290:私を救って下さった尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ
幼い頃から、私はどんな宗教も信じず、頑なで、非常に傲慢でした。しかし、どこにいても疑心暗鬼し、全てに怖れを感じる肝っ玉の小さい面もありました。礼拝は、最も多い時でさえ、毎年、父が家で行う特定の日にだけ祖先を祭るだけで、一般にある旧暦の一日、十五日でさえも礼拝の習慣はありませんでした。ずっとこのような感じで、大きくなりましたが、27、8歳のある日、姉が家にいる老父に会いに来て、数言話を交わした後、私に、五色の紐を編んで身に付けるよう言いました。どうしたわけか、小さい頃から姉の話を聞こうとしなかった私ですが、この事だけは聞き入れ、腕紐にする五色の紐を買いに行き、左腕に付けました。更に姉は、家のベランダに経文の書いてある五色のタルチョを掛けました(後に知ったことですが、これは一番上の姉がお守り効果があると考えてのことでした)。姉と義理兄の一家は、天主教を信じていたのではないのか?嫁ぐ時も教会で式を挙げたはずだが…と内心奇妙に感じましたが、多くを問いませんでした。
数年の月日が流れ、その時編んだ五色の腕紐も汚くなっていました。ですから、当初のように毎日手に付けることはなくなっていました。生まれつき遊び好きの私は、その時、既に結婚していましたが、外の遊技場で遊びにほうけて、夜も帰らない日がよくあり、そこで、悪友に出会いました。ある晩、深夜1、2時の頃、友人の車で家まで送ってもらいましたが、車を階下にとめた後、彼は、ケースの中から白い粉末の入った小瓶を取り出し、ストローで少し取り出してから、私に鼻からこの粉を吸うように言いました。面白がってやっても、なんということはないだろうと思いました。しかし、二分も経たないうちに、おかしくなり、身体全体が浮き上がって酒を飲んだようになりました。あちこちぶつかりながらエレベータに乗って上にあがり、家に入った途端、身体全体が緊張してきました。濡れたティッシュで鼻の穴を洗いたいと思いましたが、もう手遅れでした。続いて、身体全体の力が抜けてベッドに倒れ込みました。意識を失う最後の時、傍らでとっくに寝ていた妻の手を堅く握り締めました。一晩中、階下の犬の声が耳に入り、途切れることなく繰り返し、繰り返し聞こえてきました。全身は気分が悪いか痛みを感じ、目を閉じているにも関わらず、やはり様々な奇妙な色彩や奇妙な幻が現れました。ちょっと指を動かしたいと思っても、力がないのを感じました。側にいる妻に、即刻病院に連れて行って点滴してもらいたいと、ずっと言いたかったのですが、口を開く力が全くありませんでした。その時、私は、もしかしたら死ぬのかもしれない…と思いました。自分が薬物アレルギーの体質であることは以前から知っていました。小さい頃、アスピリンを飲んだだけでも、目が胡桃のように大きく腫れたこともありました。今回…もしかしたら、だめかもしれない…。死ぬ時には、誰が助けてくれるのだろう?心の中にこのような疑問が起こりましたが、確実な答えはありませんでした。どの位経ったのかわからず、まだ倒れているのか、はたまた昏睡状態であるのかも分かりませんでした。私がゆっくり目覚めた時、すでに、次の日のお昼に近い時でした。私の四肢は既に引き裂かれたかのように、力がなく、痛みを感じました。ベッドから起きるのも、トイレに行くのもふらふらして、壁につかまって歩かなければなりませんでした。その後の数日も、同じように身体に力がなく、ずっと咳き込み、血を帯びた濃い黄色の痰が出ました。これは、非常に酷い状況であると感じましたが、どうしたらいいのか知る由もありませんでした。突然、私は、以前身に付けていた五色の腕紐のことを思い出し、理由は分かりませんが、それが自分を守ってくれると感じ、家の中を探し回っていました。
数日後、姉がまた家にいる父のところに来ました。姉が世間話を少しして帰ろうとした時、姉とあまり口をきかない私が、何故か突然、姉に向かって、「『すごい師』に皈依しているのではないか?五色の紐をもらって来てくれないか?身に付けたいから」と言いました。姉は私がこのように言うのを聞いた途端、何も考えられずにいたようですが、すぐに「何故、突然そんな事を聞くの?」と聞き返しました。私は本当の経緯を話したいとは思いませんでしたが、「最近身体の調子が悪く、スムーズにいかないことが多い。時にはもうすぐ死ぬのではないかと思う事さえあるので、紐を身に付けてお守りにしたい」とだけ告げました。姉は、「私が皈依したのは大修行者であって、正法によって衆生を救おうとしている人なの。一般の参拝だけの師父とは全く違うのよ!その方は尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ!私はあなたに代わってお願いすることはできないの。全ては自分の口から言わなくては、因縁は結ばれない。でも、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェのところに連れて行って、謁見を求めることはできる。会えるかどうかは、あなた次第よ!」