226:我が子・張博堯

リンチェンドルジェ・リンポチェはその偉大な能力と大慈大悲で、我が子の命を助けてくださいました。以前、因果をまったく信じなかった私は、息子の急病で偉大な仏法を識るようになり、その後リンポチェに皈依して心を込めて仏を学ぶ事になりました。

2006年8月の末、私は新しい会社を起こしたので、易者を招いて会社に名前をつけさせました。ついでにその年の運勢についてみてもらったところ、息子の命盤を見た易者は「神様の義理の息子にならないと災難にあう」と言いました。この話に私は心からびっくりした。7年前息子が生れた時、二人の易者を招いて名前をつけて貰った事があったが、彼らは何個かの候補を出し、その名前の筆数は皆同じだったことを今になって思い出しました。 彼らの名前候補の中に同じ名前が有った。其れは「博堯」であったが、息子はこの名前としました。彼らは期せずして同じ事を私に教えました。「7才以前にお寺に入って礼拝してはならない。7才以後、必ず神様の義理の息子として育てなければならない。」私は半信半疑なので、この事を家内に詳しく話さないでした。義理の母がよく息子をお寺に連れて行って参拝し、近年また「一貫道」の仏堂へ行くようになりました。

息子の体は弱くて病気がち、にも拘らず学校ではよくクラスメートと喧嘩しました。先生はこれには頭を痛め、私たちに転校をすすめるようになりました。2006年8月、息子は異常に多量の鼻血を出しました。またよく悪夢に魘されるようになり、夢の中で白と黒の刹鬼と逢ったと言いました。これには私たちも驚きました。しかし、息子はまだ幼く臆病なので、化け物の夢を見たのだと思いました。

この時期は何もかもが不調で、平安を祈るため実家に帰って父と相談し、関子嶺の土地公(各地域の土地を守っている神様)の助けを求めようと決めましたが、家内が反対しました。妻のクラスメート(江兄弟子)がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してリンポチェのめでたい済度と人助けの功徳を賛美していました。私たちもかつて二度ほどリンチェンドルジェ・リンポチェの五千および1万人の大法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェの無量な功徳と恩沢を深く讃嘆、敬慕していました。だから、家内は北上して、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁するよう強く求めました。

9月2日、私たち夫婦二人は息子を連れて寶吉祥で、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁することを願いでました。寶吉祥に入って、その場で男女老若が溢れ、リンチェンドルジェ・リンポチェは重病患者や、他人に支えられた人や、車椅子に座った人の迷いを、辛抱強くいちいち解いて加持しました。待つこと数時間、やっと私たちがご指示を仰ぐ番になりました。

私たちがリンチェンドルジェ・リンポチェの座席の前で跪いて礼拝した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは直々私にどんな事を頼みたいかと聞きました。息子の健康のためにと私が答えました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私と息子を見た後に開示しました。「あなたの父とお爺さんの殺生の業が重い、特に蛙を殺しました」。このとき、私はびっくりしました。数日前、父が私に彼が幼い頃、上手に蛙を釣ったことを自慢していたからでした。毎日畑、谷川で蛙を山のように釣って、食べきれなかったら近所に分けていました。蛙は五種類の料理法で食べたと言いました。リンチェンドルジェ・リンポチェが続けて「あなたも蛙を釣ったか」と聞きますので「それはなかった、技術が悪かったから」と答えましたた。リンチェンドルジェ・リンポチェが同時に開示しました。「殺念を起こすことは殺すことより罪が重い。」あの時、私の「動物ように馬鹿な頭」はその言葉が理解できなくて笑って何も答えないでした。リンチェンドルジェ・リンポチェはため息をついて、すぐ向きを変えて妻に言いました。「帰ってからご主人と話し合いなさい。彼はまったく因果を信じないです。二人でまた一緒に来て私に願いを出し、法会にも参加すれば子供は自然と健康になる」妻はそのとき涙で頬を濡らすだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェが私たちに法会に参加するようにとの開示も全然聞こえないでした。私は翌日台南で土地公(各地域の土地を守っている神様)を参拝しようと思って急いでおり、法会に参加の申し込むことをせずに寶吉祥を出ました。

その日は、速くリンチェンドルジェ・リンポチェを拝見しようと、昼食を取らないで、寶吉祥を出ると空腹を感じました。私達は沢山食べようと思って一軒の洋食バフエレストランを見つけました。妻は昔話をしようと思ってクラスメートを一人誘いました。私と息子二人はよく食べるので、沢山食べるつもりでした。しかし、一皿を食べ終えると私たちは気分が悪くなって食べられなくなり、諦めて息子を連れて休みを取りにホテルへ帰りました。部屋に入ると息子はすぐお腹が痛いと叫びました。私は二粒の胃腸薬を与えました。私自身は頭が痛のでベッドに横になって寝てしまいました。9時ごろ、息子は私を揺り起こしました。かれが吐いたのでホテルの係員を片付けのために呼んだというのです。ちょうど妻が帰って来たので、私は引き続き眠りました。

