230:リンチェンドルジェ・リンポチェの極みの慈悲力と殊勝のポワ法
2003年4月7日母は肺癌を罹ったことがわかった。左肺の胸水は非常にひどかった。検査と医師の診断により、肺癌末期を確認した。医師に「母の命は後六ヶ月しかもたないが、癌細胞が既に転移したので、手術を受けられない、化学療法をしたほうがいい」と言った。家族は母が化学療法で苦しむのを見たくないし、化学療法を受けても母が治らないことも分かった。だから、化学療法を受けないことを決断した。あの時母は「もし、病気になって、悪いものを生じて治らなければ、私は死ぬことは恐くないが、人間は苦難の続きなので再び輪廻したくない。仏陀の側にいたい。」と言われた。私は看護師として、母が肺癌に罹ったことが分かると、とても絶望し、恐れ戦き、何処にも助けを求められない事を感じた。今の医術では適切な治療法が無く、母を助けられないのだ。それに肺癌の進行は急速で大変な苦しみが伴う。私は仏菩薩が母に力を貸し、病気の痛みが軽減されることだけを祈った。また母が死亡に直面するとき、あまり苦しみを感じないように願った。だが、私の祈りとか母の希望とかをかなえることは、私に出来る事ではなかった。誰が助けてくれるかも知らなかった。
2003年9月23日まで私が希望を失っていた時、縁があって寶吉祥仏法センターの住持上師リンチェンドルジェ・リンポチェが長年仏法で衆生に利益を与えておられたことを知った。縁あって、リンポチェに拝謁できた。初めてリンポチェに拝謁した時リンポチェは母と私に「私には左側の胸に魚卵がたくさん見える。」とおっしゃった。リンポチェは指で母の左胸を指して、「多くの魚が私に苦情を言っている。これはひどい。あなたの家族全部が法会に参加しなさい。もう魚介類を食べてはいけません!これから始まるからだ。」また母に「あなたは胎児を二人取ったことがあった。」と言った。母は返事しなかったが、私は「ただ一人だが」と返事した。リンポチェは再びに「二人だ」と言った。この時母はおもむろに「でもあの子はまだ形を成していなかったが」と言った。その時リンポチェは母に厳しく「あなたはまだ懺悔しない!」私は母を見ながら、直感で母の手を引いてリンポチェの前に跪いて懺悔の気持ちで頂礼した。リンポチェは「私に懺悔するのではない」と言った。私と母は「私たちはリンポチェに向かい、取り除いた胎児と衆生に懺悔した」。実はあの時懺悔とはいったいなにか知らなかったし、どう懺悔すべきかも分からなかった。でもあの時自然と母と一緒に、リンポチェと衆生に自分がした悪行を懺悔した。そしてリンポチェから仏法の慈悲の教えを受けた。
2004年4月8日、父は初めてリンポチェに拝謁した。リンポチェは父に丁寧に「あなたは肝臓がよくないから、お酒をやめなさい。おいくつでしょうか。」父は「65歳」と返事した。リンポチェはまた「もう充分に飲んだでしょう。充分でしょう」あの時母と私は非常に驚いた。リンポチェは聞いてもいないのに、直ぐ父の肝臓の病気と長期アルコールに依存してお酒をやめられない状況を言った。その日から私の両親は菜食主義者になった。父も長期アルコールに依存する習慣をやめ、毎週の法会に参加した。
2004年5月22日朝五時ごろから、母の膀胱は腫れて尿を漏らし続けた。病院で診てもらったが良くならなかった。昼十二時、私が帰宅した時、母の具合がまだ悪かったので母を連れて病院に行った。受付前、母はお手洗いに行こうとした。行く前に私が母の手を引いてリンポチェの顔を観想することを薦めた。私は外でアキ護法心咒を唱えていた。間もなく母がトイレから出てきた(いつもより短い時間だった)私は母がまだ排尿できてないと思ったが、母に「受付に行きましょう」と言った。母は私の手の引いて、「必要ない。もう排尿しました。」と言った。(これより前は尿を漏らしていた。医学上、反射神経麻痺後は自力で排尿できないとある。)母の話を聞いてから、私は母に「お母さん、御覧なさい、リンポチェはいつもあなたに加持し続けているのよ。唯あなたが知らなかっただけよ。今苦しむようになって始めて信じるなんて、バカみたいね。」と囁いた。その時母は感動して頷いた。
