尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年3月22日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が、上師が私と家人を救ってくださった事跡について皆に語る機会を賜ったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

「2006年同僚であった兄弟子のお誘いで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法くださる阿彌陀仏無遮大超度法会に私は初めて参加した。この後も每年参加していたが、法会の殊勝とリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力、加持力について理解していなかった。

私は幼い頃から身体が弱く、風邪がすっかりよくなることはほとんどないほどで、服薬が食事と同じように生活の一部になってしまっていた。2009年7月、ある朝起きると、顔の左側が突然崩れ何も感じなくなり、口を閉じることもできず、言葉を発しにくくなった。医者の診断は顔面神経麻痺ということだった。顔面神経麻痺の治療の黄金期は発症後およそ一〜三週間だが、黄金期を過ぎると治癒は難しく、神経を修復できる確率は非常に小さくなる。私はたくさんの医者を回り、東洋医学や現代医学の電気療法、針灸等の治療を一ヶ月あまり受けたが、顔の左側の知覚はやはり戻らなかった。当時私は内心非常に焦り、廟へ行き神籤に頼り、道士にお祓いを頼み、乩童(シャーマン)に悪霊悪鬼を祓ってもらうなどしたが、麻痺した顔の左側の知覚は少しも好転しなかった。

あまりにも強い焦りと不安を感じていたため、やがて不安神経症を発症した。すべてを受け入れなければならない、と己に絶えず言い聞かせていてはいたが、内心の不安と焦りは止まることを知らなかった。崩壊の一歩手前まで精神的に追い詰められていたある日、私は、家の観世音菩薩に心を落ち着けてくださるよう願った。すると慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェに救いを求めに行くべきではないか、との考えが突然浮かんだ。そのため、先ず電話で申し込み、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁に向かった。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたのだ?』とお尋ねくださった。私は『顔面神経麻痺で知覚がありません』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは左手を出すよう仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェの右手を私の左手から10㎝ほど上に置かれた。その時、強烈な暖流が左の掌から麻痺した顔の左側に流れ込むのを感じた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは『顔面神経麻痺は、少し前、同僚と海鮮料理を食べた際の毒に当たったのだ』とお教えくださった。

当時愚痴な私は、尊き上師に少しも恭敬心を持っていなかったため、心の中で『そうかしら?』とずっと思っていた。私は海鮮に過敏なため、普段からほとんど食べないのだ。『いつのことだろう?』と考え続け、外に出る段になっても、『リンチェンドルジェ・リンポチェにお助けください、加持をお願いします、と願い出るのを忘れていた。これでは来週また来なければ』と思っていた。大修行者のあらゆるお言葉、あらゆる動作はすべてが加持であると知らなかったのだ。帰宅後翌日の夜ホットタオルで温湿布していた時、すでに何ヶ月も感覚がなかった顔の左側に知覚が戻り始め、しかも動かすことができるのに気付き、私は驚いた。そしてその約一ヶ月後にはほぼ回復してしまった。もし、顔面神経麻痺を発症していなかったら、医者に効く薬はないと言われ絕望し、藁をもすがる思いで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかり、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの加持により、顔面神経が回復し、不安神経症も治るという経験をしなかったなら、科学だけを信じ、思い上がり不遜で傲慢だった私が、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力と仏法の殊勝を信じることなどあっただろうか。私はこの病に感謝したい。そして、頑固で反抗的な私に殊勝なる教法を賜り、学仏の因縁を開いてくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

2010年より日曜日の共修法会に信衆として参加させていただいていたが、夫が他の宗教を、兄と姉は他の教派を信仰していたため、家人との争いを避けるため、每日曜日リンチェンドルジェ・リンポチェの法会に必ず参加しなければならないとはっきり言い出せず、人と会う、或いは勉強会があるなどと言って、こっそり法会に参加していた。皈依を求めるには夫の同意が必要だが、夫に、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏法を学びたいと言うと、夫はいつも、よく考えてからにしよう、などとはぐらかしてばかりなので、私は自分でも迷っていた。2013年、リンチェンドルジェ・リンポチェは、春節とその翌日に法会を開催されるという。私はこの消息を聞きうれしく思い、すぐに申し込んだ。帰宅後夫に、春節とその翌日は法会に参加する、と言うと、夫は非常に怒り『母は普段いっしょに住んでいないが、旧正月の数日間は泊まりに来るのに、お前はわざわざ家を空けて、年寄りのために料理しないと言うのか。なんてひどい嫁なんだ?』と言い、長々と私を責め続けた。私は、家族の食事会を旧暦三日か四日に移すなどの方法を提案したが、夫の怒りは収まらず、『どうしても行くと言うなら責任は自分で取れ』とまで言い放った。

その時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのその日の『学仏とはこの一生で最も重要な事だ。少女の頭髮に火がつけば、慌てて消火するだろう。それほど積極的に取り組まなければならないのだ』との開示を思い出したため、すぐに『学仏はこの一生で最も重要な事なのよ。他の事はまた明日話しましょう』と言った。その晚夫は一晩中寝苦しく感じなかなか眠れなかったという。翌日早朝『昨晩夢を見た。夢の中では仏菩薩の写真、法輪が転動する場景を目にし、自分たちは旧暦春節翌日にお前の実家に帰った。実家はもともと真っ暗で、母も兄も姉も顔色が悪かったはずだが、その日行ってみると、頭上に光明があり、光は明るく家中を照らしていた。仏菩薩は本当に不可思議だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの法会がきっと実家を救ってくれたのだろう』と言い、その後は、私が法会に参加すると言っても、反対しなくなった。今回のことで私は分かった。上師に対して信心を持ちさえすれば、上師と諸仏菩薩は学仏の一切の障礙を取り払ってくださるのだ。私は懺悔したい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心がなく、恩知らずで、家人の前で上師の功徳を賛揚することなく、己の行為を改め仏法を日常生活で着実に実行することをしなかったため、家族はこの清淨な道場を誤解し、それにより多くの障礙が生まれていたのだ。私は道場で信衆として3年を経た後、ようやく福報因縁が備わり、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することができた。

続いて、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが母をお救いくださった経緯について語りたいと思う。母は左足に静脈瘤ができており血圧は不安定で、入退院を繰り返していた。母は『自分の人生は長くない。もうすぐ死ぬのだと思う』と不安がってよく言っていた。私は母を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜りたいと思っていたが、母はいつもそれを望まなかった。ある日私は夢を見た。夢の中で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは実家で宙に浮いておられ、母のために仏菩薩を供養くださっているようだった。夢の中で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法なさろうとしたが、何かが足りないようで、そのため儀式は完了しなかった。その時、私は目が覚めたが、どうしたら良いか分からなかった。

その週ある兄弟子の、数年来連絡が途絶えていた母と娘との間の冷え切っていた親子関係を宝石が縁で変えられた、というお話を聞き、私は自分も宝石に請おうと思い、翌日母に贈る宝石を注文した。母はそれを常に身につけていた。2013年5月のある日母は血圧が安定せず気分が悪くなり、救急で診察を受けた。処置の過程で宝石のネックレスは落ちたが、数日もしない内に無事に退院することができた。医者は、血圧の不安定は左足の静脈瘤が原因で、手術で治療できるが、母は高齢なので、身体の状況を見て手術するかどうかを決める、と言った。

母は6月3日尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法くださる祖師ジッテン・サムゴン紀念法会に参加した。リンチェンドルジェ・リンポチェが上師供養法を修めておられる時、母は会場を離れトイレへ行った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時その場を離れた信衆を叱責なさり、この時トイレへ立った信衆は業障が重いと開示くださった。尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責された法会の三日後、母は病院へ行ったが、状況は良好なので手術は可能だ、とのことだった。当日も手術は順調で、数年患っていた静脈瘤による血圧不安定、歩行困難等の症状がすべて解消し、母を再び苦しめることはなくなった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、八十歲の母がしっかりと生き、しかも自分で自分の面倒を見られることなど有り得ないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を救うために用いられる方便法門を、私は不可思議に思う。同時に、上師がくださった全方位的な加持により、後顧の憂なく安心して学仏できるようしてくださったことを感謝申し上げる。

私は懺悔したい。子供の頃家が農家だったため、田を耕す際、農薬を散布する際に衆生を傷つけていた。卵の殼でワナを作りヘビを捕まえ殺していた。また、豚を飼い屠宰場に売って金銭を得ていた。自己の利益のために衆生を傷つけ、自己の口腹の欲を満たすため、無数の衆生を食べてきた。高校時代は何も生産しないと出家衆を批判し、先生や目上の人に反抗していた。大学時代は試験でカンニングし、アルバイト時には受け取るべきでないマージンを受け取った。また、夜間にアルバイトを掛け持ちし、日中の仕事を疎かにしていた。勤務時間内に株取引をし、会社の文具を持ち帰り、会社のコピー機で個人的な資料をコピーし、同僚の悪口を言っていた。これら一切の悪行悪言悪意を懺悔したい。一切の果報を受け入れ、二度と再び犯さないと懺悔したい。私を弟子にしてくださり、世間で最も貴重な仏法を教導くださり、私の法身慧命を開いてくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

『人身難得、仏法難聞、上師難遇(人身は得難く、仏法は聞き難く、上師には会い難い)』という。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げ、全力で依教奉行することで止悪行善し、この殊勝な因縁を大切にし、上師が開示くださる仏法をしっかりと記憶し、『依教奉行』し、上師の恩、仏の恩、父母の恩に報いることをお誓い申し上げたい。衆生が皆仏菩薩の教導を受け、正法を学び、止悪行善し輪迴を断ち、浄土に往生できることを願う。最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、より多くの有情衆生に利益でき、直貢噶舉教派の法脈が永遠に流伝することを祈願申し上げる」と述べた。

続いて、2014年7月20日に皈依した弟子が、私と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェとの結縁、及び上師が私とボーイフレンドを救ってくださった経緯について参会者に語った。「2011年、漢方薬軟膏を通じて、私は一人の兄弟子に知己を得た。この兄弟子は漢方薬軟膏の用途と貴重性について、非常に丁寧、誠実に説明してくださった。漢方薬軟膏は上等な天然薬材を厳選して作られ、皮膚に発症するさまざまな疾病に特に有効だとのことだったので、私は一瓶買った。私は服飾卸業に従事していたため、荷物を運んだり、商品を包んだりすることが多く、ちょっとした不注意で腰を痛めることもあった。それまでは一度痛めると痛みは一週間は続いたが、この漢方薬軟膏を使うようになってからは、随分楽になり、しかもその日の内に効果が感じられるようになった。また、自覚はなく、人に言われて初めて気づいたが、睡眠時にしばしばふくらはぎが震える症状があった。幼い頃、私は母にこの状況を伝えたが、母は、成長の過程で身長が伸び筋肉も伸びているからだ、と言ったが、大人になっても、ふくらはぎはそのままだった。ある日、私はふくらはぎに漢方薬軟膏を塗ってみた。すると、ふくらはぎの震えは治まってしまったのだ。今では私は漢方薬軟膏の愛用者で受益者だ。

