尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年2月5日

旧暦正月一日午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは点灯して供仏後に法座に上られ、自ら『三十五仏懺』、黒水財神法会を主法なされ、参会者全員に貴重な仏法開示を下された。

今朝は先ず『三十五仏懺』を修める。『三十五仏懺』は釈迦牟尼仏が御自ら伝えられた『寶積経』内の懺文だ。台湾でも中国でも、『梁皇寶懺』、『水懺』、『地蔵懺』、『観音懺』、『薬師懺』、『妙法蓮華経懺』など、たくさんの懺が拝まれている。私はこれらをすべて拝んだことがある。これら懺文は釈迦牟尼仏が御自ら伝えられたものではない。釈迦牟尼仏は『寶積経』内の『三十五仏懺』だけを伝えられたのだ。『寶積経』は釈迦牟尼仏が御自ら、菩薩道を修める修行方向と心構え、及び修行の功徳等について、出家、在家を教導なされたものだ。そのため、今日菩薩道を修めようとするなら、『三十五仏懺』は必ず拝まなければならない。これは私達が知っている『梁皇寶懺』、拝千仏とはどこが違うのか?同じだ。すべて拝仏だ。違うのは、これは釈迦牟尼仏が講じられたということだ。

この一世の人類文化の仏法はすべて釈迦牟尼仏が伝授されたものだ、と私達は知っている。経典内で釈迦牟尼仏は、七仏住世と仰せだ。つまり地球では、七尊の仏がこの世間に来られると言うのだ。釈迦牟尼仏は第五尊仏だ。未来は彌勒菩薩が成仏に来られる。彌勒菩薩の後にはさらに一尊仏がおられる。その後地球には仏はおられなくなる。仏がおられなくなる、とはどういう意味だろうか?それは、地球がなくなるということだ。つまり、釈迦牟尼仏の前の四尊仏が教導なさった仏法は、現在の地球の世間ではなく、そのため真に、私達、この一世の地球人類と有縁なのは釈迦牟尼仏なのだ。

たくさんの人が、人類文化はわずか五千年余りだと思っている。実は現在世界各地で、現在の科学技術でなければ作れないようなものがしばしば見つかっている。宇宙人がやって来て残したものではないのか?と考える人もいる。経典内での釈迦牟尼仏の仰せによれば、人類は光音天から飛んできたという。人類は猿から進化したのではない。光音天とはどこだ?経典でははっきり言っていない。光音天の人は降りて来た後、地球上のある食べ物を好んで食べ、食べた後、身体が重くなり、飛んで帰れなくなってしまったので、人類は地球に居住し、家を建て、すべての文明を開いたのだ。宗教について探求し研究すれば分かるように、世界の宗教のほとんどは、死んだら天へ帰ることを望んでいる。一つの例外もない。それは私達は天から降りてきたものの子孫だからだ。そのため私達の遺伝子の中に、これが記憶されているのだ。何教であろうと、現在世界に伝わる大きな宗教はほとんどは天に帰る、という。だが仏法は天へ帰るとは言わない。それは天へ帰っても同様に輪迴するからだ。

天界の人を、経典では「天人」という。天界に生きている人もやはり輪迴する。輪迴しさえすれば苦だ。特に天界に生きていた人の死の前の苦は、私達人類よりももっと深刻だ。人類はみな死にたくない。自分が死ぬことを考えず、医者に掛かり最後の一秒まで死にたくないと足掻いている。人類には自分の死を見る能力がないが、天人は非常にはっきりと見ることができる。

経典では、天人には死の前に五衰の相が出現するという。第一に身体が悪臭を発する。天人は本来非常に良い香りがするものだ。なぜ良い香りがするのか?それは天人に生まれるには、人であった時に必ず戒律を守っていたので、戒律を守っていた香りが出現するのだ。そのため自然に香るのだ。だが、死を前にすると身体が悪臭を発し、良い香りは消えてしまう。第二に頭髮だ。本来天人の髪はパーマもカットも洗髪もトリートメントも不要で、自然に美しい髪型ができてくるものだ。しかも非常に自然に髮には花が現れる。花を摘んで髪に刺す必要はない。天人が死に近づくと、どんなに梳いても髮を結い上げることはできず、神通があっても垂れ下がってしまう。

第三に天衣が破れてしまう。天人に生まれれば、自然に衣服が出現する。着たいと考える服が自然に出現する。もちろんそれは私達地球の高級ブランドではない。それらは天にはない。経典では天衣という。密法では、仏菩薩に供養する時、ある儀軌では衣服を供養する。つまり天衣だ。普通の袈裟を衣服供養というのではない。現在たくさんの人が袈裟を供養すれば福報があると考えているが、それは誤りだ。一般のものは、どう供養したところで福報はない。密法では、ある一段で天衣を供養する。持咒観想し、この布を天衣に変えるのだ。だが、天人が死を前にすると、天衣は自然に壊れてしまう。

