尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年01月27日

釈迦牟尼仏は三界導師、四生慈父であられ、仏法を南瞻部洲(地球)に弘揚された教主であられる。チベット仏教では上師を最も重視する。上師に導かれることがないなら、修行は絶対に成就しない。これに基づき、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2019年1月27日台北寶吉祥仏法センターで初めて「釈迦牟尼仏灌頂法会」を開催なさった。これにより、衆生は未来世で世尊と結縁し、学仏の障礙を消し去り、早証悉地される。

午前九時半、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは先ず道場で予備法を修められた。午後二時半、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、楽の音、薰香、宝傘に先導され、皆が合掌して恭しく迎える中、壇城に上られた。諸仏菩薩に恭敬頂礼し、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の法座にハタを献上し、点灯して供仏後に法座に上られ、「釈迦牟尼仏灌頂法会」を主法なされた。

今日はみなに釈迦牟尼仏の灌頂を授ける。釈迦牟尼仏は仏法を地球の人類にお伝えくださった仏陀だ。世尊が地球に降臨なさらなかったなら、人類は仏法を得ることがなかっただろう。どの宗、派、法門を修めようと、すべての仏法は釈迦牟尼仏が伝授くださったものだ。今日この灌頂を授けるが、そなた自身が菩提心を発し、菩薩道を修行しようとし、この釈迦牟尼仏の灌頂を受けたなら、今後釈迦牟尼仏が伝授くだされた法門を修める因縁は十分だろう。だが、菩提心を発せず、菩薩道を修めようともせず、上師に対して、自分なりの考えを持つなら、今日この灌頂を授けても、釈迦牟尼仏との結縁が未来世でも続くだけだ。

仏法は大きく二つに分類される。顕教と密法だ。顕教とは一切の経典と理論だ。一切の仏法の基礎だ。仏法の基礎を身につけた後、我々は仏法を用いて自利利他する必要がある。非常に多くの人が、経をひたすら念じるのが自利だと思っている。その通りだ!顕教を修めても成仏できる。だが、釈迦牟尼仏の仰せによれば、顕教を修めて成仏するには、三大阿僧祇劫を経過しなければならない。三大阿僧祇劫との時間は我々人類が計れるものではない。長いこと甚だしいのだ。成仏するまでは、非常に容易に六道中で輪迴し、その可能性は非常に大きい。
密法の特徴はなんだ?密法は我々の何かを消してはくれない。我々のよくないものを良いもの、我々に役立つものに転換してくれるだけだ。我々凡夫の身口意はすべて不清浄だ。『地蔵経』で説くように、起心動念はすべて自分のため、すべて自分が正しく、他人は間違っている。これこそいわゆる「皆業だ、皆罪だ」だ。凡夫のこれら不清浄な身口意では、成仏を修めるのは不可能だ。

密法の方法とは、密法の一切の加持を通して、我々の不清浄な身口意を、凡夫から清浄に転換し、仏、本尊と無二無別、清浄の本意とするのだ。当然これはやろうと思えばできる、というものではなく、灌頂を経ればすぐにできる、というものでもない。必ず次第を有する修行を経なければならない。次第とは、段階があり、一段階一段階行うということで、考えればすぐにできる、求めれば得られる、というものではない。

なぜ灌頂を経なければならないのか?古代のインドでは、国王が王子に王位を譲る際、国王は銀製の瓶を捧げ持ち、王子の頭に水を注いだからだ。これはこの王子が王位を継ぐということを示している。

つまり、灌頂を授けられた衆生は、未来で仏の果位を受けられるということだ。もちろん考えればそれで得られるというものではなく、必ず行い、必ず修めなければならない。また、一般の人が灌頂を授けられるというものではなく、灌頂を授ける上師自身の心続—その心が、仏菩薩の心を必ず感動させなければならない。どのような心だ?それは菩提心だ。灌頂を授ける上師の菩提心に証果がなく、しかも菩薩道を行っていないなら、仏菩薩の心に感触できず、相印することもできない。相印できないなら、加持することはできない。

言い換えれば、灌頂を授ける上師は、自身の修行の功徳、福報、自身が証果した果位を用いて、本尊を感動させ、上師に加持するのだ。次に上師は、自身の功徳と福報を以って衆生に灌頂する。かつてチベットでは、衆生にしばしば灌頂を授ける上師は福報が損耗するので、改めて閉関して自身の福報を累積する必要があった。

釈迦牟尼仏は密法を説いていない、密法は釈迦牟尼仏が説かれたのではない、と誤解している人がいる。実は、釈迦牟尼仏は非常に多くの経典中で密法を宣説しておられる。だが、密法は公開教授の方法を取らないため、いくらか名詞があるだけなのだ。密法を学んだことがある人なら、経典中のどの部分が密法について説いており、どの部分がそうではないかを知っているだろう。

灌頂を経ることで、そなた達の身口意を清浄な身口意に転換する。今日法会に参加した動機が正しいなら、いわゆる正しいとは、三宝に対して恭敬であるなら、三宝とは仏本尊、仏法、伝法の上師だが、三宝に対して恭敬なら、この灌頂は未来の修行に対して必ず助けとなる。

