尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年1月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、自ら殊勝な施身法法会を主られ、並びに四臂観音法相の深遠なる意義について開示された。

リンポチェは法座に上がられると、六字大明呪を長らく誦持(じゅじ)され、後に修法をして苦難を受けている亡者を済度し始められた。リンポチェは大手印禅定の中で、殊勝な施身法を修められ、勝義菩提心を以て、自身の一切の血肉・骨を漏れなく諸仏菩薩に供養し、一切の六道衆生に布施するよう観想された。六字大明呪を長らく誦持されたことによって、慈悲なる法音は十方に遍満していた。

修法が円満に終わった後で、リンポチェは開示を賜われた:

このテキストを長期間に修めれば、そなたは菩薩道の資糧道・加行道・見道と修行道を同時に修めているのと同様だ。多くの人は、仏像や数珠を買い求めたら、修行していることになると思っているが、実は、資糧道すらよく成し遂げていない。資糧道とは即ち福報を蓄積し、智慧を開くことだ。福報の蓄積とは何であろうか。上師が言ったり教えたりしたことを全て聞き入れることだ。上師に口答えをしないように心しておくべきだ。口答えすると、資糧道で蓄積した福報は無くなり、智慧も開かなくなるのだ。仏像や数珠を手に入れても、自分は修め始めていると思ってはならない。菩薩道を修めるには、資糧道が非常に重要だ。資糧道で何をしたかと自分自身に問うといい。お金を多く供養することこそ資糧道だというのではなく、どの念頭も上師と仏菩薩だ、どの念頭も衆生救済だ、何をしようとも衆生の為だから、資糧道が蓄積できるようになるのだ。

資糧道を円満にしてはじめて、加行道が修められるのだ。加行道とは何だろうか。要するに、生起次第・円満次第の修行方法を学び始めることだ。日ごろの持呪・礼拝・寺院参拝・善行などは、すべて資糧道に含まれている。自分は修行しているから菩薩だと思ってはならない。時期尚早だ。難しいやら大変やらというものではなく、順番に進めて行かなければ無理なのだ。よく見極めていないうちに、不共四加行を求めに来てはならない、と私はひたすら強調している。法を請わせないというのではなく、法を請うならちゃんとさせているが、ただ自分自身に法を請う資格があるかをしっかり見極め、自分自身に問う必要がある。不共四加行を求め得たら、加行道だと思っている人が多いが、まだまだ、まだ資糧道だ。加行道とは、すべて生起次第・円満次第に本尊を修めることだ。

高慢な人が多くて、帰依して5、6年経ったら、「今、不共四加行を請いて、不共四加行を求め得たら、菩薩道を修めることだ」と思っている。もちろん、これは菩薩道の一部だ。だが、資糧道なしに、どうして菩薩道を修められようか。言い換えれば、衆生に差し出せる物がないではないか。「菩薩道を修めろとリンポチェは言ったのではないか」と言う人も多いが、確かに私は皆に菩薩道を修めろと言ったが、菩薩道には次第があるから、ちゃんと次第に則ってやらなければならないのだ。高慢な人は、自分は帰依して長いから、リンポチェは法を授けるに決まっていると自惚れている。「決まっている」なんてないし、私の機嫌次第でもない。そなたは仏法をどれぐらい受け止められているか次第だ。心構えはどれぐらい調整してきたか。

