尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年12月5日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な緑度母法会を主られ、並びに貴重な仏法開示をされた。
リンポチェは燈を点して仏に供養され、法座に上がられてから、修法を開始し貴重な仏法開示を賜わられた。
皆さんにとって絶対無理な一節がテキストの中にあるが、それは「自身の財物を全て供養すべし」だ。こんな願を発した人に限り、後から来る勧請文が効き目を発揮するようになる。テキストは四曼達供養という構成で、合計四回にわたって緑度母に供養を捧げるものとし、こうして祈願してはじめて得られるものだ。地蔵菩薩がどういう風に供養を捧げたかについて、恐らく皆さんは既に忘れたかと思うが、それについて再度説明しよう。それは、そなたらのお金ではなく、そなたらの心にあるのだ。全く供養する心がなければ、いくら法会に参列しても仕方がないのだ。
そなたらが常に口にしている「リンポチェ、私にはできない」のように、為し得ないのは当たり前なのだ。何故なら、話を空嘯いて聞きもしないからだ。仮に、諸仏菩薩と歴代の上師が、テキストにこう書かれると、衆生に煩悩をもたらす恐れがあると思われるようなら、とっくにこう書かれていなかったのだろう。如何なるテキストにも「自身の財物を全て供養すべし」と書いてあるが、ポイントはあらゆる物を差し出すことにない。まさか仏菩薩がお金を必要としているとは思わないだろう。
それなのに、どうしてこう書かれるのか。出し惜しむと、捨(出すこと)がなければ得(得ること)がないことになる。皆に勘違いしないで欲しいのだが、確かにあらゆるテキストにはこう書かれている。それは仏菩薩がみだりに書かれたのか。いや、そんな事は絶対にない。少しでも自分用に振り向けて残したいと思う人が多いが、そう思うのなら、少し残すといい。仏菩薩は自分用に少し残してはいけないと仰せになったことがない。だが、そなたはまたあれくれよ、これくれよと仏菩薩に求めるようになる。いったい何を裏付けに求めるというのか。ある物で仏菩薩と別の物を交換するわけではなく、そなたが捨をしなければ、得を得られないということだ。捨なしに得があるわけがない。
出し惜しむと福報がなく、仏法の聴聞も聞き間違え、テキストも読み間違え、持呪も唱え間違え、更に大礼拝(五体投地)すら拝み間違えるのだ。多くの人は今大礼拝しているところだが、一日数百回も拝めて凄そうだが、私が見るには、膝にタコができず、手のひらの皮膚も硬くなっていないのであるから、きっと正しくやっていないことを示しているのだろう。適当にやっても仏菩薩にはバレないと思ってはならない。それは仏菩薩と関係なく、それはご自身に関わることだ。
どうして本日緑度母を修めるのか。修めるべきだと急に感じたが、理由については皆に言わないようにしておこう。
(修法)
リンポチェによるご開示:
テキストの一節に、「私が供養を捧げるに際し」というのがある。供養なしに、仏に安住していただくよう勧請することがあろうか。テキストでは福報がなければ勧請できないとはっきり書かれている。皆を騙しなどしない。リンポチェは嘘をつかない。地蔵菩薩がどういう風に仏に祈り求めたか。また私自身がどういう風に仏に祈り求めたか。そなたらが我らに倣うどころか、そなたらにしては我らを真似する資格なんかないが、少なくとも心と観念は学んで欲しい。そなたらは完全に尊重などしない。毎日、お香でも点すと、供養していると思う。そなたらの心は供養せず、終日、自分自身に振り向けるために修めている。たとえ顕教を修めても、次第に則って修めて行かないと修め得られないのだと、皆に予め念を押しておく。密法を修めるには、なおさら次第なしに、修め得られないものだ。上師が言った全てが心法で、要するに自身の経験だ。こうすれば、必ず効果が出ると知っているのに、そなたらは一向にも聞きもしない。「それは私を対象に言っているわけではなく、私の名前が呼ばれていないから、私と無関係だ。私はやっているよ!」なんて思うと、どうしようもなく、お好きなようにやっていってもらうしかない!
