尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年11月8日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが灯を点して仏に奉げ、法座に上がられると、阿弥陀仏の真言を唱えられた後、『仏説阿弥陀経』を御解釈くださった。

先週、私は出家弟子に七覚支(しちかくし)について調べと命じた。私は仏典教育や名相(めいしょう)などを学んだのではないが、時下では多くの人は名相を聞きたがっている。今どき、仏を学ぶ際によくある勘違いは、仏法を聴けば自分で理解できるという事。当時、なぜ名相が現れたかと言えば、釈迦牟尼様が弟子にこう仰せになったからだ。「今後、衆生に仏法を説く際に、いくらかの名詞を使うべきだ。こうしたほうが彼らがより聞き入れやすいのだ。一部の人がこうしたのを好んでいる上、そなたに学問があると思われ、仕えて仏を学ぶようになるのだ。」私も屡々口にしているが、仏を学ぶには三分の愚かさを備えるべきだ、と。頭が良すぎると傲慢になるし、自分が正しいとばかり考えている者なら、修め得られなくなるのだ。本をたくさん読んだ人ほど、修め得られない。古代では、多くの大徳(だいとく)は非識字であった。取り上げようとすれば、例が多すぎる。彼らはある程度まで修行すれば、あっという間に悟りを開いたのである。ある人たちは、名相も聞いた上、進んで実践しようともしない、或いは実践できないままに終わるが、その人らはあくまでも分からないでいるのである。そなたらの欲望を満足させるように、今はちょっと語って聞かせよう。

七覚支の内容は、直貢噶舉大手印で修める専一瑜伽に近い。大手印の修行は、達磨祖師のお伝えになった禅宗と少々異なるが、結果として同じく成仏することに辿り着く。禅宗は直指人心(じきしにんしん)という教法であるが、大手印は直指人心を飛び越えて直接に果から修行するのである。入り組んだ理論や言葉などを、簡単で分かり易い方法で教えるのだ。大手印の口伝が授かれば、修禅(しゅぜん)と、空性の悟りにかかる時間の短縮にも繋がる。

人は何方にも清浄なる仏性を持っている。だが、累世で為してきた善悪業、そして貪瞋痴慢疑から生じた垢(く)によって、清浄なる本性が包まれている。清浄なる本性を取り戻すには、顕教ならば、多くの方法や助縁を通してゆっくりとこれらの垢を取り除いていくが、密法の概念では、人は本来ならば清浄なる本性を具備しているから、これほど多くの理論や思惟を通さなくても貪瞋痴慢疑を五智(ごち)にできる故に、五智如来があられるのだ。上機根の者なら、生起圓満次第を修められるし、更に『華厳経』で説かれたように、大なる貪欲、大なる瞋恚、大なる愚痴によって修行する事もできる。だが、そなたらの事を指すのではなく、そなたらにはまだこうした修行方式が遂行できない。

上師相応法の伝法を授かれば、自分で修められると思ってはならない。私から見れば、現在伝えられた50数名の中から3名から6名は淘汰される。彼らの心は上師にあるのではないためだ。心が上師にある事は、上師に常にくっついているのではなく、上師が為した一切の事について心をして体得するかにある。毎日、充分に唱えれば、回数が完了するように唱えれば良いと思うか?さようであれば、テープを流せばいいし、自分で唱える必要がなかろう。だが、問題はレコーダーは成仏できるかということだ。

七覚支中

択法(ちゃくほう)、精進(しょうじん)、喜(き)との三覚分は慧に属し、軽安(きょうあん)、捨(しゃ)、定(じょう)との三覚分は定に属し、念(ねん)覚分は定、慧に兼ねて属する。故に、摩訶止観曰く:「此の七覚を修めれば、即ち入道を得られるなり」。

心が昏沈(こんじん)した場合、常に択法、精進、喜との三覚分を用いて諸法を観察し、昏沈させないようにする。心が揺れ動いた場合、軽安覚分を用いるべきであり、身口によった過ちを除く。捨覚分を用い、観智(かんち)に於いて捨する。定覚分を用い、正禅定に入り、其の散心(さんしん)を摂し、心を揺れ動かせないようにする。これを名付けて念覚分と言う。

此処で心の昏沈について語っている。昏沈は、禅定を修めている際に、静か、心地よい、眠たい或いは、はっきりとしない感覚を持ち、それらの禅定した静かさ、心地良い感覚を楽しめば、心が自ずと昏沈するそのものだ。心が昏沈すると、心の力が消失してしまう。心は本来ならば如々不動であり、『心経(しんぎょう)』で「変化せず、不生不滅」とあるように、人は眼耳鼻舌身意を具備しているから、空性を分かるまで、悟りを開くまでは、意識を以って修行するほかにない。好き嫌いという分別心で修行する場合、修行の際に分別心が強烈で、修行の中で好きなものや、欲しがるものを得て意識を満足させると気を緩め集中しなくなる。元々存在していた心の力は、その意識の放逸によって、心が昏沈してしまうのである。

心は動かざる。我々が意識を使って心に影響を与えるのだ。行者なら、不動の心で意識に影響を与えて意識を動かせないようにする。そなたらは何方も意識で修行し、意識が要らなくて捨てる程にはまだ至っていない。眼耳鼻舌身意は存在している。例えば、空気中の波動など外部に於けるちょっとした変化でも、我々の眼耳鼻舌身に、意識の変動に影響を及ぼす。意識が動くと、自分の修めたかどうかという分別心を感じ取るようになる。