第四に、すべての眷属が離れてしまい、近づいて来なくなる。なぜ眷属が離れていくのか?それは、天人は死ぬと必ず「ポン」っと一気に地獄に堕ちてしまうからだ。下凡ではない。自分が死ぬのだと知ると、天人は心に悪念を起こす。どのような悪念か?天人になる前にどの宗教を信仰していたとしても、天人は自分は非常にたくさんの善を行ってきた、と考えている。そのため死に直面すると、懊悩し、煩悩、嗔恨、貪念の心が起きてくる。仏法を学べば、この類の心を断てるということなのだ。これ以外に、それができる宗教は一つもない。貪念を満たすことができるだけだ。例えば、主宰の神が段取りしてくださる、という宗教がある。これはつまり貪念を満たしてくれるということだ。神の一切の段取りはすべて正しい。これこそ貪念の満足だ。

諸仏菩薩が慈悲深く加持してくださるとたくさんの人が言うが、どうして諸仏菩薩が慈悲深くそなたを加持してくださるのだ?誰もが上師の存在を忘れている。もう一度みなに言おう。このようなことをもう一度言ったなら、追い出すだろう。なぜか?『地蔵経』で地蔵菩薩は「今日私、地蔵が衆生に利益できるのは、仏の加被、仏の加持を得たからだ」と非常に明確に仰せだ。そなた達は地蔵菩薩か?先ほど出てきて話をしたあの弟子も思い上がっている。自分はとてもうまく拝めているので、仏菩薩が自分に加持くださり、自分を助けてくださったと思っている。そなた達が拝んだところで、仏菩薩は因縁を作ってくださるだけだ。叱ってくれる上師、名利を求めない上師を見つけてくださるだけだ。

昨年12月、中国最大のテレビ局から出演依頼があったが、私は行かなかった。テレビに出たいとどれだけの人が願っているだろうか?なぜ私は行かなかったのか。それは私が名声を求めていないからだ!「リンポチェ、行きなさい。そうすれば有名になれますよ」とたくさんの人に言われたが、名声を得てどうするのだ?有名でない今でさえ「苦主」なのだ。これで有名にでもなったら、さらに苦を重ねるだけではないのか?学仏とはこんなものを学ぶのではないと言うことだ。学べば学ぶほど貪欲になるのでは、外道と同じだ。それでも「仏菩薩がくださった」とまでいう。なぜ『地蔵経』を講じるのか?みな、知っているだろう。地蔵菩薩は衆生を広く済度させても「仏の加被、仏の加持がなければ、私は衆生を救う力はない」となお謙虚に仰せになる。そなた達はちょっと拝み、菜食すればすぐに衆生を救えるのか?ちょっと拝めば、母親を済度させられるのか?ちょっと拝めば、仏菩薩が面前に現れてくださるのか?ちょっと拝めば、光が見えるのか?先ほど出てきて話した者に、私は密法を伝えない。それは上師を尊重しないからだ。口では尊重していると言っているが、その表現は自分がすごいと言っている。今になっても私は一人のリンポチェに過ぎない。自分はすごいなどととても言えない。すべては法王の加持、仏菩薩の加持のおかげだ。私と言うこの苦主はそのおかげで衆生を救う能力を持てているのだ。そなた達は何を思い上がっているのか?この『三十五仏懺』は、そなた達のような思い上がっている者に対するものだ。

なぜ釈迦牟尼仏は、この三十五尊仏をお選びになったのか?何も説明してはおられないが、私の少しの修行の経験から言えば、この三十五尊仏と私達、地球人とには必ず非常に深い因縁があるはずだ。「仏度有縁人」とは、どういう意味だろうか?私達と仏菩薩との間に縁がないなら、仏が済度させようと思っても済度させられないし、救おうとしても救えない。「有縁」とはどう言うことだろうか?ちょっと拝めば有縁だと言うのではない。仏の仰せを聞き入れるかどうか、仏の教えを実践するかどうかだ。そうしないなら、縁はない。そのため苦主とだけ結縁するのだ。誰もが、拝仏とは仏像を拝むことだと思っている。仏像とはなんだ?銅で作ったものか、泥で作ったものか、木で作ったものか、仏とはこのようなものなのか?仏はこんなものではない。便宜上、拝む対象を用意して見せているだけだ。真の拝仏とは、心中の仏性を拝むのだ。自分は改められているだろうか?そのため仏法は衰えているのだ。みな仏法を別の宗教としてみている。他の宗教の方法は当然たくさんの信衆を惹きつけることができる。だが、仏法は人の多さを競うのではない。どれだけ多いと言っても、現在地球上には六十数億人しかいない。動物、畜生道、地獄道、餓鬼道と比較すれば、とてつもなく多く、全部見ることができないほどだ。ではなぜ人を済度させるのか?それはそなた達一人一人の身体に山のようにたくさんの衆生の生命が付いているからだ。

今回の寺の建立でも、もし私が気をつけていなかったなら、土を投じてしまい池は無くなってしまっていただろう。この池の中に何か生き物がいるなど、誰も思ってもみなかった。ところが、池を浚ってみたところ八千匹余りも魚がいた。その池の大きさは、ここと大して変わらない。どうして八千匹余りも魚がひしめいていたのか?私は今になってもまだよく分からない。少しの智慧、少しの慈悲を修められていなかったなら、寺を建立するのだから、衆生を犠牲にしたところでどうということはない、諸仏菩薩が助けてくださる、いずれにしろ寺のために犧牲になった衆生を済度させるのだから、と思っていただろう。デタラメを言うな。誰が言ったのだ?経典はこんなことを講じてはいない。なぜ私は日本で池の中に一匹の金色の魚を見たのか?神通を示しているのではない。ただそなた達に伝えているだけだ。そなた達が今後も利己的で自惚れ、自分はすごいと思っているなら、永遠に仏法とは無縁だ。いくらかの福報を結び次の世で使えるだけだ。この一生では使えない。

