尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年3月15日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが懺悔の機会を賜ったことに感謝申し上げ、しかも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが家族全体を救度くださったことに感謝申し上げた。

「以前私は学仏とは読経と学問だと思っていた。2004年母が往生した際、私は禅寺で母のために読経し、さらには禅寺から経典を借り受け朝晩唱えていた。同僚だった兄弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁させてくださるまで、毎日家で読経していた。初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった際、リンポチェは『子供が往生していないか』とお尋ねになった。当時の私はこの事に触れるのを非常に恐れていたため『いません』とお答え申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは笑って『ならば、何を聞きたいのだ?』と仰せになったので、私は法会に参加させて欲しいと尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお願い申し上げた。初めて日曜日の共修法会に参加した後、二回目の法会は皈依法会だった。法会前に私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させてくださるようお願い申し上げた。

皈依後私は皈依証を持って、法名を賜りたいと尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに跪いて願い出たところ、リンポチェは再び『子供が往生していないか』とお尋ねになったが、私はその時『往生しています』と答えた。すると、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは木の棒を手に取られ私の頭を軽く叩かれた。往生した子供は中絶した胎児で、離婚後に恋人と同居していた時に妊娠したのだ。相手は結婚に非常に熱心だったが、私は二度と結婚したくなかったため、勝手に中絶してしまった。恋人は怒り、罵詈雑言を浴びせた後、私から離れて行った。当時の私は、大したこととは思わず、また自分が既に殺生及び人の心に嗔恨を起こさせる悪業を為したとは夢にも思わなかった。私に殺害された無辜の生命を、慈悲深くも救度してくださり、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご恩に感謝申し上げたい。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救度がなかったなら、殺生の悪業により私は必ず地獄に堕ちていただろう。

私は若い頃、父母がお膳立てした結婚から逃げ、相手を傷つけ、非常な苦痛を与えた。そしてその年、相手は病気で亡くなってしまった。相手の家族は私が彼を殺したとして、しばしば我が家に来ては両親を責め、さらには母に暴力を振るったこともあり、ついに父母は転居せざるを得なくなってしまった。自分の親不幸を私は懺悔したい。明らかに私の過ちであるのに、無辜の父母に背負わせてしまった。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導がなければ、傲慢で思い上がった私の性格は、次々と悪業を作り出していただろう。

私は何でも自分で決めたがり、父母が整えた結婚から逃げ、一人で台北で働き、父母の同意を得ずに自分で結婚を決めた。結婚後は一人息子を授かったが、婚家と実家との争い、また自分が束縛の多い生活を嫌ったことで、すぐに離婚してしまった。

結婚から逃げ、結婚し離婚。これらはすべて極く短い期間内に起こったことだ。当時私は前夫の家庭内の状況をあまり知らなかったし、離婚後十数年間、連絡もしていなかったが、かつての舅が軽い脳卒中を起こし、姑が植物状態となって療養院に入院した折、人を介して舅が連絡してきた。私が家を出た後、前夫は精神疾患を発症し、息子も幼い頃から精神的な問題があるという。舅は親戚と行き来がなく、もう一人の息子は家を出ており、娘は結婚し子供を生んだが、精神病で自殺していた。

当時舅は、私が夫と子供の世話をし、彼らと同居することを望んでいた。私は世話することには同意したが、やはり自分のペースで生活しいと思い、同居はせずに、たまに彼らに会いに行っていた。2008年舅は転んだ後、寝たきりになってしまったが、長時間床に伏していることで背中にひどい床ずれができ、入院しなければならなくなった。その頃私は既に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げていたので、宝石店へ赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェに舅に加持くださるようお願い申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『夫はどうして来ないのか?』と尋ねられたので、『夫は精神疾患を患っています』とお答え申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも舅に持咒加持くださった。数日後、病院に舅を見舞うと、舅は起きて車椅子に乗れるようになっていた。けれども三ヶ月後、舅の病情は悪化し集中治療室へ運ばれ挿管されて話ができなくなり、数日後には往生した。

舅の世話はすべて孫女が行っていた。孫女も心の病を患ってはいたが、それほど深刻ではなかった。ところが、舅は数度転院したのに、孫女は私に知らせなかったので、舅の往生三日後にようやくそれを知った。舅の遺体は一時的に病院に安置されていたため、私は舅の往生を知ると病院に急いだ。そこで、孫女が舅に肉を供えているのを目にし、すべて精進料理に替えるよう葬儀社に頼んだ。その夜、私は宝石店へ赴き、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに舅を済度くださるようお願い申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『なぜ肉を供えたのだ』と仰せになり、しかも舅には既に亡くなっている娘が一人いることをご存知でおられた。これらを私は口にしたことが全くなかったのに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすべてご存知だったのだ。私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに舅を済度くださるようお願い申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも、リンチェンドルジェ・リンポチェが止めるよう言うまで、毎日の晚課時に道場で大礼拝を、毎日600回行うよう仰せくださった。

舅と姑は共に日本統治時代に教育を受けた人で、舅は大学教授だった。舅は非常に厳格で、家庭内の事は何でもすべて舅の差配に従わなければならなかったが、舅も姑も私にとても良くしてくれた。私は学仏し尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げた後、学仏について舅に話したが、舅は何の反応も示さなかった。私は懺悔したい。自分は学仏していると、余りにも簡単に口に出し過ぎ、上師の功徳を賛揚することをせず、自分の行為を改めなかったため、舅は私の学仏を認識してくれなかった。私はかつて、舅と姑の家族は何をやっていたのかと舅に尋ねたことがあった。舅は、ほとんど学者だ、と答えたが、それ以上詳しいことが聞ける人を私は知らなかった。姑は植物状態のまま往生し、舅は高齢で誰にも世話してもらえず、家族はみな揃って精神を病んでいる。私は、これは金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださるように、家族が殺生の悪業を為したことの果報ではないかと考えた。私自身は殺業を為した家族の出だった。母方の祖父と叔父は漁師で、叔父は若い内に亡くなっていた。父は釣りが大好きで活魚を好んで食べていたが、脳腫瘍で二度手術した後すぐに亡くなった。母は漁村で育ったため、たくさんのカキを殺しており、肝癌で亡くなった。これらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださるように、殺生の悪業を為したことによる果報だ。

舅の往生後半年間、家には前夫と息子だけになったが、別れて長くなり、生活の習慣も環境も大きく違っていたため、私はやはり同居しなかった。私は彼らの世話をする約束をしてはいたが、実際には本心からではなかった。なぜなら、自分が本当に彼らを手助けできるのか、懐疑的だったからだ。実は私は、この現実に向き合いたくないと強く思っていたし、この現実にずっと抵抗していたし、この現実から逃避したい、逃げ出したいと切実に考えていたのだ。

前夫は精神状態が不安定で、総統、市長、政府機関などに手紙を書くこともあった。その内容はどれも、誰かが自分を陥れただの、何かの事件を捏造したりしたものだったため、最後には必ず戻されて来た。前夫は外出すると帰宅を忘れ、路上ででも家ででもいつもブツブツ独り言を言っており、一晩中寝ずに壁に向かって何事かを言い続けていることもあった。息子は人前で或いは路上で突然大声で叫び、家の中でも訳もなく大声で叫び、また常に独り言を言い、包丁を買ってきて隠していたりしたが、包丁を買ってきて何をするのか自分でも分かっていないようだった。自殺したいとの思いもあるようで、しばしば高いところから飛び降りようとした。息子はかつてトイレ用洗剤を飲んで自殺しようとしたが、すぐに発見され急救に運び込まれたおかげで、食道の手術を免れていた。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げたばかりの頃、息子を連れて金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げ、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救いをお願い申し上げた。息子を施身法法会に参加させてくださり、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲とご恩に感謝申し上げたい。法会の最中、息子は座っていられず、道場中を歩き回りたいと言っており、三度の施身法法会に参加した後は二度と参加しなくなってしまった。私はかつて前夫を漢方クリニックに伴いセキの治療を受けさせたことがあった。漢方医に二度診てもらい、大きく改善したが、前夫も息子も自分の考えに固執するため、彼らの信任を得るのは非常に難しかった。これを私は懺悔したい。なぜなら私に忍耐力がなく、心を込めて彼らを世話しなかったため、前夫と息子は私が彼らを世話しているとは思わず、私が彼らに話し掛けても、少しも集中して聞かず、しかも私の話が全く耳に入っていないようだった。

前夫と息子には共に深刻な幻聴と幻視があった。通常、精神病患者にはよくある症状だが、自分に話しかける声が聞こえ、その映像が見えるというのだ。息子の幻聴は、ほとんどが自殺するよう呼びかけるもので、目にする映像は、殴られるものだった。ある時息子は外出した後帰宅しなかった。私は息子の身に何かがあったに違いないと思い、晚課時に道場で大礼拝を行い、自分が犯した悪業を懺悔し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとアキ仏母に、息子を帰宅させられるようお助けくだいと祈願した。私は派出所に届け出たが、警官は息子を行方不明者として記録し、コンピューターにデータを入力しただけだった。こうすれば、パトロール中の警官が気を付けて見てくれるだろう、とのことで、他には何か実際に動いてくれるというものではなないようだった。私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、息子を助け帰宅させてくださるのだ、と思い知った。三日後息子は自ら帰ってきた。この三日間息子はずっと歩き続けていたとのことで、うちへ帰るな、歩き続けろ、との声が聞こえていた一方、急いで帰宅せよ、という声も聞こえたというのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとアキ仏母の手助けのおかげで、息子は無事に帰宅できたのだと私は確信した。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救いに感謝申し上げたい。前夫と息子に異常な行為があったり騒いだりしても、私にはどうすることもできず、救急車を呼んで入院させることしかできなかったが、私は前夫と息子の病を恐れてはいなかった。なぜなら金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが私を助け加持くださっており、私は必ず彼らを世話できると分かっていたからだ。