このようにして、心が昏沈しやすくなるのだ。真言の誦持は今日終えなかった分は、明日か明後日に回して補えばいい、大礼拝(五体投地)も「今日は疲れたから、明日でも拝もう」などと、口実を付けて怠けたりする。(その場にいた弟子の多くは、こうした経験があったと手をあげた。)これこそ昏沈であり、出離心が足りなく、生死輪廻の苦海を出離することを決意しないのである。強烈な出離心どころか、しっかりとした出離心がなければ、あらゆる仏法はそなたと無関係だ。本日拝まなくても、明日があるなどと思わない方がいい。本日で拝まなければ、拝める日は一日少なくなるということを忘れただろうか。

多く拝めば健康状態が良くなると望むようなら、しっかりした懺悔心がないに違いない。懺悔はご自身の過ちを認めるチャンスを与え、それによる果報を受け入れさせるに過ぎない。「懺悔したら、冤親債主が私を許し、自分がよく修められるように時間を下さる」なんて思う事さえ間違っている。まさか、拝めば癌が治ると思っているのではないか?

私が上師をし始めた頃の話で、あの時、私はまだリンポチェではなかったが、ある人は私にこう聞いた。師僧さんはどういうふうに仏を学ばれましたか、と。私は必死の心を抱えて学んだと答えた。この答えを聞いた後、あの人は一度も現れたことがない。人は誰でも死ぬものだが、そなたらはお金がない事を恐れるなり、貧乏になる事を恐れるなり、何もかも恐れているが、死んでから三悪道に堕ちる事を全く恐れないでいる。私が屡々教えているように、毎晩ベッドで横になって眠れる前に、私は死んだと、翌朝目覚めた時には私は甦ったと考える事。毎日のようにこうすべきだ。これを聞いたそなたらは怖がる。眠りに付くと死んでしまったらどうしようと恐怖に思っている。自分のパートナーや、子供に言い残しがあったり、仏前のお香はまだ焚いていなかったりなどと考える。このようにして、輪廻から解脱する事ができるのか?密宗で言えば、我々は現在こそ分段生死(ぶんだんしょうじ)している。試しに考えてみよう。一日過ごせば、寿命が一日減るのではないか?これは正に分段生死そのものではないか?

仏を学ぶ事が寿命を数年長めにするためなら、そなたが無数の人への救済や貢献がなければ、まずは有り得ない。私のように、16年連続で大法会を執り行い衆生を済度する事ができれば、数年間か長めに生きる事はあり得る。そうでなければ、多めに生きた分、地球の資源や食糧等を無駄にするに過ぎない。いっそのことで、早めに大地の栄養となったほうがましだ。

私は孫が嫁を取るのに立ち会えないと言った話を耳にしただろうが、恐らく私だけしかこのような縁起の良くない事を言わないだろう。めでたき晩餐会では誰も好ましくない話を言わないだろうが、私は言った。これも事実だし、私は孫や曾孫などの結婚やその出産に立ち会う事はできない。母のただ唯一の願望は、私の孫の出生だった。私でさえ、孫の生まれた今年まで母を生き延びさせる事ができない。況して、そなたらを死なせないままで、そなたらの子供が結婚して孫を産んで、そして孫が結婚してその子供を産むのを見せる事は不可能ではないか。私自身でさえ、できないでいる。だが、そなたらは自分自身が三悪道に堕ちる事を心配しない代わりに、病気を治して死なせないでくださいと、だけしか求められない。

密宗では、「死ぬことが私にとって良いのであれば、死なせよう」という。もし、死亡が業の完済に替わる事ができるのならば、死のう。「病気になる事が私にとって良いのであれば、病気を罹らせよう」もし、病気になって私を三悪道に堕ちさせないなら、私も再び輪廻を繰り返すつもりではないなら、私を病気に罹らせて此の体で返済しよう。「健康になる事が私にとって良いならば、私を健康に居させよう」もし、健康になって沢山の人を利益する事ができれば、私を健康に居させよう。そのため、何回も私は死ねなかった。そなたらは誰一人も敢えてこう言えない。こうして求めれば、求め得られるのだ。敢えて言う人はいろうか?出離心がなければ、やり遂げられないのだ。

一部の七十歳を過ぎた人が早く死にたいと私に言ったが、業がまだ完済していないのだ。大供養、大懺悔を行わなければ、早く去る事は有り得ない。ある人は両親が病気になり、その病気が治りますようにとリンポチェに求める。病気が治って退院してまた病気になった。今度はまた病気が治って退院できると求めた。お年寄りを入院と退院を繰り返させ、私は見るに堪えられない。子供が愚かさのあまりに、両親が病の苦しみを受けるのを見ながら、何故懺悔しないのか、何故大供養を行わないのか、何故仏菩薩に求めないのか?死なないばかり望んでいるが、誰でも死から逃れられないのではないか?私の母親でさえ去っていったのに、そなたの母親を死なせない事は保証する事ができないではないか?

そなたに発生した一切の事はそなたの業と縁である。病気になった連れ合いの世話をしなければならないのか?過去世で彼に借りがあったからだ。そのため、『地蔵経』に「思いやりの心で病人のお世話をする事は大なる功徳になる」とある。そなたと関係のある者なら、必ずそなたから彼に借りがあるのだ。この世で返済しなければならないものだが、忌み嫌う心を起こせば、来世もまた来てしまうようになる。「仏菩薩に頼れば、私が世話してもより楽になれる。私が死んだら、彼はどうすればいいのか?」と思わないでほしい。あくまでもそなたの縁である。彼との縁はその時が来れば、誰かが先に離れるし、仮にそなたが先に去られれば、彼が独りぼっちになっても彼の運命になる。この事さえ信じなければ、仏を学ぶのは何のためなのか?一生涯に遇った全ての事を操るのは、自分が植え付けた因、為した果報なのだ。法王も「仏法は縁を重んじる。今日、この因を植え付けてあげたが、その縁を続けていくかどうかは、そなたが決めるのだ」とはっきり仰せになった。故に、私の孫は私に従って仏を学ぶのだと法王は言い付けられた。これこそ縁そのものである。

