146:上師の悲願

慈愛深い父リンチェンドルジェ・リンポチェの御前で頂礼

2002年5月、度重なる不幸と打撃が私を襲いました。最も親しかった友人がアメリカで事故に遭い死去し、仕事の不調が続く中、海外に長く居住していた主人も突然亡くなり、娘は悪夢に魘されて些細な事で家族とぶつかる等、過去の親しかった者が済度されていないのを薄々と直感し、胸中、多くの疑問に悩まされ、解決されないでいました。人生の谷間にいた私はまるで憂鬱病にかかったように、一週間、ほとんど寝食できず、寝入ったかと思うと何かに胸元を押されるのを感じたり、真夜中に大きな泣き声を聞き吃驚して目覚めることも数回ありました。このような状況の下、私は丸一日家に閉じこもり外出しなくなりました。

荒れた生活の中で、私はある仏教のHPに「祈願」という文字を残しました。実際に高い徳を修めた高僧がどこにいるのか?このような行為はまるで一つの粒を茫茫たる大海に投じたかのようでした。(自分でも何らかの返事かが返ってくるとは思ってもいませんでした。)一ヶ月後にある電話が私に、リンチェンドルジェリンポチェの済度法は非常に偉力がある、逸仙路の宝石店で尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見するよう、告げました。初めてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした時、尊者は私に、「言い争ってはいけない。損をする事は即ち得をする事だ。あちこちに適当に参拝して、一日中お金を儲けることばかり考えている。それで役に立つならば、この世に貧乏人等いないだろう。」と教示されました。更に奇妙なことに、リンチェンドルジェ・リンポチェは私が嘗て、ある神殿を参拝したことがあるが、そこは鬼を養っている処であると指摘し、神殿の装飾、廟を管理する「廟祝」の姿を一つ一つお話になりました。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛杵で私に御加持され、家に帰ったらその人がくれたお守りを外で燃やすよう仰り、私に金剛結びの紐を下さいました。私がリンチェンドルジェ・リンポチェに過去に親しかった者達が済度されるよう願うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは密教の八大成就法の一つである『施身法』に参加するよう説かれました。リンチェンドルジェ・リンポチェとの謁見後の夜はよく眠れました。『施身法』に参加した時、私は言い表せない悲しみに襲われ法会が終わるまで大泣きしていました。一年の間このような状況が続き、参加する法会では毎回、感涙にむせびました。

その後、例の「廟祝」が私にくれたお守りを会社で燃やすよう指示していた事を思い出しました。燃やした後、会社の売上げは更に落ち込み、続いて同僚が事故を起こし、私は寝ている時に金縛りにあうこともありました。

初めてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした後、私は尊者が自分の金剛上師であることを確認しました。リンチェンドルジェ・リンポチェの御姿はチップに埋め込まれたかのように、一年以上の長い間、24時間私の脳裏に映され続け、私は、当初の多くの苦しみから離れられました。そして、痛みが癒された後、初めて自分の問題を思惟し観察し、並びに、尊者の歩みに従って人としての道理を学び、仏法を聴聞することができるようになりました。

2002年11月、86歳という高齡の母方の祖母は尿毒症の為、新光病院に送られ昏睡状態に陥り、医師も匙を投げられました。検査報告によると赤血球はたったの 3.8(正常者は11~16)、重炭酸は7.5(正常者は22~26)で、尿中毒が酷く、BUN血中尿素窒素は103(正常者は8~20)、Crクリアチニンは6.8(正常者は0.5~1.3)で、超音波検査によると腎藏は右腎が7.01cmに 、左腎が8cmに萎縮していました(正常者は9.5cm)。この時、幼い頃から寄り添い合って生きてきた最も親しい人を失う悲しみを目の当たりにして、何もできない無力感を感じざるを得ませんでした。

茫然とする中、突然、数ヶ月前に外祖母を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したことを思い出しました。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時、将来、外祖母の臨終時には外祖母の為に阿弥陀仏法を修法して下さることを約束して下さいました。そこで私は急いで宝石店に行きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しました。

慈悲に満ちたリンチェンドルジェ・リンポチェは、自ら病院に赴き外祖母に加持して下さると仰いました。数日後、リンチェンドルジェ・リンポチェが病院に来られ、加持して下さった後、元々暗い顔色で眉間に皺の寄った外祖母の面持ちは一瞬にして血色良く潤い安らかな顔に変わり、まるで眠っているかのようになりました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「外祖母は若い時に沢山魚を捕り、塩で漬けたので、こうした恨みを持った衆生が一向に済度されず、外祖母が出家して十年の間にも何れの者もそれらを済度することができず、外祖母の皈依した師匠もまた済度できなかった」ことを話されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「もし外祖母に出家の因縁がなかったら、このような殺生業の重い罪は、昏睡だけでなく癌となったことでしょう。」と説かれました。済度法は実に、一般人の能力の及ぶ処ではなく、大修行者、大成就者でなければ為すことはできないものです。慈悲のリンチェンドルジェ・リンポチェは、私に、外祖母に代って殊勝な済度法、施身法に参加するよう仰いました。その後私は、母や伯母達に事実の承認を求め、母達も外祖母が魚を捕っていたことを事実として確認しました。

