尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年10月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが灯を点し仏に奉げた後、法座に上がられ、弟子を率い500万遍の六字大明呪を唱えられ、法王の侍者の貢珠桑滇喇嘛に回向され、参列者全員に貴重な仏法を開示なされた。

 今日は観音菩薩簡儀を修めよう。元々今週も続いて阿弥陀仏浄土について語る予定だったが、金曜日の夜中に法王の侍者の貢珠桑滇喇嘛が急に他界された。貢珠桑滇は、雲南生まれのチベット人だった。最初は雲南省中甸にある来源寺で出家なされ、のち来源寺から直貢梯寺に赴き、20歳になる前に直貢梯寺で出家された。彼は直貢梯寺で出家の閉関修行を数年間行った後、インドに赴き、チェツァン法王に付き従い、法王の侍者となった。もちろんその間曲折を経られてきたが、今日はその話をやめておこう。

 彼はここ20数年間、チェツァン法王の侍者として務めてきた。だが、それほど真面目に修行したわけではなかったが、そなたらと比べれば随分真剣で、他の人と比べれば彼はまじめとは言えない。法会があると、彼はいつも参列しておらず、あちらこちらに隠れていた。

 法王、リンポチェに近づけば、何もかも解決できるだろうと誤解される人が多いが、私は屡々言うし、どの仏典でも説かれているように、諸仏菩薩と上師はそなたの業力を変える事ができず、どうやって自身の業力を転じるかだけなら教えられるとある。だが、なんびとも聞き入れようとしないで、法王、リンポチェにご加護を求めれば良いと思っている。そうなら、私は修める必要がなく、毎日法王に求めれば良い。

 あの日、私は法王と会って、我ら二人とも同じ見方であるとわかった。貢珠桑滇は頑固すぎると。そなたらと同様に、仏法以外の話ならちっとも聞き入れない。阿弥陀仏に関する話をするなら聞く、阿弥陀仏と関係ない事を話すなら聞かないと考えるだろうが、私は常に貢珠桑滇に、医者に診てもらうように、冷たい飲料水を止めよう、と細かな事を言い付けていた。それにも拘わらず、彼が着実に修行しなかった事もあって、彼自身の業を転じさせられなかったのだろう。

 法王の侍者たる彼には、福報(福をもたらす報い)がある。当然、法王は彼のために修法、祈祷を施されたし、直貢噶舉では多くの仏寺は貢珠桑滇のために点燈儀式を執り行うようになった。チョンツァン法王がこの事を知られてからも、四十九日以内は彼のため修法、祈祷を施すよう、直貢梯寺に言い付けられた。これはみな彼が侍者を務めて蓄積した福報となった。この事を通じて気を付けて欲しいのは、そなたらは私の侍者ではない上、なお進んで修めようとせず、供養を惜しみ、話を聞かないでいるなら、他に望む事でもあろうか?

 帰依すればすべて得られると思う勿れ。彼は十代で出家し、毎日、法王の御許にいるなり、法王のために食事の支度するなり、法王に侍するなりして福報が蓄積できた。ただし、亡くなられてはじめて福報があったので、彼自身の業力を改められなかった。そなたらは発心しないし、修行しないでいる。毎日ちょっと唱えたら良いと思うなんて、いつか、仮にリンポチェがいない状況に至れば、誰がそなたらを相手にしてくれようか?

 貢珠桑滇にこの福報があったのには、第一に彼は法王に侍していた事、第二に1997年からの毎年、リンポチェがインドへ一か月余りの閉関修行に行っていた時に、最初の二年は彼ではなかったが、後の何年間も、彼が私に奉じて飲食等を支度してくれたのだ。特に、2007年ラキ雪山での三か月強の閉関修行に、毎日の三食は彼が奉じ、食事を用意してくれた。この種の善の業力を為した事があるからこそ、機会があれば必ず私は報いたい。