私は懺悔したい。自分はわがままで自信過剰で、いつでも自分の好きな通りにやり、どんな事でも自分は間違っていないと思っていた。私は父母の言う事を聞かず、親不孝で、父母の養育の恩をないがしろにした。利己的な行為のため、私を愛してくれた人を恨みの中で往生させ、私を愛してくれた人の心に悪念を起こさせ、私は殺生の悪業をさえ犯したのだ!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導と手助けがなければ、私は必ず地獄に堕ちていただろう。

私は懺悔したい。自分は心中にしばしば悪念を起こし、内心は貪嗔痴慢疑でいっぱいで、学仏しなければ、必ず天を恨み人を憎み、たくさんの悪業をなしていただろう。私は懺悔したい。父母に孝行を尽くさず、比較の心持ちと言葉で、母の男尊女卑をしばしば責めていた。私は母との同居を望まず、母に生活費を渡せばそれで良いと考えていた。母は年老いて日常生活に困難を来すようになったが、私は気にも掛けず、母の介護もしなかった。母は文盲だった。かつて学仏したいと言ったことがあったが、私は母の学仏を手助けせず、母が菜食したいと言っても、普通食を買って来て食べさせていた。母が肝癌を患った時も私は全く付き添ってやらなかった。母が往生した後、私は禅寺で母のために読経し、仏法に触れたことで、自分が犯した親不孝の罪業は非常に重いと初めて知り、『孝行のしたい時分に親は無し』との辛さを深く感じた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは親孝行は正に学仏だと開示くださった。私は上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導に従い、懺悔心、感謝の心、恭敬心で仏法を学習し、輪迴を解脱し、父母の恩、上師の恩に報いたいと思う。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げ、頼ることができる上師を得て、上師が開示くださる仏法を聞くようになり、自分の身に起きた事はすべて因縁果報であり、向き合って受け入れ、逃げてはならないと初めて悟った。仏法の殊勝さと偉大さをつくづくと感じ、学仏は自分だけでなく他人をも助けられるのだと知った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『殺業が重い家庭では、親族は必ず円満でない』と開示くださったが、これらはすべて自分で悪業を為したことの果報なのだ。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのの教導に感謝申し上げたい。おかげで、私は逃げずに恐れずに家族と向き合えるようになり、いかにして彼らを助けるかを知り、自分の累世の悪業を理解した。そして、仏法の学習と徹底的な懺悔を通してしか解脱できないのだと知った。家族の状況により、私は行為を改め、忍耐と思い遣りを学ぶことができた。これらは以前の私には全くなかったことだ。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝申し上げたい。道場で大礼拝を行って以来、私の周囲の状況には変化が現れた。かつては前夫と息子には、およそ半年毎に精神疾患の症状が現れ入院が必要となったが、現在彼らの状況は大きく改善している。精神的な不安定もコントロールできるようになり、二人とも既にだいぶ長く入院していない。今では自殺を考えることもなくなり、菜食を続けられるようにもなった。息子は適した仕事を見つけ、仕事場ではカウンセラーの先生に助けていただいている。前夫は滅茶苦茶な手紙を書いたりしなくなり、独り言の回数も減っている。いくらかの異常行為は今もあることはあるが、以前の深刻な状況に比べれば、既に十分軽くなっている。私はこれらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と手助けの賜物だと分かっている。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大福報の庇蔭がなければ、これら状況が改善することなどあり得なかったはずだ。

前夫と息子の生活費は舅が残してくれた古くて小さいが貸し出すことができる店舗に頼っていた。もとは普通食の麵を出す店に貸していたが、舅の往生後、私は普通食の飲食店と因果に背く業態には貸さないと決めた。店子を探すのは難しいが、『仏法を信じ、仏菩薩を信じさえすれば、仏菩薩は我々の衣食住が成り立たないようにはなさらない』との金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を信じている。よって、殺生を行う業態には絶対に貸し出さず、衆生を傷つけ得た所得で生活することは決してできない。私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けに感謝申し上げたい。すぐに条件に合った借り手が見つかり、前夫と息子の生活費を心配する必要はなくなった。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの私に対する慈悲に感謝申し上げたい。道場で大礼拝を行わせてくださり、累世に犯した過ちを懺悔させてくださった。そのおかげで、自分の身に起きた果報はすべて自分が為した悪業によるのだと恐れず逃げずに受け止めることができた。同時に私の学仏の障礙を取り除き、輪迴に陥る行為を改めさせ、舅が三悪道に堕ちないよう、また家族が正常な生活が送れるよう助けてくださり、私に殺害された衆生を済度させてくださった。私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝申し上げたい。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、毎日の道場での大礼拝をやり遂げることはできなかっただろう。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは色々な方法を用いて、弟子達に行為を改めさせ、輪迴苦海を解脱させてくださる。弟子である私達は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導に従い、依教奉行しようではないか。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に行わせるすべては、弟子の福徳因縁の累積を手助けしてくださっているのだ。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと仏法に対して信心がありさえすれば、必ずやり遂げることができる。

私は家族の状況から悪業因果の恐ろしさを理解し、自分の人生経験から人生の辛さ苦しさを悟った。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、輪迴苦海からの我々の解脱を助けてくださると確信している。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり従い、仏法学習に努力精進し、生死を解脱し、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩大徳に報いなければならない。何物をも恐れず衆生を救う尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩のようであられる。衆生の離苦を助けてくださる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵王菩薩のようであられる。最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛となり、衆生がみな輪迴苦海を解脱できるよう祈願申し上げる。

続いて、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年8月10日に「戒律」について開示くださった仏法テープを拝聴した。

「先週日曜日は、ドラブ・ワン・リンポチェの主法の下、六字大明咒法会を修持した。今週はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示を続けよう。直貢噶舉不共大手印を学ぶ前には、心構えにおける準備を理解しなければならない。

先週は守戒について講じ、言葉と口業について留意しなければならない点について講じた。もう一つの戒は飲酒の禁止だ。顕教では、飲酒の戒は根本戒とは考えられていないが、密乗の修行者が飲酒すれば非常に深刻な戒を破ることとなる。大成就者の飲酒等の挙動について目にすることはあるが、我々は飲酒してはならない。飲酒できるのはどんな人か?ここに一つの物語がある。かつてナロパは酒場の主人を救度させようとした。酒場へ行き中に入った後、小さなナイフをテーブルに刺したが、時刻はちょうど正午に近い頃だったので陽光がテーブルの上に差し込んでいた。彼はナイフをテーブルの日の光が差し込んでいるところに刺した。酒場の主人は『どれだけお持ちしましょうか?』と聞くと、ナロパは『陽光がこのナイフを離れるまで』と答えた。『どれだけであろうと、陽光がナイフを離れるまで飲む』という意味だ。その結果、店中の酒をすっかり飲んでしまったのに、陽光はなお差し込んでいた。ナロパが神通力を見せ付けたところ、主人はその後、酒を売らず、ナロパに皈依し仏法を学ぶようになった。そなた達に陽光を止め置く能力があるなら、飲酒しても良いだろう。

事実、法王の中には説法の際、日没時間を遅らせ、さらには太陽を沈ませなかったと記された伝記も多くある。凡夫の肉眼には当然、事実しか認識できないだろうが、実はこれは完全に一種の定の顕現なのだ。座禅を通して入定できるなら、時間はそなたにとって何の意味もないものになってしまう。時間は我々の分別心から生まれる。禅定を学んだことがある人なら誰でも知っているだろう。定功に優れているなら、行者は座禅中は時間を感じないのだ。

どうして飲酒してはならないのか?学仏を始めたばかりの人の心はもともと非常に散乱し容易に怠慢となる。この上さらに、酒を飲めばさらに迷い乱れ、つまり本性が彷徨い、心が乱れきってしまう。このように乱れた心持ちで日々を過ごさせないために、飲酒を禁止するのだ。この戒は麻薬も含む。タバコ、あらゆる禁止薬物、さらには睡眠薬も含まれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは物心ついてから現在まで、一度も睡眠薬を飲んだことがなく、鎮靜剤の類も飲んだことはない。この類の薬物は表面的には我々を助け、精神を落ち着かせてくれるようだが、実は一種の麻薬であり、強い副作用を持つ化学品なのだ。精神に錯乱を来している家族を持つ者もいるだろうが、これを因果の面から理解しようとせず、すぐに医者に診せて薬を飲ませているなら、この人に仏法を説いて聞かせ、仏号を唱えるように勧めても、それは非常に困難だ。このような薬は飲めば飲むほど、人の意識を曖昧にしてしまうからだ。

法本中にも『狂乱状態にある人(つまり精神病者)は救度し難い』と記載がある。実際に実に救度させ難い。この一世で精神錯乱気味の人、うつ病を患っている人などは、過去世では絕対に飲酒し、麻薬に触れたことがある人だ。そのため、この一世でも精神に簡単に錯乱を来し、さらに新たに有毒な薬物を服用するのだ。鬼道には『嗜毒』と呼ばれる鬼がおり、これは有毒物を専ら食らう。このような鬼道の衆生は、業報が尽き再び人身を得たとしても、やはり危険薬物に手を出し、タバコを吸い、酒を飲み、睡眠薬を服用する習慣を持つようになるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えている。自分は今に至るも一度もタバコを吸ったことがないが、父が毎日タバコを吸っていたので、只一度ある時好奇心に駆られ、よくいる中学生のように、大人の真似をして父のタバコを吸ってみたいと思った。ところが、一口吸っただけで、世界中で最もまずいものはタバコだと感じた。とてつもなく臭い。そしてその後は一度たりとも近づいていない。これこそ過去世の習慣と関係があるのだ。過去世で危険薬物に触れたことがないなら、この一世で触れさせられたとしても、やはりそれを忌み嫌い、接触しようとはしないだろう。この一世でタバコを吸い、さらに『禁煙はなんて難しいんだ』と感じているなら、これこそが過去の習性が非常に重く、間違いなく存在している証拠であり、酒好きも同じだ。