私はその時、跪き外祖母に代ってリンチェンドルジェ・リンポチェに御布施致しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依してない者からの御布施は受け取れないと仰りました。私は再び、外祖母が仏菩薩を供養する機会を与えて下さるようリンチェンドルジェ・リンポチェに請いました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私が施身法の時に御布施することを承知して下さりました。外祖母に貯金を大修行者に御布施することを話すと、目を閉じて「了解した」と言いました。

「施身法法会」の二日目、宝石店の法友が電話で、リンチェンドルジェ・リンポチェが「何を願いたいのか」尋ねられたと言いました。私は、「外祖母が苦しまず、早く阿弥陀仏浄土に行けるようお願いしたい」ことを伝えました。リンチェンドルジェ・リンポチェは外祖母の為に二回の長寿仏を修めて下さいました。リンチェンドルジェ・リンポチェが第一回目の修法を終えた時、外祖母は直ぐに目覚め、次の日、私は、外祖母を連れて二回目の長寿仏法会に参加しました。法会が終了した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは高座にまだ座しておられましたが、私が階下に行き家に帰る外祖母を車に乗せている時、外祖母は、「リンチェンドルジェ・リンポチェが私の手を引き車に乗せてくれた」と言い張っていました。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ法会で説法をされていたので、私はリンチェンドルジェ・リンポチェを信じているから、外祖母の病気は直ぐに良くなると言いました。私は、仏菩薩を信じるのと同じように上師リンチェンドルジェ・リンポチェを固く信じています。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは発願によって再来した活仏であり、ここまで書いた時、知らぬ間に涙が滴り落ちました。リンチェンドルジェ・リンポチェへの感謝の念は実に言葉を以って表せません。

第二回目の「長寿仏法会」に参加した後、外祖母は順調に退院を迎えました。外祖母が病気で入院してから退院するまでは、たったの短い一週間でした。このような因縁により、私は尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。ここから私の生命は、二度と、空回りしなくなりました。

外祖母は一生涯、病の痛みが絶えず、私は十数年来、外祖母を台北、中壢、蘇澳等のあちらこちらの医者に診てもらいました。私の娘は緑内障の為、頭痛で吐き気を催すこともあり、生理痛が原因で救急治療を受けることもよくありました。私はと言えば、ややもすれば胃腸炎で嘔吐や下痢を起こし、脊椎が事故の為に酷く曲がっていたので、痛みの為に眠れないこともありました。このように私達三人は交替で病院に行き、大中病院、西洋医、名医等、殆ど行き尽くしてしまいました。

しかし、リンチェンドルジェリンポチェに皈依した後、これらの痛みは薬なしに治癒されました。また、安心して仏法が学べる更に多くの時間を与えて戴きました。リンチェンドルジェ・リンポチェは外祖母の寿命を六年延ばし、並びに、法会にて、衆生の為に寿命を延ばして下さいました。何故なら人間の身で仏法を学んだ場合の成就の速度は、浄土より速いからです。

毎年、私は定期的に、外祖母の病院での血液検査に付き添いました。病院の検査結果に基づき医師は、外祖母は透析をする必要があると言いました。しかし外祖母には、腎臓病患者にある水腫れや排尿不全等の問題が見られませんでした。以前、外祖母の両足は水腫れになり饅頭のようになるのも常で、地面を踏むのも困難でした。ヘモグロビン値はたったの5でしたが頭がぼうっとする等の気分の悪くなる症状はありませんでした。元々痛くて我慢できなかった膝関節の退化による変形も無くなり痛みも消え、多少の距離は自分で歩行できるようになりました。

外祖母の精神及びその他各方面は良好で、ただ皮膚が酷い乾癬の為耐えられない痒みがあり、あちらこちらの皮膚科に行き様々な薬を塗ってみましたが、状況は更に悪化するばかりで、引っ掻いて皮膚に傷を付け血が出て化膿するということもありました。その後、寶吉祥漢方診療所の「寶圓膏(宝円膏)」を使って乾癬が明らかに改善されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、魚の捕獲や海鮮類を好んで食した果報は皮膚病となり、殺生業は多くの病気と短命となり、死後は地獄に堕ちることを説かれたことがあります。この言葉を聞いた後、人は殺生の過ちを着実に戒めることでしょう。

