尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示– 2020年9月6日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは灯を点して仏に捧げ、自ら殊勝な金剛薩埵(こんごうさった)灌頂法会を司られ、並びに大衆に貴重な仏法開示と金剛薩埵灌頂を賜った。

本日、皆に賜る金剛薩埵灌頂は、以前も何回か灌頂したことがある。金剛薩埵は普賢王如来の報身仏であり、金剛薩埵は髪の毛が青であるのに対し、菩薩のは黒である。金剛薩埵は金剛乗における重要な本尊のため、金剛薩埵を修めるのをなくしては、如何なる密法は成就し難い。金剛薩埵の重要性は、衆生のために、自分自身で犯した一切の過ちを埋め合わせようと助けてくれることにある。ここでの埋め合わせとは、戻し補うのではなく、妨げを取り払うよう助けることだ。

最も大事なのは、菩薩戒を受け金剛乗を修める人の多くは、その誓言が衰退(退転)する。私もひたすら言っているが、金剛乗行者の心は牢固たる、外在的や内在的なことによって仏道修行の心が動揺されることはない。多くの人は仏を学ぶと言ったら自らよく学べればいいという見解を持っているが、金剛乗では最も重要なのは上師の言うことを聞くのだ。この間、観音菩薩、阿弥陀仏とグル・リンポチェの三合一法を修めた際に、テキストでは上機根な者だけに、生起、円満次第を授けるとあるが、一般機根だったら、どう修めようか。百パーセント、上師の言うことに従うのだ。そなたらはどう。百パーセント従わないのだ。

昨日、またある出家弟子が私の言うことを聞かないで願い出に来たようだ。私から不共四加行の大礼拝(五体投地)を伝授し、テキストの一部分を与えたが、彼は一冊丸ごと欲しいと願い出に来た。これが典型的な話に従わないということだ。金剛乗の習得や修行し得る人が幾人も居ないのは何故か。一部の弟子が私のほうに、密法を学びたいと泣き落としに来ているが、いったい何の理由で密法が学べると思うか。まさか、灌頂を授かったり、真言が伝授されたりすれば、密法が学べると思っているのだろうか。不共四加行を求めてきた多くは、不共四加行の伝授があれば、密法を学ぶ器になると自惚れているが、実はそうではない。そなたに、揺るぎない願力がなく、常に前言を翻したりすれば、密法は学び得られない。

何故、《宝積経》を開示したのか。釈迦牟尼仏は慈悲深く、いみじくも私に《宝積経》のこの段落をめくらせ、弟子に言い聞かせたのだ。菩薩道を修習するに当たって、身口意がどういうふうに構え、実践するものかについて、はっきりと分かって欲しい。公式サイトでの法会開示を読めと課したのも、その内容を印刷し装丁して欲しいのではない。出版するぐらいなら、私自身ですらできる。よりによってある弟子は知ったかぶりをし、お年寄りへの手助けと思い込んで、そうした。同時に、それらのお年寄りも自ら仏を学びたいからと思って、上師の言うことを聞かないでひそかに購入し、しかも他人が自分によくしてくれたと思っている。

話を聞かなければ、自ずと離れていく。そなたらは密法を学ぶ資格を持たず、こっそりと裏で物事を進め、人の言う話であれば聞き入れるが、上師の言うことは聞き入れない。公式サイトの内容を本にした6人を追い払わないが、これらの人は金剛乗を学ぶ資格を失った。不共四加行を授かった者なら、そのテキストを取り返す。仏菩薩と上師を騙し取ったからだ!「自分は学びたいし、目が悪く読みづらいから、人が手を差し伸べてくれて嬉しい」と言うだろう。だが、助けてくれるように思っているからには、彼女のことを表彰するべきで、組のリーダーやリンポチェに言うべきではないか。リンポチェから、彼女の善心を表彰すべきではないか。何故、黙っているか。それは、きっとこっそりとしたところがあるに違いない。

アキ護法は間違いなく、そなたらのし損なったことを暴露させると、いつも戒めている。まさかこの事がばれるとは思わなかっただろう。誰も知らないようにプライベートで取引を終えたところを、一人の弟子はリンポチェがこう言い付けはしなかったと、後ろめたいと思って言い出した。騙すという心を使えれば、どう仏を学べようか。リンポチェはそなたらに相済まないところがあるか。そなたらが帰依して以来、きちんと守られているにも関わらず、お金が余るようになったら、却って公式サイトでの法会開示を複写している。

道場であった事は、単なる個人に関わるだけではないのであって、密かに物事を進めないよう、よく覚えて欲しい。仏を学ぶとは、自ら学ぶもので上師の言うことを聞きたくないと思うならば、ここを離れよと勧める。留まって何をするつもりか。何を言おうと聞き入れない。しばしば言っているように、学校に通ったことがない人は居ないだろうが、小学校一年生の頃、そなたらは先生の言いなりに従っていた。敢えて従わないということがあっただろうか。何故、仏を学ぶようになったら、聞かなくてもいいのか。