上師はそなたらに数多くの善因、善縁を植え付けられたが、そなたらはそれを続けているか?いや、途中で居なくなったりする。上師が絶えず善の種子を播き続けているが、それを発芽させるにはご自身の絶え間ない精進を必要とする。

心が昏沈する事はつまり強烈な出離心を持たない事を意味している。出離心が強烈であれば、必ず最後までやり抜く事ができる。私が大礼拝(五体投地)をしていた頃は、夏場で暑い中、お昼も食べずに拝み続け、夕食もなかったが拝み続けたものだ。一拝も少なく拝んだ事はない。昏沈は座禅の場合のみ指すのではなく、持呪の際に腹痛がしているから、終わらなかった分は明日に繰り越そうと考えるのも、昏沈と言える。以前も言ったように、去年の「阿弥陀仏無遮大済度法会」の直前二日間に、私は閉関修行していたが、二日間の間で下痢が止まらなく二日間食事が取れなくて、吸い物をちょっと飲んでだけだったが、阿弥陀仏真言を10万遍に足りるよう唱える事ができた。翌日も、予定通りに法座に上がって修法を司った。こうすべきだと分かっているから、その実行を健康状態に左右されない。もちろん息をひきとったなら話は別だが。そなたらなら、だらしなくなり、自分が良くなりますように、体力がありますようにと阿弥陀仏に求めていたに違いない。私は変わらず結跏趺坐し背筋を伸ばしていた。出家衆なら、10万遍を唱えるに体力が必要と知っているだろう。私は下痢の問題で食事が取れなくとも唱え終わるようにした。

故に、心が昏沈する際に、ご自身の馴染みのある、或いはお好きな方式を取ったりする事ができる。例えば、立ち上がってちょっと歩いてから持呪を続けるなど。だが、唱えられるがために、自分を興奮させようとして人に喧嘩を売ったりはしないこと。必ず上師の教えた方法を使ってくれ。

第二に、精進が必要である。心が昏沈し、行う気を失った場合こそ、行うように自分を強要する時だ。死ぬまで仏に礼拝するなら、めでたい事に、そなたが息を引き取った一刹那に、阿弥陀仏が来迎に来て下さる。多くの人は痛みと死をびくびくと恐れる。『地蔵経』に、地蔵菩薩がある世、気絶するまで拝んだ、血を流しても拝んでいたとあるが、そなたらは?

昔、私は家賃、光熱費が払えないほど、昼食があっても夕食がないほど貧乏だったが、毎日大礼拝(五体投地)をしていたものだ。膝ガードを買うどころか、そなたらのようにマットまで買ってスイスイと滑るように拝めでいただろうか?私が拝んだ時は、ボロボロになった毛布一枚だけしかなく、色は青色だったが、汗に濡れて白く色褪せてしまった。何故、そなたらは10万遍拝んでも効果が出ないか、それは快適すぎるせいに他ならない。大礼拝(五体投地)をして我々の体を少し苦しめるのだ。そなたらのように、胸や腹部がぶつかるのを気にするではない。拝むと胸が痛むなり、お腹が痛むなり、頭をぶつけて脳震盪になるなり、膝が壊れるなりの事を心配するなら、拝まない方がましだ。そなたらはこの体を大切にし過ぎるのだ。もちろん故意に体を壊させるのではなく、体を惜しみすぎるべからず。

精進は行いたくない時であればあるほど、やり抜くことだ。私を見本にして習って欲しい。仏を学ぶのは実に苦労する事で、快適なままでとてもやり遂げられない。一部の人は、仏法を聞き終わって、帰宅後に一時間でも使ってノートに取ったりすれば、自分が既に分かったかと思いきや、実はちっとも分かっていないのだ。実践し始めていないからだ。歴代の大行者は、開悟(かいご)証悟(しょうご)するまで修め、果位(かい)が得られてはじめて修行の過程について記録した。その記録は、仏陀の教え、上師の教えから離れないで、全て根拠があるのだ。

「喜」というのは、そなたがやり続ければ、喜ぶなり歓喜するなりなどと感じるものではなく、そなたがあらゆる仏法は自利(じり)、利生(りしょう)できると理解してこそ、喜という。もし、そなたが行わなければ、その喜もなくなる。明日補えば良いと思ってはならない。今日行わなければ、一日少なくなる。つまり一日一日と過ぎていくわけで時間は留まらない。

「心が昏沈(こんじん)した場合、常に択法、精進、喜との三覚分を用いて諸法を観察し、心を昏沈させないようにする。」

諸法を観察するというのは、念仏、禅定、仏を礼拝する際に、何故自分はやり続けられないか、止めたいのかを見極める事。ご自身の念頭を見極め、自分のために訳の分からない口実を見つけてはならない。それらの理由は成り立たないのであって、心が昏沈し怠けたに他ならない。人のせいにしない、人が喧しいせいで自分が拝めなくなるなんて言わない。昔、私が大礼拝(五体投地)していた頃は、真夏で汗だくになって光熱費が払えないままでも、拝み続けていた。もちろん、私も汗かきすぎて、体に水分が足りなくなって、カサカサになって凹むからと言って拝むのを辞めようと言ってもいいが、口実ばかり見つけていてはならない。