今日は『三十五仏懺』を拝む。真にすでに菩薩戒を受け、『三十五仏懺』を拝んだなら、菩薩道を修める障礙は減るだろう。菩薩戒を受けていないなら、『三十五仏懺』を拝むことで、菩薩戒を受ける機会があるだろう。皈依しておらず、皈依は余計だ、信仰に来ればそれでいいと考えているなら、『三十五仏懺』を拝むことで、自分は本当に愚かだ、なぜ皈依しないのか?と思うようになるだろう。皈依すれば「今は友達で、みなそれでうまくやっている。皈依すれば上師になってしまう。自分の位が低くなるようだ」と感じると、たくさんの人が言う。もともとそなたは私より背が低い。そなたは私より背が高いか?私は178センチある。そなたは160センチだ。どう比べたところで、私より高くなるはずはない。年齢を言おうか。私は72歲だ。そなたは六十歲代だ。やはり私より少ない。学問は私より多いだろう。だが、ただそれは環境に恵まれたからに過ぎない。私はかつては学問する金がなかった。そのため『三十五仏懺』を拝んだ人は、将来皈依する機会がある。私に皈依するとは限らない。一日皈依しないなら、仏法はそなたと福の縁を結ぶに過ぎない。そして、未来世で仏号、仏法を聞くことができるだろう。だが、生生世世で生死を解脱することはない。

たくさんの人が、生死解脱はそんなにも重要なのか?と思っている。重要だ。この一生で、生死解脱を決心するなら、生生世世で為してきた一切の悪業は転じてしまう。そうでなければ、転じることはない。先ほど語った弟子は、自分の母親は念仏し菜食していたのに、なぜそれでも自殺してしまったのか?と言った。仏菩薩は母を保護しなかったのか?菜食は不殺生ではないのか?保護するはずだ!母親の皈依師は私のように厳しく叱るのではなく、会いに行けば「おお、菩薩、来ましたか!」、「菩薩、改められましたね。今は不殺生ですね!」、「仏菩薩が守ってくださるでしょう」とひたすら機嫌を取っていたので、最後には仏を誹謗するようになってしまったのだ。徹底的に懺悔せず、菩薩道を修めない。どうして転業できるだろうか?

リンポチェに能力があり、そなたを阿弥陀仏のお側に送ることができたとしよう。だが、生前三福を修めていなかったなら、阿弥陀仏のお側へ行っても少なくとも十二小劫を経なければ、花が開き仏を目にすることはできない。十二小劫とはどれだけの時間なのか?一小劫は地球の成住壊空から空壊住成まで、この一回りを一小劫と言う。これは非常に長い時間だ。「どうと言うことはない。蓮花の中に十二小劫隠れていればいい」と言う人もいるだろう。だが、あちらに行けば神通を有するので、周囲の蓮花がすべて成仏し、自分だけが中に閉じ込められているのを目にするだろう。みな行ってしまい、自分だけが残っているのを目にし、その時になって真に懺悔することになるだろう。経典を理解しておらず、一日中メチャクチャ言う人が多いのだ。自分は発願したのだから、と思っているが、これは全くなんの役にも立たない。

そのため、この後『三十五仏懺』を拝む時には、皈依しているかどうか、菩薩道を学ぶつもりがあるか、またはすでに菩薩道を学ぶ決心を下しているかどうかに関わらず、必ず懺悔の心を起こさなければならない。私が言うように、私達は一日不成仏なら必ず懺悔しなければならないからだ。なぜか?成仏しなければ、一切の衆生を広く済度させることはできないからだ。私達のこの種の凡夫身では、数万人を済度させてもどうと言うことはない。八千匹の魚を救えても、どうと言うことはない。すべての衆生の数に比べれば、とてつもなく少ない。これら魚を掬う前に、私は修法した。魚たちを傷害するのではないかと心配したからだ。私は寺を建立するので大きな功徳が得られる。あとで功徳を魚たちに迴向すればいい、彼らはそれで済度を得られるだろう、と言うのではない。メチャクチャだ。慈悲心がない。それではまったく過ちだ。

以前ある寺の門前には草地が広がっていた。私は夏しばしばそこでミミズが這い出してくるのを目にし、ミミズをつまんで脇の方に移してやっていた。ある日突然、この草地全体はコンクリートで覆われてしまった。どれだけの衆生がコンクリートの下で死んだことか?修法しただろうか?私は知っている。修法していない。読経しただろうか?読経はした。だが、読経すれば必ず済度できるのか?これは私にも分からない。つまり私達は意識して、或いは無意識のうちに衆生を傷つけることをたくさんしているのだ。私達の意識と無意識はどうやって来るのか?自分の利益のためだ。自分の利益のためなら、衆生をちょっと傷つけることなど、どうと言うことはないと思っている。なぜ寺を建立する前にその場所で修法しなければならないのか?その地の土地神に私達がそこに寺を建立することをお許し願う必要があるからだ。寺を建立するのだ、功徳は無量だ、そこの土地神は必ず助けてくれるだろう、などと思ってはならない。そんなことはない。そなたに慈悲心がないなら、土地神は助けてくれず、それどころか懲らしめようとするだろう。私達の修法は土地神を圧服するためではない。寺を建立することを、土地神にお許し願う必要があるのだ。なぜならそこはその土地神の場所だからだ。

