尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年9月27日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、灯を点して仏に奉げ、法座に上がられると、『宝積経』卷第九十二「発勝志楽会第二十五ノ二」及び卷第九十三「善臂菩薩会第二十六ノ一」を御開解くださった。

 リンポチェは朱という弟子にこう聞いた:法会後は何故弟子らを残すのか?朱という弟子は、各チームのボランティア名簿を提供してもらいたいからだと答えた。

 もし名簿がなければ、私は大法会を中止するとリンポチェが開示なされた。そなたらはボランティアとは言えず、大法会のために奉仕して福徳の蓄積になるが、誰もが自分で決めたいし、ボスになりたがっている。機会を掴むと、ボスぶってあれやこれやと命令を下す。それは日頃人に苛められてきたせいではないか?

 今、ある組のリーダーが入れ替えられた。該当のメンバーが、彼女はメンバーたちを部下のように戒めていたと言ったからだ。道場のために、サービスを提供する全ての人はボランティアではない。そなたらは義理堅いか?組のメンバーにお金がない時に、そなたはお金を出したか?そなたらはただの使い走りに過ぎず、衆生にサービスを提供するだけである。どの人も偉そうに自惚れ、ちょっとした権力を握っただけで、それを無限大にする。

 私に出来具合をわざと見せようとすることはない。私の定めた規則通りに、物事を進めればいい。何故そんなに手管を弄するのか?まったく制度を尊重していない。担当する三人の弟子は何をやっているのだ?どれも、自分の良い暮らしだけしか頭になくて、もし大法会の日に秩序が乱れていれば、私はその場で法座を下りて法会を中止にしてやる。この三人は、弟子らの時間を占有しないでくれ。法会後、南部に帰る人もいれば、他に用事がある人もいるのに、何故人を残すのか?残る必要はない!

 どの班のリーダーでも偉そうに自惚れ、ボスになったつもりか?人が多ければ多いほど、煩わしくなる。良い事なのに、滅茶苦茶にしている。何の慈悲を学んだのか?弟子全員がこの法会のために、金銭や体力を供出している。一部の弟子をある仕事の担当、使い走りに指名しただけなのに、結局誰もがボスになっている。用事があって来られない弟子がいれば、叱られるようになったなんて。なんの出来具合を見せようとしているのか?この三人のやり方はなんだ?事件さえ起きていなければ、そなたらがよく管理したお陰で、事件が起きたら、リンポチェが責任を負うのか?

 まことしやかに終日忙しくているかに見えるが、そなたらに再びはっきりと言っておく。今後は何らかの業務連絡があれば、法会の前にして、法会後にしてはいけない。慈悲心どころか、人を思いやる気さえない。どれぐらいの弟子が中、南部からやって来て、更に人を残したままそなたらの訓話を聴くというのか?

 十数年前に私が定めた制度に則って行えばいい。だが、そなたらは意地でも聞こうとしないのか?すればするほど、だらけている。そんなに大したことがあるのか?総裁と取引するみたいに盛大に行っている。取り締まらない人もいれば、取り締まりすぎる人もいる。これだけ言ってきたが、聞き入れようとする人はいない。どの人も気が緩んでいる。

 最近、上師相応法を伝授したが、20人ほどが不合格だった。大頂礼をし直せと命じたが、一人の弟子がもう61歳だから、自分の体力では耐えられないと言った。今さっきちょっと逆算してみたが、私がラキ雪山での閉関修行をしたのもちょうどそれぐらいの年だった。苦労を恐れ、自分を惜しむなら、密法を習う資格はない。みな密法を習う資格がない。前日、法王に付き添って出掛けた際に、現代人は修行しても成就が得がたいという話になったが、現代人は安逸な生活を望み、テレビを見たり、テープを聞いたり、仏典を読んだりして、何回か唱えれば、自分が修行していると思い込む。

 現在の人は苦労を忍ぶどころか、苦と向き合う勇気さえない。法王はまだ、私が閉関修行の三か月間は、毎日白湯で茹でた麺しか食べてなかったことを覚えていた。その時、外は気温が氷点下10度だったから、麺が運ばれてきたら、白湯が少なくなって麺が伸びすぎて食べにくくなるから、時には白湯を多めに、時には麺を多めにと、私がメモに書いて渡されたことがあるとさえ、法王は思い出して話した。私はメモに、美味しく作れとは書かなかったが、そなたらは?大頂礼でさえ、馬という弟子は自分の体力では耐えられないと言って拒否したが、それでもまだポワ法を学ぶ気か?自分をそれほど愛しているのなら、仏を学ぶのは勧められない。

 どの人もリンポチェのことを羨ましく思っているが、私は苦行を重ね、修め得たのだ。そこいらに座って唱えたり、経典を読んだり、理論を聞いたりするだけで修められたのではない。新しく帰依した弟子でも、長く帰依した弟子でも、仏を学ぶのは快適な暮らしをするがためだという概念を持っている。私は時間をかけてチェックしてきたが、弟子のあれもこれも問題を抱えていることに気づき、はっと悟った。私に帰依したのは、良い暮らしを送るためだったのだ、と。

 良い暮らしは私が分け与えるのではなく、法王が授けるものでもない。法王は私に方法を伝授し、監督しつつ、その実践を督促してくださっている。馬という弟子に、再度チャンスを与えたが、もう61歳で体力がきついと拒んだ。それならば、学ばないがよい。学んで如何する?自分の体が傷つくのをそんなに怖がっているなら、どうやって仏が学べるというのか?全く学べはしない。

 何故これらの人は出しゃばりたいのか?高慢だからだ。チャンスを掴むと、人を制御しようとする。何を争い合っているのか、まったく分からない。私が充分に取り締まっているのにも拘わらず、問題が多く起きている。どの人も、人を召使いのように扱ったりする。すべての弟子は平等だ。お金があるにしろ、ないにしろ、私のこの場所では、すべての弟子は平等であること。何かを担当させるだけで、あれやこれやと人に構うことがあるだろうか?

 更に、去年は賽銭箱を出さないと言う人までいた。リンポチェが怒るからという理由だった。大法会の供養金は、私は一文たりとも受け取らないで、全部善事を行うために使うと知りつつ、何故人が供養金を出したり、善事に参与したりするのを阻止したのか?何故こういった言い方をしたのか?理由は簡単だ。自分がどれほどリンポチェのことを理解しているかを見せびらかしたいからだ。リンポチェの好き嫌いを知っていて、勝手に決めつけたのだ。

 最近、ニュースで見たかと思うが、私は200万元を寄付した(詳しくは「パンデミックの最中の温かい善行 身体障碍生の疫病防止に 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが200万元寄付」を参照)。その実、お金は衆生のだ、私は衆生を代表して寄付しただけだった。そなたらはちょっと鈍くなってくれないか?123と教えたら、123とやるように?意地でも手を加えて出しゃばろうとするのか?能力があるならば、参列者が二万人もの大法会を催してくれ!人がこうしたら、それは間違いだと思ってそなたの方法に従うべきだと思うなどと、その方法は実は私が考え出したものなので、私が間違っているとそなたが言うなら、そなたは離れてもよい。

 事が多すぎて、どうやって修行できるというのか?どの人も法を貪って苦労を忍べない。ちょっと多めに大頂礼をさせるぐらいで体力が及ばないと言うし、ちょっと多めに唱えさせても文句をつけて、理由を山ほど並べ立てる。その日のお話では、法王も、現代人は出家僧も含め、安逸な暮らしを好むから、成就が得られないことに同意してくださった。仏を学ぶには必ず苦労をしなければならないというわけではないが、ただ苦を経験したことがなければ、衆生の苦しみが分からないのだ。努力しないで、気ままに唱えれば、成就が得られると思っているのなら、そんなことは釈迦牟尼仏の時代から、今まで一度も発生したことがないのだ。

 法会が始まる前に、自身の経験を語った弟子は、人を救済しよう(詳しくは衆生済度事跡第1062号を参照)とまで言った。人にマッサージの施術を行うだけで、人を救済したと言えるか?試しに、そなたらを高さ4500メートルのところに閉じ込め、毎日のように白湯で茹でた麺を食べさせれば、三か月どころか、一週間で全滅してしまうだろう。下痢か、さもなければ倒れるか。勇気がないなら、いっそう学ばないほうがいい。もう貪らないでくれ。馬という弟子がいい例だ。再びチャンスをあげたのに、無理です、体力が続きませんと言った。彼は61歳に過ぎず、体力がないわけないだろう?勇気がないからだ。何故勇気がないのか?命を惜しみ、死を恐れ、痛み、傷つくのをを怖がるからだ。大頂礼をして傷つくのを恐れるなら、仏を学んでどうなるのだ?ポワ法を表だけ学べば、行けるとでも思っているのか?

 釈迦牟尼仏の伝法からこのかた、一度も速成法などは言ったことがないし、一回伝授すれば修め得られるとも言ったことがない。釈迦牟尼仏が説法なさった際に、一部の人が即時開悟したことを思うなど、彼は阿羅漢であったが、そなたは何だ?非識字であっても、六祖慧能が著名な高僧になれたことをも思うなら、彼は該当する機根があったから、五祖の衣鉢を受け継がれて、心法まで伝授されたのだ。五祖が六祖にどの様な心法を伝授されたかは、今に至るまで知る人すらいない。

 (リンポチェがある弟子にこう質問した。出家30年余りにして、聞いたことがあるか?その出家弟子は、五祖の伝法は真夜中だったから、なんぴとも知らなかったが、『金剛経』だったそうですと答えた。続いて、リンポチェが、六祖は五祖の伝授された心法を更に次に授けたかと聞かれると、それは知る人がいないと答えた。)

 何故そんなに秘密裡で、語られないのか?六祖は、後には誰も機根を持たないと知っていたからだ。そなたらからの謗仏、謗法を恐れて、いっそのこと伝えなくしたのだ。寶吉祥道場では、何故不共四加行の伝授が厳しいのか?懺悔心、恭敬心、尊重心を以って、この法を修めなければ、そなたらの不利になるからだ。法を求め得たらいい、それで修め得られたと思っていないか?馬という弟子が最もいい例だ。彼は大頂礼を拝し終え、百字明呪を詠み終え、更に、マンダの献上をも済ませたからには、上師相応法までも問題なく行けるのではないかと思ったのだろうが、一か月唱えたあげく、再度聞くとダウンした。大頂礼しろと再びチャンスをあげたが、61歳だから、体力が及ばないと言った。これが密宗を学ぶ機根か?