「心が揺れ動いた場合、軽安覚分を念じるべきであり、身口によった過ちを除く。」

身口によった過ちを除くとは、ご自身の心を揺り動かしたのは何だ?もちろん、心の中には念頭が多いからだ。念頭の多くは体と口に関連があり、例えば念仏の声が急に大きくなったり小さくなったりする場合がそうだ。念仏の際に、数珠を使うのは何故か?我々を一字ずつはっきり唱えさせ、ダラダラしないようにする事もあり、こうして心の揺れ動く機会を少なくする。声を引きずると、心を揺り動かすし、呼吸の調節に問題が出る。声をずらすと他の念頭も出てしまうようになる。現在、そなたらは私みたいな持呪の仕方を真似することができない。はっきりと唱えるには、どの字もピッチが合うのではなく、どの字もはっきりすると、心が揺れ動く機会が少なくなる。閉関修行の場合、口を開けるだけで障礙が現れ、独り言でも過ちがある。人は口を開くと良い話はない。ある人達は、人に叱られると、後ろに向いて独り言を始めている。それを習慣付けるようになると、閉関修行の際は禁語の戒が守られなくなる。

「捨覚分を用い、観智(かんち)に於いて捨する。」

空性を悟るまでは、意識で空性を観ずる。こうした方式で観智を行えば、意識に作用が発生し易くなり、そなたは正しいと思う膨大の文字、理念、思想を用いたりする上、その智を正しいなどと思う。こうした方法で観智すれば、とりわけ心が揺れ動きやすくなる故に、観智を捨すべきである。密宗での圓満次第は観空する事である。というのは、法を修め終わると、何もかも存在しなくなり、因縁が消滅してしまうのである。仮に自分が修法しているなり、自分がまだ本尊であるなり、自分の知恵は本尊と同様だという事に執着すれば、ここにそなたの心の揺れ動きを指摘していることになるのである。

「定覚分を用い、正禅定に入り、其の散心(さんしん)を摂し、心を揺り動かさせないようにする。これを名付けて念覚分と言う。」

正禅定とは、そなたを如如不動させるものではなく、何も考えさせないものでもない。正禅定は、禅定が得られるようにではなく、反って我々の心には本来念頭がないという事を忘れしまう事でもない。心は宛も一枚の鏡のように、鏡の前に品物が現れると鏡にそれが映るし、一旦品物を動かしたら、鏡に何も映らなくなるが、依然、鏡は鏡である。五智の中の大円鏡智(だいえんきょうち)とは、現在そなたが感じ取った全ての事、そして自分自身が禅定している事も含め、まるで鏡の前にある品物を置いたようである。品物の存在に執着すれば、そなたの定にこの影がある事に執着すれば、正禅定とは言わず、非想非非想天に墜落しがちになり、これが禅定の最高境界である。より低い場合は、四禅天(しぜんてん)に着く。修禅には初禅(しょぜん)、二禅、三禅、四禅に分けられ、いずれも輪廻を繰り返すものだ。

正禅定は自分を定の境界に居ると感じさせるためではない。禅は心を揺り動かせないよう、ちらかった心を摂収(せっしゅ)する事である。このちらかった心を動かさせてはならないし、多くの物事を考えてはいけない。故に、大手印では我々の昏沈、心の揺れ動きにどう対峙するか教えてくれる。釈迦牟尼仏はこれらを説くに充分な時間を持たれなかった。釈迦牟尼仏が初転法輪(しょてんぽうりん)の際は阿羅漢を対象に説法なさる上、釈迦牟尼様が身の回りで修行した6人の侍者に最初から四聖諦(ししょうたい)法と十二因縁(じゅうにいんねん)法について説かれ、彼ら一人ずつに観ずる事を教えられる。直接に弟子にどう空性を悟れるか教えない。後期、釈迦牟尼様が菩薩道をお教えになった際に説かれた知恵が空性そのものであり、文字で書かれたもので空性を悟れるわけではなく、単に座禅に頼れば空性を悟れるわけでもない。必ず資糧道、加行道との両道が円満に成し遂げてから見道に入り、真の開悟の道に逢うようになる。そなたらは現在まだ資糧道に留まり、加行道はまだ行けていない。資糧道は満ちるように行わなければならず、ちょっと不足でも許されない。毎週、法会に参列してちょっとした供養をすれば、(資糧道に)充てると思ってはならない。それは単なる講演を聞くつもりで来ているにすぎない。

続いて『仏説阿弥陀経』の開示に進めよう。

経典:「舎利弗。不可以少善根福徳因縁得生彼国。」
(舎利弗よ、少なる善根・福徳の因縁を以て、彼の国に生まるるを得べからず。)

阿弥陀仏の御許に行けば、諸の上善人と共に一処に会する故に、俗世間では十善法を修めなくてはいけない。「不可少」とは絶え間なくやり続ける事で、『仏説阿弥陀経』でのこの一句が非常に重要だというのである。

諸仏菩薩と上師はそなたらに善の種子を播かれるが、善の種子が芽生えるには複数の条件を必要とする。土にある種子は水が要るから、法雨(ほうう)はその水に当たる。慈悲という肥えた土壌を必要とし、いつか芽生えて次第に成長し、根っこも次第に広がって固まるようになる。根っこをしっかりと固めれば、芽が風に吹かれても飛ばされにくく、こうしてやっと花が実るようになる。それに対して、根っこが固まらないと、風が吹いただけで全てが無くなりそう。何の風だろうか?所謂八風(はっぷう)の事だ。そなたらは自ら進んで教えた通りに実践して、根っこを固め、そして発芽、開花、結実に至る。善根は仏、法、僧による故に、ここでは念仏(ねんぶつ)、念法(ねんぽう)、念僧(ねんそう)を絶え間なく念じれば、善の種子が芽生えたり、成長したりする機会がある事というのである。