読みづらいから拡大した字があると助かると、そなたらは上手いことを言った。だが、前も言ったように、法王がチベット語で開示なされたが、一文字たりとも分からない私は、どうやってそれを身に着けたのか。心をして聞く他にない。諸仏菩薩と上師からのご加護を頂き、そして自ら休まずに努力を重ねた末に、きっといつか分かるようになる。言葉を以って仏法を解説するのはどうしようもないことであり、そなたらみたいな愚かな者を前にして仕方がないからだ。禅宗に不立文字(ふりゅうもんじ)があるのは何故だろうか。それは仏と菩薩の境界は文字で解説するものではないからだ。そなたらが知るものではないからだ。釈迦牟尼仏は大いに智慧を持ち、そなたらの分かるような言葉で、菩薩とは何だ、どうやって菩薩を修めるかと解説して下さる。だが、こちらの六人は意地でも理解などはしない。まさに、この本を入手して、丸暗記すれば、リンポチェにランダムに質問出されても答えられると思っているのだ。

他の弟子も絶対に真似しないこと。いくら密かにやっていようが、遅かれ早かれアキ護法はこの事件を暴露させるからだ。この弟子も2016年に《地蔵経》の開示を複写し本にして売ったが、その時はむごくなく、200元だけ儲けた。今度は《宝積経》開示の複写本を売ったら2800元も儲けたことから、アキ護法はその慳貪さに気づき暴露されたのだ。そなたらが《宝積経》を聞きに来た際に、私はこうお金を徴収したか。(徴収しませんでしたと答えた。)そなたらが不共四加行を求めに来た際にも、これほど供養しなかった。にも拘らず、まさか兄弟子を親友のように扱ったというのか。

近頃、法を伝えようと、灌頂を与えようと、そなたらのマンタ献上の供養を受け取らないのは何故だろうか。そなたらに借りがあるようにしたくないからだ。お金さえ出せば、何も手に入ると感じさせたくないからだ。リンポチェはそなたらに対してお金を拘泥せず、いつもの通りに法を伝授したりしているが、そなたらは造反している。隠れてやれば誰も気づかないと思うのか。

金剛薩埵という本尊は、特別に菩薩道を修めることを決心した人等を助けてくれる存在である。顕教では、懺法(せんぼう)も、懺悔も行っているが、顕教での懺悔はせいぜい天道や人道にまで度されるとする。ご存じのように、顕教で著名な《梁皇寶懺》の中では、梁の武帝のお妃は、非常に嫉妬深かったから、亡くなってから、巨蟒に生まれ変わったという。生前に、梁の武帝とお供して、仏を礼拝し供養したからこそ、巨蟒に生まれ変わられたということも、福報があるとの表れだ。

その嫉妬深さと恨みがましさによって、畜生道の蛇に転生されたと同時に、生前に仏法を聴聞したことによった智慧で、自分自身が蟒蛇の身を得て苦しんでいることを告げるように、梁の武帝に夢を見させた。往生した妃を助けるように、梁の武帝は寶誌公に願い出たことから、《梁皇寶懺》という懺法が生まれた。《梁皇寶懺》は千仏を礼拝することが基調に、懺悔文が加わるものである。寶誌公は弟子らを率い、亡者を代表して仏を礼拝し懺法を行った。もちろん寶誌公が率いた弟子らは戒律を守る比丘であった。その功徳をお妃に廻向すると、彼女は天界に生まれ変わり、そして昇天した事も梁の武帝に夢で告げた。

よって、《梁皇寶懺》によれば、仏を礼拝することで衆生が累世で積まれた悪業を動かせると分かった。それ故に不共四加行の一つ目に当たるのが大礼拝(五体投地)なのである。だが、単に仏を礼拝するだけでは阿弥陀仏浄土にとても行けない。たとえ寶誌公が出家衆を率い懺法を行っても、亡者を天界までしか度されなく、阿弥陀仏浄土に行くことに言及しない。在世の人が阿弥陀仏、浄土宗を修め始めたら、また話は別だが。懺法を行ったら菩薩を証することも説かれないが、金剛薩埵だけしか、如何なる菩薩道を修めたい衆生を助ける能力を持っていない。

金剛薩埵以外の、如何なる法門も三昧耶戒を破った衆生を救済し得ない。金剛薩埵だけしか、三昧耶を破った行者を救済することができない。不共四加行では、金剛薩埵という本尊はとても重要な存在である。百字明呪には百の音があり、どの音も一万尊の仏の真言を表す故、百字明呪は十万という仏のご加護を代表する。以前、私が閉関修行をしていた折、閉関して一週間経ったところを、法王は私を呼び出して大手印の伝授をしようとしたものだ。私は法王に頂礼してから、十万遍の百字明呪を唱える時間を頂くように、法王に願い出た。それではじめて大手印の伝承を敢えて授かるようになった。

何故そうしたかと言えば、一身上の業障の深さを考慮したからだ。大手印というのは智慧を開く働きであって、一日も早く悟らせるようにする法門である故、もし身口意が清浄でなければ、たとえ大手印が伝授されたとしても、恐らく習得することがなかろう。大手印は一般で言う座禅や禅定のことではなく、成仏の仕方と修行の方向である。本日与えた金剛薩埵の灌頂は、99%が縁を結ばせるだけで、そなたらが後世でもこの本尊を修められる機会があったらと願う。