 もちろん私もちょっと緩和して、61歳だし、拝まずに唱え続けさせることで許してやってもよかった。だが、授けるべきではない人に授けた私は、妄語の戒を破って、間違いを犯したことになる。速成法などない!我々直貢噶舉の法王が二人とも、速成のポワ法があると仰せになったことがないのに、あると敢えて言う人があろうか?往生された幾人の直貢の大修行者、成就者も言及したことはない!

 みなはポワ法を修めるのは簡単だ、幾つかの声を出せばいいと思っている。さほど簡単なことなら、とっくに済度できている人が大勢現れていたはずだろう?仏を学ぶ上で、最も恐ろしいのは、自分なら必ず学び得ると思う事である。こうした志は支持するが、傲慢な心は支持しない。一部の人は、自分で仏法を聞けば修め得られると思うが、そんな簡単なことがあるか?そなたらは大迦葉尊者ではあるまい。釈迦牟尼仏が一輪の花を捻って微笑んだのを見ただけで、悟りを開いた。大迦葉尊者は開悟される前に、既に阿羅漢果を証していた。出家衆を含め、この場にいる各位の中には、一人の阿羅漢もいない。そのうえ、19世紀のある行者の仰せでは、この世紀には阿羅漢は現れないという。そのため、菩薩道を修める他はない。

 ところが、菩薩道を修める者が、六波羅蜜も修めないし上師をも崇敬しないでいたら、どうやって修められようか?やむを得ず次善の策を取るようにし、宛も経典で説かれた「教えに従う」ようにするしかない。だが、そなたらは、従わないでいる。それなら、何を学べばいいのか?率直に言えば、坊間でのやり方を真似てもいいが、私は破戒することになる。自らの目で因果を見て、法縁因果のことを分かっている故に、こうしては行けないのだと、弁えているからだ。

 道場で大小様々な間違った事をした際に、懺悔を求めれば帳消しになると思ってはならない。我々の道場は名利のために営んでいるのではない。1997年、自分がが升座して弘法をし始めて以来、私はコツコツと絶え間なくやり続けてきている。生まれつきの条件を具備していない人もいるから、皆にどれだけ修めて欲しいかについては要求しないでいる。以前ある人に聞かれたが、チベット仏教の密宗がよく修められているのに、何故チベットは依然として遅れているのだろうか?と。ああした環境があるからこそ、皆が修め得られたのだと私は答えた。いったん関房の中に閉じ籠ると、誰もそなたを相手にすることはないのだから。

 よって、今後閉関修行の際、眷属のある者はみな宣誓供述書を必要とする。関房の中に死んだとしても、仏寺と関わりはない。宣誓供述書にサインしないなら、閉関修行はさせない。死ぬなんて、閉関はなんと恐ろしいことか、と言うだろうが、私は見たことがある。確かに、人によっては福報が閉関修行で死ぬことであるものもいる。閉関修行の終了後、一躍、虫から龍に変身するなどと考えるではない。そうなるとは限らない。因縁がそれぞれ違うから、閉関して病気になるのもいる。閉関終了後、気力が尽きて、ぐったりしていたのを見かけたこともある。

 そなたらは、閉関したらよくなる、閉関終了後は成就が得られるという心持だ。出家衆らもそう思っている。何故閉関修行の必要があるのか?『宝積経』に、釈迦牟尼仏の仰せでは、阿蘭若処でしか修め得られないとある。生身の業力を変えるのではなく、将来の成就を変えるのだ。そなたらにはまだ一つ心違いがある。顕教から密法へと、仏を学ぶようになると、日々がより過ごしやすくなると思うのなら、それは間違いだ。

 現在、不共四加行を修めるのは、快適ではないか?クーラーを付けて、防具やマットを用意し、位置を調整した上で気持ちよく拝む。肌も破れないし、血も流れない、青あざにもならない、というそなたらの修め方。昔、我々は額が腫れるまで拝んだり、血を流しても拝み続けており、そなたらみたいな安逸な暮らしを送っていては、修め得られなかった。故意に皮膚が破れるまで頭を叩いてほしいのではなく、そなたらが器ではないということを言うのだ。私が無理やり伝法しただけで、あまりにも自分に期待しすぎたりしないように。

 4500メートルのところでと言わず、試しに、寶吉祥仏寺の関房で三か月ずっと白湯で茹でた麺を食べさせて、耐えられるかやってみよう。大頂礼をする勇気さえないのに、何を以って衆生を済度する勇気があろうか?あたかも先週の施身法で、鬼衆らが玄関から入ろうとした時、玄関付近の人に退けと命じたら、今までなかったスピードで、速く退いてくれたように。普段、動いてもらうにも、ちゃんと前後左右を見てから動こうとするが、その日はパッと退いてくれた!これも、そなたらが鬼衆を恐れ、リンポチェは怖くないのだということを証明した。いくら叱ってもどうにもならない。

修行はどこが難しかろうか?みな福のある人だから、台湾という福地に生まれたのだ。現在は、他人と同じほど良くなくとも、多くの他所よりも良いのだ。食べ物もあれば住む所もある、何もかもあるから、あまりにも安逸にすぎている。必死の心で仏を学ぼうとしない。私のように、小さい頃から今に至るまで、苦労を偲んでいるのとは違う。仏を学ぶには、苦労が必要だ。良い暮らしをしたいがために仏を学ぼうと思うなら、それは間違いだ。仏を学ぶのは、苦を理解するためなのだ。阿羅漢道を修める際、苦集滅道に当たって、苦をまず知ってから苦は断たれるのだ。そのうえ、苦の因縁が分かって初めて苦を断つことができるのだ。苦の因縁が分からずに、どうしてそれが断てようか?

 リンポチェはその苦を理解し断つことを助けて、そなたらの時間をだいぶ省いている。自分が非常に発心してボランティアもし、毎日何千回も唱えていると思うなら、再三言うが、それは修行ではなく、助縁にすぎない。私の法話を毎日読むだけで、それを修行と言い開悟できるなどと思わないでほしい。閉関修行、そして私の監督を通さなければ、開悟の資格はあり得ない。これらの出家弟子も含め、今はちょっと会得しているぐらいに過ぎない。

これは釈迦牟尼仏が教えてくださったのであって、私が無理難題を吹っかけて困らせるのではない。『宝積経』にも明確に説かれ、そなたらも既にそれを聞いたが、現代人だからと言って異なった方法を用い、修めていられるか?自分の福が薄くて、古代の修め方に適した資格がなければ、教えに従って固く信じるしかない!何も疑わずに!そなたの事が変わらないままであるのは、諸仏菩薩とリンポチェがそれを変えることができないのではなく、そなたが教えに従わないせいだ。

 進んで教えに従い、進んで仏を学びさえすれば、きっといつかそなたの悪業は完済されるだろう。何時完済されるかについては、仏法が効くかどうかではなく、そなたの業がどれほど重いか、決心がどれほど強いか次第だ。そなたに決心がなければ、最も殊勝な法を教えたとしてもどうにもならない。経典にもはっきりと、上機根の人だけしか生起圓満次第ができないと説かれている。彼こそが、生起圓満次第とは何かを体得できるし、修め得られる。大頂礼でさえやり続けられないのであれば、その後の密法があり得るか?あり得ない。

 あり得ると教える人がいたら、彼はどこから学んだかを私は知りたい。私は法王に仕え、学んできている。法王がこう教えたら、私はこうする。法王は数回に亙って、公の場で仰せになったが、その弟子は古代チベットの教え方で教えていると。何故、古代を強調するのか?それこそが伝統ということだ。そなたが私の新しい教法を望むなら、法王からの言い付けがない限り、無理だ。法王が言い付けて下さらなければ、私は伝統的な教法を貫く。伝統とは何だろう?そなたらの心が清潔でなければ、どうやって清浄なる仏法を受け入れられるか?どうやって聞き入れられるか?自然と、修め得られなくなるだろう。

 大頂礼を拝し終え、百字明呪を唱え終え、マンダ献上をし切ったら、いけると思うか?先日は、五十余りの弟子が伝法を受けたが、恐らく20名程は不合格に終わるだろうと私は出家弟子に言っておいた。結果として、20名が不合格だった。経典が手に入ったら、修め得られるなどと思ってはならない。後半まで修めれば修めるほど、私は厳しく監督する。不共四加行の経典をまだ手に入れていない人なら、私は厳しく見張っていないが、不共四加行まで修める場合、私はじっと見つめている。

 何故、私は四人の出家弟子にそなたらと面談しろと命じたのか?情にもろい自分が心配だからだ。彼らはそなたらからの供養をもらったことがないから、情にもろくならない。そうだろう?(出家弟子はそうですと答えた。)彼ら四人は、罪を憎んで人を憎まず。そなた個人に対して、ムカつく奴だと思って、不合格にさせることはあるまい。彼らは聴聞した仏法に基づき、そなたの行為と言葉によって評価を下したのだ。

 言い換えれば、人は(仏法を)覚えているが、そなたらはそうではない。人は(仏法を)活用しているが、そなたらはしていない。そなたらは未だに健康や子供の事について求めているから、当然使いようがない。20年帰依した弟子を面談の担当にさせない理由は?そなたらにはまだ眷属等があるが、この四人の出家弟子には、仏法とリンポチェだけしかない。よって、彼らはそなたらに求める事は一切ない。出家衆のうち、一人だけは自力で生活できているが、他のは私が供養している。彼らはそなたらに求める事がないから、自然とそなたらへの要求はすべて仏法を根拠にしてたものとなる。

 恐らく台湾中の道場では、私だけしかこの方法を用いていないだろう。これは試験とは言えず、心の審査をすると言う事だ。ひとこと言うだけで決められるものだ。ある信者が毎週のように、法を求めに来ていたが、昨日突然言い間違えた。「リンポチェ、明日の法会に参列させて欲しいです」と言った。私は「欲しい」というのなら、無くなるのだ。そなたらは、気楽に「欲しい、したい」と口にするが、経典にはっきり書かれているように、上師、仏菩薩に対しては、求めるべきだという事をすっかり忘れているようだ。欲しいとは言っていないではないか?欲しいとはどういう意味だ?(参列者らは「欲望」と答えた。)求めるとは?(参列者らは「恭順に祈り求める事」と答えた。)そのため、私は応えなかったのだ。