なぜ法に従い物事を行わなければならないのか?政府がそう規定しているのに、それに従わないなら、寺が落成しても問題が出て来る。出家弟子によれば、寺の中には裏社会に脅迫されているものもあるとのことだ。当然脅迫されるだろう!なぜならそれは違法だからだ。違法でないなら、脅迫するだろうか?それなら閉じてしまおう。門を閉じて内部で修めれば良いではないか?弟子などいらない、それで良いではないか?なぜ脅迫されるのか?供養を欲しているからだ。寺を閉じるのを恐れているのだ。そのため脅迫する隙を与えている。

学仏とはもともとは生活に根ざしたものだった。仏法を一種の盲信のようにしてしまってはならない。宇宙にはたくさんの現象があり、科学機器では探知、測定できないものもある。天文学の研究者は、非常に遠いところから一定の信号を受信していると言う。彼らは宇宙人が発信していると考えている。だが仏菩薩が信号を発信している可能性はないのか?科学機器では証明できない事を、自分なりの考え方で語る。実は西洋人の科学はすべて「こうであると仮定する」ものだ。こうである、と仮定する。私達5人の科学者が話し合った末に、こうであるだろうと考える。良いだろう。では、こうである。そのため科学も盲信なのだ。

例えば、科学では人は猿が変化したものであると言う。ではなぜ、現在いる猿は変化しないのだ?かつて一匹のある猿が突然変化した。現在までにこんなにも長い時間が過ぎた。なぜ突然人に変わる猿はいないのだ?ダーウィンの進化論は、いくらか欠陥があるのだ。それは、西洋の科学は表象、つまり表面から研究するからだ。内側から研究しない。現在ではすでに遺伝子研究まで進んでいる。では遺伝子とはどこから来たのだ?誰も答えられない。なぜ遺伝子があるのだ?オランウータンと人類との遺伝子の差はわずか2%だ。ではオランウータンと人類との差は2%だけのはずだ。そうだろう?だが、オランウータンと人類の違いは非常に大きい。最近ではオランウータンの知能は小学四年生か五年生程度だと言う。それでは差が大きすぎるのではないか?遺伝子の差は2%だけなのだ。違いがこんなにも大きいはずはない?そのため科学にはたくさんの矛盾があるのだ。

だが現在、この世界は一つの制度を確立している。証明書があれば専門家だ、と言うものだ。仏は私達に証明書を発行してはくださらない、初果羅漢まで修めれば、初果羅漢の証明書を発行しようとは仰せでない、と先日私は言った。私は覚えている。ある時、法王は灌頂を授けた。台湾のある信衆は、一つの名目を捻り出してきて証明書を作ったのだ。だが法王は無視なさった。法会に参加すれば証明書が与えられるとする。だが、仏法ではこのように言わない。これらすべては人世間が自分に与える一種の権勢、一種の声望のやり方だ。そのため古代では、孔子も証明書を学生に発行してはいない。証明書もないし、幼稚園、小学校、大学などと分けてもいない。それらは後の人が名目を作り出したのだ。幼稚園で儲けて、小学校で儲けて、中学校で儲けて、大学で儲けて、修士課程で儲けて、博士課程で儲ける。すべてこうだ。だが学仏は非常に安価だ。いくらでも良い。払わなくとも追い出されることもないのに、学問では学べないことをたくさん教えてくれる。

尊いリンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ法帽を被り、『三十五仏懺』を拝むために、参会者に起立を指示なさった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは後に従って念誦し、一句念誦する毎に恭敬に礼仏するよう、跪けない者はお辞儀して礼仏し合掌するだけでも良い、と参会者に指示なされた。みなは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力の撮受の下、自らを深く慚愧し、懺悔せずにはおられなかった。

礼仏した後、リンポチェは開示を継続された。

懺悔文では非常に明確に講じている。私達のこの一生と前世は、無始以来輪迴内で必ず罪業を作ってきた。懺文には、このように書いてある。なぜ皈依しなければならないのか?それは皈依し、上師の仏法教導を受けなければ、輪迴を断つことはできないからだ。どうと言うことはない、今日仏法を聞いたので、次の世で善人になって修めれば間に合うだろう、などと思ってはならない。申し訳ないが、どの一世で再来するかは分からないし、再来するその一世で人であるかどうかも分からない。再来し人だとしても、仏法があるかどうかは分からない。危険性は非常に高いのだ。そのため一切の経典中で諸仏菩薩は衆生を諌める。現在、つまりこの一世で、この機会を逃すなと。この機会を逃せば、どの一世に機会があるか分からないのだ。輪迴苦海はそなた達が想像できるようなところではない。ちょっとした学問、ちょっとした力、ちょっとした金銭に頼れば解決できる、簡単だ、などと思っているだろう。経文には「そなた達が為す一切の罪は無知力がしからしめるものだ」とある。この「無知」とは、知らない、分からない、と言う意味ではない。仏法を学んだことがないなら、自分の一切の煩悩がどこから来るのかは分からない、と言う意味だ。煩悩がいかにして来るのか分からないので、行う一切は自分の知覚を正しい判断とし、衆生を傷害しながら自分でも気づかない。だが、仏法を学べば、いかにして行悪を回避するかが分かり、この一生で輪迴を止めることができ、こうして初めて生死を解脱できる。