2005年7月、リンポチェは百五十人以上の弟子を連れてチベットディクンカジュ祖寺―ディクンティ寺へ行った。両親はリンポチェの慈悲加持を受けたので一緒にこの殊勝な旅に参加できた。今回の旅は重病人にとってはもともと不可能な旅であった。一般的に肺癌で左肺胸水がひどく、右肺でしか呼吸出来ない上、癌細胞がもう脳部、肝臓に転移した患者は病床から離れることが出来ないし、厳重な場合は病床に臥して、酸素吸入か挿管治療をしても呼吸を正常に保てない。だが私の母は台湾に居ても高海抜のチベットに行っても正常に呼吸ができ、呼吸困難の現象はなかったし、酸素吸入の必要もなかった。チベットに行った時も、高山病の症状も起こさなかった。それはリンポチェの慈悲の守りがあったからであった。当時百五十人の弟子の中、母が重病患者で、他にも重病、老人、幼児など多数いたが、弟子達全部は無事であった。これはリンポチェが衆生の苦しみと痛みの代わりに呈した瑞相であった。
2005年8月19日と11月26日の朝、母の右側の手足が突然痙攣し、力が抜け、麻痺を起こしたので、病院で見てもらった。右側の手足は突然力が抜け、勝手に震えた。母はとても不安であった。私は病院へ母を介護しに行き、リンポチェの慈悲の守りと加持を観想しながら祈った。母の痛みと不安が軽減されることを望んだ。私は母に「リンポチェに対して必ず信頼の心と尊敬の心を持って、衆生に懺悔し、自分のやった悪業を懺悔しなければいけない」と語った。暫くして、母の右側の手足の震えが止まった。まだ力が入らなかったが、不安な気持ちは薄らいだ。その夜、母は助けられながらトイレに行く事が出来た。その後リハビリを受けなくても自分で歩けるようになって、予定通り毎回の法会に参加した。それはリンポチェの慈悲と殊勝の加持力があったからこそ、母の癌の病苦は軽減されたのだ。
母が病気に罹ってから、リンポチェの慈悲の力はまだ福報がない母の病苦を軽減し続けた。母の病状は重い報いであったが、軽く受け止められた。だから医療設備を使わないままで、毎週順調に汽車で宜蘭と台北の間を往復して、リンポチェが主持する法会に参加した。その間、母は何度も具合が悪くなったが、いつもリンポチェの加持を観想し、祈ったことで痛みが緩和された。母は癌患者だけれど顔色がよく、病人の顔には見えなかった。母の左肺に病巣がまだあり、血液検査では瘍腫の指数(CEA指数)がとても高かった。レントゲンの結果は左肺の胸水がひどかった。体調は良くなかったが、朝一人で運動に行き、日常生活をして、ご飯を作り、洗濯をした。当時両側の胸郭はもう対称しなかったが、父に連れられて、MRTと列車に乗っても息切れをしなかった。この現象は癌末期の人にとって極めて不思議であった。私は仏法の殊勝と慈悲力の偉大を深く感じた。
2006年2月16日母は息切れが激しくなり入院した。2月20日朝の八時くらいに私が母が入院していた病室に入った時、母はもう呼吸も心臓も止まり、血圧などもなかった。看護師たちは蘇生マスクで母の息を維持し、救急車で母を家に帰した。当時リンポチェ慈悲の加持のお陰で、我々の心境、行動は慌てず、不安でもなかった。唯どうすれば母に苦しみを軽減させ、どうすれば母が順調にリンポチェ殊勝の「ポワ法」を受ける事が出来るかと考えた。その時、私は先ずリンポチェから賜った甘露丸を一粒母に含ませ、穏やかだが決然とした口調で母に「お母さん、怖がらないで!私たちは信念を持って、リンポチェを観想し、リンポチェの加持を祈って、あなたが阿弥陀仏浄土へ行くよう助けてもらいましょう」。私は母に触れたが、不思議と脈と息があったので、現場の看護師にその事を話したら、現場の看護師は脈を測ってびっくりた。「先刻は測定できなかったし、心電図も数が読めなかったのに。」その時私はリンポチェ慈悲の加持と甘露丸のお陰だと分かった。母は身罷った時の大きな苦しみを免れたのだ。
