尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示- 2020年11月1日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが仏に捧げる灯を点し、法座で『仏説阿弥陀経』を説く。

本日は、『阿弥陀経』にある阿弥陀仏浄土の修め方について引き続き開示しよう。私は経教(きょうぎょう)を学んだのではない。私が仏法を学んだ方法は、法王から伝法を受け、直接に密法を修め、その「義」から修め始めた。仏法には二つの面を持ち、一つは義、もう一つは理である。仏典は仏が教わった理論で、これを「理」という。それに対して「義」は仏教のコンテンツであり、中身である。私が仏法を説く際、経典に基づいたり仏典を引用したり、また、ある名相(めいしょう)に対し、わざわざとある論を探し出してきて自分の説法を支持したりもしない。私の観念としては、仏典で説かれた事ことが全て正しく、他の仏典を使って仏がここで説くことの正確さを証明する必要はないと考える。あらゆる仏典はすべて釈迦牟尼仏の仰せになったことであり、すべて正しいのである。他の経典で更にそれを証明する事は矛盾し、学問を究めることへ変化してしまう。

前回、私は「長老舎利弗」を「長者舎利弗」と読み間違えて解説した。幸いにも、仏菩薩は慈悲深く、出家衆らを私の弟子にさせて下さった。彼らはお茶目なことに、帰宅後私に電話をくれ、その間違いを伝えてくれた。私は彼らを叱りはしなかった。確かにこの文を私は読み間違った。前回の該当の部分は撤回する。私は経教を学んだのではなく、名称や称呼について研究していない。私はまずは修行を行い、実修し証果した後、仏典を読んで自分が実践できたかどうか確認するようにしている。

前回、解説した『仏説阿弥陀経』には、「五根、五力、七菩提分、八聖道分」とある。それについて、出家衆弟子らに調べてもらった。

五根者。

信根:信正道及助道法。
(正道及び助道法を信じる。)

助道とは何であろうか?道場に奉仕する、持呪(じじゅ)する、誦経(ずきょう)する、懺法(せんぼう)を行う、ベジタリアンになる、性格を改める、これらは修行とは言えず、みな修行を助ける因縁に過ぎず、助縁なくしては正道を修められない。以前、私が顕教を学んだ際、供養し、懺法を行い、座禅し、戒律を守ってきたが、これらは全て助道、助縁である。正道は菩薩道を修めることであり、果位(かい)や、一部の成就を修めるまでは、利益衆生することができない。ある弟子が、私に帰依する前に、仏堂を設立して念仏させた。しかし、それは衆生救済ではなく、そなたらにしては、今何を行おうと全て助道なのである。私のように、16年間、毎年大法会毎に数百万の衆生を助けていたにも拘わらず、死なないでいる事こそ、衆生済度なのである。そなたらが大法会で走り使いをしたり、椅子を運んだりするのもみな助道である。だから自身で決めつけず、何かあったら管理部に報告しなさい。管理部から私に指示を請うのである。だが、この度やはり言うことを聞かない弟子がおり、、自分自身の考え方で聞きに来ず、昨日、私に泣いて見せたのだ。私は泣く必要はないと言った。彼は今まで言うことを聞いた事がなかったからだ。第一に、彼は指示を求めることを怠け、第二に、自身が一番であると思い違いをし、第三に、リンポチェの為を思って行ったものだ、自分が最も素晴らしいと思い込んだ。私は叱りたいのではない。大法会の主法者は諸仏菩薩と上師であり、そなたらはただの走り使いに過ぎない。そなたらに決められる事はない、何一つないのである。なぜなら、これは二万人のことではなく、何百万という衆生の事柄であるからである。そなたの小さな間違いが欠陥となり、瞋恚という恨みや怒りの念を引き起こし、済度に来なくなったりもする。これは、特にあなたの冤親債主に発生しやすい。

誰もが阿弥陀仏浄土に行くことを望むが、阿弥陀仏のほうに行くことは楽しい暮らしをするためではなく、引き続き五根、五力、七菩提分、八聖道分を学ぶためである。『阿弥陀経』によると、阿弥陀仏国土では、昼夜六時に、鳥が鳴り続けるとある。これらの鳥は毎分毎秒24時間鳴り続け、そなたを24時間絶え間なく修めさせるのだ。現代人には、間違った観念を持っている。「私が浄土にさえ行けば、あらゆる問題が解決される!仏のご加護がいただければ、癌も治るんだ」と。

浄土に行って何をするのだろうか?病で苦しまないようにするではなく、息子や夫の事で悩まないことでもなく、終日阿弥陀仏に付き添うのでもない。仏は付き添いは必要としておらず、毎日眠ることも許されない。鳥がひたすら鳴き、修行を促すのだ。最初は、心地良いと思い、餌をあげたりもするが、数日もしないうち煩わしくなり、石でも投げたくなってくるだろう。地球にいて、これが実践できない理由は、我々の機根が己の利益のためである、自分のためでないことは一つもないからである。阿弥陀仏のほうには、家族もおらず、俗のものも、名も、財も、権も、勢もなく、ただ仏を学ぶのみなのである。今そなたらは面白すぎる。つまらない事に慣れず落ち着きがない。自分が勤勉に修行していることを証明するため、常に何かを探しているではないか。

正道とは何であろうか。そなたの修めるすべての仏法はすべて自分自身が成就を得て更に衆生救済させるためなのだ。単なる病気を治すためや、性格を改めるため、日常の細やかな事のため等ではない。そんなもののために、仏を学ぶのは正道でなく、邪道である。信根が強くなければ、支障が起こるようになる。『阿弥陀経』では、阿弥陀仏のほうに行けば、ここに戻ってこないとある。阿弥陀仏のそこいらでは、最も重要なのは、そなたの信じる機根がしっかりしているかどうかである。私が1997年から、仏法を広め始めて以来、病気で往生して私に済度された弟子ら以外に、自ら寶吉祥道場を離れた弟子たちはどれだけいただろうか?何故離れたか?それは信根が足りず、彼らの内心的欲望を満たさなかったからだ。私がどうしてそなたらの欲望を満たせるだろうか。私がそなたの欲望を満たせるなら、それはもう仏法ではない。そのため、仏法では、帰依法離欲尊(法に帰依し欲を離れた尊き者)、信は功徳の母なり、とあるのである。

精進根:行正道及諸助道善法。勤求不息。
(正道及び諸々の助道善法を行う。休まずに勤求する)。

最も大事なのは勤求(ごんぐ)不息(休まずに勤求する)ことだ。昨日、ある弟子が不共四加行の伝授を求めに来た。前回彼が訪れたのが九月八日だったが、私が同意せずにいると、昨日また求めに来たのだ。まさに勤勉に法を求める心がないとはこのことである。自分の時間ができたら、思いついた時、求めに来ようとする。まさかリンポチェも死ぬなんて思いつきもしないのだろうか。法を求める際にも、ご自身の都合を優先するのだろうか。近頃、不共四加行を求めに来た多くの者に対して、伝授しない理由はここにある。大礼拝(五体投地)でも拝めば全てが好転するとお思いだろうか。さらに自分が精進しているとでも思っているのだろうか。全く精進してなどいない。私は未だに精進している最中であり、法王に法を求めている。あまりにも多くの衆生が、多くの法門による助けを必要としているからだ。自分が休まずに勤勉に求めているかどうか、自身に尋ねてみてほしい。