長らく仏法を広めてきたが、今後は一層厳しくするつもりだ。今日は281名の弟子が法会への参列が禁止された。それは、そなたが六字大明呪などの一般的な法門を修める場合なら、よく修めようが、どう修めようが、観音菩薩は慈悲深く、いずれも将来の仏道修行に影響を及ぼさない。だが、金剛乗になると、上師に対してちっとも恭敬しなく、そして上師に少しでも退転があれば、今度は金剛薩埵が律するのではなく、ご自身が自身の成仏への道を妨げるのだ。

従って、我々直貢噶舉かつての大成就者竹旺仁波切は六字大明呪以外は授けない。衆生には金剛乗を修める資格がないと知っているからだ。密法の伝授を求めに来た自分自身に、自身が帰依して以来上師に対する心はどうだと、聞いてみなさい。あなたが私の上師に対する心構えのようにならなければ、伝授しない。いくら求めようとしても仕方がない。そなたが徹底的に改め、私もそれを感じ取ったなら、別論だが。

以前も言ったように、マルパ尊者が密法を修習しにインドに赴いた折、三回もチベットから馬に黄金を運ばせ、法を求めに行ったという。菩薩道を学ぶ以上、凡夫の学ばれるようなものではない。そなたらに学ぶ資格がなくても、上師を頼りにし、上師を100%信じていれば、上師はそなたをこの一生は少なくとも三悪道に堕ちないように救済される。

道場で好き放題に振舞えると思うなら、それはそなたの不利になる。寶吉祥道場では弟子同士での貸し借りは厳正に禁止し、もし弟子が生活に問題が生じたら、早期に組のリーダーに報告すれば、私が取り計らうよう言い付けた。この六人は中毒した。複写を進めた弟子は、きっと近頃ふところが寂しいと言い、皆がそれを信じて聞き入れたに違いない。慳貪だ。2800元で一冊のお経を買うことは、彼への手助けになるし、良い人とも言われ、一冊のお経も手に入ると思ったのだろう。

そなたらはあまりにも愚かすぎだ。仏を学んだきっかけは何だろう。仏を学ぶと賢くなるとは言わないが、少なくともとりわけ警戒心が身に付くと言えよう。そなたらは学べば学ぶほど愚かになっているにも関わらず、自ら賢しいと自惚れた上、人を助けたと思っていた。幸いにアキ護法が阻止に取り掛かったおかげで、でなければどれだけの人が購入していただろう。仏法はお金で買えるものなのか。私も既にお手本を示したくせに、これらの幾人は依然手管を弄した。バレさえしなければ無事だ。それにしても不共四加行をよく求めに来てくれた。そなたらの肝っ玉を敬服している。求め得られれば、修得するつもりか。

さすがアキ護法ならではの凄さだ。よくも一人の弟子を言い出させた!私を騙し取ったとしても、護法と仏菩薩は騙し得ない。我々の道場は最も清浄なのだ。点灯、修法、寶瓶などに定価を提示して徴収することはない。堂々と清浄なる道場なのに、そなたらの心は何故あんなに汚いのか。道理が簡単だ。まずは、人に構われたくないから、次に、良い事をするつもりで懐が寂しいと言った以上助けようと思ったからだ。印刷するぐらいなら、わざわざ外部の人に頼む必要があろうか。そなたらが仏を学ぶ思いはどこへ飛んで行ったか。

先週は長寿仏法会を執り行って、そなたらの地・風・水・火・空との五つの元素を補充した。多くの弟子は感応したのに対し、感応しなかった人等は上師に対する心が足らないことを意味するから、自分自身を反省すべきだ。多くの弟子は自分自身の欠けている部分を知りながら、自ずと熱や突然涼しい風が吹いてきたと感じていた。こうした感覚を持たなかった弟子らはすべて間違いだ。唯一感覚を持たないのは仏のみだ。それは仏の地・風・水・火・空が足りている、それどころか分け与えるほど有り余っているからだ。誰もが(補充することを)簡単そうに思うが、揺るがせばすぐあるのか。確かにあった。多くの弟子は自分自身の何れかの元素が足らないと感じながら、該当の部分を唱える番になると、強烈に感じ取ったという。故に、よくご自身を反省しなければならない。完全に感応しなかった人らは、心がうわの空だ。もし十数人以上、聞かなければ、私は敢えてこんなことを言わない。その日はちゃんと皆に分け与えたとはっきり知っているからだ。

金剛薩埵は左手に鈴を、右手に金剛杵を持つ。金剛杵は事業、勇ましさを表す。鈴は智慧、空性を表すと同時に、貪瞋痴慢疑で遮られた心を、鈴の音を通じて呼び起させ、清浄なる本性に回復することをも表す。金剛杵は我々の興奮状態の心を抑えることができる。金剛薩埵が顕わしたのは、報身仏の相である。それ故に、もしそなたが菩薩道を修めていなければ、金剛薩埵はただ縁を結ばれる存在である。その反面、菩薩道を修めるのを決意すれば、金剛薩埵はそなたの本尊となる。

