220:愚かな子よ、急いでお父さんを家につれて帰るべし!
2003年10月、肝癌末期の父が風呂場で転んでしまい、台湾大学病院の救急救命センターに運んだ時は既に昏睡状態、しかも血を大量に吐きました。このような大量吐血した人を見た事がなかったし、映画の中でもこういうシーンがありませんでした。父が着ていた服が血に染まれ、私の服で羽織ってあげようとしてもすぐには真っ赤になってしまいました。おば達やおじが駆けつけて来てくれたが、こんな状態でみんなしかめっ面で目が赤く腫れてしまいました。医者の報告を聞いて愕然した母はぼーっと座り忍び泣きをしていました。医者の言い方はしとやかではありますが伝えたいことははっきりしていて、要するに医療行為を続けても人事を尽くすだけで変わりは起こさないだろうとの事でした。父のこの病状は十何年も経ったし、肝昏迷も何回か発作したことがあり、家族のみんなは内心ではこの日が来ることの心構えはありましたが、それでも母は中々受け入れ難くて、なんと言っても数十年間寄り添ってきたパートナーだからです。
父と血の繋がりのないけど義兄弟の契りを結んだ兄弟も何人か手伝いに来てくれて、死んだ後の事を相談するためにも葬儀社の人を呼んで来ました。当時一番下のおばが私に、愚かな子よ、急いでお父さんを家に連れて帰るべきでは!此処に残して何をするの?と言われました。それは我が一族の習慣で、家族が亡くなる前に家に連れて帰ることです。当時の私は何故か父の命はまだ終焉を迎えるわけではないと思っていました。雑務を処理した後に父の義兄の友達の力を借りて父をICU病棟に移すようにお願いしました。当時弟の彼女の同僚で兄弟子の江さんは熱心に手伝ってくれて、江さんは上師に来てもらわないかと訊ねてきました。江さんの上師は在家の修行人であることしか知らなくて、状況が状況ですから良くも悪くもなく、せいぜい父の歩むべき道を歩くだけだと思っていました。夜中の12時過ぎても江さんがまだリンチェンドルジェ・リンポチェに連絡を試みしていたこと有難く思いました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはその夜帰国したばかりだから、翌日の午後弟自ら寶吉祥を訪ねリンチェンドルジェ・リンポチェにお目通りして来ました。弟の真心が伝わったのでしょうか、リンチェンドルジェ・リンポチェは次の日に病院に向かい父の加持を承諾してくれました。
三日目の朝病室に父の見舞いをした時、父の吐血はまだおさまらず、ベッドの半分が血に染められていました。ここ数日輸血を受けた量はすでに身体全体の血液の総計を超えた。しかし、重度昏迷のため内視鏡で吐血の原因を検査する事もできず、医者は恐らく食道出血か胃の出血かの憶測しかできなかったのです。目の焦点が合わず口角から血が垂れ流した父の変わり果てた姿を見て、本当に胸が痛くて、こんなのは助けられるはずもないだろうと考えると涙が出てしまいました。
午後、普通の人とさほど違わない服装で、それでも優雅な気質を漂っていたリンチェンドルジェ・リンポチェが面会時間前に来てくれました。リンチェンドルジェ・リンポチェが私達に先に仏法を開示し、父は殺業が重い故このような病気になったと教わり、それでも親孝行したからこそリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得ることができる、まさに果報というものであることを教えてくれました。
リンチェンドルジェ・リンポチェのおっしゃる通りでした。父が餌製造業で何十年して来た、数知れずの衆生が我が家の利益のため苦しまれ命を奪われた;それに父が両親に対する親孝行は言うまでもなく、母の養母まで自分の実の親のように何十年も大事にしたからのです。
台湾大学病院のICU室は一日数回の面会時間に区切りされて、毎回2人しか入れないため、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟と入った後に、弟に後ろに跪いてもらい、父の頭の上に金剛杵で2-3分間加持しました。しばらくしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟に、父から話したいことがあると言いました。弟はその時心の中で非常に驚いた、そんな!有り得るはずがない!リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談でも言ったのではないでしょうかと思いました。
それでもリンチェンドルジェ・リンポチェに従い、父の傍に近づいていくと、まさか~不思議な光景が現しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談を言うはずはなかったです。父が突然起き上がって、おしっこがしたい!早く連れてって!と台湾語で言い出した。その時まだ身体中が管だらけで、弟を引っ張ってこんがらがっていた管を掴んでベッドから降りようとしたが、当然止めさせられました。このドラマチックなシーンはその場に居たすべての人を震撼させました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは淡々と、施身法法会を参加しに来るようとの言葉を言い残してすぐに帰られ、しかも私達の供養も断られました。
父がやっと目が覚めて、吐血の症状もリンチェンドルジェ・リンポチェの加持の後不思議と止まりました。三日後ICU室から出られ、普通の病棟で一週間の入院を経て奇跡的に退院しました。当時の回復について主治医の肝臓権威李先生や許先生も不思議がっていました。さらに面白いのは、父が目覚めた後に再び大量出血の原因について検査を受けたけれど、内視鏡でどんなに探しても傷口が見当たらなかったのでした。
リンチェンドルジェ・リンポチェ及び兄弟子の江さんに心から感謝しています。江さんのお助けでリンチェンドルジェ・リンポチェとの出会いがなければ、私は多分一生仏陀以降の正法に触れる機会はなかったのでしょう。父も亡くなる一年前からやっと阿弥陀仏を念仏するだけでは極楽往生浄土へ行くのはほとんど可能性がないことを悟りました。
もし心の中の悪を離れ善に向かうことができないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがよく開示した阿弥陀経で述べた重点、つまり往生浄土は発願し福徳因縁の素質を持つ善男子と善女子という者しか得られない。そして善男子、善女子と言うのは、十善法を守られている者、つまり、不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあっく)・不綺語(ふきご)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見を厳しく守っている者のことです。それで仏法は”行う”であり事を悟りました。決して拝んだりお念仏したりして自分の行為を修正しないままで成れるわけではなく、仏法は生活と結びつき一体化にならなければなりません。
それを聞いて父もよく頷いていました、以前は仏法に対する誤解や偏見、そして自分が衆生の命に対する無知が少しずつ理解できるようになりました。昔、関わった宗教団体はいつも寄付を求められ、寄付により福の種を蒔き、念仏さえすれば十分だと教われました。父がいままで自分自身の利益を求めずただただ信衆弟子に悪を止め、善を実行することを要求する方を見たことがなかったし、今生にも、自分が傷付けられる恐れもせず、耐えずに自分に関係のない苦痛に陥った衆生を救い出し、利益を与える広い心の持ち主の善知識に会ったこともなかったことが、やっとわかるようになりました。
いま外に行くと仏経がよく見かけて、仏教の宣伝もあふれています。しかし親身で実践しながら、仏法を商業化せず、いつでもどこでも我を忘れ他人に利益し、衆生を各種の苦痛から離れるように助けの手を差し出し、輪廻の大きい苦難から救い出し、正法を押し広めるような行者を探し出すのはもう極めて非常に難しくなりました。
リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後ブラブラした気持ちはやっと寄り所ができました。それと同時に、自分のような徳も能も無かった者は 攀縁(はんえん)をせず 名聞利養(みょうもんりよう)を求めず、本当に福報を六道衆生に布施する大修行人に皈依できたこと本当にいいのかも恥ずかしく思いました。 リンチェンドルジェ・リンポチェが私達にくれた貴重な教法恩徳は今生今世では報い難いでしょう。
第七組 郭士銘 謹んで書き上げます。
2008年12月17日
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2017 年 03 月 28 日 更新