我々は学仏修行人として、必ず明晰な意識を保ち、錯乱や混乱は以ての外だ。最近北部のある道場で水陸大法会が行われた。法会前に台北アリーナで道場の設営を行っていた時、ある飲酒した信衆が、台北アリーナでこの道場の総幹事を殺してしまった。どうしてこのような事態が発生したのか?法会は非常に良い事であるのだから、このような事態は発生しないはずだ。実はこの道場の住持は自分も飲酒していたのだ。出家相を現しながら飲酒し、『ここは湿度が高いため、飲酒しなければならない』と周囲に常々言い、さらには『身体の調子が悪ければ飲酒しても良い』と言っていたそうだ。

戒本中には開戒ができると記載があるが、本当に身体の調子が悪いなら、酒を副薬とする薬を服用するのも良いだろうが、毎日飲酒するのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王にこの事をご報告申し上げた。直貢チェツァン法王はニコニコなさりながら『この法師は四戒だけを伝え、五戒を伝えてはならない。持戒が一つできていないのだから』と仰せになった。法師自身が飲酒するので、飲酒する信衆の出現を感招してしまったのだ。酒は、少しでも飲めば人は必ず乱れる。だからこそ、法会前にこのような不祥事が起きたのだ。法会は祥瑞事である。いかなる大法会であっても、主法者、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身を含め、法会前には絶えず修法しなければならない。この法会の一切が順調で吉祥円満となり、一切の有情衆に利益できるよう願うのだ。だが、台湾の顕教では法会開催前には、『水陸大法会があるのですが、今年は総功徳主になられますか?この枠は師父があなたのために確保してありますよ!』などと功徳主に連絡するのに忙しいのだろう。仮に相手が『師父、私は今年は都合が悪いんです』などと言おうものなら、『なんだって!あなたは本当に福報がない人だ』との常套句を言い返す。出資者を探すのに忙しく、法会前に修法する時間がなくなってしまっている。今回ドラブ・ワン・リンポチェが来台なさり、六字大明咒大法会を主法くださったが、ドラブ・ワン・リンポチェご自身は閉関修法なさり、リンチェンドルジェ・リンポチェも毎日護法を修めたので、この法会はこんなにも順調だった。どうして修法するのか?学仏を邪魔立てしないよう、そなた達の累世の冤親債主の障礙を鎮めるためだ。

皈依した仏弟子は飲酒の戒を犯すべきでないが、調理時に紹興酒を数滴垂らすくらいは構わないし、産後にベリタリアン麻油鶏を調理する際少し酒を加えるのも構わない。だが、飲酒を自分の生活の一部にしてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教に皈依後一年余り経った頃、リンチェンドルジェ・リンポチェと一千万元余りに達する取引をしようという人がおり、契約を結ぶ段になった。相手は道教を学んでいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが学仏していることを知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェを揶揄おうと、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に酒を置いて、『これを飲むなら、すぐに契約書にサインする。私の酒を飲まずメンツを潰すなら、契約はなかったことにする』と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは『申し訳ない。やはり飲めません。取引が成立しなくても、我々は友人です』と言うと、反対に相手はリンチェンドルジェ・リンポチェと契約を結びたがった。そして『原則に忠実なことこの上ない。誘惑に負け己の原則を曲げることをしない。こんな人とこそ一緒に仕事をしたいものだ』と言った。これこそが守戒の良い点だ。たくさんの人が利のため方便のため、上師と仏教の戒をすぐに頭の中から追い出してしまい、他人の努力に乗っかり、便利を貪ろうとする。

以前リンチェンドルジェ・リンポチェは『戒』とは懲罰或いは奨励の道具ではないと言ったことがある。我々は一念無明で、どの一世でもたくさんの悪業を為し、清浄な戒体を忘れているので、『このような事を行えば悪業を為し、生死の大海を逃れられず、六道で絶えず輪迴することになる』と仏は我々にお伝えくださり、誰もが犯す罪を五種の根本の戒に帰納くださった。守戒は非常に難しく、戒を守るためにたくさんのもので自分を縛らなければならず、不自由で不便だと感じている人が多い。肉食は罪だと分かっていながら、それでも肉食する人がいるように、他人と出かける時、相手が肉食しているのに、自分だけ菜食するのは気まずいと感じている。このような人が原則がない人だ。便利は『適当』とは違うのだ。六祖慧能は、狩猟者のために肉を15年調理したが、そなたは六祖慧能ではない!現代の台湾では、肉食を避ける条件は十分に整っている。それでも肉食するのか?問題はどこにあるのか?それは貪念が非常に重いからだ。

自然に快適に、束縛されていると他人に感じさせずに、どうしたら守戒できるのか?簡単だ。菩提心を発すれば良い。戒がないなら、定を得ることなどできず、定を得られないなら、智慧を開くことなどできない。智慧がないなら、どうして衆生に利益できようか?外道に対してであろうと、仏法に対してであろうと、戒は非常に重要だ。基本中の基本であり、最も重要な基礎なのだ。どうして学仏はこんなにも面倒なのだ?と思っているだろう。どんな戒を守るのか?仏祖が守ってくだされば良い。だが、仏祖は悪を為す人を守ってくださらず、善を為す人も守ってはくださらない。こう言えば、そなた達は驚くだろう。善を為しても守ってくださらないとは。では、いったい誰が守ってくれるのか?答えは自分だ。学仏とは自分本来の清浄な本質、本性を顕露させるもので、こうして初めて自分を守る能力が現れるのだ。顕教を学んだ時に、この話を聞いたことがあるだろう。観世音菩薩は仏珠を手にしておられる。それを見てある人が『仏珠を持って何を念じておられるのですか?』と観世音菩薩にお尋ね申し上げた。観世音菩薩は『我は自分自身を念じている』とお答えになった。どういうことか?なぜなら観世音菩薩の本性はつまり仏であられるからだ。

なぜ他の宗教を外道というのか?なぜなら他の宗教はどれも、外の何かを探して庇護、寄託、手助け、加護を求めるからだ。学仏は内に向かい自分自身を見つめ、自分の問題を探す。戒律を通して、我々の問題は減っていき、ゆっくりと清浄な本性が顕露する。学仏人が守戒を不要だと考えるなら、それは法律を守る必要がないというのと同じだ。この世間はなぜこんなにも乱れているのか?簡単に言えば、規則を守らず、欲望のままに動いているからだ。自分が好むことは、何をしようが何を言おうがお構いなしだ。どの経典であっても、因果を深く信じなければならないと仏は必ず告誡しておられる。因果を深く信じると言っても、信じなければ悪い事が起こる、或いは信じれば事が好転するというのではない。このように解釈するのではないのだ。世間の一切の事物はすべて因、果と関係がある。因を植え付けたなら、途中に因縁があったとしても、果報は成熟する。果報が成熟すれば、新しい因がまた新たに始まるのだ。因果は非常に複雑だ。しかもいつまでも絶えることはない。六道であろうと、菩薩果位であろうと、成仏後であろうと、因果はやはり存在する。よって仏は、因果を深く信じるよう、我々に説かれるのだ。行いに相応する報いを必ず受ける。変わることはない。何かやっても大丈夫などとと思ってはならない。

五戒とは我々の皈依時の誓い『諸悪莫作、衆善奉行(悪いことをするな、善いことをせよ)』に呼応するものだ。どんな道具を用いれば悪を為さず、善を行うようにできるのか?それこそが戒だ。どうすれば自然に、スムーズに守戒を行えるのか?それこそが菩提心を発することだ。守戒すれば良い生活が遅れるようになる、と考えているなら、必ず簡単に破戒してしまうだろう。なぜならこれは一種の貪念だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのある友人は、かつて学仏後に菜食していたが、その人の菜食の理由は『身体に良いから』というものだった。ところが、二年間菜食した後、医師から『菜食は身体に良くない』と言われ、肉食を再開してしまった。この話は我々に教えている。この人は『不殺生の戒』を守っていたのではなく、自分のために菜食していたのだ。そのため人に『何も良いことなどない』と言われた途端、あっさりと変えてしまったのだ。守戒は利点を得られるかどうかで行うのではなく、一切の悪を断つためのものなのだ。なぜなら悪を断たなければ、輪迴を断ち、成仏することなどできないからだ。戒は道具に過ぎない。大菩提心を発することができれば、わざわざ大げさに行う必要などなく、考える必要もなく、『これは正しいですか?』などと尋ねる必要もなく、極く自然に守戒できるようになる。簡単に言えば、あらゆる思想、言語、動作で、自分に対して有利で他人に対して不利なものはすべて悪だ。菩薩と仏の基準ではもっと厳しい。自分のために有利な考えを抱くことさえ悪になる。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る時『自分の父母は善人で、悪事などこれまで為したこともない』とみな言う。世間人の基準で測れば当然善人だろう。だが忘れてはならない。『地蔵経』中では、地蔵菩薩の母が悪とは何であるかを示してくださっている。カメの卵を食べても地獄に堕ちるのだ。

悪とは我々が考えるように、法を犯したり人を殺したりすることではない。法を犯し人を殺せば大悪だ。小悪がゆっくりと累積すればそれはすべて悪だ。自分は善人だなどと決して言ってはならない。大修行者に『善人だ』と言われない限り、善人には数えられない。善人とは何だろうか?十善法を修め、五戒を持できる人だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが初めてドラブ・ワン・リンポチェにお目にかかった時、ドラブ・ワン・リンポチェがラマを通して仰せになった初めてのお言葉は、リンチェンドルジェ・リンポチェは善人だ、というものだった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが初めてインドで閉関し十善を修めた時だった。よって、十善法を修められていないなら、自分は善人だなどという資格はない。

