尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年2月5日

午後二時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、殊勝なる長寿仏法会を主法なされ、続いて大象財神法を主法なされた。

午後は長寿仏を修める。この法本は瑪吉珠貝杰摩仏母がお伝えくださった長寿仏儀軌だ。顕教には長寿仏を修めるこの法はない。チベット密教だけが修める。長寿仏は阿彌陀仏の報身仏だ。何を報身と言うのか理解していない人が多い。何を法身と言うのか?何を化身と言うのか?衆生一人一人の根器は違い、福報も違い、因縁も違うため、一切の仏は化報法三身を有する。衆生の因縁、その福報、その根器に応じて、それを助ける一種の方法を顕現するのだ。なぜこの種の分別があるのか?簡単に言えば、小学生に、大学教授を探してきて授業をさせることはあり得ないだろう。普通は小学校の教師を探す。大学生に、博士課程の教授を探してきて授業をさせることも有り得ない。厳密に言えば、自分自身の根器と関係があるのだ。仏菩薩はそなたの根器に応じて、違った身で救いに来てくださるのだ。

化身仏菩薩は通常はこの一生で念仏し、拝仏し、学仏し、しかも恭敬心があり、皈依している人を救う。仏菩薩は化身で救いに来てくださる。例えば一切の上師は諸仏菩薩の化身だ。一切の経典も仏菩薩の化身だ。仏像も、そう言うことができる。報身仏菩薩はすでに菩薩戒を受け、菩薩道を修める行者を救う。法身、つまり仏果を証するまでは、法身仏が接引に来てくださる。そのため、仏菩薩を目にした人は、つまり生きて鬼を見たのと同じだとしばしば言う。なぜなら何らかの果位を修めるまでは、仏菩薩を目にすることなど有り得ないからだ。仏菩薩はすべて清浄であられる。清浄とは、つまり一切の妄念、煩悩がないことだ。心の中が妄念煩悩でいっぱいなら、仏菩薩の心とは相応せず、相応しないなら当然あり得ない。

今日この報身仏を修める観念はどこにあるのか?阿彌陀仏は慈悲深くいらっしゃるので、衆生が生生世世に悪業を為し、この一生で自分の寿命を損耗してしまい、因縁、時間が十分でなく、この一生で仏法を学習し、浄土に生まれられないことを心配しておられるのだ。そのためこの長寿仏を修める。この後の修法では、長寿仏が何を助けてくださるのかを説明する。

私達の寿命はどうやって来るのか?過去の生生世世で、かつて不殺生で、さらには護生-他の生命を保護し、行善したので、この一生で累積し寿命が得られるのだ。この一生の寿命は増やせるし減らすこともできる。私の修行経験から見れば、すべての一切の衆生の福報で、最も容易に変動するのは寿命だ。自分は80歲まで生きられると思っている人が多いが、そうとは限らない。耳たぶが非常に大きくて厚くて長い、長寿の相をしており、少なくとも80歲までは生きられそうな人が、五十幾つで無くなっているのをたくさん見て来た。非常に短命のように見えるが、七、八十歲でも健在な人もいる。私の相はこんなに長命なはずはない。だが72歲でも健在だ。それは私が苦主を任じているからだ。この寿を足したり引いたりするのはすべて自分の行為による。心の中の貪念、嗔念、因果不信の念頭が減り、さらには無くなってしまえば、過去世で累積した福報の寿は自然に減らず、しかもさらに増加する。さらにはこの一生で菩提心を発し、菩提願を発し、衆生を広く済度させ、衆生に利益するなら、そなたの寿は増加する。

例えば2007年私はネパールの雪山で閉関した。6月のある日の深夜、自分の心臓が止まり、呼吸が止まったのを、はっきりと感じた。だが普段から仏法を修行しているので仏法薰陶を用い、恐怖心は湧かず、この世界に貪戀する心も起きなかった。その時、アキ護法が出現なさった。この話を私は何度も言っているが、今日は旧暦の正月一日なので、もう一度言おう。私はアキ護法に「私がこの世間の衆生に対してなお有用なら、お残しください。無用なら、お連れください」と簡単に言った。アキ護法は私に甘露丸をくださり、そうして目醒め、今まで生きている。以前私の運命を占った人はみな、46、47歲までしか占わず、その後には山のようにたくさんのことを書いていた。今日72歲まで生きられたのは、私の運が良いからではなく、たくさんの善事を為したからだともとても言えない。36歲で仏門に皈依した後、一切の思想、言葉で仏法を準則としてきた。英語ではguidelineと言う。つまり指導の方向だ。そのため、自分の寿を延長できたのだ。延長と言っても楽に日々を暮らすのではない。どれだけの衆生を済度させると言うのでもない。教派には処理すべきことがたくさんあるので、私のこの一生でそれらを成熟させ円満とさせるのだろう。また、たくさんの修行の法門を、私はこの一生で修行し、衆生を救うのだろう。

