尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年11月28日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十九「不動如来会第六之一」を解説された。
前回は不動如来が成仏する前に発された誓言の「菩薩は諸の衆生に於て瞋害の心を生ぜざる故なりと」まで解説した。この「瞋」とは、癇癪を起したり、他人を叱ったりする状況を指すのではなく、それは単に情緒不安定に過ぎない。いわゆる「瞋」の根本はそなたらの貪念から生じるものであって、貪念が起きて、何かを失ったと思うと、瞋恚の心が生じるようになるのだ。他人のせいで、そなたに何かを失わせると思うから、「全て彼のせいだ。彼がいなければ、私もこんな目に遭わなくて済むはずだった。」なんて言う。この種の話は瞋恚に属する。もう一種類は、欲しい物が手に入らなかった末、貪念が起きるとそれを壊すようになるというのもある。「私の物にならない以上、誰の物にもさせない」。よって、瞋恚の心は基本的に貪念から始まるものなのだ。
この時、ある弟子は法会に集中せずに鞄の中を整理しており、さらに音を立てて邪魔になった。後ろに座れ、今後密法の伝授をしないとリンポチェは指示された。
リンポチェは「この人は仏法よりも自分の物のほうが大事だと思っている」と開示された。何で前もって片付けておかないのか。集中していないのだ。誰もが自分には瞋恚の心がないと言っているが、実はだれでもある。もし、瞋恚の心があんなに簡単に解決し得るものだったら、不動仏はとっくにこの話をしないでいるのだ。我らに少しでも嫉妬の心・求めても得られない状況・貪念を起すことがあれば、全てが瞋恚の心の本となるのだ。こんな貪念が重ければ重いほど、瞋恚の念頭も重くなるから、やがて一切の有情衆への傷害に繋がることになる。傷害とは、必ずしも先方を殺害したりするとは限らず、言語・動作・表情などの場合も含める。皆さんは学校に通ったこともあれば、働いたこともあるが、出家衆を含め、恐らく誰でも次のような念頭を起したことがあるのではないか。人から不親切にされても、そなたは反抗せずに黙っていたが、心の中では、「この人は因果を信じなく、恐れることが何一つとしてない。彼を因果が懲らしめてくれる時を待とう。」これこそ、瞋恚の心だ。自分自身は因果のことが分かっているつもりか。そなたらはまったく分かっていないぞ。
瞋恚の心が起きると、いわゆる「功徳林を燃やす」ことになる。仏典にはよく「功徳林を燃やす」と説かれているが、それが癇癪を起すことだとよく勘違いされるが、実はそうではない。癇癪を起すことは、情緒不安定で体の状態に関わっているものだ。ポイントは、仇討ちするという心・人を恨むという心・人が自分に対して落ち度があると感じるような心・自分が被害者という心があれば、全て瞋恚の心だ。これもそなたらが私にあれやこれやと説明している際に、これ以上私に言わないでくれという理由なのだ。あれやこれやと説明したいということは、自身が正しく、私が正しくないという表れなのだ。
仏道修行した以上、因縁法を信じるべきだ。因縁なしには、出来事は発生しない。だから、事件の発生に対し、そなたには半分の責任に至らなくても10%から40%の責任があるのだろう。現代社会では、自分の非を認めない傾向がある。それを見ている側は見れば見るほど怒ってしまい、いつか彼がとんだ過ちを起してしまうのを願うようになる。過ちを犯した人は自分に間違いがないかのように説得するために、言葉を以て説明する手段を取る人もいれば、人を制するような動きをし出したり、先方から自分に非がないことを認めさせるように先方をやっつけたりする手段を取る人もいる。何が何でも他人のせいだと思うと、それは瞋恚の始まりだ。そなたが出家したかどうかに関係なく、皆がこんな間違いを犯しがちで、つい犯してしまうぞ。
何をされても受け入れるしかないのか。そもそも菩薩道を修めることは何をされても受け入れるのだ。何から何までそなたの業力によるのだ。いわゆる「何をされても受け入れる」ということは、完全に仏菩薩からの助けを求めないのではなく、仮に道場に何か問題があってよくない業力が発生した場合、この業力を減少させるよう我らは仏菩薩からのお助けを祈り求めることができる。多くの事は、本当にご自身の業力に関わっているのだ。
何年も前だが、私は事故に遭ったが、相手はテレビで公然と私を誹謗した。相手に何とか対処しなくてはならないと、一部の弟子は言ったが、私は彼等を止めた。そして、「私が成仏してから、最初に度する人はこの人だ」と発願した。この願を発すと、この事は一変した。少なくとも私は仏道修行している。そなたらは敢えてこんな願を発せないが、せいぜい根に持つ心を無くすべきだろう。誰かにどうされたとしても、きっとそなたの過去世に関わっている。必ずしもこの人とは限らず、別の事に関連するかもしれないが、そなたは必ず人に対して同じような事をしたことに違いない。それで、今生にこんなことがあるようになったのだ。
『宝積経』の中には、釈迦牟尼仏はかつて開示されたことがあるが、家にいる眷属を債務の取り立て・獄中の見張り番と見なすべきだという。それは、まさにこんなことに由来しているのだ。修法の際に、テキストの最初に四無量心・慈悲喜捨、最後に愛憎住平等捨をひたすら唱えることは、我らの瞋恚の心に対処する為なのだ。いわゆる愛とはお気に入りのことで、憎とは望まないことだが、それらをそなたの心に平等に住させて捨するべきだ。どうやって捨てるのか。執着せず、ひたすら好きなことだけを追求しないことだ。
