140:お助けを得た呂英豪

呂英豪は何年か前に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから、肝臓方面に気をつけて軽視してはいけませんよ、菜食にして、禁煙、禁酒して衆生と悪縁を結んではなりませんと注意していただいていました。しかし彼は金剛上師のお話を心に掛けず、肉食をし喫煙し、酒を飲み、夜更かししてふしだらに過ごしていました。今年2008年3月に肺に水が溜まって第一回目の入院をし、検査で心臓の血管の三段が剥落し、塞がっているのが分り、ガイドワイヤー、バルーンカテーテルを施しました。

これで難を逃れたと彼は思ったのです。その前に友達が、今年は大きな厄がふりかかるり、血を見ると言われていたからです。しかし5月になって、疼痛、血便があったときも、胆嚢結石が再発したのだろうとあまり気にせず、痛くなくなったのでそのままにしていました。5月19日早朝4時に、病院の看護婦から電話があって、呂英豪の心臓病が再発したので、急いで豊原まで来てくださいということでした。二通目の電話がまた掛かってきて、急がないと死に目に間に合いませんよと言うのです。三通目がまた掛かってきて、それは呂英豪自身が声を振り絞って、妻に早く来てくれ、間に合わなくなると言うのです。私は本当に何もできなくて、車の中でただリンチェンドルジェ・リンポチェに、呂英豪をお守りくださいとお祈りするのみでした。

CTスキャンで、腫瘍が破れて大量の出血をしていることがわかり、止血できません。台中医薬大学付設病院へ移して、ICUでの検査結果では、肝臓癌第三期末ということです。しかも右葉は殆ど腫瘍で塞がり、血管の中にも腫瘍が発見されており、すでに拡散しており、治療できないということでした。医師から血管を塞いでもまだにじみ出てくるので、家族は心の準備をするようにと告げられました。

その時、彼はICUで動くことすらできず、ただ顔と目を動かせるだけで、息子は持参した尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのご真影を呂英豪に見せて、耳元で「尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが頭上からお守りくださっていることを観想するのですよ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのみがお助けくださるのです。どうか気を確かにもって。私たちは万難を排して台北に連れて帰ってあげますからね」と囁くのみでした。

台北に帰りましたが、仁愛院区の医師は病状に悲観的で、私達に、一ヶ月もたないだろうから心の準備をしておきなさいと言いました。はじめ仁愛院区で、状況はよくも悪くもならず、ひたすらリンチェンドルジェ・リンポチェにおすがりする心も緩んできました。まもなく病状にまた変化があって、癌細胞が骨にまで転移したことが確定し、腫瘍も脊椎を侵し、脊椎の神経を圧迫して耐えられない苦痛です。続いて脊椎の手術、電気療法をしましたが、状況は好転しません。ベッドに寝たきりで、多くの先輩方が気を利かせてくださり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を賛嘆し彼を説得してくださったので、遂に菜食することを約束して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしてお助けをお願いすることになりました。

初めて逸仙路の宝石店へ行き、尊きリンチェンドルジェリンポチェにお逢いしたとき、「どこが間違っていたか分りますか?」と聞かれましたが、彼は「わかりません」と答えました。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、お慈悲深く彼にまたチャンスを与えてくださり、懺悔法のテープを二十回聴いてから、再び宝石店へいらっしゃいとおっしゃいました。二回目に逸仙路へ行き、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしたときには、彼は激しく泣いて、顔中を涙で濡らして声になりませんでした。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはそれでもお慈悲深く、我慢強く待ってくださって、彼に彼が求めるのは法会に参加することですと言わせました。

法会に参加する前は、病院にいたのでまったく座ることもできず、30秒間座ることも不可能だったのに、法会では3~4時間も、更には5時間も座ることが出来たのです。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのご加護のお力により、彼は苦痛も障碍もなく仏法を聞くことが出来ました。後に彼は、宝石店へ行った時には、リンチェンドルjr・リンポチェがそこに居られる居られないに関わらず、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御加持のお力が非常に強いことを感受できて、より快適になり、傷みを感じなくなると言っていました。

