尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年1月30日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、法会に参列した信者と弟子の心を清浄させるよう、禅定の中で六字大明呪を長らく唱えられ、『宝積経』巻第十九「不動如来会第六之一」を解説された。
六字大明呪は、我らのような業報身或いは修行・生死解脱に役立つ。六字大明呪を誦持(じゅじ)しても、健康状態が良くならないのであれば、幾つかの原因がある。一、自分に懺悔心がない。二、信心がない。三、禅定力がない。四、恭敬心がなく、上師・本尊・あらゆる衆生への恭敬心がないことも含む。五、辛抱強さがない。
六字大明呪はなぜ呪文の王と位置付けれられるのか。仏典曰く、宇宙に於けるあらゆる音は母音と子音に分けられ、母音と子音によってあらゆる人類、そして有情衆生の発せられる声を網羅している。仏菩薩が六道衆生とやり取りできる理由は何だろうか。それは宇宙・大千世界では、あらゆる音が母音と子音に網羅されているからだ。顕教の修行ではこれについて説かれていないが、密法での修行の密呪では、まず母音と子音を唱えて、それから持呪する場合が多い。民族によって発した声は多少違うが、母音と子音をいったん唱えれば、基本的に、そなたの声はそもそもの声とそれほど遠く離れないことになる。
密法では、三千大千世界のあらゆる声は「嗡啊吽」の三字から派生すると言う。ありとあらゆる声はこの三字によるものだ。この三字は意味がたくさんあるが、そなたらの機根に基づく場合、それを言ってもしょうがない。誰もが無事やら健康成就やらあれこれと求めているから、言うのを止めておこう。
六字大明呪はどうして六字なのだろうか。本当は、「啥」を加えて七字になる。「唵瑪尼貝美吽」は六道への往生の扉を封じ止め、「啥」は西方極楽世界への扉を開くという役割だ。多くの人は今でも理解できていないが、どうして釈迦牟尼仏が出世されてから、五歩、八歩、九歩ではなく、蓮の上を七歩歩かれたのか。仏典の中には、何も説明はなかった。どうして説明しないのか。これが密法で、皆が信じないから、説明しても意味がないのだ。「釈迦牟尼仏はどうしてはっきりと言わないのか。はっきりと言えば、こちらは理解できて身に付くのに」とそなたらは言うのだろう。これに関しては、仏は絶対に言わない。大学で教えている博士が、大学の内容を小学生に詳しく説明するのかと同じだ。どうしてしないのか。それは言ってもそなたには分からないからだ。まさにそなたらのようにだ。自分が博士・修士・教授・大学生だからといって、仏典の内容を聞いて分かると思ってはならない。その中に、そなたらに分からないことがたくさん隠されているぞ。
その時、釈迦牟尼仏は七歩歩いた後、片手で天を、片手で地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と説かれた。今や、(仏教以外の)外道はよくこの一節を使って仏教を攻撃している。実は、釈迦牟尼仏がこの二つの印相を結ばれたのだけを見れば、わかる人はわかるし、わからない人はわからない。「唯我独尊」とは、釈迦牟尼仏が最も尊いということではない。仮に、彼は彼自身が最も尊いと思っていれば、更に不動如来と阿弥陀仏のことを皆に紹介することにならないだろう。どうして紹介するのか。これは単に尊重ではなく、「尊い」のであって、一切衆生の未来を転じさせ・変えられるのは仏法のみだという意味だ。ここでいう未来とは、運が良くなったり、物事が好転したりするのではなく、そなたの後世を転じさせ・変えさせることだ。それを成し得るものは、仏法以外の何物でもないことから、多くの方便法門もこうして生じるようになり、そのうち持呪というのも方便法門の一つだ。
「唵瑪尼貝美吽」の音を正しく発していれば、間違くなく病気を治したり業障を解消したりする効果がある。法会が始まったばかりの時、私が唱えた六字大明呪をどう感じただろうか。(出家して30年の弟子は、リンポチェが持呪していた際、地面も体も震動したのを感じたと答えた。)その上、だいぶ静かになったのだろう。今日は丑年の最終日でもあり、私が地球にいる月日も長くないから、それについて皆に言ってみた。
密法によれば脈輪(チャクラ)が七つあるという。インドでのヒンドゥー教やヨーガもこれについて触れていると見たことがある人もいる。確かにインドの彼らはこれがあることを知っているが、実際、この七つの脈輪(チャクラ)がどこに働くのかは分からない。人類だけではなく、動物を含めた全ての有情衆生には七つの脈輪(チャクラ)がある。この七つの脈輪(チャクラ)は、過去世と今生に為した全ての業力を含む。七つの脈輪(チャクラ)は、それぞれ違う脈を持ちながらも、共に中脈(中央脈管、スシュムナー)に附着している。如何なる衆生も中脈(中央脈管、スシュムナー)があるが、医学ではそれが教えられていないし、見えない上、検査しても測定できないものだ。だが、中脈(中央脈管、スシュムナー)が開くまで修められればもう並ではなくなり、脈相を通じてその違いが知らされる。(漢方医をする弟子は、リンポチェには二通りの脈のシステムがあるが、一般人には一通りだけしかないし、もう一通りのを開発しようとしても無理なはずだと答えた。)