今回の音楽会は、国内五大交響楽団で最高峰の80名の音楽家により結成されているが、どうしても私の弟子らは高級すぎてオーケストラを聴きたがらない。むしろ外部の一般観客の方が音楽鑑賞について分かっている。あの日の演奏は素晴らしかった。聞き手も、演奏家も楽しかった。寶吉祥最高!と言った。そなたらが聞きに来なければ彼らも嬉しくないだろうし、彼らが寶吉祥最高と言うと、彼らもジッテンサムゴンと縁を結ばれたことになる。どうして彼らが寶吉祥最高と言うのだろうか。なぜなら私は何事も用心深く行うからである。来た甲斐があった、入場料以上の価値があったとまで思われたからだろう。音楽を学んだ弟子らも、この分だと、リンポチェが主催した音楽会はコストを惜しまずにやっていると一目見ただけで分かったという。まったく儲けなどはなかったが、そなたらは何故リンポチェは商売するのだろうかと思っている。私は在家で、なぜ商売することができないのか。そなたらは私をはっきり区別しているように、そなたの業力もはっきり区別してくるだろう。

演奏家たちは楽しんでいた。今後これらの楽団はさらに素晴らしい音楽を演奏してくれるだろう。音楽は人の心に影響を与えると知っているのだ。仏を信じない人もいるが、我々は様々な方法で、後世でチャンスがあるように縁を結ばせている。在家衆であるそなたらは、出家衆ほど多数の助道を持たない。例えば、リンポチェの言い間違いを言ってくれたりして私を喜ばせた。、出家衆と話させたりすることも、彼らの助道になり得る。多くの人が私を尋ねるが、私は金と力は出しても本人は出て行かない。その日私が参加しないのに、ピアノ演奏者の弟子は緊張していた、私が行けばもっと緊張させたはず、弾き間違えでもしたら大変だ。

私は経教を学んだのではなく、本来なら五根について説く機会がなかった。しかし、今日は、出家弟子が探してくれた資料を見れば、私が絶え間なくそれを実践し続けている事に気づいた。私の弟子なら実践していない。法会にさえ参列すれば良いと勘違いしないように。リンポチェは何でもご加護くださると思われるなら、そうであれば、仏は既に仏典に、法会に参列すれば浄土往生できると説かれていた。そこには目覚まし時計もないし、眠り放題でもない。そうではなく、そなたが地球にいる間に修め始めなければならない。浄土に行って初めて修めるのではない。2007年に、私がラキ雪山で生死関の閉関修行をしたのだ。心の中で覚悟をしなければ、早朝3:30に鳥が鳴いても起きれないでいたし、閉関修行の初日でまだ慣れていない事を口実にでもしていたが、私は枕で耳を塞いで眠り続けはしなくて、鳥の鳴き声を聞いた途端に、起床したものだ。私が修めた法門が難しくて、三か月かかっても絶対に修め切れないと、彼らは知ったから、早寝早起きが必要とした。夜11時になって就寝していたが、その一時間後に蜘蛛や昆虫らが潜ってきて寝れなくなったのだ。そなたらは何を修めたか?話を聞く事でさえ実践できるまい。

最近、ある人が帰依を求めにきたが、私は未だに同意しないでいる。私は知っている。彼らは仏を学びたいのではなく、口ばかりで上手い事を言っているが、心の中ではそうではないと。私には千人余りの弟子がおり、私の門下に帰依した以上私の責任となる。この世、そなたが修行しようがするまいが、亡くなったら、私は済度させる。しかし、修行していないそなたなら、それを行うためには、たいへん苦労する。済度なら、簡単にできると考えるべきではない。唱えれば、行けるようなところではない。

念根:念正道及諸助道善法。更無他念。
(正道及び諸々の助道善法を念じる。更なる他念は無し。)

更無他念とは、他の思いがない事。我々が地球にいる間、できないことでも、その方向に向けて努力すべきだ。つまり、いつの念頭も「念仏、念法、念僧」との六字が修行そのものなのである。第二に、助けてくれる一切の善法を念じる事。そなたらは日頃全く善法がなく、専ら上師に率いられて物事を行っている。リンポチェの多くの行い事は、そなたらにその助縁をもたらしてくれる。前回の演奏会等のように、私が助縁を作っても、そなたらはそれを突き返していた。何でも食べるが、損だけ食わないとはこのことだ。

我々が在世の時から「更無他念」を修めなければならない。仏菩薩と上師を信じる思いが足りさえすれば、世間の事柄はきっと変わり、求めようとする必要もなくなるだろう。私が何度も話しているように、私が癌にかかった際、薬も飲まず、医者に診てもらわず、法王に法を修めて下さる様求めず、ただ仏を学び修行し続けていただけであった。しかし、そなたらは聞き入れようとせず、自分の暮らしをしている。

定根:摂心在正道及諸助道善法中。相応不散。
(正道及び諸々の助道善法の中に於いて摂心する。散らずに相応。)

摂心(しょうしん)とは、あらゆる念頭、考え、思いを集中させ、仏法の修行に専念する事である。では、どのように善道を増やすのか。リンポチェが行うあらゆる事が善法であるが、そなたらがそれを受け入れず、お金がかかると思っている。リンポチェがこの16年間、大法会を司ってもそなたらのお金を受け取らないでいる。、道場の所在する建物を購入した際も2億元を儲けることができたがそうしなかった。そなたらはそれでも不満とし、それは当然だと思っている様だ。良心があるのだろうか。良心はなければ、諸助道善法に相応せず、散らせてしまう。今年最近あった出来事で、パルナシャバリ真言を念ずる会に来ない人がいた。持呪に来なくてもいいと聞けば、自分のために唱えるのではないのだと思い、自分のために唱えないのであれば、自分と無関係だと思うのだろう。、こうした人たちは今後、法を求める際多くの支障が生じるようになる。自ら自分の時間を引き延ばし、菩薩道を行おうとせず、守ってもらうことだけ求めて、自らは与えないでいる。仏寺建設の寄付に間に合わなかった人らのように、後になって再びチャンスを与えても、彼らが成仏する時間は遅くなる、これこそ因果というのだ。

慧根:為正道及諸助道善法。観於苦等四諦。
(正道及び諸の助道善法を為す。苦等四諦に於いて観ずる。)

四諦法とは、仏が仏法を説き始めた頃に仰せになった苦集滅道(くじゅうめつどう)という法である。今そなたらが修めているのが小乗であれ、大乗であれ、金剛乗であれ、知恵を使って初めて苦しみがどのように来たか観ずれることを分かって欲しい。そなたらの苦しみは、みな自らもたらしたものである。全てがそうだ。そなたの数世にも渡る業力、因果によって様々な苦しみが生じる。「苦集滅道」を簡単に解釈すれば、そなたが証道(しょうどう)して初めて苦しみの因が消滅されるという事である。心配事の多い人の苦しみは消しきれない。

五力者。

信力:信根増長。能破疑惑。破諸邪信。及破煩悩。
(信根が増長すれば、疑惑、諸々の邪信、及び煩悩は破られる)

五根の第一に、信根である。仏典に信は功徳の母なりとある。信力は信根からであり、上記の五根からである。信根が足りれば、信の力が現れて初めて疑いを破る事ができ、仏を学ぶ障礙が減少するようになる。法会が始まる前に、自分自身の経験を語った弟子にはまだ多くの疑問を持っている(詳細は衆生済度事跡第1067号を参照)。私は何等かの策を講じて彼を信じさせなければ、彼の疑問はずっと存在することになる。

