233:あるさすらい人の帰依
38才のある年のこと。古い友人と雑談しているときに彼に聞いた。『最近、どうも運が悪いんだよ。何をしてもうまくいかないんだ。君、腕があって、正直な修行者を知らないかい?うそばかりいってるやつはダメだよ。迷える人を本当に助けてくれる、心ある人物というのに会ってみたいんだ』。友人はこう答えた。『わかった。その人と連絡してみよう』と。
こういった縁で、私はリンチェンドルジェ・リンポチェと会うことになった。当時の私は、成功と失敗というものに非常に執着していた。負けずぎらいで、勝つことしか知らなかった私は、腹いっぱいの不平不満を強気でいい放った。しかし、リンポチェはそれを意に介しないどころか、落ち着いた様子でこのように説いた。『全ての物は因縁、因果でつながっています。争い、戦い、強引に何かを得たならば、きっと他のところで何かを失うのです。一生戦っても、それによって得られるものは何もないのです』。私はその場でほうけてしまった。こんなに簡単ないくつかの言葉が、もし別の人間の口から出たものであったなら、私はありふれた平凡な話だと思っていただろう。しかし、どうしてだかわからないが、目の前にいる、この徳のある人物の口からこんなにやさしい口調で言われた私は、知恵を注ぎ込まれたような、棒で頭を打たれたような気持ちがした。私は目を覚ました。そして、過去を振り返った。どれだけの争いを経験し、そしてどれだけの憎しみを生み出し、どれほどの恨みをかってきたことだろう。結局、すべては無駄に終わってしまったのだ。私は思わずこう言った。『リンポチェ、ここにおかけください。そして私の三度の礼拝をお受けください。さきほどは、簡単な礼拝だけで失礼いたしました』。リンポチェは笑ってこれを快諾してくれた。こうして私は、リンポチェに帰依する決意をしたのだった。
入門してまもなくのこと。ある日、私は年老いた母を心配し、リンポチェにどのように親孝行すればよいかとたずねた。リンポチェは『親孝行をしたいのならば、両親をシーフード料理のレストランに連れて行って、刺身などを食べさせるようなことをしてはいけません。このような行為は、彼らの功徳を邪魔するだけでなく、彼らが殺生するのを助けることになるからです。半斤のものを食べたとすれば、八両のものを返さなくてはならないのですよ』と教えてくれた。この話を聞いた私はびっくりしてしまった。多くの人たちが、両親をレストランに連れて行って、おいしいものを食べさせることが親孝行だと思っている。しかし、このような行為はまったくもって大間違いであるというのだ。この仏教の真理を、私はどうしてこれまで誰からも聞いたことがなかったのだろう!リンポチェは続けてこう言った。『精進料理を食べるのです!考えても御覧なさい。この世の中に、精進料理を食べる人が1人増えるだけで、1日に何種類もの生物を生かすことができるのです。これこそが、最も良い放生というものなのです』と。なるほど。そんな簡単で効果ある方法こそが、本当の放生というものなのだ!
