尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示– 2020年10月25日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝なる施身法法会を司られ、貴重な仏法開示を賜った。

リンポチェは法座に上がられると、すぐさま六字大明呪を唱え、続いて修法に移られ、そして、助けてあげたい人や亡者などの名前を言い出すようにと、大衆に言い付けられた。

リンポチェは長らく六字大明呪を持誦し、大慈悲心を以て一切衆生を苦しみから離れさせるように救済し、その慈悲なる法音がまさに潮のように連なり十方に満たされる。悠久かつ深長な持呪声は、道場中、虚空中に響き渡って参列者全員に感動を呼び寄せた。衆等はみな、リンポチェが懇切に衆生を輪廻苦海から救い出す大悲心を感じ取り、思わず涙がこぼれた。

修法が円満となり、続いてリンポチェが開示された:

本日修める施身法は、すべて菩薩道の修め方に従うという特徴がある。菩薩道とは何であろう。 衆生のみで自我なし、何もかも衆生に与え、自分は何も要らない事である。よりによって、そなたらは真逆で、何もかもせがみ、何一つも衆生に与えないでいる。上師に対しても同様だ。だから、そなたらはみな菩薩道を修めていない。自ら修め得ると思うではない。

昨日、ある帰依して10数年の弟子が病気を患って会見を求めに来て、彼自らここ十数年修めていないと言った。もちろん修めていない。なぜなら彼はここ十数年以来、己をよく保護すれば十分だという観念を貫いてきたからだ。こうした心持の者なら、絶対に菩薩道の学びも修めし得ないのだ。毎回の法会に彼は参列しているし、ベジタリアンにもなっている、供養もしているが、彼の上師に対する供養は、まるで歌を聞きに入るためのチケット購入と例えると良い。そればかりか、チケット代一枚分よりも劣っている。彼はえらい金持ちではないが、お金はあるほうだ。金銭は彼の家族にとって非常に重要だ。そなたらの多くもそうだ。自分の生活さえ何不自由がなければ十分だというような概念を持つ人等には、菩薩道の修めや学びは有り得ないのだ。

毎週のように参列すれば効果が出ると思ってはならない。念仏や持呪などは、何れも助縁に過ぎない。その弟子は福報を財に振り向けた分、健康への福報が無くなった。何もかもせがむそなたらはよく考えてみよ、全てを円満させるように何か法を修められたか。そなたがこれまで何を為してきたか。仏眼(ぶつげん)だけしか、我々累世で為してきたことを見通せない。阿羅漢なら過去と未来の五百世しか分からないから、そなたと、私は知れるものは全くない。

施身法テキストの冒頭に、一切諸仏菩薩、本尊マチク・ラプキドゥンマ(Machik Lapkyi Drönma / Machig Labdrön)を供養することに言及した。そなたらが聞くと、恐れおののく上、さっさと仏を学ぶことさえを放り投げるだろう。ここでは、テキストにある一句をちょっと言おう。「己の身体とあらゆる財、善根を、無尽の雲のように、一切の仏菩薩、本尊マチク・ラプキドゥンマ及び伝法された上師に供養する。」身体は内外の二つに包括され、「外」は外在の生身であり、「内」は内臓ではなく密法であり、気脈明点を含む一切を、この法を伝えられた本尊と上師に供養するのである。財とは富で、福とはそなたの福報である。善根はそなたの修行、善を行う機根である。すべて供養する。これを裏付けに、まだご自身は供養していると言えようか。誰も供養していない。このように、求めず、己の無いような供養を持ってはじめて仏菩薩と相応ができるようになり、衆生が済度を受けに寄ってくれるのだ。