 彼は一字しか間違えなかった。「欲しい」と「求める」とだけで、そんなに厳しくする必要があるのか?もちろんある。それは経典が述べているからだ。経典の中に、菩薩が釈迦牟尼仏に説法を求めた際には、説法して欲しいとは言わず、仏に説法を求めたと説かれている。そなたらは欲しがるばかりで、欲しい事を私にして欲しがっている。ある法を伝授することをせがむ。口にしたことが「求める」ように聞こえたとしても、そなたらの心が求めているかどうかは、私には見える。

 仏を学ぶ事はさほど困難ではないとはっきり知ってもらいたい。困難は自分自身にある。自身の定位を良くしなければ、仏を学ぶ途中で多くの障礙があるようになる。定位を良くしない事とは?仏を学べば、世間の事が変えられると思ってはならない。仏法は我々の将来を変えるのである。たとえ、今は苦と病気をたくさん抱えていたとしても、仏を学んでいる事で、諸仏菩薩と上師がそなたの未来を助けてくださるようにと祈り求めれば、今は病気であろうが、良くない事があろうが、絶対に乗り越えられるようになる。

 病気で死にそうになったとしても、その病気がそなたを死なせるのではなく、そなたの寿命が尽きたのだ。だが、その病気があったからこそ、これ以上悪事を為してはいけないと心がけ、後世が良くなるのだ。仏を学べば数日で、今のあらゆる事が変わると望んではならない。それは有り得ない事だ。上師はそなたの現在の業力を抑えたり、押したりして助けることはできるが、それを消滅させることはできない。押したり、遮ったりしてあげる事ができるだけで、消滅させることはできない。理由は、そなたが為したものだからだ。消滅させるには、菩薩道を修める必要がある。進んで菩薩道を修めないでいて、自己本位主義が強くているなら、どうやって菩薩道が修められるか?

 ややもすれば自分の事を考え、ややもすれば悟りを開きたいというのでは、菩薩道は修められない。2007年、私が閉関修行に行った時は60歳だった。本卦還りの年にして、三か月にも及んで白湯で茹でた麺を食べ続けていては、多くの人ならすでに倒れているだろう。栄養がないからだ。完全に栄養がないのだ。脂肪の摂取を考え、スーパーで取り扱っている小さな四角いチーズを持ち込んだが、毎日二粒までで食べるのを抑えていた。すぐ切れるから、多く食べてはいけなかったのだ。それと、小パックのくるみを一袋持ち込んだ。チベット人は午後になると甘茶を飲む習慣があるが、私は太らないように飲まないでいた。

 必死の心がなければ、閉関修行はできないのだ。現在、私の門下で仏を学ぶのであれば、自己本位主義を捨ててもらいたい。自己本位主義であって、そなたのやりたい放題を許してほしいのなら、済まないが場所を間違えたのだろう。他所の道場へ行くがよい。そこなら歓迎してくれるかもしれない。私はそなたが仏を学ぶ心を阻止したくない。もし、機根がなく、条件もなければ、たとえ伝授したとしても、そなたにとっては一種の苦に過ぎないだろう。

 もう一度聞くが、三か月間白湯で茹でた麺を食べる者はおるか?毎日、二食で、三か月間。勇気があるなら、私は全部の伝法を考慮する。当時、もし法王の侍者が運よく山菜を見つけたら、二枚ぐらい乗せてくれたものだ。私は辛いのが得意ではないので、辛い物も塩辛過ぎる物も食べない。三か月間白湯で茹でた麺を食べる勇気があれば、私は本当に伝法を考慮する。これらの出家衆をも対象に。無理にはしないように。無理にしたら、一週間するかしないうちに、体がだるくて倒れるだろう。

 馬という弟子が言った、体力がなくて大頂礼が拝せないというのは出鱈目だ。私は白湯で茹でた麺だけしか食べなくても一日16時間修められていた。そこいらに座って持呪するにも体力が必要だった。特に、無上瑜伽部まで修めるに至った我々は、もし体力がなければ修められない。体力は上師と仏菩薩のご加護によったのだ。私が死ぬ事さえ恐れずに修めるのを、彼らは知っていたから、私のことを加持してくださったのだ。そなたらは皆、インテリであり、賢い人で、家庭円満でいるから、どうしたら修められるか?条件がないからには、絶対に教えに従え。リンポチェの話は、そなたらに危害を加えない。帰依してから長く経ったが、私は一度も家庭や事業を捨てさせようとか、伝法ならお金いくらに値するかを言ったことがな

 何故そんなに手間をかけて出家衆との面談をさせたのか。それはそなたらに告げたかったのだ。そなたらの条件が満ちていない、心をするべきだ、ごまかさないように、と。昨日ある信者が、目の手術があるからと謁見を求めた。彼は受付の窓口で「リンチェンドルジェ・リンポチェは四大教派の中で、最強のリンポチェだ」と持ち上げた。昨日、彼が来て、菜食しろと命じたら、「はい」と答えた。私は更に「生涯、菜食だよ」と言ったら、「おお」と答えた。私はちっとも彼を見なかった。彼がごまかそうとしたから、私は出家衆に彼と相談しろと命じた。彼は信じていないし、私の凄さを知って加護をもらいたかっただけだと私は知っている。

 この信者を紹介した謝という弟子に向かって、リンポチェがこう開示なされた。「今後は、このような、私をごまかそうとする人を紹介するのを控えるように。人の機嫌を損なうのを避けたいから。よいか?仏寺建設の寄与にも、そなたは出し渋ったし、アメリカがあんなにも乱れているのに、よく娘を行かせたものだ。そのうえ、私に娘を加護させようとするなど、私を利用するにも程がある。アメリカがパンデミックの最中だから、娘が無事でいるように加護を望んだ。彼女が私の弟子だからといって、私はそうすべきなのか?本当にどうかしている!だから、紹介した信者にも、このようにしている。申し訳ないと言わないように。これも私の縁だから、今後はより慎重に扱って欲しい。信じない人は、強引には連れてこない。そんなに連れてくる必要があるか?73歳なのだから、もういい」と。私はなるべく弟子を助けようとする。命を尽くして、私の弟子を助ける。そなたらが進んで帰依するかどうかは関係なく、私はできるだけのことをする。あと何年できるかも分からないが。

 仏を学ぶのは、人生で最も重要な事だ。家庭を作るのより大事だ。家庭はこの世の因縁に過ぎず、仏を学ぶか否かとは関わりがない。だが、仏を学ぶのは、望んでできるものではない。たとえ、前世の因縁によってこの一生仏を学んだとしても、ふと油断すると、消えてしまうのだ。何故、以前法王は終日私を監視していたのに、今はそうではなく、たまにしか思い出させるようにしているだけなのか。最近、法王は、私の体に不具合があった事に気づかれ、そんなに会見を受けないようにと命じられた。私の弟子が教えに従わないのを法王はご存じになったので、クラス分けをせよと命じられたのだ。今では知らないうちに、分かれている。

 一つの名号、一句の呪もすべて衆生のためで、自分のためではないことを、皆はよく知った。成就が得られるかどうかは、法次第ではあるまい。成就というのは、そなたが凄くなって、衆生済度ができるようになる事ではない。成就とは、自己が先に得度し、阿弥陀仏の御許に行けると確信を持つことだ。もし、この確信がなければ、そなたは上師に頼る必要がある。上師に頼る場合、もし在世の時に、上師のことを尊重せず、上師の言葉も聞き入れようとしないのなら、そなたが去る際も聞き入れない。我々の絶え間なく修行する事はその準備であって、往生のその一刹那にどう単独で一人で向き合うかをトレーニングしている。その訓練なのだ。進んでそうすれば、世間にある各々の病気、不調な事は、だんだんと気にならなくなり、ないしは次第に減少していく。求める必要は一切ない、私がそのいい例の一人だ。

 私は皮膚がんに罹った時に、仏菩薩が私の病気を治してくださいますようにと求めなかったし、法王に私のために法を修めてくださいとも言わなかった。上師を信じていたからだ。上師に因果を深く信じることを教わったことがあったから、私は受け入れた。いつもの通りに暮らしていた。母親ですら、私が皮膚がんに罹ったことを知らなかった。なんぴとも知らなかった。何の恐怖があるのか?自分が為した因に、それによる果と向き合うのだ。本当の行者なら、果報の終わる頃、良くなり始める頃だと、はっきり分かる。たとえこの果報によって命を無くしたとしても、良い始まりがあるのだ。過去の生生世世の事は今生で完済したから、後世は苦しまない。後世はまだ至っていないから、現在が良ければいいと、多くの人は思われるだろうが、これこそ因果を信じていないのだ。自分が為した事による果報がどれほど怖いか信じないのだ。肉を口に運ぶぐらいで、まさかそんな深刻な問題にはなるまい?などと思わないことだ。地蔵菩薩の母親はすっぽんの卵を好んで食べていたから、地獄に堕ちたのだ。そなたらのうち、海鮮を好む者はどれぐらいいるか?