もう一通りの脈は、取りも直さず七つの脈輪(チャクラ)が附着する脈なのだ。もう一通りの脈はどうやって開発できたのか。要は、「慈悲喜捨」だ。わざと思うとそれは現われないが、何も考えなければ現われるようになるのだ。漢方医以外に、他の西洋医の弟子らも私の二通りの脈を測ったことがある。一般的には、人は一通りだけしかなく、もう一通りのが開発されていない。つまり、菩提心だ。菩提心が開発されていれば、中脈(中央脈管、スシュムナー)の力も現れることになるぞ。いわゆる我らの魂・神識は中脈の中を歩き回っている。日ごろ、修めていない者の中脈(中央脈管、スシュムナー)はぺたんこになっている。他にも、母親からの血の赤い脈と、父親からの精の白い脈がある。この三本の脈とも体の中にあるし、誰でも漏れなく持っている。密宗はまさにこれを修めている。上師を敬わない者なら、成功裏に修められるはずがない。
七つの脈輪(チャクラ)は一切の身口意を主宰する。我らの病気や不運は全て身口意が過ちを犯したことによるのだ。長期にわたって六字大明呪を唱えていると、七つの脈輪(チャクラ)の脈を真っ直ぐにし、通じるようにさせることができる。一般人のは曲がっており、真っ直ぐにならないのである。人は年を取ると、持病が山ほど出てきたりするようになるのは何故だろうか。お年寄りは仏に頂礼しているから健康がよくなると勝手に妄想してはならない。それは有り得ないことだ。なぜかと言うと、そなたは中脈(中央脈管、スシュムナー)を修めず、仏に頂礼しているだけなのだ!ただ、他人は年を取れば、ベッドに横たわってばかりいるのに対し、そなたはまだ歩けているという違いだけだ。「仏菩薩にどうか私の健康がよくなりますようにと祈って、これで私は少しでも多めに唱えられる」と思うと、逆にその反対が発生するかもしれない。何故なら、そなたは仏菩薩を威喝し、恐喝しているからだ。
仮に、上師たる者が、七つの脈輪(チャクラ)を把握しておらず、修めていないのなら、きっと衆生を救済することもできるわけがない。加持は加持であって、そんなに拘るようなことではないだろうと思う人が多い。だが、実際は、中脈(中央脈管、スシュムナー)が通じていなければ、加持を与えようがないのだ。何故なら、それは菩提心を用いて加持するものであって、凡夫の体を用いて加持するものではないからだ。もし凡夫の体でそなたを加持する場合、凡夫同士だということから、役立たないのだ。私に加持されると、すぐよくなる人が多いのは何故なのだろうか。私が凄いからというのではなく、私は既にこのシステムを開発し、このシステムを通して諸仏菩薩と相応することになるからだ。諸仏菩薩もこのシステムを使って衆生利益している。
七輪とは、頂輪、眉輪、喉輪、心輪、臍輪、密輪と海底輪のことを指す。海底輪は一般的には修めないものであって、それはそこが封鎖されているからだ。地獄や三悪道に堕ちる場合は、そこから出て行くとされる。どんな人が海底輪を修めているのか。自分の情欲を放埓にし、瞋恚や貪念を持つ人がだ。日頃から、海底輪を良く修めている人だけには、海底輪が開くようになる。六字大明呪の各字は、六つの脈輪(チャクラ)それぞれに、清浄・強化・保護という働きを持つ。
六字大明呪を唱えれば、保護が得られると思う人が多い。実は、そうではなく、六字大明呪は音波で、我らの体を震動させられるものだ。例えば、一段落目の時、私は「唵」を唱えると、そなたは脳ごと震動していると感じる。「瑪尼」の時は喉と胸、「貝美」の時はお腹、「吽」の時は臍輪が震動したと感じる。この六つの字を長期にわたってこうして訓練すれば、中脈(中央脈管、スシュムナー)が開くようになる。ただ、そなたらは内傷する恐れがあるから、今は私のような唱え方を真似しないで欲しい。そなたらは慈悲心を持たず、ひたすら自分がよくなると望んでいるというのが理由である。そなたにこんな考え方がある場合、この種の音波はそなたの体にダメージを齎す。それに対し、そなたは衆生の為に唱える場合になると、この音波はそなたに危害を与えないことになる。