長期にわたって施身法を修める行者は、もともと体に不具合があった者も、ひたすら修めれば、健康状態がますますよくなっていく。すべて(衆生に)振り向けたではないか、と疑問に思われるかもしれない。古いのが去らなければ、新しいのはやってこない。そなたらの思惟では、古いのを保ったまま去らせないから、仏を学ぶ際にも、学び得られない。仏を学んで自分自身のためだと思い込んだのも、菩薩道とちっとも関連性がない。済度法会の執り行いは、ご想像のような、読経でもすれば済度はできる、のではない。仮に、私自身にこうしたエネルギーを持たないとすれば、また毎月のように済度法会を行い続けては、とっくに死んでいたはずで、今まで生きていることはない。テキスト通りに棒読みだけで、既にビビッているだろう。きっと、仏菩薩は理不尽で、身体でさえ供養しろというと、自分自身の生計はどうなるだろうと思われる。むかし、私は毎日施身法を修め、テキスト通りに唱えてきたが、依然食べていけたし、体も無くなることはなかった。宇宙万物、一切物事は、常に変わり、永久不変がないということを表している。

何故、こうしなければならないのか。 我執を破るためである。何故破られるのか。 体でさえ惜しまないからだ。病を患っても医者に診てもらわないような、自棄になるのではない。仏はいっさい我々が医者に診てもらうのを阻止したことがない。一部の人は「体は大事ではなく、四大皆空、体が壊れても構わない」という見解を持っているが、この体なくしては修行ができないのだ。仏典の続タントラでは、釈迦牟尼仏は病人に治療を施されると説かれた。観世音菩薩も信者や弟子に薬の処方を出される。我々は依然医者に診てもらうものだということを意味している。今後、仏寺が竣工してから、出家衆に、病気になっても医者に診てもらわない者がいた場合、私に知られたら、追い払うしかない。仏菩薩は万能だという間違った考え方を持ってはならない。仏は自ら万能だと言い張っていない。それは外道な言い方だ。健康状態が良くなければ、仏をどう学ぼうか。健康が良くないのはご自身の因果によるものであり、そなたは責任を取り、受け止め、受け入れると良い。医者に診てもらっても完治するとは限らないが、そなたが仏を学んでいるから、少なくとも医者は薬の処方を間違えたりすることに至らない。

施身法を修めるに当たってこれだけ多くの布施供養をするのは、自らの福報を先に蓄積しておくためである。無私、無求、無量の供養を通じ、一切衆生を利益できるよう能力を持たせるもので、幸福の享受のためや、修行上、何らかの進歩を企てるのではない。テキストさえ唱えれば修められると思ってはならない。私自身にもこうしたエネルギーを持たなければ、修め得られないのだ。自分の身体を衆生に布施するとは、自分の肉、骨、血を衆生に食べさせてその悪の心を滅ぼすことである。菩提心を持たず、菩提を行わず、布施・供養を惜しむような行者では、この法が修められない。悪心が滅び、善心が起きてはじめて観音菩薩の慈悲心と相応し、済度を受けるようになる。修法の速さで結論付けないように、私は必ず何年も何世も修めているに違いない。そなたらが成し遂げられないなら、身の程を知って弟子や信者などを為そう。これ以上、手管を弄しない。

テキストの中には、こう書かれている。私はもう一尊の本尊になって、布施・供養を受けてもらうよう、多くの衆生を引き連れて、仏菩薩に供養し、衆生に対して布施する。また、テキストにこういうふうにも書いている。上師に対し、法に対して、決定的な信心を持ち、長期にわたって施身法法会に参列すれば、そなたは夭折しない。今さっき、自身の経験を語った弟子の話(詳しくは、衆生済度事跡1066号を参考)は別論だ。それは私とは関係がなかった。1997年、寶吉祥道場の発足以来、道場で生まれた子供は一人も夭折していない。このテキストに、病魔や病主などをみな呼び寄せて、上師の血、肉、骨を食べさせると書いてある。リンポチェは特に変化がないくせにと言うかもしれないが、そなたら凡夫の肉眼では見えないのだ。だが、来てくれた衆生等は私が布施したのを見かけた。来てくれた衆生はちゃんと食べれたか。 それはもちろん食べれた!でなければ、さほど私の言うことを聞くことはなかろう。私が大腿骨の法器をふいたとたん、衆生はみな集まってくれた。ちゃんと食べたから、済度される福報が得られる。修法者に福報・功徳がなければ、済度することができないのだ。