 仏を学んでから、毎日のように懺悔し廻向すれば、返済できるなどと思ってはならない。済度の能力を以って、初めて返済できるのだ。ひたすら施身法法会に参列すれば、リンポチェが済度させてくれると思ってはならない。間違いなく、リンポチェは済度させてくれるが、彼らのそなたに対する怨恨の力はまだ存在している。どうやったら、怨恨の力を次第に減少させ、ないしは消失させられるのか。それは、そなたの心が100%、完全に悪から全善に転じ、僅かたりとも悪念を持ってはいけないという事。そうなって初めて、彼らのそなたに対する怨恨の心は消えてしまうのだ。

 堕胎した人が、済度法会に参列すれば復讐されないだろうと思われているが、彼は復讐に来るのではなく、彼とそなたとの間に生まれた怨恨の力が依然として存在しているということだ。どうやって、この一筋の怨恨の力を減少し、消滅させるかについては、そなたの仏を学ぶ心構えに左右される。仏を学ぶのが自分のためなら、この怨恨の力は消滅しないが、衆生のためであれば、彼も衆生の一人だから、だんだんとこの怨恨は縮んでしまう。道理は簡単だが、実践は難しい。誰もが、済度が完了したら快適な生活を過ごしたいと望んでいるが、そんなことは起こらない。

 仏法には「転重軽受」という概念がある。進んで仏を学んだお陰で、本来は立ち所に死ぬところを、死なせない代わりに、病気に罹らせたり、散財させたり、離婚させたり、子供が言うことを聞かないようにさせたりするようになる。これらは、みな軽受の範疇に入る。少なくとも、命が助かって、仏を学んで修行していられる。だが、そなたらはこういうのを嫌がって、全てが良くなって欲しいが、それでは仏を学ぶ福報はない。仏を学ぶ福報は、世間の福報より大事である。肝心なのは、仏を学ぶ福報が良く、資糧が足りていれば、自然と世間の福報も上がるようになることだ。いっさい求める必要はない。私がいい例であるが、迷信はしないでほしい。密宗は凄くて、人の未来を変えられるが、果報を消滅させてはやれないで、どうやって果報を転換するかを教えている。だが聞かないといけないのに、みなは聞かないでいる。

 進んで聞き入れようとさえすれば、仏法は必ずそなたの役に立つ。幾年も仏法を学んできて、もし自身の生活が快適だと感じられ、自分が心地よいと思うなら、そなたの福報が尽きそうになる頃だ。どういうことか?仏を学び修行してから、悪を止めるようになって、ひたすら善を行い、自然と悪事が減少してきたのだ。修行を始めたからではない。だが、仏を学んで持呪したから自分が良くなったと思うのなら、仏を学ぶ福報が世間の福報に転換するようになる。世間の福報は使い切る日がやってくるが、修行の福報は使い切れないのだ。所謂功徳の事である。

 功徳には基本条件が二つある。第一に戒律を守ること。第二に禅定すること。この二つがなければ、功徳はなく、福報があるだけだ。福報はこの世で使う物ではなく、後世でしか使えず、しかもどの後世かも分からない。それには限度があって、いつかは使い切ってしまい、絶えず増えていくものではない。絶え間なく、不断に善事を行うなら話は別だが。我が身に聞いてみよ:この一生でどれぐらい善事を行ってきたか?幾らもない。唯一「仏門に帰依した」ことが最も良い善事である。けれど、この最大の善事について、自身で良く把握できているか?まあまあ学んで来たら、自己主義、本位主義が現れるようになる。陋習を一向に改めようとせず、あくまでも自分が正しいと言い張ったりする。心がけよう!修行して、自分が快適な生活をしているなと思ってきたら、注意する頃だ。そなたが、自己満足、自我、高慢になってきているのだから。

 仏法と関連のある事について、私はいつも格別に慎重に扱っている。事件の発生や、衆生救済の能力不足を心配するのではなく、自分が表した表現によって衆生が仏法への誤解を生じさせる事を恐れるのだ。何故、リンポチェは言動を控えめにしているのか?最近、「中華民国寶吉祥仏教文化交流協会」は内政部より頒布される「全国性社会団体公益賞の金質賞」を受賞した。リンポチェが多くのことを為したからである。私が求めたのではなく、彼らが選び出したのだ。先日、寄付の折にも、私は出席しなかった。控えめにするのは、出る杭になるのが怖いのではなく、私の福報をこのようなところで費やしたくないからだ。いっそのこと、人に知らせないでおこうか?いや、それも違う。内政部に預かってもらったお金の使い道を知らしめるために、公開するのだ。黙ってしてはならない。衆生はこうした公の場での方法を信じるからだ。だが、私も名前を出したくないので、これは真に難しく、容易にやり遂げられることではない。

 政治家が訪ねて来た場合、個人的な話ならどうぞ道場へと言い、国政に関連がある話なら単独会見するかどうか考慮する。どの道場も、政治家に来て欲しがっているのではないか?だが、ここだけはそうではない。何故か?もし彼が私と縁を持ち、私に帰依していれば、当然のように私は手を差し伸べる。政治家から、国政の相談を持ち掛けた場合、助けようがあれば助けるが、助けられないなら私は遠く後へ退く。例えば、二年前に、とある高級官僚が私との面会を求め、彼の自宅での食事の誘いが来た。私は「敢えてお伺いはしかねます。何かお手伝いが必要でしたら、電話にてご連絡下さい。アドバイスをさせていただきますので。」と答えた。お宅までご飯に誘うなら、私は行かない。私個人は接待が苦手で、ストレートに話すし、下手にすれば人を逸らすから、会わないほうがましだ。

 この道理はどこから来るのか?私は仏を学び始めた最初の頃から、ずっと「名聞利養」という言葉を念頭に置いている。あらゆる行者にとっては、これが一番怖いのだ。ある行者が有名になって、たくさんの人から供養を受けるようになったら、慎むべきだ。1997年から今まで、帰依した弟子でなければ、私がその供養を受け取らないできたのは何故だろう。福報を植え付けさせないためではない。ただ、私の弟子なら、構えるし、何者か知っているし、お金が何処から来るのかも分かる。彼の業力まで分担する必要がない。法会に参列したいというぐらいなら、歓迎する。私は法施を施すが、私への供養は結構だ。何故要らないのか?私の弟子ではないのだから、借りのないようにする。私の弟子の場合、私から仏法を教わって、そなたの一家が良く過ごせるように助けたので、そなたは私に借りがある代わりに、そなたの供養を受け取る資格があるのだ。法王が許してくださるまで、私は弟子からの供養を敢えて受け取ることができなかった。いったい、そなたらが私に供養をしたかと言うと、厳密に言えばないのだ。

 今日はここまでにするが、もともとは皆に対して阿弥陀仏を修めるつもりだったが、時間が足りないだろうと思って、その代わりに一段落の経典を開示しよう。『宝積経』にあるこの段は、弥勒菩薩が開示を求める場面である。現在、台湾では、弥勒菩薩を修める一部の人は「浄土宗はこう修めるべきではない」と言うが、浄土宗を修める者は「何故、弥勒菩薩を修めるか、彼らは通じ合わない」と往復応酬した。実は、彼らは『宝積経』を読んだことがない。この段落は、弥勒菩薩が釈迦牟尼仏に開示を祈り求めるところである。「どのような人なら必ず阿弥陀仏浄土に往生できるか?」と。これぞ大菩薩だ。彼は、「釈迦牟尼仏に、どのような人なら我が兜率天に生まれるか?と開示を求める」とは言わなかった。弥勒菩薩は御自身の天があるにも拘わらず、釈迦牟尼仏にどのような人なら必ず阿弥陀仏浄土に往生できるかを開示いただくよう、求めたのだ。偉大ではないか?これこそ、法身菩薩である。浄土宗を攻撃したり、浄土宗のが弥勒菩薩を修める人を攻撃したりするのを、外で耳にする機会があると思うが、それは間違っている。そうしてはならない。彼らは通じ合うのだ。何故通じ合うのか?人それぞれ縁が違うから、縁が阿弥陀仏の御許に行くのなら、『阿弥陀経』に説かれたように、十方仏土諸仏菩薩は広長舌相を出して、彼が行くように支持して称賛するのである。

『宝積経』巻第九十二「発勝志楽会第二十五ノ二」

経典︰「爾時彌勒菩薩。白仏言。世尊。如仏所説。阿弥陀仏極楽世界功徳利益。若有衆生発十種心。隨一一心。専念向於阿弥陀仏。是人命終。当得往生彼仏世界。世尊。何等名為発十種心。由是心故。当得往生彼仏世界。仏告彌勒菩薩言。彌勒。如是十心。非諸凡愚不善丈夫具煩悩者之所能発。何等為十。」

 ここで明確に述べられているが、一般の人では阿弥陀仏の御許まで行けないとある。凡夫とはどういう意味か?生死輪廻からの解脱をまだ決心しておらず、ひたすら自分の利益を求めている人を指す。例えば、自身の性格を変えたいとか、人に好かれるように求めたりする場合がそうだ。こういう場合、阿弥陀仏はそなたと無関係で、いくら一日24時間ずっと念仏してもどうにもならない。そなたがまだ悪で、凡夫であるからだ。まことしやかに法会の参列を求める信者が多くいるが、実は人に優しくされ、人間関係が変わるように望んでいるだけだ。ただ彼が私を利用していることを、私は知っている。何故人好きがしないのか?累世で人と善縁を結ばないからだ。

 大法会で、奉仕させたのは何故だろうか?それは衆生と善縁を結ぶためであり、そなたらに命令を下させるためではないし、権利を握らせるためでもない。わかったか!もし、大法会の件で、これ以上こんな滅茶苦茶な、訳の分からないことを耳にすれば、大法会を中止にしてやる。そなたらに、二万人もの人と善縁を結ぶ機会などあるわけがない。そなたらには、衆生へのサービスを提供するチャンスを与えた。そして、管理しやすいように、頭を指名したのだ。この頭は担当者ではなく、個人個人に連絡するのを省くために、指令を他の人に伝える役目だ。結局、自身がボスであるかのように、彼が担当、管理、制御するようになった。誰を制御するのか?自分の旦那や子供でさえ、制御ができないのに、他に誰を制御できるというのか?だから、この種の人はいくら六字大明呪を唱えても行けるわけがない。凡夫だからだ。

 リンポチェの善心によって、そなたらを衆生と善縁を結ばせようとしたのに、そなたらは滅茶苦茶にしてきた。実は、私はそんなに面倒くさい事をする必要などない。アルバイトでも雇えば済む事だ。アルバイトはそなたらよりずっと言うことを聞くからだ。時給100元余りで、そこいらに立ちっぱなしでいろと言えば、じっと動かないでいるが、そなたらは悪だくみばかり閃いている。大法会で、悪だくみを経験した者らは、まだ懺悔しないでいるのか?私の前で懺悔するな。私はそなたらを相手にしている暇などない。私はお金を出して、数百人のアルバイトを雇っていればいい。私がお金を出すから、そなたらが出す必要はない。私のお金を浮かそうなどと思うでない。衆生と善縁を結ばせるチャンスを与えたのに、そなたらは善縁を結ばないで悪縁を結ぶのだ。誰もがボスになったつもりで、偉そうにしている。この三人らでさえ、この事を取り締まろうとしないでいる。73歳の年寄りが出頭して初めて、こんなに滅茶苦茶にされたのを知ったのだ。