生死解脱と関わらない方法、これは邪信に尽きる。たとえ仏像の前で仏の称号を唱えたとしても、生死解脱のためでなければ、邪の範疇に入る。邪とは、悪い事を指すではなく、輪廻を繰り返すことである。信力が足りれば、世間俗事による煩悩は次第に減少していく。しかし、そなたらの信には根っこがなく、宛も浮き草のように風に吹かれると漂ってしまうのだ。それはあなたがたが自分のために行っているからである。

精進力:精進根増長。破種種身心懈怠。成辦出世大事。
(精進根が増長すれば、種々の身心の懈怠が破られる。出世大事が為される。)

「出世間(しゅっせけん)の大事を勤める」これは私が行っている。信根が増長しなければ、精進根も増長しない。精進根増長あっての精進力、それがあって初めて種々の身体倦怠を克服できると言える。閉関修行を行う際、監視カメラ無しで一人で部屋に籠った上、法王からも終日私を監視しないでいた。そなたが怠けているかどうかは仏菩薩だけしか知らない。閉関の期間終日眠った者は、気を付けなさい。関房の中では、そなたに構うのは誰一人もいない。身心倦怠や、疲れ、お経を唱えたくない、ちょっとした風邪で修めなくなることを心の倦怠という。快適な生活しか頭にない者なら、人天福報を修めるのだ。

昨年の大法会の前日、私が閉関修行していた時にお腹を壊してしまった。それは普通のようなものではなく、一日中食事が取れない状況であった。そのため、翌日私は何も食べず阿弥陀仏の真言を十万回唱えた。そなたらなら、風邪や体調を崩すと、病欠で修行しなくなるのではないだろうか。私はお金を徴収していないから、出家衆らを唱えさせたりして済ませる事も出来るし、私が体調不良という理由で欠席しても、そなたらにとって大した損失もなく、時間と交通費の無駄に過ぎない。だが、私は予定どおり済度を執り行った。以前、私が屏東へ修法に行って戻った後、体調が悪くなったが、修めるべき法を削る事もしなかった。

皆が成し遂げないことを私はできる、私に従って行えば正解なのだ。法に対して、たとえ今の私であっても、自己流を作らない。自宅でも修め得られると思うならば、私は何のために閉関を行うのか?そなたらの生活は快適すぎる。出家衆も含め、助道の範囲内で修めているに過ぎない。試しに、一週間間で三食とも白湯で茹でた麺を食べれば、最初の数日は両足がふらつき、七日目でへたへたになり、栄養がなくてカロリーがないと感じるだろう。

閉関は出世間の大事を勤めるのである。自分と衆生を生死から解脱させるように、精進力と信心なくしても成し遂げないのだ。私がラキ雪山という高海抜のところで閉関していた。三か月にも及び、白湯で茹でた麺を食べ続けていた。酸素濃度が低い環境にも関わらず、栄養がなくて両足が怠いと思わなかったし、夜中氷点下十度であっても、カロリーがないなど感じなかった。これが意志力に因るではない。意志力に頼っただろうと多くの人が言われそうだが、意志力は意識による作用で、意識は変わる物である。ここが信力と精進力に因るである。

念力:念根増長。破諸邪念。成就一切出世正念功德。
(念根が増長すれば、諸々の邪念を取り払い、一切の出世、正念、功徳を成就する。)

念力とは念頭の力であり、口で念じて生み出す力ではない。念頭を指すのだ。私の三か月にわたる閉関修行は、妖怪変化らに邪魔などはされなかった。一つは、諸仏菩薩と上師が関房を保護しているからであり、もう一つは私には正念だけで邪念がないから、念力が現れて初めて為すあらゆる事は出世法に沿うようになり、俗世間の事柄のためではないからだ。

リンポチェがこれほど多くの事をしてきたが、すべてが出世間法のためだ。俗世間のためなら、終日インタービューを受け続ければとっくに有名になっているし、済度法会も代金を徴収するようにしている。だが、出世間法は名聞利養(みょうもんりよう)があってはならない。五力は五根によるものだから、五根を培わなければ閉関修行ができないのだ。

定力:定根増長。能破乱想。発諸事理禅定。
(定根が増長すれば、支離滅裂な考え方が破られる。諸々の事理禅定を発す。)

定力を有する者なら、定根が増長する。たとえ我々に突然に念頭が現われたとて、定力が足りる事によって、その念頭がすぐに消えてしまうのだ。例えば、私が持呪の際にも、念頭が閃く事もあるが、たちどころにそれを察したから、その念頭に従わなくなる。私が人を情け容赦もなく叱るが、一度も本気で取り組んだ事がない。叱る内容はすべて相手のためで、私自身のためではない。法王が私の叱り方を見て聞かれた事があるが、人を叱った後、体の調子はどうなる?と聞かれた。私は何のこともありませんと答えた。そなたらは私の真似をしない。私が人を叱っても体に何の変化もないのは、自分自身のためではないからだ。私が血圧が高くなって心臓に良くないのを法王が心配なさっているが、今まで一度も私に影響を及ぼした事がない。

数年前のある日、私が人を叱り終わってから、黄という医者弟子が私の脈をとったところ、私の脈は人を叱る前と同様だったと分かった。黄医師に説明してもらおう。黄医師が言うには、一般だと癇癪を起こすと脈が乱れてしまうが、あの日、リンポチェが人を叱る前に、私はリンポチェの脈をとった。そして、リンポチェが人を叱った後、再び脈をとると、まったく変化がなく、穏やかだった。リンポチェが引き続き開示なさった。これは自分自身の名聞利養のために人を叱ったのではなく、相手のためになると思って叱ったのだ。全てはそなたらのためだから、私自身に関与されなくなるし、その上、定の力が充分なことで私はずっと禅定の中に居るためでもある。表から人を叱っているように見えるが、心は全く動じていない。

慧力:慧根増長。能遮通別諸惑。発真無漏。
(慧根が増長すれば、諸々の惑いを遮り、理解し、分けられる。真の無漏を発す。)

慧根が増長することである。慧の力は、あらゆる遮られた戸惑いに察知するように助けてくれ、物事が本当か、嘘かを分かるようになる。昨日、謁見に来た信者のように、信者が自分自身の病気のためだったが、法会の参列のためだったと言った。これを偽りというのだ。彼が跪いて、私が聞く前から、直接彼にこう言った。そなたは法会の参列に来る必要はない、そなたが求める健康になるという事は仏法と一致しないからだ、と。ここに来た本当の理由を言わず、仏を学ぶと偽ったこそ、虚偽だ。仮に、彼が跪くと「私は病気になったので、リンポチェからのご加持を求めます」と言えば、私はとっくに彼を加持していたに違いない。私は絶えず禅定の中に居るから、いくら私の前に話を綺麗に言おうが、私の心は時めかない。そなたの言った内容ではなく、私は心でそなたの心を見ている。もし、ご自身の心をひたすら仏法僧に置くよう訓練すれば、そなたの定力が増長する。

発真無漏の「真」は仏法の真の心で、「無漏」は後遺症が無い事を指す。要するに、副作用を残さずに衆生を助ける事だ。仏法の観念は、そなたを一切の因を分からせて、如何にすればそなたの果報を軽くさせられるように、助けてくれる事だから、副作用を起こさない。そうでなければ、そなたらに薬を飲ませたら、頭痛が完治してから、転じて足の痛みが始まるようになる。智慧なくしては衆生利益する事ができない。衆生の業力が入り組んでいるから、その考え方に従えば、衆生に振り回されるようになる。

