292:尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御前において頂礼
2006年5月、友人からの連絡により、リンチェンドルジェ・リンポチェが8月に台北アリーナで阿弥陀仏済度法会(中文:阿彌陀佛超渡法會)を行うことを知りました。心中参加したいという気持ちが沸き起こりましたが、様々な事が障害となって法要に参加できる福徳を得られず、遺憾を感じていました。その後、友人の話で、逸仙路の寶吉祥宝石店に行きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、毎週日曜日の法会への参加を請うこともできると知った時、すぐに、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を請おうと決心を固めました。
初めて宝石店に足を踏み入れリンチェンドルジェ・リンポチェにまみえた時は、その威厳のある御様子に驚き、また、私の前に並びリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けていた人に対し、リンチェンドルジェ・リンポチェが力の限りを尽くして大慈悲心で助けようとしているのを目の当たりにし、大きな感動を覚えました。私の番になり御前に行った時、高慢な心がひどくて礼拝さえもできませんでした。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲によって私に仏法を説かれ、求めた法会への参加と皈依に関しては、もう一度よく考えてから願うようにと仰られました。
二度目にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時、上師は慈悲によって私が法会に参加することを許可して下さいました。しかし私に、仏法を学ぶことの目的はなにかをはっきりさせ、以前に学んだことを全て忘れるように仰いました。愚かな私は、どんな事をはっきりさせなければならないのか理解できませんでした。その後、次の日の日曜日の法会に参加しました。上師は、親孝行の道について説かれ、「親孝行ができない者は人としての基礎は全くなく、仏法を学ぶことについては尚更である」と仰り、また、「私達は仏法を学ぶことは全て自分の利益の為であり、自分がよくなることだけを考えて、他人の気持ちには無関心である。これは仏法を学ぶ際の正しい心の持ち様ではない」とも説かれました。この時、私は、忽然と理解することができました。私は確かにそういう者でした。幼い頃から高慢で、父母の話をあまり聞くことはありませんでした。それに、仏法を学問として考え、自分の学んだことをひけらかしたり傲慢さを示すものであったので、何かの場面にぶつかった時には、仏法を応用することはできませんでした。学んだのは、単に、仏教学の知識と仏教学の名詞だけだったのです。
ここに至り、初めて、以前の独りよがりに仏法を学ぶ心の持ち様が、大きな誤りであったことを完全に理解しました。なるほど、仕事上の困難や生活上の悩みにぶつかった時、胸中、いつもバランスを失い非常に大きな煩悩を起こしたはずです。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、仏法を学ぶ道には、近くで行為を監督し矯正してくれる徳を備えた上師が必要であると説かれていました。この時、私は上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する比類なき堅固な信心が生まれ、心の奥底からリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したいと思いました。
再び友人に伴ってリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた因縁において、勇気を奮い起こし皈依を願い、上師の許しを得た時は、心中、感動及び歓喜に満たされ、11月にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依致しました。
愚劣な私が仏法を学ぶ道において信心を堅固にできることを上師に感謝申し上げ、並びに、加持を授けて戴けるようお祈りしたいと存じます。また、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御健康と、この世に長らく住し常しえに仏法を説いて戴けることを願っております。
弟子 陳協志 感謝を込めて頂礼致します。
« 前へ – 衆生済度の事跡へ戻る – 次へ »
2014 年 12 月 21 日 更新