彼等は食べなかったら離れないし、思う存分に食べなくても留めて離れない。なぜ、寺院の中には霊がいちばん多くいるかと言えば、人に呼び出されたのに、布施を施さないし済度もされないから、仕方なく寺院に滞る。寺院によって暫く布施を停止すると、ハプニングが発生する傾向があるのはなぜか。それは、彼等を留めたのに、食べさせないし、乞ってももらえないから、彼等の機嫌を損なわれた故、祟り始めたのだ。

善悪業を転じるのは、一か月、二か月にして、一年、二年にしてのことではない。絶え間なく実践し続ければ、きっといつか転じる。寶吉祥仏法センターではここ十年は特にトラブルの発生はしていないし、弟子同士にも大きな揉め事がなかった。何かがあったら、上師がいつも締め括り、上師が担いでいるから、そなたらに八つあたりすることはない。(テキストの)後半に、ある段落では、これらの鬼神衆生等をすぐさまにこちら辺に寄るように招き、こちら辺に集まり、まとまって私から与えるようにするとある。

もう一つの段落では、誰かが魔を唆して危害を加えてくる場合であり、その魔ですら引き連れられる。ある人たちは、訳の分からない病を患ったのは魔に起因している。長期にわたって施身法に参列すれば、次第に好転する。また、誰からの唆しではなく、自身で感化されてくる場合もある。我々では過去世が見えないから、過去世の話はさておき、この世でどれだけ殺したか、どれだけ肉を食べたかを見てみよ。これらはすべて魔を引き寄せ得るのだ。これ等の魔との間に、過去世で恩怨(おんえん)があったとしても、この世で善を行えば、かれらは危害を加えてこない。それに対して、そなたがこの世で間違ったことをしたり言う事を聞かなければ、すかさず彼らがやってくる。なぜ、冤親債主を供養するのか。彼らの悪心が滅び、そして善心が具足して欲しいのであって、彼等を消滅するのではない。多くの人は、密宗では霊を殺したり追い払ったりすると勘違いしている。確かにこの種の方法はあるが、私は使わない。たとえ使ったとしても、殺すつもりではなく、済度させるつもりである。また、仏典で説かれたような、恵みを与えたのに依然話を聞かないという場合の話は別だが、その頭が七つに裂けるのだ。この種の法もある。

済度を願い出た人に対して、私は一律に基本的な事を要求する:この一生涯、菜食主義者になる事。なぜなら、私の弟子でなければ、その供養を受け入れない(リンポチェは、この後、信者からの供養をもらわないようにと、特別に弟子に言い付けられた)ようにしており、私はこの一生涯を使ってすべての債務を返し切るつもりだからだ。私に供養する資格がない以上、この先も諸仏菩薩に供養をしないだろう。しかし、ご自宅の亡者に、仏菩薩による済度、上師による救済が得られるように、そなたは何かしなければならないのだ。不殺生、菜食主義者になるのは、単に飲み食いに対する欲、健康問題に関わるだけではなく、菜食主義者になれば、衆生に傷害せず、殺さず、慈悲心の育成に繋がるのだ。仏典曰く:衆生の肉を食すれば、慈悲の種子を滅ぼす、とある。