学仏の困難はどこにあるのか?所知障だ。所知障とは知識ではない。知識は有限だ。私達の一切の知覚だ。母親の腹の中から現在まで、私達は自分の知覚--私は知っている、私は思う、私は考える、の中で生きている。これこそ私達の学仏の障礙だ。なぜなら仏法は、自分を中心単位にせず、広大な衆生を救いの対象とするよう教えるからだ。そのため衆生を救う前に、自分のすべての欠点を知らなければならない。減らさなければならない。さらには、消し去ってしまわなければならない。こうでなければ将来衆生を救う能力を有することはできない。

続いては黒水財神を修める。顕教を学ぶ多くの人が、なぜ密宗では一日中財神を修めるのか?と批評する。私は一日中修めてはいない。私はビジネスを行なっているが、自分のために財神を修めることはない。実は財神は仏法では護法部にある。八地菩薩以上だ。なぜ護法部なのか?護法とは、敵に対処するため私達を守るのではない。仏法を学ぶ過程で、障礙を減らし、さらには消してしまうよう、私達を助けるのだ。なぜ財神法を修めるのか?それは『寶積経』で仏が、人の生命は寿命と財富の二つの元素が結びついたものである、と開示なさっているからだ。

仏は、人はどのように死ぬのか、四種の死に方があると仰せだ。財寿がなくなれば死ぬ。財寿があっても死ぬ。財があり寿がなく死ぬ。財がなく寿があり死ぬ。この四種の死に方だ。私達の財はどうやって来るのか?過去世での布施供養から来るのだ。この一生でそなたが得られる財は決まっている、多くなることはない、と言う意味だ。財神に求めたので、財神がたくさんくださる、などと言うことはない。私達のような修行人なら、それもあるが、そなた達ではあり得ない。ではなぜ法会に参加するのか?それは、この一生であまりにも多くの悪事を為したからだ。そなたは「そんなことはありません!」と言うだろう。肉を食べたことがない者は手を挙げよ。胎児の頃から菜食している、数人の弟子以外いないだろう。肉を一口食べる度に財は減るのだ。肉を食べて美味しいと感じたなら、減る量は多くなる。なぜか?財は私達の福報の一つだ。財がなければ、どうして肉を買って食べることができるだろうか?「人におごってもらったのだ」と言う人もいるだろう。だが、これもそなたの福報だ!

自分は菜食しても周りは肉を食べるので不便だと言う人もいる。リンポチェである私は便利極まりない。私は36歲から菜食しているが、どんな大人物にも会ったことがある。会食では私は菜食し、相手は肉食する。どこが不便なのだ!不便は、そなたの心が決めているのだ。そのためそなたが肉食するなら、そなたの財は減る。『地蔵経』は言う。地蔵菩薩の母は、ある一生でスッポンの卵を好んで食べていたので死後地獄に堕ちた。この一段を目にする度に私は非常に緊張する。それには二つの原因がある。第一は、地獄に堕ちるのは、こんなにも簡単なのだ、と思うからだ。第二は、「少し食べたって、どうと言うことはないだろう?」とたくさんの衆生が信じないからだ。好んで食べるのだ、少し食べるのではない。この味が好きなので、食べるのだ。好んで食べるので、地獄に堕ちると言わずとも、少なくとも必ず病気に罹る!旧暦元日にこう言うのは不吉だ。

病はどうやって来るのか?貪念から来るのだ。牛と羊は菜食じゃないか、と言う人もいる!そうだ。彼らは菜食だが、彼らには慈悲心がない。人はなぜ菜食するのか?衆生の命を傷害することが忍びないからだ。私が言った、あの金色の魚もそうだ。鳥が飛んで来て小魚を食べようとした時、この魚は水面に泳いで来て水を打ち付け鳥を追い払った。この魚には慈悲心がある。そなた達は人であるのに、慈悲心がない。毎日魚や肉を思いきり食べている。これはそなたには権勢があり、天下の美味を享受できると言うことを表している。私はあまりにも多くの美味を食べた。そのため皮膚癌に罹ったのだ。だが、私は因果を信じ、仏法を信じたので、私の皮膚癌は治ってしまった。なぜそなた達は良くならないのか。皈依弟子でも良くならない者がいる。それはやはり因果を信じず、借りを返したくないと思っているからだ。

今日財神法を修めるには、いくつかの要因がある。そなたがこの一生で為した悪業は、そなたが得られるべき財を減らしてしまう。そのため財神法を修めることで、得られるべき財をいくらから取り戻すのだ。チベット財神法は、私達中国人の財神とは異なる。中国の財神は神で、菩薩ではない。チベット財神は菩薩だ。ただ「財神」と言う呼びやすい呼称で呼んでいるだけだ。財がなければ私達は暮らしていけない。

