236:帰宅
これは伝説でも神話でもない。これは極めて得難く殊勝無量なリンポチェが世を救済された真実の証である。
2006年10月22日、母はリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な『ポワ法』を受領されて、阿弥陀仏浄土へ往生した。霊安室へ遺体を移動する途中で、リンポチェが加持する画面が脳裏に浮かび、感謝の涙はどうしても止まらなかった。
2006年3月、母はリンポチェが衆生を救済された事績と「施身法」の貴重さを伝え聞き、リンポチェに「施身法」の法会に参加する事を願い出た。当時リンポチェは母に「法会に参加すると病気になるよ、参加する勇気があるかな」と聞いた。母が迷っていたので、リンポチェは「家でもう一度考えなさい、もし参加する勇気があれば、明日電話で申し込みなさい」とおっしゃった。
一夜熟考の末、母は金曜日の「施身法」に参加する事にした。法会の夜、母は体調が悪いように感じ、病にかかったようだった。そして日曜日、膵臓が炎症を起こしたので入院した。当時の検査レポートは脂肪分解酵素の数字は1800、糖類分解酵素の数字は3000に近いと記されていた。(両方とも100以下が正常)。その異常事態は、医学常識に依れば、母の腹腔内はほぼ潰瘍しつくした筈なので、すぐICUで治療を受けなければ成らなかった。だが、母は事前にリンポチェの加持を受け、「施身法」法会に参加したので、病状は普通の患者と同じような軽い腹痛だけなので、普通治療室で絶食治療を受け、静養48日の後退院した。
退院後、母はリンポチェに感謝の意を表し、日曜日の法会の参加許可をいただいた。7月まで母は用事があったので、施身法と日曜日法会に各一回参加しなかった。その後二週間ほど経た7月24日、母はまた腹部と下背部に痛みを感じ、松山病院に入院した。元々母はまた膵炎とか結石などかと思ったが、法王の誕生祝いにインドへ行った折り、同じリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子―松山病院の謝主任が母は悪性腫瘍を患っているのかもしれないと言って、三軍総病院へ転院して核磁気共振検査を受けて病状を確認したほうがいいとアドバイスした。
リンポチェは前に「癌の原因はほとんどが殺生である。もし心から懺悔しないで、只手術とか化学治療などを受ければ、再度衆生を傷つけた事と同じだ。」と訓示した事が有る。弟子は母の病状を知って驚いたが、この事が 私が帰依した後に起こった事を感謝した。リンポチェの支えがあったからこそ、弟子は取り乱す事無く、また深い悲しみに陥る事を免れたのだ。だが唯一心配だったのは家族が母の治療方法に何を選ぶかだった。弟子たち夫婦はインドで「台北の母は手術と化学治療の両方とも受けないだろう」と毎日上師を観想して護法を祈った。
台湾へ帰ってから、リンポチェに会ったことがない父は、8月4日母に「もし癌なら、二つの選択枝が在る。一つは医師の話に従い、化学治療とか手術などを受ける。だが私たちの周りには誰もこのような経験が無い。他の一つはリンポチェに拝謁してリンポチェの話に従う。息子と嫁と孫は悪い事を言わないだろう。」それで、父と母はリンポチェに従って、一切を仏菩薩に委ねると決意した。
8月6日検査結果が出た。母は確かに末期膵臓癌に罹っていて、腫瘍はもう5センチくらいの大きさだった。膵臓と胆囊は癌の中でも厄介な部位で、手術は16時間は掛かる。周りの人に訊ねてみたが、友人の家族に膵臓癌に罹ったのが居た。それで膵臓癌に伴う症状は黄疸、下痢、腹水などで、激しい痛みを伴う。友人の夫は最大量のモルヒネを注射しても、まだ痛みに耐えられなくて、体を壁にぶつけて痛がった。
8月7日、家族全員で母を松山病院へ送ることに決めた。翌日リンポチェに拝謁して、母がリンポチェに病状を報告した。当時リンポチェは懺悔の重要さを訓示し、母にリンポチェが説いた懺悔のテープを20回聞きなさいと諭した。また「恐がるな!リンポチェがいるから、仏菩薩がいるから」と仰った。それで私たちは安心した。
「心を入れ替えて始めて変えることが出来る」。だが無知な私たちは深く考えなく、また心から懺悔もしなかった。しかも何度も妄想して、ひたすら母の病気が治ることを求めた。母が四回目の懺悔のテープを聴き終えた時、夢の中で大勢な人が全身に虫が生じるのを見た。母は夢の細かいところは覚えていなかったが、唯「ポツ」「ポツ」「ポツ」と言う音が続いていたのを覚えていた。翌日母はふと思い出した。毎日食卓に出る野菜は、お隣の人が作ったもので、農薬を使用していなく、野菜の葉っぱ一面に虫が付いていた。それで野菜を洗う時、いつも指で虫を摘まんで殺していた。夢の中の「ポツ」「ポツ」「ポツ」の音のように。