『地蔵経』には、進んで殺すことを止めれば、衆生の肉を食べなければ、自ずと事故が減少し、福報が次第に蓄積され、亡者が度を渡られる比率がほぼ百パーセントになる、とある。これも『地蔵経』で説かれた、亡者が死に際、または事切れたところを、耳元でその最も大好物である宝物や金銭財物を以って供養・布施を施すと話すことだ。なぜ、こうするのか。 それは、亡者の執着心を断ち切るからだ。亡者のために、福報を蓄積し福田を植えた上、諸仏菩薩と上師による済度を受け入れられる資格を持たせる。これは、仏典を出典したもので、私が説いたのではない。菩薩道を学ぶには、必ず仏の説かれた通りに実践すべきであり、自己流にブランドを作ったら間違いだ。

昨日、ある信者が父親の済度を願い出たところを、私は300回の大礼拝(五体投地)を命じた。なぜであろうか。それは、その父親が私とご縁がない、即ち仏菩薩とご縁がない故、また菩薩道を修める者なら、一切の方法を尽くして衆生に福徳・因縁を蓄積するのに努めるが、縁なき衆生は度し難し、縁がない限り度せないからである。そのため、彼に亡き父の代わりに大礼拝(五体投地)をさせてはじめて亡者のために福報を蓄積させるような因縁を持つようになり、彼の父親を本日で済度させることができたのだ。こちらの道場では、黄色い紙に済度リストを書くことはない。私からの呵責を飲み込めば、福報がある。菜食主義者になれと命じて、進んで受け入れようとするなら、亡者には福報がある。

外部の人がこう説かれていないのに、私には説けるのは何故か。 それは、求めるものがいっさいない故、自然と言い出すようになったからだ。幸いなことに、私は在家の身で、そなたらの言いなりにならない。私は金銭、体力、共に出して、大法会を供養したうえ、一銭たりとも費用の徴収をしないとまでできていた。そなたらが間違いを起こしたら、私は間違いなくそれを指摘する。妥協なんかし得ない。そなたらが輪廻しそうな行為を見せたら、私は言う。私の事を気に入ってもらう必要がない。気に入ってくれても、私でさえ疲れるからだ。嫌われると知っていても、言うに違いない。それは、少なくともそなたはご自身を戒められるからだ。

衆生の縁に従うのは、その欲望に従うのではなく、縁に従って救済するのである。悪の縁であれば、悪の縁が減少するように救い、善の縁を望むだけ与えるのではなく、その縁に従いながら与えるのだ。明らかに彼が慳貪を起したと知りながらも、与えたり助けたりするのは、すなわち彼にも自分にも害を及ぼす。菩薩道を修める者は、常に「衆生の縁に従う」ことを念頭に置くべきだ。彼に従ったり合わせたりするのではなく、彼のそれぞれの世でなした業と因に従い、我々はこの縁に従って彼を救済するのである。彼に貧嗔痴を起こさせてはならない。貧が重かったら彼に捨棄を勧め、嗔が重かったら慈悲を勧めよう。因果を信じなければ『地蔵経』に説かれる因果の恐ろしさを開示すべきだ。柔軟語とは何か。私が今仏法を講じていることが即ち柔軟語で、粗暴な話がないのだ。そなたらは親孝行だね、菩薩の様な姿だ、輪郭がよくなったなどもてはやす言葉が柔軟語と思っていないか。それはお世辞である。声が穏やかなのが柔軟語ではないし、柔軟語の内容は相手の為になる話で、自分の為ではない。

この度、「阿弥陀仏無遮大済度法会」の参列者数は二万二千人で、済度名簿は二十万強あるが、私はいっさい費用を徴収しない。仮に金を払えと言っても、何も後ろめたいことはないし、そなたらも必ず出してくれるが、私はそうしてはいけない。こうした大法会を挙行するのに、費用を徴収しない上、自らお金を出すなんていう人はいるか。法会に対する費用を徴収しないだけではなく、法会に参列した信者からの供養金でさえ、私は受け取らないで、全額寄付している。更に、済度させてくださったことについて、諸仏菩薩、上師、衆生に感謝の意を示す。本気で費用を徴収すれば、仏寺の建設費用が揃うに違いないが、私はそうしてはいけない。