経典では『善男子、善女人は十善法を修める』という。女性が十善法を修めるのは非常に難しい。なぜならおしゃべりだからだ。他人の事、他人のプライバシー、他人のプライベートな生活についてあれこれ言いたがる。厳格に言えば、これらはすべて両舌だ。女性は他人に『バカだ。何も知らない』と言われるのを非常に恐る。他人が『誰々はどう?』と聞けば、必ず『そうそう。それで、こうこう』と答える。男性の中にもこのような人がいる。

今回、ある女性弟子が過ちを犯した。リンチェンドルジェ・リンポチェがチベットへ行く時、ある男性弟子がこの女性弟子の弟に『チベットへ行きリンチェンドルジェ・リンポチェに仕えるのか?』と尋ねたところ、『姉が同意しなければ行けない』と答えた。ところが、姉であるこの女性弟子は、弟は仕事が忙しいので時間的に難しいと考えた。けれども後に彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェと一緒にチベットへ行けば良いことがあると知り、考えを変えて、同行を求めて来たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かせなかった。彼らに満願させるためだ。一度口を開いて何かを言えば、その言葉の通りになる。翻っても役には立たない。

またある男性弟子は母親の香典を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに供養し、『供養で仏学院を建てれば功徳が大きい、と人に言われた』と言う。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。なぜなら分別心の供養は供養ではないからだ。彼らは求め続けたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らないと言ったら受け取らなかった。口を開いて言葉を発したなら、果報はこうなのだ。先ほどの話のその女性弟子は自分は頭が良いと思い、弟がチベットへ行きリンチェンドルジェ・リンポチェに仕える功徳を断ってしまった。そなた達はみな『リンチェンドルジェ・リンポチェは優しいから、またお願いすればいいだろう』と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは優しい。そうでなければ、どうして一日中病人や苦しむ人を助けていられるだろうか。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは隨縁でもある。そなた達の縁に隨うのだ。そなた達が口を開いて何かを言えば、必ずそれを満願させてやっている。この女性弟子は金儲けの方が大切だと考えた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を満願させてやったのだ。男性弟子は寄付して学院を建てれば功徳が大きいと考えたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を満願させるために供養を受け取らなかったのだ。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは持戒する人なので、名利のために仏法を弘揚するのではないからだ。戒体が明らかな人でなければ、智慧によって世間法を処理することはできない。

また別の女性弟子が、自分が出かけた時ある人に『お金を失くしたので、1000元貸してください』と言われたと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは『これは因果か?それとも馬鹿なのか?』と尋ねた。この弟子は『私は前世でこの人に借りがあったのではないかと考え、1000元渡しました』と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、これは非常に馬鹿な問題だ。どこが馬鹿なのか?智慧がない。なぜなら戒を守っていないため、定が生じていない。定がないので、智慧が生じていないのだ。

五戒に関しては、男であろうと女であろうと、よく注意するが良い。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもたくさんの事を行うのは、そなた達に不用意な事を適当に口に出させないためだ。まずいことを言ってしまっても改めることができると思ってはならない。改めることなどできないのだ。口から言葉を出せば、業力は生まれる。菩提心を発し、大懺悔し、その後いっさい過ちを犯さない限り、改める機会などないのだ。適当な言葉を適当に口に出しても、どうということはない、と思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達を訓練し、事は起きると教えよう。そなた達が言った事を、リンチェンドルジェ・リンポチェはその言葉通りに実現して見せよう。その時になって助けを求めても役に立たないのだ。これこそが果報の恐ろしさだと感じさせてやろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳しいと言う人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが厳しいのは、自分のためではなく、そなた達のためだ。この一生では、これ以上うっかりすることはできないのだと分かわからせてやろう。適当に言ってもどうということはない、などと思ってはならない。冗談を言っているだけだし、特に意味はない、と思っているだろうが、その言い訳は許されない。口から言葉を出したということは、意も動いたということだ。意が動かなければ、言葉を口から発することはない。『有口無心』という言い方は、適当に理由を見つけてきて言い訳しているのだ。

みな戒についてはっきりと認識しなければならない。学仏人なら、必ず理解し、必ず遵守し、生活の中に必ず用いなければならない。守戒する人は変人ではない。他人と相容れないということはなく、人と一線を画さなければならないということもない。本来同類でない人どうしはいっしょにいられない。噂話好きで、負けず嫌いな人と、やはりいっしょにいるなら、それはそなたも彼らと同類だということだ。仏法を聞きに来るのは、仏祖の加護を得たいがためだろう。学仏して己の過ちを改めたいがためではない。よってこの類の人といっしょにいるのだ。自分のパートナーはやはり自分を罵り、やはり一日中あれこれ口うるさい。これは自分とパートナーとが同類でないということで、いっそのこと離婚してしまった方が良い、という人がいる。これはあってはならない。経典ではこのようには説かない。夫が以前と変わらずそなたを罵り、妻が以前と変わらず口うるさいのは、そなたに原因があるのだ。そなたが改められていないため、相手はそなたの欠点を感じ、そなたの長所が見えないのだ。学仏しても家族を変えることができないなら、どうして知らない人を助けることができようか?戒とは、生活において、そなたが改られていると少しずつ他人に感じさせるものだ。品徳が絶えず向上し、言葉で人を傷つけ、他人を損なうことがないと、他人に感じさせるものだ。

言葉で人を傷つけ他人を損なうことがないとは、相手の立場に立ち、相手のためを思い、相手を気遣っていると、言葉で他人に感じさせるということだ。戒を理解せず、世間法を用いれば、絶えず悪を為す。よって、戒をはっきりと説くことで、上師はそなた達に授戒するのだ。受戒は非常に容易だが、守戒は非常に難しい。どうすれば、しっかり守戒できるのか?守戒とは、力をつけ衆生に利益するために行う第一步なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにどうやって学仏すべきか、と聞きに来る人がたくさんいる。読経すれば、それが学仏なのか?十小咒を念じれば、それが学仏なのか?そうではない。戒を先ずは守り、戒をしっかり守れて初めて心を定めることができ、仏法を聞くことができるのだ。

五戒の他に、我々は自分の心を理解しなければならない。貪心はあってはならないものだ。貪心には『所依境』がある。つまり、他人の内外の財産に対して貪念を抱くことだ。思維は、これを己のものにしたいと願い、手に入れて返す必要はないと考え、公のものを使ってもそれを自分のものだと考える。公のものを自分のものにしてしまうのは、公務員が最も多いだろう。会社に勤めている人、内装工事業者もそうだ。どうして内装工事業者なのか?内装工事業者は通常多めに見積もりを出す。そして、残った材料を持ち帰って次の工事に用い、金は客がくれたのだと思っている。これを貪念というのだ。皆はこれは自分で稼いだ金だと思っているだろうが、実はこれこそが不法に他人のものを手に入れることなのだ。公務員が特に犯し易いのは、事務所内の紙やペンを使った後ついでに持ち帰ってしまう過ちだ。ちょうど自分の子供もペンを使う。二〜三本持ち帰ってもどうということはないだろう。消耗品として処理すれば良い。このようにしている例が非常に多い。このような考えは貪念だ。これから、これらの果報について説く。汚職もこの範囲に含まれる。

『加行』とはどうすべきかよく考えることだ。『動機』とは三毒の煩悩、特に貪念を言う。『完成』とは心の中でもったいないと思い、しかも慚愧の方法を用いず対治することだ。貪心のタイプには三種ある。第一に、自分の家族のすべての財産に対する貪念で、これはしばしば目にされる。父母の財産を争い、裁判に訴え、父子や兄弟が反目する等の例は枚挙に暇がない。第二は、相手の財物に対する貪恋で、他人の財に対する貪念だ。これもこの世間では絶えず発生している。ビジネスで金を稼ぐべきではないのか?違う。いわゆる相手の財物に対する貪念とは騙取の行為で、不当な行為で他人の財物を己のものにすることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも覚えている。かなり以前、水商売勤めをしている何人かの女性がリンチェンドルジェ・リンポチェに『私達の業は非常に重いのではないでしょうか?だからこそ、この一世でこのような仕事に従事しているのでは?』と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『そうだ。その通りだ』と開示した。すると、彼女たちは『このような仕事にどうやって向き合ったら良いのでしょうか?』とさらに尋ねるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『そなたの業力が完了するまでは、やりたくないと思ってもそれは無理なことだ。けれども、ある一つの事だけは行ってはならない。それは他人を騙して金を得ることだ』と答えた。『他人を騙して金を得る』とはこういうことだ。女性社員たちはよく、母が病気で、とか、兄が他人に金を持ち逃げされて、とか言い、相手の同情をかって少しでも多くの給料を得ようとする。これが騙すということだ。商売人もしばしば他人を欺く。特に建設工事、内装工事では材料費を水増しするなどすれば簡単に人を騙すことができる。偽薬を売ったり模造品を売ったりするのもすべて騙詐で、他人を騙して金銭を手に入れるのだ。

第三は、地下宝物を希求することで、己のものではない他人の財に対する貪念だ。地下宝物を希求する例は、台湾でよく聞いたり見たりする。日本人がたくさんの純金を山洞の中に隠したなどという報道が一時よくなされたりした。またある時は、総統府脇の駐車場に純金が埋まっているとして掘った人もいた。これこそが貪だ。地下宝物は宝石、純金だけではない。最も重要なのはチベット仏教でいう岩伝法だ。以前の成就者が蓮師と共に宝物を埋めたというのだ。これらに非常に貪恋する人がおり、どこにあるらしいという噂を聞けば必ず駆けつけ、大金を払って買ってくる。だが、彼は知らない。このようなものは金銭で買売するものではなく、他人が修行を成就させて得る宝物なのだ。

最も深刻な貪心は、出離者の持ち物に貪恋することだ。大成就者はいくらかの宝物を持っているが、これら宝物はそなた達が考える世間財ではなく、どれも、より多くの衆生に利益できるよう大成就者を助けるものだ。だが、多くの古い法器を含むこれらが宝だと知ると、これを得たいと貪恋するようになる。これらは今では市場で買売されたくさん流通しているが、これも一種の貪念だ。そなたが具徳の修行人でないなら、良い法器の所有は非常に危険だ。そなたの福報が十分でないなら、法器を持つことで必ず面倒が起こり、死に至ることさえある。なぜなら法器のような宝物は衆生に利益するためのもので、手に入れて自分に利益するものではないからだ。