 彼は生前に浄土法門を専門に修めず、毎日護法しか修めない、法王に対し忠義を尽くし、私の話にもよっぽど従った。本日、私は既に法王に申し上げているが、法会参列者全員は一人5000遍の六字大明呪を唱える予定だと。真言を始める前に、真言のあらゆる功徳を貢珠桑滇に回向し、阿弥陀仏浄土往生への資糧を蓄積させる事を、考えておこう。阿弥陀仏無遮大済度法会の時に、私は彼を済度させよう。

 真言を唱える際は、あれこれ考えないでほしい。自分が凄いのだと自惚れない、或いは済度させる能力を持つ事と思う勿れ。貢珠桑滇が資糧を有するように、数字を累積して参るだけだ。簡単に言えば、閉関修行の際、彼から私に食事の奉じなくしては、今日の私はいない。私なくしては、そなたらはいないから、そなたらは彼に借りがあるのだ。5,000遍唱えるのは簡単すぎ、大した事ではない。唱えたくないなら、退場して構わない。法会に参列するのは自分のためだと思う信者がいれば、退場しても良い。何故かと言えば、今日する事はそなたらと無関係からだ。また、法会に参列して自分が良くなると望むようなら、これとも無関係だ。今日修めるのは布施法門だ―法布施。

 ご自身の事で来られた信者らは、今日修める法はご自身のためではない事に気づき、離れたくなったら離れても構わない。先週説いたように、弥勒菩薩が釈迦牟尼仏に求め開示された10の心の中で、一個目に当たるのが衆生を助ける事だ。今日、貢珠桑滇との関係には触れないが、たとえ貢珠桑滇との間に関係がないとて、唱えと命じれば、唱えるに決まっているだろう。唱えなくていい?唱えないなら離れても良い。

 5,000遍唱えれば、ご加護が授かると思ってはならない。桑滇のために唱えたからと言って、後日誰かがしてくれると思ってはならない。絶対にこう考えてはならない。菩薩道を修めるまでは、広く衆生と善縁を結ばれるようにする事。いわゆる善縁は、人にお経を唱えろ、礼拝しろ、菜食しろと言うのではなく、上師が率いた下で広く衆生と善縁を結ぶ事こそ、善縁と言えよう。

 つい先週、法王や私と旅に出かけた際に、彼も同行したが、あっという間にいなくなり、まさに諸行無常だ。世間のすべては無常だと屡々言うように、変わらない事はないのだ。彼は毎日、法王と一緒にいた。ご自宅に仏像が安置されたとしても、終日仏像と一緒に居られる程でもなかろう。もし、そなたらは話に従わず、ご自身の考え方で、法会に参列したり、仏法を聴聞したり、欲しい事だけ求めたりするのなら、ここに来ないよう勧める。そなたを満足させる事があるわけないからだ。

 寶吉祥仏法センターは、衆生に輪廻解脱を教えたり、浄土往生を遂げる事に重点を置くから、世間における細やかな事のためではない。世間の些細な物事を助けてあげても、目的は仏を学ぶよう心を定着させる事だ。ひたすら世間の事を求め、仏を学ばないのなら、私に求める必要があろうか?まさか私を利用する、台無しにする、恐喝する、馬鹿にするつもりではないか?

 昨日、ある弟子が間違いを犯し、彼女からの供養を許さなかった。だが、彼女は根気よく、再度供養の指示を求めに来られるように、該当チームのメンバー全員から同意を得た。私の出家弟子らが、彼女の状況を見て求めに上がらせると判断したところ、私はテストを出した。何年間供養しなかったか?と聞いたら、七年間だと答えた。何年か供養しなかった分のお金は何処にあるんだ?と更に聞くと、使ってしまったと答えた。皆さん、これはどういう意味かわかりますか?本々供養する気がないという事だ。気があれば、たとえ供養を一時許さなくても供養するためのお金は貯められるのだ。供養が許されるまで貯金すれば、その時にまとまって供養できるようになるし、絶えず供養心を持つ事をも意味するからだ。だけど、そなたらはそうはしない。私は自分自身に罰を与え、そなたらの供養を受け取らない期間、そなたらはお金を使い切ったりする。チームのメンバー全員が、再び供養を求めに来られる事に、同意を得てから、そなたらは再度私に施し直す。こんな供養を受け取って何ができるというのか?