指揮者の弟子は、リンポチェが唱えた六字大明呪に周波が低いのと高いのがあると言った。彼には聞こえるが、そなたらには聞こえない。ただの六つの字ではあるが、音波の周波数はしきりに変わっている。宇宙における全ての変化は、音からだ。音波があってはじめてエネルギーや光が生じる。天文学では、宇宙の誕生は大爆発によるものだという一説がある。どうして爆発するのだろうか。爆発によって「吽」という音が発生し、「吽」は多くの元素を結合させ、なお結合できなかった元素らは配列し直したりして、新しい物質を生み出している。六字大明呪をよく持した場合、きっと自分に対しても、衆生に対しても役に立つものだ。これは決して一日にしてできることでもなく、粘り強さと、ねだる事がないように唱える必要がある。多く唱えれば、自分の運命を変えられると思っているのか。それは、きっと自分を凡夫から未来仏の体へと変えられるが、俗世間の小さな出来事であれやこれやと求める為ではない。世間の出来事はすべてご自身によったものだが、もしそなたは世間の事が良くなって欲しいと願っていれば、仏菩薩もきっとそなたに教えたり助けたりして応じるが、肝心な事は、やはりそなたの決心が必要なのだ。
不動如来であろうと、『普門品』であろうと、何れも罪人が受刑される時に仏菩薩は助けてあげるとある。どうして助けるのだろうか。古代では、犯人の受刑と言えば、軽い場合には首を斬られ、重い場合には馬裂きされることになっていた。首を斬るとなると、その神識は取りも直さず上へは行かず、下に行くものだから、地獄に堕ちるに決まっている。諸仏菩薩の願としては、衆生が三悪道に堕ちるのを望みたくないのだ。彼が過ちを犯したのに、救うというのかと言う人もいるだろう。彼を救うというのではなく、あらゆる衆生は未来仏とされるから、たとえ今の彼が罪人であっても、なお未来仏だ。ただ、彼は自分が犯した過ちによる多くの果報を経験してはじめて一人の行者になれるわけだ。従って、密教での「灌頂を授かれば、あらゆる衆生を本尊と見なすべきだ」という言い方は、まさにこれを原理とし、「私はこの本尊を修めるが、彼はこれを修めていないから、やっぱり違うな」と線を引くなんてしていない。もし、こんな考え方があれば、それは間違っている。
法会に先立ち、私がいつも六字大明呪を千遍唱えるのはどうしてか。私自身の為に唱えるものではない。全てはそなたらの業障が重すぎて、そなたらの身口意は清浄を得られていないからだ。そなたらの場合、仏法を聞いても定着していない、聞いても覚えていない、聞いても拒否する、聞いても忘れるから、六字大明呪を唱えることを通じて、そなたらの七つの脈輪(チャクラ)を震動させて、少しでもそれを受け止められたらと願っている。運が良くなり、良くないことが発生しないように、そなたらを加持するのではない。もし、そなたらは進んで聞こうとすれば、そなたの心は善になる。心が善である以上、悪の念を動かさなければ、きっと悪の業が成熟したとしても、影響をだいぶ軽減するようになるだろう。「私は教育を受けたことがあって、学校ではこんなの教えていない。ただ、私は今不運だから、加持をしてもらうよう助けて欲しかっただけだ。あなたが言った話は本当かどうかまったく見当がつかない」と思って仏法を疑っているのなら、私が言っている事は自分の発明ではなく、すべて仏典を裏付けに言っているものだ。懐疑心や選択心があるだけで、即ち悪の念になることで、清浄な仏法はもうそなたと関連がないようになる。要は、そなたは悪のほうを選んだからだ。まさか選ぶことさえできないというのか。もちろんできない。仏の仰せすら疑っていては、もうそなたはここに来る必要がないのではないか。来る必要なんてない。
「信は一切功徳の母なり」というのはどうしてか。信は迷信ではなく、信じることだ。仏は自身の修行経験を我らに教えている。仏も凡夫から成功裏に修められた以上、仏から言い出されたこれらの経験を、我らは従って実践すれば、きっとある日・ある世に我らも為し得るに違いないと信じるべきであって、自分自身の些細な欲望で仏法を聴聞しに来たりするべきではない。こうすると、そなたの念頭も善である。善であるそなたの念頭と、善である仏の仏法と、自然に一致し相応するものだから、言うまでもなくそなたの災難も少なくなり、ひいては消えてしまうのだ。つまり、この原理だ。また、もしそなたは「原理なんか聞きたくない。私は跪いて聞けば、あなたはくれる」と思うのなら、仏典にはこんな記載がないから、どうして欲しいというのか。私は仏のお教えを変えられない。無理やりに私に変えて欲しく、そなたらをおだてあげて欲しいのなら、それは有り得ないことだ。