今日はみなのために長寿仏を修める。長寿仏の加持を通して、そなた達が損耗した寿命が戻ってくることを願う。戻ってくると言っても、どこかから持ってくるのではなく、もともとそなたのものであった寿を補うのだ。この一生で肉を食べたことがあるなら、寿命は減少する。他人を嗔恨したことがあっても、寿命は減少する。この一生で行悪し殺生したことがあっても、寿命は減少する。長寿仏を修める最も重要な点は、非時の死を避けることなのだ。非時の死とは、事故による死だ。上師と本尊に十分な信心があり、今日この法会に参加すれば、この一生で非時の死の機会はほとんどなくなるだろう。だが、殺生、肉食、行悪を継続するなら、当然どうしようもない。

旧暦正月の一日にみなのために長寿仏を修める。寿命が戻ってきたなら、身体も自然に健康を取り戻すだろう。健康を取り戻せない人もいる。それは仕方がない。それは私には関係ないし、仏には関係ない。そなたの事だ。「これは言い訳だろう!」と必ず言う人がいるだろう。言い訳をしているのではない。改めず、懺悔の心もないからなのだ。以前私が癌に罹った時、私は全く悲しまず、苦しみもしなかったし、自分が死んでしまうのではないかと心配せず、癌になったことを法王に言ったりもしなかった。また、毎日修法して私の癌細胞に迴向したりもせず、癌細胞を私と平和に共生させた。つまり普通に日常生活を送ったのだ。そのため癌はなくなってしまった。たくさんの人が私を羨み「どうしてできたのか?私にはできない」と言う。私を羨んではならない。私は苦主だからできたのだ。そなた達は苦主になどなれない。つまり無理なのだ。そなた達は苦がなくなることだけを願っている。苦を受けたくない。それなら、そなたに害され苦しんでいる衆生はどこへ取り返しに行けばいいのだ?苦主を甘んじて任じれば、自然にたくさんの事が転じる。今日みなのために修める長寿仏は、岩伝法に属し密法に属する。一般の上師、一般の出家人が修められるものではない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる長寿仏儀軌を修持始められ、続いて出家者弟子は衆生を代表し、リンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを献上する請法を行った。リンポチェは次の如く開示くださった。

この段で修め始めるのは、上師が先ず自分のために修め、また弟子のために修めることもできる。つまり私達の血、肉、体温、気、神識等だ。私達の寿は損失、散、破、湾、裂、搖破を受け、さらに魔鬼に奪われ、盗まれる。寿はどうして損、散、破、湾、裂するのか?このすべては、そなたが悪事を行ったからだ。悪事は絕対に貪嗔痴慢疑から離れない。この種の事情が生じた人の寿は、絕対に散し破し湾し裂し搖破する。通常の徵兆は、訳も分からず病になり、気分が落ち込み、誰を見ても気に食わないと思う。

魔鬼に盗まれ、奪われる。それはどうやって来るのか?一日中神明、魔鬼、祖先にどうしてくれと祈っていれば、特にどこかの廟や画符の類に祈っていればそうだ。それは、何かを彼らと交換するからだ。通常はそなたの寿を盗み、奪う。そのため一切の諸仏菩薩上師本尊空行護法に私達六道衆生の寿、福、財、命、身、権、気の加持を求め、一切の力の精髄を寿物の中に溶け込ませる。あとで加持しよう。

仏法では、衆生の身体は地風水火空が結合したものだと言う。「地」は私達すべての骨と肉、「水」は血、内分泌、水等を含む身体の中のすべての液体。「火」はエネルギー。「風」は気。「空」には二つの解釈がある。一つの解釈は、仏法を理解している人ならみな知っているだろう。身体の一切のものはすべて縁起縁空の事情だ。縁が起きればこの身体が生まれ、縁が尽きればこの身体は無くなってしまう。もう一つの空の解釈は、私達修行人は、身体はただの元素の結合に過ぎないと理解している。元素の結合が集まって私達の身体が生まれるのだ。