 このようなことは、初めてではなく、そなたらは最初からこうしてきたのだ。衆生にサービスを提供する心構えがなければ、ボランティアをいくらしても福報にはならない。自我の権力への欲望を満たすために、福報があるというのか?例えば、「私は凄いのだ。リンポチェは私に手伝って欲しいのだ。きっと私は優秀だから、リンポチェが私に仕事をさせたのだ。」と思うなら、それは間違っている。徹底的な間違いだ。業障が重いからこそ、仕事させるのだ。今、ここに表明しよう。何もかも制御部門に知らせないで、勝手に決めつけて、自分なら主宰できるといった事が、もう一度私の耳に入ったら、そなたには即刻道場から出て行ってもらう。話を聞かないのだから、ここに残って何になろう?煩悩のある者だから、衆生にサービスを提供するにも煩悩がある。快く皆と相談すればいいのに、勝手に大隊長のように様変わりする。入れ替えられた組のリーダーでも、上司であるかのように人を構ったりする事にこそ、煩悩心があるのだ。釈迦牟尼仏の仰せにも、煩悩心のある人では行きようがないと、はっきり言われている。

 この10の心は、一般人では発することができない。一般人はこの10の発心をしても行かれない。一般人とは何か?煩悩心のある、不善の丈夫だ。不善とは何か?リンポチェが善事を許したのに、行わないのを不善という。悪を行ったからこそ不善なのだと思うでない。リンポチェが仏寺の建設に寄付しろと言ったのに、実行しなかったり、「パルナシャバリも、私自分のために唱えたのではないから、行かないでいる」など、まだ善だと言えるか?衆生を助けることをこそ、善という。善事を行ったから、善だというわけではない。リンポチェが善事を許したのに、実行しなければ、そなたはそれでも善なのか?聞けば聞くほど、恐ろしくなってきただろう。皆は何と気障っぽいことか!

 実は、この段落の経文を隠して講じないでいれば、そなたらは知らないままだ。多くの出家衆も、『宝積経』にあるこの経文を見たことがない。大勢の出家衆は『大蔵経』を読んだことがあるが、この段落だけは飛ばしていた。(リンポチェがある出家弟子に、読んだことがあるかと尋ねたところ、業障が重くて見られ

 釈迦牟尼仏もはっきりと講じられたが、煩悩があり、悪心のある一切凡夫、不善の丈夫は、たとえこれらの人にその発心があっても行かれないという。どういう意味か?菩薩道を修める場合、与えるばかりで、受け取らないでいれば、何の煩悩があるか?与えなければ、もちろん煩悩はある。「私に優しくして欲しい」などには、煩悩があるか?「仏を学んで、人に私に良く接して欲しい」というなら、煩悩があるか?もちろんある。煩悩があれば、たとえ発心しても行かれない。彼には、10の心しかない。この10の心のうち、一つでも発すれば阿弥陀仏の御許に行かれるのだ。

経典︰「一者於諸衆生起於大慈無損害心。」

 私に助けを求めたすべての人に、菜食をしろと要求したのは、何故か?この文が根拠だ。肉を食べて、衆生に損害を与えていないか?そう、与えている。大慈とは何だろう?助けたり、与えたりすることだ。人が私に良くするように求める事ではない。信者らが法会に参列して、人に優しくして欲しいと望むなら、ここに来ないように勧める。ひょっとすると、よく接してくれない人はそなたの冤親債主であって、一日も早く借りの完済を助けてくれているかもしれない。人によっては、ひたらす法会に参列したあげく、突如、ある日ある人たちに罵られるようになる場合もある。こういうのを耳にすれば、私は「おめでとう、早期に返済できたね」と言う。私すら人に罵られるのに、そなたがなんで罵られないのか?数回しか法会に参列しないだけで、人に罵られないのか?私も批判されるし、釈迦牟尼仏であられても批判されたのだ。累世の業によるのだ。よいか、信者たちよ、はっきりと聞け。仏の学びは債務の返済を早めるが、返済が不要になるように助けるものではない。返済が完了しない限り、快く過ごせようか?どんな債務であっても、間違いなく返済せねばならない。だから、よいか、仏法は返済を早めるよう、返済能力が持てるように助けているのだ。どんな能力か?死なせない、餓えさせない、住まいを有らせる事、これで能力があるとは言えまいか?そなたが病気になり、体が病気に罹って債務が返済できたら、なんと良い事ではないか?

経典︰「二者於諸衆生起於大悲無逼脳心。」

 前に「慈」について説いたが、それに対して「悲」とは、人を助け、人を輪廻苦海から離れるように超抜する事だ。菩薩道まで修め至らなければ、この能力はない。

経典︰「三者於仏正法不惜身命楽守護心。」

 馬という弟子の件について、私が指摘した事がまさにこれに当たる。仏法に対して、我々は不惜身命で、上師が説いた仏法でさえ、自分の体が耐えられないなど、仏法を大切にしないで、身命を惜しむのだ。上師はそなたに危害を加えるか?一拝もしないうちに、無理と言った。この人は、仏法を大事にしないに決まっている。自身の身命を惜しむ人は、どんな人か?間違いなく、菩薩道を修めていない人だ。六波羅蜜の一つ目が布施である。大頂礼をするのは、我々の体で布施、供養をする事だ。そなたらが日頃為した布施は、とんでもない事だ。何故だろうか?密宗では、最初に大頂礼がある。ご自身の体を用いて、仏に供養し、衆生に布施する。頂礼する度に、そなたが傷つけた衆生に布施している。それをしないというのは、布施しない事だ。布施しないとは、どういう意味か?福報がないということだ。福報がなければ、何の仏を学んでいるのか?私が皆を苛めているかのように、多くの人には思われるだろうが、私は苛めてなどいない。経典に基づいて説いているのみだ。

仏典では、財施、法施、無畏施が説かれている。財施なら、そなたらも多少できるが、法施と無畏施に関してはできない。できないからと言って、リンポチェがこうしろと教えたが、そなたらは聞こうとしない、しようとしないでいるのだ。それなら、どうやってポワ法が修められるというのか?阿弥陀仏の御許に行けようか?行かれはしないのだ。速成クラスで学べば行けるというわけではない。

 ここで、はっきりと述べられている。「不惜身命楽守護心」。楽しくそなたの心を守護する事だ。体とまでは言及しなかった。どういう意味か?体に傷が付いたり、具合が悪くなったりするのはすべてそなたの因縁だからだ。一番大事なのは、そなたの心が変わらないように、仏法を以ってそれを保護し守護しているかどうかである。これこそ最も肝心なのだ。心がすべてだ。体はいつか使えなくなって、この世を離れるようになるが、心続は延々と、後世へ後世へと続くものだ。どうやったらこの心を保護できるのか?思想にではなく、仏法に頼るのだ。仏法を大切にして、はじめて自身の心が悪を行わないように、リンポチェを利用しないように保護できるのだ。謝という弟子も、娘がアメリカに行くのを加護してもらうように、私を利用した。彼自身は感染科の専門医でいるのに、アメリカではパンデミックが深刻な事態に陥っているのを知らないのか?彼は知っている。だからこそ、加護を求めるように娘を連れてきて会見を求めたのだ。彼自分のしたことをわかっていたから、私はそっぽを向いた。私を信じているつもりか。私はそんなに利用されやすいのか?

経典︰「四者於一切法発生勝忍無執着心。」

この文はどういう意味か?無生法忍は一切法に対して最も殊勝な物だ。我々は忍耐すべきだ。忍耐とは何だろうか?仏を学ぶ過程で、あらゆる事情が発生しうることを忍耐する事だ。何故発生するのか?そなたらの業力に起因するのだ。たとえば、前に触れたように、債務の返済を早めるよう助けてくれたりする事。私が三か月にも及ぶ閉関修行の中で、一度心肺停止になったのも、ラキ雪山での閉関修行中に遇ったことだ。ある年、私は閉関修行した際に、二日間ご飯を食べなかった。食事担当の人が次のシフトに私がいたことを引き継がなかったから、私は二日間ご飯が食べられなかった。これも一種の返済になる。もし忍耐できなければ、ドアを開けてお腹が空いたと言っていたはずだが、関房の中に引き籠ったままでいた。翌日、隣に人の気配がしたので、私はメモ用紙を外へ渡した。ちょうどその人も、渡したところを見かけたから、ご飯が運ばれてくるようになった。これも因縁だ。初日に、お腹が空いていても誰も来てくれなかったのも私の業であった。きっと、前世で人にご飯を食べさせなかったことに起因するからだった。関房の中で債務を返済するのはなんと愉快なことか!一日で完済してしまう。

 信者に法会に参列していて何か得する事がないかと望んでいるだろうが、そうとは限らない。ひょっとしたら、血を流したり、ぶつかったり、下手をすれば、仕事を辞めさせられることもあるのだ。何故だろうか?債務の返済を早めるからだ。返済するのを恐れない。私ですら借りを返さなければならないのに、そなたらは不要なのか?そんなはずがない。考えてみよ。ここに来る前に、どれだけ肉を食べてきたか、どれぐらい人を罵ったか。これらはすべて返済すべきことだ。

経典︰「五者不貪利養恭敬尊重浄意楽心。」

 私は供養を拒否してばかりいる。信者からの供養を受け取らない事は、ここが出典なのだ。恭敬には、二通りの言い方がある:三宝への恭敬、衆生への恭敬。供養を受け取らないからと言って助けないということではない。同様に助ける。彼が衆生だから、私は恭しく扱う。彼に供養させないから関わらない、ということはない。それとは無関係だ。清浄なる意、楽心を持つというのは、どういう意味か?清浄なる意があるからこそ、快楽の心が生まれるのだ。もし、心が清浄でなければ、利に関しては諦観しなくなる。「彼のために、あんなに唱えたのに、供養が少なかった。」というような事が、利養だ。何も求めずにいる場合、私がいくら唱えようが、彼がいくら供養しようが、すべて私の業力になる。何もかも自分のせいで、相手のせいではないという事を絶対に覚えていて欲しい。出家僧にとって、これが格段に重要なことなのだ。

経典︰「六者求佛種智於一切時無忘失心。」

 仏になるための一切の知恵を、我々は仏に求める。どんな時でも忘れてはいけない、どんな誘惑があっても修行の心を捨ててはいけない。我々はよく些かの誘惑によって修行の心を変えられてしまう。