我らが念仏する際、右手で数珠を撥ねながら、左手で数珠を持ちあげている。どうして念仏すら教えられなければならないのか。どうして仏ははっきりと説かないのか。それは、仏が説法する際の対象はそなたらではなく、阿羅漢や菩薩だから、彼等は言われた途端に分かったのだ。それに対して、そなたらはどう言われても分からない。右手は事業を、左手は慈悲を表している。仏法事業は慈悲が後押ししていなければ、仏法ではなくなる。だから、いつも片手で数珠を持つ人らは、慈悲で後押ししていないから、上辺のみだと言っていい。人によっては、両手で同時に数珠を撥ねるのもいるが、あんなのも効果が発揮できない。唱えながら撥ねる必要があるが、もう片方で押すのではなく、持ち上げて唱える必要がある。唱え切ったら、少し引っ張ると、早くできる。私はますます自分のことを敬服してきたな。こんなのさえ教える必要があったのだ。
どうしてリンポチェは大きい粒のではなく、いつも小さい数珠を持っているのか。私は一気に千遍を唱えるものだから、あんな巨大数珠なら、どう撥ねようというのか。大きい粒のはただの飾りにすぎない。閉関する場合、こんな大きい数珠で百遍でも唱えれば、きっと両手が痛くてもう操られなくなってしまうだろう。仏道修行するからには、全ての事は上師がした通りに従ってすればいいのに、そなたらはわざと他の方法を探している。台湾での仏法は、中国から伝来しているという事実がある。中国からの伝来である以上、数珠を付けるというのは、出家衆が人に会う場合の目印(マーク)として首にかけるものだから、修行する時、その目印を外すべきであって、あんな大きい一具を持つ必要などない。仏法においては、あれやこれやと手管を弄してはならない。『宝積経』でも、こんな巨大な数珠を操って修行すると言っていない。かつて、私も釈迦牟尼仏はどんな材料の数珠を持たれているかについて言ったことがある。仏道修行は仏典・仏のお教え・上師の修行経験から離れてはならない。その通りに修めるのが、無難だ。
経典:「舍利弗、寶幢菩薩の所修の行も不動菩薩に比せば、少分中の乃至、歌羅分に於ても亦一に及ばず。舍利弗、不動菩薩の被れる精進の甲冑は、無量千の菩薩に悉く與に等しきものなし。」
多くの菩薩は不動菩薩が精進された法門や所作に遠く及ばないが、仏道修行をして、どちらのほうが凄いのかを比べるのではなく、要は発心次第だ。発心・願力が大きければ、自ずと成就も大きくなる。ひたすら自身の細かな事で発願するのであれば、きっとそなたも将来仏法における修行には大した成就が得られないだろう。「私個人の問題の為に仏法を聴聞しに来たのだ。私個人の問題すら解決できなければ、他のことを言う余地があるのだろうか。」と最初の頃こんな念頭を持っていても強く非難することができないが、そなたが聞いているうちに、自分で仏法の偉大さと慈悲がどこにあるのかを分かるようになるはずだ。決して個人の事の為ではなく、広大なる有情衆生の為で、彼らを助ける為である。この段落では、不動菩薩がとりわけ凄いのを言いたいのではなく、その精進の心構えには他の菩薩が及ばないことを表しているのだ。
経典:「舍利弗、不動菩薩摩訶薩は此の堅固の誓願を以て阿耨多羅三藐三菩提を證得し、」
「堅固」とは、不動仏の発された誓言は永遠に諦められず、手抜きもされないということだ。そなたらみたいに、「今、私にはこうした理由があって、近頃は遂行できていないが、数年後かに問題が解決できたら、再び実行できるように、観世音菩薩から時間をください。」というようなことにはならない。これこそ堅固でないことだ。むやみやたらと発願してはならない。願を発した以上、実践するべきだ。いちばん身近なのは、浄土往生の発願だ。そなたが発願したにもかかわらず実践しなくても、別に仏菩薩はそなたに罰を与えるわけでもないが、ただそなたの業力は累世で転じられないままになるだけのことだ。何故なら、そなたは仏菩薩・衆生・怨敵・祖先を騙したからだ。そなたが発願したところ、祖先たちは「彼が発願したから、我らはリンポチェに済度させられるかもしれない」と期待していた。そなたが発願したことで、そなたに食べられたあの鶏や豚は機会があると思いきや、そなたは気が変わった。よって、いちばん無難な発願は浄土往生だ。
「母が健康になるよう、私は三年間菜食すると発願する」なんて絶対に言わないでくれ。万が一、そなたの母親は健康にならなかったらどうする。「自分の寿命を減らして母に振り向ける」という人もいるが、それは効かないに決まっている。仏典ではそう言っていないからだ。我らは親の為に寿命を祈り求めることはできるが、そなたの寿命を移すようなことはできない。あたかもご飯を食べることと同じように、このご飯はそなたに食べられて、そなたのお腹に入ったのであって、またそなたのお腹を切ってご飯を出して、別の人に渡すことができるのか。できないだろう。まったく同じ道理だから、(寿命を分けることは)迷信そのものだ。また、「私の願が満たされたら、私は修行に励むから」という人もいるが、これは恐喝・威嚇だ。そなたの願を満たさなければ、どうなる。仏像を捨てるとでもいうのか。全くこんな人も確かにいる。