二つめに挙げたあるべきでない心は人を害する心だ。『所依境』とは、我々の心が一切の衆生に対して危害を加えようと思惟することだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに、アリ、ゴキブリを殺してもよいか?と聞く人がしばしばいる。最も大切なのは、害を加えようと考えないことだ。例えば、ある人がアリを見つけて、巣はどこにあるのか?と探す。見つければ、水を流し込み、いたずらして壊したりする。これが『思惟殺害』だ。例えば、ある人がねずみがそこにいるのが分かっていて、実際に探しに行き、見つけたら駆除薬を仕掛けて殺す。これこそが『思惟殺害』だ。無意の内の殺害なら、それはこの範囲には入らない。『加行』とは自分の意見に従い画策することで、つまりたった今述べた『どうやって殺そうか』と考え、ねずみ駆除薬を用いたり火を放ったり等の自分の方法を用いることだ。どうして現代はガンがこんなにも多いのか?稲作農家はかつて田にねずみの駆除薬を撒いてねずみを殺していた。そして、その田の稲藁を集めて燃やしていた。そのため、これらに関わった人がみなガンに罹っているのだ。

『動機』とは『三毒煩悩』、特に『嗔恨』だ。蛇を怖がる人がいる。咬まれたくないと言って、蛇を殺そうとする。『嗔恨』は最も恐ろしい。これは自分に危害を加えると考え、嗔念を起こし、それを殺そうとする。これにより、相手に対するこの殺業は生生世世のものとなり、この一世で少し懺悔するだけで解決できるというものではなくなる。大菩提心を発しなければ、絕対に転過できるものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて非常に大きな悪業を為したが、初めて閉関した際にようやくそれを償うことができ、どうにか離れてもらった。そなた達はいま適当にちょっと咒を念じ、いくつかの法会に参加しているが、嗔恨の心が改まっていないなら、累世の業はすぐに訪れるだろう。嗔恨の心には、他人の言葉を気に入らないと思ったり、相手の過ちにすぐに怒ったりすることも含まれる。

『完成』とは心で決定しながら対治しようとしないことだ。つまり、ある事を為しても後悔しないことだ。我々が衆生を害する心には四種ある。一種目は嗔恨から起こす害心で、敵と争い殺害の心を起こすことだ。これはしばしばあるだろう。他人が気に入らないことを言いさえすれば、触れられたくない点に触れられさえすれば、機会をとらえて仕返ししよう、やっつけてやろうと思う。嫉妬から起きる害心は、このような例が最も多い。特に宗教団体内で多く、職場ではそれほど深刻ではない。職場では、しっかり働いていれば、誰もが自然にそれを目にする。けれども、宗教団体、特に学仏においては、成績の基準がないので、うまくやっているかどうかは評価が非常に難しい。よって、宗教の場では、たくさんの人が嫉妬から、あの人の修行は自分よりうまくいっている、上師はあの人に対してよくしている、あの人の方が信衆が多い、などと考える。そしてこれらにより害心を起こし、競争相手に対して傷害の心を起こすのだ。傷害といっても相手を殺すとまで行く必要はない。相手を攻撃し、批判し、名誉を毀損する等もこの範囲に含まれる。

三種目は貪念により起こす害心だ。つまり、いわゆる『謀財害命』だ。これも直接相手を殺すこととは限らない。これくらい銀行にとってはどうということもないだろう、と考え、銀行から借金しても返済しない人が多い。だが、そなたが返済しないことで、担当者がどれだけのプレッシャーを受けるか、さらには解雇されるか、考えたこともないだろう。思い悩んで自殺してしまう人もいる。このような事態も過去に起きている。『この金が返って来たのでそれで良い。相手がどんな結果を引き受けなければならないとしても関係ない』などと思ってはならない。例えば、何かを買った時のお釣りが多かったとする。そなたはその場を離れて初めて気づいたかもしれない。数元くらいどうということはない、と多くの人は考えるだろうが、これも他人の金銭の不当取得の範囲に入るのだ。そなたが数元多く受け取ったため、帳簿の計算が合わず、悩んで自殺してしまう人もいるかもしれない。そんなことになれば、この人の命はそなたに帰属するのだ。謀財害命は墮胎、中絶の手助け、金儲けのための墮胎もこの範囲に含まれる。産婦人科医が中絶手術を行ったあと懺悔しないなら、ひどく悲惨な死に方をする可能性が高い。たくさんの人が命を奪いに来るだろう。現在台湾の病院では医師であろうと歩合給なので、病院に入ってしまえば、少し調子が悪いくらいでも手術されてしまう。医師は『かまうもんか。切ってしまってからのことだ』と思っているだろう。肉を切られるだけでなく金銭まで奪われ、うっかりすると命まで取られてしまう。偽薬、偽酒を販売する人も謀財害命だ。

四種目は、仇により起こす害心だ。相手が自分を傷つけた後、その恨みを覚えていて相手に害を及ぼそうと考える。これもあってはならない。さらには相手がそなたを傷つけた後謝っているのに、許さず、相手に害を及ぼそう、報復しようと考え、機会があったらとっちめてやろうと思っている。このような心は決してあってはならない。このような心持ちは鬼の心だが、このような心持ちの人が多い。直接的に相手に害を及ぼしていないとしても、見世物を見物するような気持ちで、相手にいつ悪い事が起きるか、と期待している。『あいつはこんなにも自分に害を及ぼしたのだから、いつ死ぬか楽しみだ』と思っている。このような心こそ人を害する心だ。このような考え方を持ったことがある者はいるか?ここにいる者はみな持ったことがあるだろう!自分は悪事を為したことがない、とみな一日中言っているが、このような心を持ったことがあるなら、それこそ悪だ!まだ行動に移していないとしても、思惟しさえすれば、その業の力は生まれるのだ。

なぜ『一切の敵に感謝せよ』と仏はお教えになるのか。敵が現れるのは、そなたが過去世でしっかりできておらず、この一世で改められていないからだ。害を及ぼすこの人に、そなたが過去世で借りを作ったとは限らないが、そなたの過去世での行為が、この一世で改められていないため、これらいわゆる悪人を招き害を及ぼすのだ。そなたが本当に仏子なら、害を受けた時『自分はしっかりできていないところがまだあるのだ。己を改める機会を作ってくれたこの敵に感謝しなければならない』と自分自身に警告するだろう。そなたに対して良くしてくれる人の言うことを、聞き入れられるとは限らないが、そなたの肉を抉り、そなたから金銭を奪う人、このような人の言うことなら、聞き入れられるかもしれない。自分の子女は間違っておらず、すべては他人の過ちだと思っている人が非常に多い。これら父母は、子女が悪を為すのを手助けしているのだ。他人を通じて『自分の息子が、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にいじめられている』とリンチェンドルジェ・リンポチェに訴える人もいる。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは誰が誰をいじめているかはっきり分かっている。だが、世間人は仏が我々に教導くださる真の意義を体得できず、思い上がって日々を過ごしている。

害心の中では『五無間罪』に関係する動機が起こす害心が最も深刻だ。『五無間罪』とはなんだろうか?それは『出仏血、殺父母、破和合僧団、殺阿羅漢』だ。『殺父母』はそなた達は犯さない。なぜなら『殺父母』の因縁がある人が、仏法を聞きに来るなどあり得ないからだ。そなた達には『殺阿羅漢』の資格はない。なぜならそなた達には、どれが阿羅漢か分からないからだ。だが『破和合僧団』と『出仏血』は犯す機会はふんだんにある。

『破和合僧団』とはなんだろうか?寶吉祥仏法センターは一個の『和合僧団』のようだ。四衆が同じ時間に仏法を受け取り、同じ時間に仏法を修行している。この団体内で、この派とあの派が合わないとなり、さらには互いに挑発したり攻撃したりし、その修行団体を分裂させてしまう。このような状況はよくある。これこそが『五無間罪』でこの罪を犯せば無間地獄に堕ちるだろう。

『出仏血』とはなんだろうか?そなた達は現在、釋迦牟尼仏を見ることなど絶対にできないし、ナイフで仏に切りつける機会もない。だが、我々はしばしば『出仏血』つまり『仏を中傷』する。仏を中傷するとはどういうことか?業力が眼前に現れると、すぐに『仏菩薩は効き目がない。守ってくれない』と考える。これが『仏を中傷』することだ。仏菩薩はそなたを守ってくださらないのではない!霊験があるかどうかは、そなたの心と関係があるのだ。そなたの業力はそなたの事だ。仏がそなたにもたらしたのではない。そなたがこの悪念を起こせば、すなわち仏を中傷するのだ。仏像を毀損するのも『出仏血』だ。特に嗔恨の心でこの動作を行えばそうだ。何人かの弟子の夫或いは妻はかつて仏像を廃棄し、毀損したことがある。これらはすべて『出仏血』に含まれる。これを聞き、恐ろしく思い始めただろう。ではどうやって償うのか?とても簡単だ!夫や妻に学仏させ、大懺悔心と菩提心を発せさせれば、これを改める機会ができる。

嗔恨の心念で各種の害を思惟し、相手に能力と安楽を喪失させ、人生を台無しにさせる。これら害心はあってはならない。『心地善良』は非常に重要だ。本当にナイフで他人に切りつけ、本当に他人を罵倒する人は多くないかもしれない。だが、他人を揶揄い、他人を激しく罵倒し、それにより恐怖の中で日々を過ごさせ、安楽を感じられなくし、さらには他人の名誉を毀損し、他人の事業を破壊し、他人の家庭を壊す。これらはすべて決して為してはならない。