どんな人が瞋念を起しやすいのか。小さな利益に囚われる人がだ。どうしてか。それは小さな利益に欲を出すのに慣れていて、何から何までうまい汁を吸おうとしているからだ。だが、ある日人にうまい汁を吸われたと感じれば、「うまい汁を吸うのは私からあなたにすることで、私がされた以上、何とかしなくてはならない」と思うようになることこそ、瞋心だ。六波羅蜜の一個目が布施になるのはどうしてか。決していくら出して欲しいのではなく、それは布施があっての捨だから、もしそなたらは布施を惜しみ一銭を百万のように扱うと、間違いなくそなたの執着が重いわけだ。ささやかな事をされただけで、相手に根に持って、何とか仇討ちしようとするのなら、言うまでもなく瞋恚の心だ。これらは全て日々の生活の積み重ねからできたものなのだ。
皆もきっとニュースで見たことがあると思うが、買った飲み物が半分少なかったことなんかもニュースになった。半分少なかったら、今度から行かないようにすればいいのに。今後、何も話さず黙っていればいいということなのか。そなたらにしては、さすがに話さずにはいられないのだろう。そなたらはその店へ行かないようにというだろう。何故なら、そなたらは人にうまい汁を吸われることは許さないだろうし、それも(店を)見極める前から買ったり、口コミを聞いて買ったりしてしまったとも言えるからだ。こんな瞋恚の心はきっと小さな利益に囚われることから、欲張りから出ているに違いない。貪念が軽めの人はあまり瞋恚の心を起さず、損することが決まっていれば損しようと思う。そなたらは何でもするが、損だけはしない。人から少しでも利益をもらったら、法を触れることすら大したことではなく、ついて同行してしまう。大事は小事が積もってできるもので、我らが菩薩・仏に成るまで修め得られるのも、小さな善から重ねていくものなのだ。逆に、悪も同様で、小悪から積もるのだ。悪を働くことに慣れてしまうと、そなたはだんだんと悪になる。それに対して、善を行う習慣を身に付けると、そなたの全てが善になる。ご自身の所作によるのだ。
多くの人は、リンポチェからの加持ばかりを求めているが、自ら実行しようとしない。こんな場合、加持しても効果が出ないぞ。自分が大人しく、ちゃんとルールを守っていると思ってはならない。小さな利益に囚われたり、隙に乗じて自身の利益を狙ったりすることはないかと、自分自身を検証するといい。他人の動きをちょっとでも気に入らなければ、睨んだりしていないか。こんな人は、後世に龍になるに違いない。何故かと言えば、龍はよく睨むからだ。絵に描かれた龍はみな睨んでいるではないか。段々とそなたの目も、人を睨む龍の目になるのだ。そなたがケチで、損はしないで、うまい汁を吸おうとすると、他人が何をしようとそれは自分を傷つけてくると解釈するようになる。相手の行為は全くそなたを傷つけようとしないかもしれないのに、そなたの敏感さによって傷つけてくるように思ってしまうのだ。どうして敏感になるのか。損する、他人にうまい汁を吸われる、人に卑しまれるのを心配しているから、そなたは余計に苦しくなるのだ。何から何まで一位を争いたいからだ。だが、一位はそんなにいるのか。全てが日頃の積み重ねになるのだ。瞋害の心があれば、成仏するどころか、人道に成る資格すらないぞ。
十善法に不貪・不瞋・不痴がある。瞋恚があんなに重くては、後世に人間になるわけにはいかないだろう。後世に人間に成れないようなら、今生もきっと上手くいかず病を患ったままで、死後三悪道に堕ちるに違いない。ひたすら仏に頂礼し、仏道修行し、持呪し、ひいては出家すれば、きっと人天道に生まれ変わると思ってはならない。必ずそうなるとは限らないのであって、全てそなたの心に左右されるのだ。
不動仏はまず「瞋害の心を生ぜざる」ことを説かれる。「生ぜざる」こととは、行為がないことを指すのではなく、そなたのあらゆる思想が清浄で善である場合、こんな衆生への瞋害の心を生じることにならない。悪口・悪言・批判などを含め、すべて瞋害の心だ。特に女の人にありがちだ。皮肉な言葉も瞋害の心と言えよう。そなたらに話させないのではなく、常に自分自身の心に気を配るべきだ。ひょんなことで瞋害の心が起きると、そなたが持する呪文に慈悲がなくなってしまうからだ。慈悲がなければ、衆生済度するどころか、ご自身の細胞・細菌はもちろん、そなたに関わった全ての衆生を度したくても度しようがない。
仏道修行が難しいと思う人が多い。本当にそれは困難だ。何故なら、我らは瞋害の心のある社会・家庭・学校・友達に身を置くのに慣れており、それに慣れてしまうと、こんな感覚がつい現われたりするようになるから、かえってどうして自分がこう思うのかと振り返って思考することがなくなるからだ。