特に私が道場の法座か壇城で、そなたに対して話しかけたとき、いくらそなたは反論する途中で嚙み殺したとしても、口答えになるのだ。私が言ったことに対し、そなたが「いいえ、私はそんな意味ではない」と答えるだけで口答えだ。そなたが自分に間違いはないよと説明しようとすれば、私の間違いになるわけだし、そなたは正しい・正しくないを求めている。「上師は私を誤解した。私はそういう意味ではなかった」とそなたは思っている。私は何度も繰り返しているように、上師が言った以上、間違っていても正しいのだ。私は子供の頃、武術を習ったが、師匠から教わったのに、もし私が「師匠、今のは昨日言ったのと違う」と言ったら、きっと師匠にビンタされるだろう。「昨日どう教えたとしても私の自由だし、今日はこう教えたいのも私の自由だ」というものだが、そなたらは一向に口答えしたがっている。そなたは何歳にしろ、弟子である者には口答えする資格がない。何故なら私は法王に口答えしたことがない。以前、私もよく自分のことを例に取り上げていたが、そなたらは一貫して聞こうとしないのは何故か。皆に私を至高の地位に祭り上げて欲しいというのではないが、要ははこれが私が成功裏に修められた方法だからだ。そなたらはよりにもよってこの方法に従わず、自分らの方法ばかり使っている。いくら言っても、話を聞かないままだ。毎週のように、口答えをしてはならないと言っているのに、一向に聞こうとしない。たとえ半分だけ言い出して、半分噛み殺しても、半分の口答えになる。口答えしないのを身に付けるべきだ。無実の罪を着せられたとしても、そなたの業を解消する為だ。私はわざと叱る場合もある。叱り終わったら、物事は良くなる。業があんなに重くては、ちょっと痛い思いをさせないと、この業はどう解消できようか。だから、わざと叱る場合があると認識するべきだ。叱り終わったらよくなるぞ。偉いねと言っておだてあげる必要があろうか。そうだったら、いっそのことそなたに壇上に上がってリンポチェをさせよう。

「誰かから仏像・数珠をもらって、縁起を結んだから、今こそこれを修める時だ。」とそなたは思ったなら、まず考えるべきことは、仏像をくれた人はどんな人かということで、非常に重要だ。仮に、先方は行者ではないのに突然仏像をくれたが、何のためなのかを考えるといい。そなたが仏道修行をし始めるのを知って、一基の仏像をくれるのか。念仏し始めると知って、巨大な数珠をくれて、こうして多めに唱えられるわけがあろうか。どれも108粒だ。我らが閉関修行の時に、もしこんな巨大な数珠を持っていれば、どう唱えようというのか。10万遍も唱えるのに、こんな巨大な数珠をどう撥ねられようか。これこそ貪念だ。大きいのを持っていればいいと思い込んでいる。大きい物は、出家衆の首にかけて人に見せるものだ。こんなにも物を知らないそなたらを見て、私は突っ込まなくても残酷そうだし、正直な事を言ってもそなたらはまた口答えしてくる。リンポチェさえあんな巨大な数珠を持っていないのに、そなたはそれを持っていてどうするつもりなのか。それなのに、「多分私はよく仏道修行していると思われたから、これをくれたのだろう」と誇らしげに思うと、傲慢だ。観音菩薩ですら、こんな巨大数珠をもっていないのに。あんなのは『水滸伝』の中でだけ、魯智深が巨大数珠を武器として使っているようなものだ。そなたはそれでけんかするつもりか。それを返せと私は言っていないが、ただ物を既に受け取っているから、そなたは相手に借りがある。そなたは何を以て返すのか。だから、貪念を起さず、仏像なら自分でお金を使って買い求めるほうがいい。私が持っている仏像の一部は、むかし教派の成就者からもらったのもあれば、私が他の寺院にたくさん資糧を供養していたから、お礼に、記念としてくれたのもある。

本日の修法は比較的速かったから、四臂観音法相の意味を開示することにしよう。私の手元に、四臂観音のテキストが十数種類ある。四臂観音はチベット仏教でしか修めなく、中国・日本・韓国で修める大乗の中で、四臂観音を修めることはない。四臂観音だけではなく、報身仏を含め、あらゆる法身菩薩は五方仏帽を被っている。五方仏は五種の智慧を代表する。大乗仏法を修めるのは、物事を消滅させたり変えたりするのではなく、このいわゆる改めることとは、そなたの思惟モードを変えることだ。変えられないとする物もある。例えば、そなたは目で物を見たりするから、見るなと言われても無理なようにだ。そして、耳で音を聞くものだから、聞くなとなんて言っても無理だ。それでは、どうすればいいか。我らは取りも直さず生身を持って、眼耳鼻舌身意を持っているのも事実だ。大乗仏法は「転識成智」を重んじる。五智(ごち)は修め得るものではなく、そもそも我らの修行に差し障る意識を我らの修行に助けるように転じさせることだ。これが、大乗仏法と小乗仏法との、最も相違なるところだ。小乗仏法はひたすら禅定し、あらゆる眼耳鼻舌身意による感覚を切ろうとしているが、こんな修め方にはかなり時間がかかるほか、必ずしも成功裏に修められるとは限らない。