簡単に言えば、本来この身体は空なのだ。そのため、多方面の科学は非常に説明が難しい。医学もそうだ。第一は「風」がどうやって来るのか説明できない。「気」は私達人体の活動だ。人の気はどうやって来るのか?西洋医として主任を数十年勤めている弟子が「西洋医にとっては、人の気は呼吸と血液内に溶け込んでいる酸素、二酸化炭素です。先ほどリンポチェが言われた風と気については、私は分かりません」と報告した。リンポチェはさらに「人にはなぜ気があるのか?」とお訊ねになった。西洋医である弟子は「それは呼吸するからです。外の空気を鼻に吸い込むのです」とお答え申し上げた。リンポチェは「空気を吸い込む。なぜ空気は体内で動くのか?」とお訊ねになった。「西洋医学ではこれについては言いません」とお答え申し上げた。リンポチェは「気がなければ、血液は動くのか?」とお訊ねになった。「血液が動くのは、西洋医学においては心臓が拍動する時に圧迫されるから、と説明されます」とお答え申し上げた。リンポチェは「そうだろう。心臓は何を用いて動かすのか?」とお訊ねになった。「心臓には小さな循環、つまり冠状動脈循環があります。血液は心臓を動かします」お答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった。「そうだろう。何が心臓を動かすのか。そなたは答えられない。何が血液を動かすのか?そなた達の理論では心臓が動かす。では現在心臓を用いず機器を用いるが、血液は同様に動く。つまり医学と科学にはたくさんの矛盾があるのだ。私達は、自分に気があると知っている。息をを止めても、気はやはり動いている。さらに言おう。今日気がないなら、大小便の排泄さえできない。そうだろう?西洋医学では、呼吸で空気が入ってくるのでこの気が生じると言う。この気は外から入ってくるもので、内部のものではないと言うことだ。そうだな?内部のものではないなら、外から身体に入ってくるものなら、どうして身体を動かせるのだ?生まれる前は母の体内で、へその緒を通して栄養を得ている。医者であれば知っているだろう。胎児は鼻呼吸ではない。そうだろう?」西洋医である弟子は「臍帯血が胎児に栄養を与えます」とお答え申し上げた。

リンポチェは「そうだ。ではこの血が入ると空気はあるのか?母親の身体の中は真空だ。空気はないはずではないか!」と開示くださった。西洋医である弟子は「西洋医学では、血球内と外の空気が交換されると言います」とお答え申し上げた。「血液は細胞だ。なぜ空気と交換することを理解しているのか?」とお訊ねになると、「知りません」と答えた。漢方医である弟子は「「漢方医学では、気の概念を、すべての生命の一切の現象の顕現をすべて気と呼びます。そのため気は私達の血を動かせるのです」と説明申し上げた。リンポチェは「では気はどうやって来るのか?」とお訊ねになると、漢方医である弟子は「漢方医学の理論では、先天の精父母が与えると言います。さらに、後天の脾胃が生じる津液です。津が気に変化します」とお答え申し上げた。リンポチェは「そなた達の理論によれば、この気は絕対に生命体から出現した気ではない。すべては外から与えられたのだ。外から与えられたのであれば、私達は必ず外から気を与え続けられるはずだ。彼らのロジックに基づき推論すれば、死に直面して事切れそう(断気しそう)であっても、外から気を与えれば息を吹き返すはずだ!なぜ死ぬ(断気する)のか?」と開示くださった。漢方医である弟子は「漢方医学の見方では、いわゆる断気とは、五臓六腑そのものの機能の衰えで、最後には死に向かうのです」とお答え申し上げた。

リンポチェは「五臓の衰えと気とは無関係だ!そなた達の理論によれば、気は外から与えられるものだ。この気はやはり血管内で行ったり来たりしている。なぜ私達は動気といい、動血液と言わないのか?私達は気を生じるというが、血液を生じると言うか?言わない。そのため道教では気を見るのだ。漢方医学も西洋医学も現象からこの気の存在を見るが、道教ではすでに気があると見ている。気は無形無体のものだ。漢方医学、西洋医学の理論によれば、私達は呼吸し酸素が入るため心臓が動き、血が動く。それなら絶えず気を送り込み続ければそれでいいはずだ。タイヤにひたすら空気を入れ続けるように。なぜ絶えず気を送り込み続けても、やはり死んでしまうのか?おかしい。漢方薬の薬材の中には気を増強できるものがたくさんあるのではないか?なぜ漢方薬を飲んでも、やはり死んで気がなくなるのだ?」と開示くださった。漢方医は「漢方医の立場からすれば、この人本来の内臓の機能がすでにこれら薬物が提供するこれらを吸収できなくなっているのではないかと⋯⋯」とお答え申し上げた。