チベット仏教では、財神は黒、白、赤、黄、緑に分けられる。黒財神は岩伝法だ。岩伝法とは何だろうか?蓮花生大士はチベットを離れる時、たくさんの法本を山洞や石や水中や樹の中に隠した。空中に隠したものもある。後に伏蔵師が修法し、これら法本を探し出した。そのためこの種の法本の加持力は極めて特殊だ。本尊御自らがお伝えくださった法だからだ。現在ではすでに伏蔵師はおられない。誰かが、あの人は伏蔵師だ、と言うなら、それは間違いなく偽物だ。なぜなら四大教派のどこにもいないからだ。黒水財神と観音菩薩とは同じ系統だ。黒水財神の頂戴、つまり上においでの上師は不動仏だ。私達が知っている四大天王と多寶天王はすべて黒水財神の眷属だ。

黒水財神はこの一生で得られるべき財富の、いくらかの部分を取り戻してくださる。なぜ取り戻してくださるのか?それは家を買ったり、住宅ローンを払ったり、好きなことをするためではない。そなたに少しでもたくさんの供養をさせるためなのだ。金がなければ供養はできない。そうだろう?黒財神法は他所ではあまり修めない。修行者は必ず閉関しなければならないし、しかも徵兆が出現するまで閉関しなければ、他人のために修めることはできないからだ。そうでなければ、この財神は来てくださらない。黒財神は忿怒相を現されておられる。忿怒相を現されておられるので、一般の修行行者には、あまり関心を払わない。なぜ関心を払ってくださらないのか?それは、黒財神は業障を消す本尊であられるからだ。

あとで私が修法する時、みな懺悔心を起こさなければならない。この一生で為した悪は、自分の財富を減少させるからだ。これは他人の事とは関係がない。これはそなたの家の事だ。この財神法を修めれば、行善布施する機会が多くなり、自分の福報を累積することができる。財神はすべての金銭を布施せよとは仰せでない。そう言う意味ではない。自分の本分内の能力の範囲で出来るだけ行うと言うことだ。普段私はこの法を修めない。そのため「商売がうまく行っていません。リンポチェ、修法をお願いします」とたくさんの人が頼みに来るが、私は絕対に修めない。私は自分もビジネスを行なっているが、自分のために財神法を修めないのに、なぜそなたのために修めなければならないのか?

これから言うことは、本来は言うべきではないが、少し言おう。この法本を非常に精進修持しようとするなら、百、千、1万、10万等の壇を完成しなければならない。壇つまり各一座だ。そうすればある徵兆を目にするだろう。ある良い円満な徵兆を目にする。これを言わない。「集合財富盈満」とは、この岩伝財神法は古魯秋旺リンポチェ(音訳)が取得され、慈悲なる第一世欽哲旺波(音訳)が祈請書き上げられた儀軌だ。この法を修めれば、二つの悉地—福と智慧が得られる。円満な悉地が得られるのだ。法本に書かれた徵兆を、修行人が目にできなければ他人のために修めることはできないと言うことだ。目にしたのか?と聞くか?もちろんだ。徵兆を目にしていなければ、どうして修める勇気があろう!目にしていないのに、そなた達のために修めたなら、私の財富をそなた達に与えるに等しい。私はこんなに貧しいのに、どうしてそなたに与えられるだろうか?当然黒水財神が助けに来られるのだ。そのため、財神法に参加するのは簡単ではないし、またそれは自分のプライベートな財のためではないと言うことを理解しなければならない。一方、私には少しの利己的な考えもある。弟子は私に供養したことがあるので、財神法を修めることで、継続して供養する金銭があることを願っているのだ。だが、これには条件がある。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始められた。

修法が一段落した後、リンポチェはみなに黒水財神へ祈求させてくださり、修法の終了後、開示を継続された。

黒水財神法を修める修法者は、四臂観音法門を修め、すでに観世音菩薩空性の慈悲心を証しなければ、この法を修めることはできない。なぜなら黒水財神は八地菩薩に属するからだ。八地菩薩は以前の仏が菩薩に転世し衆生を救いに来られたものだが、菩薩は有情衆であり、有情の覚者であるため、黒水財神が衆生を悲憫するよう、観世音菩薩空性の慈悲心を用いて調伏しなければならない。黒水財神を調伏した後、黒水財神が大悲化身し貧困を救済するよう願う。貧困に対する定義は人によって異なる。だが重点は、黒水財神法会に参加したことがありさえすれば、この一生で食に事欠くほど貧窮することは絶対にない。

しかも修法人は、そなた達が想像するような持咒だけではない。修法人は自分のたくさんの功徳を甘露水に変え、黒水財神に供養する。そうでなければ、黒水財神は願の通りに衆生を救いに来られることはない。なぜ法本の最初に皈依上師について講じているのか。それは上師がいなければこの法を修めることはできないからだ。そなた達がどんなに念咒しても願いが叶うことはない。上師は自分の福徳因縁を通して、黒水財神の慈悲心を動かし、こうして初めて衆生を救うことができる。

リンポチェは卓上の仏カードを取り上げ開示くださった。:仏カードを買い、後ろに書いてある咒語を念じるのが流行している。これが一般人の修法だが、実はこれら咒語は間違っているものが多い。この仏カード背面の咒語が間違っているように。