(修法)
続いて、薈供と供茶の儀軌が進行され、参列者全員はリンポチェに加持された供え物を一人一袋いただき、並びに法会中に上師と諸仏菩薩と共に食すという殊勝で得難い因縁を得るようになった。
リンポチェは引き続き、アキ護法と廻向儀軌を修められ、後に開示された:
持呪すれば、衆生を救済することができると思う人が多いが、そう簡単にはいかない。テキストにはこの二節がある――「修法者は本尊からの灌頂を授かるべきだ。灌頂を授かった後、その心は全て彼に保護された衆生に普く及び、自身が加持力で溢れるのだ。」何故なら、本尊のご灌頂によって、彼自身の願力は本尊の願力と結びつくようになり、こうして彼が保護したい分だけ、保護できるようになる。「普く及ぶ」とは、彼には分別心がなく、縁がある者だけ保護する。簡単に言えば、無上瑜伽部まで修めた行者の加持力というものは、そなたの想像を超えたもので、目でちょっと見てあげても加持となる。これは、決して皆が思ったように拝んだり唱えたりでもすればあることではなく、自力に頼ればできることでもない。多くの法門・閉関等々を重ねてはじめてやっと保護する条件が具わるようになるのだ。そなたらが毎日口にしているのは、ただ一つの願力を菩薩に言って聞かせるに過ぎないのだ。
皆に何度も言ったが、密法には所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラと無上瑜伽タントラに分かれるという。そなたらは所作タントラすら為し得ていないのに、行タントラに進むことなどできない。行タントラなしに、瑜伽タントラを修められるわけがない。瑜伽タントラが出来なければ、決して無上瑜伽タントラに辿り着かないとされる。密宗は凄いとよく言われるが、それは確かに凄い。テキスト・仏法・上師に対し、絶対に信じ、話を聞く人に限り、間違いなく加持力が届くが、話を聞かない者に対しては、絶対に無理だ。私に「帰依して20年経ったが、私は何れもよく出来ていない」と言いに来る帰依歴20年の弟子が多くいる。そなたがよく出来ていないのではなく、そなたは信じていないのだ。時下の仏教徒の多くは、(仏教以外の)外道の仏教徒だ。いったい何を修めればいいか分からないまま、ひたすら仏典の紐を解いて、毎日唱えでもすれば、きっと仏菩薩が現前するだろうと思いきや、そうではなかった。毎日唱える分が、資糧道になり、自身の福報と智慧を蓄積する方向に向かっているだけで、まだ加行道に入っていない。
絶え間なく最も手近い『地蔵経』に書かれた内容を読めと言っているが、地蔵菩薩の求め方に対して、ご自身のはどうか。適当に求めるそなたへは、適当な答えしかしない。自ら植えた因による果なのだ。皆、よく話を聞け。時間は1年1年と確実に流れるものだから、もう二度と、私の前に跪いて「私は話を聞かなかった。よくできなかった」なんて言わないで欲しい。そなたは実行しているのか。まったく実行していないのに、「よく出来なかった」とよく言えるものだ。そなたは(仏教以外の)外道の仏教徒に過ぎない。テキストを読み通すと、きっと皆はすっかり恥じ入るようになるのだろう。成し得れば、後に書かれた全部が得られるようになる。
ワクチンに毒素が入っていて接種が怖いという人がいる。私が緑度母を修めていることから、皆は無事だった。千人余りの弟子が、ワクチン接種をして体にちょっと反応があっても死に至ることはなかった。それは私の毎日の修法からそなたらへの保護が生じたからだ。私がこんなにもそなたらを保護しているのに、そなたらはどういう風に道場・仏寺と上師に対応しているのか。おそらくご親友からもワクチン接種後の副作用について聞いただろう。まさかそれは自分の持呪が効いたお蔭だと思わないよね。これこそ、テキストに書いてある「保護が普く及ぶ」ことだ。
皆、本気で話を聞けよ。時間がどんどん過ぎていって、そなたの一生はあっという間に終わってしまうのだ。私のもそうだ。リンポチェに命がある限り、そなたらを保護し、いつか私がいなくなっても、相変わらずそなたらを保護する。しかし、そなたが信じなければ、話を聞かなければ、実践する努力をしなければ、どうやって保護しようというのか。私が常々この比喩を言っているが、私はパワーステーションみたいに、絶え間なくそなた側へ発電するが、そなたらにはスイッチを入れる必要があるのだ。一旦、そなたがスイッチを閉じると、電気が届かなくなるのだ。皆はよく「本当か」という質問をするが、それは疑問もなくそうだよ。或いは、「私では求め得られないと信じない」と考えたりするようだが、そうなら賭けてみよう!どう求め得られるかを見てみたい。又は、「それはあなたの特許なのか」と質疑を投げてくるが、それは私の特許ではなく、誰でも求め得られるものだ。ただ、テキスト通りに実践する必要がある。