リンポチェは「つまり、そなたはやはりこの気がどうして発生するかを説明できない?なぜ存在するのか?なぜ消失するのか?『血』は人をさよならさせる。そなた達は機器を通して見ることができる。『肉』も人をさよならさせる。『気』は無理だ。さらにエネルギーについて言おう。私達は火大と言う。地風水火の火だ。みな知っておろう。人は死ねばすぐに冷たくなる。これも奇妙だ。血は身体の中にまだ残っているし、栄養だってまだある。使い切ってはいない。漢方医学、西洋医学の理論によれば、食物を食べ、食物がエネルギーに変わり、エネルギーが熱を生じる。道理によれば、人が死ねばすぐに冷たくなるなどあり得ないはずではないか?火はどこへ行ったのか?旧暦正月一日に西洋医と漢方医の試験だ!」と開示くださった。漢方医である弟子は「漢方医学の見方からすれば、この火はいかなるバイタルサインもないので、外顕の現象が見られず、そのため私達は⋯⋯」とお答え申し上げた。リンポチェは「なぜ火は消えるのか?」とお訊ねになった。西洋医である弟子は嘆息して「ああ、西洋医学の理論では⋯⋯」とお答え申し上げた。リンポチェは「旧暦正月一日に嘆息するな。良いか?」と仰せになり、「車の動力のように、電気がオフになると動かなくなります。この気泡も、供給の機能がなくなるため⋯⋯」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった。私がひたすら訊ねている問題は、なぜ気と火は突然消えてしまうのか?と言うことだ。漢方医学の理論では、器官がダメになったので、火と気がなくなる、と言う。それなら、私達は器官に対し、器官をずっと運行させれば、火と気は生じるのではないか?西洋医学の理論では、エネルギーと気は突然なくなる。そのためいわゆる現代の医学、科学は、表面の理論だけで、私達に答えを出してくれているようだが、実は答えになっていないのだ。

仏法では非常に明確に講じている。人の産生元素は地風水火だ。地風水火とは、私達自身の福報だ。どれだけの地風水火の精華を身体の中に吸収できるかだ。なぜ私は一年間漢方薬を飲まなかったのに、どんどん健康になっているのか?それは密法では、虚空内の地風水火の精華をひたすら絶えず吸收できるからだ。どうやって吸収するのか?鼻から吸うのではないし、機械を用いるのでもない。どうするのか?教えない。なぜならこれは密法だからだ。実はこの種の元素は虚空内に存在しており、誰かのものではない。自分の身体全体を修煉し虚空のすべての元素と同じにできれば、この地風水火を好きなように用い、好きなように支配できる。多くと思えば多く、少なくと思えば少なく、要らないなら要らない。漢方医が言ったように臓器が衰弱し火と気がなくなるのではなく、西洋医が言ったようなのでもない。簡単に言えば、地風水火とは私達寿命の根本元素だ。地風水火は私達が投胎した時にすでにある。地風水火はこの一生で使い切ってしまえば、もうない。そのため「水」は、男も女も父親からの精と母親からの血を有する。血と精は私達の色身を維持でき、この「地(骨と肉)」を生み出す。火と水はすべて私達が投胎した時に、私達の業力に着いて来る。着いて来た後、火と水の元素は私達の身体の中に留まり、私達の身体活動を推進する。水火の寿を使い切ってしまえば、この水も無くなってしまう。

簡単に言えば、なぜ人は老い、顔のシワがどんどん多くなり、臓器が衰えるのか?それは、水大がひたすら減少するからだ。水大はどこから来るのか?父親の精、母親の血だ。精と血がひたすら減少した後、そなたの生命は無くなり始める。どんな薬を飲もうが、どんな方法で補おうが、この精と血はゆっくりになり減っていく。増やそうとしても、増やすことはできない。そのため仏法密法の救いを通して、虚空内の地風水火と諸仏菩薩の地風水火の精華をそなた達に加持し、少しは補うのだ。上師に対して不恭敬で、不信であるなら、どれだけ修法しても役には立たない。なぜなら上師は自分が修めて得たものを、分け与えるので、信じないのであれば、ないのだ。なぜないのか?戻ってくるからだ。私が取り戻すのだ。そのため私は苦主だという、その道理がこれだ。誰もが念咒すれば得られると思っているが、そうではない。私はこれまでこんなにたくさん修めた。これにより自分はこの種の条件を具備しこの法を修める。これまでこれを修めていなかったなら不可能だ。諸仏菩薩の自分に対する加持が必要だからだ。これらを一切の衆生に与える。

