431:リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く私の主人を済度くださった
私の主人陳銘華は、二十数年間も肝臓機能不良で悩まされ、以前痛風もありました。約三年前には糖尿病も患い、薬を服用していました。でも薬は肝臓に悪いのです。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前、陳銘華はマレーシアから来た先生について気功を学んでいましたが、長時間の積み重ねで掌と顔色が次第に黒ずんできました。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは陳銘華に、気功を学ぶのはやめなさい、真面目に仏法を学びなさい、そうでなければ肝臓は完全だめになるとおっしゃいました。その後彼は気功を学びに行かなくなりました。すると掌と顔色は次第に快復しました。この間陳銘華は定期的に自分の身体の情況を検査していました。
去年(2008)の七月に、陳銘華は病院で超音波検査をして問題があるとされました。医者は私達に大学病院へ行って再確認することを進めたのでまたCTスキャンをして、約1.5センチの原発性悪性肝腫瘍を発見しました。医者は当時私達にTAEをするよう勧めたのです。でも私達は医者の意見を受け入れず、一心に佛菩薩にお任せしようとしました。その後観察を続け、漢方薬でコントロールし、治療してきました。当時私は陳銘華にもう飛ぶのはやめてもらいたいと願いましたが、彼はやはり仕事を続け、深夜と長時間のフライトはやめることだけは同意しました。というのは陳銘華は家の支出が大きいことを考えているからです。でもリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仏法を学ぶ人を佛菩薩は餓死させない、どれぐらい儲かるかは以前為したことによると開示なさいました。去年の十一月に腫瘍は大きくなり、それのまた二つの小さな腫瘍が発見され、去年の末リンチェンドルジェ・リンポチェは陳銘華に「飛ぶのはやめなさい」とおっしゃいました。今年の春節が過ぎた頃、彼は私に退職を申請したと言いました。退職後彼は毎日家で呪を唱え大礼拝をしていました。三月に、リンチェンドルジェ・リンポチェに従ってインドへ閉関修行をしに行ったのです。
五月に病院へ行き定期検査した時、腫瘍は短時間内にもっと大きくなり変化する速度が非常に速くなっていました。医者は私達に手術を勧めそれもできれば早めに行なったほうが良い、これは最後のチャンスだとおっしゃいました。腫瘍は肝臓の三分の二を占拠し、肝臓の脈内の方向へ生長している、肝臓を大きく切り取らなければならないが、彼の年と体力なら耐えることができるから、できればすぐに手術を受けなさい、そうでないと以後手術を受けようとしても間に合わないとおっしゃいました。でも手術には必ず危険な比率もあります。切除の際に腫瘍細胞の屑が血管の中に落ち、血液とともに別の所に流れて行き腫瘍の転移を進めます。でも医者はこの手術には自信がある、安心して任せなさいとおっしゃいました。私は魏兄弟子に話すと、魏兄弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達は何の意見も言わないで、自分で決定するようにとおっしゃったことを伝えてくださいました。
その後彼は宝石店へ行きリンチェンドルジェ・リンポチェの御真影に頂礼し、その場で御真影に対面して泣きました。家に帰って彼は私と娘の意見を聞き、私は、今回あなた自身が決定するべきで、私達はあなたの決定を支持しますと答えました。この時彼は迷っており決定を下し難いようでした。その後彼は手術を受けると決め、私と娘は御真影に向かってリンチェンドルジェ・リンポチェ、諸仏菩薩及びアキ護法の御加持を求め、佛菩薩に彼にとって一番良い按配を願いました。そして手術の当日の朝、準備完全で手術室へ送り込むのを待っている時、医者が突然私達に今日の手術は取り消しだと通知しました。早朝臨時に肝臓を取り替える大手術があり、今日の手術は後回しになるとのことでした。私達はこの一切は諸仏菩薩の按配だと信じ、陳銘華も退院して手術を受けない事を決めました。医者は彼に手術しなさい、諦めるなと勧め、手術を受けなければあと何ヶ月しか命がないとおっしゃいました。でも陳銘華はやはり医者の好意をありがたく受けながら手術を断りました。
その後陳銘華は逸仙路寶吉祥宝石店に頂礼しに行き、リンチェンドルジェ・リンポチェに法会で大礼拝させてくださるよう頼みました。リンチェンドルジェ・リンポチェは陳銘華にどこが間違っているか分かったか? 腫瘍が出来るのは全て果報の顕れであり、それはあなたが嘗て上師を謗ったから、福報がなくなり、この病気が急に発病したのだとおっしゃいました。家へ帰って自分はどこが間違っていたかよく考えなさいと指示しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは又彼にお母さんと家の人にはっきりと説明したかと問い、お母さんと家の人に自分の病気と手術を受けない理由を必ず説明しなさいとおっしゃって、考えがはっきりし、はっきり話してから又私に会いに来なさいと御指示なさいました。
陳銘華は帰宅して何日か考えて、又宝石店へ赴き自分の過ちをリンチェンドルジェ・リンポチに懺悔しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは家族にはっきり説明しましたか? と聞かれました。陳銘華ははいと答え、その後リンチェンドルジェ・リンポチェは仏像を持って陳銘華の頭上で御加持なさり、法会で大礼拝する事をお許しくださいました。