発願は、修行して衆生救済する為であって、個人の私欲の為に発願するものではない。地蔵王菩薩はその母親が今後永遠に三悪道に堕ちることにならないよう、彼は累世で修行して衆生救済すると発願した。この願なら、母親に孝行するからいいと思う。彼は実行したが、そなたらはどうか。「母の健康状態が良くないから、期間と回数を決めて満ちるまで唱えて、母に振り向けるよう廻向する」というような願を発した人もいるが、こんなのは無効になるぞ。全宇宙で、そなただけに母親がいるのか。他の人には母親がいないのか。そなたらを含め、こんな願を発したのはきっと少数ではない。「仕事が順調になってくれれば、毎日持呪する時間を多めにする」というのなんて、仏菩薩と何の関係があるのか。そなたが唱えなくても、仏菩薩の損にもならないし。「私の子供を試験に合格させたら、きっとこれは菩薩からのご加護だよと教えていることだから、その時、子供は私と共に仏道修行するようになる」というような言い方をやめてくれないか。こんな願を言った人も多い。また、出家衆は「私の修行への障礙が一日も早く無くなり、私自身は一日も早く悟りを開けば、私は衆生済度ができる」という。これは恐喝・威嚇以外の何物でもない。だから、浄土往生を発願するのがいちばん安全だ。
『宝積経』に、菩薩道を修める者は傲慢になってはならないとある。そなたらは傲慢だ。やたらと遂行できない訳の分からない願ばかり発している。やたらと発した後も、遂行できなくても大丈夫だろうと思っている。如何なる大菩薩・成仏された方も、発願すると実行に移すものだ。それに対して、そなたらは願を発しても、小さい頃から人騙しに慣れているから、仏菩薩を騙しても大丈夫だと思っている。そなたが仏菩薩を騙すと、仏菩薩と何の関係があるのか。彼は怒らないが、そなた自身の業力がこれで転じられなくなるとされる。私が今生に一人の凡夫から、転生でもないリンポチェなのに、高座に上がって説法できるように、修行ができたのはどうしてか。それは私が発した願を必ず実践するからだ。「私が発した願が遂行できるように、リンポチェ・仏菩薩からご加持をください」のような言い方を私はしていない。このような話をする人は多くいる。「不共四加行をするのを発願させ、大礼拝(五体投地)の実践ができるよう、加持してください」なんて、まったく願ではなく、でたらめだ。
「堅固の誓願」とは、そなたが言い出した以上、固く実践し続けて行くことだ。実践する過程で、どんなに障礙・苦痛・犠牲があろうと、やり抜くべきだ。
この度、政府から宗教集会に参加するにはワクチン2回接種済みが条件という規制が出た。これで、どうして去年私はワクチン接種を2回したのかが分かるか。それでも、一部の弟子は打ちに行かない。どうして打たないのか。第一に、自分は出国しないから、第二に、打つと暫く不調が続くから、第三に、仏菩薩と上師を信じないから。パルナシャバリと薬師仏を修めた時に、この本尊を修めることによって、毒薬を甘露にさせられると言ったのに、これ等の弟子は一向に信じず、打ちに行かないでいる。私は既に2回の接種を終え、とっくにこうする必要があると見通した。そなたは信心が足りないから、来られなくなっている。リンポチェは先立って接種を受けたのに、そなたらはダラダラと私に従わない。そなたらのうちワクチン接種を受けた者も、これで副反応がずいぶん軽減している。例えば、ある出家弟子は完全に副反応がないと言っていいほどだった。どうして大丈夫だったのか。それは信じるからだ。私の修法は修める振りだけして、実際には修めていないことだとでも言うのか。そなたらはこんなにも霊験あらたかなのを信じない。もしあんなに霊験あらたかでなければ、テキストに記載される必要などないのだろう。取りも直さず、そなたらは願が堅固でないのだ。そなたらはひたすらリンポチェを信じると発願していながらも、いったんご自身の利益に関わるようになると、すぐ全部信じなくなり、自分の感覚だけしか信じないことになる。
「阿耨多羅三藐三菩提を證得し」。菩提心・勝義菩提心・仏果を証するのに、堅固たる誓言がなければ無理だ。また、そなたは「私は仏道修行だけしたいが、成仏するつもりはない」と言うのだろうが、仏道修行でさえ堅固たる誓言が必要なのだ。
経典:「今現に妙喜世界に住して。號して不動如來應正等覺と為ふ。」
不動菩薩は現在(2500年前)妙喜世界に住んでいる。今でもまだそこにましますはずだ。妙喜世界は我らの地球・我らの銀河系ではない。「號して不動如來應正等覺と為ふ」というのは、彼は仏様だという意味だ。
経典:「復次に、舍利弗、彼の不動如來は往昔菩薩の行を行ぜし時に、諸の頭目・髓腦・手足・支節を乞ひ求むるあらば、其の意に逆はずして悉く皆施與せり。」
此の段落は我らにしては成し得ないことだ。そなたが頭を斬ったり、骨髄を抽出したりして差し出すことなどありえないからだ。施身法を修める時、修法者が観想する場合は全部差し出すのだ。(テキストの)中では、はっきりと、「頭を斬る、骨髄を出す、手・頭・足・内臓を全部供養する」と記載している。