当時兄弟子は漢方薬軟膏を紹介してくださっただけでなく、しばしば尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を超度し救われる事跡について賛揚されていた。私は聞くたびに強く賛歎していたが、『神話のようなその力は不思議だ。本当だろうか?』と思ってもいた。好奇心が強い私はその頃『阿彌陀仏無遮大超度法会』に何度も参加した。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を救度なさる願力は切実で真実なのだと理解した。2万人を超える参加者が詰めかける荘厳な会場で、リンチェンドルジェ・リンポチェが行われる一切は衆生のためなのだと知ったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深さと、甘露水をいっぱいに吸った吉祥草を電動車上で振り、会場内のすべての衆生に振りかけられるご様子が強く記憶に残っている。この世の中で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、このように命がけで衆生を救われるのだと感じ、私は深い敬意と賛歎を抱いた。

私のボーイフレンドは普段から運動しており健康だったが、ある日突然胸の辺りに鈍い痛みを感じたという。その後数度の発作を起こしたため、台北の有名な大病院で検查したところ、一週間後『血管が詰まっており、ステントを装着する必要がある』と医者に告げられた。簡単な手術なので危険はない、と言うので、後日手術することとなった。ところが、手術が半分まで進んだところで、遺伝的に血管が細過ぎることが分かり、ステントを装着できなかったため、彼の身体は日増しに弱っていった。そのため、私の勧めで、彼は医者の提案を受け入れ、自分の大腿の内側から血管を切除し心臓に移植した。私は彼の普段の身体状態からすれば、術後にリハビリすればすぐに回復し、完治するだろうと思っていた。

手術の日の朝、彼は手術の準備を受けながら、『心配しないで。すぐ終わるから』と言っていたが、手術は長引き正午を超えてしまった。手術室から出てきた医者の硬い表情を見て、手術は失敗だったと知った。彼は糖尿病を患っていたため、傷口が癒合しにくく敗血症を起こし、病床で寝た切りとなってしまった。しかも出血が止まらず、体外式膜型人工肺で心拍を維持している状態だった。その時私は突然あの兄弟子を思い出し、電話で詳細をお伝えした。すると、いくらもしない内に兄弟子が甘露水と『快楽と痛苦』を持って来てくださった。私は彼に甘露水を飲ませ、書中のリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を指差し見せながら、『これは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェよ。リンチェンドルジェ・リンポチェだけが救ってくださるのよ。しっかり従わなければだめよ』と耳元で何度も言い聞かせたところ、昏睡状態に陥っている彼は淚を流した。体外式膜型人工肺に頼り呼吸していたため、さまざまな臓器が機能不全となり、彼は最後には旅立ってしまった。

翌日は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが施身法をお修めになる、とのことで、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼をお救いくださるよう願い出ては、との兄弟子の勧めで、私は急いでリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜った。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、淚が流れてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたのだ?』とお尋ねになったので、私は『ボーイフレンドが往生しました。施身法法会に参加させてくださいませんか』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『ボーイフレンドは何をしていたのか?』と尋ねられたので、『セントラルキッチンで働いていました』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それは殺業が重い』と仰せになったが、それでも慈悲深くも施身法法会に参加させてくださった。

彼を救い施身法超度を賜ったことを、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。私は、彼が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに付き従い、集中治療室から出て行くのを夢ではっきり見た。しかも、苦しそうでなく、笑顔を受けべて出て行くのだ。火葬後の遺灰はきれいな薄ピンク色だった。彼は長期間糖尿病治療薬を服用していたので、このような状況は考えられなかった。ボーイフレンドは、医者が言うところの簡単な手術で命を奪われたが、彼の家族はみな非常に落ち着いていた。これらすべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる超度のおかげだと私は分かっていたので、深い感謝を感じていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『誰でも、生前に携わっていた仕事通りの往生を迎える』と開示くださった。彼はかつて日本料理店で働いたことがあり、しばしばうなぎをさばいていた。その過程は、手術台上で行われる様子のように腹を割くという。私は人生の無常を深く感じた。これは過去に為した悪が果報として現前したものなのだ。彼の因縁のおかげで、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかることができた。私は、衆生をお見捨てにならなかったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。リンチェンドルジェ・リンポチェがおられなければ、自分はどこへ堕ちていたか知れず、仏法を聞く機会などあっただろうか?

施身法法会に参加後満一年半で皈依を求めなければ、每日曜日の法会に参加できなくなる、と兄弟子が教えてくださった。当時私は深く考えず、必要ないと感じ、幸せいっぱいの気持ちで楽しく毎日を送りたいと思っていた。衆生の苦しみなど考えてもみないで、言い訳を探し続け、準備ができていないので等の理由で誤魔化していた。私は当時『毎日働いているのだから、日曜日くらいのんびりとテレビを見たりして過ごしたい。なぜ道場へ行かなければならないのか?』と思っていたが、兄弟子の勧めを断りきれず、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げることに無理に同意した。お目にかかると、リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたのだ?』とお尋ねになったので、私は日曜日の共修法会への参加を願い出た。リンチェンドルジェ・リンポチェは『なぜ法会に参加したいのか?』とさらに尋ねられた。実は理由は非常に簡単だがどうしたことか一言も発することができず、ただそこに固まっていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『早く答えよ』と仰せになったが、私はやはり口を開くことができず、焦りのあまり泣き出しそうになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは『よく考えてからまた来るように』と仰せになった。

私は心持ちが間違っており、信心がなく、衆生の苦を真に理解しておらず、懺悔心もなく、慈悲心と菩提心など言うまでもないことだった。この三種の心を備えず、出離心もなければ、輪廻を解脱することはできない。そのため、私は『快楽と痛苦』を開き、書中の一字一句をじっくり読んだ。そして『過去で為したすべては罪ですべては業である。この機会をとらえて、しっかり学仏しなければ、これ以上辛いことなどあるだろうか?』と理解した。如法の上師に従い、しっかり学仏し、より多くの衆生に利益しなければならないとようやくわかったのだ。

そのため、私は再度リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかることとし、今回は必ずしっかりお答えしようと思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが『どうしたのだ?』と尋ねられた時、私は皈依を求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは『良いだろう。登録せよ』と仰せになり、それ以上何もおっしゃらなかった。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはすべてを分かっておられたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの大智慧はスキャナーのように弟子の行為を検視なさる。おかげで弟子達の錯誤は白日のもとに晒され、物事を行うにより慎重になる。また、いつでもどこでも衆生を守ってくださることを私は上師に感謝申し上げたい。今回の屏東における超度では、リンチェンドルジェ・リンポチェは御身体に違和を感じられながら、弟子である私には何の力もなく、リンチェンドルジェ・リンポチェのために何一つ力を尽くすことができなかったことを懺悔したい。それなのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王をきめ細かくお世話なさっておられた。弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェをやせ細られるほど疲れさせてしまっている。私はみなに反省するよう言いたい。よく言いつけに従う弟子になり、如法の上師に従い、しっかり行おうではないか。

私は懺悔したい。かつて、牛、羊、豚、鶏、アヒル、ガチョウ、海鮮など多くの衆生を食べていた。私は懺悔したい。かつて、アリ、蚊、ゴキブリ、ネズミ、昆虫などたくさんの衆生を傷つけていた。私は懺悔したい。かつて盗みの罪を犯した。最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、法脈が永遠に流伝するよう祈願申し上げる」と述べた。

続いて、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年8月17日に開示くださった「戒律」の仏法テープを謹んで拝聴した。

「経典では、子供の誕生は借金取りでなければ借金返済だ、仇討ちでなければ恩返しだ、という。ある弟子夫妻は妻が妊娠した時因果を信じず、しっかり『地蔵経』を唱えず、しっかり懺悔しなかったので、今苦しんでいる。法会に参加する際には、いつでも子供に気を配らなければならないのだ。我々はこの世間に生まれた際、何一つ持たず、ただ一身の業だけを背負って来ているのだ。昨日ある弟子がフィリピンからの友人を連れてきた。この友人は、いくらか学があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェに『人がこの世間に生まれるのは、ある任務を完成させるためだ、と本に書いてある』と英語で言った。これは外道の言い方だ。外道は、人生はある任務、ある事柄のためにあると言う。実はそうではない。我々のこの一生は、借金取りでなければ借金返済なのだ。我々の一生、この数十年は、この二つから逃れることはできない。借金取りはしてはならない。借金返済はしなければならない。よって仏はそのために戒律を定められ、我々の日常生活を規範され、我々がこれ以上借金を作らないようにしてくださるのだ。もし、債務が増え続けるなら、生死輪迴を離れることはできない。

この二週間、リンチェンドルジェ・リンポチェは戒律の重要性について詳しく、繰り返し述べてきた。そなた達が守戒できないのには二つの原因がある。一つは因果を信じないことだ。口を開く度に『私は因果を信じる』とたくさんの人が言うが、もし真に因果を深く信じているなら、自然に守戒し、絕対に割り引いたりせず上師の言う通りにすぐに行うはずだ。守戒できない二つ目の原因は、利己的なことだ。あらゆる事で自分の利便ばかり考えている。水曜日リンチェンドルジェ・リンポチェは全幹部と会議を開き、前回のドラブ・ワン・リンポチェ護持大法会についてどこに不足があったかを振り返った。そして、みなに毎金曜日、日曜日の大同区公所における法会に参加する際には、この会場は無料で使用させてもらっているのだから、感謝の心で、周囲のすべての人に心を配り、貸してくださる人に迷惑をかけてはならないと注意した。ところが、水曜日言ったばかりなのに、金曜日にもう問題が起きたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェとの会議に出ていた者がきちんと聞いていなかった証拠だ。その日リンチェンドルジェ・リンポチェと共に会議に出ていた人は、手元に議事録があるだろう。会議の最後にリンチェンドルジェ・リンポチェはなんと言っている?」と仰せになったので、弟子が議事録を読み上げた。

「肝に銘じなければならない。外部の人の我々仏教徒に対する認定基準は非常に高い。他人に良くし、謙虚であるべきは当たり前だ。人に誤解され迫害を受けるのも当然だ。今後はあらゆる事でリンチェンドルジェ・リンポチェに指示されたり、叱られたりして、ようやく行う、というようなことはあってはならない。時間を見つけてこの二日の内に会議を開き、さまざまな状況にぶつかった時どう対処すべきか検討するように。何事もなかったような顔をしていてはならない。平日でさえ大同区公所での法会には外部の人が侵入する可能性があるのだから」

「ところが金曜日、本当に乱入があった。今日ある弟子は来場を許されていない。彼女は金曜日車を運転して来て、他人を遮るように駐車したため、その人は困ってしまった。このような事はここにいる運転する者はみな経験があるだろう。自分は学仏しているので偉大で、学仏が最も重要だなどと思ってはならない。学仏で最も重要なのは何だ?学仏によって衆生の煩悩を引き起こしてはならない。我々が他人に便宜を図らないで、誰が我々に便宜を図ってくれるのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来て22年になり、車も長く運転しているが、レッカー移動されたことは一度もない。そなた達はみなレッカー移動されたことがあろう。以前リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子の車に載っていた。その弟子は知識階級に属する人だった。彼女の家の駐車場までの道は一方通行なのに、彼女は交通規則に反してそのまま進入していった。リンチェンドルジェ・リンポチェが『なぜだ?』と尋ねると、彼女は『便利だからです』と答えた。そなた達も一方通行を逆走したことがあろう。オートバイに乗る者もしばしば逆走している。なぜ逆走するのか?便利だからだ。何事であっても規則を守らない者がどうして守戒できるだろうか?国家が定めた法令はつまりは戒律だ。そなた達はどうということもないと思っているだろう。オートバイで適当にサッと入って行く。今日来場を禁止されているその弟子は、駐車の便のため、他人の車の出入り口を塞いでしまい、その車の持ち主が文句を言いに来たのだ。これによって、どれだけ悪い印象を植え付けたことか。仏教徒とはこのような者なのか?そなた達は毎日悪業を為しながら気づかず、自分は善人だと思っているだろう?