七菩提分。亦、七覚分と名づく。

択法覚分:智慧観諸法時。善能簡別真偽。不謬取諸虚偽法。
(智慧をもて諸法を観ずる時 善能く真偽を簡別して、謬りて諸の虚偽の法を取せず。)

法と言えば、必ず仏法とは限らず、世の中の様々な出来事を指すのだ。智慧、菩提心を持っている人だけしか、智慧で観ずられない。観ずることは、見るのではない。諸々の法の真偽を簡単に弁え、虚偽な方法を勝手に取り入れない。弘法者の場合も含め、七菩提分を持っていれば、諸々の法を観ずる際には、信者や弟子に振り回されない。

精進覚分:精進修諸道法時。善能覚了。不謬行於無益苦行。常勤心在真法中行。
(精進して諸の法を修する時、善能く覚了して、謬りて無益の苦行を行ぜず、常に勤心を持て真法の中にありて行ず。)

ここは行者について指摘された。苦行すれば証道(しょうどう)すると思う人もいる。「覚了」はその智慧と精進では、道を選び損なう事はないから、生死解脱に役に立たないような苦行に置かない。如何なる法は、釈迦牟尼仏からの口伝がなければ、上師の教えでなければ、仏典に書かれていなければ、真法とは言わず、虚偽である。

喜覚分:若心得法喜。善能覚了此喜。不依顛倒之法而喜。住真法喜。
(若し心に法喜を得ば、善能くこの喜は、顛倒の法によりて生ずるにあらざることを覚了して、歓喜して真の法喜に住す。)

法喜(ほうき)について、この前に触れた事がある。「覚」は、意識の中で法会に参列した喜びと感じるから、法喜が充満するのではない。覚悟の中から、善を以てこの喜を分別する事だ。これは密法に関わる喜で、文字通りで解釈しようがない。

「顛倒之法」とは、欲望のために法を求め、一部の欲望を満足したら、法喜充満と思う事だが、これらは全て嘘だ。「真法喜」とは、開悟ができ、今日の修め方では自利、且つ利他できる事を分かるこそ、真法喜という。法会に参列して、そなたのとある感覚、欲望、好奇心などを満足させたら、自分自身が法喜充満するのではない。

軽安覚分:若断除諸見煩悩之時。善能覚了。除諸虚偽。不損真正善根。
(若し諸見と煩悩とを除く時、善能く覚了して諸の虚偽を除き、真正の善根を損なわず。)

この句は、現在私が為している事だ。たとえ、私が人を叱ったとしても、私自身のためになるではなく、衆生のためになるから、虚偽ではない。

大法会の前に、私は必ず閉関修行しなくてはならない。でなかったら、これだけ多くの衆生を済度させる事ができようか?他はさておき、少なくとも二万という人からの頂礼を受けられなければならない。これまで、私はトイレに行っていた人らを叱ったりしたのは、入口のところに衆生でいっぱいで塞がっていたからだ。会場では、そなたらの見えない、数百万という衆生が待ち受けていた。数百万の衆生が来てくれたから、南港展覧館の冷房が効いたのではなく、展覧館はここ16年は相変わらず、冷房が増えたりはしていない。その寒さは、来てくれた衆生は参列者の二万人をはるか上回った事からだ。人の生身も持たなければ、鬼神を含め、皆冷たいのだ。大法会が始まった際に、寒く感じられたのは、あらゆる空間、会場中の通路が衆生でいっぱいだったからだ。一部の人が、厚いジャケットや帽子をしても、寒く感じたのは体が弱いからだ。だが、修法の間、寒くなくなってきた。人が増えたり、冷房を弱めたりなどもしなかったが、単なる済度が終了したからだ。だから、皆は良心を持って考えよう。大法会は、私がお金も体力も出した。私が善事を許しても、そなたらは一向に支持も、実践もしないでいる。それならば、来年そなたらは自らお金を出して行え!私はもう構わない。

先日、ある信者がその家族と土地の事で争ったから、会見を求めてきた。彼女の貪りを増やさないように、私は彼女を叱ったのだ。仮に、大功徳主を見かけて菩薩と呼んであげる場合、これこそ虚偽だ。不虚偽は仏法に基づいて話す事で、自分自身に何らかの報いが得られるかと考えるではないから、善根が破らない。私は、いくら人を酷く叱っても、善根は破らない。安逸した生活が欲しければ、私は苦労して商売する必要がなかろう。私も「そなたはまた白髪が数本か増えたね。大丈夫だから、仏を学べば治る」と言っても良いが、私は言わないでいる。とある70代の人が会見を求めてきたが、私は漢方医に診てもらおう、医者に診てもらいたくないなら、私の修行を真似せよと言った。だが、そなたらは一向にしない。坊間では、大悲水を飲めば健康状態が良くなると言われている。一杯の水に向いて大悲呪を七遍唱えれば大悲水になれると思ってはならない。或いは、文字まみれのカップを手に取り、その中にある水に向かって念じて飲めば、健康状態が良くなるそうだ。仏典にこう語っていた?一度も語った事がない。もし、そうだったら、仏はとっくに言っていたし、仏典にも書かれているはずだった。

着眼点がご自身の利益でない限り、人がやり間違えるのを心配しているのであれば、たとえ聞き手がそなたの言った内容を受け入れなくて、友達を辞めるようになっても、そなたの善根を破らない。そなたらは私の真似を薦められない。真似すると、親友は離れてしまうからだ。菩薩道を学ぶ者なら、この先になればなるほど虚偽をしない。でも、人の問題を指摘する前に、必ずその問題を分かることで、わかって初めて言えるものだ。でたらめを言ったら、人は後から不快を感じるからだ。

捨覚分:若捨所見念著境時。善能覚了所捨之境虚偽不実。永不追憶。
(若し所見の念著の境を捨する時は、善能く所捨の境の虚偽不実なることを覚了して、永く追憶せず。)

永不追憶とは、再び考えない事だ。昔どれほど愛し合ったか、砂浜で走ったり、スカーフが風にそよそよと揺れたりしたことを思い出さないのだ。過ぎた事は繰り返し考えない。良し悪しも過ぎらせて、追憶しない。人からの恩を覚えるべきなのに、そなたらは恨みや仇怨ばかり覚えていて、恩を覚えようとしない。この句は、再び思い出さないように、過去はもう過ぎたからだ。一部の女性は、結婚前はどうだった、結婚後は変わったと云々と言う。人によっては、結婚前は美人だというが、結婚後は顔色の黄ばんだ老婦人を口にはさむ男性も居るが、その男性もそなた自身が選んだのだ。

捨とは、全てが無常で常に変わっているので、永久不変などはない。常に変わっているからこそ、我々は所見を捨する念頭を持つべきで、考え続けなどはしないという意味だ。これほど多くの精神病者がこれに起因したのは、ひたすら考え続けているからだ。『金剛経』に全てが虚仮(こけ)で、夢幻泡影とある。虚仮とは、存在しないのではなく、随時変わっている事で、良いのが悪くなるし、悪いのも良いようになる。

定覚分:若発諸禅定之時。善能覚了諸禅虚仮。不生愛見妄想。
(若し諸の禅定を発す時は、善能く諸禅の虚仮を覚了して、見愛妄想を生ぜず。)