先ほど唱えたのは21度母だが、緑度母の周りに非常に世話をしてくれる21名の度母がいる。常日頃から挨拶もしていず、いざという時に急に纏わりつくような状況になっている。こんな便利なことはあっていいのか。先ほどの修法は供養してばかりいる。どうしてそんなに供養するのか。先方は食事を摂る必要があるのか。いや、それは食べない。ただ我らに福報を蓄積させるようにしているのであって、これで求め得られるようになるのだ。福報がなければ、何を求めようと得られないとされる。そなたらは聞かない・信じないだけでなく、ひたすら自分が求め得られ、既に充分いいのだと自惚れている。
テキストにこの一節がある:緑度母を信仰深く修めれば、そなたがどこに居ようと、どこへ行こうと、いずれにしても戦争或いは深刻な疫病に見舞われることがないし、緑度母を修めると国家の政権をより安定させることもある。現在、台湾は本来ならありそうもない危機に直面している。周知のように、もし、あらゆる台湾の人民が戦争になって欲しいのであれば、この戦争はつい発生してしまうし、もし、戦争がしたいと願う人がごく少数に限れば、この戦争も発生しなくなる。70歳以下の人は何れも戦争の苦しさを経験したことがない故、我らは慎重に行動すべきだ。もちろん、ある地域にある統治者がいるということは、地域の人々の共業(ぐうごう)だが、この種の共業(ぐうごう)は変えられるものだ。
仏法は衆生の平和・ご無事を願うとする。仮に、ごく一部の人が利益を得るために、これからの国家全体の苦しさを無視するようなことがあれば、皆は深く考えると良い。私は政治について説いていず、そなたらの未来について説いているのだ。未来は皆の手にかかっているのだ。皆が慎重に行動せず、意地を張っているのであれば、いざ戦争になると、こんな小さな台湾では、僅かな変動に対しても耐えられないぞ。また、以前、台湾にもいろいろな出来事があったではないか、もう平気だろうと言う人もいるが、歴史に鑑みれば、台湾に何か有ってから、元気を取り戻すには少なくとも二、三十年はかかると思い知るだろう。皆に子孫がいる上、代々穏やかな暮らしをして欲しいから、誰もがこの土地の平和を維持する責任がある。意地を張ってはならないと同時に、ある制度が良いと完全に信用することもできない。世界には完璧な制度が存在しない。全てが人・場所・時間によって変わるものだ。
本日、緑度母を修めるのは、この土地の平安・平和を祈る為なのだ。そうでなければ、仏道修行も商売もできっこない。今月から来年にかけて多くの催しが行われるが、皆は良くない共業(ぐうごう)の中に巻き込まれないように、慎重に行動し、意地を張り通さないでいて欲しい。投票するのであれば、よく判断するといい。個人の好き嫌いで投票することではない。民主自体も皆の共業(ぐうごう)だ。民主は偉大だと多くの人に言われているが、その反面、民主過ぎるのも多くの事の推進に差し支えるようになる。
本日、緑度母の修法は、そなたらが想像したような簡単なことではなく、それは僅か我ら千人余りの幸福の為ではなく、大きく将来に関わることだ。我ら千人余りの心が善のままで、ひたすら緑度母に祈願すれば、きっと台湾は深刻な事態にはならないと信じている。これも仏教徒として尽くすべき責任だ。どう投票すべきかと私に聞くべきではない。一人の上師として、自分の理想主義の為ではなく、ただ冴えた頭で投票せよと衆生に勧めるしかできない。昔から今に至るまで多くの主義が存在するが、どれも永久不変なものではない。皆はご自身の未来を想い、よく考えるといい。我らがこの土地で生計を立て、安住する以上、この土地の安楽、そして出来事が少ないよう祈っている。近頃、これだけの出来事が発生したのは、全てがこの土地の人という要因が引き出したのだ。殺業が重すぎ、貪瞋痴が酷すぎることから、多くの出来事が絶え間なく発生している。仏道修行者は太平無事を願う。太平な世だからこそ、仏道修行が身に付くのだ。でなければ、今年、感染症が流行り出したことのように、皆が数か月も来られなくなるのだ。
私が屡々言うように、自分だけの為に修めるべきではない。自分だけが良いのは、必ず周囲の人も良いとは限らない。大乗仏法を修めた以上、如何なる心念も衆生を苦から離れさせるようにするべきだ。自分が修め得なければ、衆生を助けることにならないと思ってはならない。もちろんのことで、そうなることが過程として必須なのだが、修めることによって何かが得られるわけではない。そなたは何も得ていず、全て差し出しているのだ。そなたが差し出さず、衆生が安楽にならなくては、そなたはどうやって安楽できようか。時下の人はみな自分が自身の為に修めれば、これが自利利他だと解釈する。皆はこの一節を勘違いしているのだ。自利とは自分に利益があるという意味ではなく、先ほどテキストで説かれた通りに、本尊が私を加持することから、私の保護したい人を保護するに足る力を持つようになるという意味だ。リンポチェがひたすらそこいらに座れば、保護されると書かれたか。いや、本尊からのご加持が要るのだ。よって、引き篭って仏や菩薩を為すような人は、永遠に成功しない。上師・本尊からのご加持なしには、成功裏に収めることはない。