なぜ法本では、上師のそなたに対する恩徳は、父母のものより重要だというのか?それは、父母はそなたの生命を再生させることはできないからだ。上師は仏菩薩の加持と護法の支持を通して、新しい生命を作りだすことができる。新しい生命とは、健康を恢復し、若返るということではない。だが、未来の新しい生命を作りだすことができる。これは一般人ができることではない。世間の種々の学問ができることでもない。「あれこれ念じ、あれこれやっているが、どうして分かるのか?」と言う人がいるだろう。簡単に言えば、私は一年間漢方薬を飲まなかったのに、身体は一昨年より健康になった。そうではないか?漢方医である弟子は「リンポチェの気脈全体は一年前よりより調子が良く旺盛です。リンポチェは漢方薬を飲まなかったのに、身体は反対に健康になったと証明できます」と言った。先ほどそなたは、気血は外から補充できると言った。私は漢方薬を飲まなかったし補充もしなかった。なぜ気は旺盛となり、血は多くなったのか?西洋医である弟子は「分かりません。説明できません」とお答え申し上げた。なぜ一年漢方医に掛からなかったのか?漢方薬が良くないからではない。私が仕入れている漢方薬は最良のものだ。医者と衆生に証明したかったからだ。医者は私達の病を癒す。だが医者は私達の何かを増やすことはできない。私はそなた達が医者に掛かるのを阻止したりしない。私はクリニックを持っている。病を得たなら、必ず医者に掛かるように。だが増やしたいなら、本当にそうしたいなら、修行からだ。治療はそなたの病因を減らし遅くし、発展を遅くする。これによって、仏法を受け入れる機会ができるのだ。

今日講じるすべては真に存在しているものだ。私は、仏法が私の身の上に応験していないなら学ばなくとも良いとしばしば言う。私と言うこの人は悪戯好きだ。私は一年と漢方医と争った。一ヶ月では何も証明できない。一年ならできるだろう?特に72歲になった後、72歲の身体が71歲の身体より健康なのだ。何を証明したのか?仏法が私を支持し、仏法が私を救っていることを証明した。私が歩んでいる路、私が修めている方法が正しいことをいくらか証明した。私は寿を求めていないし、何かを求めてもいない。このように日々を暮らしているだけだ。長寿仏もほとんど修めない。ただ法王がご病気となれば、長寿仏を修める。そなた達に何かあれば、そなた達のために長寿仏を修める。私自身のためには長寿仏を修めない。自然に諸仏菩薩は私に加持くださる。誰もが上師に対する心構えが正しくないので、加持力が違うのだ。そのためなぜ私はしばしば言う。千人余りが法会に参加するが、得られるものは一人一人異なる。私に分別心があるのではない。私には絕対にない。仏菩薩にも絶対にない!それは、そなた達が分別するのだ。そなた達が選択するのだ。選択すれば事情は違ってくる。先ほど修めたのは、先に自分を堅固にした後でなければ、みなのために修められないからだ。この一段はやはり私自身が修める。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられた。修法過程で薈供と供茶の儀軌を行い、参会者は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供品を一人一つずつ頂戴し、法会において上師、仏菩薩と共食する有難い殊勝なる因縁を得られた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、背筋を伸ばして座るよう参会者に指示なさった。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられた。続いて信衆と弟子に、順番に壇城へ至り合掌して頂礼し加持を受けるよう指示なさり、貴重な寿丸寿酒を参会者に下された。リンチェンドルジェ・リンポチェは千四百人余りの参会者に加持くださった。その過程では、リンポチェは絶えず鈴を振り長寿仏心咒を唱え、同時に視線で衆生を一人一人加持くださった。また高齢者や病に苦しんでいる者には、自ら壇城で頂礼する機会をくださり、慈悲なる眼差しは深広無辺で、一切の有情を庇護くださった。参会者はみな心から感激し、恭敬合掌して殊勝なる加持をお受け申し上げた。

リンポチェはは開示くださった。︰長寿仏加持を受けた後は一日中怒っていてはならない。怒りはそなたの意を損耗するからだ。人はなぜ精神を病むのか?それは意、身口意の「意」が損耗するからだ。少しずつ心が病になる。怒り続け、上師に怒り続けるなら、仏法は正しいと努力して証明しよう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは全く休息を取らず、苦労を厭わず大象財神の法門を続けて修持し、この法の殊勝さについて開示くださった。

修めたのは白マハーカーラだ。ヒンズー教でも大象財神を拝むが、密教では違った解釈をする。大象財神の根拠には説がある。大象財神は、前の一世では非常に裕福な王子だった。熱心に布施をし、どんな人だろうと、求めれば与え、相手が金をどんなことに使うかを聞かなかった。そのため王子は知らず知らずのうちに、たくさんの悪人の悪事を助けていたのだ。マハーカーラ(大黒天護法)はそれを見て、これでは王子に対して良くないし、衆生にとっても良くないと考えた。そのためマハーカーラは王子のこの一生を終わらせてしまった。終わった後、この王子はやはり大福報があり、やはりたくさんの衆生に利益できるため、王子の頭を象の頭に変えた。象には尽きせぬ力がある。つまり、この大象財神は絶えず衆生に利益できるのだ。だが、仏法を依拠としなければ布施供養はできないし、求めれば応じてくれると言うのでもない。経典では、お人好しは地獄に堕ちると言うからだ。しっかり聞かないで、布施を用いて何をするのかをはっきりさせないなら、布施したとしても事が起きると言うことだ。例えば、菜食でないレストランを開くための資金を貸す、人工妊娠中絶するクリニックを開くための資金を貸す。これらは全て悪業だ。ある弟子は以前養殖業に投資し、ロースト店に投資した。これらは全て悪業だ。そのため、布施供養をはっきりさせるのは非常に重要なのだ。