経典︰「七者於諸衆生尊重恭敬無下劣心。」

 すべての衆生に対しては恭敬、尊重が必要である。尊重とは叱らないというのではなく、私は一向に叱っている。そなたを尊重しすぎるから、叱るのだ。どうしてか?そなたが衆生たることを尊重するから、今のそなたに業力が現れていて、これ以上やり続けると偉いことになるから、叱るのだ。私は名聞利養のために叱るのではない。名聞利養のためなら、叱る必要がないではないか?明白に言う必要がなかろう。たとえば、前にも触れたような、法会に参列して債務の返済を早めるという事を言っても、私にはなんの利益にもならない。そなたがそれを聞いて、悪い事でも発生するのではないかと恐れて、来られなくなることもある。それにも拘わらず、私は明白に言った。私は仏法を広めて、名聞利養のためではないからこそ、率直に言えて、そなたらの機嫌を損なうのを恐れないが、私はそなたらを尊重している。

「人の機嫌を損なう事」と「尊重する事」は異なった二つの事柄だ。私はそなたが本来具備している清浄なる本性を尊重する。あらゆる一切有情衆生は成仏の条件を具備しているが故に、私は必ず尊重する。尊重すると言っても、そなたの悪業を放縦にさせたり、助けたりするという意味ではなく、私はそれを阻止する。何故阻止するのか?そなたは本来なら清浄でいる。そなたの清浄なる本性を尊重するが故に、それ以上悪を行うのを阻止する。もし、そなたを尊重していなければ、阻止して何になろう?利養のためなら、阻止する必要などないではないか?そなたらが喜んでくれるような話をする必要はない。「何回か来て、良くなった!性格まで変わった!成功できるかもしれない!」とでも言ってやれば、同時に供養金も増えそうだが、何故私は言わないでいるのか?経典のここに戒めてある。菩薩道を修める者として、私は敢えてこのような話を言えるか?言えない。如何すればいいか?自分のやり方をはっきりするべきだ。あらゆる信者からの供養を受け取らなければいいのだ。私はそなたらに媚び諂う必要はなく、喜ばせる必要もない。すべて仏法に基づいて講じる。弟子からの供養が多かろうが少なかろうが、私は変わらずこう説くから、何の区別もない。

 何故寶吉祥道場には功徳主、点灯を設けないか、理由はここにある。平等の心でそなたらを尊重するからだ。そなたらと私との縁は、前世によったものだ。この世でリンポチェに多く供養したいというのも、そなたの福報で、そなたの縁になる。多く供養したからこそ、そなたを抜擢して何々にしてあげるという事はないが、そなたの事を気にかける。私に供養した後、よく仏を学ぶかどうかについて気にかける。もし、ろくに学ばなければ、私は罵るし、供養も返すのだ。

経典︰「八者不着世論於菩提分生決定心。」

 菩薩道を修めて世間における各々の論調に執着せず、菩提心、菩提分を提起すべきである。そなたの為した一切の行為、言語は、衆生を利するかどうか、仏法を着眼点にするかどうかにあり、世間の論調に従って、どう衆生を助けるかを決めるのではない。その人が有名人のようで、道場に役に立ちそうだから助けてあげようというのではない。そうではなく、遠ざけるのだ。

経典︰「九者種諸善根無有雑染清浄之心。」

 行者が為した各種の善根は、自分のためにも衆生のためにも、善根を植え付けている。上師が善根を植え付けてやるのを弟子が受け入れないなら、どうしようもない。「無有雑染」とは何だろうか?自分にも衆生にも善根を植えるのは、名聞利養のためではなく、何も求める事がないのだ。たとえば、パルナシャバリの誦持に、一人いくら徴取するかと言っているか?言っていない。大勢が自分自身のためにするのではないから、私は行く必要などなかった。だから、善根を植え付けてやるチャンスを無くしたのだ。そなた自身の決めたことだ。リンポチェが決めたのではない。「最初から、はっきり言ってくれれば」と言うだろうが、何故私ははっきり言わなければならないのか?「パルナシャバリは自分のためにではなく、衆生のために唱えるのなら、私と何の関わりがあるんだ?」とそなたがはっきり分別しているからだ。自分とは関わりがないと言った以上、菩薩道を修めることになってはいないのだ。上師に善根を植え付けて欲しくないということだ。上師が為したすべての動きは、弟子に善根を植えるためだが、聞き入れるかどうかは自分自身が決める。これまでずっと叱り続けてきたが、善根の植え付けに、衆生に奉仕し、二万人もの人と善縁が結ばれるようにしたのに、彼はさかんにボスぶっている。どこに善根があるというのか?いや、彼が名聞を貪ったために、福報は使われてしまったのだ。

 何故大法会は十数年も催して来られたのか?名聞利養のためなら、私はやっていられない。また、数多くの衆生を済度させる能力もなければ、やっていられない。人が集まるかどうかはさておき、そうであったら、私はとっくに倒れていた。ある出家僧は私に帰依する前に、人に誦経して済度したが、全身が病に侵され、初めて私に会見を求めるようになった。彼女はやって来た時、顔が真っ黒だった。彼女は良心を持っていて、人が5冊誦経するところを、彼女は23冊もした!それにしても、どうしようもない。人を済度する能力がないからだった。供養を受けた分、借りができるので、それこそを名聞と言う。何故、私が商売するのかというと、少なくとも、誰も私を制御しようがないからだ。

経典:「十者於諸如來捨離諸相起隨念心。」

 この文は解釈しにくい。何故だろうか?一切諸仏を前に、捨離諸相するとは、どういう意味か?我々は仏菩薩の前に、清浄で、求める事は何もないということだ。諸仏菩薩の前にいることで、何かくれる、何かもらえると期待するのではない。たとえば、法王に会ってどうしようかと迷信する人が多くいるが、それは間違っている!法王を信じず、リンポチェを信じず、進んで自分自身を改めないのであれば、仏を信じず、因果も信じないのと一緒だ。法王に会ったとしても、ただ会っただけなのだ。一切執着の心を捨てているなら話は別で、その場合、諸仏菩薩、上師に会ったら、必ずご加護くださるし、誰が会っても加持してくださるに決まっている。自己の要求に執着していれば、加持はないのだ。この文は、行者らと会ったら、何か欲しいとか、知恵を求めたいとかと言うのではないということだ。我々は求め方を知っており、懇切に求める。何を求めるのか? 生死解脱をだ。このことは、一人たりとも言ったことがある人はいるまい。たくさんの信者に会ってきたが、これを口にしたのは皆無だ。私にふざけたり、まことしやかに言っているだけで、内心の世界ではそうは望んでいないのだ。

 隨念心とは、我々の心を諸菩薩の心に沿わせる事だ。諸仏菩薩には思いがなく、如如不動であられる。菩薩が心を動かすのも衆生済度のためで、自分自身に何等かの得られるものがあるのではないという事だ。こういう心を知るべきである。

経典:「彌勒。是名菩薩発十種心。由是心故。当得往生阿弥陀仏極楽世界。彌勒。若人於此十種心中隨成一心。楽欲往生彼仏世界。若不得生無有是処。」

 この文は、はっきりと講じた。さっきまで説いた10の心は、一つでも成就すれば、間違いなく行けるようになる。一つの心を成就したにも拘わらず、まだ行かれないのなら、釈迦牟尼仏は嘘つきだ。10の心を修めよと要求せず、そのうちの一つだけ達成できれば行かれると言う。たとえば、第一種の「於諸衆生、起於大慈、無損害心」(日本語訳:諸衆生に於いて、大慈を起こし、無損害心を持つ)の場合、ひたすらこの心を修め、浄土往生を発願すれば、行けるようになる。想像するほど複雑ではない。昼夜六時などとも、念仏成片などとも、仏は仰せにならなかった。念仏成片、一心不乱とは、とある修行の段階を指している。ここで、仏が示したのは、この種の心があれば、そなたは間違いなく行ける、発願すれば、行ける事に間違いない、ということだ。

 第一種の心は修めやすいとは言いながら、さほど容易な事でもない。「無損害心」。例えば、突然、夫に不倫相手ができた場合、そなたが終日大悲呪を唱えてその不倫相手を廻向する事こそを、損害心と言う。まさか、この不倫相手が菩薩、観音菩薩になるとでもいうのか? なりはしない。それにも関わらず、廻向するのは何のためか?私はまったく理解できない!どう廻向すればいいのか?大悲呪を唱えて一切の受苦受難の衆生を廻向するべきだ。受苦受難とは何か? 六道で生死輪廻する衆生であって、そなた個人の苦しみや欲望などではない。簡単に言えば、該当する縁がなければ、こういう事にならないのだ。

経典:「此経名為発起菩薩殊勝志楽。亦名彌勒菩薩所問。」

 この経は名付けて発起菩薩と言い、こうした心を発起する菩薩の事を指す。この段落からはっきりと分かるのは、末法時代の人々はどうしたら浄土に行けるか分からないし、こうやったら行けるのではないかという間違った情報ばかり受け取る事から、弥勒菩薩が開示を求めたということだ。釈迦牟尼仏は明白に開示して下さった。この10の心は、所謂修行の基礎、根本に当たると。この10の心を全部修めてはじめて(土台を)構築でき、ポワ法を学べるようになる。この10の心を無くしては行けないのだ。「ペっペっぺっ」と声を出しただけで、行けるか?草を挿すだけで行けるか?たとえ梵穴処に草が挿せても、この10の心を持たなければ、梵穴の骨が塞がるようになるからだ。これが釈迦牟尼仏の仰せである。

 釈迦牟尼仏は浄土を伝授した事があるか? ある!彼のおばが出家の後、絶えず釈迦牟尼仏に伝法するよう祈り求めた。釈迦牟尼仏は閉関修行するようと要求した。何を伝授したのか?浄土十六観をだった。(リンポチェは出家30年余りの弟子に、どう観ずるか分かるか?誰か開解した事があるか?と聞いた。出家衆は以前、『観無量壽経』を読んだことがありますが、その観を修めていなくて、既に忘れましたと答えた。続いて、リンポチェが開示なされた:どう修めるか?太陽を見るのか?敢えて見られるか?最初に当たる観が太陽を見る事だ。出家衆は誰にも教えてもらっていないと答えた。)

 何故教えた人がいないのか? これが密法だからだ。釈迦牟尼仏は単独でおばにだけ伝え、彼はその名詞だけ、標題だけ残して、十六観とした。実際、どこに書かれてあるか?一つ、秘密を教えてやろう。阿弥陀仏大済度法会の経典にこの十六観が書かれてある。どういう概念か?十六観を修めたことがなければ、済度できる根拠はあるか?元々言うつもりはなかったが、ここまで言ったのは、見せびらかすためではなく、経典に説かれているからだ。

 顕教で、十六観まで言及しなかったのは何故か?釈迦牟尼仏が他の誰にも口伝しなかったからだ。何故密法にはあるのか?これが密法だから、秘密に口伝して残されたのだ。仏教学院に通った事があるから、自分のほうが玄人だと、思ってはならない。十六観の第一観は太陽を観ずる事に当たるのだ。どう観ずるのか?出来たら、太陽が昇った数秒間でも、太陽を見てみろ。それだけでも、目が見えなくなる。だが、一つ目に当たるのが、太陽を観ずる事なのだ。第二に、月を観ずる事だ。私は密法を学び、瑜伽部まで修め至ってはじめてその意味が分かるようになった。何故リンポチェは黙っているのか。釈迦牟尼仏が説かれなかったため、私は敢えて言えないからだ。知りたいか?それなら、まじめに学ぶがよい!
 