大乗仏法と金剛乗は、これらを修行する為のツールに利用しているが、これされあれば、必ず成仏できるとは限らない。我らが具備している眼耳鼻舌身意を五智にすることだ。もし、この五種類の智慧がなければ、そなたも菩薩道を行うことができない。誰しも「私は菩薩道を行っている」と自称しているが、実は、そなたはどう菩薩道を実践するかを学んでいるところであって、菩薩道を行っているという資格はまだない。人に念仏・礼拝・菜食を勧めることこそ菩薩道を行っていると思ってはならない。菩薩道を行うこととは、そなたの行為が菩薩と同様だということだ。菩薩のはどんな行為なのか。つまり凡夫の考え方を持たないことだ。四臂観音は五方仏帽を被っていることから、彼は法身菩薩で、五種類の智慧を具備して菩薩道を行っていると言う意味なのだ。この五種類の智慧は、即ち我らの眼耳鼻舌身意・未那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)に対処し、意識を智慧に転じると、これを利用して自利利他することができるのだ。

例えば、持呪する際に、必ず目・口・体・意識を使って唱えるが、どうやったらいわゆる自性念仏になるまで唱えられようか。それは想像して実現するものではなく、如何に智慧に転じて自性念仏を生ずるのかにある。自性念仏とは、自動的に唱えたりすることではなく、心が動じなければ念仏しようもないが、この動は清浄な動だ。そなたは五智の働きを弁えてから、この五智を用いて自利利他して修行することができる。私に智慧があるから、人より凄いというわけではない。この五智は、平等性智(びょうどうしょうち)・法界体性智(ほっかいたいしょうち)・成所作智(じょうしょさち)・大円鏡智(だいえんきょうち)・妙観察智(みょうかんざっち)とする。五智は、我らの阿摩羅識(あまらしき)・未那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)・眼耳鼻舌身意から転じたものであって、そなたらにゆっくりと解説するのなら、また多くの仏典に関わるような話になる。

「苦しいから仏門に帰依したい」という人もいるが、こんな人は大乗仏法に適していない。何故なら、そなたは自身の苦から逃避したいだけだからだ。菩薩道を修める人のほうは、逆に苦があっての修行で、苦が無くては修められない。逃避したいという心構えで帰依を請う人がいれば、私は殆ど弟子入りさせないようにしている。輪廻の苦がないよう追求してばかりいて、成仏・成菩薩の果を追求したくないからだ。その起心動念では、自分の一生は苦しいと思っている。何が苦しいというのか。人生とはそんなもんだ。旦那は話を聞かない、女房は話を聞かない・子供は話を聞かない・金儲けの途中に全部が水の泡になったりする・これらは、どの人も経験することで、経験したことがなければ、人間ではないということだ。そなたらは苦しいと思って、苦が欲しくないから、もう輪廻したくないなんていう者は、菩薩道を修める人ではなく、自了漢を学ぶ人だ。心の中からこんな苦しみを体得したくないようなら、衆生の苦しみを体得することもできない。自分自身に苦がなければ、別の衆生の苦を分かる余地があるのか。衆生の苦を知らなければ、如何に先方に苦から離れるよう助けられようか。だから、こんな話を言う人は、即ち、現実や自分の業力・因果から逃避する人だ。