遡ること20数年前、当時私はまだ仏道修行をしていなかった。ある友達のお母さんは癌に罹ったが、まだ健康保険がなかった香港では、癌は慢性疾患に属し、無料の病室には入れないとされた。彼には自分の母親を入院させるお金がなかったため、私は父親の人脈を使ってそのお母さんが慈善病院に入れるようにした。無料だった。慈善病院は急性疾患に限って入院患者を受け入れるが、慢性疾患のを受け入れていない。のちに、そのお母さんが亡くなり、葬儀費用は私が出したし、彼が結婚した時に、披露宴を開くお金がなかったときも、私が出した。更に、彼の仕事も私が紹介したのだ。その後、出世した彼は、私と同じような店を経営し、しかも私の社員まで引き抜いてしまった。そなたが私だったらどう思う。ご馳走してあげたのに、彼に社員を引き抜かれた。あなただったらどうする。第三者からこの話を聞いても、私はそういう事がないかのように黙っていた。この友達はこうしていいと思えば、好きなようにさせようと私は思った。あの時、私はまだ仏道修行をしていなかった。このことを通じて、この友達を見極めたし、それらの社員に至っては、私について仕事をし続けるつもりがないことを思い知らされた。引き抜かれてもそれでいいし、私には瞋恚の心がなかった。結局、彼の事業は私のよりも早く潰れたのだ。私は完全に彼を呪わなかった。
そなたらは既に仏道修行を始めたのに、まだ瞋害の心を持っている。上師にすら瞋念を起すのなら、何を学ぼうというのか。こんなのではダメだ。慈悲喜捨は、毎日少し唱えるだけでいいようなものではない。『金剛経』にある「破四相」とは、「慈悲喜捨」以外、何れも「人相・我相・衆生相・寿者相」を破れる法門がないことだ。「慈」とは、自身の良いのを差し出して、良くないのと交換することだ。そなたらはできようか。もはや出来るか出来ないかというよりも、考えるに考えられないことだ。「悲」とは、衆生に彼岸へ行かせるよう助けることだ。「喜」とは、衆生を永久に輪廻しない境地に住ませることだ。「捨」とはあらゆる執着の心を不要にすることだ。こうして、四相を破られるのだ。四相を破ってはじめて空性を体得し、如何に仏法を活用して広大なる衆生を利益するかと分かるようになるのだ。そなたらが思うような「上師は伝法して、私は毎日すれば、きっと成功裏に修められる」ということではない。もしそうだったら、釈迦牟尼仏はとっくにそんなに言い聞かせておかなかったのだろう。
最近、自利利他したいと言って法を勧請した人がいるが、私は彼がどのくらいの者かを知っていながらも、わざと法を授けてみた。その後どうなるかを見てみようと。どうしてか分からないが、彼は何をやろうと修め得られていない。それは、基礎が固まらず、顕教の基礎をしっかり固めなかったからだ。密法を身に付けたいと思うよりは、話をしっかりと聞くべきだということを皆に勧めたい。リンポチェの誓言は衆生を成仏させるよう助けることだ。衆生を成仏させるよう助けると言った以上、私の帰依弟子は必ずどうなるかと保証することはどうしてもできない(それは仏菩薩を頼りにすることだから)が、少なくともそなたが話を聞けば、三悪道に堕ちることにならないと言える。だが、そなたらは話を聞かず、上師の言うことに従わずに、自ら成功裏に修められると願っている。私が何と言っても、そなたらは聞き入れようとしない。直貢噶舉八百数年の歴史の中、今生に修め得られ、転生ではない在家の漢民族のリンポチェはたった一人だけだ。そなたらは、何を裏付けに自ら修め得られると言えようか。
現在、開示しているのは『宝積経』の二冊目に当たるが、きっと私は今生には全部を開示し切ることはないと信じている。恐らくそなたらは仏法がこんなにも浩瀚でどうしようと思うだろう。どうやって学ぼうか。だったら、じっくりと学べばいい。少しずつ蓄積していくことによって、きっといつか結果が出るから、急ぐ必要などない。今生に(仏法を)はっきり分かりたいと思う人もいるだろう。だが、そなたらにしては今生に三悪道に堕ちないか、阿弥陀仏の所に行けるか、もうはっきりしているのだ。そなたは今生に悟りを開きたいのか。そなたらにこんな資格なんかない。そなたらを見下げるわけではないが、一にそなたらにこの福報がない、二に決心がない、三に自身の命を大事にしているからだ。このままでは、どう修めようと言うのか。
ご存知のように、私は出血して死にそうになっても、なお修めており、衆生利益を一刻でも停止したことがない。既に74歳にもかかわらず、私は歩くのが早く、そなたらなんか私に追いつくはずがない。リンポチェの歩みに追いつかないと思われる以上、それで良かれと思う。歩みの速さに伴って風が立つし、皆がその風に従って歩けば、私は導くぞ。自分に振り向けるように毎日唱えれば、いつか悟りを開き、功徳・福報があるようになると思ってはならない。それは有り得ないことだ。私も信者から修め得られた類のもので、転生されたものではないから、よく知っている。私は常々言っているように、私が顕教を学んだ時、仏道修行のお勤めに一日に三時間もかけたが、そなたらは成し得ているのか。成し得ないというのであれば、一日にせいぜい3000遍の六字大明呪を唱えるぐらいで何もかも最善に良くなって欲しいなんてことをどうして言えようか。又は、お香を焚いたぐらいで、何もかも得られるわけにはいかないだろう。
不動如来の説かれた瞋恚の心について、私は少し多めに開示した。仏典には「瞋害の心」とあるのみだった。どうして仏典ではあんなにも簡潔に説かれるのだろうか。それは仏典の始まりにも言い及んだように、仏は阿羅漢を対象に開示されたのだからだ。そなたらのうち、自分が阿羅漢だと言える人は居ろうか。阿羅漢でない以上、仏典はそなたらにとって奥深い物なのだ。何故かと言えば、そなたらは煩悩すら断ち切っていないからだ。そうなのに、どなたも傲慢でたまらない。後ろの部分で不動仏も説かれるが、少しでも傲慢の心があったら、成仏は出来ないという。自分が毎日ひたすら唱えたり、毎週法会に参列したり、開示を聞いたりすれば、きっといつか出来るようになるだろうと思ってはならない。
