246:尽きざる恩徳

2008年12月19日朝、松山病院の付き添い用ベッドで眠っていたときに、突然医者と看護婦に起こされ、母の鼻から挿した管が抜けたので、もう一度挿しこむと言われました。処置にしばらく時間がかかってやっと鼻から管を通したので、急いで250ccのミルクを注ぎましたが、それがこの世で母に食べさせてあげた最後の一回となるとは思いもしませんでした。

四時間後、また注いであげようと思った時は、どこかに引っかかったと見えて、胃にうまく流れ込みませんでした。医者はまたもや管を5,6回も挿しこみ直してみましたが、うまくいきませんでした。その間、胃からか、喉からか或は鼻からかは分かりませんが、管に血が流れこみ、さぞ痛かろうと長引く苦痛をわが身のように思っていた時、尊き金剛上師、リンチェンドルジュ・リンボチェの加持を観想しましたら挿し込みに成功しました。けれど薬の投与時間を合わせるため、次のと一緒に注ぐ事になりました。ベッドの母は、血液中の酸素が70少々になり(正常値は95前後)、看護婦さんたちを慌てさしていました。このような状況下でもICUへは入れませんでした。およそ3時ごろ、病院から電話がかかってきて、母の脈拍も呼吸も止まったが、救急するかどうかと聞かれました。

尊き上師リンチェンドルジェ・リンボチェの開示では、救急された亡者は非常に苦痛を感じて、怒りの中で地獄に堕ちるということなので、如何なる救急措置も放棄することにしました。母が息を引き取った事を知り、一時的に慌てて、寶吉祥宝石店に電話して尊き上師リンチェンドルジュ・リンボチェに、母のためにポワ法を施してくださるようにお願いしました。しばらくすると、すぐ宝石店へ来て1000回の大礼拝をしなさいと告げられ、私は大急ぎで車で駆けつけました。途中多くの師兄方に甘露丸を母に食べさせてください、また遺体を動かさないで下さいとお願いし、続いて家族に病院へ行って遺体の傍で尊き上師リンチェンドルジュ・リンボチェの加持を観想してくださいと頼みました。

私が宝石店へ入ると、頼先輩が、上師があなたが供養をしていないので、お母さんがこのように苦しまれたのだし、病気になって二年間、お母さんのためにポワ法もお願いしていなかったと言っていた、と伝えてくれました。

ちょうどこの時、私の心に悪念が生じて、私が供養をしていないですって、しましたよ! いくらかはしているではありませんか、と思いました。大礼拝を200数回しても、心が静まらず、尊き上師の大いなる威徳によって、次第に雑念と恐れと不安の心を抑え、母に代わって肖像に頂礼することが出来ました。心中絶えず感謝の心が湧き、もし尊き上師のご加持を受けなかったら、二年来、可愛そうな母は更にどれだけの苦しみを味わったか分からないと思い、リンチェンドルジュ・リンボチェに御心を煩わして申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、ちょうど大礼拝1000回を終えた後に、尊き上師リンチェンドルジュ・リンボチェは修法に成功しましたと告げられました。そこで遺体に付き添う家族が、頭上に触れてみると温かく、顔は冷たいけれど身体は柔らかくて、眠るがごとき安らかな顔つきだということでした。

日本で修法なさった尊き上師リンチェンドルジュ・リンボチェが電話で、「お母さんの足はどうかしたのですか、ずっと足が痛いと叫んでおり、息子さんのことを心にかけておられます」とお尋ねになり、また、「あなたがまだ疑うなら、お母さんは跳び上がってあなたを打ち殺しますよ」とおっしゃいました。確かに母は11月に右足の踝を、重症の骨粗鬆症のために骨折していましたし、また生前ほんとにたった一人の息子のことを一番心にかけていました。多くの人は知らないのですが、私には父が違う兄がいるのです。それでとても驚いて、悪念の重いことにも気付かず、供養もしないで、しかも五戒十善37頌をしっかり修めることもせず、帰依して四年間まったく教えどおりに実践もせず、ただ仏菩薩を利用するのみで、すでに十四の根本堕の大罪を犯していたことに気付きました。ご慈悲ある上師は、それでも母が極楽世界に行けるように修法を施してくださいました。この恩徳はたとえ命を捧げても報えるものではなく、何度生まれ代わってもお返しできるものではありません。