仏はなぜ戒律を定められたのか?それは、人は非常に容易に過ちを犯すと我々に教えるためだ。知識階級に属する弟子でさえ過ちを犯すのだ。自分の方便のために、角を曲がった途端入って行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは一瞬とても驚いた。明らかに一方通行なのに、彼女は進んで行くのだ。そして、彼女は自分は毎日こうやっているが事故を起こした事はないとまで言う。分かっただろう。なぜこんなにも病が多く、こんなにも物事がうまく行かず、こんなにも問題が多いのか。すべては破戒のためだ。一日中他人に煩悩を起こさせ面倒を掛けている。もし今日学仏して他人に懊悩を引き起こさせるなら、学仏に来てはならない。仏は他人に煩悩を起こさせよとはお教えでない。

水曜日、大同区公所に悪く思われないよう留意するよう言ったのに、金曜日すぐに問題が起きた。彼女らは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何か言っても、歌を歌っているくらいにしか思っていないのだろう。何か言っているな、聞くには聞くけど、聞き終わってからどうにかするか、とでも思っているのだろう。もし大同区公所が無料で会場を使わせてくれなくなれば、誰が費用を負担するのか?そなた達だ。なぜ大同区公所はリンチェンドルジェ・リンポチェに無料で使わせてくれるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前彼らの手伝いをたくさんしたからだ。その際一銭も受け取らなかったので、今日そなた達が節約できているのだ。そなた達は感謝したことがあるか?そなた達は当然だと思っているようだ。法会会場が無料なことを誰も疑問に思ったことがないのだろう。この世間にそんな良い話があるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達のために道を開き、無料で使わせてもらっている。エアコン、電気、場所代のすべては無料だ。それなのに、そなた達はあそこの事務員達に対して何という態度だ?そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェのメンツをぶち壊したいのか?そなた達はこのように無料で使わせてくれる場所を探すことができるのか?ここにいる誰もが、当然だと思っているだろう。なぜこの場所は無料で使わせてもらえるのか、と尋ねたことがあるか?そなた達の心はいったいどんな心なのだ?なんとも憎たらしいことだ!

あらゆる事がそなた達と無関係なら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を弟子にとってどうするのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週仏法を説いてどうするのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは先ほど冗談を言ったばかりだ。他の道場で学んでいる人がそなた達と仲の良い友人なら、リンチェンドルジェ・リンポチェはもっと楽に日々を過ごせるだろう。こんなにも多くの人に借りを作る必要はないのだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは区公所に多大な借りを作った。誰のためだ?そなた達のためだ。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェのためだと思っているのか?そなた達はここに来て、無料で使用しながら、ここを大切にすることを理解しない。ここのすべてのスタッフを尊重することを理解しない。そなた達には感謝の心があるのか?感謝の心がない者がどうして慈悲心を学べるだろうか?慈悲心を学べないなら、どうして生死を解脱できるだろうか?学仏とはこれらを学ぶことなのだ。

小さなところから、そなた達の心が非常に冷淡であることが分かる。古い道場は使えない訳ではない。だが第一に今は人が多過ぎ入れない。第二に、そしてこれは最も重要な点だが、我々が仏法を弘揚することで、他人に不便と煩悩を生じさせてはならない。よってどうしようもないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在のところここを使っているのだ。最近なぜ別に場所を探さないのか、と思ったことはないか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェはとても探せないからだ。もし今、工場兼用のオフィスを買っても、法人団体は登記できないのだ。何か事故でも起きれば、会員すべてが賠償責任を負わなければならない。そなた達にはとても負担できないだろう。正式なオフィスを買おうにも、そなた達が供養した金銭では足りない。なぜ昨年以来リンチェンドルジェ・リンポチェは道場の購入を検討しないのか?それは、そなた達の心が見通せているからだ。そなた達には、良い道場を買おうという気が全くない。自分たちには能力がないというのか?本当に能力がない者もいる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、他の人に能力があるかどうかを知っている。そこにいる者たち、そなたは毎月の收入の四分の一を布施供養しているか?仏がお教えくださった方法である最も簡単なこの一点さえ、そなた達は守れないのだ。上師として、どうして道場を買うことなどできようか?買った後、リンチェンドルジェ・リンポチェはどう解決するのだ?一人として依教奉行しなければ。

さらに言えば、信衆に接見しているところも、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎月金を払っている。そこはどんな用途に用いているか、皆知っておろう。そなた達は親族や友人に何らかの問題が起きれば、リンチェンドルジェ・リンポチェを頼ってくる。上師も出家衆も非常に苦しいのだ。慈悲をかけるのは当然だと思われている。では、ものを食べるのは、当然ではないのか?なぜたくさんのチベット仏教の大修行者が現在は弘法しないのか?衆生のこのようの根器を目にし、別の世界へ行った方が良いと感じているからだ。特に台湾の信衆は甘やかされており、どんどん滅茶苦茶になっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある話を聞いたことがある。ある人がある出家師父から借金しようとした。なぜなら息子が結婚し披露宴を行うのに、金が足りないので、師父に借りようと考えたのだ。けれども、師父の金銭を、殺生する宴会を開くために、どうして貸すことができるだろうか?それで、不都合だ、と答えると、その男はすぐにこの師父を、無慈悲だと言って罵った。リンチェンドルジェ・リンポチェも一日中そなた達に罵られ、とても辛いのだ。なぜこんなに厳格に要求するのか?そなた達は一日中悪業を為しながら自覚がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは水曜日に注意したばかりなのに、金曜日すぐに現実になった。特にこのところ人がどんどん増えている。その内の一人が留意せず、不注意なら、団体全体の名誉に影響を及ぼすのだ。

『名誉』とは仏法ではそれほど重要ではない。なんのために重要なのか?外部の人に仏法に対して誤解を生じさせ、他人が学仏したくないと思わせる可能性があるからだ。因果から言えば、自分が過ちを犯したことで、他人が学仏しなくなり、他人の慧命を断つ。これは殺人の罪より重いのだ。仏教徒らしく、身を以って見本を示すようにと、なぜ一日中注意しているのか。しっかり菜食し、他人にあれこれ言われることを恐れてはならない。一日中後ろめたい事をしているようだが、学仏とはそんなにも恐ろしい事なのか?他人に知られるのが怖いのか?

以後すべての寶吉祥の皈依弟子は、自己が正しいと思う事を貫くことによって、他人に決して煩悩を抱かせてはならない。我々は現在一切の有縁衆生を接引している。衆生の根器、業力は非常に複雑で膨大だ。そなた達が知ることができるものではなく、そなた達の限られた常識で理解できるものでもない。外の人の仏法に対する誤解を避けるために、そなた達ができるのはたった一つの方法—忍耐しかない。他人が我々の身にいかなる言いがかりをつけて来ようが、それはすべて理にかなっているのだ。学仏人に忍耐力がないなら、福を修めることなどできない。福はどのように修めるのか?持戒忍耐によってだ。忍耐する気がないなら、戒などすぐに破ってしまう。簡単に言えば、守戒とは利己でないもので、思い上がりでないものだ。先ず相手の気持ちを理解し、先ず相手の考え、要求を理解してから、ゆっくりと説明する。自分は利口だと思い上がり、考えもなしに口走るのではない。

なぜ仏は守戒を厳格に要求なさるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェに教えを求めてたくさんの人が訪れる。自分の心は非常に乱れており、さまざまな考えでいっぱいで、非常に煩わしいという。なぜこうなのか?なぜ心が定まらないのか?なぜなら守戒していないからだ。守戒している人の心は自然に定まる。心が定まって初めて、空間、時間ができ、仏法の真諦を思維することができ、自我の智慧を開いて開発することができるのだ。智慧とは誰かが授けてくれるものではなく、我々に生来備わっているものなのだ。仏法と外道とが異なる点は、仏法では『智慧』を最も重要で、最も根本的な条件としている点だ。智慧とは学んで身につけるものではなく、高尚な学問でもない。どれだけ学べば智慧が身につくというものではなく、戒により定まり、智慧は開かれるのだ。なぜ守戒が謹厳なら心が定まるのか?守戒できる人は自然に妄念が減る。頭を働かせて思考しなければ、少しでも多くの利益を得ることがどうしてできるだろうか?衆生が利益を得られるよう願うなら、心は自然に鎮まる。なぜそなた達の心は乱れるのか?すべては貪嗔痴のためだ。なぜ菜食を恐れるのか?栄養が足りず、死んでしまうのではないかと恐れているのだろう。誰でも必ず死ぬのだ。だが人は自分がいつか死ぬとは思っていない。肉を食べていれば栄養が足り、肉を食べていれば体力が十分だと考えている。これは根本的に因果を信じていないからだ。

ドラブ・ワン・リンポチェが肉を食してはならないと公開の場で仰せになったのをみなも聞いただろう。チベット仏教では肉食すると誤解している人が多いが、そうではない。大成就の多くはみな菜食だ。経典でも『衆生の肉を八両食べれば、必ず半斤返さなければならない』とはっきり説いている。そなた達のおかしな病はすべて殺業から来ている。今ようやく利息の返済を始めたばかりで、まだ元本の返済には手も付けられていないのだ。つまり、仏が定められた戒律はそなたを縛るものでも、脅すものでも、罰するものでもない。日常生活を送る上での規範を教えるものなのだ。この規則を理解し、それに従って日々を過ごすなら、落ち着きと安心感を得られるようになるだろう。安心感を感じられない人は、守戒していないために、他人に害を及ぼし、衆生に害を及ぼしている。心理学的には、他人を害する心があれば、自然にその心の影響を受け、その心理的方向に反映されるという。人を害する心があれば、人を害する感覚を自然に理解し、また他人に害されることを恐れる。人を害する心がないなら、人に害することを恐れる感覚を持つこともない。

戒律は非常に重要だ。在家であろうと出家であろうと、声聞、縁覚、菩薩であろうと、すべて戒律から始まるのだ。守戒しないならどうしようもない。どれだけ読経していようと、どれだけ拝んでいようと、どうしようもないのだ。戒体が最初に成立すれば、心の定が始まる。定とはなんだろうか?定とは、如如不動だということではなく、一つの考えが消え、次の考えが出現するまでの、この間の時間だ。現代風に言えば、この時間は念を起こさない。念を起こさない人は自然に煩悩が少なくなり、呼吸の回数も減っていき、自然に健康になり、また長寿となる。そなた達は病がちで、短寿だ。それはすべて心が不定だからだ。