夜2時ごろ、息子はまた腹痛を起こし、熱も出てきたので、妻は私を起こし、息子を連れて近くの長庚病院へ行きました。お医者さんの最初の診断は胃腸炎で点滴注射をせねばならないため、妻を残して私一人ホテルに帰って寝ました。翌日、夜明けごろ台南へ帰ろうと思いました。翌日、朝7時頃、息子のお腹が急に痛くなくなりました。体温も正常になり、当直のお医者さんと談笑しながら退院したくをしました。

しかし、8時近く、息子がまた突然高熱と腹痛を訴えました。妻が江兄弟子にメッセージを送り、早急にわたしを病院へ呼び寄せました。私も驚き、すぐ病院へ駆けつけました。三人のお医者さんが緊張した面持ちで病床を囲んで討論していました。もともと生き生きと医師と遊び騒いでいた息子は、突然顔色が蒼白になり、魂を失ったかのように口をあけ、ベッドの電気計器を見ているうちに体温が急激に40度まで上がり、感覚がなくなりました。お医者さんがすぐに応急手当を始めました、その時、氷枕を使い、薬剤をつめこんで熱を下げる方法を試したが効果がないです。それどころか、息子は絶えず約20分間おきに痙攣したのでお医者さんも慌てました。このとき、江兄弟子が病院に着いて、すぐこっそりと一粒の「甘露丸」を息子の口の中に押し込みました。そうしたら、けいれんを止めました。小児科の医師が内科、神経科の医者と共同診察し、判定は急性脳炎でした。このため大急ぎで林口のICUへ転送しました。私と妻は病室の外で落ち着かない様子で黙って救急治療を見守っていました。寶吉祥の崔兄弟子は、その時も心配してすぐに来てくれ、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めることを提案しました。その日は丁度日曜日、共修法会がありました。

11時30分頃、看護婦は私たちをICUへ連れて行ってお医者さんによる病状の説明を聞かせました。お医者さんは「ご家族の中に癲癇を患った方がありますか?」と聞くので、私達ははっきりと「ない」と答えました。「現在子供の様子は危険で、意識不明で、脳圧が高く、熱が下がらず、瞳孔も開いています。頭部がウイルスか細菌に犯されているかもしれないです。これは「腸ウイルス」よりひどいです。こんな病気はめずらしいです。高熱が下がらず、もし一命を取りとめても植物人間とか智能障害者になる可能性もあるので、「危篤通知」にサインしてください」と言いました。妻は、お医者さんからこのような説明を聞かされ、全身が震え、涙が止めど無く出てきました。私たちは助けがなく意識不明の息子を見守り、全身感応器を貼られ、両手とも点滴注射をされた氷のように冷たい小さな手を握って、こんなに活発な子供が急に重体に陥ることを信じられない思いでいました。神様に祈ってでも息子を救います。午後12時、面会の時間が過ぎた。看護婦がわれらを慰めながら外へ案内してくれました。

外で待っていた江兄弟子が病状を聞いてから、私たちに、午後、直接に法会へ行ってリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めようと提案しました。あの時、わたしはもう「だめでもともと」と思いました。午後1時ごろ、道場階下に着いたが、通行証がない為道場に入る事が出来ず、江兄弟子は私たちを待たせて、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めました。まもなく2時になろうとした時、江兄弟子は涙ぐんで降りて来て、家内と顔を合わせて話しました。「私がやっとリンチェンドルジェ・リンポチェを拝謁して話をしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはご主人が仏法を信じず、万一子供が亡くなったら、また仏の悪口を言うのが関の山だという。やはりお医者さんに頼もう」 その後、江兄弟子が引き続き頼んだので、リンチェンドルジェ・リンポチェがやっとこう言いました。「彼らに道をひとつあげよう。法会が終わるまで、彼らは誠実に告白し、慈悲深い仏菩薩様にひざまずいて、冤親債主の許しを求めるのだ。」 私たちはビルの17階の道場に到着しました。千人の盛会は、まさに私の視野をひろげました。法会は盛儀の中に始まり、私たちは会衆の真似をして跪いて礼拝をしました。リンチェンドルジェ・リンポチェが声を出しました。「あの白い服を着る若い人、お辞儀することをやめなさい、あなたは仏法を信じずにお辞儀をしているが、何の役にも立たない。早く帰りなさい」ついでリンチェンドルジェ・リンポチェが法会の人達に言いました。「後ろのあのご夫婦は昨日私のところに来た。私が彼にお父さんやお爺さんが沢山の蛙を殺害したといったが、彼はいたずらっぽく、にやにやした顔で釣らなかったといって因果を信じようとしなかった。 今日は子供が急病で私に求めようと思ってやってきたそうだ。」妻がとても敬虔に礼拝していることを見て、私も怠慢にすることが出来ず、心からご仏菩薩様にお辞儀して頼みました。もうすぐ5時になり、硬い床板には私のひざから流れた血がしみていました。妻も体をゆり動かすほどに痛みを感じており、すぐに立ちあがることができないでした。突然にリンチェンドルジェ・リンポチェが話しました。「彼にマイクを渡して名前を聞きなさい。子供の名前、生年月日も聞きなさい」リンチェンドルジェ・リンポチェが人にマイクを持たせて来ました。私はいちいち答えました。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェが念誦修法、迴向、そして、私たちに「もうよい、子供は大丈夫だ。早く帰って子供に会いなさい」と言いました。そして「早くブランケットをこの夫婦にあげなさい。そばで支えて休憩しなさい」。家内はもう動けず、地面に座りました。皆さんが大勢で私たちをささえて椅子にかけさせてくれました。それに私たちにお茶とブランケットをくれました。この時、肉体の痛みを感じましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と細かい心遣いに私は深く感動しました。