 これら出家衆は気を付けなさい。在家弟子の頭は良くてたまらないからだ。私は仏法に基づいて語っているが、もし求める気があれば、とっくに準備しているではないか?承諾を得てから施しなおすことなんてあるものか?

 お金について言うのではないが、求め得てから最初からやり直せると思われるなら、もし求め得られなかったら、どうなるかと思った事ある?今後、該当のチームの中で、いかなる者が同意を求めようが、仮に彼女らが同意を承諾したとしても、私は依然同意しない。そのチームの人は、出鱈目を言う上、弱者にばかり同情するからだ。私のほうが可哀そうではないか。彼女は私に施すつもりだったのだから。私は拘泥しないのに、そなたらは意地になって計算している。現在、誰も損得計算が得意で、供養できるように求め得られたら、彼女は自分自身に福報を最初から蓄積し直せ、良くなり始めると思ったのだ。

 供養を求めても許しが得られない人が多いが、それは私が彼らのやり口を知っているからだ。彼らは私にほんの少しのお金をあげる代わりに、大金をえたいのだ。多くは、一を以て百と交換するという言い方がある。1,000元を供養すれば、後に10,000元が返ってくると信者に説くような人が少なくない。誰が言ったのか?仏典にはそう説かれているか?これ以上口任せに出鱈目を言うなら、この道場から離れよ!これらの出家女衆もこれ以上こう言わないようにして欲しい。仏典にはそう書かれているか?1,000元を施せば10,000元が戻るなんて、多くの信者は正にこれが真実かのように信じ、毒に当たっている。私はそなたらからの施しが要らず、そなたらが福報を必要としているのだ。そなたらだけ計算が上手ではなく、私ですら計算が得意だ。私は商売する商人だ。在家で商売ができる上師に帰依したのを忘れない。私は必ず計算する。私にいくらくれるかを計算するのではなく、そなたらが何でこんな策を画するのかと思案する。

 現在は施身法に参列させない弟子が一人居るが、この前ペットの猫が亡くなり、彼が済度を求めに来た際にも同じようにした。つまり彼からの供養も受け取らない上、彼を施身法にも参列させないようにした。昨日、彼が謁見しに来たら、私は叱り出した。猫の事で月いくらかかったかと聞き、彼は何千元かすると答えた。更にいくら供養したかと聞けば、何千元かと答えた。私はペットなのか?私はペットではない。触らせない、抱っこさせない、キスさせない、えさを与えさせないからだ。ペットなわけないではないか?だから、昨日も依然として承諾を与えなかった。私は彼に次のように話した。その猫を済度するように私に求めたことに準じて物事を考えると、そなたの中では私とその猫とは同じ立場にあると。さらに、本来なら後二、三年してから猫が死ぬはずだったが、今猫は既に死んだのであるから、その分のお金はどこに行ったのか?もう一度言う。リンポチェはお金で物事を判断するのではなく、そなたらの心構えを見ているのだ。仏を学んでお金がかかるのではなく、私は食事に事欠く程貧乏だった時期でも、供養するお金がなくても、体で供養していた—ひたすら激しく仏に拝んだものだ。

 この場に居る各位は、食事に事欠くほど、家賃、光熱費が払えないほど、クーラーが付けられないほど、電気、電話が止められるほどの貧乏さを経験した事がある?昔、私は電話する場合は、必ず公衆電話に行って硬貨一枚ずつ入れて電話していたもの。そなたらはこれほどではないだろう。だが、私は供養するためのお金はあった。試しに考えよう。なんの理由があってあらゆる悪業を転じさせたり、良くならせたりするのか?ちょっと法会に来ただけで好転させるつもり?私はこのようにして修め得られたのである。私の後について修めなければ、どうやってできるのか?