『宝積経』卷第九十三「善臂菩薩会第二十六ノ一」

経典:「若有乞士。來従菩薩乞索所須。是時菩薩若自無財。不応強逼父母妻子眷属親戚奴婢取其財物。令其貧匱持以施人。何以故。」

 この後、みなに重要な内容を伝えよう。菩薩道で供養を奉げる事に関するポイントだ。「若有乞士」というのは、誰かがそなたの助けを求める場合を指す。乞食に限らず、いかなる状況をも含む。「來従菩薩乞索所須。是時菩薩若自無財。」とは、菩薩に該当の能力がない場合、その父母、妻子、眷属、親戚、奴婢を強要してその財物を取る事をしてはならないということだ。「令其貧匱持以施人」。この文ではっきりと述べている。リンポチェへの供養は、自分自身のお金を以ってするのだ。「お母さん、お金をくれないと、私は福報がない。福報がなければ、あなたを助けられない」などと、こんな事を言おうものなら、私はそなたを追い払ってやる。多くの人が経験したと思うが、お金がなくても大丈夫だ。リンポチェはどう供養されるかに拘泥しない。そなたが供養しようがするまいが、私の説法は変わらない。

 この段落ははっきり述べてある。特に、眷属、妻子(夫を含めて)にまで及んでいる。何故、ここでは夫と書いていないのか?古代では、男が稼ぎ手で、その稼いだお金を、家に持って帰ったのだ。男は覚えておけ!妻に渡したお金は妻のだと。「私があげたへそくり」などとくれぐれも言わないように。「へそくり」という言葉はない。彼女にあげたのは、彼女のだ。「俺がいくらあげたんだから、返せ!」と後から言ってはいけない。

 この文で弁えているように、菩薩は出家衆からしか成れないのではなく、在家の場合でもあり得る。出家衆は妻子を持ってはならないし、眷属もいない、親戚はあるものの、奴婢の類は持たないでいる。供養、布施をするなら、自身の財物、自分の品物を奉げるべきだ。そなたのとはどういうことか?人がくれた物は、もちろんそなたの物になるし、そなたが稼いだのもそなたの物になる。ところで、最近ある弟子が私の話を聞かないから、来させないようにしているが、妻のお金は夫からもらったものなので、私はその妻に「そなたの供養は受け取らない。これらのお金は夫からのものなのだから」というように、私ははっきりと区別している。

経典:「菩薩摩訶薩。欲於一切衆生中。行平等慈心故。若菩薩摩訶薩。不逼父母妻子眷属親戚奴婢。財物持用恵施。菩薩爾時。於衆生中得慈悲心。」

 今日は行う能力がなくとも、求めに来た衆生に対して慈悲の心が起きさえすれば、加持するなり、仏の称号を唱えてやるなりして、布施をする。彼の求めたほどの布施はできない場合もある。たとえば、彼が飯一杯を求めたとして、そなたにちょうどその能力がない場合もある。たとえば、彼がそなたに百万元を借りたい場合もあるが、「そうか、いいとも!母に貸してくれるように言っておくから」などと言うのは、まさに私がひたすら言ってきたように、仏寺建設に寄与するなら、能力範囲内に留めるようにして、お金を借りてはならないということだ。出典はこちらの経文にある。以前、ある弟子が家をかたに入れて借金して、私に供養しようとしたことがある。私は、それは受け取らない、借りてきた金は要らない、と言った。

 諸仏菩薩は讃えないと、はっきり説かれている。誰かが、強引に家族の財物を取って布施するような事があれば、諸仏菩薩はそれを讃嘆しない。こういうふうにして供養を奉げても功徳にはならないということなのだ。徒に虚名があるのみだ。何故、今日は特別にこの段落を開示したのか?仏を学ぶのにお金がかかるとか、家にお金がないのに、どんどんお金を出しているなどと、言わせないようにするためだ。警告しておくが、自身のお金でなければ、持ってこないようにしてくれ。持ってきても、役に立たない。何故役に立たないか? 仏が、讃えないと仰せだからだ。

 修行するには、経典の説かれた通りに執行しなければならない。自分で考え出したり、他の人がこうするから自分もそうしようとしたりするのではない。たとえ、皆がこうやっているとしても、それは仏の仰せではないのだ!そのように仏を学んではいけない。良くないからだ。阿弥陀仏浄土に行けるかどうか、一番肝心な決め手はそなたの決心にあるのだ。決心が足らない場合、たとえ臨終の来迎に化身仏が来てくださっても、そなたの些かの決心不足によって、化身仏は直ちに去って行ってしまう。決心とは何だろう?世間における物事は雲烟過眼に過ぎず、自分のために一刻たりとも留まらないと明瞭に分かる事だ。平生から、仏を学ぶ中で、ひたすら自分の心構えを訓練し続ける。何もかも投げ捨てたり、要らない事を言ったりする事ではない。「リンポチェがこう言った以上、私は出て行って、一人で暮らそう!」などとあの手この手を弄しない。はっきりと弁えられているのは、そなたの心構えだ。身の回り、内面、あらゆる一切は仮のものだとはっきりしている。そなたが死んだ後は、そなたのものではなくなるのだから。

 人は何故行けないのか?在世の時に、人、事、物を問わず、ある物事に執着し、貪る事に起因するからだ。そのため、『地蔵経』に、「そなたのいちばんお気に入りの物を売って、そなたの名前で寄附してやろう」と亡者に伝えよと、執着心を破るように教えている。執着心を破らなければ、「私の骨董品を、息子は注意を払った上で、しまってくれるのかな?」と思い出されると、行けなくなるのだ。一個の思いだけで。阿弥陀仏の御許に行けないのは困難な事だと思ってはならない。ちっとも困難なことではなく、世間の物事に心を留める思いがあれば行けなくなるのだ。たとえば、「工場を経営しているが、私が死んだら、旦那一人でやっていけるだろうか?」と思うと、見事に行けなくなってしまうのだ!何故行けないのか?そなたは工場のその辺に行ってしまって、福報が良ければ番犬になるとか、福報が良くなければ蜘蛛になって終日下の工場を見張るとかに、様変わりするからだ。

 世間の種々の物事を放棄せよというのではなく、注意深く、力を尽くして為すのだが、得失、成敗の一切を福報因縁に任せることに他にならない。出来が良いのもそなたの福報因縁だし、出来が良くないのもそなたの福報因縁だ。放棄するということでもないが、努力しなくてもいいというわけでもない。努力は必然的に必要だが、必ず入手しようとは執着しないのだ。私は失敗してはいけないなどと執着しないし、私が亡くなったら如何すればいいかとも執着しない。絶対にこういうふうに思ってはならない。この世界は、大勢の偉人を亡くしたにも拘わらず、まだ続いている。昔、中華民国はたくさんの偉人を亡くしたが、中華民国はまだ健在だ。我々はそんなに偉大ではない。

 生前に自身の思想を訓練しないでいると、息が断えそうだと感じる折、あらゆる一切の執着心が起きることになり、阿弥陀仏を求める思いに換えて、その事を求めて止まない気持ちに変じさせたりする。いくら阿弥陀仏が現前されても、そなたは行けない。そなたの心が、その物事に執着しているからだ。何故、持呪しろ、話に従えと言い続けてきたのか、それはそなたが臨終に際し、上師が教えた仏法を思い出してはじめて、自身の執着を破れるようになるからだ。

 人は死に際に、昏迷中であっても、意識の中では自分に何が起こっているのかを明瞭に分かっているものだ。生前、訓練し、習慣づけるようにしてあれば、たとえこの境界が来たとしても、彼はやり方がはっきりわかる。心を仏の名号に置き、上師の法号に置けば、彼は乱れないでいる。そうでなければ、乱れる。所謂「置く」事は、絶え間なく称えさせるのではなく、息が断えそうになる時に、称える体力はないが、心の中ははっきりとしている。どういうことか?もし、人がはっきりしていなければ、何故99%の人が息が断えそうになった際に、口を開けているのか?息が吸い込めないとはっきり分かっているから、口を大きくして最後の一息を吸いたがるからだ。だから、彼ははっきりと分かっている。これは自然反応ではない。数十年、鼻で呼吸してきて、臨終に口を開けて呼吸するはずがないではないか?きっと何かがこの口を開ける事を司っているに違いない。

 何故口を開けるのか?息が絶えそうだとわかっているから、最後の一息を吸いたがるのだ。もし、平生から訓練していれば、最後の一息が入らなくなってきたら、「ポン」と阿弥陀仏に留めて、「ポン」と上師の法号に留めて、行けるようになる。極めて簡単だが、日頃からの訓練が必要だ。普段、上師を信じないで、疑っていて、上師の言い付けに従わないなら、その時になって上師の事など絶対に思い浮かばない。上師でさえ思い出せないなら、ましてや阿弥陀仏の事などは?一般人並みになるのだ。何故人は死ぬ間際に、口を開けるかと医者に聞いてみるがよい。道理に照らせば人は口を開けないのだ。もう口を開ける体力などないからだ。だが、意識では自分は息が尽きると知って、「最後の一息を吸えるだろうか?もっと生きたい、もっと生きたい、まだ言い残したことがある」などと、考えっぱなしなのだ。

