているが、そなたらは被っていないからだ!
経典:「舍利弗、寶幢菩薩の所修の行も不動菩薩に比せば、少分中の乃至、歌羅分に於ても亦一に及ばず。」
ここでは、仏は公の場で説かれたが、寶幢菩薩の修める一切の法門は「少分中の乃至、歌羅分に於ても亦一に及ばず」。推して知るべし、既に菩薩になった寶幢菩薩は不動仏に比べると、まだまだということが分かった。本日、不動仏の修行についての仏典を聞く因縁があることは、即ち皆も過去世にすでに修行したことがあるのを表しているが、ただそなたらが聴かないし実践もしないから、今生に再度機会を与えたのだ。
それでも、今回という機会を大切にせず、自分は年を取っていて死を待っているだけだと思っているのなら、それでは待とう!或いは、自分はこれが為ではなく、別の事の為に法会に参列しに来ているのだと思っていれば、それでは待とう!仏も前の部分でこう語られたが、不動仏がこうして修めている故に、その功徳は早々に成就したという。言い換えれば、もしそなたらも不動仏のように発心し、修行に精進することができれば、きっと俗世間の事は、全て転じられるに決まっている。
ついこの間の寺院付近の土地購入の話だが、一人の持ち主は土地を売る気がなく、物凄く高い金額を言い出した。そうしたら、私のある愛しくも憎たらしい弟子は、上回った数十万元を彼自身から出すと言えば、その土地の持ち主は売ってくれるだろうと言った。そうだったら、リンポチェのお金でもなく、弟子自身のお金だからいいじゃんとそなたらは言うのだろうが、私は反対した。何故反対したのだろうか。もし、この人だけ多めにお金が貰えれば、他の持ち主はどうなる。この事はバレないと言えるのか。この点から、この弟子はエゴだと分かった。何故なら、この土地はまず私の名義で購入して、それから基金会のにするのだから、仮に持ち主の一人だけに多めにお金をあげたとして、それでは、他の持ち主はもらわなかった分を誰に取りに行くのだろうか。私にだ。
彼は上辺だけの恭敬であって、私に叱られない上、首尾よくこの件がまとまるようにするためだったら、手段を選ばないでいる。どうして私は叱るのか。それは彼は欲張りな人にお金を供養するからだ。あの日、私はそうしてはいけない、行政書士にもしてはいけないと言ってくれと怒鳴った。行政書士は官僚を恐れているし、弟子からも数十万元多めにあげると承諾しているから、行政書士はわざとこの人の機嫌を損なう必要がなかろう。この行政書士も、土地を売る持ち主も地元の人だからだ。
きっと、行政書士もこの弟子にこうしてもいいと言っているはずだ。だが、私から見ればどこか間違っている。法律はそうなっていない。何故なら、以前私は台中で似たような土地を処理したことがあるからだ。それに、この弟子も私は不動産屋を持っていて専門の人に聞けるのをすっかり忘れていた。この行政書士は、この官僚である弟子を恐れていて、さりげなく此の事を解決できればいいと思っている。何から何まで、この弟子の言う通りに言っている。弟子が白と言えば、向こうも白と言う。
私はさんざん叱ってから、この弟子に「この件をうまく纏めなかったら、命で償え!」と言い付けた。この弟子には「死ぬ」というアキレス腱があって、これだけつくと、何とか解決策を考えてくれるのだ。命で償えと聞くと、彼はピンときてアイデアが閃いて、かつてリンポチェがある友達を助けたのを思い出した。その友達は現在、苗栗へ転勤していて、地元の有力者と知り合いになっている。いみじくもその有力者も例の地主と知り合いであることから、彼を介して話がまとまるようになった。
どうして話がまとまったのか。私に叱られてまとまるようになったのだ。この弟子のやり方だと、きっと私も悲惨な事態に陥るしかなかった。だから、いわゆる弟子のそなたらには、送りたい言葉がある:糞垂れ!まったく私の立場を考えていない。もし私は弟子からお金を出すのを許したら、きっとこれも私と関係ないし、話さえまとまればいいのだ。しかし、もったいないと思っている。公務員として数十万元を貯金するのも決して容易なことではない上、これまで彼はずっと出し惜しみしているから、急にそれを人にあげるというと、私は更にもったいないと思っている。それは彼が長い間隠していたものだから、私は阻止するのは当たり前だろう。それを以て私を供養する必要もない。私は要らない。
