169:上師衆生済度文と仏教を学んだ因縁

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとの因縁は、2006年4月に遡ります。その頃姑は栄総病院で鼻腔腫瘍が発見されましたが、仏教を厚く信じていた姑は、鼻咽喉癌が確認された後、気に留めない様子で私達を慰めていました。私達もまた医者には必ず手立てがあるはずだという態度を示し、不安な様子を落ち着けたいと思っていました。しかし、家内は、真夜中に布団の中で啜り泣きをし、不安に居た堪れない空気が家族を包み込んでいました。その後、家内の同僚の紹介でリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めることになりました。リンチェンドルジェ・リンポチェの教示と法友の方々の説明により、西洋医学の方法が真の問題解決となっていない事、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の中には既に多くのこのような例があることを知りました。結局、元々チューブを挿入していた姑は西洋医学の治療を放棄することに決め、法会に参加し始めました。その当時、私は、気持ちの上で、なるべく中立の立場を保つようにしていました。つまり、西洋医学に偏らず、仏法をも排斥せず、これは詰まる所、姑の最も大事な人生選択であり、私が意見を出しすぎて影響を与えてはいけないと感じていました。姑が決定したことであれば支持しました。しかし、行動においては、一歩も法会に近付こうとは考えませんでした。その期間、運転手になる事だけを希望し、姑の宝石店、法会の会場、病院への送り迎えをしていました。仏法研究が好きなら法会に行って聴聞すべきだと家内は常に勧めていましたが、私はリンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を拒み続けました。ですが、隣で、家内、義理の妹、姑が法会での説法を分かち合ってくれるのを喜んで聞いていました。仏教に関する本を数冊読んでいた私は、聞いた内容が本の内容と同じである事を証明し、並びにネットで寶吉祥の出来事とチベットの正統な仏教の紹介等を確認していました。

後に、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関期間、姑は民間療法を信じ、豚肉を処方として食しましたが、信心に欠ける私達も姑の気持ちに従うことにしました。しかし、病状は急速に悪化し、あっという間に姑はやせ細り、耳が腫瘍に圧迫されてあまり聞こえなくなってしまった後、最終的にホスピス病棟に入院しました。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関から戻られると、姑は再度信心を取り戻し、一心にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しようという気持ちを起こしました。この期間、姑は重病に侵されましたが、一家(家内及びその弟妹の三人)は、仏法の助力とリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による加持があった御蔭で、姑に付き添う日々を着実に安定して過ごす事ができました。しかし、当時の私には実感はなく、リンチェンドルジェ・リンポチェとの距離を置き、ただ単に、本の上で仏法の名や様子を追い求めるだけの方が良いと考えていました。

姑は、終に念願が叶い、2007年1月、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依致しました。皈依後の姑は、まるで最後の念願が叶ったかのように次の週に他界し、仕事の為にマカオに赴いていた私は、後悔の涙を流すだけで何も為せぬままでした。それは、徐々に良い方に向かっていた姑が突然逝ってしまったかの様でした。台湾に慌てて戻った私は、最後に姑の済度だけはできる限りの事をしてあげようと、自分から進んで家内に、彼女達と共にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、姑の済度を請う事を希望しました。終にリンチェンドルジェ・リンポチェの御前に跪き、リンチェンドルジェ・リンポチェの口からマントラが唱えられ姑が済度される時、知らぬ間に激動の涙が溢れ、一種の力が自分を貫いていきました。その時、私は、ある声が心の奥底から沸き上がるのを感じていました。それは、「リンチェンドルジェ・リンポチェに従い仏教を学びたい」という声でした。

この気持ちを確認後、リンチェンドルジェ・リンポチェが信徒に面会する日となった時、即刻宝石店へ向かい、リンチェンドルジェ・リンポチェに付いて仏教を学びたいとの希望を述べました。するとリンチェンドルジェ・リンポチェは、「何故、仏教を学びたいのか?』とだけ御質問になりましたので、私は「煩悩を断ちたいからです」と答えました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「違います。もう一度考えて来なさい」とだけ御話になりました。このように、当日は繰り返し三度聞かれ、頭を絞っても答えを見つけられず、両手は汗でびっしょりになりましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェから得られたものは、「違います。もう一度考えて来なさい」という御言葉だけでした。その週末は寝返りを打ちながら、胸中はリンチェンドルジェ・リンポチェの最も基本的な質問にどう答えればよいのかを気に掛けるばかりでした。引き返すべきか、リンチェンドルジェ・リンポチェに再度聞いてみるべきか? しかしこの考えと同時に、即刻別の考えが浮かびました。徳を備える大修行者との邂逅は非常に難しく、実修実証の真の修行者と邂逅したなら、機会を逃せば必ず後悔すると。このような決心の下、再びリンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めました。最初から、前回と同様の質問の「何故、仏教を学びたいのか?」で、結果は、「違います。もう一度考えて来なさい」でした。性懲りもなく、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏教を学ぶことを願うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「そんなに高慢で、自我が強く、細かく詮索する性格で、損をすることが嫌いなあなたが、他人の教示を受け入れることができるのでしょうか。どうやって仏教を学ぶのでしょうか?先ず、一度、法会に参加させましょう。もし変えられないのなら、来なくていいですよ。」と、リンチェンドルジェ・リンポチェは、私の急所を突き、私の問題点を指摘しました。心中、真に智慧のある大修行者だと感嘆しました。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェの説法を得られて約一年が過ぎた後、終に私の仏教を学ぶ門が開かれました。その日宝石店を出た時の歓喜と、後にリンチェンドルジェ・リンポチェが私の皈依を同意して下さった時の歓喜雀躍は、36年間で得られた最も大きな幸せでした。真の仏教徒としての道を歩める事がこんなにも人に満足感を与えるものだったのです。

また、実際にリンチェンドルジェ・リンポチェに触れた後、初めて仏法の殊勝な処を知る事となりました。過去において書籍上の知識を追い求めていた事がどれ程、無知蒙昧な事であったのでしょうか。思い起こせば、姑がホスピスにいる期間、同じ癌末期の患者は棒のように痩せ細り、痛みに苦しみ、目を向けるに堪え難いものがありました。しかし二つの癌を患っていた姑は、潤いに満ちた顔を保ち、決まって法会に参加していたのです。これは実に、諸仏、諸菩薩、リンチェンドルジェ・リンポチェによる助力があってのことでした。姑が他界した後は、リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けていた為に、葬式を出した家庭に漂う悲惨な雰囲気もなく、年配者の助けなしに、お葬式を済ませることができました。一方では、仏法の偉大さに感動し、自分の悪業の深さを懺悔し、弟子である私がリンチェンドルジェ・リンポチェの御導きの下、堅固に仏法を修習し、以後、衆生を利益できることを御祈りしました。そして、ディクン・カギュー派の法脈が永らく存続し、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法事業が興隆することにより、更に多くの衆生が仏法の助けを得られるよう祈願致します。

弟子 徐劭昀  2009/01/06

2009 年 06 月 14 日 更新