私の加護を祈り求めに来た多くの人に対し、百字明呪で応じているのは何故か。私は金剛薩埵と既に相応している上、閉関修行も行ったからだ。前に触れたように、20日で10万遍百字明呪を唱え終えてはじめて関房を出られて法王からの口伝を授かれた。修行というのは、求めればあるものではない。私の場合は、求めずに法王が授けられた。そなたらの場合は、求めても私は授けない。ここが違うのだ。そなたらの心を見抜き、貪欲だらけだ。「テキストを持てば自ら修め得られる。上師を相手にしない。叱られたくない。私が修め得られたら、自分の凄さを見せよう。」私は待てる。私が立てた願は「衆生が成仏しない限り、私は成仏しない」からだ。だが、私と競争するものではない。テキストがあるのに、修め得られないのは何故だろうか。テキストに答えが書いてある:機根が違っていれば修め得られないのだ。

本日は皆にこの灌頂を賜った所以は、いつか皆が菩薩道を修めることを決意したら、金剛薩埵はそなたの本尊であるように助ける。同様に、灌頂は賜ったが法は伝えない。既に不共四加行を授かった者に限って、中にある金剛薩埵の部分に対し、簡軌を伝えよう。金剛薩埵のテキストは、全巻揃う場合は、外、内、秘密と無上瑜伽部に分かれる。現在、一般で修めているのはすべて簡軌だが、そなたらにしては充分だ。後半の部分なんて学ばなくていい。どういうことなのか。該当の機根でなければ、一個の真言だけでも、一生涯で十分賄えるからだ。該当の機根であれば、(法を)伝えないわけはない。そうでなければ、一個の真言で十分だ。貪って如何するか。あれやこれやと強請らないでくれ。ご自身の発心を見極めてくれないか。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵の灌頂を修め始められた。最初にマンタ献上の儀軌に当たり、法を乞うように、出家弟子が衆生を代表しマンタ供養を献上した。

修法して暫く経つと、リンポチェがこう開示された:

灌頂に先立ち、毎回のように開示を説いておくが、ここでは六つのことについて注意して欲しい。一、傲慢にならないこと。二、信じないこと。今回の6人は上師を信じなかった故、正法に対して信心が起こらない。再度補充するが、道場で定められた如何なる規定は戒律である。道場で決められたルールを従いも守りもしなければ、破戒だ。五戒は破れていないよと言うだろうが、道場で定めたあらゆる戒律は、我々が貪瞋痴を起す事から守るためだ。私もひたすら法座で何回も開示してきたが、《宝積経》にある釈迦牟尼仏の仰せのよれば、該当の機根でなければ、仏典でさえ読ませないとある。況して印刷するなり、渡すなりすることはあるや。この6人は、自己管理、独り善がりだ。

三、法を求めないこと。四、外へ散乱すること。そなたらにして最も発生するのだ。私はここで言いながら、そなたらの心は既にどこかへ飛んでしまっている。五、内へ閉じ込めること。つまり、もう聞かない。六、忌み嫌うこと。この法会、早く終わってくれと願ったりする。

法を授かる者は、上師と本尊とは無二無別であるよう、説法された上師を本尊と観想し、法を聞いた弟子らを眷属と観想するべきである。無上殊勝な密法を聴聞するため、不共の動機と行為を具足するべきだ。不共とは何であろうか。菩薩道を修める者に限って、不共と言う。菩薩道を修める密法は公で伝法することはない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き法を修められた。

修法中、薈供と供茶の儀軌も進められ、参列者全員は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持された供え物を一人一袋ずつ頂いたと同時に、法会中に上師、仏菩薩と共に食する得難き殊勝な因縁も得られた。

リンポチェは修法し続けられ、身語意の授権灌頂を賜った。

引き続き、出家衆は先立って、リンポチェからの灌頂を受け賜わりに壇上に上がった。続いて、リンポチェは法座から降りられ、右手に寶瓶を持ち、左手は絶えず鈴を鳴らしつつ、休まずに持呪して千名近くの信者や弟子一人ずつの頭上に加持を与えられた。リンポチェは右肩が既に軟骨組織を無くし、肘を動かす度に、摩擦による不快感を覚えている。こうした中でも、リンポチェは大衆を25分間も加持し続け、己を捨てた利他の菩提心を完全に現わされた。金剛薩埵真言の持誦声が響き渡った中、リンポチェが73歳との御高齢にも関わらず、慈悲深くご加護を賜ったことに、大衆は心から感謝する。

加持し終わったら、リンポチェは再び法座に上がられ、参列者全員を率いアキ護法儀軌を修められた。そしてこう開示なされた:

