375:感謝

2006年10月にはじめてリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、体が弱かったため、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持祈祷をお願いしました。そうしたら蛇を殺したことがなかったかと聞かれ、続いて往生した爺の代と父の代も体が弱かったよねと言い当てられました。蛇を殺したことは遠い昔のことでもあり、どうしても思い出せませんでした。ただ幼い頃から蛇が苦手で、見かけたらすぐ逃げました。子供の時、家が山の中にあり、よく蛇に遭遇したし、道端に殺された蛇もよく見かけました。ある日の夜、蛇が家の中に入り込み、ニワトリが大騒ぎしたので、棒を持って蛇を叩こうとしました。蛇に逃げられましたが、どうも悪い種を撒いたようです。

出家したお寺は田舎にあり、周りにも蛇が多くて、よく寺の境内に入り込みました。蛇を踏んだらいけないので、蛇を外に追い出すようにしました。寺の境内に田んぼがあり、野菜や米を作るために、時々除草剤をまいたので、蛇が田んぼを通ったら薬剤で死んでしまいました。一度体がとても長い蛇が田んぼの中で死んでしまったのを見かけたことがあります。出家したにもかかわらず、命を殺し続けたなんて、なんという業の深いことをしました!

リンチェンドルジェ・リンポチェは、全身性エリテマトーデスは竜と関係がある、と開示したことがあります。幼い頃何もわからないまま蛇を傷つけ、何も覚えていないとはいえ、因果応報は避けられません。確かに私は蛇と何らかの縁があります。二度ほど疱疹にかかったことがあります(俗でいう蛇の皮という病気で、全身満遍なく疱疹できたら、死んでしまうという)。これは因果応報の病気で、大変辛く、耐えられず、横になることも、眠ることもできませんでした。最初かかった時に何の病気かも知らず、悪くなる一方でした。村中を聞き回って、人に治す方法を教えてもらってから、やっと落ち着きました。今になっても当時疱疹できたところは痛く感じた時もあります。一回体の不具合で入院したことがあって、医師に全身性エリテマトーデスと診断され、何年も抗生物質を飲み続けました。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから、上師に加持していただき、因果応報を受け止めて、自分でつくった悪業に懺悔しなければならないと上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を頂いています。私達の傷つけた各々の衆生は我々より苦しんでいるので、私達についてる衆生と共存し、自分の体がよくなるために再び彼らを傷つけてはいけないと思うようになりました。

皈依してから、二年ほど抗生物質を飲まず、再検査も受けていませんが、体力はかなり回復しています。風邪を引いた時以外に、普段は昔みたいに無気力で横になって休むこともなくなりました。すべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲と加持力のおかげです。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子の釋慧陽を加持しました

昔うちは農業を営んで、いくつかの陸田を耕して、ニワトリ、アヒル、ブタなどいくらかの家畜も飼って、大きく育て上げたら売りさばき、時々お正月や節句のたびに殺して食べたりもしました。父は六十何歳の時に大腸癌にかかりました。癌が末期に進んでいると食事できず、激やせになって、お腹が水で大きくふくらみ、腹水を吸引してもらってもどうにもならず、病に苦しめられた結果、自分で農薬を飲んで自殺しました。

一番上の兄も若い時農業に従事し、それから基隆の波止場で運搬の仕事をしていたので、一般の人と同じように肉を食べないと栄養が足りない、体力がつかないという誤った考え方を持っていました。その後、菜食に改めましたけど、食べた分を償わなければならないというので、彼は痛風という病気にかかりました。痛み止めの注射や薬を飲んでも何も効かず、それでも仕事をしなければやっていけないので、五十五歳の時に自殺しました。叔父は小さいときに養子にやられたが、晩年に自殺しました。それはやっぱりご先祖様が殺生の悪業をつくった上、自分の代々の業の積み重ねでこのような因果応報になったと言えます。また五番目の姉は中部の海辺に嫁に行って、時々魚を捕りに行ったり、活きた魚を買って殺して食べたり、中絶したこともありました。その後、両足は皮膚病にかかって、ずっと皮がむけていて壊疽みたいな感じになって、臭いにおいがするので、長い間治療し続けましたが、良くなりませんでした。彼女もまた肝腫瘍にかかって、五十二歳の若さで亡くなりました。

