234:リンチェンドルジェ・リンポチェは私に新しい命を下さった
2006年6月24日 、国泰病院で私は1枚の診断証明書を受け取った。そこには簡単に「副鼻腔癌」という文字が書かれてあった。私は医者に病気の原因を尋ねた。医者はただ「運が悪いと思うしかありません」と答えた。家族にこのような病気にかかった人がいないうえ、医学がこれほど発達している今の時代で、このような答えを聞いた私は、これをどう受け止めるべきか分からなかった。
診断結果を待つ
私はタバコを吸わないし、お酒も飲まない。それなのにこんな病気になってしまったことを知った私は、悲しみ、そして恐怖を感じた。私の病状はやや特殊だったため、診察を行っている間、私は常に研修医の教材であった。診察のたびに臨床のサンプルのように扱われ、非常に不愉快な思いをした。しかし、後になって考えてみると、これでもし多くの人がこの病気を理解するための助けになるのであれば、それでも構わなかったかもしれない。
病状を確認しても、私は大声を上げて泣かなかった。ただ冷静に、これからの人生にどう直面していけばいいのかを考えた。医師は私に、「この診断書さえあれば、どの病院で放射線治療を受けても構いません」と言った。私は戸惑いを感じながら、関連の情報もない中、ただインターネットで各大病院の診察情報を探すことになった。最後に私は、仏教慈済病院の腫瘍放射科で診察を受けることを決めた。あそこだったら一般の病院のように冷たく扱われることはなく、もっと温かい待遇を受けることができるかもしれないと考えた。6月26日、私は一人で慈済病院へ行った。診察室の外で座って待っているとき、診察室の患者を見た。彼らは皆、化学療法や放射線療法などの苦しみによって、顔色が悪く生気がなかった。私は心の中で思った。ここはまるで生き地獄だと。
リンポチェを拝謁することになったきっかけ
不安と疑問をもった私は、友人の一人、曽河銘さんに電話を掛けた。保険会社に勤めている彼なら、おそらく病院の事情をよく理解しているだろうからだ。私は彼に、がんになったことを告げた。そして、慈済病院と三総病院ではどちらがいいかと尋ねた。彼は少しも考えずに「どちらもよくない」と言ったあと、ある人に会ってみないかと私に聞いてきた。当時、私は不安で激しくすすり泣いていたので、彼が誰のことを言っているのかよく聞き取れなかった。それは診察が終わってからにしよう、と思いながらも、心の中では「私は助かるんだ!曽さんの行動力に感謝しなくては!」という思いがあった。彼はすぐ病院に駆けつけてくれ、リンチェンドルジェ・リンポチェが会ってくれることになったと言った。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェが縁のある衆生を救ってきた数々の事例を話し、私が信仰心を持ち、自分にもう1つの選択肢を与えることを希望した。私は一筋の曙光を見いだしたようだった。本当にリンポチェにお目にかかりたいという気持ちが沸き起こり、医師が書いてくれた予約診察書をほっぽりだして、もう1つの治療の可能性を探し出すことにした。
初めてリンポチェにお目にかかった時、私は泣きだしそうになってしまった。そして、哀れんでほしいといわんばかりに、がんになったことを告白した。私は、いくらか慰めの言葉を受けられるものだと思っていた。しかし、リンポチェはただわずかに微笑んだだけで、「がんになったからといって、それは死を意味するのではない。あなたが病気になったのは、過去に蒔いた『因』のためです。いま、その花が咲いたのです。その結果、どんな実がなるかは、あなた次第です。あなたにはまだ時間がある。ゆっくり考えなさい」と言った。そして、もし仏菩薩に救いを求めるのならば、まず強い決意が必要で、揺らいだ心のままではダメだともおっしゃった。さらにリンポチェは私に、まず家族の許可をもらうこと、自分のエゴだけで決めてはいけない、と告げた。慈悲深いリンポチェは、リンポチェが説いた【懺悔】法門のCDを家に持ち帰らせてくれた。私が少しでも悟りと決意をもって、それから仏菩薩に救いを求めるように、ということだった。
法会に参加しはじめる
夫と法会に参加して以来、鼻からの出血の状況は少しずつよくなっていった。そしてその後、顕著な出血は見られなくなり、体調もよくなった。日を改めてリンポチェを拝謁したとき、リンポチェは丁寧に「顔色がよくなりました。少し解決しましたね」と言ってくれた。全く、どこからやってきた福報なのだろうか。ただの信徒であるにもかかわらず、このように短時間のうちに、これほどの加持と助けを受けることができたことを、リンポチェと仏菩薩に感謝した。
大切にするということ知らなかった無知
体調が安定してくると、私はまた自己中心にも欲望と貪欲な生活に戻り、やるべきことを怠るようになってしまった。そして、真剣に懺悔をすること、積極的にお布施をすることを忘れていた。11月3日、病状に変化が見られた。左側の首にむくみを感じたのだ。それは、頭痛と発熱を伴っていた。突然の変化に、私は不安を感じた。翌日、私は夫と共にリンポチェに会いに行った。慈悲深いリンポチェは、直ちに私のために加持してくださった。そして、私に1粒の貴重な甘露丸を下さった。それを服用すると、体がずいぶん楽になった。