金剛薩埵はとても重要な本尊であって、ポワ法を修める際、その過程で必ず金剛薩埵が含まれるものだ。金剛薩埵が、亡者の累世で為した悪業を取り払わなければ、ポワ法も修め得られない。言い換えれば、ポワ法を学ぶには、必ず閉関修行の形で百字明呪を10万遍成し遂げなくてはいけない。気ままで、適当に唱えるものではない。多くの人は、ポワ法法会に参列したことがあって、そして上師が唱えた「ぺッぺッぺッ」という音を耳にすれば、浄土に行けるかと思われる。行けないよ。今上師が「ぺッ」と唱えるのは、馴染ませるためだ。いつかそなたが事切れる際に、折しも修法をしてくれる人が居れば、そなたがこの音を耳にして思い出せたら、行かれるようになる。もし、そなたは行者によって済度される福報因縁がない場合なら、そなたは絶対にこの音が覚えられない。私は済度の専門家だ。死後はどうなるかはまだ誰も知り得ない。医学がこんなにも発達した社会にも関わらず、如何なる医学も明確に死後の生理や心理状態に言及していない。

謝という医者弟子によれば、医学では、心拍を失い、呼吸が停止、酸素が低下、人は動かくなったら死亡だというが、その生理上での変化や、心理がどうなるかに至っては、知り得ていることはまったくないと語った。

リンポチェは間を置かずに開示された:如何なる者も自身の状態が分かっている。風邪やら熱やらがあったら、体の中で何が起こっているかはっきりわかる。故に、死んだ際も、きっとこの体で何が起きているか知っている。左手を動かしたいが動かない、右手を動かそうとしても動かない。集中したくても集中できないから、死ぬとはっきり知っている。自身が死ぬと知らない人は居ないが、どうしようもなく、知っていても仕方がない。仏菩薩と上師以外、助けられる人はいないのだ。

寶吉祥道場は、格別に厳しくするのは何故だろう。私の門下に帰依した以上、誰一人の衆生が三悪道に堕ちるのを見たくない。離れた弟子ならは、助けようがない。三悪道に堕ちることは難しかろうか。それは簡単すぎるのだ。アキ護法がそれでも慈悲深く、頓珍漢な弟子らを引っ張り出して事態が浮き彫りになった。でなければ、この6人は絶対にこの一生で畜生道に堕ちるに違いない。自分自身を頼りに修める気か。テキストを手に入れれば、修め得られるつもりか。上師に対してさえ、恭敬しない、信じないくせに、自力で唱えれば成就できるつもりか。何れも唱え得られないのだ。閉関修行もしたことない上、話を聞かないからだ。

アキ護法はそれでもそなたのためだと考えて、引っ張り出したのだ。さんざん怒られ、懲らしめられたと思っただろうが、アキ護法はそなたらが三悪道に堕ちることから守ったのだ。帰依した人は三悪道に堕ちないと思ってはならない。ただ、梁の武帝のお妃みたいに福報が良い場合、蟒蛇になったり、福報が良くなかったら小さな蛇になったりするとの違いだけで、また小さな蛇は蟒蛇の食べ物にもなる。仏を学ぶのは、さほど簡単なものだと思うのか。重ね重ね法座で上師の言うことを聞くよう諭しているように、それは決しては皆に聞いて欲しいと願うのではない。誰もが己の力で修め得られると思っている。敢えて私自身が修め得られたとは言わないが、せいぜいこれだけの人が弟子入りをしている。よく例に取り上げていることだが、もし自力で修め得られたら、私はとっくに法王を相手にしていないのではないか。 それはいかん。そなたらは私を相手にしないように進めようとしている。他人の言うことを聞くなり、他人からの進言はそなたのためになると思うなりする。それなら、上師がそなたらのためを考えた分に対し、そなたらの心はどうなったのか。この場に居るあらゆる人よ、財産を傾けて供養した人は居ようか。 いない。上師は少なく伝法したか。他人からのちょっとした言葉で動揺したか。 相まってそなたの貪念に一致すれば、すぐにも動揺する。衆生を救済しない行者はいないが、衆生が自身を助けないのだ。

ポワ法の修習を目指しているが、不共四加行を完全に修め切らず、金剛薩埵もよく修めず、阿弥陀仏灌頂を授かったことがなく、そして六字大明呪を唱え満たすことをなくしては、ポワ法を修めて浄土往生することは有り得るか。速成クラスがあるように思われるだろうが、ポワ法には速成クラスはないと断言できる。周知のように、私は衆生にポワ法を修めてあげられる。ご自身の目で、はっきりと見たと思うが、私は遺体のそばに行かなくてもポワ法を修められている。自分自身がいちばん優れていると敢えて言うことはできないが、疑いなく経験をたくさん持っている。如法でなければ修得できないし、自力を頼りにするのも無理だ。ポワ法で最も重要なのは、歴代伝承上師からのご加護を頂くことにある。伝承上師からご加護を頂く理由は何か。そなたらの目の前にいるまだ生きている上師をさえ尊重せず、背いて密かに物事を進めている。お茶目なことに、誰も知らないと思い込んだ。

アキ護法は私から皆に伝えたのを忘れるのではない。できるもんなら、これからの毎日アキ護法を修めないでみろ。アキ護法を唱えている限り、そなたらが何かし損なったら、護法は必ず私に知らせるに違いない。ややとすれば、そなたの仏壇を焼き尽くしたりする。多くの弟子には既に発生していることだ。何故か聖像の写真を焼き尽くしたにも関わらず、家は燃やさなかったのか。あまりにも偶然しすぎてふざけているかと思われるだろう。もう信じないから、聖像の写真を持たせてなんの意味があるのか。謗仏を避けるように、更なる悪の業を為させないように、燃やさせたのだ。