と話すと、500元を私に渡し、お化けのようだから髪の毛を切ってくるようにと言いました。さもなくば、連れて行くわけには行かないと。私を連れて謁見を求める為に、三日後もう一度来てくれるとの話を聞いて、私はすぐに安堵感を感じました!その時、私の髮は肩まで伸びていました。退役後は、髪を切るよう誰が言っても、切ったことはありませんでしたが、この時は初めて、私にも何故きちんと話を聞けたのかわかりませんが、髪を切りに行ったのです。三日後の午後、姉は家まで迎えに来てくれました。そして、道の途中で、尊敬の念を示して礼拝をし傲慢でいい加減な態度をとってはいけないと、言いました。このようにして、姉に伴い、私は初めて、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに邂逅したのです。
尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、その時、襟の高い黒い長袖のセーター、スラックス、及び黒の革靴を着用していらっしゃいました。私が想像していた、袈裟を身に纏った出家者の様子とは全然違っていました。笑顔にはとても安らぎを感じ、近づき易いイメージを与えました。しかし、非常に威厳があり端整でもあったので、私は多少緊張して、話ができずにどもってしまい、何を話しているのか分からなくなりました。隣にいた姉に言われて、自分が“金剛結び(スンドゥ)”を戴きに来たことを思い出しました。尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く、すぐに、近くで奉仕していた法友に言い付けて、“金剛結び”を持って来させ、自ら取り上げて加持を与えた後に私に渡して下さいました。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは、私に左手の掌を上にして伸ばすよう仰り、御自身の右手を高いところから私の掌を覆う動作をしました。触れてはいませんでしたが、暖かい気が掌から体内に入るのを感じました。その後、身体の状況が良くないので注意して、禁煙しなければいけないと仰いました。また、家の寝ているところの枕元に水晶の玉があり、家のどこかに銅製のものがあるから、それらを捨てるよう話されました。最後に、法会に参加しなさい!と仰られたので、すぐに、「はい」と答えました。姉は隣で、嬉しくて泣き出し、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェにずっと頭を地に付けて頂礼していました。しかし、私は大馬鹿者です。今回の事をよく理解できず、奇妙に感じていました。姉は、どうしてこんなに激動した反応を示すのだろうか。少しの間、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが私に告げた話にどんな意味があるのかを理解できませんでした。正直なところ、自分が毎日寝ている部屋に何があるのか、自分でさえはっきりしませんでした。しかし、家に戻り、寝室を見た私は、驚愕しました!本当に枕元の私の寝ている側には、非常に大きな水晶の玉があったのです。私はすぐに、銅製のものにはどんなものがあるかを考えながら、家の中を探し回りました。その後、洋服ダンスの一番上に置いてあった一本の銅製の凝縮管を発見しました。次の日、私は尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの言いつけ通り、捨てました。そして、ひどく興奮して、私の今回の“奇遇”を父と妻に告げました。妻はすぐに、自分もリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めたいと言いました。
それから凡そ一ヶ月余りが過ぎた頃、私は再度、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めました。その後、私が口を開く前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「禁煙したかどうか?」を尋ねられました。一瞬、身体全体が背中から頭のてっぺんまで熱くなるのを感じ、もごもごとして答えられませんでした!なぜなら、私は、リンチェンドルジェ・リンポチェの禁煙するようにとの話を心に刻んで確実に実行しようとは思っていなかったからです。続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは仰りました。「もしまだ禁煙できないのであれば、寶吉祥宝石店の私のところに来ないように!」私は、その場で雷に打たれたように、頭全体が真っ白になりました!その後、どうやって寶吉祥宝石店を出たのか覚えていません。家に帰る途中、私はすぐにスーツのポケットに入れてあった一箱半の煙草を取り出し、道の脇のゴミ箱に捨てました。家に着くと、全てのライターを全部探し出して、大きなビニール袋に入れて捨ててしまいました!父は、20年も煙草を吸い続け、禁煙しろと言っても全く耳に入れたことのなかった私が、今日はどうして煙草もライターも捨ててしまったのかと、非常な訝しさを感じているようでした。