仏法の浩瀚は人の心について語るところにある。仏典では、人の心はまるで絵師(絵を描く先生のこと)のように、思い当たるだけで描けるのだと言っている。我らの心はまさにそうだ。毎日、自分らの思い当たることばかり描いているから、それは複雑なのではないか。仏も衆生の心が不可思議だと仰せになった。何故なら、衆生の業力があまりにも複雑すぎることにより、その心が思っていることも複雑で不可思議なのだからだ。我らはまず自分が複雑だということを認めるべきだ。そなたらは誰一人として純粋な者はいない。帰依し仏道修行すれば純粋になると思ってはならない。そなたらは仏道修行してからいっそう複雑になっている。仏道修行する前には、仏法をよく利用して自分が良い人のように勘違いさせることはまだなかったが、仏道修行すると、これを加えて自分が仏教徒と名乗り出すようになる。これはダメなのだ。自分が自分を複雑にすると、仏が仰せになった簡単な話はかえって分からないことになる。何故かと言えば、そなたは複雑さに馴染み、複数の思惟モードで物事を考えていることに慣れているからだ。
実は、行者にとって、仏の説かれた瞋害の心を生じないことを聞くと、余分な説明が要らずにすぐ何の話を指すのか分かるものだが、そなたらにしては、この先10年間言い続けても瞋害の心を持ったままなのだ。また、自分はそうではないよと反論するだろう。どうして瞋害の心を起すのか。子供が自分にぶつかったやら、夫が邪魔になったやらと思った時こそ、瞋害の心なのだ。特に女性はこの点について留意するべきだ。とりわけ嫉妬心が起こりやすいからだ。息子が嫁をもらわないやら、嫁をもらったら息子を失うやら、夫が儲けられないやら、夫が女の人に魅了されて不倫するやらを心配すること全てが嫉妬心の範疇だ。こんな心持があれば、瞋害の心はつい起こるようになる。
多くの人は20時枠の連続ドラマやニュースなどで、男の人に不倫相手が出来たのを見ると、怒って叱るようになっているが、正直に言ってそれはそなたと何の関わりがあるのだろうか。自分に関わりがあると思う人等は、いつも自分はきっと被害に遭うと思っているからだ。テレビを見ないならまだましだが、テレビを見ていると、夫に向かって「お前ら男の仕草だ」と言ってしまうだろう。だが、そなたは過去世で男になったことがないと言い切れるのだろうか。こんな瞋害心は嫉妬から始まったのだ。だから、決して人を嫉妬してはならない。全ての物事に必ず因果があるから、慎重に行動しなければならない。小さな利益に囚われないことに、常に注意すべきだ。自分自身の悪を沙のように積んでくれ。良いのを積むが、良くないのを積まないことだ。ちょっと念頭を起しても平気だろう、またリンポチェに説明すればいいだろうと、自分自身を放縦してはならない。自分自身を改めていなければ、説明する余地があろうか。リンポチェの過ちだと言う風に説明するつもりなのか。そうだったら、なおさら私の弟子を務めないでおいてくれ。
最近、ある弟子は私からの加持を求めたが、私は加持しようとしなかった。すると、彼は組のリーダーに電話して、自分は毎月お給料を使い果たす連中で、リンポチェを供養したくないのではないと言った。どうして説明する必要があるというのか。リンポチェが彼からの供養に目がくらむと思うのか。先月、ある弟子は大金を供養しようとしたが、私はそれを受け取らずに、自分の父親に供養してくれと彼に言った。先週も、供養したいという弟子がいたが、同じように私はそれを受け取らなかった。仏法で言えば、上師は父親より大切なのだ。何故なら、父親はそなたに生身だけしかあげられず、法身をあげようがないのだ。
お給料を毎月使い果たす(台湾ではそれを月光族という)と言う人は、今後は毎月底をつくぞ。自分が自身を呪ったからだ。そして、後世も月の裏側に当たる光のないところに生まれるようになるだろう。月は毎月一日だけしか満ちた状態で輝かず、彼は上師を騙して三昧耶戒を破ったから、成仏できなくなるのだ。彼は上師に対して瞋恚を起し、全てを人のせいにしている。仏の智慧は円満且つ完璧なものだから、言い出された話に絶対に欠陥がないとされる。だが、仏が正しくなく、自分が正しいことを証明するため、わざとその中からあら捜しをするそなたは、果たして何のために仏道修行しているのか。よって、もし自分自身が瞋害の心を起さない訓練をしなければ、いくら仏道修行をしたとしても意味がないのだ。
この話は非常に重要だ。ちょっとした小さな利益に囚われても支障がないだろうと決して思ってはならない。いったん小さな利益を貪ることに慣れたら、いつか人がくれなくなると、恐らくそなたの瞋害の心もつい起きてしまうのだろう。不動仏の発された願は我ら一般人のなし得ることではないが、仏道修行した以上、仏を見本に倣うべきだろう。現時点では、全く同じように倣うことにならないとしても、せめてそれを目指し常に自身を戒めるべきだ。
少し前に、仏の仰せになった「諦に聽け、諦に聽きて理の如く思惟せよ。」というのはまさにこの通りだ。「諦に聽け、諦に聽きて」とは、心を配って聞くことだ。「理の如く思惟せよ」とは、仏法の道理を以て、自身の身口意が仏の説かれた事と相違があるかどうかを思惟することだ。もし、相違があれば改めるほか仕方がなく、自分自身にいかなる理由、釈明も許さないことだ。