重病を患う人に万縁を捨てるよう、なぜどこの上師も勧めるのか?どうすれば万縁を捨てることができるのか?世間の一切の事柄を気に掛けず、考慮しない。死のうが生きようが構わない。病が治っても治らなくても構わない。何がどうであっても、気に掛けず、執著してはならない。科学的には、思考することが少なくなれば、消耗するエネルギーも減り、こうして初めてエネルギーを残して疾病に対抗することができ、健康を保てるという。しばしば癇癪を起こし、損得にこだわる人は、高血圧でなければ脳卒中、糖尿病、または精神的な問題を抱えているのではないか。ガンに罹患する人は、過去世かこの一世で殺業が重く嗔念が重い人だ。嗔念とは言葉にして癇癪を爆発させることとは限らない。心の中で恨み、いつまでも仇を忘れないのもそうなのだ。戒体は、これら良くない素因の発生を減らしてくれる。守戒しないなら定などあり得ず、定できないなら、学仏の智慧が生まれることなど永遠にない。

成就者なら誰であろうと、自身の持戒は必ず非常に厳謹で、必ず非常に円満だ。修行人が成就できるのは、根器が良く、福報が良く、縁も良いからだ、誤解している人が多い。これは条件の一部に過ぎない。最も重要な条件は、守戒できるかどうかだ。厳格に戒律を守れば、先ほど挙げた条件は非常に大きな助力となる。直貢噶舉教派中の何人かのリンポチェは、この一生で修行で成就なさった方だ。幼い頃からラマとして修行しリンポチェとなった方もおられる。法がどれほど優れているかではなく、その戒体が非常に謹厳で、教派のあらゆる人から尊敬を集めているからだ。そなた達は、自分は他人の尊重を得られないとしばしば感じているだろう。それはそなた達の戒体がしっかり守られていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。そなた達の顔色は真っ黒だと。なぜ顔が黒ずんでいるのか?それは心が汚れているからだ。心が黒いのだ。どんな人の心が黒いのか?それは戒を守らない人だ。守戒すれば、必ず断悪行善するため、相も変わっていく。守戒の人の相が奇妙だということは絶対にない。必ず非常に荘厳だ。そなた達の相は今もやはり奇妙だ。ツノが生えており、汚れた気が漂っている。それはそなた達の心がなお悪念を抱いているからだ。どんな事でも自分を出発点とし、自分の考えで事柄を処理する出発点とする。もしそうなら、戒を守るのは極めて困難だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの友人の一人はかつて健康のために菜食していた。菜食を一時続けた後、菜食は身体に良くない、と言う人がいた。すると彼は、すぐに肉食を再開してしまった。このような守戒の出発点は、自己の利益のためだ。よって戒守は長続きしない。明確に理解しなければならない。戒とは自身の業障を減らし、衆生に利益し、ひいては自身が仏果と成り、衆生に利益するためなのだ。こうすることで、戒は自然に守られ、活発となる。さもなくば、誰かに縛られていると感じるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしばお節介で口うるさく言うが、些細な事であれこれ争ってはならない。

ある弟子が妻と喧嘩し、その結果妻が法会へ来なくなってしまった。この弟子は、自分の姉がアメリカへ帰る前にリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たのを知っていただろうか?姉は、弟を管理し、弟を助けてくれていることをリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝している、と言った。ところがどうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に今年何歳か尋ねた。弟子は『34歲です』と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『4歲だと思っていた。そなた達夫婦を笑話としてたくさんの人が見ているのだ』と開示した。こんな事のために喧嘩し、こんな事のためにどちらも譲ろうとしない。彼ら夫婦は共にリンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏しているのに、二人とも譲ろうとしない。何を学んでいるのだ?他人の欠点は毎日目に入るが、自分の欠点は見えないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェから少しでも多く仏法を聞きたい、少しでも多く理解したい、と毎日願っていながら、これなのか!そなた達は日常生活において改められているのか?

毎晚就寝前に、今日自分はどんな過ちを犯したか省みるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜそなた達を諌めているのか?もし、一日反省しなければ、一日多く悪を為すならだ。我々は毎日自己の身口意が依教奉行だったかを省みなければならない。反省しないなら、一日を無駄にしてしまう。いわゆる修行とは、仏法の薰陶を用いて自己の良くない行為を改めることだ。この一生はこの世界にあり種々の苦痛を受けなければならない。過去で為した一切の業を、もしこれ以上反省せず、自己の問題を見極めず、すべての責任を他人の身に押し付けるなら、それは修行しているとは絶対に言えない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前言ったことがある。己を改めるのは、全宇宙で最も難しい作業だ。簡単ではない。非常に困難だ。やり遂げられたなら、そなたはその後平穏な毎日を送ることができるが、やり遂げられなかったなら、苦海内で永遠に自己を哀れんでいるだろう。本当にそんなに困難なのか?少しも難しくはない。どこが難しいのか?困難は自己にある。『人生で最大の敵は自分自身だ。他人ではない』と言った人がいる。我々の一生で最も克服が難しいのは自分だ。もしそなたが自身の欠陥を克服でき、自身の問題を見極め、自己が犯した過ちを他人に押し付けたりしなくなれば、これが修行の始まりだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、まだ学仏を始めていなかった頃、自分がどんな場所におり、どんな職位に就いていようと、間違っていると誰かに言われさえすれば、反駁したことは一度もない。誰々のせいで自分はこうなったんだ、などと言ったこともない。上司が指示した事を、部下がうまくできなくても、責任を部下に押し付けたことなど一度もない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすべてに向き合い、すべてに責任を負った。人生で最も重要なのは何だ?責任を負うことだ!責任を負っている時は表面だけみると損しているように見え、大変そうに見えるが」と開示くださった。

この時リンチェンドルジェ・リンポチェは居眠りしそうだった弟子を叱責し、先ず立たせて、生気が戻ってきたところで座らせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「観音菩薩はなぜ淚を流されたのか?何度も済度させても、やはりこんなにもたくさんの衆生を済度させられていないからだ。辛さのあまり淚を流されたのだ。なぜいくら済度させてもきりがないのか?経典には、仏菩薩がこれら衆生を苦海から救い出しても、すぐに戻って行ってしまう、とある。仏菩薩が前方の森林にはたくさんの盗賊がいるので行ってはならない、とお教えになっても、彼はやはり行ってしまった。なぜなら面白いからだ。森林はそなたの妄念、煩悩だ。面白い、と感じるのは、悪業を為しながら気づかないからだ。

『妙法蓮華経』内でいう火宅とは、我々が現在居住する環境だ。火宅とはなんだろうか?煩悩だ。我々は現在煩悩の家に住んでいる。火がもうすぐ燃え移ろうとしているのに、我々は気づかず、中で遊んでいる。そのため、『妙法蓮華経』中で、仏は、たくさんの玩具、宝石を積んだ牛車、羊車を用意し、子供達に呼び掛けこれらで遊ばせ、火宅内にとどまらないようになさったのだ。この二台の車は仏法で講じる小乗と大乗だ。宝石、玩具を用いて、仏菩薩は先ず我々を惹き付け、学仏の良さを感じさせようとなさる。そなた達は今でも自己の問題がどんなに深刻かを知らない。よってリンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言うのだ。人は非常に済度させ難いと。あらゆる仏もそう仰せだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、最も済度させ易いのは鬼道だと思う。鬼は苦海におり、苦しみを理解し、また真に苦しんでいるので、一旦済度させればすぐに行ってしまうのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず注意し、さらには叱責しているのに、そなた達はやはりこのざまだ。やはり改めない。改めなければならない!人生は短いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが気楽に日々を暮らしたいなら、他の道場を真似て、信衆に法会に参加させるだけで良いのだ。『良い発心です』、『あなたは菩薩です』、『よく修行できているので、今の様子はとても荘厳です』、『あなたは大功徳主です』、『読経していれば必ず福報があります』等と言っていれば良い。この方法を用いれば、気楽に日々を暮らせるのだ。だが、因果の点からいえば、将来は悲惨だ。なぜならこうすることで、リンチェンドルジェ・リンポチェは先生が果たすべき責任を果たしていないからだ。先生の責任とは学生をしっかり教えることだ。学生が教えを受け入れるかどうかは、学生が決めることだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労から出発したのだ。富に恵まれ、一生を順調に快適に過ごしたのではなく、不遇だと言える。そのため、苦を理解し苦を体得し、仏法の貴さを理解し、自身の未来の人生を変えるには、仏法の他に方法はないのだと理解しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始めて以来、一度も投げ出したことはなく、後退したこともなく、絶えず仏法内で方法、答えを探し、苦海にいるあらゆる衆生を救おうとしてきた。そなた達の問題の原因はどこにあるのか?そなた達は非常に苦しいとは、まだ感じておらず、安逸な日々を過ごしている。今日法会に参加したのでいくらかの福報を累積し、それによって自分の日々を少しは順調にでき、少しは病を遠ざけられ、少しは夫を手懐けられ、少しは子供に言いつけを守らせることができると思っているだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言っている。出世法を心を定めて修行するなら、世間法は決して問題はないと。リンチェンドルジェ・リンポチェが良い例だ。そなた達は今でもさまざまな問題を抱えている。それは、出世法で努力する決心ができていないからだ。努力する心を持たなければ、絶えず苦海で輪迴することになってしまう。輪迴するのに死を待つ必要はない。輪迴とは一つのサイクルだ。情緒の起伏、怒り、喜びもすべて輪迴だ。先ほど言った夫婦喧嘩している弟子では、彼の姉は非常に喜んでいる。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟を管理しているからだ。この弟子の息子は非常に悪戯好きだ。なぜ、この子は悪戯ばかりするのか?それは、父親を真似ているのだ。父親が家の中で横暴だったからだ。そのため、父であり母である我々は、自身を改めなければならないのだ。次の世代が幸せであって欲しいと願うなら、そなたが拝仏すれば良いというのではななく、そなた自身が改めなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは喫煙せず、悪い事もしない。よって、息子に喫煙するな、悪い事をするなと要求する権利がある。自分ができていない事を、子供世代に要求することができるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあるニュースを見た。ある姉弟が喧嘩したところ、父親は罰として、彼らにプラカードを持たせ道端に立たせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは父親の様子を見てすぐに分かった。一日中人と争っているタイプの人だ。そのため、子供もそれを真似たのだ。そなた達自身が争いを好むなら、子供も自然によく争うようになる。そなた達が小利や小事に細かくこだわるなら、子供も自然にそうなる。すべて父母を真似るのだ。