禁煙を始めたのと同時に、法会にも参加し始めました。そして、自然に菜食にもなりました。凡そ半年余りの月日が経ち、私は、妻、子供と共に、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。この時、本当に禁煙に成功することができました!私は、いつも、友人達に禁煙に成功したことと、菜食を始めたことを話していました。友人達は、煙草を離すことのなかったこの私がどうやって禁煙できるのかと信じてくれませんでした!ある時、学生時代の先輩の仕事場で、友人の二馬監督に、私がどんなに努力して煙草を止めることができたのかの過程を話している時、彼が突然、「これは、絶対にお前のリンチェンドルジェ・リンポチェが加持をたくさん与えてくれたに違いない!」と言いました。一瞬、私はぼうっとしてしまいました。実に、この一言によって、夢の中の人が起こされたような気持ちでした。禁煙後、よく友人に、自分の禁煙の成功を威張って話していましたが、これら一切は尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが私に授けて下さったものであるとは、一度も考えたことはありませんでした。意志薄弱な私が、どうして禁煙という悪習に打ち勝つことができたのでしょうか!私は非常に慙愧の念を感じ、何も話せなくなり、急いで先輩の仕事場を離れました。
慙愧の念を心から感じていました!尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの加持なくしては、私はあの白い粉の為に命を落としていたかもしれない!命さえもないのなら、他に何があるのだろうか!しかし、私は自分のことをすごい!と思っていたのです。自分の努力だけでやり通したと思っていたのです!
その後、幸いにも、リンチェンドルジェ・リンポチェの事業グループ─寶吉祥グループの中の祥楽旅行社において、外勤及び広告方面の仕事の手伝いをすることになりました。手伝いとは言いますが、実は助けられていました。過去の就職経験および資格、学歴から言って、このような仕事に携われるのは不可能なことでした。多くの場合、臨時的な仕事だけにしか就業機会はありませんでした。このような正式な仕事は初めてでした。ですから、実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェが私に機会を与えて下さり、私を助け、私を養ってくれたということになります。しかし、明らかに、私は、真心を込めての仕事をせず、機会をしっかり掌握してはいませんでした。ある日、職場に着いてまもなくして、家から電話がありました。義理の父が亡くなったという知らせでしたので、すぐに休暇を取り、病院の地下室の臨終部屋に向かいました。妻は既に、父親の為に六字大明咒を唱えていました。私も傍らで一緒に唱えました。約八時間が過ぎました。次の日、会社に行き、魏取締役に家の事を報告し、妻の実家で何か手伝いを必要とするかもしれないので、数日休暇を取ってもよいかと尋ねました。しかし、魏取締役はすぐに聞き返しました。「一体、どんな手伝いができるのか?」と。一瞬、私も答えが見つかりませんでした。実のところ、その時、心も落ち着かず、どのようにしたらいいのか皆目見当がつきませんでした。そこで、魏取締役は、社にネパールへ行くツアーがあり、ちょうど一席余っているので、それに行かせようと言いました。私は、それを聞いて吃驚してしまいました。家にこのような事が起きたのに、こんな時にどうしてそんなに遠くまで旅行に行けるのだろうか?家の事はどうなってしまうのだろうか?魏取締役は、私がまだ分かっていない様子を見て言いました。「先月ちょうど、宗派がネパールの仏舍利塔で落慶大法要を行った。今回、君が行けば、仏舍利塔の周りを回る行を日程に組み入れることができる。家の事は手伝えなくても、義理の父に代わって仏塔を回れば、却って真に義理の父を助けることになる」と。この時私は、真意をやっと理解することができました。話せば奇妙なことですが、家に帰り、妻と相談し、父にネパール行きを告げましたが、二人共、何も反対はせずに、行きたいのなら行きなさいと言いました。家の中にこんなに大事が起きたのに、私とは何の関係もないかのようでした。私が生まれて初めて訪れたネパールの奇妙な旅は、このようにして始まったのです。
家で様々な状況を考えながら荷物を準備しましたので、スーツケースの中には、長袖、半袖、かぜ薬、痛み止め、塗り薬、カップヌードル、ビスケット等、各種のものを揃えていました。携帯する手荷物には、きれいなハタで包んだ皈依証、プアール茶を少し、消化にいいビスケット、パスポートを入れました。しかし、奇妙なことに、飛行機がネパールの空港に到着した時、ツアー全員の中で私のスーツケースだけが到着しませんでした。他の者は全員、荷物の受け取りが終わり、空港側は、「もしかしたら荷物を預けた飛行機のフライト番号を書き間違えて、到着しなかったのだろう」と言いました。あんなに大きな荷物を持って来ても全く役に立たないのです。下着の一枚もない状況は、最悪でした。幸い、同じツアーの男性が、続く七日間の旅を乗り越えられるようにと、私に紙パンツを三枚くれました。