帰依したからには、五戒十善に準じて日々を暮らすべきである。それならば、結婚はできないか?子供はあってはいけないか?転職もできないか?と問われそう。いや、私はそなたに子供ができるかどうかを干渉しない。それはそなたの業になる。そなたらが結婚するかするまいかについても、一切構った事がない。ただ結婚相手が仏教徒でなければ、結婚も泡になる。他の宗教でも同じ宗教同士との結婚でなければならないという習わしがある。一部の弟子が結婚した際に、披露宴全般を精進料理にする事が家族に拒まれたが、ご自身のテーブルだけ精進料理だったが、他のテーブルには生臭い料理が並ばれていた。そこで、問題になりそう?問題になる。そなたの事を祝うために、そなたの誕生日のために、そなたの結婚のために集まったのだ。私が結婚披露宴に出席する場合も、自分だけ精進料理で、他のテーブルはそうではない。私のために設けた宴席でなければ、私と関連せず、その日の殺生は私に起因したではないからだ。

『地蔵経』に書かれているように、全ての妊婦の妊娠中に、地蔵菩薩は妊婦を保護するよう善の鬼神を差し遣わす。だが、妊婦はそれを知らないまま、任意に肉を食べたり殺生したりしている。特に、産後の肥立ち(中国語:坐月子)で、妊産婦と赤ちゃんに悪の根を植え付けている。受胎された一刹那から悪の根を植え付けられたにも拘わらず、まさか法会の参列に来れば充分と思っているか?悪の根を善根に転じさせるのは、そう簡単な事か?一日1000遍、3000遍唱えれば、できると思うか?大礼拝という五体投地を10万遍すれば解決できそう?他人は10万遍でも、そなたは100万遍が要る。何故、10万遍を成し遂げても変化が現れないか?法本では10万遍と書かれているが、それは私のような条件ならば10万遍で良いが、そなたらは?私は、一生涯の中で厨房で調理をしたり包丁で肉を切ったりした事がないのは、私の殺業(せつごう)は過去世で返し切ったからだ。だが、この世はナイフでポークステーキを切ったり、あの魚や、この海老や、海鮮を指さして指定してその場で捌かせた事がある。自分のせいでそれらを死なせたから、この世で皮膚がんに罹って当たり前の事だ。よく考えてみよ。以前、殺業で一家の生計を立てていたそなたらは、10万遍を拝めば癌をなくせることはないではなかろうか?

地獄に堕ちないように、私は必死に修めているのだ。ミラレパ尊者からマルパ尊者に求めた唯一の事は、輪廻を繰り返さず、成仏できる法を伝えるのだ。彼は多くの人を殺した事から地獄に堕ちる事を知っているからだ。そなたらの場合なら、輪廻を繰り返さないと直ちに言わない代わりに、自分が病気にならない、そんなに早く死なない、悟りを開く事ができるようにとご自身の事ばかり求めている。

今さっきの会員大会でも財務理事が財務について報告したが、ご存じのように、道場を維持するにはそれなりの大金が要るが、我々は名目を立ててお金の徴収をしてはいない。幸いなことに、千人余りの帰依弟子が居るから、皆でそれを分担しており、いくら支払って初めて法会に参列できるという事はない。そなたらは普段なら数百元だけしか道場に出していないが、他所の場合なら、決してこうした良い事は無いだろう。私に帰依した事は、そなたらにとって大いなる福報となった。法会に参列しても定まったお金もかからないし、協会から私への給料も支払っていない。現在、まだ百名余りの弟子からの供養を私は受け取らないでいる。その心が間違っていれば、私は受け取らない。

善根、福徳因縁は欠く事ができない上、それを中断したり停止したりしてはならない。上師は絶えずそなたへ善根の植え付けをしているが、そなたらは言う事に従って実践すれば良い。ちょっとした怠惰な考え方が浮かべば、直ぐさま善根が悪根に変わってしまう。何時になったら満ちるようになるだろうか、何時になったらよくできているだろうかと問いてはならない。良し悪しの基準がない。善根の植え付けは呼吸のように、絶え間なくする事である。途中で止めたりできない、いっぱいしてきたから、これで充分だろうとも言ってはならない。善根、福、徳との三つは、浄土法門の中で最も重要なものである。

全ては仏典に沿って修めるのだ。上師としては絶えず因縁を作ってあげられるが、実践の面に関してはそなたらに任せる。仏陀の教え、上師から教わった方法で実践せず、ご自身の考え方ばかり正しいと思うならば、そなたに善根がないという事だ。善根がなければ、浄土に行けようがない。

善根を一段としっかりと安定させるには、福徳因縁を欠く事ができない。土は慈悲という土、仏法は慈悲の法水である。諸仏菩薩と上師から授けたものでも、そなたの一つの悪念によってすぐ消されてしまう。そなたが話に従わず、突然に風が吹き出し土が飛ばされたからだ。自分自身が仏を学んでいると思った以上、思想面や生活様式を一般の人よりも慎重に扱うべく、思い一つの差で善根を毀滅し悪根を増長させる事になると分かるべきである。一旦、悪根が増長すると、取り除くには大変苦労するだろう。

幸いな事に、私は累世で善根を積んできたから、法王に出会って仏法を教われた。でなければ、私の一生はとっくに無駄になっている。法王は私に方法を授けたが、自ら進んで修めなければならない。法王からの伝法があったとしても、私が修めなくてはどうにもならない。人身を得るには数百年も要するが、実に容易な事ではない。地球では約70億という人口の中で、仏法の聞き分けができるのは幾人居るのだろうか?しかも一人の上師が、喜んでそなたらへの善根を植え付け続けたり、修習の監督したりするから、簡単に諦めようとしないで欲しい。放棄したら、後世が可哀そうになるに違いない。