こんなにも多く伝法されても、大切にしない上、自ら「他人が印刷してくれたのが読みたい」という立て札まで立てている。そなたのお金は嵐を呼ぶか。2800元で私の説いた仏法が買えようか。2800万元でさえ買えるものではない!今週で、マンタ献上の供養を受け取らない7回目の法会になった。皆はでたらめ言っているからだ。私は弥が上に厳しくなっている。今日は281人もの弟子を参列をさせていない。彼らは帰依もしているし、以前も供養したことがある。リンポチェに発覚されず、まぐれで参列できたことを思わないでくれ。遅かれ早かれ発覚されるに違いない。

三合一のテキストに書いてあるように、自身が上機根の者でなければ、素直で地道に仏を学ぼう。手管を弄せず、自ら偉いと自惚れてはいけない。これ等幾人は何故このお経を購入するか。読めばすぐ分かるし、修め得られると思っただろう。《宝積経》にも説かれているが、菩薩道を修める者は傲慢ではならないとある。今さっきも「悦意伺候上師」(喜んで上師に仕える)を唱えたが、所謂伺候(仕えること)は一日中私のそばにいて、何かしてくれるのではない。これ等6人は私に煩悩を起こさせた。私は煩悩を起こすのではなく、そなたらに対して煩悩を起こしたのだ。なんて扱いにくい者か。そなたらが救われて快適な日々を送っていると、自らよく修めたと思い込んだのではないか。自ら修め得られたと思って、偉そうになったか。最近、誰かが亡くなったら、代わって済度させてあげようか。

先週の土曜日に、ある弟子が会見に来て、その母親の余命は残り四日間と私は断言したら、半日もずらさず、ちょうど四日間経ったところを、その母親は他界された。できるもんなら、私ほど修めてみろ。誰もが自ら凄い、腕利きだと自惚れている。「既にテキストを求め得られたが、私はもっと欲しい」なんて、何を理由に全部が手に入るわけか。上師の言ったことさえ、受け入れられない。私はわざとそなたを試してみたのだ。「一冊丸ごとのテキストを持っていないから、この法は整ってない」と思われるだろうが、その実、そなたはこの一生大礼拝(五体投地)をすれば、解脱を成し遂げられるのだ。それほど多くの法をむさぼって何のためだろうか。そなたがこの道場に入ってから今に至るまで、まだひれ伏さないでいる。まったく貪念が重くてたまらない。上師がそうしたのには、それなりの理由がある。そなたは何の権利があって一冊丸ごとのテキストを願い出に来れるのか。毎日読むつもりなのか。仏菩薩が加護に来てくださるのか。そんな滅茶苦茶なことはよしなさい。ひたすら自ら凄いと自惚れる者なんて、修め得られないぞ!

何故、そなたらが在世の間に、上師は毎日そなたらに向かって怒鳴っているのか。私の憤った様子が覚えられるようにしておけば、死に際に私の憤った様子を思い出せば、そなたらは地獄に堕ちないようになる。あまりにもご機嫌を起すような話をしすぎると、きっと私のことが思いつかないだろう。そなたらは専ら仇や恨みなどを覚え、人から頂いた恩を覚えるのは得意ではないからだ。法会が始まる前に、経験を語った頼という弟子は何故忘れたか。 恩徳を覚えないからだ(詳しくは衆生済度事跡第1054号を参照)。何故、この六人は忘れたのか。 恩を覚えないからだ。古くから言い伝えられてきたが、人から一掬いの水をもらっても、泉が湧くように報うものだというが、況して私が伝えたのが仏法だ。そなたらからの報いは要らない。報われることは遠慮するが、せめて言うことを聞くぐらいはして欲しい!個人主義を取り除け!地道に話を聞け、仏を学べ。私の言うことを実践せず、ご自身の考え方を持てば、私はそなたをすぐ追い払うだろう。もううんざりしている。73歳にして、まだそんなにそなたらを律する時間があろうか。自ら発心して仏道修行していると思うか。上師のやり方でさえ支持していないのに、何の発心なのか。

つい先週に言ったが、法王から私は三十数年前は弟子だった、今もまだ弟子だと仰せになったように、そなたらは進んで聞き入れようとしない。この六人は自ら言い出そうとせず、発覚されるまで待っていた。自ら言った一人だけは関係なく、自ら進んで言ったから、リンポチェはひと言も叱りはしなかった。残りの六人は、どうにもならないから、とりあえず裏に隠そうと思った。いいよ、どうせそなたらのことだ。在世して仏を学んでいる間から、そんなに厄介事があっては、きっと死に際にも同様だろう。妨げが多く発生すると見当が付く。何故かと言うと、おびただしい亡者の事例を見てきたからだ。また、近頃は寺院建設中に当たって、死亡に歯止めをかけているようだから、最近はあまり済度はしていない。施身法ごとに、依然大勢が殺到している。