四臂観音には腕が四本あり、真ん中にある両手で青い如意宝を持っている。身・口・意というのがあるが、四臂観音の「意」とは、そなたの意の通りに叶うことだ。例えば、万事そなたが菩薩道を学んだり、行ったりしたいという意であり、今生に仏果を証したり、西方極楽浄土へ往生したりするというような意を叶えてくれる。「観世音菩薩、私は大悲呪を唱えますから、どうか癌が消えますように」と、そなたが言うのなら、それは叶えてもらえないに決まっている。なぜかというと、そなたは因果を信じないからだ。その両手を胸の前に捧げたことこそ、観音菩薩の意を表していて、つまり、衆生に成仏・浄土往生させるよう助けることだ。そなたはこの二つの方向に向かって、修行を発願し祈願すれば、きっと観音菩薩はそなたの意を叶えてくれるに違いない。もし、そなたがこの方向へ進まないのなら、そなたが如何に求めても観世音菩薩は完全に相応しないこともないが、そなたの事を可哀そうに思って、たまに相応してくれる場合もあるかもしれない。

顕教では、腕四本は観音法門を修める場合、慈悲喜捨を修めるべきだということを表している。口答えをするなと言っているのに、そなたは口答えをしてくると、すぐ慈悲喜捨と関係がなくなってしまうのだ。テキストに、「願一切衆生具樂及樂因、願一切衆生離苦及苦因、願一切衆生不離無苦之樂、願一切衆生遠離愛憎住平等捨。」とあるが、これこそ慈悲喜捨だ。我々は慈悲喜捨を修める際に、また「破四相(無我相、無人相、無衆生相、無壽者相)」を修めなければならない。慈悲喜捨をどう修めようか。

慈――「願一切衆生具樂及樂因」。上師に口答えをすると、楽因がなくなることになる。そなたは「上師は言い間違えた。私はそういう意味ではない。」と絶えず瞋恚を起し続けるからだ。瞋恚を起すと、上師がそなたに楽の因が持つよう助けようとしたところを、そなたが口答えしてくると同時にそれがなくなることになるからだ。私は権威的ではなく、ただ仏法を裏付けにしてそうしろと言っているだけだ。どうして口答えするのか。瞋恚を起すからだ。誰でも学生・子供の時期があったが、親や先生に怒られた時に、自分が過ちを犯していないのに、どうして怒らなければならないのかと思った時があったはずだ。これこそ瞋恚だ。上師に口答えするのは瞋恚なのか。慈を修められるか。どうして私は終日叱っているのかと分かったか。瞋恚がまだあるかないかを試したいからだ。瞋恚があれば、私は法を授けない。

人は自分を保護する癖がある。「私はしてないのに、どうして私を叱るのか」。たとえそなたは本当にそうしていないとしても、過去世にこうしたことがあるかもしれないし、そして過去世のこれが原因で、過去世の怨敵がやってきているのかもしれない。また、リンポチェに叱られたことによって、たとえ怨敵に捕まったとしても、影響をだいぶ軽減している可能性もある。「願一切衆生具樂及樂因」。菩薩道を修める人として、衆生に楽の因を与えるよう助けたいし、楽とは何なのかと思い知らせるためにきっかけを与えたい。楽とは快楽ではなく、仏道修行・修行するという法喜だ、自分の将来は肯定的だと知って見通しがつくという法喜だ、自分の将来は不生不滅で、阿弥陀仏の身許に生まれるに決まっているのを知る法喜だ。現在、こんなにも皆に教えているのは、すべてこれが為だ。我々は自他交換といっている。菩薩は良いのを使ってそなたの悪いのと交換するのだ。

昨日ある弟子が途中まで口答えをしたことを例に取り上げよう。私が教えたのは良いことなのに、彼は私に向かって瞋恚を出してきた。私はそれを受け止め、怒らないし、それ以上叱らないでいたから、少し彼の顔を立てた。道理では、高座に座っている私は、口答えをしたそなたをさんざん叱ることができるはずだが、どうして私は叱らないでいたのか。それは、私は瞋恚を起さずに、彼から自分への瞋恚を受け止めたことによって、彼は瞋恚を半分まで起こしたところで、自分に間違いがあることに気づくことができた。これも私は彼からの半分の瞋恚を受け止めたから、彼も自宅に帰ってからじっくりと考えるようになるのだ。