「福」は供養布施である。「不可以少」とは、家産を傾けるなり、家屋を売るなり、会社を売却するなりして供養布施に回すという定義ではない。リンポチェはそなたの能力、心持ち、状況によって供養布施の機会を分け与えよう。施身法こそ、そなたらを財施(ざいせ)、法施(ほうせ)、無畏施(むいせ)との三つを同時にさせる事で、目の前の問題を解決に当たるのではない。

そなたらのために、私がどれだけの善根を植え付けてきたか?密教の道場で、我々寶吉祥道場だけが、16年連続で毎回参列者2万人もの「阿弥陀仏無遮大済度法会」を催し続けたのは何故か?そなたらの善根のためである。私一人で修めれば良いくせに、何故わざわざそなたらを加えたのか?そなたらが参与しない限り、善根がないのだ。今年、大法会の支出を私の自腹で支払ったのは何故か?そなたらがノロノロしていて誰もが待っていたからだ。最後の一刻になって初めて動き出す。一部の弟子は、心の中では大法会の中止を望んでいた。今年の疫病によって収入が減るにも拘わらず、更に大法会のためにお金を支出する事を心配していたからだ。そこで、私はいっそのことで、皆にお金を出させない事にした。私がお金を出す、出向く、命を出すのだから、今年はそなたらに比べて私のほうが善根が多いのだ。今年もパルナシャバリ法会の執り行って、24時間連続で持呪し続けた事も、そなたらを衆生と縁を結ばせるためだったが、それでも一部の弟子は参加はしなかった。独り善がりだった。

善根、福徳因縁が不足する場合、そなたにポワ法を修めるどころか、そなたを済度させるだけでも、暫く待たせるぐらいになる。たとえ私が法を修めることを承諾したとしても、必ず縁があるとは限らない。そなたらはご自身に充分な善根、福徳因縁を植え付けていないせいで、まだあれやこれやと戸惑っている。まさか毎週法会に参列したり、リンポチェに少額供養したり、協会に少額送金したりすれば充分ではないかと思っていないか。

浄土宗を修める者なら、この句について心がけしなければ、行けようがない。ひたすら阿弥陀仏を称名すれば行けると思ってはならない。阿弥陀仏を称えても、心に善がない、布施の心がない、供養の心がないならば、依然行けようがない。出家衆には出家衆なりの、在家には在家なりの戒めを持つ。戒めがあっての定、定があっての知恵、功徳。仏が供養布施こそが功徳と見なしていれば、「善根、福、徳」と三つに分ける事がないはずだ。善根が厚い者なら、自然に供養布施が行える。

去年の年末に、法王は公の場で私の高額の献金について讃嘆なされた。私は累世で善根を積んだから、自然に供養布施ができているのだ。上師の実行したい事業なら、私は能力が及ぶ範囲で尽力して参るが、上師から進捗の確認も、最後の一秒まで待つ事も要らない。そなたらが最後の一秒まで待つ事を習慣づければ、将来、施身法での済度を受けに来る際も、きっと最後まで待つだろうし、17階より下の階まで並ぶようになるかもしれない。前半のを済度し切ってから、そなたの番になって上がってきて済度を受けることになるだろう。そなたは待つことに慣れているから、前の方へ駆けつけない。例えば、大法会に来た衆生らは、走って前の方まできたのもいるが、それは何故だろうか?生前に、三宝を尊重した事がある者やら、私と縁がある者やら、一番前に並ぶようになる。善根、福徳因縁が足りて初めて法王のお傍に座れる事と同様だ。『宝積経』にはっきりと書かれているように、上師にお会いし、上師がそなたの座る場所をどう決めるのも、そなたの業力、善根、福徳因縁によるとある。施身法、大法会を催行するのは何故だろうか?そなたらに衆生と善の因縁を植え付けさせるためだ。

私は絶えず福徳因縁を蓄積し、大願力、大慈悲心を発している。絶え間なくやり続けている。16年このかた、大法会の趣旨に費用を徴収しない事がある。こうできる人は居ようか?そなたらが誘った参列者が無料で参列できる事を見て、その口から「寶吉祥が良いね、リンポチェがお慈悲で」と言い出しただけで、そなたに善根の植え付け、善縁の結び付けに繋がる。そなたは人が三宝を讃えるのを助けたからだ。まさに思いも寄らない事だろう?上師としては絶えず弟子の善根を植え付け、善縁の結び付けに努めている。

そなたらは死ぬことや貧乏になる事を心配しているが、常にご自身が貧乏でいると思えば、本当に貧乏になる。そなたらの持呪は多かれ少なかれ定を持ち、ひたすらある物事を考えれば叶うこともあり得るからだ。私が仏を学び始めてから、観音菩薩の仰せになった話を念頭に置いている。「如法に仏を学べば、仏菩薩はそなたに食べるご飯がない、着る服がない、住む場所がないような事をさせない」と。そなたは衆生と善縁を結べば、たとえそなたが死んだとしても、葬儀社の方ですらそなたの遺体をより尊重して扱う。

私の亡き父が往生した際に、私は遺体を確認しに行った。遺体安置処の地面は遺体だらけで、遺族からの確認を待っていたものだ。いずれも裸で、一人一人床に並べてあった。そこのスタッフが水を掛けて遺体の汚れを洗い流した。その時、私は人が死んでからの尊厳の無さを、悲しく思った。亡者に湯灌を行う場合もあるが、それは亡者に福報があるか、お金があるかだ。福報のある亡者だったら、湯灌を施す側もその遺体をより丁寧に扱う。