これは菩薩道を修める者ならではの事だ。大乗にしろ小乗にしろ、行者が真剣に修めた場合、「発諸禅定」の力が現われる。だが、我々は一切禅は虚仮であると分かるべきだ。禅は我々が学習、訓練の過程に過ぎなく、結果ではない。そなたが禅定に入った事によって、自分が修め得られたと思い込んだら、もうお終いだ。永遠に成仏ができないし、菩薩になる事もない。そなたが禅定を気に入ったら、いつか執着が起きるようになる。ある「非想非非想天」という天が、該当の問題があるのだ。禅定は単なる過程に過ぎず、結果ではない。私は、インドでの閉関修行を行ってはじめて禅定と無念の区別が付くようになった。もし、その違いを知らなかったら、そなたは禅定に入ったままで出られないようになって、開悟や証果ができなくなる。道教、カトリック教を含め、如何なる宗教は発諸禅定ができる。

不生愛見妄想。この禅定は虚仮でいつか変わるものだ。定の力が消えれば変わるようになるため、この禅定を好きになる感覚を生ずてはならない。私は必ず毎回こうすると思ったら間違いである。これは特に出家僧にとって危険だ。入定する事はなんと心地良いことかと思う者なら、おしまいだ。そなたが小乗を修めるに入りかけているからだ。いわゆる野狐禅(やこぜん)は、自ら入禅したと思い込む事で、そなたらの閉関修行と修禅を従える具徳の上師が居なければ、実に危険な事だ。

念覚分:若修出世道時。善能覚了。常使定慧均平。或心沈没。当念用択法精進喜三覺分以察起之。或心浮動。当念用除捨定三覺分以摂持之。調和適中。
(若し出世の道を修する時は、善能く覚了して常に定慧をして均平ならしむべし。若し心、沈没せば、当に択法・精進・喜等の三覚分を用つて、起るを察せんことを念ずべし。若し心、浮動せば、当に除 (軽安)・捨・定等の三分を用つて摂せんことを念ずべし。故に念覚は常に二盈の間にありて調和中適す。)

定慧均平。定なくしては慧が生じないし、慧ばかり多くて定がなくてもお終いだし、定だけあって慧がなくても無理だ。出世の道を修する際、定と慧を均等にすべきで、戒定慧(かいじょうえ)は同時に修めるものだ。これが、いわゆる定慧双修(じょうえそうじゅ)のことだ。

或心沈没。心の沈みに対し、大手印では精進する方法はなく、禅定において喜の覚分を起こさせて心の沈みに察知することだ。以前、私が顕教を学んだ時の話で、二回発生したことがある。定に入り、心の力が足りなければ、自ら定の中にいると感じ、眼耳鼻舌身は外で発生した事が感じられなく、僅か意一つだけしか残らない状況になる事だ。もし、誰もそなたを定から起こさなかったら、そなたは定に入ったままに留まる事で、いわゆる不倒単という。ある日、私は自宅で座禅していた。私は夜中での座禅が多く、その日はそのまま定に入ったから、眼耳鼻舌身による作用が停止してしまい、意だけしか残らなくて、自分は生きていると感じながら、外の音は一切聞き取れなかった。ふと、ある女性の笑い声が聞こえてきたから、出定したら、既に二時間も経った。密法を修め始めてから、きっとその女性はアキ護法に違いないと分かった。その時、私の脈拍と呼吸が極めて弱かったので、私に近づかない限り、既に死んでいるように見られるぐらいだった。仮に、その日に私は出定できなかったら、死んでいると思われ、解剖されたに決まっているだろう。

(リンポチェは出家衆にこういうのを見たことあるかと聞いたところ、廣欽老和尚が入定した際に、寺院の人に死んでいるかと思われ、廣欽老和尚が焼かれそうになったが、やがて弘一大師が来て彼を出定させた話があると答えた弟子がいた。)リンポチェは引き続き開示した。今言った例は有名だが、実はこの類の事はよくある上、危険だ。しばしば発生しているが、この話ならよく知られていて、念覚分がないに属する。

一部の男衆は座禅を好んでいるが、そこいらに座ると自ら禅師だと思い込み、腕の脈でさえ測られないほど座って、一時間でも座ると心地良いなどと感じている。リンポチェは現在、座禅を教えない。そなたらも禅を学ぶ器ではない。そこいらに一時間座ると、健康に良いなんか思うではない。健康になりたいなら、運動しろ。だが、みなは怠けているし、汗かきもしたくないのだ。

のちに、もう一回経験したが、場所は基隆にある歴史の長い観音寺だった。ある古き石観音が横のお堂に安置されているが、私はそのお堂に入ってから入定した。外は雨だったが、入定の際は雨の音でさえ聞こえなかった。その時、ある友達がお伴だったから、そのBB.Call(ポケベル)が鳴ってはじめて私は出定した。それから、密法を修習して、インドでの閉関修行を行ってはじめて定と慧を均等に割り当てられるようになった。定が多すぎると、智慧が出てこない。それに対し、智慧が多すぎると、定も出てこられない。智慧が多すぎる場合、傲慢になりうるから、上師からの導きが必要とする。

心が揺れ動いたら、慧が無くなる。リンポチェは更に出家衆らに三覚分を調べと指示を下した。

定は何に使う物であろうか?私をいい機嫌に保って人と喧嘩させないためではなく、私は定ができると見せつけるためでもない。定の目的に、人が往生したその一刻は、体の事情で思いが飛び交って、称名するどころか上師の顔でさえ思い浮かばないから、まさにこの瀬戸際のために定の力が要るにある。調和適中。我々は心が散らかりすぎているので、定を修めると我々の清浄なる本性がたまに現われたりし、ぱっと智慧がついて現われるようになった。訓練の積み重ねによって定があるようになれば、智慧も次第にあるようになる。自ら定の力を具備していると分かり、智慧も開けば、それらを均等に割り当てる時だ。定の中に執着してばかりいるではなく、ご自身に大なる智慧を持っているからと言って傲慢になってはならない。

『宝積経』に、菩薩道を修める者なら禅定を捨するとある。禅定を学ぶ者にとっては禅定を捨するなんて恐ろしいと思われる。だが、今は、仏の仰せに間違いがないと明かしている。そなたらが入ったのは、釈迦牟尼仏で言う定にではなく、そなたらで言う定は単なる意識を抑えて動かさないでいるだけだからだ。意識が動くと、累世の冤親債主が訪れるようになる。だから、定の働きをよく知るべきだ。仏像の前に、気のままに結跏趺坐するではない。比較的に心が静まれば、物事がより順調に行けると思うではない。

『阿弥陀経』では、釈迦牟尼仏が特別にこの段落を言及したのは、これは我々修行の過程に必要とする道具だからだ。地球では、前述したような境界まで実践するのは難しいが、阿弥陀仏浄土で修め続ける必要があり、いずれにせよ法身菩薩に証するまでは円満ではないからだ。円満ではないから、出世法が行えない。例えば、済度に当たってそれほどの衆生が殺到する場合、もし定の力、智慧が足りなければ、これだけの衆生を見かけると、そなたは恐れるし、念頭を起こしまですることもある。