願一切衆生具樂及樂因」。わざと何かをする、或いはわざと対象を見つけてするわけではなく、これはまさに我らの日常生活だ。そして、先方が甚だしく間違いを犯しても、先方に言わないでいるわけでもない。この楽は俗世間の楽・七情六欲の楽ではないと定義されている。仏道修行は、人間関係を学ぶのではなく、仏法における仏菩薩・上師とそなたとの関係を学ぶのだ。楽は永久不変の楽だが、密法では様々な解説があるが、今日は言わないようにしておこう。

願一切衆生離苦及苦因」。リンポチェはよく人を叱るのは、この一節の為だ。そなたらが何をするにしろ、何を言うにしろ、いずれも将来への苦しみが生じるから、そなたに苦の因を植え付けるのを阻止したり、止めたりして、そなたを苦から離れさせようとする。仏に礼拝するにしろ、持呪するにしろ、すべてこれが為だ。この苦の因が絶えず出ていれば、きっと得たものも苦の果となる。多くの人はひたすら求めれば、多くの物が戻って来ると思っている。そんなはずがない。苦の因をどうやってこれ以上生じさせないようにするのか。第一歩に、帰依することだ。それから、止まらずにし続けることだ。観音菩薩が数珠を持って絶えずし続けているようにだ。

願一切衆生不離無苦之樂」。これは衆生を済度させることであって、もし衆生を済度させることができなければ、どうして菩薩道を行っていると言えようか。不共四加行を求め得たら、菩薩道の始まりだと思ってはならない。何故なら、そなたにはまだ衆生を苦無きの楽を離れさせる能力や資格がないからだ。苦有りの楽とは何だろうか。輪廻のことだ。今、功名利禄やお金を与えたとしても、何れも一時的で恒久的でないものだ。お金を使い果たすと、無いし、感覚も過ぎると、ないものになる。私の著作『快楽と苦痛』に、苦痛はどうやって現われたのか、それは快楽によるものだとある。快楽を追求すれば苦痛が生じる。阿弥陀仏の身許では、六道におけるすべての苦がなく、何も彼にも煩わす必要がなく、ひたすら修行するのみだ。かりに衆生を浄土へ行かせる能力がなければ、菩薩ではない。

願一切衆生遠離愛憎住平等捨」。どうして衆生に苦があるのか。それは彼らには分別心があるからだ。彼は愛を得た時に、いわゆる愛というのは恋愛とは限らず、彼の好み、彼が望みたいことだから、永遠にこんな感覚を保ちたくなっている。だが、恒久のことはなく、全ては無常だ。いつかこの快楽や愛の感覚が消えるようになった頃、彼はこんな感覚を保とうとし始めると、こんな快楽を得続けるように、悪をなしたり、人を傷つけたりするようになる。憎とは、嫌いや気に入らないことだ。我らはややもすればとある物や人が嫌いになるし、知らないうちにその人と距離を開けるようにしている。だが、菩薩道を修めることからみると、我らは五智を修め、識から智に転するべきだという。そのうちの一つの平等性智・妙観察智はまさにこの一節の通りだ。「平等捨」とは、嫌いにならないことだ。もしそなたは「遠離愛憎住(停止)平等捨」を成し遂げられず、好きなのをどうしても欲しがっていれば、もうお終いだ。

しかし、「私は苦行したい。良くないのは全部欲しいし、好きなのは全部要らない」というのも行けない。簡単に言えば、最後のこの一節は、無常を理解してもらうことであって、全ては縁生縁滅によっていて、現われてもいいし、得るにしろ、失うにしろ、何れでもいい、どれも「愛憎住平等捨」にするべきだ。捨とは、執着しないことで、捨てることではない。この一節はどうして存在しているのか。「愛憎住平等捨」が出来なければ、往生する際に苦がやって来るようになる。そなたの好きな人や事に執着し、また、そなたの好きでない人や事が現れたら、そなたは嫌がるから、ついに浄土往生が叶えなくなるのだ。