私は在家の上師である故、様々な方法で衆生を救済する事ができる。『阿弥陀経』に、明確に「不可少福徳因縁」とある。その意味は、私が亡者を済度させる場合でも、関わる事が多く含まれている。まずは亡者を本尊であると観て、続いてはその累世の悪業を清めるようにする。単なる阿弥陀仏を称名するだけではない。その業が清められ福報が上がるようになってはじめて、歴代伝承上師及び仏菩薩のご加護とお助けを懇切に請ってから、亡者を済度させることができる。ポワ法は阿弥陀仏が伝わってきたものなので、間違いなくそうだ。以前、亡者のために唱えに行った事のある人は、今聞けば聞くほど恐ろしいだろう。ご自身でさえ、善根、福徳因縁に欠いているのに、どうやって亡者を行かせるように助けられるか?出家衆が亡者を助ける能力がない場合、リンポチェに助けを求めてよい。

ある出家して30年強の弟子が、以前仏寺の中では二番目に偉い人だった。私に帰依する前に、アメリカに行くかどうかと私からの指示を請いに来たが、行くなと私は答えた。当時、彼は話を聞かなくてもよかったが、彼は言われた通りに行かないようにした。行かない事によって供養が随分減ったが、人の物事や陰口を聞かなくて済んだ。

リンポチェは、やってはいけない事をわざとさせようとしない。全ての事はそなたらに善根、福徳因縁を植え付けるように教えるためである。そなたらはこの世で修得する事が出来なくとも、私は機会を与えてその実践をさせよう。帰依して生死から解脱したいからには、佛陀の教えに沿って実践すべきである。阿弥陀仏の称名だけすれば浄土に行けるのだったら、佛陀は我々が実践すべき事をそれほど多く仰せにならないはずである。『阿弥陀経』にも「五濁悪世に於いて、此の難信の法を説く」とある。意地でも、そなたらは進んで聞き入れようとせず、ご自身の方法を以って仏を学んだり、人生を理解したりしている。ご帰宅後に、いったい自分は何をしているかと考えてごらん。

私は法本について開示しない代わりに、『阿弥陀経』について説いたのは、そなたらにとって法本の内容は、聞いても解りかねるのだ。宛も、ある出家弟子が、リンポチェの先週開示した禅については、聞いても分からないとコメントしたようにだ。このレベルまで実践しなければ聞いても分からないに違いない。だが、善根、福徳因縁なら誰でも行えるし、進んで話を聞く、受け入れて行い、絶え間なくやり続ければ、恐れないで実践すれば良い。以前私はお金がなかった際に、法王は私に総本山直貢梯寺の黄金屋根の修繕工事に護持せよと命じた。私はすぐにもワンセットの骨董家具を売ったが、そなたらのようにあれやこれやと躊躇しなかった。上師が私に善事を許与した以上、私は必ずそれを実行する。私は費用を調達した過程については法王に報告しなかった。上師が慈悲深く、それを聴けば胸が苦しくなり、煩悩を起こし、「なら、いいや、私は他の人に当たってみよう」というだろうからだ。

私と同じように財産まで売って欲しいのではない。ある弟子が自分の家を供養しようとしたが、私は受け取らなかった。これに於いて況して僅かな供養金を気になるわけないではないか。羅という弟子が、家屋を抵当に入れてローンを借りて私に供養しようとしたが、私はそれを承諾しなかった。彼の心持に間違いがあるわけではなく、仮に今後その生活が窮屈になれば、その妻が生活の窮屈さを私のせいにするかもしれないからだ。

何年も前の話だが、田という弟子が家屋で供養しようとした。その時、その子供がまだ幼いから、私は受け取らなかった。今となっては不動産価格が上昇している。その家屋を子供に残せと命じた。彼女の夫はこれという物は残せる余裕がなさそうだからだ。もう一人、呉という弟子は夫を亡くしてから、家屋を私に供養しようとしたが、私は受け取らなかった。何故かと言えば、彼女はその家屋しか持っていなく、その家屋は彼女を持たせようと思ったからだ。彼女の心持さえあればそれで充分だ。大なる供養すら、受け取らないでいるくせに、そなたらからの僅かな供養を気にするわけがあるか?供養する際に、肝心なのは心にあり、品物の価値ではない。心持ちが合えば、私はその心のみ受け取っている。弟子にそういう心があれば、私は感動するし、心持ちだけ受け取って品物を受け取らない。これら、家屋で供養しようとしたのは、少なくとも総勢5000万元になるが、私はそれを要らないでいた。本当にお金が欲しいのであれば、大金ばかり拒否し、少額を欲しがる事はないだろう?今でも、百名強の弟子は供養ができない。心持ちに間違いがあれば、私は一切要らない。

不要になった物で供養しない。それは上師に迷惑を掛けるからだ。プーアル茶を供養したりする弟子もいる。プーアル茶をたくさん買いためたが、アキ護法は飲み切れないだろうと思って供養にでも回したりした。私もプーアル茶をたくさん持っている。これ以上、プーアル茶で私に供養しないでくれ。プーアル茶がご自身にとって一番貴重な品物だという弟子も居るだろうが、それなら、アキ護法に一杯多めにプーアル茶を供養したらいかが?