最後の一言『心地善良』は非常に重要だ。どうすれば『心地善良』になれるのか?『仇と恨と怨を忘れる』ということだ。他人に打たれ、他人に害を及ぼされれば、すぐに相手に頂礼し感謝するのだ。ここで、リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子を叱責しよう。彼女は、息子はいじめられており、それは息子自身の過ちだという。息子は他人をいじめないだけで十分に良いのだ。母親は彼をどれだけ守れるのか?死なないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが別の師父のように、この母親のいう事を聞いていたなら、とんでもないことになるだろう!『心地善良』のポイントはどこなのか?もう一度言う。『仇と恨と怨を忘れる』だ。他人が何を言っても、何を批判しても、すぐに忘れる。さもなくば『心地善良』を為すことはできない。他人が自分についてあれこれ言っている、とちょっと考えるだけで、有害な心だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一日中他人の事を尋ねるのはやめるよう、なぜしばしば教えるのか。なぜならそなたが他人の事を聞けば、他人があれこれ言うのを助けるからだ。以前ある出家衆弟子はあれこれ言うのが大好きだった。今は少しましになった。『心地善良』を為すのは難しくない。非常に容易だ。ただ『仇と恨と怨を忘れる』だけだ。これができれば、そなたの心は善良であり始める。夫がそなたを傷つけ、そなたに対して酷く、そなたは夫が悪いと思っており、『仇、恨、怨』を心に抱いているなら、そなたが彼を害する動作を取っていないとしても、彼に害を為す心を絶対に持っており、報復する機会は絕対にある。どんな機会だろうか?夫が病床にある時、世話してやらないことで報復を開始する。夫が尿意を感じ漏らしそうになっても放っておき、失禁してから声を掛ける。このようにして仕返しするのだ。

我々は『心地善良』を為せるよう訓練しなければならない。この三つは必ず確実に行わなければならない。もしできなければ、そなたの心は必ず害人の心を起こす。ただ今は機会を待っているだけで、機会が訪れれば、必ず実行し必ず口に出し必ず挑発し必ず法を犯す。学仏成就した修行人を見てみよ。誰が他人に害されたことがないだろう。顕教であろうとチベット仏教であろうと、釋迦牟尼仏を含むすべての大成就者は成就の前に必ず人に害を及ぼされている。だが、彼らは『仇、恨、怨』を覚えているだろうか?そなた達が今日こんなにも苦しいのは、『仇、恨、怨』を忘れられないからだ。これにより絶えず苦しみ煩悩を抱くのだ。この煩悩を発散したい、という思いが、仕返ししたいという思いに変わり、仕返ししスッキリしている。台湾には非常に奇妙な現象がある。事故で誰かが死ぬと、必ず他人のせいにする。すべては他人の過ちだとして、少しでも多くの金を得て、溜飲を下げようとする。これこそが仇を記憶し恨を記憶する心だ。

我々は自分の『心地善良』を訓練しなければならない。口で言うだけでそれで良いというのではなく、宗教団体に寄付すればそれで良いというのではない。真に心に刻み、実際の生活に生かし、すぐに実行しなければならない。そなたが今日、自分は仇を恨を怨を記憶していると思うなら、そなたの心は黒い心だ。白い心ではない。『決して上師に怒りをぶつけてはならない。上師に腹を立ててはならない』と皈依の時どうしてみなに言うのか。なぜなら上師はそなたの恩人なのだ。恩人に対してさえ腹を立てるなら、どんな人に対して腹を立てないのか?

『心地善良』は最も重要だ。その意味はそなたの心が善良でなければ断悪修善する資格はないということだ。心が善良でないなら、どうして断悪できようか?娘婿を批判する岳母は多い。そなたが娘婿を批判するなら、娘はどうしたらいいのだ?そなたは自分の好悪のために他人を苦しめている。表面的には娘のためを思っているようだが、実は、娘を害しているのだ。娘に悪を為させているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母を例に挙げよう。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は文盲だが、嫁、婿を批判したことは一度もない。我々の面前で他人を批判したことも一度もない。何も言わず忍んでいる。母は我々の結婚に変化を生じさせたくないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母には名言がある。『自分で見つけてきたのだから、自分で責任を負えばよい』というものだ。本当にそうなのだ。今このような老母と言われる人はみなお節介(鶏婆)だ。こんなにもお節介なら、次の一生では必ず鶏に生まれ変わるだろう!100%そうだ!こうであるなら、『心地不善良』だ。なぜならそなたは他人が悪い、うちの家族はみな善人で、他所の人はみな悪人だと思っているからだ。

嫁と姑の諍い、岳母と女婿との争いがどうしてこんなにも多いのか?当たり前だ。女婿の中にも人間ができていない者がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェの二人の弟子も人間ができていない。彼らは同じ穴の狢だ。岳母に対して良くせず『心地不善良』だ。岳母がいなければ、この娘はいなかったのだ。ならば、この妻を娶ることができただろうか?この二人の心は怨を忘れないのだ。怨を記憶する人の心地がどうして善良であろうか?岳母に対してさえ怨を抱いていて、どうして『心地善良』になれようか?なれない!これには、姑に孝行を尽くさない嫁も含まれる。経典は、姑に対する親不孝は地獄に堕ちると説く。なぜなら『心不善良』で、害人の心を持っているからだ。仏がお教えくださる方法はどれも、三悪道へ落ちないようお導きくださるものばかりだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこれ以上言えば、全員立たなければならないだろう。

これから、最も恐ろしい『邪見』について述べる。これは『正しくない見方』のことだ。因果を信じない人がいるが、これこそが『邪見』だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはある有名ホテルのオーナーを知っている。彼は殺生は良くないと分かっていながら、自分は因果を信じないと言っている。彼は自分の行為を正当化するため、因果を受け入れないのだ。因果を受け入れなかったため、先ずは、父親が脳卒中で倒れるという報に見舞われた。脳卒中はなぜ起こるのか?殺業が重いからだ。心不善良で、害人の心が重ければ、容易に脳卒中を起こす。『邪因果見』は先ほど言った弟子の弟嫁のように、自分が前世で他人に借りがあるかどうか分かりもしないくせに、自分は前世で他人に借りがあると滅茶苦茶なことを言う。1000元あるなら、上師に供養すればいいではないか?『邪因果見』の人はたくさんいる。『加行』は再三思惟することで、『動機』は貪、嗔、痴の三毒の煩悩、特に愚痴だ。愚痴とバカとはいくらか違う。愚痴は真理を受け入れず、一切の因果法則に背き、他人に諌められても教えられても、受け入れない。簡単に言えば、愚かで無知なのだ。『完成』は『確立彼見』でしかも対治を加えないことだ。

『邪見』には三種ある。一つ目は、善悪苦楽の因の不承認で『業果邪見』という。例えば、たくさんの人が病に苦しんでいるが、病人に『この病には因果がある』と言えば、病人の反応は『どんな因果だ?どこに因果があるのだ?私のどこが間違っているのだ?どこも間違っていない!』というものだったりする。このような反応を示す人は多い。これこそが善悪苦楽の因の不承認だ。二つ目は、二諦理に基づく修持は滅諦を証できないと考えることで、『真諦邪見』という。これは『苦集滅道、修小乗、断生死輪迴』の方法に関わってくる。この邪見を持つ人は、世俗諦と勝義諦に従い修持しても滅諦(滅とは「滅生死、滅煩悩」を指す)を証できないと考え、これは不可能だと考える。三つ目は、三宝等を中傷することで『三宝邪見』という。邪見は十不善業中で最も深刻で、非常に恐ろしい。なぜ上師の助けを受ける必要があるのか?なぜならそなた達はとても簡単に邪見を生じるからだ。学仏を始める前に他人から適当にいろいろ聞いているので、誤った考え方と見解をたくさん受け取っておりながら、正しいと思っている。よって仏路の修行においても、このような邪である見解を用いて仏法を解釈しがちだ。皈依後は必ず上師に従わなければならない。上師は、一切の誤った見解から離れ、成仏へと至る正しい道を歩むよう手伝ってくれる。

邪見で最も深刻なのは『殺慧命』だ。悪事を為す人だけが邪見がある、というのではない。行善、菜食を勧める宗教は他にもあるが、見解が誤っている。例えば、ある神が魔法の杖を一振りすれば、地獄に堕ちないと言ういい方があるが、これはすなわち邪見であり、因果法則に背いているのだ。因果法則に背けば、自分が植え付けた因から逃避し、果報を受け入れず、悪を為し続ける。そうであれば、生死の苦海を離れることなど不可能だ。

果報には『異熟果報』、『等流果報』、『增上果報』、『士用果報』の四種がある。悪業の『異熟果報』とは、為した悪業により三悪道に陥ることだ。嗔恨心、嗔恨の行為により誰もが地獄に堕ち、貪念により餓鬼道に堕ち、愚痴により畜生道に堕ちる。習慣という観点から言えば、行いが不善である状態が長く、その程度が重い者は地獄に生まれ、中程度なら餓鬼になり、軽ければ畜生道に生まれる。簡単に言えば、そなたの行為が貪、嗔、痴の範囲の内で、程度が重ければ地獄道に堕ち、それほどでもなければ餓鬼道に堕ち、さらに軽度なら畜生道に堕ちるのだ。

正しくない家業を営む家庭の人がいるとする。辞めるよう父母を説得できないとしても、これによって得た金に頼って成長したなら、やはりこの果報を分担しなければならない。学仏していても、菩提心を発していないなら、同様に三悪道に堕ちるだろう。成長の過程で、この良くない金を使っていないとしても、父母のこのような悪い事業の継続に賛同しているなら、同様にこの共業に陥るだろう。彼らの物を用い、彼らからの贈り物を受け取ったなら、悪業に堕ちるだろう。よって、贈り物を受け取る時は、くれた人が何をしているのか、はっきりさせなければならない。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依していない人の供養を受け取らないのか?なぜなら、皈依していない人は将来良い方向に改められるかどうかが不確かだからだ。どうしてテンジンニンマ・リンポチェは誰の供養も受け取られないのか?それは誰からも借りを作りたくないからだ。それから、そなた達の供養が良くないとご存知だから。それで受け取りたくないとお思いなのだ。業力の関係は非常に複雑だ。もちろん我々は情も考慮しない訳にはいかない。これも嫌、あれも嫌という訳にはいかない。だが、道理原則は明確にし、理解しなければならない。ゆっくりとでもできるだけ改め、行悪を繰り返してはならないのだ。