仏法の真諦は『消災解難』というような簡単なものではない。真の意義は生死を解脱することだ。生死を解脱といっても口で言っていれば良いというものではなく、先ず持戒から始め、真にやり遂げなければならないのだ。持戒とはこれ以上借りを作らない、ということだ。一切の衆生から借りを作ってはならない。何であっても衆生に借りを作りさえずれば、必ず戻って来なければならない。こんな小さな事なら借りにはならないだろう、などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある女性にポワ法を修めたことがある。彼女は40歲でガンで亡くなったが、生前リンチェンドルジェ・リンポチェは一度加持に行ったことがあった。この女性はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しておらず、親戚でリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依している者もいなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めてもらうことができた。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に加持した時、彼女と因縁があったことを知ったのだ。この女性は過去世では男性で、漁師だった。その一世でリンチェンドルジェ・リンポチェは出家人だったが、彼の漁船のそばを通りがかった時、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに一碗の飯を供養してくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したことで、この人は福報を積み人身を得たのだ。だが、殺業が重かったので、男身は得られず女身となった。

これから分かるように、一碗の飯は十分に他人からの借りとなり得るのだ。またある時、リンチェンドルジェ・リンポチェはある人に修法した。首吊り自殺した人だった。首吊りの様子は非常に奇妙だ。アヒルを吊り下げているのを、吊り下げられた北京ダッグを見た事があるだろうか。人が首吊り自殺した様子は、北京ダッグが吊り下げられて死んでいるのと全く同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人に施身法を修めた。単独で修めたが、その時なぜ彼に施身法を修めたのかが分かった。この人は過去世で北京ダッグを調理しており、その時も男性だったが、ある日アヒルを買いに出かけ、ちょうど関房での閉関を終えて出関したリンチェンドルジェ・リンポチェに出会った。その一世でもリンチェンドルジェ・リンポチェは出家人だったのだ。その時、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに対して合掌したので、リンチェンドルジェ・リンポチェは微笑みを返した。こうして、この一世で彼は、北京ダッグの首吊りと同じ様子で死んだが、過去世でリンチェンドルジェ・リンポチェに恭敬を示し、その時は特にリンチェンドルジェ・リンポチェがちょうど関房から出て来たところだったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にこの恭敬を借り、そのためこの一世で彼に施身法を修めることとなったのだ。

これは神話ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが出鱈目を言ったりしないのは、そなた達も知っておろう。この二つの話は、そなた達に教えている。他人のものを受け取ったなら、必ず返さなければならない、その人が必ず受け取れるようにしなければならないのだ。因果は存在しないなどと思ってはならない。上師に対する恭敬心などどうということはない、などと思ってはならない。すべて因果があるのだ。この二つの物語はそなた達に、行悪すれば悪果を得、行善すれば善果を得ると教えている。『妙法蓮華経』では『已成仏道』と言う。仏像に対して恭敬で誠心から頂礼しさえすれば、成仏の道は始まるのだ。『已成仏道』とは、仏を拝めば即成仏するというのではなく、成仏の道を歩き始める、ということだ。いつになれば歩き切ることができるかは、分からない。この二つの物語は『妙法蓮華経』で説くところといくらか似通っている。

仏は、そなた達に收入の1/4を供養布施せよと定めておられる。仏はお金が欲しいのではなく、教派がお金が必要なのではなく、ましてやリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達から金を取ろうとしているのでもない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったことがある。そなた達が毎月給与を得られているのは、そなたが働いているからではなく、そなたがうまくやっているからでもなく、そなたに福報があるからなのだ。では、この一ヶ月分の金銭を受け取ったというのは、どういうことだろうか?それは、そなたの福が一部使われたということだ。そなたがどんどん使っていけば、福は無くなってしまい、収入も自然になくなってしまうだろう。それでも、無理して勤務を続ければ、健康で補うことになろう。

よって仏は、収入の1/4を供養布施するようお教えなのだ。これにより、そなた達が使い切ってしまった福をゆっくりと再び累積させてくださっているのだ。これはマネーゲームではなく、拝仏にはお金が要るという意味でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を開始してから、経典で説く方法の通りに行った。すると、できたのだ。そして、成し遂げられた後は事柄が好転し、運命も変わったのだ!たくさんの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、運を変えたい、と言う。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する経典が説く条件を聞くと、先ず何も言わなくなる。経典で説く条件とは、仏がそなたの金を欲する、或いは供養についてではない。尊勝なる直貢チェツァン法王もリンチェンドルジェ・リンポチェも、このようでなければ福報を累積することはできないと教え続けてきた。法会の開始時には毎回献曼達を行う。なぜなら福報がなければ仏法を聞くことはできず、仏法を学ぶ資格もなく、真言を学ぶ条件もない。そのため、献曼達を行う必要があるのだ。

持戒とはなんのためにあるのか?そなたの福報を累積するためだ。戒とは我々を罰し、我々を縛り、我々を不自由にするものだ、などと誤解しないで欲しい。これらとは全く無関係だ。真の自由とは、我々に対する一切の業力の束縛から解脱することだ。我々は今日どんな一日を過ごしただろうか?我々の毎日は、実は業力に操られているのだ。我々は自ら自分の生活をコントロールしているのではない。生まれたその日から、もしそなたが修行人でないなら、生活のすべては業力に操られている。どんな人に出会い、どんな仕事に就き、どんな金を稼ぐか。すべてはそなたの業力が操っているのだ。変えることなどできない。経典では、仏は転業できない、とある。では誰ができるのか?自分だ!どのように転業するのか?依教奉行によってだ。如実に行い、決して割り引いたり、思い上がったりしてはならない。そうすることで、転業できるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは正に一つの例だ。占い師がリンチェンドルジェ・リンポチェを占えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは45歲で死ぬはずで、今まで生きているはずがない。着実に行うのだ!そなた達がまだ転業できないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェとは無関係で、仏とも無関係だ。そなた達自身が転業しないのだ。上師の教えを行わない。こうして、供養できない弟子たちが生まれたのだ。そなた達に今供養させたとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでもそなた達を供養できない側に分類し、福報を累積する機会さえそなたに与えないことができるのだ。なぜならそなた達は依教奉行しないからだ。

そなたが依教奉行せず、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたの供養を受け取れば、そなたに借りを作ったことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世であの二人に借りを作ったように。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を用いて彼らに返す機会がないため、この一世で返したのだ。そなた達を厳しく管理するのは、そなた達に借りを作りたくないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに説いても、そなた達が行わないなら、それはリンチェンドルジェ・リンポチェとは関係はなく、そなた自身の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去世でそなた達に適当だったかもしれないが、この一世でも適当である訳にはいかない。適当であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェを害してしまい、そなた達自身をも害してしまうからだ。

よってこの一世ではリンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を非常に厳しく教える。そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子をやめない限り、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し弟子となったのなら遠慮はしない。リンチェンドルジェ・リンポチェはお互いに借りを作りたくないのだ。そなたにリンチェンドルジェ・リンポチェに借りを作らせたくなく、リンチェンドルジェ・リンポチェもそなたに借りを作りたくないのだ。どうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェに借りを作らないで済むのか?着実に学仏しさえすれば、いつか衆生に利益でき、成仏でき、リンチェンドルジェ・リンポチェからの借りはなくなる。さもなくば、そなた達はみなリンチェンドルジェ・リンポチェに借りを作っている。なぜならこの一世でリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にあまりにも多くを与えているからだ。そなた達が得ているものは、他道場の仏教徒よりも絕対に多い。

北部のある有名な禅宗の上師に皈依している人が昨日やって来たが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人に『師父は忙しく、そなたの面倒を見る時間がないのか』と冗談で言った。実はリンチェンドルジェ・リンポチェも非常に多忙だが、毎日時間を使ってそなた達の面倒をみている。今日もこんなに長く話しているので、他のことは行えない。速ければ、今月リンチェンドルジェ・リンポチェは四加行の伝法を始められる。法本では『如法修満四加行必有瑞相』と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは典型的な例だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは四加行を修めてから、全く違う人間になってしまった。変化はすぐに現れるのだ。

台湾でもチベットでもたくさんの人が四加行を修めているが、修了しても、変わらない人がいる。何が問題なのか?前置作業をしっかり行わなかったからだ。つまり、上師が講じるべき一段のことだ。先ごろ、他の教派のある信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。彼女は、自分は四加行を学び大礼拝を行っても、本質的な性格は変わっていないと感じると言う。リンチェンドルジェ・リンポチェが、どうやって学んだのか?と尋ねると、やり方をラマから口頭で告げられただけだ、と答えた。問題はここにある。前置作業について明確に講じていない。これでは、そなた達のような根器の者は、四加行のどこが殊勝なのかが理解できず、表面的に行うだけとなってしまう。

以前ある上師が『大礼拝を正しくしっかり行えば、累世の業を必ず消すことができる』と言った。正しく行わなければ、運動をしているのと同じだ。姿勢が正しいかどうかではなく、心が正しいかどうか、方向が正しく定まっているかどうかなのだ。もし正しいなら、大礼拝、四加行を行えば、必ず非常に大きな助けになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今後ますます厳しくし、しかも退場させるだろう。今後は法会中に居眠りすれば、罰として立たされるだけでなく、出て行ってもらう。施身法法会には参加させるが、日曜日の共修法会には来てはならない。なぜなら台湾のある現象が目につくからだ。たくさんの人が四加行を学んでも、傲慢、我儘で、貪、嗔、痴、慢、疑に満ち、この法を汚している。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分ではっきり分かった。四加行を完了したことで、人がすっかり変わってしまった。なぜ他の人はそうでないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜできたのか?道理はどこか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、ドラブ・ワン・リンポチェが仰せのような上根器の人ではない。下根器なのだ。それなのになぜできたのか?それは依教奉行したからだ。上師に対する忠誠はチベット人より堅固だ。そして、そなた達はできていない。次に法会中に居眠りし恭敬心がないなら、身体的な原因があった他は、他にいかなる理由があってもそのまま退場させる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそのような弟子は要らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは金のために弘法しているのではない。もし、金銭のためなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力を以ってすれば、弟子の数は驚くほどに多くなるだろう」と開示なさった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、昨日リンチェンドルジェ・リンポチェの鬼祓いを見た人に説明するよう指示なさったので、一人の女性弟子が説明した。「昨日私は同僚を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった。その同僚は5、6年前にアメリカから帰国後、毎日夕方になると必ずしゃっくりが出続けた。たくさんの医者に診てもらったが、どこも悪くなく、けれども症状はどんどん悪化していった。そのため、彼女はあちらこちらの廟へ拝みに行き、台湾で数百の廟へ行ったが、やはり全く改善しない。二年前からは正常に食事ができなくなり、人に勧められて読経を始めたところ、少しは良くなったが、やはり発作が起こる。昨日彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を賜ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェを一目見た瞬間、彼女の行為、動作はコントロールが効かなくなってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持を賜った後、同僚の状況は徐々に好転し、外に出た後いくらもしない内に正常に戻った」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「この弟子は予告もなしに、鬼に取り憑かれた人を突然連れて来た。大丈夫、上師は能力があるから、とでも思ったのだろう。誤解しないで欲しい。この件を取り上げるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェはすごいと強調するためではない。これらはすべて本尊と上師がリンチェンドルジェ・リンポチェに賜った加持に関わるのだ。なぜこの類の事を処理できるのか?慈悲と守戒だ。鬼には鬼通があり、この人はどうなのかを知る能力がある。もしリンチェンドルジェ・リンポチェに戒律、慈悲がなければ、昨日持咒した時、たとえ彼女を押さえ付けたとしても、外に出ればやはり発作を起こしただろう。いたずらな鬼に取り憑かれている人もいる。これなら比較的簡単だ。だが昨日は四人で彼女を押さえようとしたが、押さえ切れなかった。累世の冤親債主が取り憑き、彼女の命を取りに来たからだ。昨日はリンチェンドルジェ・リンポチェが加持したところ、彼女は非常な疲れを感じた。これにより先ず離れさせ、次に修法して取り憑いていた鬼を済度させたのだ。