2007年末、外祖母がお寺で倒れたので、私は世話をする為に台北に連れて帰りました。この時から外祖母は定期的に毎月一回の法会に参加するようになりました。ここ一年、外祖母の身には度々不時の出来事が発生していましたが、数回転倒をしても骨折しませんでした。また、頭痛からの全身振戦時には、病院は原因を突き止められませんでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェに伺い、初めてそれが熱射病であることが分かりました。風邪による酷い咳、継続性下痢、皮膚病の痒みによる睡眠障害…等、リンチェンドルジェ・リンポチェに御加持をお願いしていましたが、それに対して私は外祖母の世話が不当であることを叱咤され、並びに、自分で外祖母の面倒を見て、自分で外祖母を入浴させて、風邪を引かせてはならないと忠告されました。リンチェンドルジェ・リンポチェの、まるで自分の家族と同じ様に老人を思いやる心は、私の外祖母に対する心遣いとは全く掛け離れたものでした。

今年11月、私が遠出しようとしている時、外祖母は風邪の咳が原因で喘息が始まりました。医師は心臓衰退が酷いと言い、私はこのような酷い病状は軽視できないものだと感じ、自分を抑えられず悲しみで泣き崩れました。医師は外祖母を集中治療室に入れれば治療のチャンスがあると言いましたが、私は、病院にいる時の外祖母が恐怖感で病状を更に悪化させたことを目の当たりにしました。集中治療室で家族と隔離される時、両手を縛られて叫び声を上げていたのを見た看護師は、もしこの様な姿に耐えられないのなら、家に連れ帰って臨終までの一切の苦しみに向き合わなければならないと言いました。私は、医院での治療は苦しく、家に帰っても苦しいことを考え、家で外祖母の為に落ち着いた看護をし、家族が最期を見届けてあげることを決意しました。

私にとって、これは非常に難しい選択でもあり、無力感に苛まれました。生死の大事を未経験な私が家族の臨終前の未知の一切に臨むというのです。この時、突然ある力が自然に生じました。私は自分に言い聞かせました。二度と何れの医療にも頼る必要はない、助ける事ができるのはリンチェンドルジェ・リンポチェだけだ、上師に信心を持ち、一切を仏菩薩に託そう。この時、私の心は非常に穏やかになり、強く、一向に途切れることのない加持力を感じていました。

集中治療室から家に戻り、外祖母は既に昏睡状態で、手足が黒ずんできました。翌日私は外祖母を連れて宝石店へ行きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私の娘を呼んで外祖母にこう言うように仰いました。「リンチェンドルジェ・リンポチェはずっとあなたの面倒をみますよ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェの姿を覚えていなさい。」と。リンチェンドルジェ・リンポチェは言葉が終わると、マントラで外祖母を加持し、甘露丸を口に含ませました。

御加持を与えられた外祖母は目覚めました。数回、目を大きく開き生き生きとした眼差しをし、手足の痣も引きました。しかし、外祖母の全器官は既に衰退が始まっており、私は外祖母の体調の悪さに心を痛め、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めました。尊者は「護法神に祈りなさい!」と教示されました。私は毎日一生懸命、アチ護法神に祈りました。外祖母の苦しみが最も懇切な祈りの心を生じさせ、リンチェンドルジェ・リンポチェの助力がなければ衆生はどんなに苦しいことだろうと思いました。これらは、私に、最も懇切なる心で衆生の為に祈願しなければならないことを教えてくれたのです。

続いて一週間、病院では導尿の治療は何もしませんでした。医師は血中酸度が高く酸素が低く、出血が始まり、数回、心拍数が170にまで上がりました。外祖母は時々唸り声を上げ、その度に私達の心は絞られるようでした。痛いのかと聞くと痛くないと答えます。最後の一週間は心拍数や血中酸素がどの位なのか全くわからない状態でリンチェンドルジェ・リンポチェの加持力にだけ頼っていました。外祖母がベッドに横たわっている時に患った床擦れや痔には幸い「寶圓膏(宝円膏)」が効果的で、外祖母の多くの痛みを取り除いてくれました。

私は外祖母のことで心を痛め苦しくなった時はいつも、懺悔し、どんな状況においても上師の御恩に対する感謝の念を抱くことを自分に言い聞かせました。私は外祖母にリンチェンドルジェ・リンポチェが大きな加持を与えてくれ、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し続け、並びに、リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真を頭頂及び顔の脇に置くよう言いました。