誰も膵臓癌の痛み具合を両親に言わなかったが、母が感じた痛みはただの胃潰瘍程度のようだった。リンポチェの加持と心尽くしで、母は普通の生活を過し、法会にも参加できた。
発病した後、母は二度リンポチェに拝謁した。リンポチェに感謝してから、夜眠れないと言った。リンポチェは念入りに加持して「あなた達は何故そんなに欲張る。こんな重病になっても他の人より、状況はいいのに、すべて良くなることを貪り求めている。数多の衆生を傷つけたあなた達は何にもしなくて好いのですか。あなたは債権者に追われている人のようなのだ。菩薩はあなたの為に債権者と交渉して、あなたが利子を払わなくても済むようにしたが、今あなたは元金までも返さないという。よく考えよ。眠れないのはあなたにとってお金を稼いで債務を返還する機会なのだ。あなたは仕事がないので、眠れないなら眠らなくてもよかろう。よく聞きなさい。あなたは今入院して、介護も居り、良く世話をされて居る。此れは悉くあなたの福報を使っているのです。何故もう少し福報を積む機会を把握しないのだ。」謹んでリンポチェの訓示を心した母は病院に戻り、絶えず養生と法会に参加することに専念した。
9月の初、私たちが一番恐れていた症状が発生した。母の黄疸は日ごとひどくなっていた。母は再度リンポチェに拝謁して、この前の夢を報告して懺悔した。今回は父も一緒に行ったので、リンポチェは父にも法会に参加するよう諭した。9月中旬、腹水は腹部を膨らませ、体調は悪かった。リンポチェに加持を求めたが、リンポチェは「あなたは今でも私を信じていない。今まで心から懺悔しなかった。今日から毎日懺悔のテープを聞かなければいけない。」
宝石店を出た母は「どうすれば懺悔なのだ」と惑いながら聞いてきた。数日を経て母は妻が妊娠した時に栄養を取るために生きた鶏を何匹も殺し、その骨を砕いてエキスを取った事を思い出した。このような悪行は残酷の極みだ。
母が病気の間、多く兄弟子達はリンポチェに「ポワ法」をお願いしなさいと言った。でも私の福報が足らないので、これを言い出す勇気がなかった。毎度私たちが傷つけた衆生を思うと、「ポワ法」を求めるのはエゴだと思った。だが、嘗てリンポチェが法座で訓示したことが、私に深い印象を残していた。其れは私たちが衆生に対する一切の借りは、どうやって返すかについてであった。その訓示で、「ポワ法」を修めるのは母一人のためではなく、母の歴世の冤親債主のために修めるのだと言う事が分かった。それで「ポワ法」をお願いする勇気が出た。
9月下旬から10月の初めに掛けて母は腹水で体調を崩していた。でも法会を参加し続けたので微量の鎮痛剤で痛みを止める事が出来た。病院で毎日下痢の苦しみに会ったが、道場に入れば無事になった。
10月3日、弟子は勇気を出してリンポチェに母親の痛みを軽減し、母親が往生する際お世話を為される事を願い出た。当時リンポチェは弟子夫婦に家に帰り、それぞれ500回大礼拝をして母親の代わりに懺悔し福報を貯めよとおっしゃった。10月7日、弟子夫婦と兄は連れ立ってリンポチェに拝謁した。其の時リンポチェは母親の症状に関心を示し、少しは良くなったかとおたずねになった。今週、母の痛みは確かに緩和した。リンポチェは帰依していない兄にも「来たからには、帰ってから一緒に大礼拝をしなさい。」とおっしゃった。母親が往生した時、リンポチェは私たちが大供養をする能力が無いのを知り、大礼拝を以って其れに替え、母親に少しでも福報を積むように指示した。
10月19日、母は半昏睡状態に陥って話ができなくなっていた。当時腹水のせいで腹部が隆起し、妊娠十ヵ月の様子を呈していた。その前から母は家族に毎日懺悔のテープをかけ続けるよう言いつけた。テープを聴く母は、時折目に涙を浮かべていた。弟子には母の時間は残り少なのが分かっていた。瞬時、母が帰依を申し込んでいるのを思い出したので、21日母に「私が代わってお願いをしに行ってもいいですか?」と聞くと、母は細い声で返事をした。その後リンポチェに拝謁した時、弟子はリンポチェに「ポワ法」をお願いした。でもリンポチェは「今すぐには約束できない。月曜日に電話をしなさい、もし時間があれば病院を訪れ、お母さんを帰依させよう」と返事した。