菩薩道を以て人を助けられる人は、まず菩薩戒を守り、菩提心を発してはじめて、定、慧が習得でき、人を助けられる能力を具備するようになる。定だけあって慧がなかったら、人を助けられない。慧があって定がなかったら傲慢になるから、定と慧は均等に修めるべきだ。もう一個の解釈では、智慧は定の中で空性が現われたことから、智慧は空性である。一切皆空(いっさいかいくう)で、不変などはない。今日で見たあらゆる現象は業力、因縁によって現われ、変わらない事はない。我々は戒から定、慧を生じることができてから、わきまえて、そして執着にならないように均等に割り当てるべきだ。それに、これが戒、これが定、これが慧に執心しない。この三つは、使う場合は同時に使うから、使い分けはない。例えば、済度の際に、もし菩提心戒がなければ決して定が生じない、定がなければ智慧は開かないから、空性を証するまでの修行が有り得ない。施身法の時も、もし私に空性を持たなければ、修められないし、衆生を済度させることもできていない。

「五根、五力、七菩提分、八聖道分」について分かった上、この方向に準じて実践すべきだ。現在、そなたらが為したのは助縁で、決して無駄遣いしない。リンポチェが為す事も、すべてそなたらへの助縁に繋がるから、リンポチェは強要しないし、そなたが拒んでもいいし、地獄にも落ちないが、ただ助縁が減少し、この一生は仏法に近づいたり、相応するチャンスが次第に少なくなるだけだ。一回少なく為してもどうにもならないが、そなたがご自身の事を思いすぎるせいで、善の事がそなたの目の前に発生しないようになる。

八正道分:正見、正思惟、正語、正行、正命、正精進、正念、正定。

昔『宝積経』を開解した際に、八正道、つまり八聖道について開示した事がある。顕教でいう八正道とはちょっと異なったが、今日は説明してないでおこう。

引き続き『仏説阿弥陀経』について開解しよう。

経典:「是諸衆鳥。昼夜六時出和雅音。其音演暢五根五力七菩提分八聖道分如是等法。其土衆生聞是音己。皆悉念仏念法念僧。舎利弗。汝勿謂此鳥実是罪報所生。所以者何。彼仏国土無三悪趣。舎利弗。其仏国土尚無三悪道之名。何況有実。是諸衆鳥。皆是阿弥陀仏。欲令法音宣流変化所作。舎利弗。彼仏国土。微風吹動諸宝行樹及宝羅網出微妙音。譬如百千種楽同時俱作。聞是音者皆自然生念仏念法念僧之心。」

仏は大慈大悲で、阿弥陀仏浄土に何があると教えてくださった。阿弥陀仏に会えるとは言っていない。風が吹くなり、鳥の鳴き声が聞こえてくるなり、そして花の良い香りも漂うなりと。私が持呪している際に、そなたらも良い香りが嗅げると同じようだ。『阿弥陀経』に「五濁悪世に於いて、此の難信の法を説く」とある。そなたが信じなくて、ご自身の事ばかり信じている。やりたい放題にしている。仏典に、こうと書かれていないのに、そなたらは意地でもそう思っている。こうなら、阿弥陀仏浄土へ行くよう済度される事ができようか?もちろん、できないのだ。仏法の観念から言えば、そなたのこの一生であらゆる業力を返済し切らないで、空性、法身菩薩まで証する事ができないなら、輪廻しない根拠はあるか?故に、阿弥陀仏が現われて四十八願を以って、我ら自分自身が修行していると思い込んだ、器にならない衆生らを、阿弥陀仏浄土へ連れていって修行させるように助けてくれる。そなたらは凡夫で、そなたらは、発願はあったか?これまで言ってきたことを実践したりしたか?そのため、そなたらを来迎に来てくださるのは、化身仏だ。

阿弥陀仏浄土に行けば、そなたは年少以下の二歳児クラス所属で、ゼロから始まるわけだ。そなたらが思うように、阿弥陀仏浄土に着くと、仏は友達をしてくれるような事はない。すでに地球で出家したし、多く拝んできたからなどと思わない。同じくゼロから始まるのだ。ここでは、すぐ菩薩やら、仏やらになると言わず、そなたを眠らせないで昼夜六時で修行させるとしか言わない。

出和雅音(和雅の音を出す)。私がラキ雪山で閉関修行した際に、毎朝3:30に一羽の鳥が先導で鳴き出してから、続いて複数の鳥も鳴き始め、十数種類の鳥が共に鳴き、一片となった鳴き声で私を起こしたものだ。だから、阿弥陀仏浄土で24時間眠れると思ってはならない。阿弥陀仏浄土では、昼夜六時で、つまり24時間ずっと各種の鳥の鳴き声で、そなたの修行を促している。浄土ではぐうぐう寝るではない。鳥によって違う鳴き声があるから、そなたが眠れないようにする。鳥によって鳴き声が違うし、種類の異なった鳥も鳴き声がそれぞれ違う。鶴ならそれなりの鳴き声が出れば、孔雀ももう一種類の鳴き声になる。そこで様々な鳥があるのは、一種類の鳴き声に馴染んだら、感覚を失ってしまう恐れがあるからだ。そのため、各種の鳥によって、そなたの修仏を助けてくれる。これらの鳥は阿弥陀仏の化身でそなたを助けるように現れ、仏を学ぶにおける五根、五力、七菩提分、八聖道分の修行を増してくれる。五根、五力、七菩提分、八聖道分を持たない者なら、念仏、念法、念僧をしていない者なら、阿弥陀仏浄土に行けようがない。

数日前に、私は法王と仏寺の基地に赴き、そこにはたくさんの鳥が鳴いて、様々な鳥があったり、風もそよそよと吹いたりしていた。そなたにも行った事があれば、ご存じのように、そこは常にそよ風が吹いており、谷のくせに風が通っているとは、実に特別な場所だ。

我々の心は定めていないから、たくさんの声や音によって心を落ち着かせる。そのため、念仏、念法、念僧が必要で、毎日護法、不共四加行、持呪を修めるのは全て「念仏、念法、念僧」のためである。浄土に行ってからも同様だが、ただそこなら上級クラスで、ここは年少組以下の二歳児クラスだ。いずれにしても、ゼロから始まるのだ。持呪してパートナーに廻向すれば、彼の健康状態がよくなると望まない。そなたに定も、戒もなかったら、役に立たない。子供に廻向すれば、健康になるし成績も良くなるとも思わない。これらと関係ないのだ。

心の中にリンポチェがない者なら、修めてないと同様だ。自分で修められると思う者なら、修めていない。仏は私のだと言う者も、修めていない。一部の人は、家の菩薩などをよく口にしているが、観音菩薩、釈迦牟尼仏はお宅に住むわけか?お宅は道場なのか?お宅に観音菩薩が安置されていれば、お宅のになるか?すべて傲慢だ。

経典:「舎利弗。其仏国土成就如是功徳荘厳。」

阿弥陀仏浄土で、一筋の草、一本の木、一輪の花、一羽の鳥たりとも、そならが見かけたあらゆる物は我々の修行を助けてくれるに当たり、そこなら俗世間の事はない。我々にこの種の成就がなくて、阿弥陀仏浄土を荘厳する事ができないから、阿弥陀仏だけしかこの種の福報を持っていない。そこで聞いた、触った、感じたあらゆる物は我々に修行を助けてくれるために現れ、地球でならすべてが我々を輪廻させるために存在している。自分が快適な生活を送っていると思ってはならない。釈迦牟尼仏の仏土は娑婆世界で、輪廻する凡夫と聖人が一緒に住む場所であり、それなりの凡夫と聖人の環境が分かれている。

経典:「舎利弗。於汝意云何。彼仏何故号阿弥陀。舎利弗。彼仏光明無量。照十方国無所障礙。是故号為阿弥陀。又舎利弗。彼仏寿命。及其人民無量無辺阿僧祇劫。故名阿弥陀。」

