439:殊勝なるポワ法
父は87歲と、高齢での往生でしたが、最後の五年間は病院を出たり入ったりの生活でした。三年前に腎機能の衰弱で排尿できなくなった際には、(台中の著名な病院で胃腸科に勤務する弟を含む)医師達から、腎臓部位に孔を開け導尿するように勧められ、当時すでに右足に浮腫が出ていたため、そうしなければ腎不全で取り返しのつかないことになると言われました。これでは父の苦痛は想像を絶するものとなり、生活の質も大きく損なわれると、私と母は大反対しました。そのため母が付き添い、父を宝石店に連れて行き、 リンチェンドルジェ・リンポチェに加持をお願いしました。当時父は リンチェンドルジェ・リンポチェをまだそれほど信じてはいませんでしたが、車椅子のまま不本意ながら頂礼していました。けれども慈悲深い リンチェンドルジェ・リンポチェは常と変わらず、父にも加持をくださりました。その後、父の右足の浮腫は目に見えて消えて行き、完全に回復するまでには至りませんでしたが、導尿のための切開をせずとも、なぜ普通に日常生活が送れるのかと、医者達が不思議がるほどに良くなりました。後に、父がまた別の病気で入院する必要が出て来た時、医者は父に何種類もの検査を施しました。その結果(データ)は以前と同じだったにもかかわらず、どうして浮腫が消え、切開する必要がないのかを、 リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力による加持のお陰であると、私は医者に告げましたが、彼らはそれがどのようなものであるかを理解できないようでした。
今年6月 リンチェンドルジェ・リンポチェの出国時に、私は父に替わり供養する機会を得ましたが、その折、 リンチェンドルジェ・リンポチェは父の寿命は年末までであるとお告げになりました。
9月上旬、父の病状は目に見えて悪化し、残された月日がそう多くはないであろうことが感じられました。そのため、母を伴い宝石店へ赴き、金剛上師に父にポワ法をお授けくださるようお願いしました。上師は慈悲深くも「そなたに何と言ったかな?」とお尋ねになりましたが、私は頭の中が真っ白になり、答えることができませんでした。慈悲深い上師はさらに「年末だとは言わなかったかね?」と仰せになり、続けて「なら何度でも頼めばよい!」とおっしゃいました。そのため、私は父へと殊勝なるポワ法を求めることはできませんでした。そうした後も父の病状はどんどん悪くなって行き、現代医療の苦痛に耐えなければならなくなって行きました。侵襲的な注入療法は父を完膚なきまでに叩きのめし、さらには苦痛を軽減するため、ガン患者が使用する人工血管も装着しました。私は心中、父にポワ法をお授け下さるよう、尊貴なる金剛上師に再度お願いしに行かなければと思っていました。
10月4日は 金剛上師が殊勝なる万人「阿弥陀仏無遮大超度法会」を主法なさる日でした。私の再三の勧めで、母と弟は父に替わり殊勝なる大法会に参加しました。母は父の状况をひどく心配していたため、法会が終了する前に病院に戻り、私も リンチェンドルジェ・リンポチェが阿企護法をお修めになった後、会場を離れ帰宅する途中に、父が危篤であるとのメイドからの電話を受け病院に戻りました。父がなんとか息をしているのを見て胸をなでおろし、看護士も父のバイタルサインは今のところ安定しているとのことでしたが、気管切開を行うよう勧められました。しかし母は決然としてこれを拒絕しました。(一年前に、気管切開も救命措置も行わないと、既に母と相談済みでしたし、母は、救命措置と気管切開の苦しみを十分に知っていました。)
その夜8時30分、父が危ないとの電話を再び受け、病院へ急ぎました。慌てて魏兄弟子に電話し助けを求めたところ、魏兄弟子は私の状況を理解された後、直ちに宝石店の兄弟子に電話するようおっしゃいました。そして兄弟子は1.血圧と脈拍の状况 2.リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したことがあるかどうか? 3.ポワ法をお授けくださるよう願い出たことがあるか?を私に尋ねました。さらに私に、父が旅立った後、宝石店の留守番電話にメッセージを残すようおっしゃいました。父はもちろん、まだポワ法をお授け頂いていません!この時、私の心の中では無限の後悔と自責の念が渦巻いていました。私が怠けてぐずぐずしていたため、父はポワ法を受ける機会を逸したのです。