どうして現在我らは成し得ないのか。今すぐ成し得たい場合、空性まで修めるほかない。まるで、釈迦牟尼仏が国王だったある世のことのようだ。天帝はその慈悲心を試す為に、鳩と鷹に化し、鷹は鳩を捕まえようとしたが、鳩は釈迦牟尼仏の傍へ助けを求めに逃げてきた。鳩が仏に救われると、鷹は餓死してしまうと、鷹は言った。そうすると、釈迦牟尼仏は自分の太腿の肉を切って、鷹に食べさせた。そして太腿が切られても血が止まらないという事態にならないだけではなく、すぐに新しく肉が生えるようになったという。
私の密法を修めるという観念から見れば、国王だったあの頃はすでに空性まで修め得られていたと思う。彼には体があるように見えるが、実はその体はもう存在していない。このレベルまで修めているのなら、この一節で言った全てを先方に施せるし、与えたとたんにすぐ存在するようになる。リンポチェがそなたらを加持してから、リンポチェのエネルギーがすぐ取り戻せるようになるのと同じだ。施身法に於いて、私は自分の体を丸ごと供養し布施しているが、修法の後、体には少しも損傷がない。
「観想」って本当なのかとそなたらは問うのだろうが、それは本当なのだ。何故なら、往生した衆生から見れば、間違いなくああいった物が目の前にあるからだ。施身法ではこんな観想を抜きにして、単に私の生身を以て参加してくる亡者を負担し切れるわけがない。皆もよく施身法に参列しているから、法と上師を敬う者なら、いつも私が法を修め始めると、寒く感じるはずだ。それは亡者が入って来たからだ。亡者は在世の人ではないため、エネルギーがないものだから、寒く感じられる。ましてや地獄から上がった者の場合、もっと寒く感じられる。
人は事切れて三十分もすれば、冷たくなり始める。それは彼らはもう四大の火大を失っているからだ。そなたら誰もが施身法修法中の寒さを感じ、終了後に寒さが無くなるのを体験したことがある。それは済度されてしまったからだ。道場に護法がいるのに、それでも鬼衆は入られるのかと、そなたは言うだろう。あらゆる法門の中で、唯一施身法だけが結界を施さずに、ありとあらゆる衆生が入られるようにオープンにしている。本日も私が法を説き始める前に結界を施してはいたが、施身法の進行中にそれを施していない。玄関口に仏像やお札でも貼れば、鬼衆が入れなくなると思う人は多いが、実はそうではない。ただ、この仏像やお札は大行者によって開光され、鬼衆はその光を見て入れなくなる場合は除く。
布団の中に隠れると幽霊はそなたが見えなくなる、と思ってはならないとかつて私は言ったことがある。仏典の記載によれば、鬼衆が抜けられないのは三か所のみで、一つは釈迦牟尼仏の宝座、一つは女性の子宮、もう一つは金剛杵だ。これら以外は、どんな材質でも鬼衆は抜けられるとする。鉄筋コンクリートであろうと、分厚い物であろうと、いずれも抜けられる。ただ、護法の光によって保護された建物を抜けられない場合は除く。よって、毎日のように護法を修めるべきだ。護法を修めなければ、真っ黒なご自宅には、彼等はやってくるからだ。
まさに『地蔵経』の通りに、毎日少なくとも一万遍唱えれば、近くの善の鬼神によってこの家を守ることになるようにだ。だが、そなたらに毎日一万遍の南無大願地蔵王菩薩を唱えさせても、唱え切れないものだから、護法を修めるという方便法門を課している。よって、護法・上師を敬わないと、護法も訪れないに決まっている。これらワクチンを接種しない者らには、護法が訪れないとされる。上師が既にお手本として見せているのに、まだ従ってやらないのか。
経典:「舍利弗、彼の不動如來は初發心より乃至未だ無上菩提を證せざるに、此の因緣に由つて風・黃痰及び頭痛等の和合の諸病なし。」
不動如来は初発心から無上菩提を証することになるまで、その堅固たる願を発されたことによって、「風・黃痰及び頭痛等の和合の諸病」を患わない。よって、もしそなたらにこんな病があれば、それはそなたが発心せず、菩薩道を修めてないからだ。(リンポチェは漢方医をする弟子を指名して、風・黄痰・頭痛について説明してもらった。漢方医をする弟子は、風・黄痰とは感情的知性の病気であり、つまり意識上の異常・情緒の不正常・心理状態において正常ではない波動が発生することだ。漢方医の観点から、体液の巡りが良くないことによって粘性の痰を生じると、我らの心身の活動に差し障るようになり、狂躁という症状を引き出すと答えた。)
リンポチェは、漢方医の弟子はでたらめを言い、黄痰は肺による問題のはずなのに、彼はひたすら前に言った内容に沿って答えただけだと呵責した。(続いて、漢方医弟子は一般的に頭痛を引き起こす原因としては、風寒と自身の経脈システムの不正常収縮がある。つまり、経脈システムの筋肉が緊張だったり、張力が大きかったり、血管神経が収縮したりすると、頭痛をも引き起こすこともあると答えた。)
