170:変化
私と姉は幼い頃に顕教に皈依しました。その時まだ五歲であった私は、その後、大きくなるにつれ、かなりの長い時間を反抗期に費やしてしまいました。この特別な出来事は2004年6月に起こりました。姉は同僚の紹介で宝石店にて尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、リンチェンドルジェ・リンポチェは、私と母の施身法への参加に同意して下さったのです。
第一回目の法会は私の人生における初めての法会でした。姉は、その日一日菜食することを言い付けました。テーブル上の肉が少なすぎると母に文句を言ったこともあり、ずっと肉なしには喜ばず、菜食を今まで試した事はありませんでした。しかし、どこから動力が生まれたのか、その日はそのように過ぎ、肉を食べたいとは思いませんでした。法会の当日、私は母と共に午後のフライトで高雄から北へ向かいました。その日私達一家は道場の一列目に左右に分かれて座りました。殊勝で荘厳な法会が終了すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に帰宅後も肉を食べないように説かれ、会場で頷いた私は、驚くべきことに、そのように20数年食べた肉を止めてしまいました。このような変化は周囲の友人達を吃驚させただけでなく、私自身も信じ難いことでした。
一週間菜食した私は、姉に、一緒に尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したいと話し、その日の午後、姉と母は先に逸仙路の宝石店に行き並んでいました。時間の調整が得意であると自分で思い込んでいた私は、友人達と先ず遊びに行き、時間が来たらそっちに行けばいいと思っていました。恭敬に欠ける心の持ち様によって私は二度、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する機会を失い、三度目にやっと尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェにまみえることが叶ったのです。
リンチェンドルジェ・リンポチェが共修法会(共同修行法会)への参加を許して下さった時、胸中には着実とした、興奮した何とも表現し難い感覚がありました。ある期間が経つと、私は皈依を求めるようになりました。思いもよらぬことに、リンチェンドルジェ・リンポチェが自ら、私に、懺悔のテープを聞いているかどうかをお聞きになりました。首を振り聞いていないと答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「先にテープを聞いてから言いなさい」と御話になりました。一週間後、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依を求めると、テープを何度聞いたかお尋ねになりましたので、私は3回聞いたと答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「最低20回聴聞した後に言いなさい」と仰いました。そこで、私はテープを肌身離さず、乗車する時も聴き、静かな時も聴きました。真面目に聴き、20回になった時、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは私の皈依への申し込みを御許しになりました。しかしその時、私の父は意外にも反対の声を上げたのです。父の反対によって私は、深い谷底に突き落とされた様な苦しみを感じ、仏教を学ぶ事が良い事であることをどのようにしたら父に知ってもらえるのかが皆目見当がつきませんでした。只知り得たことは、父がリンチェンドルジェ・リンポチェを徳のある得難い上師であると信じていたにも関わらず、皈依となると、態度を頑なにし最後迄否定したことだけでした。
この件の為、私は再度リンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めました。私が口を開き、父が私の皈依に反対していることを話すと、リンチェンドルジェ・リンポチェは私を見てとっくに知っていたというような笑みを湛えて仰りました。「家に帰ってお父さんに伝えなさい。皈依をしても髪は剃りませんと。リンチェンドルジェ・リンポチェも在家で修行している身です。ですから、一般の人と同様に結婚し子を生み、商売をしてもいいのです。ただ、一つ、成就者が私達を監督し指導するだけなのです。お父さんを安心させなければなりません。」帰宅後、リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれた事を一通り話し、父の心配を取り除こうと思いました。すると、元々反対していた父は二度と反対しなくなり、私は、順調に皈依を済ませ、仏教を学び始めました。このような徳を具えた上師に出会える因縁を持てた事に自分の幸運を常に感じています。衆生がこのような福徳のある因縁を得られます事、並びに、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの世に永らく在し、法輪が常に転じられます事を願っております。阿弥陀仏!
王介廷 合掌
2009 年 06 月 14 日 更新