供養の仕方を分かるべきである。例えば、本日私は法王に二点の品物を供養した。いずれも、法王との会話で、法王が言及した物だった。法王はくれと言わずとも、いつか法王はそれを必要するだろうと思って、私は準備しておいた。一旦法王に指示を請うてから、供養に参った。

昨日は弟子らを法会の参列に連れて行った。寶吉祥道場は周知されているし、私の教え方が厳しいのも知られているから、そなたらもメンツが立つだろう。にもかかわらず、ある人たちは文句を言ったようだった。これは実にどうしても起こる事だ。釈迦牟尼仏であられてさえ、批判されるのだから、況して私だったら。だが、だんだんと寶吉祥の良さは知られ、寶吉祥の出家弟子が出かけるのは、つまり法会の参列にこととなった。法王は私からの供養によって私を判断するのではない。法王は仏法を私に授けてから、私がどう修めるか、弟子、衆生、教派に対してどう扱うかを見ているのだ。法王は平等である。

本日、開示した「不可少善根福徳因縁」は正に浄土を修めるに最も根本たる法門である。この句を実践できてはじめて、その後の発願、念仏の方法がある。そなたらが死んだらすぐ阿弥陀仏浄土に行けないことを上師が承知しているから、そなたらが在世のうち、そなたらに絶えず様々な善根を作らせ、福徳因縁の機会を蓄積させる。これこそ浄土善人の生活ぶりである。充分や不足などはなく、絶え間なく行うべく、呼吸する事や食事する事みたいに自然に行うのだ。そなたは、毎日呼吸するか?するだろう!呼吸が充分でもうやめると言わないだろう?ご飯も充分食べたから、まさかこれからは食べないようにすることはないだろう?ダイエットなら、話は別だが。ご飯は、一日に少なくとも二回はするだろう。なかなか行い難いと思うのは、そなたが惜しむからだ。

私の門下に帰依して仏を学ぶのは大なる福報である。私はひたすらお金を退く人だ。寶吉祥仏法センターも最もお金のかからない道場である。これらの出家弟子に聞けば分かる。(出家弟子は皆頷いた。)他所なら灯を点すだけで費用は徴収されるが、我らは法会に参列しても決まった金額は定めてない。例えば、私の誕生日やら道場の創立記念日やらで、これらの名目を利用して記念活動や費用の徴取にしてない。実はそうしてもいいのだが、私はやらない。これまで、どれだけの弟子が葬祭費の支給ができなかったことがあるか、食事に事欠いたことがあるか、子供の学費が支払えないことがあるか。私は助け続けてきている。私は損得計算した事あるか?(弟子らは一斉に頭を振った。)ここ十数年、道場が続けられたのに対しては、諸仏菩薩と法王からのご加護に感謝しており、絶えず我々に善根、福徳因縁を累積する機会を与えてくださっていると思う。そして、そなたらからのご護持が無ければ、道場も今日まで続く事が無かろう。

我々は『阿弥陀経』の書かれた通りに実践し、ご自身の心構えを改め、またご自身の考え方でやらないなら、きっと浄土に行けるようになる。2000年も前の釈迦牟尼仏はどうやって現代の事を存知られるかと思ってはいけない。仏は何でも知っている。私の説法に間違いがないかもしっかりと知っている。私は最もメンツを要らない人であって、分からないなら分からないと言うし、言い間違えたら言い間違えたと認める。この点について、そなたらは敢えてやろうともない。上師たる私は、言い間違えたら間違いを認めるべく、間違いはないやら、忘れたやらで誤魔化すことができない。

『阿弥陀経』で書かれたように、十方諸仏を供養するには、福徳因縁に欠かせない事だ。何故、念仏、念法、念僧を強調し続けたか?善根の植え付けに当たるのだ。現在、寶吉祥の弟子が千人強集まっているが、もし経典の書かれた通りに実践すれば、正に『阿弥陀経』で言った「得与如是、諸上善人、俱会一処」の如く、今後浄土で皆で集まるようになる。もし、そなたはまだ人を相手にしないでいれば、将来はどうやって諸々の上善人と供に一処に会するか?電話でも掛けて人のゴシップなどを言って欲しいのではなく、何か用事があって相談したい時に、そなたは能力の及ぶ限り力を尽くし続ける事を指すのだ。

行い続けるには、上師だけしかそなたらを率いられないから、そなたらは必ず話を聞くべきだ。上師が弟子に善根の植え付け、善縁の結びつけに機会を与えた場合、それをちゃんと把握して実践しなければならない。あまりにもご自身の考え方を持ち過ぎないように、更に自分ならできないではないか、成し遂げられるか、よくできるかどうか、充分に仕上げられるか、と心配は要らない。リンポチェが言い付けた以上、そなたらは力を尽くせば良い。これまで弟子がここを離れた理由に、ご自身の考え方を持ち過ぎたせいであり、そなたらの善根は浅く薄く張る上、しっかりしておらず、ちょっと風に吹かれただけで動揺するからだ。上師たる仕事は、そなたらにしっかりとした善根を植え付け続ける事だ。

私の仏を学んだ過程は、上師が言った限り私は行うものだった。以前、顕教にいた頃も、師僧が言った通りに私は行っていた。ある日、師僧は私に韋馱菩薩の仏像を作れと言いつけたが、その当時、私はお金に余裕がなくとも依然として供養した。そして、ある夜、韋馱菩薩を夢見た。私は師僧に夢で見た韋馱菩薩の姿を述べたら、師僧は正にそうだと答えた。韋馱菩薩と私との因縁が深く、これまで様々な事は韋馱菩薩のご護持によって成し遂げた。

本日は「不可少善根福徳因縁」という一句のみの開示であったが、とても重要である。仏を学ぶポイントは、専念して行う事で、リンポチェも皆を従えて絶えず善根、福徳因縁を植え付けるようにしている。

リンポチェが参列者全員を従えてアキ護法、廻向儀軌を修持なされた。


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2020 年 12 月 27 日 更新