301:慈悲な大願力、リンチェンドルジェ・リンポチェは怨みも悔いもなくひたすら尽くす
1998年2月16日桃園中正国際空港で発生した中華航空機墜落事故、当時私が勤めていた旅行会社のお客様6人がバリ島へのツアーを参加し、各種各様の偶然が重なりその飛行機に乗り、死亡の道に至りました。6人のお客様はみんな公務員であり、その突然の不幸に6つの家庭が崩壊し、残された遺族はこのような状況を受け入れることが出来なくて、毎日会社に電話を掛け、業務担当の人や管理職に対して、亡くなった方への償いとして巨額な補償金の要求を申し出され、応じなければ弁護士を立て裁判を掛けて会社を潰すとの控訴の要求が絶えずにいました。会社もそのため多大なダメージを受けてとても困難な状況に陥っていました。兄弟子韋さんがその時、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを紹介していただき、リンチェンドルジェ・リンポチェの特別許可で殊勝法会を参加することによって、リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲の力で亡くなられた方々の魂を済度することが出来ました。そのお蔭で事件の解決ができて、会社も潰されることから逃れられ、経営を続けることが出来ました。
2年後の2000年10月31日、シンガポール航空の飛行機が大雨の桃園中正空港で滑走した時、誤ってショベルカーにぶつかり飛行機が爆発炎上し、またも大勢の死傷者を出しました。当時その航空会社のすべての社員が空港に派遣され、桃園ドームで現場把握や家族への対応に追われたのでした。その事件の中、とある業務担当員の家族、つまり彼の奥さんも子供も病気になりました。最初は普通の風邪として病院に通ったのですが、薬を飲んでも病状が悪化する一方で、医者も原因がわからないままでした。その間、その家の外国籍の家政婦さんがご主人様の傍に女の人(この世には居ない人、つまり遭難者の一人)が付いていることをよく見かけると言い出して、家族みんな不安と恐怖が走りました。
そのご主人は二転三転でその前々の年の航空機事故はリンチェンドルジェ・リンポチェの手助けを得てなんとかおさまった事を知り、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求め、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な開示により正体をわったのでした。その女の人というのは事故に亡くなった方で、このシンガーポール航空の業務担当なら自分のため修法し済度してくれる修行者を見つける因縁を持っているなので、いろんな現象を起こしたり困らせたりして、メッセージを送り続けていたそうでした。所縁のある人を通して大願力・大悲力を持つ大修行者を探し出し助けてもらい、そして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝な施身法を用いて、彼のために修法し、亡き魂達を済度することもできました。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も求めずに、大慈悲心で衆生を助け、苦海を脱離させ、苦を離れさせ楽を得るように助けてあげていました。
兄弟子の韋さんが2年余りの間、努力を惜しまずにリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を絶賛していて、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し仏法を学ぶことを望んできました。しかし私は鈍くてその気持ちを感じ取ることができず、二回もリンチェンドルジェ・リンポチェに助けてもらったにもかかわらず、恩に着ることなく、のろのろしているなか2000年12月10日にやっとリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。その上、恩知らずな態度で、自己の流儀なおかつ傲慢な気持ちでマイペースで法会を参加していました。2002年8月、澎湖の病院より義父の危篤の知らせがありました。当時 リンチェンドルジェ・リンポチェにお目見えにして助けを求めました。義父が往生する時 リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修法してもらえるようにお願い申し上げました。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で、義父は8月12日に寿命が終えるから、私の主人にリンチェンドルジェ・リンポチェにお目見えして父親のためのポワ法を修めること(主人も皈依した弟子だから)を自ら申しだすべき、そして救急延命措置や気管切開は絶対させないように指示しました。なのに、愚かな私は堅い意志もなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが年配の人に苦しませたくないその気持ちを察することが出来なかったのです。リンチェンドルジェ・リンポチェが義父の寿命を半年あまり延ばしたのに、私はその時間を大事にすることも無く、きちんと主人を行かせることもないままでした。そうしたら、その年の12月主人は澎湖の病院から、義父はもう緊急状態になったため救急して気管切開を行うことにしたとの連絡がありました。結局義父が極度の苦しみの中で気管切開になり、集中治療室で生き地獄のようになりさらに半年を過ごしていました。最期澎湖の病院から義実家に戻された途中、義父はもう喋れない状態でしたが、涙を流して無言の抗議をしていました。こんな時でもリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲的に息子さんは父親の済度のため自ら施身法を求めに来るべきだと言い続けました。翌週私と子供が代わりに施身法を参加しに行ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法を終えた時怒り出して、このように指摘しました:義父が主人のことを怒っているため魂はまだ澎湖に留まり、済度されたくない。何故かと言うと、主人のせいで散々苦しめられたことに大きな恨みを生じたからでした。しかし
そのままだと義父は三悪道に下ることになるので、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは強く主人に自ら施身法を参加し、それによって義父がリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受け入れられるように望んでいたというのでした。
教えに従ってしっかり実践する、すべての行事も法に従って行われる、そのようにすれば、仏菩薩は飯をくれるし、住まいも衣服もくれるとリンチェンドルジェ・リンポチェはよくそう開示していました。しっかりとリンチェンドルジェ・リンポチェの言うことを守り、付き従って行動すれば間違ありません。弟子はいまだに頑固で開き直っていなかった、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェずーと離さずに見守ってくださっています。それこそリンチェンドルジェ・リンポチェの言うとおりの証しで、弟子は感無量です。
弟子 呉美慧 謹んで書き上げます。
2009年2月22日
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2017 年 03 月 30 日 更新