無料で診療を提供しても、また煩く言う。真に貢珠桑滇に似ている — 知ったかぶりに、あれやこれやと薬を調合したりして、自分ででも何とかなると思われる。今日我々が法を修める理由は、貢珠桑滇が閉関修行の際に私に侍した功徳に報いるためだ。ついこの間も言ったが、法王との会話で、私が閉関修行した時に、麺を多めに、水を多めに、とメモに書いて渡した事を法王が思い出して言った。今年に至るまで、私は、法王がこの世でラキ雪山での閉関修行に連れて行った唯一の弟子だ。私のみ連れられ、他の人を連れて行った事がない。しかも、法王は始終私の関房の横に居てくださって一刻たりとも離れた事がない。現在、法王は年を取ったし、これからは誰かを連れていくかどうかはわからないが、法王が坐床し法王として認証されてから今日に至るまで、弟子の私しかラキ雪山へ連れて三か月間に亘っての閉関修行をしたことがない。その上、無上瑜伽部のを閉関修行した。貢珠桑滇は、三か月間に亘って食事の支度をしてくれたおかげで、私は食べさせてもらえたので、私の成就も彼と関連がある。関連があったが、彼は不幸に見舞われ業力が現前して今こうして死なれたので、我々は仏法を以って供養しよう。後ほど、真言を唱える前に心の中でこう考えておこう。「今日唱える5,000遍の六字大明呪をすべて貢珠桑滇に回向する」と。隣にお年寄り、或いは言葉の分からない人が居れば、今言った内容を分かるように伝えよう。

貢珠桑滇がこうして世を去った事から、大いに考えさせられたのが彼の頑固さだ。医者に行けと言っても聞かないでいたなので、私と法王とで交代に彼を叱っていた。医者に診てもらわなくていい? 良いよ。閉関して菩薩の果位まで得られるなら良い。ジッテン・サムゴンみたいに、ハンセン病に罹っても閉関して治った者もいて医者に診てもらわずに済んだ。そなたらはその程度まで修めたか?ある出家弟子が、ちょっと良くなったと感じれば、漢方医に行かなくなった。無料で診療を提供しても、行かないでいる。彼女はかつて歯医者だったので、漢方医学を信じない。彼女が再度病気になったら、ここを離れるようにしてもらう。

 リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を率い、六字大明呪を5,000遍唱え上げた。唱え終わると、皆に5,000遍に達したかと聞かれた。この時点で大部分の人が既に達したが、リンポチェは唱え続けようと指示なされた。暫くしてリンポチェは再び聞いたところ、ごく少数の弟子はまだ5,000遍に達していなかった。出家弟子の一人がなんとわずか2,500遍しか唱えなかったという。リンポチェがこう叱責した。「真言を唱えるのが得意ではなかったのか?衆生に借りがある事を意味しているのだ。」

 若者にして遅く唱えたのは、集中していないという事だ。心がどこかへ飛んでいってしまっただろうし、常日頃から唱えていないのだ。20歳以下の人は、夜8時まで居残って唱えるが、今時の若者は健康状態がどんどん良くなくなっている事に気づいた。白髪だらけの60代なら遅く唱えるのは納得できるが、20代で唱え終わらないなら、常日頃修めていない事だから、同じく夜8時まで唱えなさい。30歳以下で5,000遍に達していない女衆も夜8時までだ。他にまだ唱え終わってない人は、法会後は居残って、唱え終わるまで帰れない。四人の男性も8時までとする。鍛えよう。もし、ご時間がなければ、唱えなくてもいいが、今後は敢えてそなたらに頼もうとしない。仏を学ぶのは簡単のように思われるが、「法話を聞きに来る」、「私は信仰深い」、「私は恭しい」ぐらいなら、仏を修めるとは言えない。何を修めるか?ちょっとした事でテストできるのだ。