白マハーカーラは観世音菩薩の護法だ。マハーカーラには黒色の大黒天と白マハーカーラがある。大象財神は白マハーカーラの眷属だ。そのため観音法門をよく修めていなければ、この財神法を修めることはできない。結局は慈悲こそが一切だ。慈悲心を修められていなければ、仏法と相応することはできない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる大象財神儀軌を修持始められ、更に開示くださった。

この法本は私達直貢噶舉の大成就者であられるヨンガリンポチェが私にお伝えくださった法だ。ヨンガリンポチェはすでにこの世間を離れておられる。この一生で、晚年になっても、修行の山洞を離れなかった。チベットのヒマラヤとインドの境界にある地方で修行されていた。私は前後三度お会いした。晚年には誰にもお会いにならず、しかもリンポチェに会えたとしても普通は叱責された。叱らずにはいられないようだった。私は唯一叱られなかったものだ。しかも私とはとても長くお話しくださったし、特別に秘密の法本もお伝えくださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも参会者を大象財神に祈求させてくださった。

大象財神を修めた後は、今日言ったように、私達の道場には食に事欠き餓死する弟子はいない。聞いたことがない。每年旧暦正月一日に必ず修法するからだ。特に大象財神の修法は特別に高価だ。沈香を焚いて供養しなければならないからだ。今年はいくらだ?「50万元です」と答えがあった。この一つまみで50万元か?寶吉祥道場は非常に気前がいい。他の道場ではこの法は修められない。そなた達は図々しく大象財神に祈求しても良い。50万元はすべてそなた達弟子が出した金だからだ。なぜ沈香を用いるのか?それは法本に書いてあるからだ。私にもどうしようもない。なぜ50万元も使うのか?私が決めた価格ではない。近頃沈香はますます値上がりしている。本当の沈香はほとんど買えなくなっている。あと十数年もしたら、沈香が手に入らなくなってしまい、この法を修めようとしてもできなくなってしまうかもしれない。末法時代はたくさんの法が徐々に修められなくなる。上師が修めようとしないのではなく、衆生の業力で、たくさんの珍宝、良いものがなくなってしまうからだ。現在沈香を買うのは投資のためだ。金儲けをするのだ。仏に供え、本尊に供養するのではなく、金儲けのためだ。そのため相場がどんどん上がっている。仕方がないことだ。

これも、大象財神の法が非常に得難いと言うことを示している。特別な因縁がないなら、ヨンガリンポチェはこの法を私に伝えてはくださらなかっただろう。台湾の衆生はみな金儲けをしたがっているとご存知だったのだ。チベットの衆生はみな寿命を求める。台湾の衆生は金を求め、金がなければどうしようもないと思っている。そなた達を満足させるために、大象財神の法を私に伝えてくださったのだ。今年の旧暦正月一日は午前中に二つの法を修め、午後にも二つの法を修める。これでそなた達にも申し訳が立つだろう。(参会者は声を揃えてリンポチェに感謝した!)感謝は要らない。これ以上感謝するなら、私はまた苦主になってしまう。一年の最後にそなた達のために必ず何かの法を修めてやろう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いて、アキ護法及び迴向儀軌を修持なされた後、開示くださった。

ここで言う「大象財神はかつて観世音菩薩が済度させた」とは、大象財神は本来、天から降りてきて生まれたからだ。言い換えれば、観音法門、慈悲法は修められない。そなたがどんな法を修めても全て役には立たない。慈悲と学問は無関係で、知識とも無関係で、善人とも無関係で、倫理とも無関係だ。「慈」とは自身の良いものを衆生の苦と交換することだ。そのため私は苦主なのだ。「悲」とは、衆生を輪迴の苦海から仏土へと送る能力があると言うことで、これが真の慈悲だ。慈悲は、さらに空性が必要だ。何を空性と言うのか?因縁法を理解し、縁起性空の道理を知らなければ、慈悲を自在に運用することはできない。