今日はもう10月の末で、今年は残りわずか二か月になり、瞬く間に今年は過ぎてしまうが、みなはまだ仏法に対して多くを誤解している。法王が私に仏法を授けてくれたおかげで、私のこの一生を変えることができた。でなければ、私の自力では不可能だ。善を行う機会があれば直ちに行い、絶えず善を蓄積する。菜食主義者になれと言っても亡者のためになる。また、済度された以上、菜食を続ける意味は何だ、と聞かれるだろうが、菜食を貫き、殺すのを辞める善を行い続けるのも、亡者のために福報を蓄積させるのだ。亡者がどの善道に居ようが、更に良くなる。彼が良くなればなるほど、そなたもそうなる。彼がそちらから守ってくれているからだ。

だから、位牌の前に、硬貨二枚を持って、ポエ占い(擲筊あるいは跋杯、中華圏の民間占いの一つ)をしないでくれ。ご先祖が既に済度されたから、戻ってきて聖筊(ポエ占いで肯定を意味する占いの結果)を示してあげるわけないではないか。『阿弥陀経』では、阿弥陀仏浄土は地球から十万億もの仏国土を離れたと説かれているから、戻ってこれようか。もしかして、彼がそこへ行かれるのを望まないか。仏典にも、欲界天、色界天、無色界天それぞれ地球との時差が講じてある。仮に行かれたのが天界最低層の欲界天であっても、一往復して五百年後の話になる。そなたは既に死んでいる。さて、誰が聖筊を示してくれたのか。付近の遊鬼が通りかかって、ついでにからかったにすぎない。自宅に菩薩が安置されているからと言って、幽霊が入れないとは限らない。そなたは菩薩道を行うのではなく鬼道を習っているから、毎日求めてばかりいる。

付近のやんちゃな霊が信仰心の篤そうなそなたを見て、聖筊をやらせたり、出鱈目ばかり言うそなたを見て、笑筊(ポエ占いで爆笑を意味する占いの結果)をやらせて茶化したりする。場合によっては、告別式の際に棺桶の前にポエ占いして亡者に質問を聞く風習もあるが、これらはすべて民間信仰の範疇だ。人が亡くなり、棺桶の中で焦っているのに、そなたが誰かに仏法でどうか助けてくれないかと頼んでくるのを待っている。そなたはまだあれやこれやとポエ占いで聞いたりしている。今どきの人は、よく仏法を民間信仰と混同する。もし仏法にはポエ占いという物があれば、とっくに仏典に、釈迦牟尼仏曰く後世の人は木で刻まれた丸い物を投げて占いをすると書かれていたはずだ。

ポエ占いの話はさておき、仏舎利のことでさえ、数千年前から仏陀は説かれていた。末法時代では、ある人たちは仏舎利を営利目的にし、その場の様子まで形容されていた。仏典は、長い髪の毛が地面を敷かれ、幢幡(どうばん)を持ったりすると書いてある。結局、本当にそうだった。十数年前に発生した出来事で、あの時、仏陀の手指舎利が台湾に運ばれようとした。当時、弟子から参加するかどうかと尋ねたところ、私は行く必要がないと言った。この答えについて納得できない人もいたが、折しも私は『宝積経』のこの段落をめくった。釈迦牟尼仏は更にこう仰せになった。「私の舎利は衆生と縁を結ぶためだが、未来世ではこれを以って営利に回す人がいる。仏陀舎利を参拝するよりも、徳を具備した修行者の開示した一句の仏経、持誦した一句の真言を聞いたほうが功徳が大きい」、と。(リンポチェは出家衆にこの段落を読んだことがあるかと尋ねたところ、出家衆はありませんと答えた。リンポチェは『宝積経』に小さな一段落があるから、調べよと出家衆に指示を下した)