恭敬とは、以下のように定義される。灌頂法本の後には、本尊の加持を賜ることで、楽しく上師に仕え、上師が指示する一切の事を楽しく行えるように願う、と毎回言う。なぜ法本にはこのように書かれているのか?それは、上師が灌頂を授けてくれなければ、法を得ることは不可能だからだ。言い換えれば、上師が授ける恩徳は父母のそれよりさらに大きいということだ。父母は身体を授けてくれたが、それはそなたの未来を変えることはできない。「父母は働いて私に勉強させてくれたのだから、私の未来を変えてくれたのだ」という人もいるかもしれない。だがここで言う未来とは、人世間の数十年の生活のことではない。法会に参加するのは、この一生をすぐに変えるためだと思っている人が非常に多い。そなた達の状況から言って、数年学仏するだけで、すぐにこの一生を変えることなどどうしてできようか?私は何度も何度も言ったし、経典でも説いている。この一生を変えるには、自分自身で功徳を修めなければならないのだ。

功徳とは、毎日どれだけの咒語を念じ、どれだけ拝仏するかはではなく、どれだけの供養をするかでもない。功徳とは、そなたの福、慧が果位を修め、菩提心を発し、空性も証悟することだ。この種の功徳が出現すれば、当然、自身の業力を転換させることができる。功徳を修められないなら、自身の業力は転換させられず、業にしたがって変動するだけだ。

今日は釈迦牟尼仏の灌頂を授けるが、それはそなた達に何か特別な期待をしている、という訳ではなく、そなた達が何か特別な根器だというのでもない。それは私が密法を修める上師だからだ。そなた達、これら役立たずの弟子を見て、これまでには、心が変わった人もいる。灌頂の功徳福報を通して、そなた達の学仏の障礙を減らせることを願っているのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始められた。続いてマンダを献上儀軌を行い、出家衆は参会者を代表して、マンダを献上供養した。

リンポチェは開示くださった:先ほど修めたのはすべて前行と言う。そなた達にも理解できる言葉で言うなら、一切の準備作業だ。朝九時半に私が先に修めた一次法、現在再び修めた一次前行も含む。

前行とは、上師がそなた達に灌頂を授けるために行う十分な準備のことだ。灌頂を受けるあらゆる人は、灌頂を受ける前に、六種の垢染を断たなければならない。其の中に三点がある。

第四、外散。心が別のところへ行ってしまい、上師の伝法に留まっていない。

第五、内收。昏沈の段階に入り、眠ってしまっている者さえいる。

第六、疲厭。早く終わらないかと願う。何をやっているのか分からない、と思い、早く終わって欲しい、早く立ち上がって欲しいと願う。

その後リンチェンドルジェ・リンポチェは灌頂の儀軌を始められた。

続いて懺悔を行い、みなを率いて懺悔文を念じられた。

最初に身の授権灌頂を行われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くだされた︰身の灌頂を得たら、そなた達が修身できるよう授権する。身体に累積した一切の汚垢、障礙習気は、身の一切の灌頂を得た後、観修を開始する。灌頂後にすぐOKになるというのではない。その後は、どのように観し、どのように顕空双運の本尊次第を修めるかを、上師が教えなければ、証悟化身仏の因縁を具備することはできない。

続いて、語の授権灌頂を行われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くだされた︰

上師教言(上師が教えること)殊勝恒不動。上師が教えることは、世間法であろうと出世法であろうと、永遠に不動だということだ。殊勝とは、生死解脱を助けてくれるということだ。上師の言葉を聞き、これはするな、あれをやれ、と教えるのだと思い、仏法とは無関係だと考えるかもしれない。もし、このように区別するなら、密法など学ばない方が良い。上師の言葉はすべて衆生の生死解脱を助けるものだ。上師が法座上でいうことだけが教言だと思ってはならない。具徳の上師、その言葉はすべて衆生を救うものなのだ。そのため、この言葉は非常に重要だ。

語の灌頂授権を経れば、言葉が清浄となり、言葉の面で累積した垢障と習気は、語の灌頂を経ることで、持咒を開始することができる。本尊が円聞空双運の次第を生起しなければ、証悟報身仏の因縁を具備することはできない。つまり、持咒したければ持咒でき、聞いたことがある、と考えるというものではないのだ。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェに率いられ、参会者は短い坐禅を行った。

リンポチェは開示くだされた︰意の授権灌頂を経たことで、意は清浄となり、意の面で累積した垢障と習気は、意の無余灌頂を得る。この後、本尊心性明空双運の次第を観修する。明空双運とは、分別心がないことだ。今日自分は本尊だなどと思ってはならないし、自分は凡夫だなどと思ってはならないし、自分が本尊を考えれば、まさに本尊だなどと思ってはならない。明空双運の本尊次第がなければ、証悟法身仏の因縁を具備することはできない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いて、アキ護法及び迴向儀軌を修持なされた。

法会は円満となり、弟子及び参会者はみんな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び開示を下さったことで、無辺の有情衆生に利益なさったことに感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。


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2019 年 02 月 18 日 更新