三日目の朝、私はツアーの人たちと別行動でした。彼らは、ポカラでの観光に出発し、私はルンビニの仏舍利塔に向かいました。到着した時は既に、午後の3~4時頃でした。当地の中国語ガイドと会った後、私は、仏塔の周りを回る行をしたかったので、仏舍利塔にすぐに連れて行くようお願いしました。周囲を囲む塀の入り口に着いた時、入り口に、軍服を着て武装した守衛が立っているのが見えました。そして、即刻、私のとガイドのところに来て、何の為に来たのかを尋ねました。ガイドは英語で、私が観光目的で来た観光客で、仏塔を見たいので中に入れて欲しいと説明しました。守衛が「観光の為には開放していない」と言うとは、全く思いも寄りませんでした。しかも、日が沈んでしまったら、彼らも人を入れることはありません。私が躊躇している間、守衛達は、突然、警戒心を示し、手をすぐに銃の引き金の上に置きました。武力によって私達を追い払う為です。私は緊迫した中、突然思いつき、ポケットの中にあった米ドルを数枚取り出して、わざと一番額の大きい一枚を最も外側置き、券を買う必要があるのか、私はあなたから券を買ってもいいから中に入れてくれないかと聞いているふりをしました。そして、この世の中は、米ドルが最も効果的な国際言語であると、心中こっそりと喜んでいました。しかし、守衛のポーカーフェイスは顔色を変えずに、私達に売る券はないので、早く帰るようにと言いました。この時、私にはどんな方法も残されていませんでした。どうしたらいいか考え、両手であちこち触っていましたが、どこに置いたらいいか分からず、米ドルをしまいました。この時、ふと、私の手荷物の中に皈依証があることを思い出しました。皈依証には、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ及び尊貴なる三十七代チェツァン法王の御写真がありました。その時は、落慶大法要が終わったばかりだし、守衛はこの事を知っているかどうか分かりませんでしたが、守衛は、皈依証の御写真を見ると、この写真の人にあったことがあり、あの大法要を知っているとも言いました。そして、沢山の人が来たが、私も彼らと一緒なのかと聞きましたので、急いで頷き、「yes!yes!」と何度も答えました。守衛は私達を中にいれることを承諾し、頭を縦に振って「ok!ok!no problem!」と言いました。こうして私は中に入ることができたのです。この件は、私自身が絶え間なくリンチェンドルジェ・リンポチェを心に刻んでいないことを示すものでした。ポケットにはドル札がありましたが、依然として動けないままでしたが、まったく予期せぬことに、自分にはこれら一切の得難き出会いがあり、それは全て尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェのお陰によって、この様な殊勝なる吉祥の聖地を訪れることが叶ったのです。自分の能力では、およそ一生かかっても不可能なことであったでしょう。更に興味深いことに、スーツケースは、私が台北に戻ったその日、ネパールの空港で見つかりました。空港側の話では、見つかったのは非常に幸運なことであり、遺失が戻るということは非常に少ないとのことでした。私の大きな荷物は家から持って行って、再び持って帰って来ましたが、一度も開けられないままでした。自信を持って詰めたスーツケースは完く役には立たず、その代わり、手荷物に入れた薄い『皈依証』が、今回の旅の“黄金の鍵”となったのでした。
この他、もっと多くの様々なことが私の身の上に起こり、また、別の法友の身の上にも起こりました。あらゆる異なる方法で、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは私達に様々な手助けを与えて下さいます。私達の普通の人生経験では体験できないかロジックでは説明付かず、科学、医学では証明できない出来事が続けて起きています。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子、または信徒に限らず、仏法に信心があり恭敬心を持っている人であれば、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの助けが得られるのです。虚空のの中の数多くの衆生でさえ済度が得られます。数年来、毎年行われている『阿弥陀仏無遮大会(中文:阿彌陀佛無遮大超度法會)』でもまた、限りない人間、それ以外の衆生が救われています。このような尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、世間において二度と得られない師であると言っても過言ではありません。皆様には弟子の愚劣な文筆を何卒お許し願いたいと存じます。
第七組 崔執中 2009年1月
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2014 年 12 月 21 日 更新