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、西洋医学で治療できないすべての病気は殺生と関係しており、食べた分を償わなければならないので、癌患者は最後の息をのむまで苦しめられるだろうと開示したことがあります。五番目の姉は病の末期にモルヒネを注射され、貼り薬もされたけど、痛みが和らげず、最期も苦しみもがいたのを見ていました。五番目の姉が往生した際、そばであれだけ苦しみもがいたのを見ていたのに、何も助けることができず、とてもつらかったです。

皈依した後、法会にずっと参加しています。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、自殺で亡くなった人が必ず地獄道に落ち、誰かに助けられるまで絶えず自殺の道を繰り返し、助けがくるとはじめて地獄の苦しみを離れて機会が与えられ、そうでなければ彼らは地獄で苦しむ日は延々と続きます。それを聞くと、心は大変つらいですが、皈依して一年経ってからやっと金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに父、叔父と一番上の兄が皆自殺で死んだことを報告しました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らのために施身法を申し込んだら、法会で済度してあげるとおっしゃいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私になぜ今までこのことを黙っていたかとお聞きになりながら、皈依して法会に頻繁に参加していたから、一年の時間で、往生者の福報は徐々に積み重なってきて、ようやく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告するきっかけが作れたと開示しました。それによって、父、叔父と兄が済度される縁ができ、彼らを地獄の苦しみから救い出されることができました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝します。

リンチェンドルジェ・リンポチェは釋慧陽高齢のお母さんを加持しました

2007年に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、三ヶ月も経ってない間に上師リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールの聖地に出向き、三ヶ月間閉関の修行されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは首尾よく修行を終えお帰りになって来たらすぐ寶吉祥道場の法席に上がって開示を行いました。法会が終わった後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子の我々を引見して、修行の道で仏を学ぶ上、日常生活に支障が起きていないかと聞かれました。それにリンチェンドルジェ・リンポチェの中山北路にあるお家を下見しにいきなさいと、兄弟子の慧蓮達と一緒に住むことをお許しになりました。私達が顕教の道場に住んでいるから、毎週日曜日に寶吉祥道場を通って法会に参加するにはとても難しいと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも我々を案じてくれているからです。時には顕教道場にも法会があってそこから離れないので、掛け持ちすることはできませんでした。それにその時自分も気が多すぎて福報が足りず、一年過ぎてからやっと台北に引っ越ししてきました。私が出家した後、母はずっと私についていて、顕教の道場で二十年余り住んでました。母も年ですし、動きも鈍く、新しい環境に変わると他の人に迷惑をかけるのではないかと心配しました。しかし顕教の道場に住み続けると、時々支障があります。お正月が来るたびにリンチェンドルジェ・リンポチェは元旦に来ないやつはもう来なくていいというし、七月の法会にもは支障があって参加できないから、内心はとてもそわそわして、このままではいけないと考えました。私は顕教で出家し二十年余りもだらだらして、ようやく因縁福報を得て、このようにリンチェンドルジェ・リンポチェに出会い、皈依することができましたから、顕教の道場に居続けると、すべては水の泡になります。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから仏法の教導がないと、仏法や生死解脱を悟ることはありえません。

そのためにまた尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れて、私は台北に引っ越し、今まで居続けた顕教の道場から離れ、兄弟子の慧蓮達と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェのお家で暮らすことを報告しました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に許してくれて、もうあなた達は上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した弟子だから、住むところなく、食べ物がなく、着る服もない時リンチェンドルジェ・リンポチェは世話をしてやると開示しました。しかし母は私についているからいっしょに住まなければならないことも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは承諾してくれました。今私と母も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお世話になっています。大慈大悲の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝し、落ち着いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追随して修行と仏法を勉強することに専念できたことを感謝しています。本当に感謝の意を言葉では言い尽くしません。

出家弟子 釋慧陽 伏してお礼します

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2016 年 04 月 14 日 更新