「私にこんな考え方があっても、リンポチェさえ修法してくれれば、私は行けるだろう」と思ってはならない。行けないのだ。この場合、高々人道までだし、また生前に供養が多くて大きかった人でも、せいぜい天道までだとされる。阿弥陀仏の所へ行くのに、執着せず、阿弥陀三尊・上師を篤く信仰する必要がある。何か雑念が混ざると、つい行かれなくなるから、生前から自分自身をよく訓練する必要がある。現在の好き嫌いを全部捨てろとは言っていない。そうするのも間違いだ。何故なら、因果を信じないからだ。常に平等心で向き合うべきだ。家に何かが有っても、何も無くても、平等心で向き合う。調整出来れば、できる限り調整するし、調整が出来なければ、しょうがないことだ。業力・縁なのだ。

以前、私も食事に事欠くほど貧しい時期があったが、そなたらのように一日中、菩薩に「ご飯ください。どうか債務を返済し切れますように」なんて求めていなかった。どうして求めないのか。自分の果報・業力だと信じているからだ。因果だと信じていれば、いったん果が成熟してから、また別の因が訪れるようになる。「先方が私をいつも煩わしている」と言う人もいるが、せいぜいそれはそなたの今生が終わるまでであって、後世にはもうそうはならない。最近、子供が親を、或いは孫が祖母を殺したというニュースが有るが、何れも殺業が重いことを表している。彼ら自身も因果を信じず、自分らの業力を転じようと努力をしてみないから、業が成熟した時に、事件がこうして発生するようになった。それに加えて、小さい頃からよく教育してあげていないせいもある。

『地蔵経』曰く、子供が過ちを犯した場合、両親には責任があり、ひいては両親は地獄に堕ちるとまで言う。「子供は昔過ちを犯したが、今は改めるようになった。きっと私がよく修めたお蔭だろう」と言う人もいる。そう思っているそなたは間違っている。そなたは社会に危害をもたらした子供を育てた以上、何を以て人々に返そうというのか。仏家思想はおろか、儒家思想も「子供の非は父の過ちなり」と言っている。何を根拠に、子供が読書したり、技術を習って正常な商売をしたりすると、自分がよく唱えたお蔭で、彼は改まった、よくなったと思えるのだろうか。『地蔵経』では、そなたは責任を取れと言っているのに。子供が生まれる前によく仏道修行せず、妊娠の時に肉を食べ、子供が生まれた後も肉を食べ続け、子供を小さい頃から宝物のように扱っている。旦那のほうの家族が子供を甘やかしているから、どうしようもないという人もいる。それにしても、そなたは教えられるのではないか。子供を連れて私に会った一部の人が私に怒られたのは、まさにこれが原因だ。

「子供の為を考えているのに、どうして私を叱ったのよ!」。子供の為を考えない親はいない。だが、そなたの子供がした事が、そなた自身の能力範囲、彼自身の能力範囲を上回ったから、彼ができるように、そなたは仏菩薩に頼みに来ている。これで、まだ過っているのではないというのか。「私の子供だから、必ずどうなるべきだから、どうか手伝ってください」なんて、何と言っても親の過ちだ。私の子供は仏道修行はしないが、少なくとも、今まで社会に危害をもたらすようなことをしていない。だから、我らは仏法を通して自分自身を見直すべきであって、ひたすら「仏菩薩、私は懺悔します」なんて言ってばかりいるのではない。懺悔したら、そなたは責任を取るのだろうか。かりにそなたの息子が人殺しをしたとして、そなたは喜んで命を以て償うのか。喜んでするわけないだろう!そうであれば、そなたは何を以て償うのか。法会に参列するだけで帳消しになるわけにはいかないぞ。徹底的に懺悔すべきだ。そなたにとっては、今生はもう何も取りたてることがない。というのは、そなたはこの債務すら返済し切れないことだ。