近頃、直貢梯寺に壇城を作るにお金が必要だとして、私は直貢梯寺を護持している。実は、そなたらからの供養は、こちらに届いた途端にすぐ差し出して、多くのことに使われている。六波羅蜜の一個目が布施だ。お金で仏法を買うのではない。もし仏法がお金で買えるものだとすれば、地球中のお金を集めても買えないのだ。しかし、我らの出し惜しまないところが肝心だ。2005年から、そなたらは道場でテキスト・ベスト・識別カード・子供を忘れたりするが、お金だけは忘れない。このことから、そなたらにとってお金がどれほど大事なのかが分かったし、同時に布施の心の無さ、仏法を重要視していないことも分かった。こんなのだったら、どう学ぼうというのか。
経典:「世尊、我れ今此の一切智心を發して是くの如く廻向せんに、其の中間に於て若し聲聞・獨覺の心を發さば、即ち一切の諸佛を欺誑すと為ん。」
彼が一個目に発した願は衆生に瞋害の心を起さないことだ。二個目の願としては、生じた空性の智慧を全て廻向することだ。もし、まだ成仏していない間に、独り善がりに阿羅漢を修めるのなら、「即ち一切の諸佛を欺誑すと為ん」のだ。
自宅で唱えるのが好きで、(道場に来ての)持呪や朝・晩のお勤めに参加しない人たちは、皆こんな心持がある。閉じこもって自宅で唱えることに慣れていて、道場での共修が好まない人らは、今後、自分を修めればいいという考え方が生じやすい。自分を修めることは、エゴだ。エゴな人は大乗仏法・菩薩道・成仏の方法とはちっとも関連性がない。なぜかと言うと、在家衆の我らには、阿羅漢道を修めるに足る資格・条件・場所と環境がないからだ。もし出家衆が大乗仏法を学びたい場合、この念頭さえも持ってはならない。閉じこもって自身を修めるやら、外で何があろうと関心を持たないやら、他人が怒鳴り合っていても自分と関係ないやらという考え方を持ってはならない。
今後、寺院が建てられてから、出家衆が住むための僧房がありものの、そここそ彼らが閉関する場所とは限らない。僧房で一千万遍を唱えたとしても閉関とは無関係だ。必ず閉関の中で唱えなければならない。しかも閉関するには、必ず上師からの許可を得なければならない。好きなだけ行けるということではない。
この一節は重要だ。成仏するには、心にこんな念頭を微塵たりとも起してはならない。し出すことを指すのではなく、念頭を起すことを指すのだ。菩薩道を行って衆生済度する人の場合、退転しやすい。何故なら、これだけの衆生がいくら度されても相変わらず全く進歩を見せないからだ。あたかも私が皆を何年も度しているのに、そなたらはまだ様変わりしないようにだ。少しだけ彼を試すと、すぐ電話がかかってきて弱音を吐くのだ。彼には洋服・ブランド品の靴を買ったり、移動・娯楽をしたりするお金があるのに、供養するお金だけがない。私が彼の母親を救った時、一銭ももらわなかったが、あれから20年も経った今また蒸返すのは、彼には布施の心がないと知っていながらも、わざと彼を試す為だった。彼は自分の過ちを認めず、電話すらして説明したことを通じて、彼にはともかく声聞縁覚を修める資格もなく、餓鬼道を修めることが分かった。
私は法を学ぶ当初、所持金1700元あまりであったところを手数料に1500元を出したが、そなたらならきっと食事するお金がないやら、仏道修行はゆっくりでいい、そんなに急ぐ必要がないやらと思って、とっくやめていただろう。私の顕教壇城に安置された最初の仏像は、チェツァン法王を紹介してくれた親友が私を連れて買いに行ったものだ。あの時、車での移動中に、彼は私にいくら持っているかと聞いて、私は3000元と言った。そして、彼は仏像を買い求めに連れて行ってくれると言って、私は仏像の買い求めに2800元を使った。そなたならきっと1000元を出して、小さなのを買い求めるのだろう。これも私がリンポチェに為れて、そなたらが下に座って諭される所以なのだ。
仏祖よりもお腹を先に世話しようと、そなたらは言うのだろうが、仏祖はそなたらから世話される必要などない。『阿弥陀経』で明瞭に説かれているが、阿弥陀仏浄土に往生すると、食事したい時だけそれが現われたり、金色の茶碗と銀色のお箸を使ったり、そして食べ終わるとそれが消えたりするから、食器を洗う必要なんてないという。肉以外、食べたい物で無いものは無い!だが、そなたらはこれだけは求めないようにしている。これは、そなたが生前に供養・布施・修行したことによる福報なのだ。『阿弥陀経』にも受用はいいが摂取してはならないとあるから、こんな物を享受する福報がありながらも、自分の物にすることはない。
この一節は極めて明白に説かれている。修行の途中に、厳しく監督してくれる上師がいなければ、そなたはつい道を逸れがちになり、複雑なことがなくとも、ちょっとだけで逸れてしまうからだ。仏典によれば、八地菩薩になるまでは菩提心が退転しやすいとするし、菩提心が退転すると声聞縁覚を修めることが多くなるという。何故なら、煩雑すぎると感じて、自分が成功裏に修めてから、他の人を度しようという考えになるからだ。だが、本当はそんなはずではない。
以前、私が顕教を修めた頃、一度こんな境地に陥って、自分がよく修めればいい、この世間は度し難いと思ったことがある。観世音菩薩は慈悲深くも、私にある夢を見させ、絶えず衆生利益すべきだということを知らせたから、私の心構えが上手く変わったのだ。これは単なる念頭一つの違いだけなのだ。そなたらには衆生済度の能力がないとしても、せめて正しい心構えを持つべきで、ひたすら自分は給料を毎月使い果たす連中だなんて名乗らないでくれ。