11月16日に皈依が挙行されるので、先輩が関心を寄せてくださり、彼にリンチェンドルジェ・リンポチェのところへ行って、皈依に参加させていただき、再び尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお弟子になりませんかと尋ねましたが、彼は頭を振って何も言いませんでした。彼の考えがわかりませんので、無理には勧めませんでした。その日病院へ帰ると、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に非常になりたいのだけれど、拒絶されるのが怖いのだと言いました(彼は2000年12月に皈依していたのですが、菜食しないし、禁煙、禁酒をしないで、離れたのです)。あまり考えすぎないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに一回や二回お願いしてだめでも、お願いし続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェが承知してくださるまでお願いしましょうと言うしかありませんでした。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、11月23日彼に皈依させてあげますから法会に参加するようにとあっさり承知してくださいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く象徴的に彼の供養に触れて、受け取りましたよ。このお金は彼の債権者に返すように、ただ債権者が多くて返し終わらないけれどとおっしゃいました。

皈依する前には夜になると怖がり、悪夢を見て驚いて目覚めたり、夢で泣いて呼吸できなることが多く、ほとんど坐って眠ろうとしませんでした。皈依した後は一切の状況は大いに改善され、不安なときには自分の法号を唱えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが頭頂で加持してくださることを観想していました。

11月30日に法会に参加して病院へ帰ったとき、その日は詠愛病室にいましたが、身体につけた儀器の指標では、身体の状態がとても不安定で、情緒も激動し、脈拍も不整で、血液中の酸素も不足し、呼吸が速かったのです。ずっと傍に付き添って、本当に具合が悪いなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが頭頂で加持してくださることを観想して、心をゆったりもって、一切をリンチェンドルジェ・リンポチェにお任せしなさいと慰めました。22時前後になると、次第に顔も身体もリラックスして眠りにつきました。看護婦も検査に来て、儀器の数値も正常に回復したので、二、三日は維持するでしょうと言うことでした。

電話の音で目が覚め、習慣的に時計を見ると午前四時でした。急いで車で病院へ行きました。彼の耳元でそっと、どこか気分が悪いの?痛むの?と聞きましたら、看護士が「すでにご臨終です」と言ったので、息子も私も信じられませんでした。というのは彼の顔はいつものように眠っているように安らかで、唇も下へ下がるほど噛み締めてもいないし、苦痛や緊張、恐れの表情も見られず、両眼唇ともに微笑んでいるかのようだったからです。

医者が来て身体を検査し、死亡を宣告して死亡証明を書いたのは四時五分でした。どうしてこんなに早いのでしょうか、前後五分間で、看護士はとても早かったと言って居り、儀器が不規則な音と図線を表して5分でまっすぐになり、その間に大量の嘔吐物や吐血もなく、便も漏らしていません。癌患者が死亡前に受ける苦しみを、彼はちっとも受けていなくて、苦痛を感じないで、しかも清潔な状態で逝ったのです。後に彼が詠愛病室にいるとき、大量のモルヒネを注射したので、苦痛が無かったのですかと看護士に尋ねましたら、看護士は、まだモルヒネを使用していなくて、一般の痛み止めの注射と、痛み止めの膏薬を貼っていただけで、痛み止めの薬もこっそり飲まないで捨てていたこともあったということでした。私は強烈な驚きを感じましたが、これは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがお慈悲の力で彼を加持して保護してくださっていたからです。

彼は殊勝なポワ法を受けられませんでしたが、お慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは、咒を唱えて彼の神識を保護してくださり、三悪道へ陥り到る所をさ迷うことのないようにと、同じく殊勝な施身法で彼を済度できるようにお助けくださいました。彼の後事も、お慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェがお助け下さいました。葬儀社を探してくださり、荼毘に付す日にちを見てくださり、金銭労力すべて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが手伝ってくださったのです。

これらの日々を私と息子は悲しみを感じずに、また家族を失って戸惑うこともなくすごせたのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持と思いやり、お助けとお世話があればこそと感謝いたしています。また先輩方のお助けを深く感じて、法界の一族の有り難さを噛み締めています。尊きお慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生や弟子をお捨てになったことはありません。衆生さえいれば、弟子として私は自己及び逃避することを放棄いたします。

弟子 呉美慧 2009年1月6日火曜日

2009 年 07 月 19 日 更新