 そのため、『地蔵経』にはこう説かれている。修行していない人の臨終には、あらゆる冤親債主が彼の生前で最も好きな人に変化し、前に現れて、彼を連れ去ろうとする。どこへ連れていくのか?三悪道へだ。何故上師の怖い様子を覚えているべきなのか?普段、上師の怖い事に慣れていれば、いざという時に、怖がらせると、他の人が誘ってもついて行かないようになる。彼らの変化は凄いのだ。以前、朱という弟子(詳しくは衆生済度事跡第45号を参照)が息が尽きそうになった時、ある老翁の変化が現れて、彼女を連れ去ろうとしたが、彼女は上師が来なければ、私は行かないと堅く拒んだのだ。もし、そなたらにこのような堅持がなければ、冤親債主がそなたが安心してついて行くように変化となる。行ったら最後、三悪道に陥る。阿弥陀仏の御許にではない事は確かだ。

 簡単に言えば、上師が見えるまでは、じっと動かない。これは平生から訓練を必要とする事だ。一日にして実践できるような事ではあるまい。上師の説法を進んで聞こうとせず、上師が教えた事を聞き入れようとしなければ、自然と聞かないようになるのだ。その時、そなたは浄土往生ができなくなる。たとえ、毎日のように称えても、最後の一息についてどう処理していいか分からない場合、「ドン」と落ちるからだ。阿弥陀仏を称えれば、必ず天界に上れると思ってはならない。そうとは限らない。執着の心、貪念があれば、畜生道になら、早く容易に行けるからだ。

 今日、リンポチェが敢えてこんな話をしたのは、私は済度させる衆生の、最後の一念の大事さをよく知っているからだ。『金剛経』に書かれた「一切、夢幻泡影の如し」は、この事を指している。一切の思いは、夢幻泡影のように、過ぎれば消えてしまう。在世の時に、消極的に人や物事と接するのを勧めようという意味か?違う!逆に積極的に物事に接するべきなのだ。何故か?我々は仏法を以って自己の一切の陋習を改めようとし、自分と、この世間の人、事、物との怨恨を結ばせるチャンスを無くすようにする。新しい怨を作らなければ、古い恨、債、怨は必ずこの一生で完済する時間の余裕がある。だから仕事の際に、積極的に働かなければ、人を新しい怨恨を起こさせ、そなたにはまた新しい借りができて、延々と借り続けていくことになるのだ。

 家庭内でも同様に、恩怨がなければ、その人と結婚もせず一緒にも寝ないのだ。中にはきっと恩怨がある。この種の恩怨はどう解決するか?解決する必要はない。わざわざ自分を改めようとせずとも、「仏を学ぶ人だから、よくなる」。いや!一番肝心なのは、そなたの心だ。そなたの心が一切衆生を慈しむのであれば、遅かれ早かれ、人はそなたの所謂磁場を感じ取るのだ。今どきの言い方なら、ポジティブパワーだ。そなたの心に、怨も、恨も、煩悩もないなら、周りの人にはだんだんと感じられてくる。誰にも周囲の磁場変化に気づく能力はあるが、違うのはその鋭さだけだ。そなたの心が衆生を慈しみさえすれば、自然に、そなたの動き、言語、表情も変わっていく。自然に彼らは体得し、自然に物事も、わざわざ考えなくても転じてくれ、故意に、自分がどれほどよく修めたかを人に言う必要はない。「あ、観音様みたい!」どんな?磁器か?木製か?いずれにしてもみんな嘘だ。

 今日は、我々が往生の一刹那に、自分をどう司るかについて開示した。この一生、よく修めれば、間違いなく阿弥陀仏の御許に行けると思うでない。本当は、日頃からの訓練と関連している。毎日、六字大明呪を多く唱えれば、自然と心が比較的静まるし、比較的清浄になるから、比較的上師からの言い付けを思い出しやすいからだ。日頃訓練しないでいれば、思い出さないのだ。あるいは、被祐を求めたり、あれやこれやと求める人なら、当然この部分は覚えられない。諸仏菩薩が我々に仏法を教えるのは、生死解脱、輪廻苦海から離れるようにするためだからだ。すべてはそのためであり、世間の細やかな物事のためではない。このような世間の細やかな事なら、外道でも処理できる。終日、お香を焚いたり、お参りすれば、きっと加護してくれることだろう。

 仏法の特徴がここにある。絶え間なく訓練させ続けて、ある日のある一秒が訪れるまで、自分で人生の瀬戸際と向き合う時になって初めて、自分がどうしていくかを知ろうと決めれば、道を間違えることはない。何故リンポチェはいつも厳しくているのか?実は、私は気を許して、より過ごしやすくすることもできる。これほど厳しくする理由は、生死はただ一つの思い、輪廻するかしないかもただ一つの思い次第だとよくわかっているからだ。それほど複雑なことではなく、ただ一つの思いに過ぎない。この考え方を訓練し、弁えれば良い!もし、この思想がよく分からなくて、よく訓練しないでいれば、必ず輪廻を繰り返すことになる。

 『阿弥陀経』に、「若往生之前、若一念、二念、三念⋯⋯到十念」とあるが、ポイントは何遍称えたかではなく、そなたの思いにあるのだ。一つ目の思いが清浄になり、今さっき私が教えたように思いを置けば、「パッ」と最後の一息が来て、息が尽きそうになるのを知り、阿弥陀仏の仏号に、リンポチェの法号に置けば、一念にして行ける。一つ目の念ができなくても構わない、二つ目の念をして、多くても十回までで、もう終わりだ。仏は慈悲深く、十回もできると教えてくださった。一つ目でできなくても構わない、二つ目、三つ目から十個目まで。それでも思いを上師と仏とに致さなければ、もう終わりだ。十個の念は早くて、あっという間に過ぎる。映画よりずっと早い。そのため、日頃の訓練が必要なのだ。念は長いと思うか。いや。そなたが出した思想には、電波が発生するのだ。

 実は、脳の専門家は人の死ぬ寸前に、脳波が動くのを知っている。脳の専門家で、ダブルドクターの葉という弟子がこう答えた。「基本的には、人類の思い一つにかかる時間は、人類の時間としては測れないものです。先ほどのリンポチェの仰せでは、念10個を強いて計算しても、恐らく僅か百分の一秒ではないか。非常に早く過ぎると学びました。日頃の訓練がなければ、死ぬ間際に仏が百回の機会をくれたとしても間に合わないでしょう」と。

 リンポチェは「人が臨終の際に、脳波は動いたりするか?」と聞いた。葉という弟子は答えた。「皆で考えてみましょう。重病に罹った人であれば、きっと病床で考えたりするでしょう。人は死ぬ間際にきっと多くの事をまざまざと思い出したりするでしょう。そんな状態で集中するのは非常に困難なはずです。それでリンポチェは、今まだ能力があるうちに、出来る限り自分を訓練する事だと仰せになりました。」

現在の科学医学に於いては、まだこの問題を解決できていない。死ぬ間際のこの脳波の役目は何か?脳波はどうやって発生するのか?もちろん、我々の心念によるのだ。心が動かなければ、脳も動かなくなる。人が死ねば、脳波も止まる。人の息が絶えたその一刹那に、彼は、現代の言葉で言えば、黒いトンネルに入るように、彼のあらゆる神識は、その一刹那に停止する。彼の感覚では、黒いトンネルに入ったその一刹那にあらゆる体のエネルギーが停止し、停止した後彼は光を目にする。その光は仏菩薩が来迎に来て下さった光ではなく、彼の神識が光を見かけた際に、体から抜け出そうとし、その一刹那に、彼の生前の思いを阿弥陀仏や上師に置かなければ、彼は抜け出てからは自分自身の業力に従って彼の好んだ場所に行き、行ったら輪廻を繰り返し始めるのだ。

 今日は極めて秘密の事を説いた。そなたらは話を聞く訓練をすべきだ。話を聞く訓練をするのは、リンポチェに催眠術をかけられていくらかをリンポチェに奉げることではない。リンポチェはそんなことは言っていない。絶対に自分の考え方など持たないように、話に従う訓練が必要なのだ。称えれば行けるなどと思ってはならない。そのようなことはない。上師を信じる事だ。『阿弥陀経』にはっきり、「釈迦牟尼仏曰く、この五濁悪世で、この信じがたき法を説く」と書かれてある。何故信じ難いのか?そなたらの思いや知見が、あまりにも濁っているからだ。濁りとは何か?偉そうに自惚れる事だ。そのため釈迦牟尼仏は、そなたらにはこの法は信じさせにくいと仰せになった。そなたらは「こんなに簡単なのか?」と考えるだろうが、本当に簡単だ。思い一つで上らせたり、思い一つで陥らせたりする。だが簡単だからこそ、信じない。そなたらは大きな法を修めてはじめて行けると思っているだろう。違う!そうであれば、『阿弥陀経』で、釈迦牟尼仏は若一念二念十念などと言わずに、ひたすら法を修めてこそ行けるのだ、と言っていたはずだろう。

修法の場合でも、密法のリンポチェがひたすら法を修めて、亡者に福報が起き、思いが清浄になってはじめて行けるようになる。リンポチェが修める施身法も、中には供養、布施がたくさん含まれている。それも亡者を清めて、清浄なる本性を回復させ、彼が仏法を分かるようになってはじめて行けるので、誦経でもすれば行けるというわけにはいかない。今日、皆に開示したのは、あらゆる仏法の精粋に当たるものである。これほどたくさん仏法を学んできたが、それは数多くの名相を覚えるためではなく、一切の執着を断ち切り、往生の際、上師や仏を思い起こすことができるようにするためだ。在世の時、話を聞かないでいたりしたら、往生の際に必ず思い起こすことができなくなるからだ。上師がまだこの世にいるならば、話は別だが。上師はそなたの往生を知って、49日以内に済度させるからだが、そうでなければ不可能だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者全員を従えて、アキ護法と廻向儀軌を修持なさった。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »


2020 年 12 月 21 日 更新