どうしてリンポチェは彼を叱ったのか。人には平等に接するべきであって、何らかの目的を達成する為に、他の誰かを裏切ってはならない。仮にそうしていれば、きっと今後後遺症が残るようになるに違いない。相手の事が好きにしろ、嫌いにしろ、そうしてはならない。何故なら、その後遺症をそなたが背負わないとダメだからだ!私がこのことを阻止しなければ、契約した私が責任を取ることになる。そこには、あんなに土地を買っているから、きっと何かあったら、土地の持ち主たちは殺到して不公平を訴えてくるに違いない。しかも、土地売買の場合、しっかりと取引価額が公示されているから、弟子のやり方だと私に危害をもたらすのではないか。幸いなことに、私はこの弟子を小さい頃からずっと見てきたから、性格が分かっている。もし私は彼の言う通りにやったら、きっと悲惨な事態に陥ってしまうだろう。こんなことを言及したのは、皆にこの弟子を貶して欲しいというのではなく、ただこの人にはこの「死や事を恐れる」という特徴があると伝えたいだけなのだ。どうしてこうなるのか。その家族は以前殺生していたからだ。『地蔵経』に、殺生の者には驚狂喪命の報とある。この弟子は喪命とまでなっていないのは、私が保護しているからだ。とにかくこの字だけは止めておこう。彼は恐れるからだ。
昔、この弟子がチベットで地元の人の機嫌を損なった話だが、彼は夜中12時半にもかかわらず私の部屋をノックして、あれこれと経緯を畳みかけたことがある。私は詳しく聞いたところ、大したことでもなく、私から電話一本するぐらいで解決できそうなことだから、心配など要らないと私は言った。その後、無事に解決できた。彼はこんな人だ。紛れもなく、私には彼を諭す資格がある。何故なら、私がその家族全員を救ったからだ。私がいなければ、彼自身も、奥さんも、子供も、妹も皆いない。だから、恩を返すつもりで、ちょっと叱らせても良いか。(この弟子はリンポチェの御恩を感謝していますと述べた。)今日は恩を返すつもりで良いか。
よって、仏典を聞いてから、我らは日常生活が仏典で説かれた思惟と一致するのかと自分を振り返るといい。我らは今の生活ぶりを改めるのではなく、思惟を改めるのだ。思惟が変わるにつれて、生活ぶりも自然に変わるようになるわけだ。今すぐ不動仏と同じようになれと言っても、無理だ。そなたらは現在成し得ないからだ。仏も寶幢菩薩は不動仏の何分の一にも及ばないと言っているから、況や我らをや。だが、我らはそれに倣うべきだ。その方法に従って、この一生を送ると、たとえ仏・菩薩にならなくとも、三悪道に堕ちないぐらいは保証できる。仏がこの内容を説かれた目的は決して単に不動如来を称讃するだけではなく、仏道修行したいという全ての者に対して、自分の考え方を使わないで、こうすべきだと教えているのだ。お願いだから、絶対にご自身の考え方を使わないでくれ。そなたらの考え方は間違っている。どこが間違っているのか。菩薩と仏の道に向けて進んでいるのではないところが間違っていて、ひたすら凡夫地に留まっているから、輪廻を繰り返すのだ。ひたすら輪廻を繰り返すと、そなたが累世で作った全ての悪業を今生で返済し切れないし、転じさせられなくもなるのだ。
私今生にこれだけ多くの魚に命を借りている。仮に、私が仏道修行していなければ、絶対に癌が治ることはなかった。これまで私はこの経文を拝読したことがなかったけれど、私の修行方針はずっとこの道に沿って進んできている。さらに、私が現在修めている密法の中にも、不動如来と大きな因縁がある本尊が多くいる。そのうちの本尊の一つは頂戴が不動如来であることから、自然に私が為す動きの多くも不動如来という道に一致しているわけだ。よって、多くの事を私は転じさせられるし、自然に転じるようになっているのだ。
そなたらにはこんな因縁がないとはいえ、私は釈迦牟尼仏の代わりにこの段落の経文を説き聞かせるから、しっかりと聞けよ!じっとしているのではなく、できることだけ力を尽くしてするといい。「まだその時機ではない」、「自分の番ではないから、ゆっくりしていていい」、「自分にその器なんてない」と思ってはならない。し出すのが肝心だ!私自身がいちばん顕著な例であって、患った癌さえ自ずと治るのだ。まるで施身法ではっきりと説かれたように、病が自然に治るのだ。私は成就を得れば、薬を飲まなくても病が自然に治る!
自ずと治るとは、どういうことか。悪が停止して善に転じ、善が現れると、徐々に細胞も善に変わっていって、自ずと治るのだ。私に加持された人は状況が少しよくなるのもこの観念だ。私はその悪を停止させたから、そもそも彼が貯めていた少しの善が上がるようになり、状況がよくなるわけなのだ。仮に、その人が今後も善を為し続ければ、もちろん状況がますますよくなるが、もしそうではなかったらそうならない。
仏法は少しも複雑ではなく、複雑なのは我らだ。釈迦牟尼仏は慈悲深く、私を先に阿弥陀仏について説かせてから、不動仏について説かせている。そなたらに対して、あまりにも慈悲すぎる。不動仏についての仏典はそう簡単に解説するものではなく、それは一般の仏菩薩が及ぶような境地ではないからだ。寶幢菩薩ですら及ばずと、仏ははっきりと説かれたからだ。私はどこかで寶幢菩薩の名号を見かけたことがあるが、今は忘れている。最後に、我らはこの縁・この法縁を大切にするべきだ。そなたがこれを大切にしなければ、いつか縁が過ぎたら、もう戻ってこないぞ。
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2022 年 07 月 02 日 更新