そなたが戒律、慈悲を備えれば、これら衆生はそなたの助けを受けることができる。さもなくば、彼らはやはり戻ってきてそなたを苛むだろう。なぜこんなにも問題が多いのか?それは戒律に従わず、守戒しないからだ。上師はほんの少しの事でも罵倒する、などと思ってはならない。すべての大悪は小悪から始まるのだ。我々は日常生活で絶えず小悪を為しながら、自分では気づかず、知ろうともせず、ゆっくりと累積し大きな悪としている。大悪が出現すると、そなたは他人を害し、己を害する。小さなものは、オートバイで交通違反をする。これも悪だ。誰でもそうだろう、自分だっていいじゃないか、みな問題ないのだ、自分だって大丈夫だろう、などと思ってはならない。このような考えは金輪際持ってはならない。我々が改められさえすれば、未来は必ず良くなるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日信衆を接見しているので、気楽に日々を暮らせている訳ではない。多種多様な試験があるようなものだ。学仏して数年になる人が来る、鬼に取り憑かれた人が来る。もし慈悲心を学べておらず、菩提心を発していないなら、続けることなどできないだろう。見方を変えて、そなた達が試してみてはどうだ。毎日こんなにも多くの時間を費やしながら、少しも良いことなどない。そなた達ならやりたいだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェのようにやってみよ、などとそなた達に要求することはとてもできないが、少なくとも他人に煩悩や面倒をもたらし、衆生に苦痛を起こさせることだけはしてはならない。よって、衆生の肉を食する行為は絶対に止めよ。あらゆる有情衆生の生を求める願望はとても強い。傷つけられさえすれば、彼らは必ず非常に強い嗔恨心を起こす。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてあるドキュメンタリーを見た。山羊が狼に追い掛けられ、山上の崖際に追い詰められた。その崖の高さは100mはあったが、山羊は少しも躊躇することなく崖を飛び降り、狼から逃れたのだ。これを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェは衝撃を受けた。一切の衆生の生を求める願望は我々と同じなのだ。

衆生の命を傷つけ、衆生の肉を食して、どうして自分が幸せになれようか。衆生はもとは何の問題もなく生きていたのに、殺され、食べられてしまったのだ。そなたを恨まないことがあろうか?特に現在の食用肉は、カゴの中に閉じ込められた家畜達で、小さい時からずっと閉じ込められている。この恨みの思いが強くないはずがあろうか?衆生の肉を食するということは、衆生の毒と嗔念を自分の身体の中に取り入れるということなのだ。先ずは因果は置いておいて、科学的な面から言おう。そなたの性格、体質はゆっくりと動物に変わって行く。衆生の肉を食さない。これは守戒の始まりだ。肉食を断つことができないなら、もう来てはならない。慈悲心を修めようというなら、必ずそうしなければならないのだ。他の方法はない。慈悲とはなんだ?衆生を苦しめないことだ。

仏法の基礎とは慈悲だ。慈悲を為せないなら、仏法など言うまでもない。いかなる理由があろうと肉食を断てない人は、来ないでもらいたい。リンチェンドルジェ・リンポチェがこれから開示する仏法は、この一生で生死を解脱するためのものだが、その基本は守戒と慈悲心だ。この二点を為し遂げられないなら、聞いても無駄だ。時間の浪費だ。どこかでボランティアしたほうがずっと良い。

リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆から上師になったので、どうすれば良いかはっきり分かっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を持ち上げる必要はなく、信衆、弟子がいなくなっても構わない。それにたとえ、人間の弟子がいなくなっても、施身法で鬼衆を済度させることはでき、同じように衆生とたくさんの縁を結ぶことができる。そなた達をもてなす必要はなく、そなた達が来なくても一向に構わない。来るなら、必ず上師が説く仏法に従い、生活の中に着実に根付かせなければならない。できないなら、出て行って欲しい。このような原則を固く守る方法はリンチェンドルジェ・リンポチェにとっては不利だが、そなた達にとっては有利だ。僥倖を待つような心で、慈悲で上師が仏法を聞かせてくれると思ってはならない。問題は仏法を聞いた後、着実に行ったかどうかなのだ。今日はこんなに長く説いたのだから、自分の問題を基本から認識し理解できただろう。

前回は悪業と、我々が為すべきでない原因を開示した。続いて白い善業について開示する。龍樹菩薩は『不貪、不嗔、不愚痴が行う業、それこそが善業だ』と開示くださった。なぜ上師はしばしばそなた達に訓戒し、そなた達を叱責し、そなた達を罰するかが分かっただろう。なぜなら我々の行為が、貪、嗔、痴と関係ありさえすれば、すべて悪業で黒業なのだ。貪の範囲は非常に広い。広くて、何年説いてもキリがないほどだ。簡単に言えば、自己の何らかの利益のためであれば、それはすべて貪だ。自己の感情を発散するために言った一言さえも、貪に含まれる。

嗔とは怨、恨、仇を忘れず、復讐、報復を企むことだ。たとえ行動に移さないとしても、他人を通して火に油を注ぎ、煽って、点火するなら、それも嗔だ。愚痴とは仏法の真理を受け入れず、自己の方法を用いて恣意することだ。思い上がって愚痴な日々を過ごす人が行う行為も悪業となる。龍樹菩薩は、不貪、不嗔、不愚痴がう行為こそ善業だ、とお教えくださる。この基準を達成するためには、我々には戒の手助けが必要だ。つまり、戒は我々の修行における道具なのだ。ある日この道具が不要になる日がくる。八地果位以上まで証された菩薩、仏果まで証すれば、不要だ。だが凡夫である限り、必ず戒が必要だ。車を運転するには、たくさんのパーツ、工具が必要であるように、戒はその内の一つで、さらに最も重要な一環なのだ。

どうすれば少しの貪念も起こさないでいられるのか?なぜ我々は欲張るのか?よく考えてみよ。自分のため、自分の肉体と思想のため、深い眷恋を生み出しているのだ。このようである時こそ貪念の開始だ。学仏していたとしても、貪念が極めて重い人がたくさんいる。例えば、この経典を念じれば良くなる、これを持咒すれば功徳が大きくなる、仏学院を供養すれば功徳はさらに大きくなると考えるなら、これらはすべて貪だ。自己に対して貪念を起こさない心が自然に行う行為では、貪の力は非常に小さく、他人に嗔恨を起こさせない。かつて上師は開示くださった。我々は一切の敵に感謝しなければならない。経典には『小人(卑怯者)』という二文字はなく、『防小人(卑怯者から自分を守ること)』という言い方もない。防小人を教えている咒語もない。なぜなら一切の敵は、過去に我々の嗔恨心が生み出したものだからだ。簡単に言えば、自分はその人に借りがあるのだ。何れかの衆生に対して我々の身体的な何らかの事柄を課しても、嗔恨の心を起こさせなかったなら、そなたの行為は、自然に嗔恨の範囲内から外れる。

我々は業果に対して不愚痴であるべきで、すなわち一切の果報、一切の業力の顕現を受け入れなければならないのだ。他人や別の事に責任を押し付けてはならない。業力果報など出鱈目だ、存在しないなどと思うなら、これこそ愚痴だ。この三種の智慧(不貪、不嗔、不痴の智慧)が我々の三門(身、口、意)を引きずり、一切の業を行わせている。業とは行為だ。この世間に生きている人であるなら、造業しないなどあり得ない。業は白業、黒業に分けられるというが、たとえ白業であっても不要だ。だが、凡夫である我々は先ず、悪業、黒業を為さないようにしなければならない。善業が十分になって初めて、業とは何なのかをゆっくりと理解し、自由自在にこの社会で活発に暮らせるようになり、学仏が原因の困難を抱えることなどなくなるだろう。この三つの智慧(不貪、不嗔、不痴)を用い、一切の事柄に向き合い処理するなら、そなたの業はすなわち善業となる。簡単に言えば、他人が過ちを犯したといって批判してはならない。自分は間違っていない、自分は善人だなどと思ってはならない。

この三つの条件を備えれば、そなたが行う業(行う一切の行為)は善の方向へと向かい、どんどん明朗で明らかとなる。我々は殺生の心を断ち、護生し、一切の生命を保護しなければならない。これは、台湾でいま流行しているように、大量の鳥、カメ、魚を買って自然に放たなければならないということではない。放生の真の意味は不殺生だ。不殺生であれば放生だ。他人を諌め不殺生させたなら、それも放生だ。一切の有情衆生の居住環境を破壊しないのが、護生だ。子供がいる者は、必ず子供に言いつけなければならない。外で遊ぶ時には土を掘ったり、水源を汚染したり、石を動かしたり、カニや魚を捕まえたりしてはならない。これらはすべて殺生行為だ。そなたが知る一切の人に告げなければならない。野外でバーベキューをしてはならない。これは自然環境を破壊する諸悪の根源だ。我々が毎日燃料を燃やして発生する二酸化炭素の他に、最大の汚染源はバーベキューだと、今では科学者も認めている。ここにいるみなは、バーベキューはもちろんダメだが、戶外で野菜を焼く機会も減らさなければならない。

護生とは、衆生に、自然環境の中でありのままの生活を送らせることである。それを邪魔してはならない。他人が自分の家を壊したり、生活に干渉してきたりしたら、そなたはうれしいだろうか?アリやミツバチの巣を壊してはならない。ゴキブリ、ヤモリを見つけても追いかけて叩いたりしてはならない。これは護生ではない。これら衆生に家の中に入って来てもらいたくないと思うなら、衛生的な条件を整える他、慈悲心を養い、家の中で六字大明咒を唱えて一切の有情衆生に回向すれば、彼らは自然にそなたの家から離れてくれる。家の中にこれらおかしな生き物がいるのは、家の中の悪念が非常に重いということだ。悪念が重い人でなければ、これら業が重い生き物を感召することはない。家の中に突然ムカデ、ヘビが入って来るのは、家中の福報と関係がある。

『不予取(不偷盜)』が為せたなら、布施すべきだ。みな覚えておくように。世間のあらゆる事物にはすべて主がいる。小さいものは一本の草、一個の石ころに至るまで、すべてに主人がいるのだ。適当に物を拾って持ち帰ったり、オフィスの物を持ち帰ったりしてはならない。この種の事を断ち、我々は布施をすべきである。なぜならそなたが捨を受け入れたなら、そなたは自然に人の物を取らなくなるからだ。なぜ他人の物を欲するのか?それは布施の心がないからだ。そのため、何を見ても欲しくなり、簡単に手に取り、そしてどうってことない、ペン一本くらい、キャンディ数個だけだから、と思っている。戒本では『修行の場へ行き、ちょうどそこに出家衆に供養するための食物があり、それを勝手に食べたなら、高い確率で地獄に堕ちる』という。仏寺へ行くと台上においしそうな物があった。それを見て、食べてみたいと思い、当家師に尋ねずに食べてしまった。これこそ破戒だ。なぜこうなのか。それはこの人が普段から布施していないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように他人の物を取って食べたことは一度もない。よって、幼い頃から子供に教えなければならない。いい物を見ても、適当につまみ食いしたり、持ち去ったりしてはならない。