皆が自分自身を改めようと決心することを私は願っている。一年と一年と、時間が経つのが早く、気にしていないと思ってはならない。ちょっとした油断、不留意したら、忘れられるものだ。頼という弟子は、死に際には、どれほど苦しかっただろう、どうか誰か助けてくれないかと願っていたものだ。だが、救われて快適な日々を過ごすと、すぐ忘れてしまうようになった。そなたらは誰でもそうだ。自ら修め得られたと自惚れている。

法王は何とも親しく仰せになったが、「私のこの弟子は心が行き届いている、隅々まで注意が届いている」と。法王が指したのは、仕事の際に行き届いているのではなく、私がある事柄に対し、その上辺をではなく、その奥まで見極めることだ。そなたらのように皮相だけ見るものではない。法会の前、頼という弟子が言い忘れたことがある。それは、彼女は私を前にして跪いたら、私は彼女の心の中の考え方を全部言い出したこと。もちろん、彼女が夫を律する手管をも。

本日は、金剛薩埵の灌頂を与えたとしても、後日伝法するとの保証はしない。ただ縁が結ばれるだけだが、今後の部分はご自身の決定次第だ。何故、まだポワ法を伝えないのか。 それは私自身もこうして修めてきたからだ。どんな人が器なのか、私ははっきり知っている。今の時点ではまだそういうような人を見かけていない。死を恐れる人もポワ法を修め得られない。菩薩道を修めると決心していない者も修め得られない。上師が修法している際の一つの音でも聞こえたら、行かれるかと思ってはならない。死に際の、最後の数回かの呼吸に実は恐れ戦くのだ。息が吸えなくて死ぬと知りつつ、まだ他のことを念頭に置く余裕があるか。己の死を知っているほど修めれば、この時がやってくると、我々は恐れ戦かず、あらゆる上師、あらゆる法が思い浮かぶのだ。

例えば、あるスポーツの一種目を身に付けることのように、日々訓練を重ねなければ、いざ試合の日を迎えても発揮できない。全く同じ筋合いで、毎回トレーニングがそなたらを鍛えているのだ。よりいい生活になったら、より健康的な状態になったら、修め得られたことになると思ってはならない。近頃、家族では特にトラブルも発生していないようだから、吉兆みたいな感じで、まさか修め得られたのではないかとも思ってはならない。真に修め得られたのは、自分自身の死亡の過程をよく理解し、はっきりさせた上、怯えもしない、妨げもないことだ。

金剛薩埵は我々が累世で菩薩道修行中に犯した悪業を調整するよう助けてくれる。菩薩道が学びたいからと言って自ら菩薩だと思ってはならない。登地菩薩ですら、ちょっとうっかりすれば、悪業を犯す機会もある。仏を学ぶ目的は僅か数十年の俗世間のためではなく、ポイントは最期のその一秒をちゃんとつかめられるかどうかにある。もし、在世の間に、たえず訓練を繰り返さなければ、一人の上師に師事しなければ、往生する際に助けてくれる人がいなくなる。テキストの最後に、何遍も繰り返された「你要追隨上師(そなたは上師に仕えるものだ)」とはこれを意味している。そなたらは阿弥陀仏や観音菩薩に会える資格を持たない。しかしながら、上師の姿なら見たこともあって、覚えているはずだ。だから、いったん灌頂を受けて、そしてこの願を発せば、そなたが事切れそうになったら、自ずと上師に従っていくことを知り、また、上師の化身が現われてはじめてそなたらが行かれるように助けてくれる。自力に頼っても行けると思ってはならない。もし自力で行けるようなら、私が衆生のためにポワ法を修めている際に、歴代伝承上師や本尊を観想しなくて済むし、私一人で衆生を行かせればいいはずだ。法を修めるのは私だが、本尊に来てくださらないとならないのだ。本尊はどうやって来られるのか。そなたの心が本尊と同じく衆生救済に努めることと、仏を学ぶ過程では、障碍がなく過ちを犯さないことだ。過ちを起したら懺悔すれば無事になると考えてはならない。それはただ障碍を少し減らすだけで、その障碍は依然存在している。そなたは自分自身を妨げているからだ。

土曜日に、何人かテキストを求めに来た人がいたが、何故テキストがないかと私は聞いた。彼らは寺院建設の寄附が遅くなったからだと答えた。私はこう言った。それなら、上師のしたいことをのんびり応じた以上、そなたらの求めたいことに対し、私ものんびり応じよう、と。これを因果という。まさか私を前に跪いて泣き付いたら、私は動揺し情に脆くなると思うのか。私はそなたらの心を見つめるのだ。如何なる者も自分自身のために着眼し、誰も徹底的に懺悔しない、徹底的に法の貴重さを知る者は一人もいない。テキストは単に紙と文字に過ぎず、経典もそうだ。ポイントはこのテキストではなく、誰が法を伝えたかにある。伝法された上師に対し敬わなければ、この法はそなたに効果が出得るか。もちろん、効果は出ない!