仏典には説いてあるが、別人にとって見当たらないのは何故だろうか。 名聞利養のせいで、行者が正真正銘の仏典を説く時間がないだろう。私は、名利とも要らず、法王、仏菩薩、衆生に感謝しているため、私はひたすら実践し、死ぬ日までやり続け、命を尽くしてそなたらを救済する。

千人強を対象に、同時に施身法を修められるのは、我々の道場の他には皆無だ。なぜなら、人はそのすごさを知っているからだ。私がこうして施身法を修めており、1997年発足して以来ここ20年はまあまあ行けていることから、私は既に得法、如法を成し遂げ、衆生をごまかしていないと表している。法会に参列して帰っても特に何も感じ取らないなんて言わない。特に感じがないこと自体、感覚があるのだ。私の亡き父は道教出身だったので、私は仏法と道教との違いをしっかり知っている。仏法は一日にして効果を見せることはない。一方、道教は神と仙人であるため、信じさせ、崇拝させ、彼等に仕えるように、その凄さを見せるようにするから、たちどころに効果が出られる。医者から処方された特効薬のように、薬を飲んだら数日後はだいぶよくなったが、その翌日に死んでしまっている場合もある。仏はその凄さをわざわざ知らせる必要がないし、そなたからの崇拝や讃歎が要らない。仏はそなたの因から救済するしかなく、生生世世の業力をどう一掃するかと教えてくださる。

仏は因果・業力を信じるよう教えて下さる。我々が患ったのは慢性病であり、数十世、数百世にわたって積みあげてきた悪業を、仏菩薩がコツコツとちょっとずつ拭き取っていくから、知らないうちすっかり払い除くようになる。仏法は因果から対峙するものである故、仏法を前に何かが見えるように求めれば、あたかも『金剛経』で説かれた一切が夢幻泡影のように、そなたが空性を証するまで、目にしたのは意識による創造された物であり、すべてが虚仮である。禅宗では、さらに「仏来仏斬、魔来魔斬」と言う。

仏菩薩が見えるどころか、仏はあまりにも荘厳しすぎるし、仏光(ぶっこう)が非常に強烈であるため、我々が見えたとしても、凡夫の果位ではそれを恐れ戦くように感じる。先週言ったように、一人の乞食を総統府に招くと、総統府を前に、畏れ多くて入れないと言うだろう。『宝積経』には一人の乞食と一人のお金持ちが立ち並ぶと、間の差異は見て取れる。お金持ちと官僚を立ち並べてみると、その違いが分かる。大臣と皇帝を立ち並べてみても、大臣と皇帝の見分けができる。

多くの出家衆は信者に媚び諂うように、ますます観世音菩薩に似てきたねと褒めたりするが、いったい観世音菩薩のどの部分に似ているというのか。髪の毛か。そなたらは、髪の毛でさえ似る資格がない。お姿が荘厳だなんて言われるが、「荘」とは何だろう、「厳」とは何だろう。いわゆる荘厳は、仏法を修行した功徳と福報の現われであり、自ずと生じるもので求めるものではない。信者や弟子などの機嫌を損なうのを恐れない。仏典に則って説く場合、すべて柔軟語だ。人から人相が良くなった、優しくなったと言われると、自らよく修めていると思ってはならない。まったくゴマすりだ。ある人たちは、仏を学んで自分が優しくなったと言うが、優しくなって如何する。今すぐ結婚させることができようか。性格が比較的に良くなったと人に思われても、四六時中に私に叱られているせいか、また人に叱られると、どうせ慣れているから、一人多く叱られても大したことではないと思うだろう。仏を学ぶのは、ちょっとした賛美のためではない。