陳銘華は退院してから毎日逸仙路の宝石店へ頂礼しに行きました。ある日私は何時リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を願うのですかと聞きました。彼は未だ時が来ていないと答えたのですが、私はポワ法は自分で願うものだと言い、意識不明になってからでは遅すぎる、人生無常であり毎日変化するものだと言いました。時間と共に、腫瘍は次第に大きくなり、皮膚と目が黄色っぽくなりました。腹に腹水が出始め、足も腫れてきました(まだ靴は履けますが)食欲は益々悪くなる一方で、時に身体の具合がすぐれないようでした。病中一回だけ痛みを感じたようですが、耐えることはでき、その後痛みを訴えるのを聞きませんでした。
ある日娘がリンチェンドルジェ・リンポチェに法会で父親の代わりに大礼拝を行なうことを願ったのです。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故法会で大礼拝をするのだ?と聴かれました。娘は父親の代わりに福報を積むのだと答え、往生の時リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法をを得るためだと告げました。リンチェンドルジェ・リンポチェは娘にこうおっしゃいました。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの父親のためにポワ法を修めることが出来ると知っていながら、どうして泣くのだ、何を悲しんでいるのだと問い掛けました。あなたの父親は今まだ宝石店へ来て頂礼することができ、インドへ行って閉関修行することが出来る。あなた方が知っているようにあなた方の父親は嘗て上師を謗り、道理で言うと閉関修行する因縁福報はないはずだ。しかし人間死後は孤独なもので、閉関することは彼に先に自分が孤独で呪を唱える感覚を体験させるものだとおっしゃいました。そして娘に、父親へ食事と寝る時以外、外の時間は六字大明呪を唱えるように言いなさいと指示なさいました。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは娘に今父親が一番気に掛けているのはあなた達の母親のことで、何と言っても彼女はあなた達の母親だ、母親の世話をするようにと娘に告げ、更に娘に今日の事を全てあなたの母親に伝えなさいとおっしゃいました。そして私達三人が心持を変えるようにと勧め、もし私達三人がまだ悲しんでいるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは娘に法会で大礼拝することを許さない、心持を正してから願いなさいとおっしゃいました。
娘が願いに行った二日後、陳銘華は自分でリンチェンドルジェ・リンポチェに殊勝なるポワ法を得られるように願いに行きました。リンチェンドルジェ・リンポチェは又どのぐらい生き延びたか?と聴かれ、彼は数ヶ月と答えました。リンチェンドルジェ・リンポチェはこうした時間を与えられたのは家庭生活を享受するためではない、自分は既に死んだと考え、食べることができたら食べ、疲れたら休み、外の時間は絶えず呪を唱え、その外の事は放っておきなさいと指示しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いてこうおっしゃいました。今あなたの願いを受け入れても、その時絶対ポワ法を得る事ができるとは限らない、それは自分の因縁福法に依るものだと。リンチェンドルジェ・リンポチェは陳銘華の供養金で仏像を造りパモジュパ寺に供えました。陳銘華はどんな徳があってリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にこのような福報を積む機会を与えてくださったのでしょうか?尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝するのみです。
リンチェンドルジェ・リンポチェは法会で、絶えず生死大事と人生の無常を御開示なさり、彼に放下するよう、執着するのではないとおっしゃいました。陳銘華は身体の具合が悪くなるにつれて家から出て逸仙路の宝石店へ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼することができなくなりました。そこで娘が父親のかわりに逸仙路の宝石店へ頂礼供養に行きました。兄弟子達がこのことを知った後、家へ行って彼を宝石店まで支えて行ってあげると言ってくださり、ありがたいことに王兄弟子、周兄弟子、及び呂兄弟子の助けの下でリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼することができ、それも最後の一回となりました。
リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にこう聞きました:準備はできましたか?日曜日の法会が終わって恐れる必要はありません、私を観想しなさい、あなたの妻と子供を心配するのではない、私があなたの妻を叱るのも彼女のためだ。子供に心をのこすのではない、私もあなたのかわりに彼女達をしつけるからね。分かりましたか? その時陳銘華は目を大きく開き頷きました。家に帰ると彼は意識が朦朧としていました。
次の日、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に家へ帰りなさいとおっしゃり、又魏兄弟子の通知を受け、リンチェンドルジェ・リンポチェが陳銘華に入院するようにと私から言いなさいとおっしゃっていることを告げられました。そして病院を按配して、葬儀社も按配してくださったのです。
