180:上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩
上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩。
諸仏、諸菩薩に感恩。
初めてリンチェンドルジェ・リンポチェを拝したのは、老人性痴呆症を患って3年余りになる母の事で力不足と心残りを感じていた故でした。全く仏教の基礎がなかった私は、謝主任と法友の徐さんの話を聞いてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、菜食及び仏教の学習を始めることになりました。
母が他界した時、私はまだ皈依していなかった為、母は多くの苦しみを味わいました。今から思い返すと、母に救急治療の痛みを感じさせてしまい、自責の念に駆られます。幸運なことに、母が他界した一週間後、レストランでリンチェンドルジェ・リンポチェと法友の魏さんに丁度会いました。私がリンチェンドルジェ・リンポチェにこの事を告げる前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に魏さんに、母が既に他界したことを話されていました。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、一週間後の「施身法」で母を済度して下さる慈悲の約束をして下さりました。内心、非常な感動で満たされました。どんな徳、どんな能力があって、偉大な修行者の助力が得られることになったのでしょう。リンチェンドルジェ・リンポチェは実に随縁、随時に、衆生を済度しておられるのです!
更に幸いなことに、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依をし仏法を学ぶようになりました。仏法に接触した後に得られたものは、次の通りです。
- 父に対し、二度と対立をせず、孝行と従順の衝突がなくなった。
- 更によく反省し、誤りを認め懺悔するようになった。
- 自分の業に対し、恨みと怒りを起こさず、努力して受け入れるようになった。
- 更に充実した生活が過ごせるようになった。
その後、父は病で倒れました。業力は何時も私達に試練を与えます。父が病に臥している間、何度も慈悲の御加持を父に与えて下さったリンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝致します。御蔭で、肺腫瘍の父は他界するまで大きな痛みで苦しむことはありませんでした。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの御教示の御蔭で、私は時を逸さず親孝行ができ、何も分からなかった私は、過去の軽視と親不孝を補う多くの時間を持つことができました。有難う御座いました。
法友の魏さんの指導にも感謝致しております。私に、担いでいったとしても父を宝石店に連れて行きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見するよう勧め、仏教を信じない父にも御布施をする因縁が結ばれリンチェンドルジェ・リンポチェの御加持を頂ました。私はこの因縁を永遠に銘記し、その後他界した父は因縁によってリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を得ることができました。
家族には仏教を学んでいる者がない故、福報、因縁共に満たし難く、他界した後父が浄土に往生できるよう、共にリンチェンドルジェ・リンポチェの処へ行き祈願することを家族に要求することはできず、胸中焦燥感で一杯になりましたが、常にアチ護法神の助力を願っていました。ところが、その後、妹が一緒に宝石店へ行きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを希望しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、「アチ護法神に救いを求めてもよい。更に、父の他界後、ポワ法を求めてもよい。」と仰って下さいました。私は、「アチ護法」を修法する時、毎日、父に代って懺悔し、自分が過去に疎かにした孝行の道を懺悔し、毎回とも涙が溢れ出る中で修法を終えました。
リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲により、全身不随であった父は病にあってもリンチェンドルジェ・リンポチェの御写真を拝観することができました。私は父にリンチェンドルジェ・リンポチェの御姿を覚えているよう常に話していました。当初、父は以前あんなに健康だった身体がこんなに酷い状況となったのを全く受け入れられませんでした。父は内心、非常に恐怖感を感じ、死を受け入れられなかったのです。私は、出来る限り父の病痛を軽減し、父に逆らうことなく、果報を受け入れるように説得する努力をしました。
その甲斐があり、父は、「懺悔」の録音テープを聞くことを希望するようになりました。
また、父は、私が仏を学んだ後、非常に変わったと言うようになりました。