直接に脳腫瘍と言ったほうが、皆に分かるのだろう、とリンポチェは開示された。単純に頭痛という言葉が使われたが、実は現代人の場合、脳卒中・脳腫瘍・脳病、そして狂牛病もこの範囲に属する。
ここでは、いったんそなたは堅固たる誓願を発すと、「風・黃痰及び頭痛等の和合の諸病」を患わないことになると言う意味なのだ。これらは一見軽そうに見える病気だが、後に、全部の臓器を悪くさせる恐れがある。よく気を留めると分かることだが、お年寄りは発病すると、最初は痰が多くなるが、次に痰が吐けないようになる。脚本家もしっかりと根拠に基づいて執筆しているものだから、ドラマの中に、いつも人が発病する場合、こんな症状が伴っているシーンが多い。
痰はどうやって現われるかに至っては、私は医者ではないが、私の経験からすれば、肺と心臓の炎症から痰が生じると思っている。(漢方医弟子は確かにそうだと答えた。西洋医弟子は、痰は白血球が細菌・ウイルスや外来異物を貪食することによって生み出された物質だと述べた。)
どうしてこんな病気があるのか。それはそなたの心に悪念があるからだ。医学では細菌と言うが、仏法の因縁和合から見れば、それはそなたの怨敵だ。彼等は元よりそなたの体内にいながら、そなたの心が善である場合、怨敵は動かないようにしているが、そなたが悪念を起し、上師・仏法を尊重しなければ、動くことになる。
だから、この段落では不動菩薩は発心してから三宝と衆生への敬重が変わったことがないから、彼にはこんな病気がなく、これで修行し続けられるのだということを述べている。不動菩薩は求めていない。求める必要などないからだ。どうしてそなたらがいくら求めても求め得られないのか。自分は改めずにいて、求め間違えているからだ。リンポチェは仏菩薩と護法のご加護の下で、後一日で75歳になる。この先のことは分からないが、今のところは、こんな病気を持っていない。これは私が菩薩道を行っているからだ。菩薩道を行わない者なら、こんな病気にかかることになる。実は、施身法の中でも、これらについて言及しているが、臓器の炎症による痰はなかなか治らないものだという。(西洋医弟子は確かに治療するのが難しく、それを排出させるのが難しいと述べた。)
頭痛という病気はどうやって現われたのか。漢方では血の巡りが良くないと、西洋医では脳神経と血管の問題から生じる脳疾患だと捉えている。仏法で言えば、そなたの如何なる考え方も人に危害を及ぼすようなことでいっぱいで、まったく助けようとしていないものだから、頭痛の問題に至るのだ。漢方で言えば、頭風だ。漢方医弟子は受寒(寒さに当たる)だと言ったが、実は受寒ではなく、受寒とまったく関係ないのだ。取りも直さず、そなたの思想はエゴでいっぱいで、いくら念仏しても効かないのだ。エゴによって、この頭風が現れるわけだ。
この風はそなたの貪念を表す。そもそも風自体は体の中にあるものであって、風に吹かれてはじめて頭痛になるわけではない。体の中に地・風・水・火という四大があり、風が強すぎると自ずと頭が痛いことになる。(漢方医弟子は確かにそうだと答えた。)漢方医弟子にこれからももっとマスターして欲しい。漢方では、木火土金水という五行について説かれるが、頭風はどれに属するか。(漢方医弟子は木に属すると答えた。)木に属するのなら、どの内臓が良くない場合、頭風を引き起こすのか。(漢方医弟子は肝臓が良くない場合だと答えた。)それだったら、どうして先ほど言わないでおいたのか。
私は医者ではないが、私には西洋医弟子がいるし、多少常識もある。漢方医弟子はいっそのこと西洋医の資格を取ればいい。始めから知っているのに、知らんぷりをしてそれを言い出そうとせず、緊張とばかり言っていた。肝臓が緊張しなければ、頭風が出るとでもいうのか。(漢方医弟子は出ないと答えた。)今日は、漢方医弟子はあまりにも運が良くなく、いみじくもこの一節を解き明かすのに当たっている。医者として誤魔化せようか。適当に答えを出したりしていられようか。
(リンポチェは西洋医に、どんな資格があれば西洋医の試験を受けられるのかと聞いた。西洋医弟子は医学部の資格さえあれば、漢方医でも受けられると答えた。リンポチェは漢方医弟子にいっそのこと西洋医を受けてみないかと言った。何故かと言えば、彼(漢方医弟子)は先ほど西洋医学のことばかり言っていたからだ。西洋医弟子は素直で、西洋医学のことだけしか言及しなかった。)
経典:「舍利弗、彼の不動如來は往昔菩薩道を行ぜる時に、是くの如き等の未曾有の法を得たり。舍利弗、彼れ往昔生じ生ぜる處に於て諸佛如來に供養・奉事し、」