財神法は菩提心を主とする。修法人が菩提心を発しないなら、この法を修めても相応せず、作用を生じることもない、と言う意味だ。そのため、私は財神法を修め始めてから今まで、餓死した弟子は一人もいない。彼らの金は1銭が10万元分に使えるため餓死することはないのだ。言い換えれば、今日リンポチェが修めてくれたので金持ちになれる、と言うことではない。先ほどすでに開示した。今日の修法は、本来そなた達に属する財富をいくらか取り戻すのだ。第二に、本来そなたの福はすでに使い終えられており、財富もないが、そなたにいくらか財富を与え暮らせるようにし、貧困により死ぬことがないようにするのだ。貧困による死も一種の苦難だ。なぜ貧窮するのか?生生世世で供養布施していないからだ。供養布施した後に後悔する。これらも貧窮の原因だ。なぜ、食に事欠くほど貧乏だった時が私にとって最も楽しい時だったのか?それは過去世で布施しなかった悪因が、解決されてしまったからだ。だが、そなた達は住宅ローンやクレジットカードの支払いの金がないと心配し、これもあれも心配する。私は心配したことがない。私が貧窮したことがないなら、そなた達がどうだと言う資格はない。ここにいる諸氏で食事する金もないほどの貧乏をしたことがある者はいない。それなのになぜ一日中、自分は金がないと言うのか?「ああ!金がない!節約しなくちゃ!」と自分を呪っているのだ。

例えば、家族が学仏に反対している者もいる。そなたのすべての金が私のところに来てしまうのではないかと恐れているからだ。そんなことがあるか?家がある者は家があり、車がある者は車があり、貯金がある者は貯金がある。当然この種の条件を満たしていないものもいる。だがほとんどはある。持っているもの全てが私のところに来るか?そんなことはない!黄と言う姓の弟子の命は私が救ってやったが、彼はすべての金を私にくれたか?そんなことない!大部分は残している。妻が自分を養ってくれないのではないかと心配しているからだ。上師は哀れなのだ。なぜ釈迦牟尼仏は、修行人は乞食だと言ったのか。そなた達が残したものを拾うからだ。リンポチェはもちろん過去世で福報を修めているので、非常に自然に財富が出現する。だが、やはり非常に努力しなければならない。簡単に何もせずに得られるのでも、拾ってくるのでもない。

みなの財富に対する考えは、「財富とは私達の、この色身を養うものだ」だろう。だがそれは、節約すれば財富は増える、と言うことにはならない。現在銀行利息は1%足らずだ。どうして多くなるだろう?インフレに全く追いつかない!「金を全部リンポチェにあげるのか?」と言う人もいる。私はこのように言ったことはない。私を中傷しないでもらいたい!私の修行方法はそなた達とは違うと言うだけだ。食に事欠くほど貧乏だった時も、私は仏菩薩に花、香を供えた。当時私は仏菩薩に「自分は餓死してしまいそうだ、先ず私をお腹いっぱいにしてください、残ったものを仏に供養します」と言うこともできた。だが私はそうしなかった。そなた達にはできないだろう。

これは盲信だと言う人もいるだろう。私は盲信しているのではない。私は因果を信じているのだ。華人が暮らす地域で台湾にだけ「先ずは腹を満たしてから仏祖を顧みる」と言う言い方がある。台湾に来てこの言葉を聞き、面白いと思った。どこにこんなに利己的な人がおろうか?何かあれば仏に救いを求める。救われたら先ずは自分を顧みる。仏はそなたに面倒をみてもらう必要があるのか?この言葉はそなた達のこの種の利己的な心持ちを表している。この種の心持ちは、たくさんの煩悩を引き起こす。

旧正月の前に台湾ではたくさんの殺業があった。人が人を殺すのは非常に恐ろしい。2019年は表面的には良さそうだが、内部では目に見えないものがたくさん蠢いている。今年心をすべて善に向けないなら、たくさんの煩悩を抱え込むことになるだろう。自分が多めに取ろうと考えるなら、問題はすぐに発生する。今年は順調な一年ではない。「リンポチェ、あなたは每年私達を脅している」と言う人がいる。私はそなた達を脅してはいない。この世界の全ての人の心がこんなにも貪欲なのだ。今年一心向善し、努力して自分を改めるなら、禍が発生しても軽くすむだろう。

「信じてもいいが、盲信してはいけない。お金が全部消えてしまう」と諌める家族もいる。おかしな話だ。誰もがこれを心配している。だからこそ、アキ護法が私を派遣なさったのだ。そなた達は食べられないほどに貧窮したことはない。私はある!私を言い負かせる人はいない。なぜなら私には経験があるからだ。私はかつて夏に電気代を払えなかったことがあり、扇風機をつけられなかったが、普通に大礼拝を行なっていた。そなた達はクーラーが効いている中で拝んでいる。クーラーがなければ拝めない。汗をかいても拝めない。そなた達の言い訳は山ほどある。そのため、そなた達はどんなに修めたところで、この程度なのだ。