「即ち一切の諸佛を欺誑すと為ん」。たとえ声聞縁覚を修めるという心を起しても仏を騙し取る範疇だ。仏を騙す罪は重く、永遠に成仏しない結果となり、即ち三昧耶戒を破るということだ。そなたらは仏とリンポチェをどれほど騙しているのか。食事、ブランド品の洋服や靴を買うためのお金があるのに、よく毎月給料が底をつくなんて言えたものだ。この一節からはっきりと声聞縁覚を修めるという念頭を起すことすら仏の一切の教えを騙すことになり、永遠に成仏しないことが分かる。恐らくそなたはまた「私は成仏したくない、女房が回復するのが唯一の願いだ。仏菩薩よ、女房のことをよく世話でき、彼女が事切れる際に私はまだいるよう、どうかお慈悲ください。」と言うだろうが、残念ながらこれは仏道修行の目的にならない。そなたの妻は仏道修行してから少し具合がよくなるとはいえ、それは仏道修行するから具合が少しよくなるのではなく、仏法を聴聞することによって、悪業が暫く停止し、福報が上がったから少し具合がよくなったと感じるからだ。しかしながら、これも仏道修行の目的や結論にならない。大乗仏法を学んでいるのに、成仏を目指してこの道を歩まなければ、たとえ我らが阿弥陀仏の身許までたどり着いたとしても、何のためなのだろうか。成仏することが為で、「私はこの娑婆世界が嫌で、阿弥陀仏の身許へ逃げてひたすら蓮の中に閉じこもって修めたい」というのではない。そうした場合、疑城へ行ってしまい、500歳の間仏を見ないとされる仏の浄土外のもう一か所に身を置くことになる。何故なら、阿弥陀仏の願力を改めたことこそ、疑なのだからだ。
仏道修行する者が仏の言われた通りに実践せず、さらに自分自身の考え方を持っていれば、たとえ一心不乱になるまで唱えたとしても、依然に成仏を成し遂げられない。それはそなたが仏の願力を変えたからだ。釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介された理由は何だろう。まさか我々にそこで快適な生活をさせ、微風が吹きながら、鳥のさえずり・花の匂い・せせらぎがし、入定に最適な環境を与えることが目的ではないだろう。そうではない。仏は我々にそこで成仏まで修めろと教えている。地球では成仏する資格がないと、仏典にもはっきりと書いてある。釈迦牟尼仏の次に弥勒菩薩が再来して仏在世(ぶつざいせ)になる。さて、その間、そなたらはどこへ行くというのか。ひたすら三悪道や六道の中をぐるぐる回るつもりか。
我らの心構えを正確に樹立しなければ、習得した仏法は自利利他できない。もしこんな思想を樹立せずに、ひたすら目の前の何かを満たす為なのであれば、如何なる仏法もそなたの役に立たないと、リンポチェは保証できる。成仏すると偉いのか。偉いわけがない。我らは仏道修行し、釈迦牟尼仏が我らにこう思惟せよと教えている。もし、我らがその通りに思惟せず、改めたりすれば、それはもう釈迦牟尼仏のお教えを学ぶのではなくなるのだ。『宝積経』でもあまりに明瞭に「諦に聽け、諦に聽きて理の如く思惟せよ」と言っているのに、まだご自分の理と道理があるというのか。そなたには道理がない。仏典にあるのは仏法の道理で、そなたらの理ではない。その様に修めなければ、間違いなく今生に修め得られないことを保証できる。仏典では、我らが仏の教法を変えることができると書いていない。声聞縁覚の道を変えることすら間違っているのに、況してや人の道を変えることをだ。「私には分からない。まだ悟りを開いていないから」というなんて、果たしてそなたに分かることがあるのか。話すらろくに聞けないのに、況や仏法をや。仏が「諦に聽け、諦に聽け」と教えている。そなたは空嘯いで聞きもしないのに、悟りを開くことが出来ようというのか。そなたは人の子弟を誤らせることしかできない。
経典:「世尊、我れ今此の一切智心を發して是くの如く廻向せんに、乃至、未だ無上菩提を得ざるに、若し衆生に於て愛欲・瞋・癡の心を起し」
不動仏の説かれたことは、現在の仏道修行者にとって最も重要で、最も根本な思惟モードだ。「若し衆生に於て愛欲を起し」とは、結婚してはいけないやら、子供を儲けてはいけないやらという意味ではなく、相手のことを海涸れ石が砕けるまで愛しているやら、或いは伴侶と「同じ日に生まれることはできないが、同じ日に亡くなりたい」ということを約束するのは、全て愛欲・騙しだということなのだ。まさかそなたは数千年生きていられるのか。月を指さして「お月様に誓って、私が相手を愛する心はまさにお月様と同様だ。」なんて言うのもいる。月面着陸の画像を見たことがある人なら月面はデコボコだということが分かるはずだが、だったら同じようにそなたの心もデコボコなはずだ。つまり人騙しだ。これこそ愛欲だ。
『地蔵経』でも「情欲を重んじた者は、死後、地獄に堕ちる」と書いてあるが、かつて私が顕教を学んだ際に、その意味がよく分からなかった。六道における有情衆の何れも情欲があるのではないかと我々は思っている。ここでいう情欲を「重んじる」とは、即ち情欲を生活の方向や目的とすることなのだ。密法を学んではじめてその道理が分かるようになったが、密法のことだから、それを皆に言えない。しかし、多くの人は死に際に失禁するが、私に加持された場合、死に際に失禁することはないことから推測しうるように、それは私が彼らの地獄への門を封じ止めたからだ。少しでも顕教の基礎がある人なら、誰も「地獄は足の裏より出る」という話を聞いたことがあるはずだ。地獄に堕ちることは、足の裏からなのだ。気が上から下へ運ばれるのだ。死に際の失禁による匂いは、並ではない。通常の排泄とは違って、それはお腹にある全ての物をすっかり排泄させてしまうのだ。気が下へ運ばれると、とても制御できそうにない。