ミラレパ尊者は母親を孝行する為に、財産を奪いに来た親戚らに対し、ボン教の法を施して大勢を殺したことのようにだ。彼は過ちを知って、マルパ尊者に成仏の法を授けてくださいと法を勧請した。何故なら、成仏だけでしか業力を変えられないからだ。とはいえ、因果はまだ残っている。よって、ミラレパ尊者は有名ではありながらも福報を持っていなかった。彼は生涯に渡って、ラプキ雪山に籠っていて出てこなかった。複数の国王に誘われても、彼は一貫して出ないようにした。何故なら、上師は生涯に渡ってそこを出るなと言い付けられたからだった。そこを一歩出ると、多くの事が発生するようになる。なぜかというと、ラプキは勝楽金剛の壇城であって、彼が勝楽金剛の壇城の中に住んでいるからこそ、自ずと多くの保護を受けることになる。

ポイントはミラレパ尊者は話を聞くことにある。たとえマルパ尊者が居なくとも、彼はなお話しを聞き、いくら多くの国王に誘われても、彼は一貫して離れようとせず、こんな方法で債務を返済していた。返済しているのかと自分自身に聞くといい。まだ今でも楽しく暮らし、なんとかしてもっと儲けようとし、今後お金が持ちになり息子に渡せば、息子はもう悪さをしないだろうと思うなんてこんな心構えは間違っている。私は仏法を根拠に言っているが、そなたらの天倫を離間させるものではない。『地蔵経』では明瞭に言っているのに、私はそれを誤魔化そうとする必要があろうか。

(リンポチェは出家衆を指名して、そなたらは『地蔵経』を頻繁に唱えているようだが、その中にこの部分について触れたかと聞いた。最初に聞かれた出家弟子に対し、リンポチェは「日頃はよく話すが、今は話せないのか。後ろに座れ」と指示した。二人目に呼ばれた出家弟子は、まさに『地蔵経』での宣説は、リンポチェがさきほど開示された通りですと答えた。)

我らは四臂観音についてしっかりと弁えてから、自分の今の所作は観音菩薩と関係があるのかと見極めるべきだ。もし、そなたの所作は観音菩薩と遠くかけ離れていれば、そなたは観音法門を修めていないことを表している。持呪すれば修めているわけでもないし、一杯の水に向かって唱えたりすればそれが大悲水になるわけでもない。よって、四臂観音を通して、四臂観音において修められるものだが、そなたには修められるものかを見抜くことができる。成し遂げられなくてもいいが、それを目指して進むべきだ。もし、それを目指さないのなら、たとえそなたが観音法門を求め得て六字大明呪を唱えたとしても、成功裏に修めることができないとされる。何故なら、そなたにはこのような思想がなく、ひたすらご無事を求めていて、皆が唱えている以上、私も唱えたいと考えているに過ぎないからだ。

ご無事を求めるのも多少効くことは効くが、修行にとっては役に立たないことだ。幾つかのレベルに分けて言うと、一つ目のレベルは、一般信者が六字大明呪を唱える場合になる。まるで、かつて竹旺仁波切が何も法を授けず、ひたすら大衆を率いて六字大明呪を唱えていたようにだ。もちろん、灌頂も伝法もせずにいたが、彼は末法時代での衆生の機根が良くなく、六字大明呪を唱えることによって、少なくともそなたの今生の仏道修行への業を少しでも減らすことに役立つし、そなたの後世の業にもプラス効果があると知っているから、六字大明呪を唱えろと皆に勧めていたわけなのだ。

観音法門まで修めたいのなら、まず六字大明呪を唱える心構えと道理をしっかりと把握する必要がある。もし、我らは慈悲喜捨を修めず、ただ六字大明呪を唱えているだけなのであれば、、我らの人生に少し助けにはなるが、修行と全く関係がない。慈悲喜捨を修めるのは、一日二日にしてできることではない。何故なら、そなたら皆は慈悲よりも感覚を重視する人だから、成功裏に修められないからだ。とはいえ、いったんそなたがし出すと、ゆっくりでも積もれば、きっといつか自分が実践しているかどうかが分かるようになる。


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2022 年 05 月 08 日 更新