『不予取』が為せたなら、しっかり布施しなければならない。邪淫を断てたなら、清淨戒を持しなければならない。妄語を断てたなら、『実話』を口にしなければならない。『実話』とは『騙さず、責任を押し付けない』言葉だ。我々は、自己が対する一切の行為について、実話を口にしなければならない。『両舌』を断てたなら、衆生を和合させなければならない。つまり、他人に誤解を生じさないのだ。彼らを和解させられれば、それは一番望ましいが、無理なら何も言わなくとも良い。相手の面前で『そうなのよ!彼はいつもこうなんだから。彼を許してあげなさいよ!』などと言わなくとも良い。このようにするする人が多いが、これは最もいけないことだ。許さないとちょうど考えていたなら、どうするのだ?または、許そうとちょうど考えていたならどうだ?そこにそなたが『彼は間違っている』と再確認するようなことを言い、火に油を注げば、すぐに離婚するかもしれない。人に離婚を勧めれば、その罪は非常に大きい。よく聞くように。今後離婚を考えている者は、決してリンチェンドルジェ・リンポチェに相談に来てはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは決して何も言わない。

先日二人の女性が来て離婚について尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェの通常の答えは『結婚する時リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねていないのだから、離婚の時に尋ねに来てはならない』というものだ。これは道理に適っている。結婚する時に尋ねに来ていないのに、なぜ離婚する時リンチェンドルジェ・リンポチェに面倒を掛けるのだ?世間には占い師がたくさんいるが、彼らは『あなたはこうなる運命だったんです』と言うだろう。これによって、後に悲惨なことになっている占い師は多い。なぜなら他人の婚姻を破壊したからだ。運命の姻縁が尽きていたとしても、言う必要はないし、占い師には関係ないことだ。他人の家庭内の事に首を突っ込んではならない。他人の夫が浮気しているのを見たとしても、言ってはならない。妻側を憐れみ憤って、友人や姉妹を手伝ってはならない。何も知らずに時間が過ぎれば何事も起こらないのに、そなたが言えば、問題はそなたの身に降り掛かり、以後そなた達夫婦の関係が他人に挑発されることになるのだ。

我々は『両舌』を断ち、他人の和合を助け、双方の間に争いが起きていたとしても、双方に和合の重要性を説いて聞かせなければならないが、それを聞き入れるかどうかは、本人たちに任せるのだ。努力を重ねて貫き通す必要はない。最も重要なのは中立であることだ。さらに深い誤解を双方に生じさせてはならない。『悪口』を断てたなら、耳に心地よい事を言わなければならない。冷酷で皮肉めいた言葉や触れてほしくない他人の傷を暴くような事を言ってはならない。他人が数十年も隠してきた事を掘り起こして言う。夫婦喧嘩で最も多いのは、結婚前にどうだったかを持ち出すことだ。結婚前のこと等どうだというのだ?『悪口』を断てたなら、口にする言葉によって、今日そなたはその人に対抗しておらず、その人を攻撃しておらず、損じておらず、批判しておらず、皮肉っていないと感じさせなければならない。このような言葉を口にしてはならないが、ごますりせよと言うのでもない。いわゆる耳に心地よい言葉とは、忍耐の心で言葉を尽くして説明することで、衝動的に他人の欠点を暴き出すのではない。『綺語』を断てたなら、持誦に精進し、無駄口を慎み、時間がある時には六字大明咒を念じなければならない。帯に短し襷に長しと言って、何かと他人を批判してはならない。よくある視聴者参加型の番組もあまり見てはならない。見れば見るほど影響を受け、同じような事を言うようになってしまう。我々は精進しなければならない。精進できるなら、自然に『悪口』、『綺語』を断つことができる。

『貪心』を断てたなら、依捨心しなければならない。捨てなければ得られない、としばしば言う。良くない物を捨て去らなければ、真の救いと加持を得ることはできない。人生の苦痛のすべては、捨てられないからだ。最も捨てるのが難しいのは、この仮の肉体だ。この肉体を捨てられないため、我々は絶えず行悪し、衆生の肉を食らい、たくさんの金を稼いで楽に暮らそうと考えている。肉体を捨てると言っても、すぐに自殺しろ、というのではない。実は身体は地、風、水、火の結合だと理解しなければならないのだ。医学的には身体はさまざまな元素の結合で、ある日分解してしまう。そのため、肉体を『受用身』と呼ぶ。過去世で為した業力により、我々は外在肉体を生じ、定位した一切の良い物と悪い物を受用する。これら良し悪しは永遠に不変ではなく、隨時変化する。捨とははっきりするということで、受用時、褔報を使い終われば無くなってしまう。もし、強く執著し、この肉身を捨てられず、身体は永遠に悪くならないと考えるなら、そなたの苦痛はとても深くなり貪念はとても重くなるだろう。

どの肉体であっても必ず死を迎えるということをはっきり認識しなければならない。科学的にいえば、死亡とは言えない。元素の分解だ。因縁があり元素が結合すると、この生の肉体が生まれる。肉体の存在により、眼、耳、鼻、舌、身、意、声、色、香、味、触、法が生まれ、六根、六塵が生まれる。こうして、我々は仮の我という存在を感じる。我々の一生はこの感覚を追い求めているのだ。いつまでも停止せず、切れることはない。これが経典でいう『認賊做父(賊を父と誤る)』だ。我々は六根、六塵を真の自分だと誤って認識している。実はそれは賊なのだ。金や命を獲るか、正知正見を受け入れさせないかだ。今日そなた達が仏法を聞き入れられないのは、この六根、六塵に強くこだわっているからだ。この六根、六塵こそ自分の生命だと思っている。だが、肉体が分解してしまえば、この六根、六塵はすぐに存在しなくなり、そなたがこの生で行った業が残る。この業の力は次の一世まで続くのだ。

この一生で行った業はそなたの未来生に影響を及ぼす。善業が多ければ、自然に三善道に報身され、悪が多ければ三悪道に報身される。修行者は果位が良ければ、阿羅漢、菩薩、声聞、縁覚、仏に報身する。すべては我々が為したものだ。我々は自分自身の主人なのだ。どこかの神が我々の未来を操っているのではない。我々自身が為しているのだ。仏であっても我々の未来を操ることはできない。仏はただ成仏の方法をお教えくださり、お伝えくださり、我々自身で行わせてくださるだけだ。成し遂げられれば、仏と同じように自然に成仏できるのだ。

『正知、正見、正解』についてしっかり理解しなければならない。科学の面からであっても仏法の面からであっても、この身体は虚偽で、永遠でなく、変化し分解され、この世間はある日消えてしまうものだと認識しなければならない。我々がいうところのライフサイクルとは、仏の眼から見れば、一つの因縁の生滅に過ぎないのだ。これは真のライフサイクルではない。我々のライフサイクルは、業力に常に転動され連動されている。物理学的に言えば、元素の結合と分解だ。この道理を理解できず、この道理を受け入れられないなら、学仏は非常に困難だ。科学的に言っても、医学的に言っても、仏法から言っても、この道理はすべて正しいのだ」と開示くださった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子に指示し、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰せのこの道理は正しいかどうかを回答させた。医師である弟子は「リンチェンドルジェ・リンポチェが開示なさったのは、非常に先端的な科学現象です。身体の結合は本当にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったように分子元素の結合です。我々と動物とでは、成分にほんのすこしの差はありますが、基本的な物、元素はすべて同じです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「なぜ分解されるのか?」とお尋ねになり、もう一人の医師である弟子に答えるよう指示なさった。医師である弟子は「人が死ぬと、我々の身体は微生物に分解されるからです」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「なぜだ?」とお尋ねになった。医師である弟子は「我々の身体の中には、自然界と同様たくさんの細菌が寄生しています。臓器は毎日新陳代謝されており、新しい細胞が生まれ古い細胞は死滅しています。死後すべての新陳代謝が停止し、分子は能力を失い、自然界の細菌と我々体内の細菌により分解されるのです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「では医学では、何が原因でこの肉体の命を停止させると言うのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「医学的には心拍、呼吸が停止すると、生命が停止すると言います」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「では医学では、なぜ心拍が停止すると言うのか?どのような力が呼吸を停止させるのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「医学ではこれについては言いません」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一人の医師である弟子に回答を指示なさった。医師である弟子は「我々は毎日たくさんの物を食べ、たくさんの物を排出しています。一定の時間が経つと身体の成分は更新され、出て行く物も入ってくる物もあり、新陳代謝で絶えず更新されています。生きている人と死者との違いは何なのかについて、研究を行った科学者もいますが、答えは見つかっていません。よってなぜ生き、なぜ死ぬかについては、答えはないのです」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日は医者を専門的にテストしよう」とユーモアを交えて仰せになり、もう一人の医師である弟子に説明させた。医師である弟子は「最新の医学報告では、我々の細胞は生まれた瞬間から死に向かって歩み始める、と言います。身体の各細胞は肝臓であろうと腎臓であろうと皮膚であろうと、すべては定期的に更新されます。それには赤血球等もふくまれます」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「彼らが言ったように、どんな力が我々の心臓を停止させ、呼吸を停止させるのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「医学的な説明では、全体的に不全となるからです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「どんな力が不全とするのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「動かなくなるからです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは漢方医である弟子に「漢方医の観点からは、何が原因なのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「漢方的な見方では経絡、気血が作動しなくなれば生命は終わりを迎えます」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「現代医学は目覚しい発達を遂げており、検査機器もたくさん開発されているが、医者の一人として、生命の真の力がどこから生まれているのかをはっきり説明することはできない。彼らは答えの中で、細胞は生まれた瞬間から死に向かっていると言ったが、実は仏法では最初からこれを説いてる。よって、経典では誕生日は祝わない。生まれた日から死へと向かっているのだ。誕生日を祝う必要などあろうか?誕生日を迎えれば、一年減ったということだ。身体に生命現象が無くなってから輪迴と呼ぶのではない。我々の細胞はおよそ7年に一度輪迴している。おおよその平均值だ。これはつまり、体内の細胞が7年毎に生まれては死ぬということだ。