 末法時代では、経典を窮める時間がないのだ。そのため、釈迦牟尼仏がこの方便の法門を開いてくださった。いわゆる方便は気ままな事ではなく、真言を通じて我々の修行を加速度的に進歩させる。なんで初めの頃に、何かが得られると望んではならないと教えたか。『地蔵経』にはっきりと書かれている。「もし、我々は広大なる心を以って亡者にあらゆる仏事を施せば、功徳の七分の一は亡者に属し、七分の六は我々に属す」とある。だから、求める必要があるか?そんなに多く考える必要があるか?地蔵菩薩ははっきりと仰せになった。それら20歳の人は何故唱えるのが遅いのか?自分と何の関係があるんだと思ったからだ。若すぎるから、人が死ぬ苦痛が分からないから、のんびり唱えた。何故七分の六は生者の功徳になるか?七分の一は亡者の功徳になるか?

 リンポチェは出家30年の弟子に、それについて誰かが解釈したのを耳にした事ある?と聞いた。
(聞いた事がないと答えた。)佛教学院に通ったことのある弟子は聞いた事あるか?(聞いた事ないと答えた。)何故解釈しないか?理由は何だろうか?これら女出家衆は多くのお寺を訪ね回ったが、何故なんびとも解釈しないか?そなたらはきっとかつて大徳の経典を説くのを多く聞いた事があろうが、いずれもこの段落を飛ばすようにしている。密法まで修め至らなければ理解できないからだ。

 仏典はご想像の通りの顕教しか講じないわけではなく、顕密をも盛り込む。密法まで修めなければ、中身を理解することができようか?例えば、釈迦牟尼仏が叔母に伝授した浄土十六観のように、中身は密法ずくめだ。事部、行部、瑜伽部すべてが入っている。時下、多くの人は仏典を探究すれば、悟りを開けると思っているがそれは違う!仏典には密法がたくさん含まれるが、密法は広く伝えないし解釈もしない事から、そなたが修め得た境地によってはじめて密法の中で語られている事を体得し得る。

 今日は七分の六が生者の功徳になるのはなぜかちょっと説明しよう。生きている有情衆生が為すすべての事は眼耳鼻舌身意の六根に関わるからだ。我々は業障が深く、生まれつきの眼耳鼻舌身意で絶え間なく外界と接し続け、絶えず善、悪業を為している。仏法を通じて清めなければ、眼耳鼻舌身意は我々の修行を助けさせる道具に為り得ない。20歳の人達は、何故唱えるのが遅いのか?その眼耳鼻舌身意にまだ多くの欲望、考え方が持つから、自然と遅くなるのだ。その4人の男衆は何故唱えるのが遅いのか?「自分のために唱えたわけではないし、今まで真言を唱えたことがない」と思っているからだ。勿論、これも健康状態に左右されるのだが。

 亡者を助けるという善業の力によって、我々の眼耳鼻舌身意により累世為した善なり悪なりの業を転じさせる事ができる。何も求めずに亡者を助けると、自然と戒律、禅定の中で行うようになるから、これが功徳そのものだ。初めの頃、自分に何らの利益になるものを求めないと言ったのは何故か?自分の利益を求めると菩薩道ではなくなるのだ。菩薩道を行わなければ功徳の蓄積にならない。些かでも自分の事を考えると、功徳が無くなる。密法では、眼耳鼻舌身意の働きについての解釈があるが、今日は言わないでおこう。それはそなたらには密法を学ぶ資格がないからだ。