根性がない、一夜漬けのような人は仏を学ぶのに向いていない。根気の良い人だけが仏を学べる。如何に根性が付くのだろうか。それは個人の素質に関わりがあり、人の事を多く配慮し、ご自身の事を少なく配慮するかによる。ご自身ばかり考えると、煩悩があり、根性がない。人を多く配慮すれば、素質がより多くなる。リンポチェがせっかちのように見えるが、実は根性が良いのだ。そうでなければ、三か月閉関修行で閉じ込められるわけないではないか。人と会えなかった、電話できなかった、白湯で煮立てた味付けのない麺を食べていた。あんなに白い麺に、あんなに綺麗な水をだ。リンポチェは冗談に言ったが、そんなに長く白い麺を食べてきたおかげで、4500メートルという高海抜、紫外線が強かった中、日焼けはしたが、早くも元の白い肌に戻った。

ご自身の内面を見極めよう。仏を学ぶのは何のためか。仏を学ぶ中、最も重要なのは菩薩道を行う事と、菩薩道を修める事である。たとえ現在成し遂げられなくとも、せいぜい菩薩道とは何だとはっきり知り、自ら自力で修める場合は結局修め得られないと知ることだ。仏を学んで生死解脱がしたいというのは良いことだが、これは単に一つのコンセプトになる。この一生で必ず生死解脱すると執着せず、そなたの業ではまた二、三世かかる場合もあるかもしれない。執着があったままでは、護法がご来迎に来て下さっても、そなたはついていかない。阿弥陀仏でなければならないと執着する。折しも阿弥陀仏はそなたに行く資格がないと判断を下したら、浄土往生ばかりに執着したそなたは三悪道に堕ちるしかない。もし、そなたが執着しないで、アキ護法について去れれば、しばらくの間、菩薩に預かってもらって、また債務の返済に戻ってくるようになる。乗願再来ができないからには、乗業再来するしかない。

73歳の年になったが、古代なら既に閉関修行し、人との面会がないようにしていただろう。私は、上には法王、下にはそなたら器に成らない弟子がいるから、しかたがない。今後は弟子入りでさえできなくなるだろう。善悪業とも要らない。信者を供養させないのはこれ以上の借りをくい止め、仏を学ばなくては私を供養する資格がないし、私もその供養を受け取る資格がない。故に、距離を置くのは、信者にとっても、私にとっても良い事だ。

私の生活ぶりはシンプルだ。外部のように、「師僧さん、今日は功徳主がご馳走をしてくれる、明日は副功徳主と食事するから、もし行かなければ、彼等の不快を招くだろう」ということはない。リンポチェは出家弟子にそうだろうかと聞いたところ、そうですと答えた。リンポチェは食事の約束はしない。生活もシンプルで、法王に呼ばれた以外、毎日こうして過ごしている。私の生活ぶりは、出家衆のよりもシンプルだ。私がレストランを経営した所以は、皆が想像するような商いの為ではなく、私はいつも自分のレストランで食事をしているからだ。仮に、他のレストランにも行ったらが最後、「こちらにも来てもらえないか」と言われそうだから、リンポチェは面倒を免れたい。

本日、善のご縁を続けるため、皆さんにこの施身法を修めたのである。続けるとは、私のこちら辺で、ひたすら仏を学び続けるのではなく、縁を大事にするものである。心から実践し、この善の因縁を引き続けるのだ。『阿弥陀経』では、念仏、念法、念僧と説かれる。最も完璧な善は仏であり、最も善の方法は仏法であり、最も完璧な人は伝法する上師である。在家衆は、仏典で言う昼夜六時に念仏、念法、念僧するとまで成し遂げられないが、実践すべきだ。多かれ少なかれ実践し続け、訓練を重ねていく。ひたすら考えて欲しいやら、会ってみたいやらのではなく、ご念頭に上師の功徳でいっぱいな場合、念頭に悪を無くし、心念が善に変わり、次第に心続に多くの善根が蓄積されるようになり、善の力が充分強ければ、累世の悪業を妨げる事ができる。読経、持呪、頂礼は修行ではなく、助縁に過ぎず、念仏、念法、念僧こそ仏を学ぶ根本となる。

リンポチェは参列者全員を従えてアキ護法と廻向儀軌を修められた。


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2021 年 03 月 20 日 更新