帰りがけ、魏兄弟子が明日母は法会に参加するだろうかと訊ねた。私たちは昏睡状態の人でもまだ法会に来られることを知らなかった。魏兄弟子はこんな病状でも、まだ法会に参加すれば母と冤親債主に対して大いに役立つだろうと言った。病院へ戻る途中、心の中で家族が妨げないことを望んだ。当時母の容態は腹水とのせいで、体重が百キロ近くあり、移動するのが難かった。道場には行けそうもない。それでもリンポチェの加持があるので弟子は家族と相談してから、順調に22日の法会に参加した。
当日の法会で母は酸素吸入をしていたが、弟子は3分~5分置きに母の容態に注意をした。午後4時45分母を介護していた素珍兄弟子が私を軽くたたいて母親の脈拍が止まったことを暗示した。私はびっくりした。母の面容は全然変わっていなかったからだ。母はなぜこんなに大きいな福報があって法会で往生できたのだろう!心の中で不思議に思った。5分置いて再度母の呼吸停止を確認した。当時私はこの事を誰にも言わなかったが、大修行者リンポチェはもう知っていた。
その日、護法を修める速度はいつもより速かった。護法を修め終えた後、リンポチェはすぐ男性の兄弟子に母を壇城に横たえるよう指示した。現場に居た弟子と信徒はほとんど母がもう往生したことを知らなかった。リンポチェは母の帰依を受け入れた後、わきの窓を開けさせて母の頭部を西側の窓に向けてから、すぐ法を修め初めた。壇城の前で跪いていた私たちは「ポワ法」を見たことが無かったが、直感でリンポチェが母に貴重な「ポワ法」を修めていたと知った。心の中で謝恩と感動の気持ちが湧き起った。
リンポチェは大慈大悲で法を修め終えた後、私たちと謝主任に母親の梵穴が暖かく軟らかいかを確認しなさいと指示した。その後私たちにすぐ病院へ戻るようおっしゃった。病院に着いたのは午後六時頃で、元々母の目と口は開いていたが、其の時には既に自然に閉まっていた。顔は元々暗くて恐ろしかったが、其の時はもう寝たように安らかであった。ナースが七時までに速かに母を着替えさせたほうがいいと言った。それは人が往生後1~2時で硬直状態になるからだ。でも母は呼吸停止してからほぼ3時間も過ぎたが全身はかなり柔らかかったし、顔が冷えても頭上の梵穴はまだ熱かった。
これは全て嘗てリンポチェが訓示した如く、「ポワ法」を受領した現象であった。最も不思議なのは母の妊娠したかのような腹水が瞬時に消え去ったことだ。母の遺体を調べたが、排出現象は見られなかった。尿管も既に抜き取られ、母の腹は平たかった。
母が「ポワ法」を受領した後、リンポチェは「今まで誰もこんな福報を持っていなかった。法会で往生して、苦しみも受けないで浄土へ行った。」と訓示した。これは母が晩年尊敬心を持ち、大懺悔心を生じた上に、弟子がリンポチェのおっしゃった通りに大礼拝をしたからであった。でも弟子は自分が何かをしたとは思って居ない。唯すべては仏菩薩が慈悲をお示しされ、私たちに仏法の偉大を見せた事を感謝するのみだった。また上師が私たちに往生浄土の道は真実である事を体得させた事に感謝した。
リンポチェは「ポワ法」を受領した人は火葬した後、頭蓋骨の上に穴があるとおっしゃった。母の頭蓋骨は穴があるだけではなく、全身の骨はピンクか薄紫色で、その一部分は透明な翡翠色であった。その後医師が写真を見て、ありえないことだと言った。末期癌で全身に転移した人が、火葬した後こんなに綺麗な骨が有る筈は無いと言っていた。
当日法会を参加した兄弟子は、リンポチェが法を修めている間、同時撮影したテレビの画面は何度も中断され、窓際に座った先輩も冷たい気流がそばを通ったことを強く感じた。いくら書いてもリンポチェの慈悲と私たちに施した恩を表現しきれない。母が病気で入院中にリンポチェに何時頃家へ帰れるでしょうかと尋ねたことがあった。当時リンポチェは微笑して母にどこの家へ帰るのかと聞いた。母は私に家へ帰ると返事したが、リンポチェは父のように母にあそこはあなたの家ではない、あなたは仏の家へ帰るのだとおっしゃった。今母はもう仏の家へ帰った。末法時代でこんなに具徳、正法を弘揚する上師に従えることは珍しいと思う。リンポチェはいつも私たちにちゃんと仏法を勉強しなければいけなと諭し、衆生すべて輪廻の苦しみを理解し、この世での生死を解脱することを望んだ。
寶吉祥仏法センター弟子王大祥、羅相羚、王宇辰
2008 年 12 月 16 日 更新