ところで、私は気立てが悪いことを、いつも自分でもいけないことだと思っている。ある日、私は街で人とぶつかって喧嘩をしてしまった。その数分後、突然、自分が仏法を学習中の身であることを思い出した私は、怒りをぐっとこらえてその場を離れた。道中、リンポチェが教えてくれた「十善戒」のうちの不慳貪、不瞋恚などを、私はまだまだ実行できずにいるのだと、本当に恥ずかしく思い、また反省しました。私が宝吉祥仏法センターの宝石店に着くと、すでに一人の相弟子が入り口で私を待っていてこう言った。『尚さん、リンポチェは今日、お疲れなので誰ともお会いすることができません。どうぞ、お引取りください』と。私はしばらくの間ぼんやりしていたが、仕方なく帰ることにした。この日、私は長い間、わが身を振り返って反省した。いろいろ思うところがあった。リンポチェはずっと、本当に平等な気持ちで、皆に対して慈悲深い心で接している。私のような新参者に対しても、このような心遣いのできる方なのである。そして、すべての弟子に対して、平等で限りのない心遣いを、黙黙としている方なのである。
しかし、私が本当に感動し、仏法を学ぼうと決心したのは、癌を患った母親がリンポチェによって助けられる過程を見たことがきっかけだった。ある日、私の母はひどい風邪にかかったのだが、いくらたっても完治しなかった。しかも、自分で市販の薬を買ってはそれを飲み、病院で検査して問題がどこにあるか調べてもらおうとしなかった。私は母の健康状態を詳しく調べてもらうため、松山のある病院に母を連れて行った。そこで、内科の謝医者(彼も私の相弟子である)と会った。診察が終わると、いつも熱心な謝医師は直ちに入院の手配をしてくれた。私は母を慰めるように『大丈夫だよ。ちょっと肺にたまった水を抜くだけだから。緊張しないで。明日になれば、一緒にショッピングに付き合ってあげるから』といった。しかし、2日目、3日目といろいろな検査を受けていくに伴って、私たち親子の顔色も暗くなっていった。謝医師は私をそっとそばに呼んで、母は末期の肺がんであることがわかったと、ゆっくりと言葉を選びながら教えてくれた。一瞬、目の前の景色が、遠のいていくような感じがした。風がそよぎ、雲が浮かんでいる。そして、暖かいお日様の光が窓の隙間から差し込んでいる。なのに私は、まるで極寒の地獄にいるようだった。リンポチェが教えてくれた「人生は無常である」という言葉が、私の生命の中に飛び込もうとしていたとき、私はようやく、どうしてこの世の中に「晴天の霹靂」という言葉があるのかを知った。
私は直ちに宝吉祥仏法センターの宝石店に行き、リンポチェにどうすればよいかたずねた。リンポチェは『あなたの母親に残されていた時間は、もともと3ヶ月くらいでした。ああ!私はあのとき、あなたが母親のかわりに懺悔をするため、大礼拝をするよういいました。それなのにどうしてあなたは、それをしなかったのですか』と言った。そうだった。数ヶ月前のある日、私がリンポチェに教えを求めたとき、リンポチェにわけもわからず叱られたことがあった。リンポチェは私に『これから毎日、一日に500回、大礼拝をするのです。一日も欠かしてはなりません』と言ったのだ。しかし、私はその後、一日、また一日とこれを後回しにし、なかなか実行に移さなかった。私はようやく悟った。リンポチェがいつも、教えに従ってこれを実践し、教えに背かず、何も考えず、ただそのとおりに行うようにと教えているのには、ちゃんとわけがあるのだと。もともと、冥冥のうちにすべてのものごとは決まっている。しかし、仏法を学び、それを実践に移せば、業は軽くなるのだ。リンポチェの教えたとおり毎日500回の大礼拝をし、懺悔をしなかったために、せっかくのチャンスを失い、母の寿命を縮めてしまったことを、私は後悔した。その後、私は仕事を辞め、病院で忙しく走り回る日々を送ることになった。日に日に憔悴していく母を見た私は、リンポチェに対して、病院にやってきて母のために加持をしてくれないかとお願いした。リンポチェは、慈悲の心をもってこれを承諾してくれた。リンポチェは加持が終わると、私にこういった。『あなたのお母さんの仏に対する信仰心がもっと強ければ、私は彼女の痛みを軽減することができるでしょう』と。私は何度もお礼をして、感激のあまり涙を流した。リンポチェのおっしゃったとおり、母はその後、病状は同じだったものの、痛みを訴えることがなくなり、苦しむこともなくなった。よく食べてよく眠ったし、隣の病室の患者が真夜中に苦しみの声をあげているのと比べると、まったく天と地ほどの差であった。肝臓がんや肺がんの末期患者が、吐血もせず、痛みを訴えることがないなんて聞いたことがあるだろうか?リンポチェと多くの仏菩薩の加持のおかげで、こんな奇跡が本当に起こったのである。