母は家へ帰り、祭壇に安置された日の朝8時50分に亡くなった。その時私は病院で退院の手続きをしていて、母の側にはいなかった。私は家に帰った。母は亡くなった後、口を大きく開けて、とても不安で苦しそうな表情であった。私は非常に悲しかった。その時、できないと思ったけど、試しに両手で母の口を閉めさせた。でも母の顔はもう非常に硬直していた。私はまた甘露丸を母の口に入れて観想し続け、リンポチェの加持を祈った。母が息を引き取った後、家族はリンポチェの訓示に従った。訓示は「亡くなった者を動かしてはいけない。静かにして、6文字真言を唱えなさい。」と言うものだった。私は絶え間なく母の耳元で母にリンポチェを観想しなさいと告げ、絶え間なく母に怖がらないで信心を持って祈りなさいと言った。同時に私はリンポチェが訓示した生死大事を思い出した。「遺族が阿弥陀仏を信じ、心から祈って上師を感動させて、仏菩薩を感動させれば、リンポチェはこの亡者を助けて「ポワ法」を修めるだろう。」私は涙が留まらなかった。絶え間なく今遠いインドで閉関して無数の衆生を利益するリンポチェに祈った。私の母の苦しみと、私の家族が傷つけた衆生を助けてくださいと祈った。私はその時私の母の苦しみを知る者は誰も居なく、母の苦しみを助け得る者も居ないと深く信じていた。母を助けられるのは具徳の大修行者リンチェンドルジェ・リンポチェ以外に誰もいない。
母が亡くなって8時間後、私の家族達は母の顔を見た。母は口を閉じて微笑んでいた。元々頬が骨っぽい人だったが、ふっくらとした頬になっていた。顔は白く、額と顔は冷たかったが、後頭部は温かかった。私と姉が母の体を洗った時も、母の体と手足関節が柔らかかった。もっと殊勝なのは母の遺体が8時間以上を経って、まだ暖かかった事だ。本当に不思議であった。完全に医学の常識を覆していたのだ。これはリンポチェが母のために「ポワ法」を修めた後の瑞相であった。母が往生したばかりの面容と遺体の8時間以後の変化を見比べると、実際に「ポワ法」の殊勝を確かめる事が出来る。それにリンポチェも訓示したことがあった。「もし、亡者が阿弥陀仏浄土へ往生すれば、亡者は喜びに溢れ、その遺族も悲しみに包まれない。」母が往生した時、リンポチェに母の往生を連絡するすべがなかった。その時全部の家族は非常に無力で悲痛であった。8時間後、母の面容と遺体の変化を見たとき、もう家族に悲しみはなかった。母の為に喜び、母が阿弥陀仏浄土へ行けて、もう輪廻の苦しみを受けないことを願った。心境の転化は非常に大きかった。最後に母に別れを告げた時「お母さんは幸せだね、リンポチェが「ポワ法」を修めてくれた。お母さんも阿弥陀仏浄土でしっかり仏法を勉強しなさい。」と言った。
リンポチェの慈悲と加持に感謝。母は有限の命の中で仏法を聞き、早急に福報を貯め、往生した時には因縁があってリンポチェ殊勝の「ポワ法」を受けた。このため、阿弥陀仏浄土へ往生できて、六道輪廻の苦しみを免れた。
感謝、リンポチェはいつも衆生のために善縁を作り、衆生に絶え間なく福報を貯めさせた。衆生に尚多くの福徳を貯めさせ、輪廻の苦しみから解脱して、永遠の楽しみを得させた。
リンポチェが衆生に偉大な恩と大慈大悲と殊勝の力を現したことに感謝。弟子は絶え間ない感謝と懺悔の他に、永遠に上師リンポチェに「身、口、意」、「体、健康、命」を供養することを誓い、永遠に上師仏に従って、命を掛けて仏法を学ぶことを誓った。阿弥陀仏!
寶吉祥仏法センター弟子 陳素貞
2008 年 12 月 16 日 更新