阿弥陀仏と名つけたのは、何故か?阿弥陀仏の光は無量あり、障礙なく十方一切国土にまで照らす事ができる。阿弥陀仏の寿命、そして阿弥陀仏国土でのあらゆる衆生の寿命は数字で計算できはしない。一大阿僧祇劫を過ぎてもまだ存在している。

経典:「舎利弗。阿弥陀仏成仏己来於今十劫。又舎利弗。彼仏有無量無辺声聞弟子。皆阿羅漢。非是算数之所能知。諸菩薩亦復如是。舎利弗。彼仏国土成就如是功徳荘厳。」

阿弥陀仏が成仏して十劫経った。地球が成住壊空して、また空壊住成する一往復を一劫と言う。ここでは大劫か小劫と言及していないが、要するに非常に長い時間が必要だということだ。

皆阿羅漢。阿弥陀仏浄土には、無量の阿羅漢、そして無量の菩薩がそこで修行し続けている。ここを読めば、阿羅漢も行ける事と分かった。だから、密宗では小乗を修める行者を卑しめられないと言っている。在世の時に、小乗を修めて阿羅漢の果位を得られたとしても、その心念が一転して大乗仏法を修めようとすれば、阿弥陀仏浄土で修行を続けられるが、十二小劫という時間が掛かる。

阿弥陀仏にそれだけ多くの化身を持つのは何故だろうか?その浄土に多くの阿羅漢と菩薩が阿弥陀仏の化身に成り、我々を来迎するからだ。そなたが在世の時に菩薩果位まで証していないなら、生きている間に決して阿弥陀仏が見れようがない。それ以外なのは皆化身である。阿弥陀仏に会いたいなら、そなたが死後、化身仏が来迎に来てくださるか、そなたの在世の時にすでに菩薩果位まで証して菩薩になっているかのどちらかで、こうするしか報身の阿弥陀仏に会えない。

阿弥陀仏の光は十方世界を止まらず照らし続け、光はどの筋も阿弥陀仏の化身となる。もし、そなたは菩薩果位まで証していないなら、如何なる方法を使ったとしても見れない。阿羅漢にしろ、凡夫にしろ、その辺で来迎の際に至れば、阿弥陀仏の姿が見れるようになる。我々は、生前、阿弥陀仏の称名を多めにするべく、仏を見てない限り、我々の念頭に仏があるべきである。上師も阿弥陀仏の化身となってそなたを助けに来れる。密宗では上師が大事だと言うのは、ここを指しているのだ。

経典:「又舎利弗。極楽国土。衆生生者。皆是阿鞞跋致。」

阿鞞跋致は候補菩薩である。たとえ、そなたが在世の時、菩薩果位まで証していないとて、そこいらに居れれば候補菩薩として、すぐ菩薩道の修行を始めるわけだ。地球にいる間、進んで菩薩道を学んだり、修めたりしないのなら、たとえ毎日唱えても行けようがない。菩薩までする事ができなくとも、せいぜいこうした観念を強烈に持つべきだ。ご自宅の些かな事で仏法の聴聞に来るではない。そうでなければ、浄土はそなたとちっとも関係がないのだ。

大乗仏法は菩薩道を修めている。それにしても、ご自身の名と利を気にする?気にしないでいて初めて菩提心を発し、菩薩道を行えるわけだ。慈悲を修めないし、菩提心を発しなくては、何の理由で阿弥陀仏の称名をすれば行けるようになるのか?

経典:「其中多有一生補処。其数甚多。非是算数所能知之。但可以無量無辺阿僧祇説。」

候補菩薩の中では、多くはこの一生で行けるようになり、つまりすぐに証果できるのだ。今後は、後世は何々人になりたいと発願するではない。菩薩まで証していない者なら、再び戻ってくると乗業再来ほかにならない。それに対して、菩薩果位まで修められれば、乗願再来となる。一部は、直ちに行ってない人もいるが、その場合は彼らが地球で菩薩道を行っているのだ。行い終えればすぐ行けるようになって、そして合格するのである。私はこの一生で、地球で菩薩果位まで修め得たから、阿弥陀仏の身許に行くと、認めてもらえる。そこは、地球での証明書やメタルの頒布などのような物はない。仏からそなたならあると認めれば、あるという事だ。そなたが為した一切の功徳は、阿弥陀仏は知っている。そなたが証できたら、そなたが阿鞞跋致だ。そなたがこの一生、地球で菩薩道を行っている。たとえ菩薩果位まで証していなくとも、そなたが菩薩道を行ったり菩薩道を学んだりしているから、そこいらに着くとすぐ菩薩になる。だから、私が成仏する時間がかなり短縮するようになる。より短いというのは、そなたらが思うような数年、数万年という数字ではなく、数十万年単位で少なくなっている。成仏は、容易な事ではなく、時間がかなりかかる事だ。

故に、在世の時から行うべきだ。死んでから浄土で修めようと思うではない。それなら、時間は随分余分にかかりそうだ。今のうち、ちょっとずつ累積しなければならない。地球で先に修めるに換えて、阿弥陀仏の身許に行ったら、それほど長く修めなくてもいいようになる。

経典:「舎利弗。衆生聞者。応当発願。願生彼国。所以者何。得与如是諸上善人俱会一処。」

これらを聞くと、きっと阿弥陀仏国土に生まれたいと発願するはずだ。彼ら上善人と一緒にいる資格はあろうか?まずは、必ず十善法を修め終え、菩薩果位まで証することだ。我々が行けば、最も良い人と一緒にいる。もし、そなたが地球にいる間、でたらめばかり言うのだったら、どうやって行けようか?地球の場合でも、国王を殺人犯と同じ場所にしないだろう?国王が殺人犯を赦免するなら話は別だが。終日、ご自身のお金を細かく計算すれば行けようがあるか?修行は一日二日にしてできる事ではなく、「念仏念法念僧」との六字が最も重要な事で、心念が肝心だ。そなたはそれの実践したか?まだご自身が良く唱えた、仏典をたくさん読んだと思っているなら、念僧念法をしていない事を意味し、行く資格を持っていないのだ。行けないようなら、また来る他にない。念仏、念法、念僧の心は実践したか?実践していなければ、諸上善人と一緒にいることができなく、自然と行けなくなる。行けないようなら、また来る他にない上、今度来ると出家僧になるとは限らない。私自身でもある世は出家僧だったが、この世は出家できなかった。重い業力によって牽引されて来たのだ。真の行者なら、衆生利益を発心し、再び来た際は、乗業再来ではなく、乗願再来だ。

阿弥陀仏浄土に行けば、報身仏が来迎してそなたを従えて修行する。阿弥陀仏浄土にいるのはすべて上善の人である。在世の時、生死解脱を修めないのは全て邪法で、これらは阿弥陀仏浄土への往生ができないのだ。阿弥陀仏浄土での修行は、不退転の果位が得られる。

経典:「舎利弗。不可少善根福徳因縁得生彼国。」

この句で呵責している:不可少!リンポチェはそなたらをたくさんの事をさせたのは何故か?私は、そなたらの助縁、善縁の増長に努め、善根を植え付けている。ご自身が修めていると思うこと勿れ。そなたらを命じたのは、助縁を与える事に当たっているが、そなたらがやらなければ私もどうしようもない。助縁を与えたのに、そなたらはしようとしない。過去の話はさておき、今年のパルナシャバリを取り上げて言うが、多くの人は参加しなかった。「リンポチェは参加する事を強制しなかったから、たとえ唱えても私自分自身のためではないし、関係ないだろうと思って、参加しないようにした。」と思っただろう。衆生利益の事をせず、自分自身の事ばかり考えていれば、善根の累積ができなくなる。仏寺建設の護持をゆっくりとした人らも、後から護持できるようになったが、数年間遅くなっただろう。ご自身がずらしたから、阿弥陀仏の身許にまでもずらすようになる。善根は、上師が種子を撒くのを手伝うのだ。骨が折れるまでする人は居ろうか?