法会が終わって、リンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく送った後、兄弟子たちが言いました。「リンチェンドルジェ・リンポチェが大丈夫と言うから、きっと大丈夫だ。心配しないで」。私が早速ICUへ電話をかけたところ、看護婦が出て、先ほど息子は突然目が覚め熱も下がりました。またトイレに行きたいというので、先刻オムツを替えました。また私にオムツを買ってくるように、といいます。その一瞬、私はようやく仏法の偉大さを認識しました。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェの休憩室の外で三回跪拝して「活菩薩」が息子を救ってくれたことに感謝しました。

病院にもどって、夜8時の面会時間に私たちは息子と会いました。彼はベッドに横たわって夢を見たと言いました。腹がすいたと騒ぎ、アニメを見たいといっていました。その時、お医者さんは検査を終えて原因がわかったとして、食事するように言いつけました。通常ICUにいるのは病状の重い患者ですが、こんなに騒がしい患者は珍しいといいます。このため、特例として家内が居残るのを許しました。9月4日、息子は一日中病床の上で玩具を玩んで居ましたが、注射が切れてから心のコントロ-ルを失いました。それは癲癇の治療薬わけで、とても大きいな副作用でありました。9月5 日私はまた寶吉祥を訪れ、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けに感謝しました。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示しました。「子供は間もなく退院することが出来るので、癲癇の治療薬はもう飲まなくてもよい。法会を参加することを忘れないように」。今回私はすぐさま登録しました。前回のように仏を学ぶ機会を失うのを恐れ、しっかりと識別証を手にしました。

張志栄さんの息子(右)は当年発病の時、僅か7歳ですが、今は17歳です。

リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰で、息子はすぐにICUを離れて普通の病室に移されました。入院した四日目に家内が息子のおしめを変える時、蛙の卵みたいな白いトランスルーセンスがお尻のあたりに見えました。この光景を見た家内は驚きまたあきれていました。正常な大便や下痢ではこんなふうになるはずがないです。その時すぐにこれは蛙を殺した因果と業報と分かりました。

その時、どんな検査をしても本当の原因がわからず、お医者さんは毎日来て我が家の家族の遺伝病の有無などを聞きました。息子は注射されると泣いて騒ぎましたが、注射されない時は元気でよく飛び跳ねました。 ICUもはやく私たちを退院させたく、この「普通の人」はとても騒がしいとこぼすのでした。息子は正常に見えましたが、お医者さんが病気原因の究明にこだわったため、ICスキャンや採血のほか、脊髄の抽出も行うなど、ほとんどすべての検査室をあまねく回る事になりました。特に脊髄を抽出したとき、息子は3日間にわたって痛みました。このときは、腹ばいになって眠るしか方法がないでした。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持で入院してから5日目に息子が退院しました。私は診断書発行を申し込みました。そこには「原因不明の癲癇、原因不明の脳炎、原因不明の胃腸カタル」と書きました。20何項目の検査報告は正常で、細菌を見つけることもできず、ウイルスも発見できなかったです。主治医師が息子に癲癇の薬を飲むよう求め、30日間分も投薬しました。薬を切らせてはならず、2年半はこれを飲まなければまた病気を起こすかもしれないと言いました。それに、毎月診察を受けるよう求められました。私たちは医師にたいへん感謝しましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェしか信じていないので、息子は薬を全然飲まず、今日まで腹を立てたこともないです。

張志栄さんの息子と妻はリンポチェの救度に対して、とても感謝します。

息子が退院した後、最初にしたことは寶吉祥へ赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したことです。リンチェンドルジェ・リンポチェの思いやりを暖かく感じました。リンチェンドルジェ・リンポチェは息子を抱いて長く加持して、非常に親切に「甘露丸」を二粒与えました。このようなやさしさは、父としての私も全く足にも及ばないです。リンチェンドルジェ・リンポチェがまた私に「肝臓が良くないので、お医者さんにみてもらったほうがいい」も言いました。リンチェンドルジェ・リンポチェの思いやりをたいへん温かく感じました。

リンチェンドルジェ・リンポチェはつらい修行を通じて、自分の幸せ、福で衆生の利益を図り、信者の病気を解決し、重態患者を治療し、亡者を済度するななどの大慈大悲を広げています。大いなる能力の生き神が台湾に現れ、本当に我々の幸せだと思います。皈依して弟子になって以来、心を込めて仏法を習い、さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿で、更に無数の衆生を救うことができるように祈っています。

寶吉祥仏法センターの弟子  張志栄
2006年12月13日

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2016 年 04 月 01 日 更新