死を迎えるまで、母の口の中には4本の管が差し込まれていたため、母は死んだほうがましだと苦しんでいた。息子である私にとって、苦しむ母を助けてあげられないことは、たとえようもなく悲しいことだった。私はまた、リンポチェに母のために病院に来てくれないかとお願いした。 リンポチェは、それをまったく厭うことなく、心からの憐憫の気持ちと、母を苦痛から救うため、慈悲の心で承諾してくれた。ああ!私はリンポチェから、生涯かけても、そして来世に至ってもお返しできないほどの多くのご恩を受けたのだ。
口の中に4本の管を通していた母は、ほとんど意識を失っていた。一日中、うんうん言うだけで、家族すら彼女が何を言っているのか聞き取れなかった。紙とペンで何か書いてもらっても、誰もそれを読み取れなかった。リンポチェが病室に入ると、なんと母は体を起こそうともがき始めた。それは、まるで意識が回復したような感じだった。両手を動かしながら、知り合いにでも出会ったかのように、何かいろいろなことを言わんとしていた。あの時の様子を目の当たりにした私の気持ちは、『仏の教えは量りなく広く、不可思議である』という言葉で表現するのがぴったりである。
リンポチェは母のベッドのそばに行き、母を慰めた。『落ち着いて。慌てないで。あなたが言いたいことは、私がすべて伝えてあげましょう』。そういうと母はようやく静かにベッドの端に横たわり、リンポチェを見上げて何度もううなずいた。続いてリンポチェは、母のかわりに私達四人のきょうだいたちに、それぞれ別々の遺言を伝えてくれた。リンポチェは言いながら頭を下げ、母に『そういうことですか!』と言った。母はうなずき、リンポチェは引き続き、母の考えを私たちに伝えた。これらの内容はいずれも、私たち親子しか知らないプライベートなことだったので、私たちの4人のきょうだいたちは大声を上げて泣きながらも、心より感謝し、そして不思議な心もちでリンポチェの言葉に聞き入った。4本の管を通している母は、満足と感謝の気持ちが入り混じった様子で涙を流していた。眼じりから流れる涙が枕に滴るさまは、まるで一つの啓示のようだった。つまり、命は短く、苦しいものだが、仏法に出会いさえすれば、ひとつの慈悲深い、よりどころを得ることができるということだ。そしてそれは、もう1つの喜びを与えてくれるのだ。
リンポチェをエレベーターのところまで見送ると、リンポチェはやさしくこう言った。『おそらく、あと何日かはもつことでしょう。ですが、電気ショックで延命治療をしてはいけません。そして、死後8時間は遺体を移動してはいけません。アイス・ボックスに入れて冷凍保存することもしてはなりませんよ』。まるで父親のように、何度も細かいことまで言いつけた。車に乗ったリンポチェが去っていくのを見ていた。小雨が私の顔に当たった。風が吹いていたのか、それとも雨がはらはらと降っていたのか。私の視界はおぼろだった。先生の深いご恩に、萬感胸に迫る思いだった。
母が亡くなったその晩、私は道場へ行った。『ポワ法』で母を浄土へ済度し、永遠に苦痛から解き放ってくれるようリンポチェにお願いするためだ。私が道場の階下に着いたとき、相弟子が大変親切に私に教えてくれた。『リンポチェはすでにあなたの願いを聞き入れ、修法を始めています。リンポチェからの伝言です。あなたは帰ってやるべきことをしなさい。ここはリンポチェに任せればよいのです、と』。私は感謝の気持ちで、胸がいっぱいになった。どんなに言葉を尽くしても、この感謝の気持ちを表すことはできなかった。私は供養を渡して、正門で何度も叩首し、そして車でそこを離れた。
その時の私は,いくらお礼を言っても足りないくらいの気持ちだった。リンポチェ、法王、代々の祖師、そして多くの仏菩薩は、衆生を苦しみより救うために犠牲になり、身をささげてきたのだ。このように衆生を苦しみから救い、楽しみを与えるための感動すべき行為は、長江の流れのように激しく、黄河の水が天上から絶えることなく流れ落ちるかのようである。これに報いる本当の方法は、仏法の実践であり、心からの追随である。偉大なる人物のように学ぶことは無理でも、せめて永遠に皆さんのために努力したいものである。
寶吉祥仏法センター 弟子尚立民
2008 年 04 月 03 日 更新