毎回、この句を唱える度に悲しく思う。1997年から私は弟子に善根を止まずに植え付けさせるが、弟子が意地でも要らず、自分自身でさえ唱えられると思っている。帰依して十数年、二十年の弟子はまだ癌に罹ったのは何故か?助縁、善根が不足しているからだ。善根が足りていれば、たとえ累世で積んだ悪業が報われても軽く済む。以前、私の罹った癌が治れたのは、私には善根が少なくはないからだ。持呪や法会などに参列しているから、何もかも良くなると望まない。いわゆる良い暮らしは、ただ助縁に過ぎず、そなたの仏を学ぶ因縁を助けるのだ。そなたの望むようであれば、仏典にとっくに法会に参列すれば良くなると書いてあるはずだし、仏典にひたすら助縁について言及する必要もなかろう。

一日も早く、浄土で花開見仏(かかいけんぶつ)になりたいのなら、浄土に行ってから考えるではなく、地球にいる間から、実践を開始しなければならない。そなたらは二歩進んで十歩引いていては、仮にリンポチェが亡くなったら、そなたらを助けられる人は居ろうか?仏を学ぶのは僅か数十年で納得のできる人生のためではなく、重要なのは死後どこに出向かうか?ここでは、仏が浄土に行く条件についてはっきりと仰せになった:不可以少善根。常にそなたらに善根を植え付ける機会を与えている事が、私がした正しい事の一つだ。他所なら、必ずこうした機会があるとは限らない。

誰もが、『阿弥陀経』を唱えたことがあれば、死後、浄土に行けるかと思っている。坊間もそう流布している。ここまで聞いたら、そうではなかったと分かったから、皆は聞けば聞くほど恐れるだろう。『阿弥陀経』にはっきりと善根が欠かせないと言ったから、私は絶えず因縁を作るに当たっている。善根を植え付ける機会を与えているのに、そなたらは遠ざかっていく。私が帰依した当初、法王も私に何か言いつけはなかった。ただ何かが耳にすれば、私はすぐに実行に移すようにしている。そなたらの思ったような、法王からの言い付けは必ず法会の執り行いだったり、仏寺の建設だったりではない。そなたらの目線から見れば、多くの事は対象外になるが、法王は私の上師だから、私は必ず仕える。これは修行と関連があるか?と聞かれそう。ある、助縁というものだ。そなたなら、一歩進んで二歩引く、三歩進めば百歩引く。以前の事はさておいて、一番最近にあったのは、パルナシャバリの持呪の件だった。リンポチェが、来ても来なくてもご自由にと言った以上、ご自身と直接に関連する事でないから来ないでいようと思っただろう。仏寺建設の護持も、「様子を見てみよう。そんなに早く竣工する事ないだろう。暫く待とう!」と思っただろう。

如何なる人も、そなたらが家屋や土地を売却して家産を傾けるほどの、供養が欲しがらない。一部の人が家屋で私に供養しようとしていたが、私は受け取らない。肝心なのはそなたらの念頭にある。上師のしたい事をそなたらが心に置くかどうか。他所なら、我々ほど善根を植え付ける機会がたくさんあるわけではない。私は、毎年の大法会で信者が供養した賽銭を、衛生福利部の専用口座に預けている。この間、私はその中から100万元を引き出してパラリンピック選手を支援したが、選手らは皆喜んでいた(詳しくは、「東京パラリンピック 抛磚引玉で善行する」を参考。)彼らが喜んだのは、いい成績が取れたからではなく、自分らが気にかけられたと感じたからだ。これが一種類の善根に当たる。もし、まだ終日ご自身の事だけしか頭にないならば、仏の説かれた善根福徳因縁と関係がなくなる。私は食事をとらなくても良いが、善根をやらなければいけない。そなたらとはまっ逆だ。そなたらは、ご飯を食べないといけないし、善根をしなくても良い。私は癌に罹ったが、薬も飲まずに、医者に診せずに癌が治ったというのは、絶えず善根を植え付けているからだ。

私は仏を学び始めてから今に至るまで一刻も善根の植え付けを中止する事はない。仏典には「停止してはならない。いったん停止すると善根は増えない」とあるからだ。ある人は間違った思いを持ち、念仏、念法、念僧せず、信心が不足しているから、ややもすれば業力に引っ張られたり、思い一つの差で戻ってしまったりする。だが、法会に参列した事がある故、少し福報が溜まっていて、道場を離れた一部の人はすぐに事は発生しないが、生死から解脱するばかりはできないのだ。

1997年から仏法を広め始めてから今日に至るまで、上師たる私は、絶えず善根を植え付けられるように機会を作ってあげるに務めている。そなたらの善根が累積できるように、絶えず善縁を作ったり、絶えず善事を許したりしてきたが、そなたらは嫌がって拒否してばかりいる。そなたらがお金を出す際には、細かく計算している上、僅かな善根をしただけで、もう充分だろうと思う。さらに、成し遂げられないから、プレッシャーとまで感じた人もある。プレッシャーがあるわけないだろう?行えればいいのに。どれほど行ったかは重要ではない。肝心なのは、途中で止めたりしないでやり抜くことだ。そなたらは行わない事から、私は疲れを感じている。私はもう73歳で、もっと良心を持ってくれないか?

私は仏典に基づいて語っている。皆さんは気が付いたと思うが、私の説法に間違いがあれば、これら出家弟子は直ちに私に正してもらっている。私は十数名の出家僧を弟子入りして私を監視している。リンポチェがその場にいた出家弟子に、今日の説法に間違いがないか?と聞いた。(出家弟子らが笑いながら頭を振った。)アキ護法があまりにも凄すぎて、出家して十数年の出家僧らを私の弟子にさせた。リンポチェの説法は必ず基づく根拠があると分かってほしい。全て、上師に教わったものや、仏の教え、そして自分自身の修行によった経験である。これらを言い出しても私のためにはならないと、そなたらははっきり知っているはずだ。

私は今あまり弟子入りを受け入れていない。最近、帰依を求めに来たのは、真に仏を学ぼうとする者ではないことに気づいたからだ。故に、私はあらゆる面からそなたが真に仏を学ぶかどうかを判断する。法会の参列だけ許し、帰依の許可がない限り、きっと何かあるに違いない。大法会後、黄医師が私の脈を計ったら、脈象が3分の1減ったと言った。つまり、私の生命エネルギーが3分の1減ったということだ。もともと三十代の脈象から、一気に六十代になったわけだ。たとえ3分の1が減ったとしても、私は法を少なめに修めたことはあるか、そなたらを少なめに加持したことはあるか?(参列者から、ありませんと答えた。)それでは、そなたらには良心があるか?私が老いるようになる事が望ましい?皆でよく考えてごらん。

福徳因縁について、今度開示しよう。

リンポチェは参列者全員を従えてアキ護法と廻向儀軌を修持なされた。


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2021 年 02 月 16 日 更新