身勝手な私は、もう一度金剛上師 リンチェンドルジェにポワ法をお願いすることができるよう、父の死出の旅路が夜明け後になるようにと、心中ひそかに願っていました。けれども、願い通りにはなりませんでした。父のバイタルサインは急速に変化し、血圧と脈拍も見る見る内に下がって行き、5日午前0時39分、父は息を引き取りました。兄弟子の仰せに随い、私は宝石店の留守番電話にメッセージを残し、金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに超渡をお願いし、大胆にポワ法をも願い出ました。
父の遺体は安置室に移された後、八時間安置されました。私は父の傍らで六字大明咒を唱えていましたが、体力が続かなかったため、念誦も途切れ途切れになっていました。そんな早朝8時30分、宝石店の兄弟子からの電話を受け、上師からは何も指示がないと聞かされましたが、この時父の遺体には既に死斑が現れ、顔色も黄緑色に変わっていました。葬儀社の係員は大雨で遅れており、B3の携帯電話はビルに遮られて電波が不安定でした。
9時に宝石店の兄弟子から再び電話を受けました。それによると、尊貴なる リンチェンドルジェ・リンポチェは父にポワ法を施してくださるとのことです。鳥肌が立つほどのとてつもない感激を覚え、感謝の他に言葉が思いつかないほどでした。それと同時に直ちに、遺体の旁で六字大明咒を唱え始めていた。護法のお助けに感謝しました。私が電波の状態の良いところを探して歩いて行った時にちょうど宝石店の兄弟子の電話を受け、雨がなければ、遺体は既に葬儀社によって運び去られており、修法はできなかったのですから。
9時15分前後に宝石店の兄弟子から、尊貴なる リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに修法を完了したとの電話があり、遺体の変化について尋ねられました。実は修法の最中、遺体の死斑は徐々に消え、ついには見当たらなくなっており、黄緑色だった顔色もゆっくりと淡い黄色を回復していました。梵穴部に手を触れると温熱が感じられ、身体はとても柔らかくなっていました(そのため、しばらく後に葬儀社の係員が遺体を運ぶ際に、頭と足の両方を同時に持ち上げたところ、V字型になってしまったほどでした)。
尊貴なる リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子のためにいつ何時もお心を砕き、人生最後の旅路についても弟子達のためにお考えくださっているのです。「『葬儀社の助けはあるのか?』と上師からご下問があった」、そう魏兄弟子は電話でおっしゃいました。後顧の憂を取り除いてくださろうとする上師のお心配りとお骨折りに感謝申し上げます。
10月6日には、母を伴い宝石店へ向かい、尊貴なる上師にお礼を申し上げ、出棺の日にちをお伺いしました。その後の日々、家中のものすべて、特に母は父に対して譬えようもなく深い、離れがたい思いがあったものの、辛さや悲しさを少しも感じることはなく、静かで穏やかな心持で過ごすことができました。
10月19日は、出棺の日でした。別れの辛さはあったものの、父が素晴らしい土地─仏の淨土に赴いたことが分かっているので、私達には懐かしさと感謝の気持ちがあるだけでした。遺体を火葬後には、殊勝なるポワ法の瑞象である頭頂梵穴の小孔を、だれもが争うようにして見ましたし、また写真に残しました。
私はここに改めて懺悔したいと思います。弟子でありながら、私はお教えに従うことを怠り、そのため父のために前以てポワ法を願うこともできませんでした。尊貴なる リンチェンドルジェ・リンポチェは後に、また別の出国の折に、父がなぜあのように安らかに旅立てたのかについて開示くださいました。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェの出国の際には、私が必ずお傍に仕えていたためで、それが一種の供養になっているためだ、とのことでした。
尊貴なる金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝申し上げます!
また、兄弟子のご配慮とご協力に感謝します。そして同時に、兄弟子には上師にできるだけ近しくし、また上師に近しくすることの重要性についてご理解いただけたらと思います。上師が我々を必要となさるからではなく、私達が上師を必要としているからなのです。みな共に学んで行けるよう願ってやみません。
弟子 劉振剛 敬書
2009年12月
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2010 年 01 月 26 日 更新