意識不明になった後、胃にも尿道にも管を通さず、点滴を注射するだけで、水分とブドウ糖を補充するだけでした。十月三日死亡当日の早朝、呼吸はあったりなかったりで、私と娘は絶えず呪を唱え、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持なさるのを観想しました。阿弥陀仏無遮大済度法会が十月四日にあるので、その時リンチェンドルジェ・リンポチェは済度大法会のため閉関なさっていました。それに今は休息して寝る時間なので、内心では先にリンチェンドルジェ・リンポチェにお休みいただこうと思い、起きられるのを待って夫を助けていただこうと思いました。
そして陳銘華は午前九時五十八分に脈が弱くなり停止しました。この時宝石店の兄弟子に通知したのですが、私達はやはり絶えず呪を唱えリンチェンドルジェ・リンポチェを観想していました。十一時過ぎになると私が観想しているリンチェンドルジェ・リンポチェはとても大きくなり、壇城の上の阿弥陀仏と同じように大きくなりました。御仏と無二無別の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の上で御加持くださっていました。
陳銘華の唇はしだいにピンクになり、口も閉まってきました。全身の皮膚の出血したところもしだいになくなり、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法の加持からでた瑞相を得た事が分かりました。でも私達は午後の一時まで呪を唱え続けました。この時ある兄弟子が病室へ来ました。陳銘華の額に触ると冷たかったのですが、梵穴は暖かく窪んでいて、口には赤い液体が流れ出ていました。告別式の期間、リンチェンドルジェ・リンポチェの御加持と福報があって、私は平静に仕事へ行くことができ、私達の心の中には悲しみはなく、彼が阿弥陀仏の浄土へ行けるようにと祝福しました。告別式の日にちについて指示を伺ったところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは旧暦の二十二或いは二十三日にしなさいと言われました。でも二十二日は双十節国定記念日で、葬式場は開いてなく二十三日だけ、それも日曜日でしたが、小さいホールがあるとの事でした。はじめ私には午前十時から十二時まであると言いましたが、日曜日は法会があるので、告別式の時間が早めになるよう頼み、一切は順調に進めることができました。告別式の期間上師とアキ護法に告別式の時雨が降らないように、告別式に参加する友達と兄弟子が雨に濡れないようと願い、その二時間は本当に雨が降らなかったので、告別式に参列した友人達は不思議がりました。私はこの一切はリンチェンドルジェ・リンポチェの御加持と福報によるもので、感謝していますと言いました。遺体を火葬したあと頭骨は完全なもので、頭頂に完全な小さな穴があり、火葬場の職員が私に、魂はこの穴から出て行くものだと聴いていると教えてくれました。私は上師リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なポワ法を修めてくださって成就したものだと言いました。すべては時間通りに進めることができたので、私達はすぐ道場へ行って法会に参加することができました。
葬儀社の方面も私が寶吉祥仏法センター リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子なので三分の一の葬儀費用を省くことができました。この一切は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えてくださったものです。仏法を学ぶ途中、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達を連れて一歩一歩歩んでこられました。過ちを犯した時リンチェンドルジェ・リンポチェは私達を教え指導してくださり、苦難の時にはリンチェンドルジェ・リンポチェは私達を救ってくださり、病気の痛みの時リンチェンドルジェ・リンポチェは私達の苦痛を和らげてくださいました。上師リンチェンドルジェ・リンポチェに依止してこそ最大の福であり、教えに従い行なってこそ上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩にお返しできるのです。ただただ感謝あるのみです。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に感謝するばかりです。兄弟子達のお手伝いと、二百数人の陳銘華の告別式へ参加してくださった兄弟子達にも感謝の意を告げます。ある友達は告別式に参加した後、電話を掛けてきて、私の体験したことを聞きました。仏法は本当に殊勝なもので、チベット仏教は金剛上師の教えのもとでとても特別なものです。家族が往生した時も、思い出に満ちて悲しみはなく、又重病の時にも体に管を一切通さず苦痛もなく尊厳を持って逝くことは、私達が生命の最後に望むことではないでしょうか?このすべては慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが福報をあらゆる苦しんでいる衆生に与えられたもので、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝するのみです。
弟子 胡韻華
2009年10月
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2010 年 01 月 26 日 更新