どうして輪廻するのだろうか。愛欲があるからだ。例えば、妻を非常に愛しており、彼女に苦しい思いをさせたくないだけに、私は何でもしてあげられるということこそ、愛欲だ。「彼に苦が無いように、自分は先に去り、彼はより長く生きてほしい」ということこそ、愛欲だ。こんな愛欲の心を起すと、いつまでも平等な慈悲心まで修め得られない。私の事を例に取り上げよう。私にも子供がいるが、法会への参列を強いたり、叱ったりすることはない。唯一、菜食することだけは約束してもらった。彼らは成人だし、法会に参列しようがするまいが、私とは何の関係もないのではないか。釈迦牟尼仏の氏族すら仏道修行しなかったのに、そなたらは何を裏付けに、自分が仏道修行すれば、子供らも伴って仏道修行すると思えるのか。ひいては息子の嫁や孫も伴って仏道修行する理由はあるのか。こんな言い方などあり得ない。
よって、我らのこんな愛欲によって仏法を捻じ曲げることになる。子供が法会に参列すれば好転すると思い込んでいるが、彼が過去世で作った業をまだ懺悔していない上、そなたも彼を代表して懺悔を行っていない。もしひたすら法会に参列すれば好転するようなら、因果も無くなっているのではないかと思っている。どれも迷信だ。もちろん、子供を法会に参列させるのは、彼にとって利益があるとしても、必ずしも好転するとは限らないのだ。ただ、この子供が止まることなく聞いたり学んだり、絶えず自身を改めたりする場合を除く。
「若し衆生に於て愛欲・瞋・癡の心を起し」。瞋というのは、即ち因果を信じず、他人を傷つけることばかりすることだ。男女間の事では、とにかく喜んで付き合ったり分れたりしていることだ。
経典:「或いは惛沈・貢高・惡作と相應せば、即ち一切諸佛を欺誑すと為ん。」
昏沈とは眠りにつくことではなく、心が集中しないことだ。何故、先ほどのあの弟子は法会が始まってもなお自分の物を片付けていたのか。それは、物をきちんとしまわないで、後に鞄から落ちるということがないようにと思ったからだ。だったら、もっと早く片付けておけばいいのではないか。彼の昏沈は法会参列中に心が集中しないことによったし、彼がリンポチェの高座での説法をお茶の子さいさいのレベルだと見なし、リンポチェの毎週の説法を本格的に取り組んでいないことも分からせた。
昏沈とは心が散って集中しないことだ。いわゆる集中とは、物事が遂行できるよう根を詰めて没頭することではなく、心が乱れずに、専念して実行することだ。心が乱れると、昏沈になることが多い。昏沈の弊害には、軽い方だと怠く眠い状況になるが、それより深刻な場合は自分が眠りについても気づかないままだ。更に深刻な方だと、出られないままで座り込んでいる状態になり、他人から見れば、座禅しているようには見えるが、本当はそなたの心は施錠されたように閉まっている。簡単に言うと、生きた死人とも言えよう。
私にもこんな経験があった。ある日の夜中に、私は座禅していたところ、昏沈に入り周りの全ての物事に感覚を失ったから、自分が入定したと勘違いした。実はそれは昏沈だった。私は非常に入定したかったから心の力を集中したが、入定しすぎだったし、心の力も不十分だったので、つい昏沈し、心力が落ちたのだ。どうしてこうなったのか。一つはせっかちさで、もう一つは福報の足りなさだ。そなたが昏沈に入った時、自分に知覚があるのをはっきりとわかっているが、そこに座っているのに、周りの音が聞こえない。何故なら、聴覚や体の感覚は閉じたからだ。あの時、私は既に法王に帰依していたが、自分が既に昏沈になったのを知らず、ただ何の感覚もないと思った。突然に、耳元である女性の笑い声がしたから、目覚めた。道理では、夜中に女性が私の耳元で笑ったりすることはなかった。もし起されなかったら、生きた死人になってしまっていた。
その後、石彫りの観世音菩薩の仏像が安置されている基隆の古刹で、私は五分ぐらい座禅していたら、昏沈に入って大雨の音すら聞こえなかった。暫く経って、友達のポケットベルが鳴ったのを聞いて目覚めた。この2回の経験を通じて、昏沈と定とは紙一重の差だということが分かった。両者を区別する力が必要だ。軽い病症の禅病は治療して治るが、重い場合は昏沈し、まるごと沈んでいき、まったく心力がないようになるが、唯一残るのは基本的な生命現象・呼吸・心拍と循環中の血液のみで、全ての知覚は閉じることになる。
未だに皆に座禅することを勧めないのは何故なのか。在家衆が座禅する時にうまく入定できないようにさせ、且つ危険に晒させる複数の要因がある。あまりに賑やかな台北市にして、出家衆の座禅も危険で、呼吸困難にもなり得る。多くの人は毎日15分間でも座禅すればさっぱりすると言うが、実はこの15分間は単にそなたに人を非難しないチャンスを与えるに過ぎず、その分、心も多少さっぱりするだけだ。必ずしも15分間の座禅でそなたをさっぱりさせたとは限らない。
「貢高」は即ち傲慢だ。人は傲慢になれば悪を作る。自分が正しいと思った時こそ、傲慢だ。少し前に触れた、過ちを犯したのに自分に非がないと言うように、過ちを犯した際にいつも非が相手にあり自分にはないと言うと、悪を為すようになる。相手をお手上げさせるまで、ありとあらゆる方法を使い尽くすだろう。
傲慢な故に、我らの心はこんな悪の作為と相応することになる。『宝積経』曰く、菩薩道を修める者が少しでも「貢高」になれば、菩薩道を修める全ての功徳が即刻無くなると言う。何故なら、そなたは悪と相応することにより、そなたは自分の顔を立てる為に悪をなすからだ。だから、傲慢になってはならない。