「大象財神発願遵守教誡」とはどういう意味だろうか?観世音菩薩が伝えられた一切の法門、一切の戒律を遵守するということだ。観世音菩薩は衆生を普度なさる。普度とは求める者には全て与えるということではない。「普」とは、分別心がなく、宗教、人種、言語、学問、権勢、地位、男女、六道の別がない、という意味だ。縁があり観音菩薩に求められ、しかも如法であれば、必ず助けてくださる、という意味だ。そのための「普」であり、普遍でも普通でもない。しかも、蓮師-蓮花生大士の前で一切の利生事業を行うと発願しておられるので、衆生が貧窮していてもお救いくださるのだ。大黒天護法の眷属で、ヒンズー教でも大象財神を供奉する。財神法はインドにはもともと三つの伝承があった。今日修めるのはその内の一つの伝承だ。つまり、今日修めた長寿仏は一切の地風水火の欠を補うが、当然補足ではない。なぜ補足できないのか?それはそなた達が利益衆生を行うのではないからだ。そのためいくらか補い、いくらか健康にし、念仏拝仏を続けられるようにするだけなのだ。

先ほどみなに赤い団子、甘露を配った。これはなんだ?と思っているだろう。本来は言わないつもりだったが、今日は少し言おう。白は白明点を表す。つまりそなた達が言うところの精だ。赤い団子は赤い血の精華を表す。これはどうやって来たのか?それは上師が本尊を感動させ、本尊が上師に加持し、上師から出てきたのだ。つまり上師とは一般の人がなれるものではないのだ。冗談じゃない。血と精を出すのだ。出せば出すほどカラッカラッに乾燥してしまうはずだ。私は一日中修法している。顔面がシワクチャになるはずだ。そなた達は私を食べ、私を飲み、それでもなお言いつけに従わず、文句を言っている。こんなに小さな団子を一個とちょっと飲んだだけで、何かあるのか?とそなた達は必ず言うだろう。もちろんある。父親と母親に与えられた時はほんの少しだったのに、こんなにも大きな一人の人間ができてきた。どう言ったところで、この団子は母親の一滴の血より多いし、あの少しの甘露は父親の精子より多いはずだ。

なぜ法本は上師の恩徳に感謝しなければならないとひたすら言うのか?押し付けているのではない。上師の恩徳をさえ心に留めていられず、なお自分のことを考え、屈辱を受けている等と考えているなら、密法で何を学んだのだ?密法を学ぶ資格がどこにあるのだ。皈依していないとしても、法会に参加したのだ。私はそなたに借りを作ったと堂々と言うことができる。だが、少なくとも上師である者が善の因縁を作ったのだ。上師の善の考え方に対して慚愧すべきなのだ。誰が進んで与えるだろうか?自分の親戚、子供、父母など以外の人に、少しの骨髄や血を提供する以外に、何を与えられるだろうか?何一つ出したくないだろう。今日のこれは血ではない。血の精華、精の精華だ。そのため私達は紅明点、白明点と言う。そのため、ちょっと拝み、ちょっと食べれば、加護が得られると思っているなら、それは役には立たない。食べた後に上師について修行し、共同で修行することを決めたなら、それなら有用だ。共同、とは私に付き従うことではなく、心だ。

以前法王はインドで「以後私と私の弟子の仏法事業は同じ心だ」と仰せになった。私達二人が一日中くっついているのではない。法王は法王のことを行い、私は私のことを行う。だが、私達二人は仏法のため、直貢噶舉のためひたすら絶えず行うのだ。法王は私より二歳年上であられる。二人の年齢を足せば150歲に近いが、退職していない。以前私は退職すると言ったが、法王はお許しにならなかった。私は今になって気づいた。法王が退職なさらないのに、どうして私が退職できようか?法王は、私と言うこの弟子は言いつけを守ることご存知なので、先に私を固めてしまわれたのだ。教派内の数人のリンポチェが絶えず弘法利生するなら、この教派は自然に興旺となり、仏法も自然に興旺となる。教派内の一人一人がみな自分のことしか考えないなら、教派は興旺とはならない。

今日旧暦正月一日に四つの法を修める。本来チベットではこの四つの法は四日間に分けて修められる。だが、そなた達はみな忙しい。あれもこれもと忙しい。父のために、母のために、あれこれ願いに来なければならない。明日を休みにしなかったなら、誰彼の家族がみな「拝仏に熱心で家庭を顧みない。父母も目に入らない。何も要らない」と言うだろう。もともと何も要らないのだ。最後には何であっても持って行くことはできないのだから。今日は四つの法を修める。他にはない。そなた達に返そう。借りは作らない。たくさんの人が非常に喜ぶ。借りはない。この日曜日は法会がない。私はもう疲れた。あまりにも多くのものを取り出したからだ。この日曜日は早晚課だけを行う。そなた達も休んでも良い。そなた達に一度の休みを与えよう。菩薩も休み、上師も休み、みないっしょに休む。どうだ、いいだろう?