「私はこう修めるのが好きだ」と主張する人がいるが、テキストと仏典の何れもこう説かれていないのに、そなたはよりにもよってそうしたいのであれば、取りも直さず仏の御教えに背いているのだ。だったら、何を修めようというのか。「私はとにかくこうするのが好きだ。一人で毎日唱え、誰も私を構わず、邪魔しない。私がよく修めたかどうかに関しては、自分に感覚さえあればいいのだ。試験でもあるまいし、上師に報告する必要があるのか。」。仏法に試験がなく、試験と来たら他でもないそなたの業力だ。そなたの業力が現前するかどうか、転じられるかどうかは、全てそなたが仏と上師からのお教えを受け止めたかどうか次第だ。毎日自分で唱えれば、成果が出るようになるというのではない。そうでなければ、先ほど私は少なく唱えて済むはずだ。
さかのぼること30年前の話だが、当時仕事がなかった私は緑度母に、もし仕事が見つかったら、より多くの衆生に緑度母とご縁が結ばれるように、一か月目の給料を全額、緑度母のお写真の印刷に充てると発願した。そなたらは誰もが、自分は毎月給料を使い切ってしまう連中だと自称しているが、実際、食事するにお金があるし、交通手段にもお金がある。だが、私は徹底的に実行し、菩薩も手を差し伸べてくださった。それは菩薩への恩返しという意味ではなく、ただ菩薩に私は全て捨てられると教えるつもりだけだったのだ。即ち、テキストの「身も財も捨てられる」に当たることだ。いくら我慢が必要としても、高々一か月に過ぎなかっただろう。当時、私は3万元(台湾元、以下同じ)という給料をもらったら、すぐ印刷工場へ行って、「3万元を全部緑度母のお写真の印刷に使うので、印刷できる分だけ印刷を頼む」と言った。あの時の3万元は少なくなかったが、私はこれからの食事代・家賃・光熱水費などを一切念頭に置いてなかった。皆と同じように、私も子供の世話をしなければならなかったが、私もなんとかなった。私の仏道修行ぶりがこうだが、一座の面々に敢えてこうする人が居ろうか。だから、皆は下に座って諭される道理だ。そなたらには私のような果敢な勢い良さがない。何故なら、私は仏典で説かれた「仏菩薩は如法の修行者にお腹を空かせたり、服や住まいを無くさせたりしない」ということを信じているからだ。お金をお写真の印刷に充てた後でも、私は借金せずに過ごせたのだ。どうやって過ごせたか。何とかなるから、硬貨を使いながらでも過ごせたのだ。
丸一か月分の給料を全額、緑度母のお写真の印刷に充てられては、そなたらのお金を気にするものか。そなたらのお金を見下すのではなく、供養させたくないのでもない。重要なのは他でもない、そなたの心だ。今日言ったことは全て事実だ。仮に私が出家衆だったら、他に何も要らず、一着の袈裟を纏えば充分だったが、私はそなたらと同じように、子供の世話をするし、料金を嫌と言うほど払わなければならない。まさに『宝積経』で説かれたように、菩薩道を修める者には、恐れるものがないのだ。私は給料を全部出したのに対して、そなたらはガス代に1,000元・電気代に2,000元…を残そうと計算したりするから、永遠に業を転じられなく、仏道修行したくても、法を学びたくても、法を授かってとしても、ろくに身に付かない。それは、福報がなく、業力が手前に止めているせいだからだ。どうしてそなたの業力はそなたを止めたか、それは出し惜しむからだ。
台湾の諺に「仏祖よりも、お腹のほうを先に面倒見ろ」がある。この諺は受け入れられるが、実際にし出してはならない。仏はそなたに面倒を見られる必要があろうか。そなたは何の徳行・何の能力を裏付けに、仏の面倒を見られるというのか。大事なのは、そなたの心持だ。今日、二時間以上も修めたが、最初から最後まで供養ずくめだ。供養が大切ではなければ、テキストにそんなに書かれない。私が絶えず皆の代わりに供養を捧げているから、本日そなたらがそこいらに座る福報があり、呪文や、あれやこれやとを聞いたりすることができるのだ。だから、これを当たり前のように思ってはならない。そなたらは二時間以上唱えられるのか。それなのに、そなたらは心服しないで、自分ですら修め得られると思い込んでいる。
テキストにも書いてあるが、この法を修めたら戦争が起こらないとする。だが、戦争がなくなっても、必ずよくなるとは限らない。そして、この土地に戦争が起こらないのを願う。私はこの土地と衆生の命を思って、この話をしたのだ。
後記:
法会が円満に終わった後、淡水河を超えた双北地区に跨った二重の虹がかけられたという稀な現象が空に現れた。極めて殊勝で得難い。窓越しも綺麗に見える。リンポチェが台湾という土地の平和とあらゆる衆生の為に、慈悲深く修法してくださることにお礼を申し上げる。上師の恩を返すように、弟子らは更に気を配って話を聞き、仏道修行に励むべきだ。
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2021 年 12 月 27 日 更新