仮に、仏が仏と法があれば充分と思われたら、わざわざ三宝を言わないだろう。仮に、歴代伝承上師も仏と法だけで充分だと思われたら、歴代伝承上師もテキストに上師と書かないだろう。そなたらは依然ちんぷんかんぷんで、自ら修め得られたと思っているのではないか。だから、さっき唱えたテキストにもはっきり書いてあるとおり、上師を本尊と見なし、同じ場所で法を受け賜わる人をすべて眷属と見なすと。眷属は助け合うもので、し損なった人を助けるわけではない。まるで、今回は林という弟子がこのことが間違ったと思って言い出したように、彼はこの六人が地獄に堕ちないように助けているのだ。「あれ、リンポチェは販売してもいいと言っていないのに、どうしてこの人が売っているのか」と思ったからだ。思い一つ違っただけだ。

これらの幾人は何故購入したか。彼等にとってリンポチェは存在していないのと同様だからだ。彼等は「リンポチェからテキストをもらったからには修め始めよう、リンポチェが言ったら修めよう」というような考えだ。修行はどこが難しいのか。話を聞かないところだ!林という弟子は世間で取り沙汰していたように見えるが、実はそうではなかった。彼は六人をも地獄に堕ちないように救ったと同時に、その経典を売っていた人を悪をし続けないよう救ったのだ。私は法語(ほうご)をではなく、修行の方式を説いている。これが釈迦牟尼仏が教えて下さった方法で、単なる法語ではない。法語は人としての有り様に限って教えてくれることに対し、これが菩薩をいかに実践するかについて教えているのだ。勝手に、流布されるものか。

ここに出家衆が大勢いるが、個々に聞いてもいい。彼等が出家して数十年以来、誰かが《宝積経》を開示したことを耳にしたことがあるか、と。(出家衆はありませんと答えた。)リンポチェは理由は何故かと問われたところを、出家衆は菩薩道が難しすぎて、敢えて説かれる人がいないからだと答えた。

リンポチェは引き続き開示なされた:菩薩道が難しいのではなく、そなたらが難しいのだ。何故他の方は開示しないのか。彼等が戒律を守っていて、きっと言い間違えたら五百世の間に狐狸の身を得るように、悲惨な事態になることを知っているからだ。以前も、ある人が一文字だけ言い間違えたら、五百世も狐狸の身を得ていた話を言ったことがある。出家衆として長所の一つに、出任せに言わないことがある。いったん言い間違えたら、それに伴う果報が非常に重いのだ。そなたらがよくもそれを買えた。隅々まで暗記すれば、人に言い聞かせられるとお思いか。本にして出版するようなら、私はとっくに公表している。ある人から、リンポチェは本を出版しないのかと、進言したところを、私は拒否した。何故拒否したか。菩薩道は広く伝えるものではないからだ。仏典に書いてある内容だから、広く伝えてもいいと思うかもしれないが、《宝積経》を知る人は大勢いるものの、開示に取り掛かる人は居ないのは何故だろう。福報、ご縁を持っていないからだ。そなたらはたわいなく、珍しくもないものだと思いながらも、出家して30年の出家衆を始め、これらの出家衆等は皆、以前聞いたことがないと言ったほどのものだ。そなたらは充分幸運に恵まれる人で、開示に取り掛かったリンポチェによく出会えたのに、依然手管を弄している。私は与えすぎているせいか、珍しくないと思わせているのだ。

昔、誰かが信者を対象に仏典の一句でも解説すれば、信者はきっと嬉しくてたまらなかっただろう。私はそなたらに良すぎると思う。来週、地蔵菩薩を修め終わったら、また違うパターンを出してあげよう。自ら修め得られると確信していれば、それでは毎週唱えればいい。私はここにじっと座って供養をもらい続けよう。できるもんなら、供養を捧げないでくれ。自ら修め得られる考えだったら、修めさせよう。

だから、仏を学ぶこと自体は難しくないが、難しさは自分自身にある。自ら実践し、テキストに書いてあるどおりに、言うことを聞くべきだ。故に、上師に仕えるとは、毎日上師に何かをしてあげるのではなく、上師のすることを心掛け、聞き入れて実践することだ。好き勝手にやりたいことをやるのではない。もちろん、そなたの日常生活は私とは関係がないが、仏法に関わると、絶対にご自身の考え方が紛れ込んではいけない。ご自身の考え方があれば、ここに留まらないように。別の道場でも行っても構わないから、ここを離れよと勧める。私は喜んでそなたらを別の道場に送る。手を挙げて申し込めば、私は手配する。他所の道場は、寶吉祥の弟子は長らくリンポチェに叱られてきたから、少なくともより大人しいだろうと思っている。実は、私には人には言えない苦しみがある。何故、人に言えないか。出家弟子は、言うことを聞かないと答えた。

さっきも言ったが、来週は地蔵菩薩を修めよう。地蔵菩薩を密教の方法で修める方法は、顕教での誦経とはちょっと異なる。地獄に堕ちるかもしれない配慮から、今週参列させなかった人らは、来週の法会に参列を許してあげる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者全員を率い廻向儀軌を修められ、法会を円満に終わられた。弟子と参列した信者らは皆、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェからのご開示、ご修法、並びに灌頂を賜ったことに深く感謝し、起立したままで尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのをお見送りした。


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2021 年 03 月 27 日 更新