450:父(朱柏超)を済度して下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩

尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは2010年6月25日での施身法法会で、私の父 朱柏超を済度したことに感謝します。

2008年の年末に、父は体がますます衰弱しているため、ある時、私は宝石会社へリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行って、リンチェンドルジェ・リンポチェに父を加持するようお願いしまして、父は体がますます弱くなるからです。リンチェンドルジェ・リンポチェは私に父の名前と生まれ年を聞いて、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに、父親を加持して、父は命が終わるときに、リンチェンドルジェ・リンポチェに済度されること得られて、父にこの世間をうまく離れることをさせるように祈請して、話し終わって泣いてしまって、泣き終わった後に、頭が一面に空白になりました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に「誰も亡くなるから、先に泣いたことがあるため、お父さんは既に加持を得ました。」と言います。私を立ち上がらせて、私の頭は恐らく泣いてぼうっとして、そばの隅に行って引き続きひざまずいて、兄弟子は私を立ち上がらせることに感謝して、私に固める心があるように注意して、家に帰ってアキー護法のお手伝いを祈るように注意します。そこで私は毎日家でアキー護法のお手伝いを祈って、父親が貴人に助けられる福報、因縁、機会があって、亡くなる時に、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法で済度されることを得ることができるように助けます。

約1ヶ月の後で、父は家で意識がぼんやりして倒して、頭がぶつかって結局ショックを起こして、全身がすでに寒くなって、しかも少し脱糞の状況が出来て、緊急に家族にICU病棟まで送られました。私は父のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは兄がどうして来ていないかを聞いて、私は彼らが比較的に私の二番目の兄を信じるからと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは私をそばまで行ってじっとしているように諭しました。私が帰って、兄達に一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しにくると言いましたが、しかし彼らは私が嫁いだ娘だから、もう取り扱わなくてもよくて、彼らに任せると言いました。それから、父親が退院した後に、私が供養しに行く時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲に私に父の情況を聞きました。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持することに感謝します。その時、父は既に退院して家で休養しています。

2009年の年末、父は腹が凄く痛いので、母に緊急に病院まで送られて、胃カメラ(内視鏡)にて検査されると、胃癌の末期を発見したが、手術を行わないから退院して家で休養しています。家族は彼に言う勇気がなくて、父本人も信じません。この時、父はとても強く何とか生き延びようとする意志があります。

新年が過ぎた後、私の父親が病気で入院しました,我らは父親に病院を教えましたが彼がまだ受け取りませんでした,しかし、この頃は食べることがもう余り出来できませんでした。私がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し込んだ番号は47号で,リンチェンドルジェ・リンポチェは何にを聞くかと仰った。私は私の父親が胃癌末期で、約2ヶ月前分かって、今家に横になってもう何にも食べることが出来ないと申しあげました。それから、私の頭は白くになってしまいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で、私にお父さんのため200大礼拝をさせた,ところが長く泣いて頭が呆けになって数えませんでした。あの日、リンチェンドルジェ・リンポチェは候補の面会者さえも見終わりましたまで,私はまだお辞儀をしていました。