思えば、母は2005年5月末に、突然第一回目の中風で、亜東病院に入院しましたが、幸い尊き上師の加持により、一週間で退院に漕ぎ着け、わずか一ヶ月で回復して、市場で買い物したり、街へ遊びに出かけられるようになりました。でも不幸なことに9月末に第二回目の中風で倒れ、一週間で退院できたものの、行動不自由となり、言語神経の損傷で、話もできなくなり、外国人労働者のお手伝いを雇って世話してもらっていました。母がお手伝いを打つので、尊き上師に加持をお願いしましたら、母が怒りっぽい性格なので中風になったとおっしゃいました。その後は、母は杖でお手伝いを打つことはなくなりました。

2006年6月、母は呼吸困難のために三回目の入院をして、ICUに入りました。状況は楽観を許さず、尊き上師にお頼みしますと、母は電気代を節約してクーラーをつけなかったので、肺に感染を起こしたのだとおっしゃいました。病院側は喉を切開して呼吸のために管を通さなければならないと言いましたが、救急を放棄する同意書にサインをしました。尊き上師は、病院が気管切開をするのは、病人の取り扱いに便利だからで、私たちに家の中を整理して清潔にし、ただ外国人のお手伝いに一切まかせっきりで、どのように処理するかを教えないのはいけないと説明なさいました。このような些細な事まで尊き上師は教え導いてくださいますので、リンチェンドルジュ・リンボチェが衆生に対していかに細やかに心を尽して関心をお寄せになり、一切の慈悲を現しておいでになるかが分かります。三ヶ月過ぎて、私達はまた、上師リンチェンドルジュ・リンボチェに母のためにポワ法を施してくださるようお願いに行きましたら、その場で、お母さんの手が心ならずも動いているが、あなた方は事を決めることが出来ますか?お宅にはまだ男性がいるのではないですかとおっしゃいました。私達は、それは兄です、放っておけばいいのですと、答えました。上師リンチェンドルジュ・リンボチェは、この人はただお金だけに関心を寄せているので、帰ってアキ護法にお願いしなさいとおっしゃいました。このようにして母は亜東病院の普通病室へ無事移ることが出来ました。十二月末に外国人のお手伝いが突然居なくなったので、退院して養老院へ入ることになり、遂に2007年1月28日に皈依して、毎週日曜日には車椅子で共修会に参加することが出来るようになり、二年間でリンチェンドルジュ・リンボチェの加持の累積による福報を得られ、浄土へ行くことができました。

2008年12月19日の夜十時、母の遺体を殯儀館で冷凍するために遺体を移すとき、その場の係りの人たちや姉妹それに兄が非常に驚いたことには、死亡して長時間経っているのに、手も私達が動かしたいように動くし、足も高く上げることが出来、唇もまるで生きているように瑞々しく、まだ呼吸をしているようで、体にも温もりが残っていました。平素母は中風のために身体が強張っていたけれど、死後は生きていたときよりも軟らかくなっていて、冷凍室に入れるのに、腰の中ほどを支えなければならないほど凹んだのは、皆不可思議なことだと思い、大いなるお力の尊き上師を心から敬い、感謝と賛嘆を捧げました。また多くの兄弟子がたが、私が取り乱しているときに手を貸してくださったことに感謝いたします。尊き上師の大いなる福報の御蔭がなかったら、このような良き因縁はありえず、初めてリンチェンドルジュ・リンボチェの開示する、兄弟子達は仏門の親族で、家族よりも親いと言うことを体験しました。母が往生するときに、兄弟子達は家族よりも先に来てくださり、母のこの世での最後の旅程を付き添ってくださったことに感謝感激でいっぱいです。尊き上師、諸仏菩薩及び有情のご恩にどのように報いればよいのかわからない思いです。

2008年12月23日に兄弟姉妹全員で宝石店へ赴き、リンチェンドルジュ・リンボチェが母にポワ法を施してくださった御礼に参りました。また母に代わり供養をしましたが、慈悲深い上師は、家族が真心から供養する気のない供養金は受け取りになられませんでしたが、私の事には気を使って「お金はありますか?」とお尋ねになり、私が差し出した供養金の中から抽象的に一枚だけ手にされ、その他は返してくださいました。