不動菩薩は菩薩道を修めるので、これ等の病気を患う因縁がない。これ等の病気を患う因縁がない以上、以前菩薩道を行ずる時に、「是くの如き等の未曾有の法を得たり」とは、不動如来以外に、完全にこれ等の病気を患わなかった菩薩は皆無だという意味なのだ。誰でもそれを経験したことがあるから、よく自分自身を見直すといい。自分が行者やらと思ってはならず、全く成し得ていない。こんなにもはっきりとした内容を、釈迦牟尼仏はよくも我らに言い聞かせるなんて、思いも寄らなかっただろう。
また、不動如来はかつてどこに生まれようと、諸仏如来への供養・奉仕は一度も休んだことがない。自分に対して自分はどうかと問うといい。ずっと護法と観音菩薩に休みをもらっているから、成す術がなく、成功裏に修められないわけだ。
経典:「彼の佛所に於て常に梵行を修せるに由つて、是の因緣に由つて生じ生ずる處に還本名に復つて、號して不動と為ふ。」
というのは、不動菩薩はこの願を発して以来、常に梵行を修めることによって、今後の彼の毎回の生まれ変わりを断ち切り、依然にこの名号を得て「不動」と号するという意味だ。いわゆる「転生」はチベットならではのものではない。ここで指すのは、まさに「転生」のことだ。彼は如何なる世も、この条件を成し遂げれば、きっと後世も不動如来と呼ばれることになるという意味だ。ここでは、仏ははっきりと説かれていないが、実は今後彼に現れる全ての因縁を前世のうちに全部言い出すようにするとされる。チベットでは、大リンポチェがまた転生して戻って来る場合、必ず往生する前に、自分が亡くなってから、どの年に、どの場所に転生し、そして両親の名前などを詳しく書き残すようにしている。
チベットでさえ書き残すようにしているから、不動菩薩もきっとそうしていると私は信じている。そうでなければ、きっと仏も彼は生生世世で同じ名号を持つとは言わないだろう。まるで、チェツァン法王は第一世から第八世までずっと「チェツァン法王」で、チョンツァン法王も同じく「チョンツァン法王」のままのようにだ。今仏典で説明したように、これはチベット人の発明ではない。転生はチベット人の発明だとよく思われているが、実はそうではなく、これは仏の仰せである。しかし、それまでにあらゆる条件を満たす必要があり、もし成し遂げられなければ、この転生は言うまでもなく偽りのものなのだ。
私の理解では、正真正銘の転生は複雑かつ殊勝なことである。口先で自分は願に乗って再来すると言えば、乗願再来が叶うわけではなく、あらゆる内容をはっきりと書いておかなければできないはずだ。例えば、私はもう来ないと言ったら、もう来ない。だから、もし後世にリンチェンドルジェと名乗る人がいれば、それは間違いなく私ではない。ただ、私が死ぬ前に、意思を改めて、私はどの年に再来すると言った場合は除く。かりに私は何も言わずにいた場合、今後、誰かがこの名号を名乗り出すと、それは偽りだと認識するべきだ。これこそ次世代へと伝承すべきだ。何故かと言えば、もう来ないと発願したからだ。地球はあまりにも苦労し過ぎて、別の所へ行くつもりだ。
法王からいただいた私への長寿祈請文にもはっきりと書いてあるように、殊勝な因縁がある場所だけ、私は赴くから、別にここに拘るとは限らないのである。「それなら、寺院建立していてどうするのか。」とそなたらは聞くだろう。今生に生死解脱まで修められたいのなら、閉関修行が必要不可欠だ。今や、様々な因縁によって、我らをスムーズに聖地へ閉関しに行かせられない。それはもう不可能だと、私は敢えて予言することもできる。いくら可能性があったとしても、65歳だったらまだ行けるかもしれないとし、リンポチェは高齢75歳で、もう連れて行かれないと思うから、閉関修行に適した場所を見つけないといけないのだ。
自分は、溢れるほどのわざを身に付けているとは言わないが、少しは身に付いている。そして、私が生きている間に、全員が私に頼るのではなく、自分自身で生死解脱する能力がつくように、一部の弟子を育てたいと考えている。誰しも私に頼っており、もちろん寄り掛からせないというのではないが、私もいつか死ぬものだ。そなたらのこうした修め方においては、いつか私が亡くなったら、どうしようかと思っている。リンポチェは必ず長生きするのだろうと思ってはならない。私は高々86、88歳までだ。生きていてどうするのか。私はせっかちで、88歳まで生きているときっと歩くのも遅くなるし、また、修法するのにもまる一日かかったり、思う存分に弟子を呵責する体力がなかったりすると、私もさっぱりしないだろう。
リンポチェが寺院建立するのは、自分の為ではない。正直に言って、もし寺院を建立しなければ、私が寄附したお金だけで充分に快適な生活が送られるし、いちいちそなたらのことを相手にしなくてもいいのに。だから、皆はしっかりと話を聞けよ。
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2022 年 07 月 02 日 更新