リンチェンドルジェ・リンポチェは私に機会をくださったことに感恩します。

もう一度面会を申し込んだ時,ポワ法を下さるように願いました,それは、前回大礼拝をしていました時、頭の中にポワ法を求めるのを浮かびましたので、今回面会する時こんな勇気がありました願いました。私の父親はまだリンチェンドルジェ・リンポチェに請わなくて、大法会さえも1回しか参加しません、,お兄さん達も願いに来たことことはありませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェと7,8回面会しましたが,リンチェンドルジェ・リンポチェは全て「今回は承諾しない」或いは「また願いに来よう」私の父親が往生の一週間まえ、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ許諾を得なくて,供養さえも受け取ってくれませんでした,しかし、私と娘と頂礼して起きました時リンチェンドルジェ・リンポチェが呪文を唱えて加持する声が聞こえました。6月4日朝、私の父親は家で6時去りました,私は7時実家へ帰ったらやっと父親が亡くなりました事を分かりました,父さんの顔色は黄白で、平静に見えたが口は開けたままでした。私は前の日に、既に彼に一粒甘露丸を食べさせました,この時、私の娘はすぐもう一粒の甘露丸をくれまして、外祖父の口に入れさせました,こんな簡単な動作が、思いかけなく、私の手が振りすぎて甘露丸を落とさせました,幸いに、相弟子が既に沢山甘露丸をくれました,二回目はやっと成功しました。私は二日間前相弟子が思い出してくれましたのでこの時すぐ電話で組長にお知らせまして,組長が思い起してくれましたのを全て耳に入れました,リンチェンドルジェ・リンポチェが済度してくださるように祈っていました,その後、寶吉祥骨董屋に電話をかけて留守電に報告しまして、リンチェンドルジェ・リンポチェが私の父親を済度してくださるように 請い願いました。

午後、兄弟子からの電話により、リンチェンドルジェ・リンポチェは土曜日の午後に信衆を引見する事があり、求めさせる事を覚えてはいけませんでした。聞いた時に非常に大喜んで、此れは木曜日の夜、尊きチェツァン法王が台湾に来て、それで、日曜日にすぐ6月6日チェツァン法王が主催する大法会であり、暫く期間をへて求める機会があると思いきや、リンチェンドルジェ・リンポチェがご多忙中に依然として信衆を引見する事に思い至りませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェを謁見した後、父に代わって済度を求めて祈って、リンチェンドルジェ・リンポチェが私の父の名前、十二支を問い合せてから真言を唱えて加持させました。リンチェンドルジェ・リンポチェが加持させた後で、父の神識すでに保護させて、施身法までに再度済度して行きます。その日に、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた弟子を率いて護法を修めて、我々が過ちを犯しても、リンチェンドルジェ・リンポチェが同じように我々に機会をくれました。道場を出たまで、全てのみぞおちを開いて、実は此の間には心にずっと憂鬱で、自分でも発見しなくて、が、娘が感じて、ただ話す事を出来なくて、彼女の表現が良くないので、両親が嬉しくないと思っていて、母とする私が何も気がしなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝致します。ある回にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが特に娘に学校とクラスに関する事を問い合せて、また彼女に加持を与えました。

6月25日の施身法では、私の父は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を得て、6月26日に出棺しました。再び父親を見て、父親の顔に非常に喜んでいる笑顔を露出させて、眼と口が月球を曲げように、深く笑っていました。私の父親が笑う事が好きではなくて、が、父親がこのような燦然と輝く笑顔を見た事もないでした。骨を拾うときに、骨がより砕けて、すぐにとれを顱頂骨を識別する事が出来なくて、その後、ある骨に極めて特別な円穴があって、証明により此れが顱頂骨で、その場で反応を直感して、此れは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法の瑞相で、直ちに携帯電話で写真を取って、その上、その場の家族に頭頂の梵穴に穴がある事とは父親が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得て済度する瑞相を話しました。

儀社人員はどちらの師父かを問い合せでした。私は「チベット仏教直貢噶舉教派寶吉祥のリンチェンドルジェ・リンポチェ」と回答して、昨日の施身法法会に私の父親に済度して、此れはポワ法の瑞相です。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を捨てない事に感謝して、仏菩薩の光りのようにずっと我々に照らしています。数年前、私の義理の母が往生して、同様に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが済度してくれました。私の娘が子供時に極めて厳重な驚きを受けさせて、同様に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「何でもない」と諭しました。真に「何でもない」になりました。数年前に、私の命も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから救って来ました。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝致しました。また多くの兄弟子の助けも感謝します。有難うございました。

魯鈍な弟子 朱冠鳳 感謝叩首 2010年7月4日

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2010 年 09 月 20 日 更新