経典:「世尊、我れ今此の一切智心を發して安住し廻向せんに、乃至、未だ無上菩提を得ざるに、若し疑惑心を生じて、是くの如く或いは殺害・不與取心を起し」
この数節はまさに我らが人間界で犯しやすい心の問題と惑いについて言っている。そなたらは仏法と上師に対して、惑ったことがあるだろう。
「世尊、我れ今此の一切智心を發して安住し廻向せんに」。彼が発したこの種の心は自分の為ではなく、彼の廻向は二つに分かれ、一つは諸仏菩薩を供養することで、もう一つは六道における一切の衆生にこんな功徳がもたらされるよう布施すること。
「是くの如く或いは殺害・不與取心を起し」。そなたは殺害の心を起す。直ちに殺害の心をかき消さない代わりに、自分は何もしていないよと言って自分を許し、ひたすら相手を死なせたいと考えている。例えば、ある女性たちは「いつ死ぬのかを見てみたい」と第三者を呪ったりする場合こそ、殺害の心だ。こういう風に考えたことのある女性はみな懺悔心を起すべきだ。何故なら、そなたは殺害の心を起したのに、直ちにそれを停止させようとしなかったからだ。
この一節は、成仏するまでは、こんな心を起す可能性があるという意味だ。我らと仏道修行していない方との違いは、彼らは自分に過ちがあると知らず、依然、自分が正しいと思い続けているところにある。仏道修行する者の場合は、これは行けないことだと知って、すぐ抑え付け、ひいては消えさせることにもなる。殺害の心は刃物で斬ることとは限らず、罵ったり、呪ったり、相手が不運になる時を待つことすら、殺害の心と言える。今生に考えたりしたりしたことがある人や、帰依してからもやり続けたりする人は、懺悔しなければ修め得られない。その上、死に際に失禁する。綺麗好き・いい匂いがするのが好きな皆よ、しっかりと話を聞け。
私に済度された人は、たとえ生前に綺麗に排泄しなくとも、決して失禁することはない。失禁していないことから、その体は汚染されず、綺麗な体での往生になる。これは、ご自身の日頃の心構えと関わっている。心が間違っていれば自分は自らを三悪道へ連れていってしまうのだ。日ごろ、唱えの多い少ないという問題ではないが、もちろん唱えの多い少ないによって作用も起きる。もし、そなたが唱えた際に慈悲心・懺悔心を起して唱えるのではなく、ひたすら自分に対して殺害の心・凶悪の心を訓練していれば、それは正確ではない。
経典:「或は邪見及び非梵行」
梵行は出家衆にあってはならないことを指すのだ。前にも、『宝積経』で説かれているが、在家衆で菩薩道を修める者は眷属からの全ての要求を拒否してはならないという。梵行は閉関・八斎戒を実行する際にしてはいけないことだ。また、無上瑜伽タントラまで修め、閉関修行している際に、夢の中で、性夢などを含め、良くない念頭を起せば、すぐ起きて懺悔しなければならない。それは梵行の戒を破ったからだ。
出家衆はもちろん、在家衆も閉関修行の期間中に、たとえ無上瑜伽タントラまで修めたとしてもしてはいけない。常日頃からの訓練が必要だ。例えば、私がラプキ雪山で無上瑜伽の関を閉めた際に、もし2か月と29日まで閉関した時点で、性夢をしたのに懺悔しに起きずに、夢の中を吟味するのであれば、それまでの2か月と29日間で修めたものは一気に消えてしまうのだ。破戒したから、最初からやり直さなければならないのだ。これこそ梵行だ。
密を修める者の心は大事だ。心が合っていてはじめて、密法を成功裏に修められるのだ。今説いているのは、我ら一般の凡夫が犯しやすいことだ。
邪見とは何か。因果・輪廻を信じないことだ。因果を信じないこととは何だろう。電話までして自分は毎月のお給料を使い果たす連中だと説明する者こそ、因果を信じないということだ。
経典:「妄語・兩舌・麁語を起して相應し、或は損害と相應せば、則ち一切諸佛を欺誑すと為ん。と。」
修行する過程の中で、妄語する・世間で物事を引っ掻き回す・下品な言葉で人を罵ることを好み、これと相応する者なら、「或は損害と相應せば、則ち一切諸佛を欺誑すと為ん」だ。相応とは悪に随うことで、必ず自分も成し遂げているとは限らない。そなたはある人が悪を成したところを見たとして、さらに豪胆だねと口にすると、相応になる。つまり、悪に随うことだ。悪に随ったことのある者なら、「則ち一切諸佛を欺誑すと為ん」だ。自分自身がするのは言うまでもなく、相手がしたところで、そなたも悪に随う念頭でも起せば、相応なのだ。成仏できないのは当たり前だろう。何故なら、そなたは「一切諸佛を欺誑すと為ん」ということをするからだ。
不動仏は十善法をも守っている。
リンポチェは弟子と信者を率いて廻向してから、次のように慈悲深く開示された:
現在もなお新たなコロナウイルスの変異株が現われている。地球上にまだ肉や海鮮などを食べる人がいれば、このウイルスは消えないし、絶えず変種していくと、かつて私は言ったことがある。今年5月23日の法会で、弟子らに電話かかって来た親友らもパルナシャバリ真言が聞こえるように、弟子全員に携帯電話の呼出音を私が持したパルナシャバリ真言にしろと命じた。このパルナシャバリ真言がひたすら流れるだけで、この疫病は減少する。我らは、パルナシャバリと護法による保護を頼りにするほかない。未だに一部の弟子は私が持したパルナシャバリ真言を呼出音に設定していない。設定のやり方が分からないメンバーがいれば、進んで助けてあげるといい。自身だけ修めるべきではない。
« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »
2022 年 02 月 27 日 更新