440:母の最も安らかなひととき
母は、ゆっくりと七十二回の春夏秋冬を過ごしてきたが、今年11月28日、突然倒れました。その時、私たち子供は驚き恐怖を感じたが、幸いなことに尊き リンチェンドルジェ・リンポチェの加持により、母は少しの苦しみもなく、ただ病院のベッドで休みました。
母も尊き リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを深く信じていたため、手術は受けない事を決め、そして最期を迎えました。母がずっと病痛に苦しむことがなかったのは、尊き リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に拠るものです。
12月5日は、母の最期の日でした。幸せなことに母は尊き リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポア法を受けることができました。それは、母にとって、この世での最も安らかなひとときであり、まるで静かに眠っているように見えました。母の体は全体が柔らかく、額は冷たいのに、頭蓋骨の梵穴は暖かくなっていました。これは殊勝なポア法を修めて成功した瑞象なのです。そして、尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの助けの下、母は既に西方極楽世界へ旅立ちました。母の安らかな顔から、彼女が既にすべての労苦、悩み、重荷を下ろしたことがわかりました。それは尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが与えて下さった恩徳です。
12月17日母の告別式当日、寒気団が襲ったものの、兄弟子が200名余り、そして母の友人知人も来て、合わせて500名になりました。そして思いもよらずに、尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは何の知らせもなく、急に告別の場に現われたのです。私は驚くやら、感動するやら、弟子はどうしたらいいかも判りませんでした。ただ、涙がこぼれ止めることができませんでした。
尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈大悲により、告別式でも再び母に真言を唱え修法をしてくださいました。それは母を助けただけでなく、葬儀場にいる私たちには見えない無数の衆生も助けました。尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは修法終了後、車に乗ってその場を離れようとした時、突然また車を降り、宝瓶の甘露水を霊安堂外の広場に向かい四方を清めました。事後、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは次のように開示されました。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが車に乗ると、多くの衆生が慌てて追いかけて来るのを見ました。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の苦しみと慌てて超渡を求める心を憐れみ、車を降りてこれらの痛苦の衆生を助けました。
上師 リンチェンドルジェ・リンポチェがその場を離れた後、第一葬儀場の空と回りの空気が清清しく変化し、母を弔いに来た親友らはずっと泣いていたのに急に落ち着きました。母の最期の顔を見ると、母の顔には皺がまったくなく、白く柔らかい様相でこのように若々しく安らかな母を見たことがなく、歳を重ねた様子や生活の苦しみはまったく見ることができないほどでした。母の遺体は第二葬儀場へ移して火葬されました。頭蓋骨の梵穴箇所からははっきりとした二個の凹んだ丸いあなが確認でき、骨灰は五色の色を呈していたため(図添付)、葬儀会社の人たちでさえ不思議がり、これまでこれほどきれいな骨灰と頭蓋骨の様子を見たことがないと言いました。しかし、それはリンチェンドルジェ・リンポチェの修持したポア法が成功した瑞象なのです。
母は、一生の間、仏法を学んだことがなく、多くの凡人と同じく罪業を犯してきました。私たちが母の遺品を整理していた時、カレンダー上に(現代の社会では多くの子供らは年老いた両親と話をする事ができず、そのため、年寄り達はカレンダーを日記のようにして彼らの気持ちを書いていて、意識無意識に関わらず子供たちに自分が語り掛けたいことを見せるように望む)黙々と尊き リンチェンドルジェ・リンポチェを讃え、黙々とリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いているのを見ました。母はすぐさま菜食に切り替え、手術は受けず、大懺悔心を起こすと言う開示を聞いて実行していました。子供の身である私は、この世で未だ上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを聞くことができず、例えば五戒、十善、三十七頌を実修行しても母に代わって浄土往生の因縁福報の累積だけを祈念していました。まったく懺悔の極みです。母は、最期の瀬戸際に於いて、慈悲深く尊き リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを得ることができ、そしてチベット仏教の最も殊勝なポア法の助けを受けることができ、阿弥陀仏浄土に生まれることができたと思います。これは リンチェンドルジェ・リンポチェから賜った恩徳であり、更には リンチェンドルジェ・リンポチェが一切の衆生を見捨てない大慈悲なのです。
弟子 魏淑雯 恭撰
2010年1月8日
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2010 年 01 月 26 日 更新