今の私は、満身罪業に包まれておりますので、今日この場を借りて懺悔をいたします。幼かった頃、母は子供たちに栄養をつけるためにと、自分が飼っていた鶏を殺しましたが、私はそれを傍で見ていました。結婚披露宴で数十卓の肉食料理を出したし、結婚後は小料理屋を開き、弁当工場では毎日千個以上の弁当を作るというような殺業を重ねてきましたし、皈依した後も戒律を守らず、代書をしている夫と、二回目の担保を利用して中間利息を稼いできました。このような地獄へ堕ちて浮ばれないような大罪を犯しました。今、尊きリンチェンドルジュ・リンボチェのお蔭で、罪深き私共衆生をお見捨てにならず、苦難の衆生は再三済度されています。四年のうちに続いて三人の肉親をあの世へ送りました。先ず2004年6月30日に姑がリンチェンドルジュ・リンボチェが加持してくださった次の日の朝に安らかに亡くなり、施身法により済度を得ました。2006年9月28日には、皈依弟子小姑鄭安如が、リンチェンドルジュ・リンボチェのポワ法を得て、極楽世界に往生しました。この度は母を西方浄土へ送ってくだいました。私は体が弱く、感情の挫折や家計に問題がおきると、これ等の苦難を、悉く尊きリンチェンドルジュ・リンボチェに頼って助けていただきました。さもなければとても惨めで、どうすればいいか分からなかったでしょう。最後に上師に心からお願いします。加持を賜りて、今生で浄土に往生でき、仏道を成就して衆生に利益をもたらして、師の恩、仏の恩、父母の恩、衆生の恩に応え、再び六道輪廻の流浪児にならないように。

また、この度母の葬儀を執り行ってくださった葬儀社のご主人は尊きリンチェンドルジュ・リンボチェを非常に尊敬して、20数年来数え切れない多くの死者の葬儀を行ってきたが、頭蓋骨に穴ができて、しかも何ら裂傷も、骨が砕けることもないというケースに出逢うことがなかった、尊きリンチェンドルジュ・リンボチェのポワ法こそが真実であると言って、兄に兄弟子たちにならってリンチェンドルジュ・リンボチェの指示なさる海葬方式で執り行うように、荘厳でしかも簡単で実質的な方式だからと勧めました。伝統的な土葬とか納骨堂に安置するほうが、商売人の立場からはそれだけ多く儲かるわけなのに、彼は海葬を勧めたのです。また、ある人があるお寺の地下室に安置していた親族の骨壷が、2000年のナーリー台風で水に浸かっても関係者に知らせなかったが、当事者が其の事に就いてクレームをした所、寺方は「あれは紀念品にすぎない」と応えられたそうです。葬儀社のご主人は感慨深げに、「人が死んで荼毘に付した骨灰はちっとも利用価値がなく、木炭にも及ばない、木炭なら燃焼させて、再生利用して肥料になるが、人間の骨灰はちっとも役に立たない灰儘のようなものだ。ただ紀念にすぎないのに、なぜ初め二、三十万元も出して安置するのだろう」、ここまで言ってご主人は、リンチェンドルジュ・リンボチェの大いなるお力、大いなる智慧の方法を賛嘆しました。

道理から言えば、母は二年間薬を飲み続け、しかもその量は養老院の中でも一、二を争う多さでしたので、荼毘に付した日そのお骨は黒灰色ではないかと思いましたが、皆が見たのは黒灰色のお骨ではなくて桃色だったので、更にリンチェンドルジュ・リンボチェがおっしゃったポワ法で荼毘に付した後頭蓋骨に穴ができる・・・それは舎利であり、全身のお骨も彩りがあり舎利花のようであるという御言葉を証明していました。写真が証拠になります。尊き上師は一切衆生を救って成仏させるという大願力を発願さたのは、すでに御仏の示現です。もしリンチェンドルジュ・リンボチェにお会いできなかったら、今尚続けて業を重ねていて、皈依して仏を学ぶ事等無かったでしょう。リンチェンドルジュ・リンボチェは身を持って教え、言葉で教え、弟子達を導かれます。ご自分の生命、福報をもって、衆生の苦痛と取り替えてくださいます。疑いもなく、御仏はこの世におられます。それは金剛上師、リンチェンドルジュ・リンボチェなのです。願わくば衆生の皆が苦を離れ楽を得られるよう、生死を解脱し、仏道を成就するように。尽きざる恩徳―諸仏菩薩、歴代の伝承上師、法王に感謝いたします。

弟子 孫吉祥が敬意をこめて合掌

2009 年 02 月 27 日 更新