『等流果報』は『受用等流果』と『造作等流果』の二種を含む。『受用等流果報』とは寿命が短いことで、つまり悪を為す人の寿命は短いということだ。龍樹菩薩は『中観論』で『殺生は短寿を招く』と仰せだ。盗みは『受用不十分』を招く。何かを用いたいと思っても、しばしばうまくいかないだろう。『流連煙花常犯敵』とは、しばしば酒場へ行き、飲酒し、カラオケで歌っている人が受ける果報は、身辺への敵、つまりいわゆる小人(自分に害を為す人)の常在だ。妄語をよく言えば誹謗を得る。両舌であれば紛争を招く。家庭内で争いが多ければ、自分は両舌でないか考えてみよ。家族や親族が争うのは両舌だからで、しばしば挑発し合い、ああでもないこうでもないと言っているため、家庭内で争いが絶えないのだ。道場、会社などでもそうだ。どんな団体であろうと、なぜ是非が多いのか。それは両舌、挑発である人がいるからだ。自分の小人を減らしたいと願うなら、自分から始めなければならない。他人の事は言わず、たとえ知っていたとしても、そなたの口を通して語る必要はないのだ。良し悪しについて、絶対的な見方を持っている人が多い。だが、良し悪しは絕対ではないのだ。龍樹菩薩はかつて開示くださった。何かと言う叱り、あれも叱りこれも叱り、上師をさえ叱るある弟子のように、悪口好きで、一日中他人を罵倒する人がいる。悪口の人の果報は、しばしば良くない話を耳にすることだ。よく他人を罵倒する人が耳にするその人に対する評判は、耳障りの良いものであるはずがない。なぜなら自身が先にこの因を植え付けたからだ。

益がない話はできるだけ言わないようにせよ。益がある話とはなんだ?他人の断悪行善を助けられる話だ。隨喜功徳(人の幸せや喜びを妬むのではなく、共に喜ぶ功徳)、成就者を賛嘆する話だ。仏菩薩の功徳を賛嘆する話だ。これらは良い話だ。これら以外は、仕事の上で必要でない限り、普段のおしゃべりは少し控えよ。欲深い人はしばしば得るより多くを失い、願いはどれも叶わない。害人の心を持つ人は、しばしば恐れに陥る。邪見を有する人は、悪の見解を得る。

己を改めないなら、同様に悪業を好む人と徐々に共に過ごすようになるだろう。反対に、行善するなら、行善する人と自然にいっしょにいるようになる。『阿彌陀経』では『福徳因縁が少ない善男子、善女人は阿彌陀仏国土へ行けない』と言う。阿彌陀仏のお側では常に大善人と共にいる。仏と上師が欠点、過ちを絶えず指摘するのは、善男子、善女人でないなら、阿彌陀仏国土へ行く資格がないからだ。なぜならあちらには悪人はおらず、すべて善人だからだ。そなたの行為が悪なら、そなたが皈依し持咒し供養していても、行けると言う訳ではない。浄土宗では『念仏法門万人修、万人去』と言う。だが、この一万、二万の人はみな善人だ。現在何歳であろうと、善人になりたければ、己の一切の行為に留意し、他人の批判を受け入れなければならない。自分は間違っておらず、すべては他人の間違いだ、というような考え方の人はみな過ちである。

続いて『增上果報』について説こう。『等流果報』には続きがある。多くの人が、自分が今日病気に罹り、不治の病いを得たのは、果報が成熟し、完済できたのだと思っているだろう。実はそうではない。これは『等流果報』に過ぎず、『花報』として開花しただけで、まだ結果していない。結果はどこにあるのか?三悪道にある。ガン患者の多くは病が癒えれば、それで大丈夫だと思っているだろう。そうではない。この花に、悪の果ではなく、良い果を実らせることができるかなのだ。ガン患者が万縁を捨て去り、自分の心を善良な心に改めることができれば、果報は三悪道にはない。特にガン患者は、自分に対する批判は、誰からであっても、必ず受け入れなければならない。批判の一つ一つが業を消してくれ、自分の過ちがどこなのかを理解させてくれる。どうしてガンになったのか?それは嗔恨心が非常に重いからだ。嗔恨心がない人がガン、糖尿病、高血圧、脳卒中に罹る機会は非常に少ない。嗔恨心があるからこそ殺生するからだ。『等流果報』の後には『增上果報』がある。

殺生すれば、人身を得たとしても、不祥或いは環境が非常に劣悪なところ、しかも殺害が多いところに生まれるだろう。現在地球上にはこのような国がたくさんある。アフリカに生まれてしまったら大変だ。ひとたび内戦が起きれば、たくさんの人が殺される。たくさんの人が殺されるのは、過去世に殺生の業があったからで、ある一世で十善法を修め、この一生で人身を得たとしても、『增上果報』はやはり存在しているのだ。そのため、不祥、環境が非常に劣悪なところ、しかも殺害が多い地に生まれるのだ。この点から、そなた達の殺業はそれほどまでには重くない、とリンチェンドルジェ・リンポチェは推察する。そうでなければ、台湾には生まれず、中東やパレスチナ等に生まれ、一日中殺したり殺されたりを繰り返しているはずだからだ。台湾に生まれたということは、過去世で少しは褔報があったということだが、この世で数十年生きる内に、悪業が絶えずそなたの心を汚染する。この点から理解できるだろう。たとえ過去世で褔があり行善したとしても、この世で変わって行悪することもある。だが、悪を為しても改められるなら、行善するよう変えることもできるのだ。

盗みをする人はしばしば、干ばつや水害、雹が多い地に生まれる。邪淫は泥地や悪臭がする地に生まれる。泥地は沼沢地で、悪臭がする地とはゴミ捨て場や火葬場の近くもそうだ。邪淫は間違った性行為であるため、この類の地に生まれるのだ。妄語は恐ろしいところに生まれる。小さな島、特に南洋には邪教を信奉する人々がおり、他人が策を弄してそれで殺されるのでは、と毎日恐れている。そこでは、鬼でなければ妖怪だと人の心には常に恐怖が存在している。両舌や他人をすぐ挑発する人は急峻な高山に生まれるだろう。黄山、華山のような山ではなく、チベット、ネパール、インドなどの非常に高い山だ。人を罵り、悪口好きの人は、来世で人に生まれたとしても、石がちや荊が蔓延る地や沙漠に生まれるだろう。一日中あの人、この人と罵っている人、ある弟子もそうだが。名前を覚えられていなくて、そなたは運が良い。今日はそなたを立たせることはしない。そのような人はこの生で褔報を修めても、悪口で人を罵倒するため、自分の子女、嫁、婿を含む誰を罵しろうと、悪語で罵倒すれば、そのような地に生まれるだろう。暮らして行けるだろうか?非常に苦しいのだ!他人を苦しめたので、自分も苦しむ。よって、悪口は改めなければならない。言ってしまえば、それでお終いだということはないのだ。

次に『綺語』だ。一日中性的な冗談を言い、退廃的な音楽を聞き、他人を揶揄い、特に男女間で誤った考え方を生じれば、これらはすべて『綺語』だ。『綺語』であれば、四季が錯乱し、不毛の地に生まれるだろう。貪心の人は農作物の収穫が乏しい地に生まれ、害人の心を持つ者は果実が苦く痛みやすい地に生まれ、邪見の人は財や富がなく、親族や友が少ない。この一生で財も富もなく、大した親族もいない者は、己のどこに過ちがあるのか分かっただろう?これ以上怨んではならない。過去世に邪見があったのだ。そなたがこの世で受け取るのは、過去世で為したことの果だ。他人を怨み、他人を怪しみ、他人を訝ってはならない。

そなたこの一生の性格と習慣はすべて過去世と直接の関係がある。これこそが自分の性格だ、と思っているかもしれないが、そうではない。性格は変えられるのだ。『江山易改、本性難移』などということはない。母が仏法を受け入れたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは性格を変えられたのだ。母はもともとは仏法を受け入れられず、道教を信じていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの父が生前道教の道士で、たくさんの神通を母に見せていたからだ。だが、今日リンチェンドルジェ・リンポチェの母は観音菩薩を念じている。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが優れているからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの性格が変わったからだ。我々のこの一生のいわゆる性格とは、生生世世に累積して来た習慣が変成したものだ。性格の中の善であるものは残し、悪であるものはすぐに捨て去らなければならない。

善とは一切の衆生に利益するもので、我々の学仏の心、布施の心、他人に利益する心に等しく、このような善の性格、行為、習慣は永続させなければならない。だが、嗔恨の心、非常に頑固な性格と性質はすぐに捨て去らなければならず、こうして初めて真に断悪行善を成し遂げることができるのだ。我々は真に厳しく自分を省み、自分に慈悲をかけてはならない。自分に厳しくなければ、学仏することなどできはしない。少しでも己に対して甘ければ、仏法は心の奥底までなかなか浸透して来ないだろうし、そなたを薰陶し、そなたを変えることもできないだろう。簡単な言葉で解説しよう。この一生の命運は個人の性格が決める、という人がいる。これはもっともらしく聞こえるだろう。変えることができないなら、未来をも決めてしまう。だが、変えることを願うなら、未来を変えることもできるのだ。自己満足し、自分は利口だなどと決して思ってはならない。