11月6日、首はまだ明らかにむくんでいたが、私は出勤することにした。その夜、首の付け根と後頭部に強い痛みを感じた。むくみの範囲も広がっていき、口を開くことができなくなり、ものを飲み込むことが困難になった。激しい痛みで、眠ることができなかった。翌日、私はまたリンポチェに会いにいった。リンポチェはまた、私に貴重な甘露丸を下さった。そして「食べられないのだったら、少しだけでもいいですからね」とおっしゃった。その日の夜、痛みは軽減した。食事をとることはできなかったが(水を飲むことすら苦痛だった)、少しだけ眠ることができた。
11月8日 、目が覚めた私は、首がこれまで以上に腫れていることに気がついた。微熱も続いていた。私たちはまたリンポチェにお会いすることにした。リンポチェは厳しくこう言った。「あなたはいつも、リンポチェの福徳だけに頼って、自分で自分の業を返そうとしていません。体がよくなることばかりを考えて、わずかな痛みも我慢することができない。そして、自分から積極的に福徳を積もうとしていないではないですか。病気の原因がまだ完全に排除されていないから、それが首に転移して、脳が影響しなくなっているのですよ。。リンポチェはこの罰として、今週は夫が心待ちにしていた帰依をさせないことにした。この教訓は、私たちをおびえさせた。このとき私たちは、恥ずかしながらも理解した。自分たちがどれだけ貪欲な心を持っていたかということを。
帰依できないということは、私たちにとって恐ろしいことであり、恥ずべきことであった。幸いまだチャンスはあった。私たちは家に帰ってまず懺悔した。そして、土曜日に再びリンポチェのところを訪れた。私は夫と一緒に行く勇気がなかったので、家で静かに待っていることにした。そして、リンポチェが私たちを許してくれることを願った。胸がドキドキし、ずっと心配だった。帰ってきた夫は、リンポチェが彼を見るなり「どうして奥さんと一緒じゃないのですか」と尋ねてきたと私に伝えた。夫はまず供養を捧げ、リンポチェに受け取ってくれるよう言った。しかし、リンポチェは「あなたの帰依が先だ」と短く答えられたという。リンポチェは私たちの帰依に対する強い願いを理解し、私たちの願いを受け入れてくれたのだった。
毎週のように新たな体験が続く
リンポチェは私が病気になった原因の一つをこう教えてくれた。私は前世で、狩人だったことがあった。そして、多くの有情の衆生を傷つけたのだという。まるまる11ヶ月間、私は腫瘍から来る痛みを感じた。これによって私は、私がかつてどのように衆生を傷つけてきたのか、十分に感じ取ることができた。なぜならある1週間、私の首の痛みはある一点に集中していたからだ。それはまるで何かに刺されたような感覚だった。そして次の1週間、私は首が縄できつく縛り付けられたような痛みを感じた。そしてその次の1週間、私は、私の皮膚が乾かされて標本にされ、硬くなったような痛みを感じた。自分がこうした痛みを感じることで、私はようやく自分が傷つけた衆生がどれだけの痛みを感じていたかを十分に知ることができた。
「卵」のような膿
11月最後の週、首から「卵」のようにぽっこりと膿の塊が盛り上がってきた。それは日に日に大きくなっていった。それは1つの小さな生き物を育てるようだった。私たちはそれを毎日観察した。そしてついに、それはいつ破裂してもおかしくないほどになった。すでに帰依していたので、心によりよりどころがあった私は、毎日のようにリンポチェの写真に対して「一切を受け入れる覚悟はできています。返すべき債務はかならず返します。受けるべき苦痛は受けます。一日も早く、債務を返すことができますように」と言った。痛みを感じていた間、私はずっとかつて私が傷つけた衆生に対して懺悔し、彼らが、私の債務を返したいとの決意を感じてくれることを願った。
12月1日、ついに膿の膜が破れた。私はとてもうれしかった。なぜなら、それは本当に大きなもので、どうすればいいか分からないほどだったからだ。私たちは、宝吉祥漢方診療所へ行った。診療所の医師と兄弟子は、自分たちから積極的に私をサポートしてくださった。この膿は、順調に排出された。わずか1週間で、傷口も治り始めた。首も腫れもゆっくりと引いていった。首は正常に回るようになったし、普通どおりに口をあけてものが食べられるようにもなった。
父のようなリンポチェに、永遠に感謝する
今日、12月20日の時点で、私はほとんど回復したといっていい。私は自分が病気になることができたことに感謝している。それは、病気にならなかったら、具徳無量のリンポチェに帰依する機会はなく、仏門に入って勉強しようとも思わなかったからだ。リンポチェは1度ならず、私に教えてくれた。がんになったことは大したことではない。最も大事なのは、その中から何を悟るかであるということを。リンポチェには何度もしかられたし、拝謁を拒絶されたこともあった。それでも私は毎回、新しい始まりのチャンスと無上の訓示をいただくことができた。私はこう思う。父のようなリンポチェは、私たちに成長してほしいと思い、私たちの無知な脳が少しでも早く反応することを希望しているのではないかと。私は、リンポチェが私に全く新しい生命を吹き込んでくれたことに、心より感謝している。
寶吉祥仏法センター 弟子高采慧2006年11月20日
2008 年 04 月 03 日 更新