更に、私と妹が嬉しかったのは、父が病中の母に良くしなかった事で父を怨んで出来た父との隔たりが消えた事でした。
父は、母が天で自分を待っている夢を見て、「死」に対する恐怖心がなくなったことを喜んでいました。
父が他界する二日前、血尿の為、私達は父を病院に送りました。夜中に私が帰ろうとすると、父は私の眼を見つめ、以前入院した時とは異なり、まるで私に「心配しなくていい。もう怖くない。」と言っているかのようでした。
二日目病院に到着すると、父は既に昏睡状態にあり、ずっと父の面倒見てきた看護師に、眠いから呼ばないように言ったまま目覚めませんでした。その時、私は父が既に死に近付いていることに気付かず、宝石店へ行き礼拝したいという気持ちが起こりました。リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールで閉関修行中でしたので、私は御写真に向かい、恐怖感はあったものの非常に落ち着いて娘と共に頂礼し、父の病苦を軽減して下さるよう、若し父の寿命が尽きる事があったなら、リンポチェによって引接して戴き、父が三悪道に堕ちずに浄土に往生できるよう祈っていました。
その晚、病院で昏睡中の父を眺めながら、リンチェンドルジェ・リンポチェの御加持を観想し続けました。一睡もしませんでしたが、疲労感はありませんでした。二日目、昼、私が病院から道場に向かおうとした時、父が間も無く逝くことを感じ、妹に高雄から即刻帰るように言い、通常と同じように、父が注意しなければならない事を父の耳元で話すように頼みました。私が父の耳元で、道場へ行くことを伝え、恐がらないようにと言うと、父は突然、痙攣のように全身を震わせました。私は耐えられず、父が可哀そうで、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想して加持を求めました。ちょっとして父は静かになりました。
父は昼の 1時頃、この世を去りました。私は道場におり、法友の魏さんは私に、道場に残って父の為に「六字大明咒」を唱えるよう勧めましたが、私は家族に、私が法会を終えて病院に戻ってから葬儀場に運ぶよう頼んでおり、子供達で父の為にマントラを唱える時間を多く得たいと思っていました。病院に到着すると、妹は、父の顔色は非常に良く、身体は柔らかかったので、衣の取り替えがやり易かったと言っていました。父の口は僅かに開かれていただけで、面持ちは穏やか、妹が言っているように「きれいでした」。
家族の催促があったので、午後 6時半前後には父の遺体を葬儀場に運びました。父の遺体を冷凍室に入れる時、私と妹が父の額に触れたのは、生前、父は私達がこうするのを好んでいたからでしたが、深層意識によって私は、父の額から梵穴(サハスララチャクラ)に触れていました。驚いた事に、父の梵穴から後脳までは何れも異常に暖かく、私はその時、驚きの叫び声を上げていました。妹も触れてみて、その不可思議さを感じていました。私は全く心の準備をしていなかったので、瑞相の出現に、真に驚愕してしまいました。
母の他界の時とは全く異なります。
続いて葬儀の事は、異常な程順調で、その巧妙さは不思議としか言い様がなく、一週間以内にスムーズに完了しました。私は常に無形の助けを沢山得ているかのように感じていました。
火葬後、父の頭蓋骨を見ると、小さな丸い穴が開いていました。その時、私は本当に泣きそうになりました!いつも法友が叙述していた事が、皆、一つ一つ私の目の前に顕現したのです。どんな徳がありどんな能力があって、私達はこのような殊勝な済度の修法を得ることができたのでしょうか。
慌しくカメラを取り出して写真を撮りましたが、カメラの電池が偶々切れ、交換する電池もなかったので後悔していました。しかし、現像された写真は、異常にも、はっきりと写されていたのです!(法友が注意を促してくれ感謝してます!)
家族の中では唯一チベット仏教の知識を持つ従兄弟の奥さんが、火葬後の頭蓋骨の写真を見て、驚きの余り、「貴女が求めたの?貴女が求めたの?」としきりに聞いていました。
リンチェンドルジェ・リンポチェは千里も隔てた処で閉関修行をしていましたが、写真に同様の願力を授け、有情衆生の祈願や拠り所とされたのです。
私達に機会と時間を与え福報の因縁を積ませて下さり、病院、家、往生に至るまで何時の時も父に付き添って下さったリンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝致しております。仏法に無知であった父は、それを受け入れて自分の執着を離れました。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの御助力がなかったのなら、この様な事が為し得たでしょうか?
リンチェンドルジェ・リンポチェの教え、導き、助けは、生活の中でも、生死に対面した時にも、私達弟子にとり一生忘れられないもので、完全に報いることはできません。しかし、私は、今世において本分を尽くして仏法を学び、リンポチェの恩徳の万分の一にも報いたいと存じます。
弟子 姚詠儀 懺悔合十 2009年1月7日
2009 年 02 月 24 日 更新