この一年、あらゆることにおいてみなが順調であることを願う。順調とは、願いが全て叶う、と言う意味ではない。難があっても苦があっても救われる、と言う意味だ。今年、寿命が、その最後まで至っても、上師がいるので、上師が三悪道に堕ちないよう救ってくれるだろう。私達の人生はわずか数十年で終わってしまう。経典では、今年何歲だろうと、この一生が終わった後はどこへ行くのかを真剣に考えなければならないと言う。自分のこの一生が終わる時、この過程にどうやって向き合うべきなのかを、真剣に考えなければならない。その時になれば医者が助けてくれる、などと言ってはならない。私には多くの医者である弟子がいる。今訊ねてみよう。人が死ぬ時、死なないように助けられるか?西洋医である弟子は「できません」とお答え申し上げた。なんだ、そんなに小さな声で。気落ちしたのか?「これまで長い間、生老病死を見てきました。死を迎える時はあっと言う間にです。できることは全くありません」漢方医である弟子は「私も何もできません。死に行く病人に対して、漢方医は無力なのです」とお答え申し上げた。

仏法も死に対して無力だ。だが、仏法には死に対して良い方法がある。死に行く過程の苦から離れさせてくれるのだ。これは肉体的な苦、心理的な苦を含む。仏法には、そなたを救う方法がある。それは、未来に行きたい場所を準備させるのだ。これは学問、科学ができることではない。「旧暦正月の一日にこんな不吉な事を言うなんて。私は平安、富貴を求めに来たのに。娘の学業がスムーズに行くように、外国で安全に過ごせるように願いに来たのに」とそなた達は言うだろう。それなら私に皈依することだ。私は娘を庇護しよう。私に皈依しないなら、ちょっと加持するだけだ。こんなにも多くの人の面倒は見られないからだ。仏菩薩は私達を守ってくださると思っている人が多い。私はしばしば言う。仏菩薩がそんなにも慈悲深いなら、この世間に事故で死ぬ人はいないはずだし、殺人事件もないはずではないか?どうだ?なぜあるのか?仏菩薩が無慈悲なのではない。縁がないのだ。言いつけに背くからだ。

私と言う人は変なのだ。旧暦正月の一日に、そなた達が喜ばない事を言う。これらを聞いて、この事を思惟するようになるなら、いろいろな事をどうと言うことはないと思えるようになるだろう。この種の最も深刻な事さえ、しっかり思惟することができるなら、世間の種々の小さな事、他人に言われた一言二言が心の中から消えないということがあるだろうか?気に病みつづけるだろうか?今日旧暦正月一日はみなのために財神法を修める。みなに懺悔させ、寿を増やし、欲望を満たす。今年はみな本当に仏法に従い暮らさなければならない。ほんのわずかであろうと、自分を甘やかしてはならない。自分を少しでも甘やかすなら、累世の業力は現前し、決定を誤り、物事を行うにつけても誤ってしまうだろう。

私は気が無くなった。どうやって気を補ったらいいのか?漢方医、西洋医、そなた達は呼吸すれば気があると言った。私は今気がない。どうしたらいいのか?西洋医である弟子は「私達はリンポチェにあまりにも多くのご苦労をかけています。リンポチェ、ごゆっくりお休みください」とお答え申し上げた。そなたは質問に答えていない。先ほどそなたは「空気を呼吸すれば気がある」と言ったではないか?私は今気がないと言っている。だがやはり、私は呼吸している。なぜ私は気が少なくなったと感じるのか?私が説明してやろう。ひたすら運動して酸素を消耗したとしよう。酸素を消耗したなら、深呼吸を何回かすれば、すぐに疲労は回復し気も十分になるのではないか?つまり、多くの科学的説明は似て非であるのだ。おしゃべりしているのではない。本当にこうなのだ。

今日はみなもたくさんのものを得ただろう。今後は衆生も、そなた達のおかげで得るものがあるよう願う。しっかり反省すれば、衆生に利益できるようになるだろう。反省せずに衆生に利益しようとしても、それは不可能だ。しっかり反省すれば今後過ちを犯すことがなくなり、そうしなければ衆生を救う能力を得ることはない。分かっただろう。新年おめでとう。

参会者は声を揃えてリンポチェに感謝し、リンポチェに新年の挨拶を申し上げた!リンポチェは「私は苦主だ」とお答えくださった。

法会は円満に終了し、参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法及び開示に感謝を捧げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに新年の挨拶を述べた。そして、起立し、法座から歩いて下りられるリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。


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2019 年 04 月 07 日 更新