 何故亡者にご利益が得られるのか?どの部分の作用に当たるか?眼耳鼻舌身意のほか、我らには自性があるのだ。人が死亡し肉体が使えなくなった後、残るのは意識と本性(自性)のみだ。意識は、そなたの第八意識田に留まったこの世、過去の世で為した善悪業だ。第八意識田の中にある種子は、そなたの来世がどの道に生まれ変わるか、来世にどんな事を成し遂げるかを導いてくれるのだ。自性は本来清浄であるが、眼耳鼻舌身意によって自性が遮られているので、在世の時に自性光が感じられない。いざ人が死ぬと、眼耳鼻舌身意の作動が停止し、意識と自性だけが残るようになる。亡者のために何等かの仏事を行う際に、我々は彼らの意識を抑える分、その自性本性を現す。その本性を現す事が出来てはじめて、仏菩薩の本性と結び付き、浄土往生の資格を具備するようになる。
 
 密法の立場で眼耳鼻舌身意について解釈すれば、人には七つのチャクラがあると言う。亡者を助ける際に、七つのチャクラのうち六つを働かせる。例えば、目で経典を見る、耳で自分がどう唱えたかを聞く、口で唱える、舌を動かす、鼻で呼吸する、体は姿勢を正す、こうして六つのチャクラを稼働する。残り一つは自性の事だ。そのため、密法で言えば、亡者に助けを与える事で七つのチャクラとも功徳が得られる。

 簡単に言えば、済度はそなたらのご想像のように、自分の力に頼れば良いわけではない。必ず上師が本尊と相応するまで修めなければならない。閉関修行が足りれば、自性が清浄になり、はじめて衆生を済度させる事ができる。率直に言えば、そなたらが5,000遍まで唱えても、私の1,000遍、100遍に如かず。多くの人は、回数が満ちるように急いで唱えて、声がはっきりしなかった。私が聞こえていないとでも思っているのか?

 現代の科学に於いて一つの矛盾が常に存在している:人が死んだら何が残るかが分からないのだ。明白に解釈できるのは、仏法に他ならない。人が死んでからその自性と意識が存在しないなら、修法を通じてその遺体を状況や様子を変えさせる事はないではないか。何の作用によるのか?つまりその意識の働きがまだ存在するのだ。仏法を以って彼の意識作用を清めてから、意識は本性の顕しを助けるようになり、自然と遺体が変化するようになるのだ。

 今日は表面上、貢珠桑滇のために真言を唱えたふうに見えたが、実はそなたらご自身のためにもなった。唱え終わっていない人は、必ず完了するまで唱えよ。唱えたくなくても構わない。そなたは彼に借りがあるわけではないし、ただそなたがこれからどの世で何をしようとも、円満にならないのだ。上師がこれだけ唱えと命じたのに、そなたは意地になって唱えない、意地になってご自身の考え方を持つからだ。出家衆として、2,500遍しか唱えないわけないではないか?そなたご自分の考え方を用いたのだ。貢珠桑滇もご自分の考え方を使っていた。彼は法王に対して絶対忠義を尽くす事はさておき、彼個人はそれなりの拘りを多く持っていたのだ。

 今日は表面上、彼のために真言を唱えたようだが、実はそなたらご自身のためにもなる。いったい自分は修行にどれだけ工夫したかと見極める。経典を読むなり、仏法を聞くなり、大頂礼をするなりして、これこそいわゆる修行だと思う事と勿れ。修行の目的と方向をはっきりと弁えてはじめて道を逸れないようになる。

 リンチェンドルジェ・リンポチェが参列者全員を率い、アキ護法と回向儀軌を修められた後、続いてこう開示なされた:

10月10日大法会当日、すべての働き手は心がけよう。参列者が会場に入る前、列に並ぶ段階から、マスクの着用を必要とする。また、列に並ぶ際、ソーシャルディスダンスを開けにくいから、距離を保つよう柔軟に対応し説明すべきだ。今回、中秋の名月に、大勢の人がバーベキューしたから、その匂いから数多くの衆生を怒らせたし、大気汚染にもなった。コロナウィルスは収まったわけではないし、再び蔓延が始まるかも分からない。前も言ったように、人類が屠畜を続ける限り、疫病は消えないのだと。毎週、法会の挙行を通じ、少しでもこの土地に善を蓄積したいと思う。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »


2020 年 12 月 21 日 更新