今日はみなのために黒水財神を修めた。そなた達は過去一年道場に供養し、私本人に供養し、寺に供養したので、今年も供養する能力が継続することを希望する。昨年供養しようとしなかった者、供養しなかった者は、今年もそのままだ。なぜリンポチェは罰として私に供養させないのか?とそなた達は必ず言うだろう。そなたの金は、私は受け取りたくない。そなたは一日中死ぬだの生きるだのと言っている。どうして受け取れるだろうか?供養を禁じる、とはどういう意味だろうか?つまり善事を許さないと言うことだ。そのため、その時になったら寺に供養しようと言う者に、今来ても私は供養させない。私は外界のものに影響されないのだ。私は一度言ったことを引っ込めない。私は事を為すにゆっくり待ち、しっかり見極め、しっかり納得し、「ああ!私達のこの種の小額の金は必要ない」私と言う人間はこうなのだ。非常に頑固なのだ。善事を許さない。仏教のだ。

漢方医である弟子に対して、私は言うことを聞かないとずっと言ってきた。そして善事を許していない。私に薬を出させていない。私が薬を飲むのは、私の金を使うのだ。薬代は私が払うのだ。上師に伺候する機会だけは与えている。この人は吝嗇なこと甚だしい。今でもやはり言うことを聞かない。私はちょっと遊んでみた。70歳代の翁と漢方医が遊んでみたのだ。一年後、漢方医は私の身体が昨年より健康になっていると証明した。私と争わないことだ。頼むから、私と争わないでもらいたい。そなた達がどんな手を出したところで、私には敵わない。中国最大のテレビ局が出演を依頼してきたが、私は断った。私と言う人はどんな人だ?変人だ。非人でもある。そのため、そなた達が人類の方法で私を考えても、私を理解することはできない。私は72歲まで生きたのだ。簡単なことではない。そのため昨年私は自分に新しい号「苦主」を封じた。すべての苦が私の身の上に集中しているからだ。そして、苦とは処理でき、変えられるのだとそなた達に見せている。なぜそなた達には変えられないのか?数十年経っても病を癒せない?それは言いつけに従わないからだ!自分が善人であれば、それでいい、と思っている。善人とは、仏法での定義は非常に深奧だ。今日は説明する時間はない。

どうであろうと、旧暦正月一日にそなた達のために『三十五仏懺』を修めた。皈依しても良い、皈依しなくとも良い。そなたと三十五仏とは結縁した。『三十五仏懺』の修法は簡単に見えるだろう。そなた達は拝む。だが私達はたくさんの準備をしなければならない。壇城はすべて違う。各仏にはその仏の供養があるからだ。黒水財神を修める時、私が水を注ぐのをそなたは目にする。だがそうではない。それは、私の福報を取り出して黒水財神に供養するのだ。喜んで頂かなければ、助けてくださることはない。そなた達が考えているように、水を注ぐ、と言うのではない。そなたが注いでみるが良い。蓄水池の水をすべて注いだところで役には立たない、効果はない。たくさんの観想があるのだ。すべて密法だ。無上瑜伽部に至ってはいないが、すでに瑜伽部には至っている。リンポチェ、なぜ財神法を伝えないのですか?とたくさんの人が問う。そなた達にはこの法を修める勇気がなく、しっかり修める慈悲心がなく、発する菩提心がない。それではこの法は修められない。なぜなら財神は八地菩薩だからだ。八地菩薩はなおいくらか人の思想がある。そのため、この人がメチャクチャ言うと思えば、構ってはくださらない。

今日は旧暦正月一日だ。自分の過去一年を振り返ってみよ。私だって偉そうなことは言えない。だが少なくとも、仏法に対する自分の理解はどれほどか、自分を見つめてみよ。自分は恭敬で虔誠なので、修められたのだ、念じられたのだ、とこんなに思い上がっていてはいけない。これらすべてはそなたの自分に対する期待が高すぎるのだ。学仏人は謙虚でなければ学べない。謙虚とはどう言う意味だろうか?自分は他人に敵わない。私は他人より劣る。こう言うことではない。謙虚でなければ、心は空でない。空でなければ、たくさんのものを見ることはできない、と言うことだ。空とはどういう意味だろうか?不要な思想、あくせくしたすべての念頭がなくなる。無くなった後でなければ、はっきりと見ることはできない。はっきりと見えなければ、過ちを免れることはない。過たないなら、問題も起きない。なぜそなた達ははっきり見られないのか?それは、心の中が利己的な考えでいっぱいだからだ。自分は正しい、私は迴向した、自分はすべて正しい、という自分の考えでいっぱいだからだ。

先ほど私達は『三十五仏懺』拝んだが、どうやって迴向するのか?全て迴向する。少しも残さない。誰かに迴向するのではない。夫、妻、子供に迴向するのではない。私を真似しない限りはそうだ。私はリンポチェだ。少しのものを移動させるいくらかの資格はある。そなたはリンポチェではないので、おとなしく言うことを聞くのだ。どんなことを聞くのか?リンポチェが教える仏法はすべて聞かなければならない。自分の方法を用いてはならない。仏法がこの世間に存在しさえすれば、私達人類は救われる。仏法が存在しなくなれば、人類は救われない。現在の人類には貪嗔痴が充満している。みな争っている。貪婪な心はこの世界を消滅させてしまうだろう。


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2019 年 04 月 07 日 更新