よって経典中では『二種の人は非常に容易に証悟でき、仏の意義を理解できる。一種は上根器者で、もう一種は下下根器者である』と言う。なぜなら下下根器者は一枚の白い紙のように自分の考えがないので、上師と仏が説くことをそのまま聞き、そのまま行うからだ。上根器者に関しては言うまでもないだろう。そなた達は中根器、中下根器だ。難度が最も高い。なぜならそなた達は自分は利口だ、賢いと思っており、物事を行うのに基準と秩序に従い、非常に論理的だと思っているからだ。そのため、そなた達のようなタイプの人は非常に難しい。このような習慣はそなたの累世の性格、習慣、『增上果報』からゆっくりと顕現するのだ。いわゆる上根器と言っても、累世に累積されたものだ。この一世で得たのではない。すべて累世で絶えず行善、断悪することで、このような習慣が続いて来たのだ。ある大リンポチェが公の場で『リンチェンドルジェ・リンポチェは稀に見る上根器の人だ』と言われたのを聞いたことがあるだろう。鑑定なさったのだ。上根器とは、完全に仏法、仏の教導を受け入れ、依教奉行し、思考せず試さず、上師が説くことはすぐに行うということだ。そなた達のような疑惑の心は、これも過去世から携えて来たので、上師が説くことを先ずは疑い信じない。そのため、そなた達はこの一世で学仏を非常に難しいと思っているのだ。

続いて『士用果報』について述べる。これは、為した業が累世まで増長し無辺苦を受け、悪業が増長し、輪迴の海を漂うことだ。これらは先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが諌めたことだ。すぐに良くない習慣を捨て去らなければならない。よく罵る人は毎回怒りを爆発させ罵倒する前に、思考が停止する。罵倒した後は気持ちよいのか?罵倒した後とても気持ちがよいと感じているなら、もうお終いだ。なぜなら悪業、地獄での生活が習慣になっているからだ。『士用果報增長』を回避するため、行為、言語をすぐに改めなければならない。この瞬間に断悪すると決定したなら、すぐに行善を開始しなければならない。こうしないなら、学仏しても、反対に悪業を増長し、輪迴の海を漂うことになるだろう。

仏法の意義を真に理解していないため、表面的に学仏し、表面的に信衆のような顔をして仏法を聞き、褔報を祈ることしか理解せず、仏法を通して自分の行為を改めることを理解できない人は、子供が火宅に座っているようなもので、その危険、恐ろしさを知らないのだ。真の仏法の意義を受け入れず、理解しないなら、仏法を聞いたとしても、地獄の劫火に焼かれ、地獄に堕ちるのだ。一切の悪業を為して三悪道に生まれなくとも、短寿、多病、貧困、一切の不遇な境界を味わうことになろう。

よって、しばしば人はリンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来る。自分はとても不遇だ。どうしてだろうか?と。それは果報だ。士用果報の顕現だ。この一生で人身を得ることができても、やはり士用果報があり、やはり短寿、多病、何を求めても得られず、貧困などの一切が出現するのだ。だが、これは変えられるだろうか?変えられる。持戒し、十善法、六波羅蜜を修めれば、変えることができる。よって、心の中で思考しなければならない。自分の一生は貧しく、命を捨ててしまうことになっても、悪を続けてはならない。もし悪を為しているならすぐに懺悔しなければならない。これらは非常に重要だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて食事をする金もなかった頃、リンチェンドルジェ・リンポチェに仏像、仏机を先ずは売り払い、金ができたら再び買うよう勧めた人がいた。仏菩薩もお許しくださる、と言って。そなた達なら、これを受け入れるだろう。たくさんの人がしばしば仏像を売っている。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは餓死しても売らない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは一つの事を信じているからだ。かつて顕教を学んでいた時、観音菩薩の経典中で見た数行をリンチェンドルジェ・リンポチェは強く記憶している。経典中では『如法学仏の人、すなわち依教奉行すれば、食べ物がない、着るものがない、住むところがないという境地に陥らないよう菩薩は守ってくださる』とあった。学仏しているのだから、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩は嘘をおっしゃらないと信じた。そのため、最も困窮していた時も、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり食べることができ、衣服にも困らず、住む家もあった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェの決心は非常に堅く、このようないわゆる不遇はすべて自分の業報で、仏菩薩、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王とは無関係だと分かっていたからだ。

かつてあるリンポチェが非常に驚いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの行いはチベット人より立派だと言われた。そのため、ドラブ・ワン・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェは上根器だと仰せになったのだ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは決心が非常に堅いので、なんらかの環境により、自分の学仏と衆生に利益しようとの心を変えることはないからだ。最も困難な環境でも上師と諸仏菩薩に対する信心を捨てなかった。これは一種の試練、業報の顕現、すべての修行人が経験しなければならない苦の段階だと言うことができよう。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏像を売らない。なぜなら仏は父母より大切だからだ。父母はこの身体をくださった。だが、父母は生死を離れさせてはくれない。そなた達にとって学仏が困難なのは仏を信じていないからだ。仏を信じていないとどうして言うのか?なぜならそなた達は、仏菩薩が説かれたことを信じず、因果を信じていないからだ。よってそなた達は仏を信奉する人ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは観音菩薩のいわゆる救苦救難を信じているので、そなた達のような性格の者達ではなく、真に己を変えようとし、懺悔し発心し、修行する人を救うのだ。

そなた達は懺悔せず、発心学仏せず、観世音菩薩が救いに来てくださることを願っている。観世音菩薩は先ず地獄、餓鬼道にいる衆生を救われる。なぜなら彼らはそなた達より苦しんでいるからだ。そなた達はまだ十分に苦しんでいない。安楽な日々を過ごしており、三悪道の苦しみを理解していない。そのため、悪口を犯し、我儘に振る舞い、気分の赴くままに日々を過ごしているのだ。そなた達は仏を信じない。だから学仏は困難なのだ。仏菩薩が仰せになったあらゆるお言葉で、我々を騙すものは一つもない。絕対に成し遂げられるものなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは1994年頃にはあんなにも困窮していたが、本当に飢えたことはなく、衣服もあり、住むところもあったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが悪業を為すな、良くない事業を行うな、と諭しても、言われた人は必ず言い返す。『では、何をしたらいいのか?食べていけなくなる』と。これは彼らが仏を信じていないということだ。そなたがすぐに断悪できれば、仏菩薩は必ず面倒を見てくださり、守ってくださる。なぜならそなたは成仏へと向かって歩み始めたからだ。諸仏菩薩の願は、一切の衆生の成仏を助けることだ。そなたが断悪行善の人でないなら、仏菩薩がどうして助けてくださるだろうか?自問してみよ。考えてみるが良い。そなたがすぐに断悪行善できれば、仏菩薩は必ずそなたを助け、そなたを成仏させ、苦海中の多くの衆生を救うだろう。短寿であろうと多病であろうと貧困であろうと、一切の不遇な境界であろうと、自分が今生で得た一切について、決して仏菩薩を責めてはならないと理解しなければならない。そなたが仏菩薩を責めれば、それは出仏血、つまり仏を中傷することになるのだ。

そのリンポチェが当時リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねられた時、その問い方は非常に技巧的だった。先ずリンチェンドルジェ・リンポチェに『良くない時、心はどう思うのか?』と尋ねられたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『私がしっかりできていないのです』と一言だけ答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に、自分がしっかりできていない、過去世でしっかりできていなかったと考えていた。仏菩薩、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王とは無関係なのだ。果報を受け取った後でなければ、すぐに転過することはない。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは当時あんなに苦しくても、仏像を売らなかったのだ。仏像を売ることは、最大にして最も重い悪だ。

自分のいわゆる不遇は、悪の果報が成熟した時だと知れば、悪を続けるべきではないと分かるだろう。悪果が顕現した時、より大きな善業を行うことができれば、罪業はすぐに転じて清浄となる。リンチェンドルジェ・リンポチェはその良い例だ。1994年当時食事にも事欠く有様だった頃もやはり毎日大礼拝を行い、仏法を離れず、天や人を恨まず、以前こんなにもたくさん寄付したのに、今お金がなくて食事も満足にできないなんて、などと不満を持ったことはなかった。それどころか、毎日仏法の中で自分の問題を探すことに、より力を入れた。これこそが行善なのだ。龍樹菩薩はかつて開示くださった。『過去に自分の心を放逸、放縦し、行不善であったとしても、仏法の教導を聞いた後、精進し、非常にまじめに己を改めれば、その黒雲はあっと言う間に去って行き、明るい月明かりが望めるだろう』と。このお言葉は、リンチェンドルジェ・リンポチェの1994年時の行為を応現している。

仏の弟子難陀はかつて美色に貪恋したが、地獄の苦しみを見て、解脱道中に入った。難陀の心はかつて女人を貪恋したが、地獄で果報を目にした後、すぐに懺悔し、仏法の学習に精進したので、解脱道に入ることができたのだ。つまり、誤っても、懺悔し二度と犯さなければ、同じように解脱できるのだ。以上は我々に一つの重要なことを教えてくれている。善も悪も自分が為したもので、快楽も痛苦も自分が受けるものなのだ。我々は己の問題を決して疎かにし、問題を他人に丸投げすることをしてはならない。こうしていては、絶えず行悪しても自覚しないことになってしまう。表面だけで学仏せず、必ず心の奥底、内心から、己の問題がどこにあるのかを探らなければならない。誰かがそなたを検視する時、喜んで受け入れ、恨み、あるいはしぶしぶ受け入れるようなことはあってはならない。

自分はもういっぱしの年齢なので、他人の批評など受け入れる必要はない、などと思ってはならない。このような考え方はあってはならない。我々が変えることができるなら、『士用果報』、『增上果報』の力はこの一世で転じるだろう。そなた達が過去世で大福報がなかったなら、この一世で仏法を聞きに来る機会などあったはずがない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは悪業について開示した。悪業の果報の恐ろしさはみな分かっただろう。自分の心持ちと行為を決して放縦してはならない。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2015 年 09 月 21 日 更新