そなた達が顕教を学んでいた時、釋迦牟尼仏はなぜ生まれてすぐ7歩歩かれたか、皈依師に習わなかった?釋迦牟尼仏は生まれてすぐ7歩歩かれた。みな知っているだろう。だが経典では、その理由について触れていない。今みなに教えよう。これは我々の身体の輪迴の時間と関係があるのだ。『十年河東、十年河西』というのは、我々の業力が7年毎に変化するからだ。この7年の内に行善できれば、新たに生まれる細胞は良いものだ。もしこの7年の内に行悪すれば、生まれるのは悪い細胞だ。分かっただろう?現代医学はすでに証明しており、仏も示現しておられるが、経典には答案はない。経典で説かないのは、後の人を試したくないからではなく、これが密法であるからだ。この7歩は先ほど言った細胞の7年周期の生死と関連がある他、気脈明点と関係がある。顕教者の多くが、密法などないと、批判するが、これは全く正しくない。なぜなら密法はあるからだ。仏が7歩歩かれた。これこそ密法なのだ。

なぜ釋迦牟尼仏は出生時に人差し指で天と地を指されたのか?なぜ他の指ではなかったのか?一を表す親指を用いるのが道理ではないのか?人差し指を用いた理由は、医者なら説明できる」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子に「挟むタイプの機器で心拍を計る時はどの指を用いるのか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「挟むタイプの検査機器で測定するなら、大部分は人差し指を用いれば、正確に測定できます」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「人差し指と我々の心脈とは関係があるのだ。仏が天と地とを指差されたのは、唯我独尊を示しおられるのだ。仏の心は一切の衆生といっしょであり、一切の衆生を見捨てたりしない。今日この身を証したのは一切の衆生のためである。『心』を表しているのだ。

そなた達はこれまでたくさんの物語を聞いてきたので、今日リンチェンドルジェ・リンポチェは説明したのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜたくさんの医師である弟子がいるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがしばしば病院に行くからだ。あまりにも多くを見て、ゆっくりと斟酌後に実はこうなのだと知った。仏がこのようになさるのは、指で矢のように突き刺すのではなく、心脈と関係があるのだ。なぜなら釋迦牟尼仏は人の様子に示現され、神や動物の様子に示現されてはいないからだ。よって人の身体結合を用いて暗示し、釋迦牟尼仏と諸仏との心はみな同じだ、上下の全宇宙の衆生の心と同じだとお教えくださる。なぜ仏は成仏できたのか。我々はなぜまだ成仏できないのか?それは釋迦牟尼仏はすでに覚悟されており、我々はなお迷っているからだ。

戻って言おう。医学は生命の終わりについて、まだ答えを見つけられていないが、ただ心臓が停まり、臓器が不全となることだと推論している。仏法の答えは非常に簡単だ。生命の終わりは、業報が至ったからだ。福を使い切ったからだ。心臓と呼吸が停まり、臓器が不全となれば、それが死だと考えるなら、心拍が停止し呼吸が停止した後、二日経って生き返った人の話はどうなのだ。聞いたことがあろう。医者ならこのような事態に遭遇したこともあるのではないか。なぜこうなるのか?密宗に答えがある。密法では人が呼吸する気を外気と内気に分けている。内気が絶えていないなら、まだ救うことができる。だが、検査機器では内気を測定することはできない。復活したように見える人は、内気が絶えていなかったのだろう。

中国では顕教を学び、密宗がないと誤解している人が多い。これは全くの間違いだ。このレベルまで修められた人がいないため、説明できないからだ。人のライフサイクルの終わり、寿命の長さは、仏が説かれる因果による。殺生せず、或いは殺業が非常に軽く行善するなら、自然に長寿となる。科学的にいえば、行善する人は心が喜びで満たされており、心に悪がないため、血中に毒素がなく、臓器の状態もよくなり、長く生きられるのだ。密法から言えば、人の一生の呼吸回数は一定で、差はわずか数千回に過ぎない。いかにして寿命を延ばすのか?呼吸を延ばすのだ。出家人、真の修行人、さらには他の宗教で真の修行を行っている者も寿命が比較的長い。それは雑念が少ないため、呼吸が深く長いからだ。回数は同じでも、戒と定を通して、呼吸の時間を長くし、寿命の延長を得たのだ。

読経、持咒に精進せよと言うのは、読経、持咒時には雑念が減り、呼吸が非常に深く長くなるため、寿命も延びるからだ。ここまでを遂げたいと思うなら、捨てなければならない。貪念を捨て去り、この肉体に憶念してはならない。この肉体はある日必ず終わりを迎える。寿命を延ばすのは、息子の成長や嫁取りを見届けるためではなく、生死を解脱する方法を学ぶための十分な時間を得るためだ。そのため、仏は多種の法門を定められ、いかにして行うのかをお教えくださるのだ。どの法門であっても健康、延寿に効果はあるが、だが先ず捨てなければならない。捨とは何か?それには先ず、持戒しなければならないのだ。捨てられず、持戒もできないなら、転じることができないで、転じる能力など全くない。

先ず財施し次に法施、無畏施せよと教えるのは、どんな人でも財を最も重視するからだ。財さえも捨てられるなら、我執、嗔恨心等を含むすべてを捨てることができるだろう。財を捨てない人に、別のものを捨てさせようとしても絕対に無理だ。経典では『名、食、色、睡、財』を地獄の五条根という。睡眠、食、色欲、財欲、名を貪れば地獄へ堕ちるだろう。ここの定義は、そなたに福報があるなら、この五種のものがすべて一生に現れ、福報がないなら、心は一日中これらに執着する、ということだ。これこそが地獄に堕ちる五条根だ。これはそなた達に結婚するなと言うのではない。恋愛に執着し、無理に求め、縁に縋り付くなということだ。これらを人生で最も重要な事のように考えてはならないのだ。そのため、仏は我々に持戒し捨てるように仰せなのだ。

これを成し遂げられたなら、医学的には体質が絕対に良い方向へと変わる。なぜなら我々の体内細胞にはメモリがあり、生きており、感情の起伏を受けて波動しているからだ。感情が落ち着いており、正しくポジティブなら、細胞は健康になる。ガンを患うのは情緒が不安定で、考え方が間違っているからだ。高血圧もそうだ。よって、自己の体質を変えたいなら、捨から開始しなければならない。先ず自分が今最も愛する事柄を捨て去らなければならない。経典では、趣味は良い事とは言わない。趣味は良い事だとしばしば言われるが、そうではないのだ。なぜなら趣味に執著し、趣味を捨てられなくなるからだ。例えば、趣味が古董のコレクションであれば、死後は古董の近くにいることとなる。福報が良ければ犬になって見ていられるだろうが、福報が悪ければ引き出しの中のゴキブリになって見ていることとなろう。

かつてある人が母の死後に犬を飼った。その犬は毎日生前母が寝起きしていた部屋の戸口に蹲っていた。誰が行っても必ず吠え、主人の他の人は決して入らせない。ある日一人の出家人が通りがかり、この犬は母親だと告げた。生前ベッドの床下に純金を埋めたが、死に際にもそれらに執着していたため、犬になって見張っているのだという。その人が掘ってみると、本当にそうだったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしばそなた達に言う。親族が病気になったなら、意識がはっきりしている内に、最も望ましいのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けさせることだ。こうして執著を断ち切るのだ。人は死に際しても執著を抱いている。妻を思い、息子を思い、金銭に執着し、山ほどの奇妙なものに執着している。何を着ようかと死を前にして考えている者さえいる。これら問題は生前に捨てられないからだ。

捨てられる人は、ちょっとした事で親族と争ったりしない。捨てられるなら、争わなくなるのだ。捨てられるなら、自身の自尊心など存在しない。我々が親族、上司、部下と争うのは、捨てられず、ある事、物に貪念するからだ。よって、はっきりさせなければならない。貪心を断つには必ず捨の心に寄らなければならないのだ。捨の心に寄らないなら、貪念の心は永遠に存在し続ける。貪念の心があるなら、修道、学仏しても、地獄に堕ちないとは言えず、鬼王になってしまう可能性がある。鬼王といっても良い暮らしが送れるわけではなく、やはり非常に苦しいのだ。

害の心を断てたなら、しばしば利他の心を修めなければならない。利他とは物質面からとは限らず、実質的に他人に特別の救いを与えるものとも限らない。他人が苦しんでいる時助けを求められたら、力の及ぶ範囲でいくらか助けの手を差し伸べればいいのだ。我々が行う法会への参加、持咒を含む一切の行為は、利他の心を出発点としなければならない。利他の心があり、それを絶えず育て、大きくしていけば、衆生を害する心は自然に消えてしまうだろう。よって、いつまでもこの心を養い訓練しなければならない。チベット仏教では、線香を上げる、灯明にバターを足す、点灯するを含む行者の一切の動作はすべて利他でなければならない。すべては衆生のため、衆生に利益するための動作でなければならないのだ。

いわゆる衆生とは我々をも含む。我々も衆生の内なのだ。衆生のために何かを行っていると思うなら、すなわち自分のためにも良い事をしているのだ。より深く言えば、一切の衆生の心、本体は我々と同じで無分別なのだ。我々は分別に執着するので、これは我と他だと思うだけだ。真相はそうなのだ。医者達が先ほど、すべての人の元素はみな同じだと言ったように、分別はないのだ。なぜ分別があるのか?それは業力が違うからだ。そのため、尊貴、貧賤、富貴が生まれるが、これはそなたの業力であり、本質ではない。すべての人の身体の構造はみな同じだ。分別はない。我々が分別するのは、六根を自分の真の本質に誤って用い、触れる外の事と物を分別するため、非常に深刻な錯覚を生じ、絶えず行悪しているからだ。

科学的にしろ仏法的にしろ最深面から言えば、一切の有情衆生は一体で、分かれてはいない。学仏し、学んだ結果なお他と我を分けるなら、仏の慈悲と智慧を体得することなど永遠にできないだろう。一切の修行人は、絶えず努力精進し、すべての衆生を導く。それは一切の衆生が迷いを断ち切り、開悟でき、生死を解脱できるよう願っているからだ。ここまで修めるためには、利己の考え、自我の利益、自我の観念と成見を捨て去らなければならない。そうでなければ、宇宙衆生と同期になることはできない。今日講じたのは、絶対に神話ではなく、絶対に仏が編み出した物語でもない。仏はかつて開示くださった。無始とは始まっていないということではなく、とてつもなく昔ということだが、無始以来、本来衆生の本性は清淨で、仏と凡夫もなく、衆生の中には因縁で無明を生じ、執迷不悟するものがいくらかいただけだったという。

地球に宇宙人が来た、などと言うことがあるが、人類はもともと宇宙人なのだ。経典には『人類は光音天から来た天人だ』と記載されている。宗教のなかには天主を拝むものもある。それは、人が天から来たからだ。やって来たこれらの人は、移民のようなものだ。経典の記載によれば、人類はかつては飛べたという。実は、仏法修行によって飛ぶこともできる。ミラレパ尊者の伝記には、尊者は飛べたと記載されている。現在我々はなぜ飛べないのか。それは食に賤しいからだ。経典の記載によれば、人類は地球に来た後、地球上の一種の食物を貪り食い、身体が重くなり飛べなくなり、この地球に留まることとなったという。すなわち、我々は宇宙人なのだ。おかしいと思うだろうか。一日中宇宙人を見ているとはどういうことだ。実は我々自身がそうなのだ。他を見る必要などない。利他心の重要性を理解したなら、一切の邪見を断ち、仏陀が我々にお与えくださる一切の教導を深く信じなければならない。

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2015 年 09 月 06 日 更新