二週間寒波が押し寄せましたが、日曜日に外祖母を伴い法会に参加したその日は、気温が戻り暖かく、太陽の光が辺りを照らしていました。2008年12月11日夜、外祖母は一日に十数回の大量の血の塊を排出しました。しかし外祖母は徐々に元気になっていき、大きな苦しみはありませんでした。私が落ち着いていた為、外祖母は排便だと勘違いしていたのです。一切はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持力により少しも恐れを感じることはありませんでした。

12月12日、私は、「今日は一緒に施身法に参加しましょう」と告げると、外祖母は考えることがあったらしく目を瞑りました。法会が終わって家に帰ると、外祖母のおむつは血と血の塊で一杯で、一部はズボンと衣服に漏れていました。その日の晚、また数回出血しましたが、外祖母は熟睡しているかのように何の不快症状もありませんでした。

翌日早朝8時、外祖母は突然腹痛を叫び、それが凡そ3時間も続きました。私は隣に付き添いどうしたらいいのか分かりませんでしたが、突然ある考えが頭を過ぎりました。外祖母に、「今日、私の一番大切な翡翠をおばあちゃんに代わってリンチェンドルジェ・リンポチェに御布施しよう。」と言いました。同時に外祖母に向かって大きな声で叫びました。「リンチェンドルジェ・リンポチェは、苦しみは永遠じゃないと言っているのよ!苦しみは過ぎ行くものよ!リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があるからおばあちゃんは痛くないよ!リンチェンドルジェ・リンポチェを信じて!おばあちゃんは痛くないよ!」何回も何回も叫んでいる内に外祖母は静かになり安らかに逝きました。

外祖母は息が絶えて一時間以内にリンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修め終えました。外祖母の梵穴(サハスララチャクラ)は暖かく、温度は十数時間も保たれ、冷たくなりませんでした。全身の関節は生前よりも更に柔らかく、このような現象もまた十数時間続きました。目や口は笑っているかのようで、顔色は光り輝き血色よく潤い、元々皺のあった眉間も全部開かれて光で満たされた状態になりました。全身の肌肉は生前より弾性があり、鼻孔からは濃い褐色の液体が流れ出、諸々の瑞相が見られました。

外祖母の遺体は火葬した後、頭蓋骨には整った小さな丸い穴が開いており、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、これがポワ法が成功した瑞相であると語っていました。葬儀社の社長は火葬した骨を沢山見てきたが、頭蓋骨に丸い穴が開いているのは今まで見たことがないと言っていました。社長は、リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の力に驚き、あらゆる修行者の中でリンチェンドルジェリンポチェだけは信服できると賛美しました。外祖母の骨の多くはとても綺麗なピンク色をしており、親戚達は訝しく思ったようですが、これによって皆の考えを変えることができました。親戚達は外祖母が殊勝なポワ法を得て浄土に往生したことを信じています。

仏、菩薩、護法神は私達の為に一切の手配を整えて下さいました。葬儀に関することは全て順調で簡単でした。外祖母が病気をしてから出棺の間、沢山の法友達が積極的に助力し付き添って下さいました。この時私は、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前説かれた「金剛法友達は法界の眷属の如し、家族よりも親密である。」という御言葉を深く感じ取ることができました。

リンチェンドルジェ・リンポチェが蔭で私達を助けて下さっていることを私は察知することはできません。リンチェンドルジェ・リンポチェは名誉と利益を捨てて衆生を利益されることを念じています。病気で苦しむ者達の恐れを取り除き、重病者に自ら御加持を与えています。自らの体力の限界を考えず、死亡者が臨終してまもなくの間に済度法を修して下さいます。リンチェンドルジェ・リンポチェは勇猛果敢にディクン・カギュー派を護持し、生死から解脱に導く正法で弟子を教化する、世間では希有の得難き大菩薩です。

リンチェンドルジェ・リンポチェは深い忍耐力で衆生を導き、恨みも後悔もせずに私達を教化しています。更に多くの言葉を使っても弟子である私の感激や羞愧の念を表現することはできません。私は教えに基づいて行動していないこと、及び、弟子のすべき義務を果たしていないことを慙愧します。一切は上師リンチェンドルジェ・リンポチェの悲願であり、苦しみを経過してこそリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を体験し、リンチェンドルジェ・リンポチェによる衆生を生死から解脱させる大願力を感じ取ることができるのです。

至親金剛尊、恩重甚父母、如希世珍寶、難尋亦難覓。(非常に親密な金剛尊の御恩は、父母に勝るものである。希有なる宝の如き金剛尊は、探し出すのも出会うのも非常に難しいものである。)

最も懇切なる心で尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの御健康と仏法事業の興盛を祈願致します。

第一組 皈依弟子 鄧淑卿 合掌 2008/12/17

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2009 年 02 月 24 日 更新